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    財ユウ 「大人になりたくないよ」

     一氏ユウジって名前を聞かない日はないくらい、その名前を聞くようになったのはいつからだろう。一年前か、二年前、間をとって一年半くらい前。うん、多分、それくらいだ。今日だって、もう三回目だ。
    「昨日の、ユウジの新番組見た?」
     午後十一時を過ぎた時間帯、残業でくたくたになった会社員と、飲み会帰りでご機嫌な顔いろをした会社員と、飲み過ぎて青白くなってる大学生と、他にもスーツケースを持った外国人とか、いろいろが乗った電車の中で、本日三回目の『ユウジ』を聞いた。
    「見ました。ユウジの司会、新鮮でしたよね」
     手すりに捕まる俺の前、横並びに座った、恐らく会社員の女子二人組が楽し気に話すのを、窓の外に視線は置いたまま素知らぬ顔して聞き耳立てる。
     同じ会社の先輩と後輩か、同じような色合いの服を着て、同じような髪型をした二人の声は弾んでいて、頬はほんのり赤みを帯びている。これは飲み会帰りのご機嫌組やなって勝手に分類する。かく言う俺は残業くたくた組だ。
    「そうそう、ユウジって器用だよね。トーク回すのも上手かったし、若手だけど立てるところは立てて突っ込むところ突っ込むし、空気読める感じがよかった」
    「同じこと思いました!」
     ファンなのだろうか。それとも今日の女子会だか何だかでその話題が出たのか、二人はやたら一氏ユウジのことを知っていた。デビューの時のことから、芸能界での交友関係まで、あれやこれやと飽きずに喋る。
    「そうそう、前にお正月の特番でテニスやってたんだけど、」
    「ユウジがですか?」
     テニスのイメージない、と後輩の方が笑う。
    「そう思うじゃん?でも、めっちゃくちゃ上手くて……、海外の選手と対決!みたいなやつだったんけど、すっごい目立ってた。面白いことしたわけじゃないのに、テニスが上手くて目立っちゃって本人は不服そうだったんだけど、そういうところがまたいいよね」
    「それすごいかっこいいじゃないですか!」
    「なんか中学の頃に全国大会ベストフォーとかのチームにいたとかで、そうそう、中学の頃の映像もチラって映ってたんだけど、ユウジが若くてかわいくて、みんなに弄られてて……」
    「ああ、その映像見てみたかったです……」
     後輩が眉を八の字に下げ、残念そうな表情を作る。
     その映像、実は、アンタらの目の前に立ってる俺も映っとるんですけどね。
     なんて、俺の心の声なんて彼女たちに聞こえるわけもなく、きゃあきゃあと楽しそうなおしゃべりは延々と続いた。それを聞いていたせいで、各停への乗換駅で降りるのをすっかり忘れ、電車を乗り過ごした。

     日付が変わる頃の上り電車なんて、下りのダイヤに比べれば寂しいもので、あの後、俺は急行を二本見送ることになり、ようやく来た各停に乗って、最寄り駅に着いた頃にはばっちり日付が変わっていた。
     コンビニでおにぎりと、一日の二分の一の野菜が摂れると書かれたスープを買って、半年前から住み始めた我が家に帰宅した。シンと静まり返った部屋の明かりをつけ、無言で靴を脱ぎ、ネクタイを外して、手を洗ってうがいして、ワイシャツをクリーニングに持っていくものを溜めておく大きな袋に突っ込んで、部屋着に着替え、スープを電子レンジに入れ、テレビをつける。
     瞬間、静かな部屋にドっという笑い声が起こった。
     派手な装飾が施されたスタジオと、その真ん中に立つ、スタジオのセットと同じ色合いの、これまたド派手なジャケットを羽織った一氏ユウジ。
    「……よう出てくる日やな」
     俺の生活に。
     チンという音に呼ばれ、台所に戻り電子レンジからあったかくなったスープを取り出し、テレビの前にあるテーブルに置き、大きなクッションに腰を降ろす。こんなローテーブルじゃなくて、ちゃんとした椅子とダイニングテーブルが欲しいなあって思うけど、社会人三年目の俺にはまだ難しい。
     金貯めて、マンション買って、それで引っ越す時には買ってやろう。
     そんなことを考えながら、おにぎりのビニールを剥したら、上手く出来なくて、ビニールの中に海苔が半分くらい残ってしまった。あーあって思うけど、ガッカリしたわけじゃない。こんなことにガッカリするほど、順風満帆な日々を送っているわけではない。ガッカリすることはもっと沢山あるし、残念に思うことなんて数えきれない。大人の階段を上っていくうち、傷つくことに麻痺してしまっていた。
    『ユウジ、今、怖いものなんてないんとちゃう?』
     どっかの有名なおっさんが、一氏ユウジに問いかける声が聞こえた。
     おにぎりから視線を上げると、一氏ユウジは『そんなん、たくさんありますって』と謙遜するよう答えていた。
     いやいや。ないやろ、怖いものなんて。
     って、俺がもし、一氏ユウジと同じ中学で同じテニス部に所属していない、赤の他人だったら思っていたと思う。二十六歳にして冠番組を持って、バラエティ番組でその顔を見ない日はない。得意のモノマネは一発ギャグのような一世風靡の派手さはないけど、老若男女、ウケる層は広い。漫才は、コンビを解散してからあまりしなくなっているようだけど、それでも、マイクの前に立てば爆笑を攫っていくのだから、仕事は尽きない。絵に描いたような成功談だ。
     せやけど。
     大御所と呼ばれる芸人の大して面白くもないネタに大笑いする一氏ユウジの姿を眺め、誰にともなく口を開く。
     怖いものだらけやろ、こんな状況。
     俺は一氏ユウジのことを、同じ中学で同じ部活に所属していたから、そんじょそこらの一般人よりもよく知っている。帰りの電車で前に座っていた二人組よりも、俺の方がよく知っている。同じ場所で過ごした時間こそ、たかだか二年という短い期間だったけど、ずっと見ていたのだ。何で怒って、何を面白いと思って、何で笑って、何で泣くのか、あの女子たちよりも知っている自信がある。

     ずっとずっと、なにせ、ずうっと見ていたのだから。



     端的に言えば、中学時代、俺は一氏ユウジ、ユウジ先輩のことが好きだった。
     ユウジ先輩が中学を卒業する時に、最後の最後、その想いを告げてみたけれども、俺の恋が実を結ぶことはなかった。先輩は俺を振って、俺は先輩に振られて、それでまた元通り、中学時代の部活で一緒だった先輩と後輩として適当にやっていた。二人きりで会うようなことはなかったけど、部活の仲間たちとの集まりがあれば「久しぶりやな」って声をかけ合い、どうってことない話で盛り上がったりもした。それが高校時代で、高校を卒業してからは、ほとんど会わなくなった。俺は大学入学と同時に上京したし、先輩は事務所に所属するようになって、数多いる若手芸人の一人として大阪を走り回る日々が続いていた(んだと思う)。
     先輩の名前を知らない人間の口から聞くようになったのは、俺が就活を始めた頃だ。大阪のローカル番組で担当していたコーナーで人気に火がついたらしく、東京の番組にも顔を見せるようになっていた。俺は評論家でもなんでもないから分からないけど、「コイツ、次に来そうやな」ってそういう大衆の予感とか期待が、『流れ』ってやつが先輩の方に向かっているような、そういう時期だった。
     再会したのは、それからまた一年くらい経った頃だ。俺はもう働いていた。
     先輩はすっかり売れっ子になっていた。東京での仕事もどんどん増えていって、大阪からの『通い』は厳しくなってきたと、先輩が東京に引っ越してきた。俺たちは数年ぶりに再会した。中学時代のユウジ先輩を知る、俺と同じように上京してきたまた別の先輩がユウジの引越祝いやるでって、俺もそこに呼んでくれたのがきっかけだった。
     売れっ子になっても先輩は天狗になっているような態度はなくて、懐かしい話に腹を抱えて笑っていたし、昔と同じようにモノマネだって沢山してくれた。笑いも話題も尽きなくて、気が付けば終電をなくしていた。社会人だし、終電を逃したところで途方に暮れることはない。別の先輩はすぐにタクシーを捕まえて、「ほな、またな」ってとっとと家路についた。俺もって、タクシー代を調べたら眩暈がした。うわって。表示された金額に顔を引き攣らせる俺に、救いの手を差し伸べてくれたのはユウジ先輩だった。
     俺ん家、すぐそこやから泊っていったらええやん。って。
     かつての恋心が、その一言で再燃することはなかった。惰性もいいところだったけど三年以上付き合っている彼女もいたし、そっち方面は間に合っていたからそんな気が起きることなど絶対ないと思っていて、だから先輩のそのお言葉に素直に甘えて、俺は泊めてもらうことにした。次の日は平日だったけど、朝一、自宅に戻って着替えてから会社に行っても間に合うだろうって、そういう算段でついていった。先輩の新居、都内の、めちゃくちゃ便利な場所にあるマンション。さすがにタワーマンションとか、そういう代物ではなかったけれども、俺の部屋と同じくらいの広さの寝室と、その二倍くらいの広さのリビングが繋がっている1LDKの部屋は、さすが売れっ子芸能人という感じだった。
     ただ、広いには違いないが、その部屋はとても殺風景だった。リビングの床に置かれた大きなテレビと、寝室に続く扉から覗くベッドぐらいしか、家具という家具が見当たらない。引っ越してきたばっかやしなと思って、「家具とか揃えるの大変そうっすね」と言ってみたら、先輩は「これ以外、なにか必要なもんある?」と首を傾げてきた。
     
     これ、あかん感じや。

     ピンてきた。先輩は、有名人になっても何も変わっていなくて、中身もそのまんまやって思ってたけど、そうではないことに俺はそこで初めて気が付いた。ボケとか、突っ込み待ちじゃなく、本気で、テレビとベッドの他に必要なものがあるとは思っていない表情。ちょっと怖いくらいだった。
     それから、こんなやから客用の布団とかないねんって言われて、じゃあソファでって言おうにもソファはなくて、じゃあ床でって言おうとしたら、狭いけど俺のベッドで寝ればええやんって言われて、俺は先輩と二人同じベッドで寝ることになった。ごく普通のシングルベッドに男二人ぎゅうぎゅうに並んで寝る。その状況に、窮屈やったら床で寝ればええかって思うだけで、先輩と一緒に寝ることを嫌だとも思わないし、逆に何かを期待するようなこともなかった。ドキドキもウキウキもしない己の心臓に手をあてながら、もうすっかり過去の恋なんやなって、そんな風に思った。
     それで、シャワーを借りて、先輩と同じベッドに入って、「せまい」とか「きつい」とか「もっとつめんかい」とか文句を言い合って、おやすみなさいって目を閉じた。先輩の寝床は、いいマットレスなんだろうなって俺でも分かるくらい寝心地が良かったのと、仕事の疲れも溜まっていたので、眠気はすぐに訪れた。ギリギリのところで翌日も平日であることを思い出して、重たい瞼を何とかこじ開け、携帯のアラームを設定して、またすぐに目を閉じた。そのまま朝までぐっすり。ストンと、夜の底に落ちていく感覚を味わっていれば、隣から「なあなあ、財前」って俺を呼ぶ声が聞こえてきた。あと一秒で眠れそうだったのにっていう気持ちから、「なんですか?」って、返事をする声は不機嫌になってしまった。泊めてもらっている恩もあるから、無視はしなかった。そしたら先輩は、俺の声色を気にすることなく、「明日の天気知っとる?」って、俺の方に身体を向けながら聞いてきた。今聞くことか?って思ったけど、前述の通り、先輩には恩があったから、瞼を持ち上げて「晴れとちゃいます?」と適当に答えた。先輩の方を見て、知らんけどって、そう続けたら、ユウジ先輩の瞳からぼろぼろと涙が零れ落ちていくのが見えた。暗闇でも、はっきりと分かった。
     ぎょってした。
     一気に目も覚めた。あれだけ重たかった瞼がウソみたいにぱっちりと開いた。どうしたんです?って聞いても先輩は涙を零すだけで、「晴れかあ」って、自分が泣いているのにも気づいていないみたいにぽつりと呟くだけだった。あかん感じやっていう俺の直感は、やっぱり当たっていた。俺の勘はよく当たるのだ。
    「なんで泣いてるんです?」
     俺も、身体を先輩の方に向けながら聞いた。その声が自分の声じゃないみたいに優しくて驚いた。例えるな、その時の俺の声は、十年前の自分の声とよく似ていた。ああ、そうやった。中学の頃もこうやって泣いている先輩に声をかけたりしていたなって思い出したら、それと同時、鈍っていた俺の感性はようやく息を吹き返したようで、急に心臓がぎゅって痛くなった。彼女のこととか、もう中学生じゃないこととか、その瞬間頭から消えてしまっていた。
    「ほんまや……、なんでやろ」
     決壊したダムみたいに涙を溢れさせる先輩の目元を指で拭ってやりながら、「大丈夫ですって」って、泣いている理由も先輩の事情も何も知らないくせに、慰めるみたいなことを口にして、その体にそっと手を伸ばした。お化けが怖くて俺のベッドに潜り込んできた幼き日の甥っ子にしたみたいに、トントンて背中も叩いてやった。
    「明日は晴れかあ、ええなあ」
     およそ泣きながら言うことではないことを泣きながら口にする先輩が、「そっかあ、晴れかあ」って繰り返て、目を閉じる。俺はトントンって、背中を叩く。それが効いたのか、しばらくそうしていると先輩は眠ってしまった。
     俺はと言えば、これが困ったことに勃起していて、笑えた。甥っ子を扱うみたいにしていたつもりが何でやねんって。いや、実際には笑っている場合でもなく、こんな時にこんな風に思い出さなくてもええやろって自分の身体にぼやいていた。もうすっかり過去の思い出になっていたはずの恋心がドバドバと脳と身体に流し込まれるような、そんな感覚だった。ああいうところも、こういうところも好きだったと、十年前の記憶が映像になって頭の中に流れ出す。セックスはおろかキスすらしていないのに、ただ寝てるだけなのに、なんかもう、ダメだった。先輩が決壊したダムみたいに泣きだしたのと同じように、俺の中にあった先輩への恋も決壊したダムみたいに溢れて止まらなかった。
     そんなんで、しばらく寝れなくて、ようやく落ち着いてきて、夢と現の間、寝ているような起きているようなとこを彷徨って、ようやく夢の方に落ちそうになったところで、無情にもアラームが耳元で鳴り響いた。嘘やろって呆然と目を開きながら隣を見れば、先輩は、俺の腕を枕にしてぐっすりと眠っていた。
     こういうの、彼女にもしたことないわ。
     ははって乾いた笑いを浮かべながら、そろそろと先輩の下から腕を抜いてみれば、二の腕はその感覚をすっかり失っていた。やがて滞っていた血液がじわあって流れ出して、その奇妙な感じに「うえ、」と小さく悶えた。そうやって腕の感覚が徐々に戻っていくのを待って、布団からこっそり抜け出し、出来るだけ音を立てないよう身支度を整え、もう今すぐにでも外に出られますってところで、「昨日はありがとうございました、お世話になりました」って寝ている先輩に声をかけ、そのマンションを後にした。寝不足で身体も頭も重たいのに、年甲斐もなく、駅までを走った。そういう気分だった。



     ピピピ、ピピピ、ピピピ。


     
     耳元で、電子音が鳴る。目を開いても部屋の中は真っ暗で、着信を告げる携帯に表示された時刻を見ても、夜明けまではまだ少し遠い。
     午前四時。
     液晶に表示された名前と、時間を確認して、携帯を耳に当てた。
    『お、財前?』
     数時間前にテレビから聞こえてきた声が、今度は携帯電話越しに聞こえてくる。
    「……なに?」
     ごそごそと布団の中で身体の位置をずらし、体勢を整える。今、何時やと思ってます?って、皮肉の一つが出てきてもおかしくない時間帯だというのに、先輩に悪びれる様子はなく、それどころか普段とまるで変わらない調子で話し始める。
    『なあなあ、明日は雨やって。知っとった?』
     本日も天気予報ごっこですか、こんな時間に? ふざけんな。って電話を切ったら、この人が俺に電話をかけてくることはなくなるはずだ。
    「梅雨ですからね、今日っちゅーか、昨日も降ってましたね」
     あの再会の夜から、先輩はたまに俺に電話をかけてくるようになった。こんな感じで、特別な用事があるわけでもないのに、何の前触れもなくかけてくる。こんな電話、俺以外の人間にかけたら、間違いなく呆れられて愛想もつかされる。だから、俺は「ふざけんな」って電話を切ることはしない。好きな子には優しくしたいし、それから、正直に言えば、俺を頼ってくる先輩が気持ちいい。俺じゃない誰かを頼ってほしくないって、そういう独占欲もある。こんな気持ち、まだ俺にもあったんやなって思う。
    『今日、雨降ってたなんて知らなった……』
     僅かに震える声が、携帯を通して聞こえてくる。また、泣いているのかもしれない。
    「夜にはやんでましたけど、夕方なんてどしゃ降りでしたわ」
     それに気づかないふりをして、大丈夫?なんて優しく聞く代わり、素っ気なく言うと、先輩は鼻を啜った。
    『そんなん、全然知らんかった、雨降ってたのも、なんにも』
     死んでるみたいに何も知らん。
     先輩が自嘲気味に笑うのに、「生きてても知らないことは沢山あるやろ」って返した。
    『うん、そうやな』
     たとえば、夢を叶えただけでは幸せにはなれないこととか。
    「先輩、今、家?」
    『せやで』
     その答えに、内心ほっとする。これで、港とか埠頭とか踏切とか言われたら、心臓が止まる。でも、だからと言って、あの家にいることが最良ってわけでもない。あんな生活感のない場所で暮らしていたら、そりゃあ生きている実感も希薄になる。少し前に先輩の家に行った時のことを思い出す。ベッドとテレビしかなかった空間に、テレビ台と小さなちゃぶ台が仲間に加わっただけで、そこは相変わらずガランと寂しい空間だった。
    「今日は、夕飯食べました?」
    『食べた食べた、共演した人が局の近くにある有名な店のカツ丼頼んでくれて、めっちゃ美味しかった』
    「……ええなあ、俺なんてコンビニのおにぎりと野菜スープっすわ」
    『ひどい食生活やな、今度先輩がおごったるわって、俺も野菜全然食べてへんわ』
    「ほなら、俺が一日の二分の一の野菜が摂れるスープをおごったりますわ」
     話していることはいつもと変わらないのに、口調だって普段通りなのに、軽口にケラケラ笑うのに、鼻を啜る音は絶えず聞こえてくる。泣いているくせに、悲しいって感情が追い付いてきていない、先輩はいつもそんな感じだ。
    『財前って、』
     先輩が眠りにつくまで、俺はどうでもいい世間話を聞いている。たまに、本当に眠たくて俺の方が寝落ちてしまうこともあるけど、大体は最後まで付き合う。
    「なに?」
    『財前って、ええ奴やな』
    「そんなん、ユウジ先輩が知らなかっただけや」
     惰性とは言え三年も付き合っていた彼女との別れを一晩で決意した人間を『ええ奴』とは呼ばない気がしたけど、そんなことは先輩は知らなくていい。
     そうだ。先輩は知らなくていいけど、俺は先輩が考えているよりもずっとずっと、先輩のことが好きだった。先輩は知らないだろうけど、本当はもっと優しくしたかった。これだって知らなくていいけど、このマンションに引っ越したのは、前のとこが契約の更新時期になって、そのまま更新して住み続けることも出来たはずなのに引っ越したのは、先輩の家から地下鉄一本で行き来できる場所に住んだ方が会いやすいって思ったからだ。終電の時間も遅くなる。そのおかげで、会社までは遠くなって、二回も乗り換えが必要になった。
    『はは、そうかもしれへんな、俺のこんなくだらない話にも付き合ってくれるし、っちゅーか明日も仕事?』
     それでも、真夜中だって、先輩に会いに行ける場所がよかった。この時間だとタクシーになるけど、目が眩むような値段ではない。
     真夜中に容赦なく社会人の後輩を叩き起こして、子守歌代わりに世間話に付き合わせるだなんて、本当に迷惑な話なのに、ユウジ先輩からかかってくる電話を嬉しいと思うし、明日も朝八時から会議だけど、もっともっと話したいと思っている。二十代も折り返しだというのに、中学の頃に戻ってしまったかのように先輩に恋をしている。
    「仕事ですよ、しがないサラリーマンやから」
     それを言うと、先輩は「うわ、すまん」って申し訳なさそうな声で謝ってきたから、先輩はどうしてこんなにおかしくなってしまったんだろうって、見えないのをいいことに首を傾げた。これは、先輩が知らないのではなくて、俺の方が『知らない』話だ。
    「適当にサボるんでええですけど……」
     それを言うと、先輩は黙りこんだ。いやいや、それあかんやろ、そんなん悪いからここらへんで。なんて言葉はいくら待ったって出てこない。黙るだけで、電話を切る気配なんてない。
     それが、嬉しい。
    「先輩?」
     何気ない風を装って、声をかける。
    『夜、一人きりでいる時、泣きたくなることある?』
     また少しの沈黙があって、それから、子供が子供に秘密を聞くみたいな声色で聞いてきた。
    「……ありますよ」
     大人になって、昔持っていた感情のほとんどが死んでしまって、ちょっとやそっとじゃ悲しいとは感じなくなってしまったけれども、たまにどうしようもなく泣きたい気分になることは、俺にだってある。上手くいかないことが積み重なって、自分を取り巻く全てに見捨てられたような気持ちになる。こんな気持ちだって、あんなに生き生きと生きていた中学の頃には知らなかったことの一つだ。
     大人になって泣かなくなったのは、精神的成長とかそんな話じゃなくて、悲しいってことに鈍感になって、それをうまく処理することが出来なくなってしまっただけなのかもしれない。
    『なんだ、一緒やん』
     いやいや、アンタの方が頻度は高いし、俺なんて一年に一回あるかないかやし、泣きたいだけで実際に涙が出ることもほとんどないし、それに、泣きたくなる原因だって分かってるからって思ったけど、それは言わずに「一緒やな」って答えた。
     誰からでもよかったんだろうけど、先輩が一番欲しい言葉をあげたかった。
     
    『今から、会える?』

     そうしたら、弱い言葉が返ってくるのを知っていたから。
     
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    2019/07/03 0:00:44

    財ユウ 「大人になりたくないよ」

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    #財ユウ
    芸人になったユウジと会社員財前の二度目の恋。ユウジが情緒不安定です。

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