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    ちとくら 「いつか王子様が」


     十五歳になった日、少しだけ人生が変わった。
     本当に少しだけ。いい方向に変わったのか、それとも逆なのか。判別なんてつかない。そんなものは、もっと先に分かることだった。
     それでも、悪い気分ではなかった。少しも悪い気分じゃなくて、むしろ清々しさすら感じるほどだった。
     すっかり暗くなった空を一度見上げて、白石は深呼吸をした。舞い上がりそうになる気持ちを落ち着けるため、それから妙に熱い身体を冷ましたくて、まだ冷たい四月の風を目いっぱい吸い込んだ。気道を通り、心臓の奥まで入り込んだ空気が一瞬だけ白石の心を冷まし、 しかしすぐにそれは元の温度を取り戻した。
    「あかんて……」
     街の喧騒に簡単にかき消されてしまうほどの声で呟く。横を過ぎていく人間は、誰もが急いでいる。見ず知らずの呟きなど気に留めることなく足早に街を行くのは、白石の人生が少し変わったからといって、彼らの人生は何も変わらないからだ。
     変わるのであるとすれば、それは自分の人生と、それから一週間前にやって来た不思議な転校生の人生と、それから姉の人生。
     それだけだ。たった三つにしか影響を及ぼさない小さな変化など、宇宙の果てで星が一つ消滅したことよりも、どうでもいいことだ。たとえ、白石にとって、それが、その少しの変化が大きな意味を持っていたとしても、だ。



     記憶の突き当たりにあるのは三歳になった日の午後の風景だった。
     まだ幼稚園には行っていない、ようやく話すことが出来るようになった時期で、両親はあれやこれやと白石を構った。一つしか違わない姉はすでに幼稚園に通っていて、白石よりも話すことが出来た。どこにでもいる、少し生意気な女の子だった。一緒に遊んだことは、ほとんどない。それは、例えば性別が違うからだとか、そんな単純な理由に因るものではなかったと今では思う。
     その頃の記憶を全て持っているわけではないから、当時の姉と自分が仲の良い姉弟だったのかどうかは分からない。あまり仲良くなかったのかもしれない。幼少期のアルバムを見ても、二人がじゃれ合っている姿も、姉が赤ん坊の自分を抱く姿も(それは一年しか変わらない年のせいで体格的に厳しかったからなのかもしれないけれども)、手を繋いで横に並んでいる姿も、一つもない。二人が同じ風景にいる写真には必ず父か母か、白石の二年あとに生まれてきた妹か、誰かがいる。たまに、本当に数えられるほどであったが、姉と二人で映っている写真があった。しかし、そこに映る子供はちっとも楽しそうではなく、どこか泣きだしそうな顔をしていた。
     とにかく、最後の思い出との境にある塀の向こう、姉と自分の関係は今と大して変わらないのだろうというのが白石の見解だった。
     はたから見ればそこまで仲の悪い姉弟ではない。普通と言えば普通だった。思春期まっさかりの姉と弟。一緒に遊ぶことがなくても、特に家で話すことがなくても、それを誰かに言ったところで「まあ、そんなものだろう」と言われておしまいだった。事実、両親も親戚も、 姉と自分があまり会話をしないことについてはそう思っているのだろう。
    「くーちゃん、おかえり」
     玄関で自分を出迎える姉の表情は明るかった。
    「ただいま」
     つい一、二週間前までは露骨なまでに不機嫌だったというのに。白石は心の内側で溜息を一つ吐いてスニーカーを脱いだ。その動作の 一つ一つをじろじろと見つめられて感じる居心地の悪さに白石は床に視線を向けたまま、「何や?」と尋ねた。
    「今日な、千歳くん家に行くんよ。お母さんとお父さんには言わんといてな」
     どうりで、もう夜だというのにめかしこんでいるわけだ。一瞬だけ視線を上げて姉の格好を確認して、思う。玄関に脱ぎ捨てた靴をそのまあに家へと上がる。「ふうん」と興味のない様子で答え、そのまま横を通り過ぎようとする。
    「くーちゃん、今日、お誕生日やったろ?」
     すると、姉が不意に聞いてきた。
    「……そうやけど」
    「千歳くん、お祝いしてくれた?」
     どこか意地の悪い表情を浮かべる姉を、白石は黙ったまま見つめ返した。
     こういう時、いつも困るのはどんな顔をすればいいのかが分からなくなることだった。
    「いや。学校の友達とカラオケ行って祝ってもらった」
    「へえ、そうなんや」
     よかったね。
     可愛らしい笑顔を浮かべて自分に言う姉から、ふと目を逸らす。取り繕わなければ硬くなってしまいそうな表情を、何とか元の無表情に保つ。その笑顔の裏にある意図に気付いたのは、一体いつの頃だったか。三歳になった日。それよりももう少し後のことだったように思う。
    「千歳は、俺の誕生日なんて覚えとらんよ」
     眉間に力が入らないように極力意識して、出来る限りの精いっぱいで口元を緩める。目の前に立つ姉のように上手く綺麗に笑えていたかどうかは分からない。
    「そうやろうね。何も言うてなかったもん。昨日、会った時も」
     笑顔のまま、弾むような口調で言う。天真爛漫の中に隠された棘はいつだって白石の心をチクチクと刺す。
    「あのさ、」
     一瞬の小さな痛みは、じわりじわりと広がっていくものだった。次第に堆積していったそれは、白石の胸の内を嫌な風にかき混ぜた。心臓の辺りに圧迫感がある。吐き出したくても、取り除きたくても、どうにも出来ないもどかしさのせいでいつも上手に笑えない。何を言われても、何てことないどうってことないと笑い飛ばすことが出来ない。
    「あのさ、千歳と俺、もう学校も違うやんか。あんまり連絡も取ってない。やから、姉ちゃんの方が、」
     だから、いつも、こうしてとっとと会話を切り上げることに必死になる。一秒でも長くこの場所にいたくないのだと、理由よりも前に脳が強く強く願っていた。少し早口になってしまうのは、そのせいだと白石は思った。
    「千歳の彼女の……、姉ちゃんの方が、俺よりずっと近いところにおるよ」
     言い切れば、僅かに心が軽くなって(白石の感覚的にはミリグラムの単位だったが)、ようやく自分でも分かるくらいには口角を持ち上げることが出来た。他人から見れば、立派に笑顔だったと思う。ちっとも楽しい気分ではなかったけれども。
    「当たり前やろ」
     しかし、そのぎこちない笑顔を見た姉は、先ほどまでの可愛いくて柔らかい女の子そのものの笑顔をすっと引っ込めて、正面にいる弟に目を細めた。そして、きっぱりと言った。吐き捨てるよう、だった。不器用な表情を浮かべたまま、白石は姉を見て一度だけ瞬きをした。
    「あ、うん……」
    「うちら、くーちゃんの話なんてせえへんよ」
     冷たく凍りつくような視線を弟に向けたまま、今度は笑って言う。柔らかいからは程遠い。
     真正面から言う姉の姿が、幼い頃のそれに重なる。唯一の違いは、あの頃ほとんど同じ位置にあった視線が随分と下にあるということくらいだった。いつの頃からか、生まれ始めたその差は年々大きくなり、その差はそのまま自分と姉の優劣の差をひっくり返したかのようにぐんぐん、ぐんぐんと広がっていった。
    「…………」
    「くーちゃん、まさかホモやないやろ。まさか、あれ引きずってるとか、そんな気持ち悪いことないやろ」
     クスクスと軽蔑を混ぜこんで笑う。こんなに意地の悪い笑い方をする彼女を知っている人間は、きっと世界に一人しかいない。それが他ならぬ自分であることを悲しいとはもう思わない。もう仕方がないことだと諦めていた。
    「当たり前やん。あんなん、引きずってへん」
     ただの悪ふざけやし。あんまり引きずらんといて。俺かて不覚やってんで。男ととか、ほんまにきしょいしなあ、あはは。
     色々な台詞が頭の中に浮かんだ。けど、それを続ける事は出来なかった。これ以上、何かを言ったら声が震えそうだった。
    「くーちゃん、アホみたいに真面目やから真に受けてたら可哀想やなあって」
     お姉ちゃんなりに心配しとったんよ。
     そう言いながら、くるりと踵を返してリビングへと向かう。その後姿に、白石はとりあえず解放されたことに、彼女には聞かれないように溜息を吐き出した。それから、自室へと続く階段に足をかけた。ポケットの中に入れた携帯電話を、その上からそっと触れた。



     三歳になった日、姉が病院に運ばれた。
     ちょうど、誕生日会の最中だった。突如、引き攣った呼吸を繰り返し始めた姉に、誰もが顔を強張らせた。次第に弱弱しくなる息遣いに母親は取り乱し、その場にいた誰かの母親が救急に電話をかけていた。誕生日会どころの騒ぎじゃなかった。
    けたたましくサイレンの音を鳴らしてやって来た救急車に運び込まれる姉と、それに付き添う、まだ赤ん坊だった妹を抱いた母を訳が分からぬままに見送った。驚いたのか泣き続ける妹を片手で抱いて、もう片方の手は苦しそうな姉の手をぎゅっと握っていた。離れたところから見ても、それが強く握られていることが分かるくらいだった。三歳になった白石の両手は誰にも握られることはなかった。遠ざかるサイレンの音を聞きながら、会はお開きだと言わんばかりに帰り支度や後片付けを始める大人たちと、救急車と姉の話で不謹慎に盛り上がる友達を残して、一人家の奥、リビングへと向かった。つい何十分か前まで、ハッピーバースデーの歌が歌われていた室内はシンと静まり返っていた。
     テーブルの上、丸い誕生日ケーキは、ついに火を灯されることのなかった細長い蝋燭が刺さった状態のままそこにあった。視界に入ったそれをしばらく見つめていると、誰かの母親がリビングまでやってきた。「くーちゃん、残念やったねえ。またお姉ちゃん良くなったらお祝いせなあかんね」。そんなことを言いながら白石の横を通り抜け、それからテーブルの上に所せましと並べられた母が作った料理の数々を片づけていった。機械的なその作業を見ているのが何だかとても悲しかったことを、白石は十年以上が過ぎた今になっても忘れることが出来ずにいた。
     母と姉と妹と、三人が病院に行ってから三十分にも満たない時間の間に友人達とその母親達は白石の家を後にした。
     広い家に一人取り残された。知らせを聞いた父親が帰宅するまで、一人ぼっちだった。

     病名は小児喘息だった。
     その発作で姉は突如呼吸困難に陥ったということだった。それ以来、姉の発作は頻繁に起こった。その度、母は幼い妹と姉の面倒で手いっぱいになった。病院に行かなければならない時には、妹だけでも連れて行く。物分かりのいい子供だった白石は、そういう時、常に家で留守番をする役回りだった。とは言え、いつも一人ぼっちだったわけでもない。近所に住む祖母や、隣の家の夫婦が面倒を見てくれることもあった。しかし、母親の姿だけは、ほとんど見当たらなかった。
     それを寂しいと思うよりも、白石は仕方ないと思っていた。発作を起こすたび、苦しそうな表情を浮かべて荒い呼吸を繰り返す姉を可哀想だとも思っていたし、もとより妹はまだ生まれたばかりであったから、家で留守番をするのは自分の役割なのだと、それを任されたことを少し、ほんの少し誇りに思っていた。
     その物分かりの良さは、両親から、特に母親から、白石を遠ざけた。白石が「だいじょうぶやで」と胸を張る度、母は「ええ子やね」とにこりと笑って白石の頭を撫でて姉と妹を連れて家を出て行った。白石が何かを強請らない限り、母から何かを与えてくるということはなかった。それに比例して、両親は姉を甘やかすようになった。実際、幼稚園にもまともに行けないほどの酷い発作に苦しむ姉を不憫だとも思っていたのだろう。姉が欲しがるものを与え、可愛らしい我儘は全て許した。それを羨むことも疎ましいと思うこもなく、ただ漠然とまるでお姫様のようだと、幼い頃は思っていた。それまで誰からも甘やかされるばかりだった白石の立場は、三歳の誕生日を機に、本人の望む望まないに構わずに変わった。
     それが、また変わった(正確にはその状況がより確固たるものになった)のは、五歳になった日のことだった。
     我儘な姉とそれを取り巻く環境と、そんな日々にもだいぶ慣れてきた頃のこと、姉と大喧嘩をした。
     我儘放題の姉が、五歳の誕生日祝いとして、白石が父から譲り受けた植物図鑑を欲しがったのだ。草花など、並の興味も持っていなかった姉が、白石が大事に抱えるその厚い本を取り上げた。普段は何でも譲ってきていた白石だったが、その時ばかりはさすがに「はいどうぞ」と渡すわけにはいかなかった。
    「くーちゃん、それちょうだい」
     いつも我儘を言う時と同じ、少し小首を傾げながら言ってくるのに、白石は大きな図鑑を胸に抱いて小さく首を振った。
    「いやや」
    「……」
     姉の丸くて大きな目が、更に大きく開かれる。信じられないとでも言いたげな表情をしていた。実際、今まで「ほしい」と言えば何でも手に入れてきた姉のことだから、こうして「嫌だ」と拒絶されるだなんて考えたこともなかったのかもしれない。
    「これは……、駄目」
     みるみるうちに不機嫌に顔色を染めていく姉から目を逸らしながら返した。
    「なんで?くーちゃんいっぱい持ってるやろ。一杯買うてもろてるやんか。くーちゃんばっかずるい」
     手を差し出してくる姉から逃れるように、身体を捩じって「いやや」と反抗すると姉がすうっと息を吸ったのが分かった。
     ああ、来る。
     白石は思った。思ったけれども、それでも、姉に図鑑を譲る気にはならなかった。今まで、色んなものを譲って来た。姉が欲しいと言えば、「ええよ」と素直に頷いて渡して、譲ったら譲ったでたちまちその物に興味を失くす姉に粗末に扱われる玩具や本を横目で見つめながら、何も思わなかったわけじゃない。得体の知れないもやもやとした気持ちが胸を埋め尽くすこともあった。もっとも、それを一番つよく感じるのは、珍しく両親が自分を構う、例えば母親と手を繋いだり父親に抱かれたり、そういう時に「うちも抱っこ」「うちもママと手ぇ繋ぐ」と姉が口を尖らせて言う瞬間だった。それに、「あらあら仕方ない子やねえ」と自分を手放す両親とその腕に収まる姉の笑顔を見上げている時、何でやろうと抱いてもどうしようもない疑問が浮かぶ。
    「くーちゃんはずるい」
     見方の問題なのかもしれない。
     成長した今では思う。姉にしてみれば、元気で健康で友達もたくさんいる白石が様々な玩具を買い与えられているというのは確かに「ずるい」ことだったのかもしれない。例えば、その裏にある両親の白石に対する遠慮や後ろめたさと言った、およそ親子の間柄には相応しくない気持ちなんて想像すらしなかったのだろう。母が姉と妹に付きっきりになっているせいで、一人になりがちな長男に対する両親のせめてもの愛情の形が物を買い与えることだなんて、気づきもしない。
     白石が何か新しい物を手に入れる度、姉はこんな風に強請ったのだから。
    「これは大事やから、あかん……」
     ぎゅうっと本を抱きしめる。すると、姉の両手がすっと本へと伸ばされてくる。視界に入った真白な腕が、ぐっと白石の胸の中に収まった本を引っ張る。
    「ちょうだい」
     そのまま身体ごと姉の方へと引き寄せられるのを後ろ脚を一歩下げることで耐えて、「いやや」と首を振って抵抗した。
    「なんで、くーちゃんはええやろ!」
     甲高い声が耳を刺す。始まる。白石は息を飲んだ。一瞬だけ静かだった。一秒とか二秒の間の静寂を切り裂いたのは、やはり姉の甲高い、悲鳴にも似た泣き声だった。「ちょうだい」と大きな声で叫び散らしながら、その細くて小さい身体からは想像出来ないほどの力で 姉が植物図鑑を引っ張ってくるのに負けじと本を抱きしめる腕の力を強くした。
     くーちゃんばっかずるい。
     姉が何度も言う。その度、白石は強く首を振った。
     意地だった。取られたくないと思った。
     そして、その時初めて白石は気がついた。今まで、ずっと、姉に「とられた」と思っていた自分を知った。それは物であったり、両親の関心であったり、様々だったけれども、その全てを姉に奪われたと心のどこかで思っていた。譲っていたのではない。本当は、あげたくなかった。そう思うと、力いっぱい閉じていた瞼から涙がボロボロと零れ落ちてきた。
     奪われたくない。
     その当時、それは白石が持っていた両親・祖父母から貰った物の中で唯一手元に残っているものだった。
     まるで、それこそが、彼らの愛情そのものであるかのように、白石はその図鑑を大切にしていた。父と祖父は、他の誰でもない、親子二代で大切にしてきた植物図鑑を自分に譲ったのだ。姉じゃなかった。
     歯を食いしばって、身体を捩る。その瞬間、「きゃあっ」という短い悲鳴と一緒に本を強く引っ張っていた力が消えた。それからドンという音が聞こえて、閉じていた目を開けば壁の前で倒れている姉がいた。
    「あ……」
     驚いて、横たわる姉へと近づく。
    「ひゅっ……」
     嫌な風に喉が鳴る音が、姉の方から聞こえた。頭が一気に真白になる。何度か、短いしゃっくりに似た呼吸を繰り返す。横たわる姉の身体、その胸から肩がそれに合わせて上がったり下がったりしている。呆然と、その様子を見下ろした。
     やがて、先ほどまで図鑑を強く掴んでいた姉の白い手がその胸元へと伸ばされ、口が開きっぱなしの状態になる。大きく開かれた口は必死に酸素を取り込もうとしているように見えたけれども、ちっとも吸いこんでいる気配はなかった。
    「ま、待って……おかあさん、おかあさん、呼んでくる……っ」
     床に本を落とす、ドンという音が部屋に鈍く響いた。
     ゼエゼエと苦しげな呼吸が否応なく耳に入り込んできて、急がなくてはと部屋を飛び出した。「おかーさん」と大きな声で、階下にいる母親を呼んだ。何度も呼べば、「どないしたの?」と飛び出してきた母親に「おねえちゃんが、」と告げる。その瞬間、母は顔色を変え階段を一気に駆け上がった。その途中、階段に突っ立つ白石の横を母が通り過ぎて行った時、白石はそっと涙を手の甲で拭った。後から後からあふれ出てくるそれを何度拭っていれば、姉を抱きかかえた母が今度は階段をダンダンと二人分の体重で踏む音を響かせて階下を目指す。
     狭い段上、擦れ違う瞬間、泣きながら見上げた先にいた母が大きく溜息を吐いた。
    「くーちゃん、そこどいて。そんなとこおったら邪魔やろ」
     苛立ちすら混じる口調で言われ、呆然と壁に寄った。海から打ち上げられた魚のように口をパクパクとさせる姉に「大丈夫やからね」と声をかける母の姿を滲む視界に映しながら、「こういうものなのだ」と誰かが、もしくは自分が、呟くのがどこからか聞こえた。
    「……ごめんね。お母さん、お姉ちゃん連れて行ってくるね」
     いつの間にか階段を降りていた母親が話しかけてくる。壁を向いたまま、母に背を向けて「うん、大丈夫やで」と答えた。母は自分が泣いていることには気づいていなかったのだろう。姉のことで頭が一杯で、しかしそれを態度に出してしまったことを少なからず後悔したのかもしれない。三人の子供を育てるだけでも大変なのに、それに加えて姉の看病に生まれたばかりの妹の世話と。体力的にも精神的にも、目一杯だったのだろう。当時は全く理解出来なかった母親の気持ちも、今では推し量ることが出来る。けど、当時は理解出来なかった。
     だから。
     自分よりも、姉と妹の方が大切。
     そんな不等式がある。そう理解したのだ。


     結局、図鑑は姉に譲った。
     発作も収まり病院から戻って来た姉に分厚い本を何も言わずに差し出した。すっかり元通りになった姉は満足そうに笑ってそれを受け取り、その隣にいた母親は申し訳なさそうな顔で自分を見つめていた。
     それはくーちゃんのやから、譲らなくてもええんよ。
     そんな言葉を、往生際悪く期待していたのかもしれない。でも、そんな言葉はいつまで待っても聞こえてこなかった。代わりに「くーちゃんはええ子やね」と戸惑い混じりに言われる。「お姉ちゃんは本当にわがままなんやから」。そして、苛立ちなんてこれっぽっちも混じっていない溜息をとともに、「まったくもう」と姉の頭を撫でるように叩いた。
    「せやけど、これが欲しかってん」
     にっこりと見上げる、元気になった娘に穏やかに笑い、目の前にいる息子には同情を交えた笑顔を向けた。
     笑えばいいのかな。
     そう思って、無理やり口角を上げた。ぎこちない長男の笑顔に気づいていたのか気付かないフリをしたのか気付いていなかったのか、母は何も言わず「さあ、晩御飯にしましょう」と台所へと向かった。そして二人きりになった瞬間、姉が言った。
    「くーちゃんのせいやからな」
     何が、とは言わなかった。ただ、こうして大切にしているものを否応なく奪われるの理由は、それが自発的ではなかったにせよ、自分にあることだけは分かった。



     それから十回、4月14日を通り過ぎた。あの日言われた姉の言葉を今でもずるずる引きずっているというわけでもない。心の深いところにグサリと刺さっているだけだ。
     姉の喘息はほとんど治っていた。今では突然の発作に苦しむ姿を見ることもない。とは言え、自分や妹のように健康体というわけでもなく、部活動に入り活発に運動をするでもなく、放課後は友達とお喋りに勤しむ、どこにでもいると言えばどこにでもいる普通の女子高校生になっていた。
     白石はと言えば、六歳になる前にテニススクールに通い始めた。
     そこは姉の支配がこれっぽっちも届かない唯一の場所だった。言いかえれば、何も奪われる心配のない、安心できる場所であった。テニスにのめり込んだ理由の一つとして、それは十分に確立されるものであった。
     テニスは好きだった。そして、テニスコートという場所も好きだった。
     
     そこで出会った仲間達も。



     だからこそ、白石は自宅に部活の仲間を呼ぶことをしなかった。姉の「それちょうだい」が怖かったからだ。もう喘息の発作を起すこともなく、人並みの健康を手に入れたというのに、姉は相変わらず白石のものを欲しがった。
     自分に愛情を向けるもの、自分が執着するもの、大事にしたいと思うもの。
     人間は物とは違う。それは分かっていた。友達を家に呼んだところで、姉が彼らを望んだところで、簡単に姉の手の内にそれが渡ることはない。それでも、白石は自らの大切なものを自宅から出来るだけ遠ざけた。中学を四天宝寺にしたのはテニスが強かったことと、自宅から遠かったという二つの理由からだった。
     十五歳の誕生日まで、だから、白石は(自発的に)友達を家に呼んだことがなかった。
     その時だって、本当は彼を招待する気などさらさらなかった。その「初めて」の友達は、転校生だった。

    「もしもし」

     ちょうど一年前になる。
     姉から解放されて部屋に戻ると、ポケットの中で震えていた携帯電話を急いで取り出して耳にあてた。

    『白石?』

    「千歳か。何や?」
     転校生の名前は千歳千里。白石の誕生日の一週間前に四天宝寺にやって来た男で、テニス部に入部した。授業も部活も、不定期参加が常で、飄々と掴みどころのない不思議な人間だった。
    『久しぶり』
    「は?何や。久しぶりって」
     一年前の4月14日は雨が降っていた。テニスコートは使えず、校内でトレーニングと言っても目ぼしい場所は全て他の部が先に使っていて、仕方がないと急遽部活は休みになった。代わり、でも何でもなかったのだが、そう決まった瞬間、メンバーがどこからともなくケーキを取り出してきた。それと同時に流れてきたハッピーバースデーの歌に、その日が自分の誕生日であったことを思い出した。本当は部活が終わった後に皆で祝ってくれる予定だったのを急遽変更したということだった。それから、部室で散々大騒ぎをして、結局学校を出たのは部活がある時と同じ時間帯だった。
     そして、皆と別れ電車を乗り継ぎ自宅の最寄り駅を目指した。お祝いをしてくれたメンバーの中に、あの転校生がいなかったことを思い出して、何しとるんやろうなんて考えていれば、しとしとと冷たい雨の中、自宅のすぐ近くを傘もささずにほっつき歩く転校生を見つけてしまったのだから、どうしようもなかった。これから夏に向かって全国を目指す仲間だというのに、見て見ぬふりをするのは気が引ける。それこそ、こんな天気の中濡れたままふらつき歩いて風邪でも引かれたらとも思った。選択肢など一つしかない。見つけた一分後には、濡れた千歳の腕を引っ張りながら「何してんねん」と声をかけた。
     雨の中、振り向いた彼は「白石、助かったばい」と笑った。聞けば、北新地の街を探検しようと出てきてみたものの、道に迷ってしまい、挙句雨で降りだして、しかし財布を家に忘れてきたため傘を買うことも出来ず、どうしようかと途方に暮れていたところだと途方に暮れているようには見えないテンションで言った。「とても途方に暮れている風には見えへんかったけどな」。言えば、千歳は朗らかに笑って「暮れとったよ」と返してきた。そこで、駅まで送って帰りの交通費を渡して、そうすればよかったのかもしれないと今になって思うことがある。
     どうしようもなかったことなのに、そんなことを思うのだ。
    『久しぶりばい。この前、家に行った時おらんかったけん』
     そうは言ってもあの時、びしょ濡れの千歳に、そのまま電車に乗って帰れと、すぐ近くに自宅があるにも関わらず、そんなことを言えるわけがなかった。出会って日が浅いとは言え、同じ未来を目指す仲間なのだ。助け合うことは必要で、そいてそれは白石にとっては当たり前のことだった。
     友達を家に呼びたくないという願望も、その「当然」の前ではぼんやりと霞んだ。「うち近くやから」。気づけば、そう言っていた。そして、小さなビニール傘に二人で入って自宅へと向かった。その五分にも満たない道すがら、傘からはみ出た右半身も、千歳の濡れた身体とくっついていた左半身もじっとりと濡れた。
    「おらんかったもん。土日はもれなく部活やで」
     家の門を開けながら、姉がいないことを祈った。幼い頃に植えつけられた強迫観念はなかなか根深いものだった。何せ、それがただの思い過ごしにならないことの方が多かったのだ。
    『えらかねぇ』
     のんびりとした千歳の口調は、一年前から変わらないものだった。それは、初めて家に来た時、玄関の前で「大きかねえ」と白石家を見て千歳が言ったのと全く同じ抑揚だった。
    「テニス好きやし?自分はもうやらへんの?」
     あの日、白石の予想は裏切られた。玄関のドアを開いて「ただいま」と小さく言えば、「おかえり」と返って来た声は姉のものではなかった。ほっと息を吐く。
    『うーん……しばらくは』
    「さよか……」
     リビングから現れたのは、母と二つ違いの妹だった。母はびしょ濡れになった千歳を見て、風呂に入った方がいいと勧め、千歳が一人暮らしだと知るやいなや夕ご飯も食べていきなさいと誘った。何せ、白石が友達を家に連れてきたのは初めてのことだったのだから、母としては嬉しくもあったのだろう。そんなんいらんし。そう言おうと思ったけれども、嬉しそうな母親を前に白石は言葉を飲み込んだ。
    結局、その日は千歳を交えての夕食会となった。友達と食べてくるからと言ったのにも関わらず、母は白石の好物ばかりを用意していて、テーブルにはケーキまで置いてあった。
     それを素直に嬉しいと思えないことが、いつも寂しい。母の純粋な好意ではなく、純粋な同情なのではないかと考えてしまう心の歪みがいつもある。
     それでも、その日は少し違った。
     母は本当に、心から楽しそうに嬉しそうに千歳に話しかけていた。妹が「おかあさん、喋りすぎやで」と何度も突っ込んだ。そんな風に、息子の学校での様子や部活での様子を千歳に次々と尋ねる母を見て、白石はくすぐったいような気分になった。自分のことを気にかけてくれる母親の姿など、あまり見たことがなかった。そのくすぐったい感触は、とても新鮮なものだった。
     母の質問攻めにも、千歳はいつも通りのんびりとしたペースを崩さず穏やかに笑って答えていた。話題の中心は、常に白石だった。ふわふわとしたくすぐったい気恥ずかしさで、あまり食事に手を伸ばすことが出来なかったことをよく覚えていた。
     食事も終わり、ケーキも食べれば、時刻はとうに八時を回っていた。じゃあそろそろ。そんな時間帯だった。乾燥機の中、すっかり乾いた千歳の衣服を取り出している時だった。玄関の方からガチャガチャという音と共に「ただいまー」という姉の声が聞こえた。

     あーあ。

     心の中で呟いた。あーあ、見つかった。着替え終わった千歳と玄関に行けば、案の定、そこには姉がいた。自分と千歳の姿を交互に見つめる。「ふふ、珍しい」。小首を傾げてにこりと笑い、千歳の方を見て「こんばんは」と、可愛らしく言った。謙也あたりが見たら「かわいい」と目を輝かせて言い出すに違いない。ぼんやりと思った。そして、小さな頃から変わらないそれに、白石は千歳に誰にも聞こえないようにそっと溜息を吐いた。
    『あ、それはそうと』
     初めての訪問を思い出していると、千歳が何か思い出したかのように言った。
    「ん?」
     あれから、千歳は何度かこの家に来ている。
     けど、その目当ては白石ではない。
    『白石、今から出て来れると?』
    「今?」
     急な誘いに驚き混じり返す。
    『うん、今』
    「何で?もう遅いやんか」
     二度目の訪問は夏が終わった頃、秋の初めだった。
     白石にとっては突然のことだった。クラスメイト達と遊んで少し帰りが遅くなった日、帰宅してリビングに入るとそこに千歳がいた。驚いて「なんで?」と思わず聞けば、千歳ではなく姉が「私が呼んだんよ」と楽しげに言った。驚きに目を丸くする白石に姉は満足げに微笑んだ。小悪魔じみた笑いは、やっぱり謙也が好きそうな笑顔だった。つまりは、普通の男子だったら誰もが「かわいい」と思うような表情で、それはきっと千歳にしても同じことなのだろうと思って、少しがっかりした。僅かな失望を抱いた自分に「何でやねん」と心の中で突っ込んだ。
     それが二度目だった。
    『白石、誕生日やろ?』
    「……覚えてたんや」
     胸がふわりと浮き上がる。遊園地の乗り物に乗った時に感じる心臓がふわっと飛び出すような浮遊感。言葉が少し詰まる。
     三度目はすぐに訪れた。
     テニス部のメンバーとボウリングに行った帰り道、自宅のすぐ近くで千歳とはち合わせた。一言二言交わして、帰宅した。姉ちゃんに会ってた?そう尋ねた時に見た千歳の何かを誤魔化すような笑顔に胸がざわついた。
     玄関に入ると、二階から姉が降りてきた。普段、白石が帰宅しようとそれを出迎えることなどない姉が、その日は「おかえり」なんて言いながら姿を現したのだ。
     だけどそれは姉ではなかった。ただの、女だった。
     下着姿にだらしなく制服のワイシャツをはおった姿に、相変わらずの笑顔を浮かべ「お母さんには秘密にしといてな」と白石の肩にすっと触れた。漂う色香に吐き気が込み上げてきそうだった。無意識に眉間に力が入っていたのだろう。姉は肩を竦めて「怖い顔せんといて」と余裕めいた態度で言う。「悪趣味や」。無意識に漏れた本音に、姉は顔色一つ変えなかった。「邪魔やで」と面倒くさそうに言って、白石の隣をすり抜けてバスルームへと入って行った。見送った背中の肉付きは、自分や友達とは全く違う、それから小さい頃に見た 姉妹のものとも全く異なる、ただの女のものだった。
    『覚えとるばい。一年前は白石ん家でお祝いしたし』
    「そうやったっけ?」
     本当は鮮明に覚えているくせにとぼけるフリをする。そんな自分のちっぽけなプライドに、千歳がこの先気づくことはあるのだろうか。
    『渡すものがあるんよ。はよ来なっせ』
    「来なっせって、簡単に言いよるけどなあ……」
    『それじゃ』
    「はあ?……って、ちょっ」
     一方的に切られた電話に何秒か唖然とする。耳にあてていた携帯を目の前に持ってきて、「強引やな」と呟いた。
     それから、友達の家に泊まると言って家を出た。
     嘘ではない。この時間から千歳の家に出かければ、間違いなく終電には乗り遅れることになる。そうすれば必然的に千歳の家に泊まることになる。それだけのことだ。ただ、それが千歳の家であるということを隠しただけ。
     遅咲きの桜の花びらが舞う駅までの道のりを足早に歩きながら、思い出すのはやはり一年前のことだった。

     一年前の四月十四日。
     初めて千歳が家に遊びに来た日。姉と簡単な挨拶を交わした後、千歳を駅まで送るため一緒に家を出た。
    「白石、お姉さんといっちょん似とらんばい」
     門を出たところで千歳が口を開いた。
    「ああ、うん。顔の系統も違うしな。そもそも、男と女やし。そんなに似ないやろ」
     四月にしては肌寒い夜だった。雨はすっかり上がっていたけれども、冷え切った空気の温度はそのままだった。マフラー代わりのストールに顎を埋める。
    「白石の方が、綺麗な顔しとうね」
     唐突な言葉に、ゆっくりと顔を上げた。
    「……怒られるで」
     地面に落としていた視線を上げれば、すぐ目の前に千歳の顔があるのに驚いて目を開く。
    「うん、やっぱり、白石ん方が整ってる」
     至近距離でマジマジと見つめられて、視線を逸らすタイミングも失ってしまって、どうすればいいのかと戸惑う。すると、不意に唇に濡れた感触があった。それが千歳の舌によるものだと分かった時には、今度は柔らかいものがゆっくりと当てられた。
    「……!?」
     目の前にあるのは千歳の眉間で、一体何が起きているのかと一瞬だけパニック状態になる。しかし、すぐに千歳の唇は離れていって、それは本当に一瞬で終わった。
    「……っな、何すんねん?」
     手の甲を口元にあてて言う。
    「そんなばっちいもんでもなかとね、ひどか」
     肩を竦めて千歳が飄々と言ってのけるのに、白石はあんぐりと口を開けて、しかし次の瞬間には「ひどいんはそっちやろ」と言い返した。
    「男とキスしたとか、どうなんやそれ。誰にも言えないし。そもそも初めてのキスが男って、それどうなん?カウントされるん?」
     ぶつぶつと一人言のように呟けば、千歳が「あはは」と笑った。
    「……ん?あれ?白石は彼女とかおらんと?」
    「はあ?」
    「だって、初めてのキスって」
    「ああ、おらんよ。おるわけないやろ。部活に執筆作業に、俺大忙しやで」
     それからケロッと言うと、千歳は何秒か目を丸くして、それから噴き出した。「何がおかしいねん」。不貞腐れた顔で言う。すると千歳は笑いながら「だって」と言った。
    「見た目と中身が噛み合ってなか」
     顔の前で両方の人差し指を立てて言うのに、白石は眉を顰めた。
    「もっと、気取った奴と思っとったけん、そぎゃんこつなかね」
     片方の人差し指を、白石の眉間に置いて首を少し横に倒して言った。
    「何やねん、それ」
     失礼やな。不機嫌な表情のままで言うと、千歳はますます笑った。
     それから、千歳が歩き出したのに、「反対やで、駅」と呆れた調子でその背中に声をかけ、それでも心は軽やかだった。もしかしたら、と思っていたのかもしれない。
     千歳は姉ではなく自分を選ぶのかもしれないと。それは恋愛とか友情とかとは異なる範囲の話で、例えば、幼い自分が泣いていることに気付かなかった母親は、色んな条件や状況を無意識に計算して姉を選んでいた。母だけじゃない。皆がそうだった。だけど、千歳は、もしかしたら、自分を選んでくれるのかもしれないと、そう思ったのだ。
    姉に奪われない、何かを手に入れることが出来るのかもしれないと。
    二人で歩く駅までの道のり、見上げた先にある桜の木々にある緑が夜だというのにはっきりと分かった。駅に着く直前、もう一度、千歳とキスをした。
     そうして改札の中に消えていく背中を見送って、「あかんて」と小さく呟いた。
     期待したらいけない。
     言い聞かせるように、期待する自分を誤魔化すように、ぽつりと言った。


     思い返すと、去年は桜の花はもう舞っていなかった。今年は寒かったしなあ。そんなことを思いながら駅への道のりを急いだ。
     十五歳になった日以降、何度か千歳とキスをした。
     それ以上のことは何もない。本当に、ただ唇をくっつけるだけの幼い戯れ以上のことは何もしなかった。教室、部室、屋上、テニスコートの裏、帰り道。場所は様々だったが、どこでもすることは一緒だった。悪戯じみたキスをするだけ。
     その意味を千歳に問うことはなく、また千歳も白石に何かを言うこともなかった。
     それでも悪い気分ではなかった。あの、夏が終わる日まで、姉が千歳を家に連れて来る前まで、白石の気持ちはいつも弾むように軽かったのだ。
     もしかしたら、もしかしたらという期待が膨らんで嵩を上げていた。期待は期待に過ぎないことを知っていたはずなのに、馬鹿だったのだと思った。そうして、姉と千歳の関係が決定的に分かった日、もしかしたら、なんて自分の人生にはあり得ない言葉に違いないと確信した。
    「白石」
     ちょうど駅を出るところだった電車に駆け乗れば、千歳が暮らす駅まではあっという間だった。四天宝寺から一駅のところにある千歳のアパートは、中学時代は学校から歩いた方が近いと皆で部活帰りにそのまま寄ることが常だった。そういえば、ここに一人で来るのは初めてだなと思いながら、改札に定期をあてた。ピという音と一緒に聞こえてきた声に、顔を上げた。
    「白石」
    「千歳……」
     終電が近いせいか、駅にいる人間の年齢層は高い。高校生の自分と千歳は、体つきこそ大人にひけを取らないものではあったけれども、纏う空気がどこか浮いていた。
    「わざわざ迎えとかいらんのに。千歳じゃあるまいし、俺、道とか迷わへん」
     改札の前に立つやたら大きな男を、通りゆく人がじろじろと無遠慮に見つめて、そしてタクシー乗り場かバス乗り場かを目指して足早に歩いて行った。
    「白石に用があったとよ」
     千歳のその言葉に、白石は首を傾げた。
    「何で?迎えに来んでも、どうせ千歳の家に行くんやからそこで話せばええのに」
    「ばってん、俺ん部屋は皆がおったい、無理ばい」
    「……みんな?」
    「四天宝寺の皆ばい。白石の誕生日……っ」
     言いかけた千歳の口を白石は左手の手の平で塞いだ。
    「あかんやろ、自分。それ、サプライズちゃうの?」
    「……」
     白石の指摘に、千歳ははっとしたように目を開いた。それに白石ははあと大きく息を吐いて、「しゃーないなあ」と笑った。
     きっと中学の頃のメンバーが企画したことなのだろう。千歳はそれに誘われて、だから白石の誕生日を思い出しただけなのだ。また期 待してしまった自分を馬鹿だなあと思って。
    「ええわ。知らなかったことにしといたる。俺、俳優になれるくらいに演技もうまいで」
     やったことないけどな。
     千歳の口を塞ぐ手を離して言うと、千歳は「演技は下手やろうね」とにこにこと毒気のない口調で返してくる。それに何も言わず、千歳と同じようににこにこと微笑みながら、しかし右足で千歳の尻のあたりを蹴飛ばす。「痛い、乱暴者」と恨めしげに見下ろしてくる視線を、睨むように見つめ返して「謙也か小春か、サプライズのことばらしたの言いつけるで」と脅すように言えば、千歳はたちまち首を振って大人しくなり「ごめん」と謝る。
    「せっかくタダで黙っといたろ思ってたけど、やめややめ。自分、俺に何か貢がなあかんで」
     目を細めながら言うと、千歳は相変わらずの毒気ない笑顔で「よかよ」とけろっと言った。即答に拍子抜けすれば、「何でもあげっとよ」と更に気前のいいことを言ってきて、白石は一つ息を飲みこんでついでに咳払いもした。
    「わかればええねん」
     それから偉そうにそう言って歩き出した。夜道には桜吹雪。ちらちらと目の前を流れる花びらを掴もうと左手で空を握る。捕まえる寸前、逃げるように風に流される花びらを目で追って、それから「で?」と切り出す。
    流した視線をそのまま千歳へと向ける。
    「で、話ってなに?皆の前では出来ひん話?」
     のんびりと歩きながら尋ねると、千歳は「うん」と頷いた。
    「……姉ちゃんのこととか?」
     千歳と自分との間、皆の前では出来ない話と言えば、姉のこと以外にはない。隠しているのかそうでないのかは分からないけれども、 千歳は姉と付き合っていることを白石以外のメンバーに話していなかった。
    「ううん、まあ」
     もちろん、白石もそれを誰かに言ったりはしていない。千歳の気持ちを考えてという理由からでもあったし、あまり認めたくない事実であるということも一因だった。
    「姉ちゃんと上手くいっとるん?何やろうなあ、あの人が今まで付き合っていた人とは違うタイプやからなあ、自分」
     何てことない風を装って言った。
    「うん」

     思い出す。千歳と初めてキスをして、家に帰れば玄関に立っていた姉の姿を。「家の前でちゅーしてたやろ」。楽しそうに、何か面白い玩具でも見つけた時の顔で、姉に言われた。驚いて何も答えられずにいれば、「ホモとかきもいよ、くーちゃん」と軽蔑の色を瞳に浮かべて吐き捨てるように言った。「悪ふざけやし」とそれを否定する自分の声は大分弱かった。
     千歳はとても不思議な転校生で、とても魅力的だった。心をぎゅうっと抗えない力で引っ張られる。その力のままに流されるのが心地よい。少し前に芽生えた感覚だった。姉に言った通り、悪ふざけ、と定義してしまうのが「もったいない」と思えるくらいには、それは白石にとって魅力的なものだった。遠慮なく踏み入れて来られることが、嬉しかったのだ。

     今でも夢見るほどに、それは魅力に溢れている。

    「あのさ、千歳」
     しかし、今はもう、それは自分のものではない。もうなりえないものだ。
    「うん?」
     話があると言ったくせに、何も話してくる気配のない千歳に、逆に話しかける。
    「一年前、何で俺にキスしたん?」
     薄い小さな花びらが舞う道を二人並んで歩いていく。白石の質問に千歳は「うーん」と困ったように首を傾げて、そして両手を大きく上に伸ばした。
    「……したかったけん、した」
     隣にいる白石を見つめながら答える。白石は千歳の方を向くことはせず、「それやったら」と続けた。
    「どうして姉ちゃんと付き合っててん?何で?俺とキスとかしてたくせに、それって何でなん?」
     もしかしたら、千歳は自分を選んでくれる人間なのではないかと、心密かに期待していた。
    「付き合わない?って言われたばい」
    「……や、まあ、そうなんやろうけど。まあ千歳から言ってもええんやけど、それで、何で俺とキスとかしたんやっちゅー話や。俺ら外 人やないしな。キスとかせえへんやろ」
     外人でも男同士はしないわな。
     そう続けると、千歳は「そぎゃんねえ」とのんびり言った。
    「白石はほんなこて見た目と中身が一致しとらんけん、難しか」
     もう一度、大きく伸びをする。
    「姉ちゃんのこと、好きなん?」
    「好いとうよ」
     当たり前だと言わんばかりの返答に、白石は視線を地面に向けた。月明かりと桜の花びらの白い光に浮かびあがる影は曖昧だった。
    「ふうん」
    「白石のことも好いとうよ」
    「……」
    「知らんかったとや?」
     千歳のアパートへ向かって二人して歩き続ける。どんどん歩いて、大通りから一本わき道に入ったところで、白石は「ん?」と立ち止り首を捻った。千歳の方を見る。白石より二歩分、先に行ったところで、千歳も歩くのを止めて後を振り返った。
    「意味わからんのやけど」
     右側に小さく倒した首をそのままに口を開く。
     民家が立ち並ぶ狭い通り道も、深夜に差し掛かる時間帯となれば明かりは微々たるもので、古びた街灯の切れかけた蛍光灯の光だけが頼りなげに光る。前に立つ千歳が不意にポケットを漁る。取り出したのは携帯電話で、それはチカチカと青い光を放っている。
    「もしもし」。それを耳にあてて話しだす千歳をぼんやりと見つめた。「ちいと遅れとる」とか「すまんすまん」と全く悪びれた様子もなく電話口に向かって千歳が言うのを聞きながら、機会の向こうにいるのが、恐らくは千歳の家で待機中の四天宝寺で一緒だった面々なのだろう。
    「ああ。ごめん。謙也くんが怒っとったばい。早く連れて来んかいって、ケーキのローソクつけられへんって……って、いかんねえ。これも秘密だったばい」
    「アホか」
     慌てた様子で自分の口を押さえる千歳に白石は呆れた顔をした。
    「それで、白石は俺んこつ好いとったと?」
     白石の様子に構わず千歳はにこりと笑って首を傾げて尋ねてくる。白石は呆れ顔のまま眉を顰めて、何とも複雑な表情になった。
    「千歳は姉ちゃんを選んだんやろ。俺がどうとか知ってどうなるん?関係ないやろ、俺のこととか」
     どこか拗ねた言い方になってしまうのが嫌だと思った。
    「ある」
    「…………」
     ブオンと、大通りをトラックが走り去っていく音が聞こえた。遠ざかる音が完全に無くなると、脇道は静寂に包まれる。
    「白石は俺んことなんて好いてなか思っとったばい」
    「ふうん」
    「ばってん、白石は白石やけん、もしかしたらってふと思って」
    「いつ?」
    「一昨日くらい」
    「えらい最近やな」
     住宅街の真ん中に突っ立ったまま話続ける。前に立つ千歳が、不意に二人の横にあった民家の塀にその長身を凭れかけさせた。
    「白石は俺が何しても何も言わんと、ほなこてなーんも考えとらんと思っとったばい。さて……、」
     含みのある語尾に、白石は千歳をじいっと見つめた。静かな道路に、ジジジと街灯が光を作り出す微かな音が響いていた。
    「さて、白石に聞かんとって思い立って、迎えにきたとよ」
     みんながおるとこやとちいと聞きづらい。
     千歳の言葉に白石は、一度視線を斜め下に落とした。姉と付き合っているこの男が、どうして自分の気持ちをここまで気にするのだろうか。その理由を「ただの知りたがりだから」と簡単に理由づけてしまっても、それはそれで正解だと思った。千歳の性分をよく知る白石としては、それが一番しっくりくる理由でもあった。
     だけど、やっぱり期待がある。
     もしかしたら、もしかしたら。
     姉ではなくて、自分を選んでくれるのではないかと。姉ではなく、自分を気にかけてくれる、そういう存在が、もしかしたら、それが現れたのではないかと。
     視線を上げると、千歳と目が合った。
     白石の視線にやんわりと緩く微笑んで、よいしょと、誰かの家のブロック塀に凭れかかってしゃがむ。それに「ガラ悪いで」と小さな声で言いながらも、同じようにしゃがみこんだ。それから、折りたたんだ膝の上に額を乗せた。
    幼い頃の自分を振り返る時、特に姉との思い出を振り返る時、たまに思うことがある。どうしてもっとうまくやれなかったのだろうか、と。
     例えば、あの図鑑にしても、姉に譲る前にお気に入りのページだけこっそりとう破いて持っておけばよかったのだ。中身が一ページや二ページなくなっていたところで、元より植物に興味のない姉が気づくわけがなかったのだ。馬鹿正直に全てを差し出すのではなく、ずる賢くやりくりするべきだった。
    「うん」
     それはきっと今からでも遅くない。
     全部を手にすることは不可能なのだ。今までの人生を考えれば、それは容易に分かる。きっと、そういう風に出来ているのだ。どう抗おうと、姉と白石の優劣はどこまでいっても変わらない。姉が望めば、白石の希望や期待は全てズタズタに引き裂かれる。大げさな言い方をすれば、運命だ。姉は自分が持っているものを奪える、自分は姉に奪われる、そんな星の下に生まれてきた。馬鹿馬鹿しいと一蹴されそうなほど大仰な価値観は十六年の間に形成されたものだった。
     膝に顔を埋めたまま目を閉じる。浮かんでくるのは、幼い頃の自分の姿。四六時中抱えているほど大事にしていた植物図鑑を、その全てを姉に譲ることしか出来なかった子供には、もう戻りたくなかった。そう強く思って、一度下唇をぎゅっと噛んで、それから口を開く。
    「……一時間、くれへん?」
     普段よりも籠った自分の声が耳の中に入り込んでくる。
     こんな籠った声で、はたして千歳にきちんと聞こえたのだろうか。
    「それやったら、一日に一時間だけ、俺だけ考えて。あとの二十三時間は姉ちゃんのことでもテニスでも無我でもなんでもええよ。何でもええから、一時間だけ俺のこと考えて」
     こんなことを千歳に強請ったことが姉に知られたら、彼女は一体どんな表情をするのだろうか。想像すると怖くなる。
     姉がほしがった物を奪われなかったことなど一度もない。前述の通り、白石は自分と姉が「そういう」星の下にいるということを、よく理解していた。頭は悪くないのだ。
    「そんなんでよかと?」
     千歳が珍しく怪訝そうな顔をして尋ねてくるのに黙って頷く。
    「うん、そんなんがええよ」
     笑って言った。
     姉のように全てを奪うことなど自分には出来ない。それをしようとした瞬間、手に持つ僅かな「のこり」でさえ、取り上げられてしまう。
     だから、上手くやろう。そう考えた。

     十六歳になった日、少しだけ、少しだけ世界が変わった。いや、変えようと思った。
    いずれ奪われる希望でも消えていく喜びでも一瞬の幸せでも、それでも、変えたいと望んだ。それが良い方向に進もうと悪い方向に進もうと。

    「好きや」

     縋るでもなく頼るでもなく、ぽつりと言った。夜風が前髪を乱す。
     ただ、好きだった。







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    2019/06/16 12:30:52

    ちとくら 「いつか王子様が」

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    #ちとくら
    サイトに上げていた、白石姉と千歳が付き合っているお話です。捏造ばかり、ご注意ください。

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