財ユウ+女子 「財前くんは 9」
「……そろそろ、帰る?」
花火の音が聞こえなくなった頃、財前くんが言った。その胸に顔を寄せたまま頷くと、財前くんはその身体をそっと私から離した。頬に残る涙の跡が、この暗がりでは見えないことを祈りながら、手の平を両方の頬にそうっとあてた。
「……ごめんね」
何に対する『ごめんね』なのか、自分でも分からない。急に感情的になって泣いてしまったことなのか、こんなに人がいるところで恥ずかし気もなく抱きついてしまったことなのか。どういう顔をして財前くんのことを見ればいいのかが分からなくて、目を伏せる。
すると、その視線の先、財前くんの手があった。
「どうぞ?」
来た時と同じよう、手を差し出してくれる財前くんに気づいて、そっと上を見る。その顔は、普段とあまり変わらないように見えた。提灯の明かりでは分からなかっただけかもしれないけど、私にはそう見えた。
「……うん、ありがとう」
その手に自分の手を重ねる。繋いだ手の先に、光も音も一切が消えてしまった夜が広がっていた。空を見上げ、次々打ち上がる花火を見ていたかと思えば、皆、今度は帰り道の方角を向く。紺色の空にぼんやりと朧げに浮かぶ白い煙だけが、花火を名残惜しんでいるかのようだった。余韻に浸ることなく動き出す時間が、少し寂しい。
──好きです。
そう告げたことを、財前くんはどう思っているの?
そう聞いたら、財前くんはどんな顔をするんだろう。そんな風に聞く勇気はない。でも、このまま何もなかったかのように明日が来て、夏休みを過ごして、九月になって――。それで、また再会することなんて望んでいなかったはずなのに、今はそれでもいいのかもしれないだなんて思っている。財前くんの気持ちを知ることが、怖い。
これまでも、それが怖くて、恋人の存在を聞くことができなかった。今も、やっぱり、本当のことを聞くのが怖かった。
「あっ、」
混雑の中、トンと、知らない人と当たっては「すみません」と互いに小さく謝り、小さく頭を下げて、去っていく。擦れ違っても、触れ合っても、それは一生の中で一回きり。もう二度と話すこともなく、触れることもない人がこの世界には大勢いる。触れ合うことが出来る人の方がずっとずっと少ない。
こんな風に手を繋ぐことが出来る人と、生きていく中であとどれくらい出会えるのだろう。こんな風に、優しく私の手を引いてくれる人と。
「……」
この恋が続くことを望む気持ちが、未練のように胸の内側に残り、気持ちを告げたことを後悔する心がぐらりと揺れる。
「行こか」
見回す限り人しかいない川原をぐるりと見た財前くんが、ゆっくりと歩き始める。それに合わせて、不慣れながらも少しずつ歩くコツを掴んできた下駄で歩き出す。聞かないといけないことを聞けぬまま、人波に流されるまま。そういう気持ちがあるせいか、混雑の中を歩くことに集中していたせいか、私も財前くんも、帰り道の口数は少なかった。
「ハネザワさん、どっち?」
河川敷から道路へと続く階段をようやく上りきったところで、財前くんが口を開いた。
沿道には警察の人が何人か立っていて、見物客たちの誘導を行っていた。右と、左と。歩行者天国になっている道路を真ん中で区切り、片方を財前くんが暮らす街の方面、片方を私がいつも使っている駅の方面へと、二方向に見物客の行き先を分けている。
「えっと、こっちです」
財前くんの行き先とは反対の方角を指差す。財前くんや一氏さんが暮らす街から一つ先の駅、そこから財前くんや一氏さんが暮らす街に向かって十分ほど歩いたところに、私が家族と暮らす家がある。ここからであれば、不慣れな足元であっても十五分あれば着く、それくらいの距離だった。
だから、大丈夫。
「ほなら、送ります」
私がそう続けるよりも先、財前くんが、私の指差した方へと人の波が流れている通りを選ぶ。
「あ、えっと、うちね、ここから結構近いんだ。だから大丈夫だよ」
手を引かれたまま、財前くんに言う。浴衣の裾と下駄と、歩き辛いことには変わりないけれども、さっきよりは大分慣れたと思う。
「もう夜やし、人すごいし、相変わらずよろよろしてるし、」
でも、財前くんは私の手を離さず、迷うことなく自分が暮らす街とは反対、私の家がある方へと向かう。
「ちょっとは慣れたと思うんだけどな……っとと、」
言っている傍からよろめく私に、立ち止まり、振り向いた財前くんが「ほらみろ」って顔をした。
「あー、えっと」
はあ、かっこわるいなあ。反省しながらも、「本当に大丈夫だよ」と繰り返す。
「そんなんで一人で帰す方が心配やから、あと……」
財前くんが何か続けようとするのを邪魔するみたく、警察の人が拡声器で「押さないでください、ゆっくり進んでください」と、見物客たちに向けて言った。
「え?」
年季の入ったスピーカーから発せられる割れた音が、財前くんの声を簡単に掻き消してしまう。何を言ったのかがまるで分らず、「何か言った?」って、そう聞き返すと、財前くんは数秒の間だけ何か思案するよう目線を上げて、でも、すぐに、「ここやと、邪魔になるから」と、再び歩き始めた。
「そうだね、」
何を言おうとしたのか、気になるけれども、財前くんの言う通り、ここでは立ち話なんて出来ない。
「ここ、真っすぐでええの?」
財前くんが聞いてくる。
「うん、もう少し先にコンビニがあるから、そこを右に曲がって、十分くらい歩くかなあ」
手を繋いだまま、夜の道を歩いていく。
屋台に店じまいの気配はなく、まだしばらく、この通りは賑やかなままなのだろう。河川敷に並ぶ提灯のぼやけた灯が、ふわりふわりと風に揺れる。少し遅れて、友達が綺麗に巻いてくれた髪の毛が、緩やかに流れる風にふわりと揺れた。
*
通りを一つ入ると、次第に周囲は静寂に包まれていった。カランコロンと、下駄の音がアスファルトを打つ音が響く。
あの胸を打つ花火の音はどこへ行ってしまったのか。遠くの方から聞こえていた賑やかな音も、川沿いの道から離れてしまえば、徐々に消えていった。家々が建ち並ぶ、なだらかな坂を上りきると、また少し、賑やかになる。でも、お祭りの音はもうしない。車線が四つある大きな通りを、ヘッドランプで光の線を描きながら車が走り抜けていく音だけが、そこにあった。
赤信号に足を止め、ふうと息を吐く。
車はよく通るけれども、人の通りはほとんどない。花火大会の見物客も、この通りまでは来ない。見慣れた風景に、一気に現実に戻ったような、そんな気分だった。
「ここ渡ったら、もうすぐそこだから、ここまでで大丈夫だよ」
そう言うと財前くんが、信号の先を見た。
「あの、壁が白いマンション、」
大きな戸建ての奥、ひょっこりと頭を覗かせている自宅のマンションを指差して言う。
「かっこええ建物やなあ……」
うちとは大違いやな。財前くんがそう漏らすのに、「中はかっこよくないよ」と肩を竦めた。
「あ、財前くんは、この通りをずーっと真っすぐ、坂を下りきって、そこからまた真っすぐ行けば駅前に突き当たるけど、ちょっと遠いかも……」
ここから見えないけれども、確かにあるはずの駅に指先を向ける。大通りを挟み、桜の木が堂々と両脇に並ぶその道は、一面がピンク色に変わる。そこも坂道になっていて、そこを下り切って少し歩くと、待ち合わせをした駅がある。
「でも、駅はもう規制がかかっていると思うから……」
二十分くらいは歩くことになるかもしれない。そう言うと、財前くんは「ああ、平気やで」と、飄々とした様子で返してきた。
「ちょっと歩きたい気分やったし、こっからの道も何となくわかる。ここ真っすぐ行くと、多分、駅に辿り着く前に自分の家に着く。歩いて十分くらいとちゃうかな」
額に手を翳しながら財前くんが言うのに、「そうなんだ」と頷き、同じ方向を向いた。
「一度、こっちまで探検にしにきたことがあるから、」
その時の景色を確認するみたく、財前くんが周囲を見回した。
「探検?」
「ああ、引っ越してきたばっかの頃、ここら辺、桜がめっちゃ綺麗やって聞いて、片付けもまだ終わってへんのに夜桜眺めに来た」
あっちから坂を上ってきてめっちゃ疲れたと、財前くんが続けた。
「一氏さんと?」
坂道を上る財前くんの隣には、きっと一氏さんがいたのだと、そう思って尋ねる。財前くんと一氏さんが知り合いで、お互いの同居相手がお互いであることを知ったのはつい最近だというのに、この二人が一緒に暮らしているということが、どうしてか、私にはとても自然なことのように思えてしまう。
二人の共通点を私は知らないのに、不思議だなあって、そんなことを思った。
「財前くんの思い出には、いつも一氏さんがいるんだね」
一緒に暮らすほど仲が良いのだから、もしかしたら、それも当然のことなのかもしれない。
「……」
財前くんは、ひっきりになしに車が行き交う道路をしばらくの間見つめて、それから、「せやな」と小さな声で言った。
一氏さんは、花火大会、どうしたのかな。次にバイトで会った時に聞いてみよう。
そんなことを考えながら、財前くんの隣で大通りを走り抜けていく自動車の光を目で追いかける。
隣で青色の信号がチカチカと点滅しているのが、視界の端っこに映る。赤になれば、いずれ、この通りを挟む信号が、今度は青に変わる。そうしたら、おやすみなさいって言って、ここまで送ってくれてありがとうって言って、それで。
「……」
それで、いいのかな。
ピタリと、私たちの前を通り過ぎていく車が消える。それから数秒を置いて、横断歩道の信号が青色に変わった。
繋いでいた手を、離す。今度こそ、これで、おしまい。
「今日は、楽しかったなあ……」
声が震える。上手く喋ることが出来なくて、語尾は消え入りそうなほどに小さかった。
浴衣を着て、待ち合わせをして、二人で手を繋いで会場に行って、花火を眺めた。
頭を巡る景色が全て思い出になってしまったことが無性に寂しくなって、それだけで涙が零れそうだった。口元に手を置いて、それを耐える。
「ハネザワさんが……、」
青信号になっても前に進まない私を急かすこともなく、黙って隣に立ったままだった財前くんが口を開いた。財前くんの方に顔を向けると、視線がぶつかった。
「ハネザワさんが聞きたくなかったら、このまま信号渡ってくれてもいいし、そしたら、九月からまた同じようにするし」
それから、そう続けた。
「聞いてくれるんやったら、渡らないでほしい」
「……」
今、この道を渡れば。
そんな思いが頭を過る。でも。今日が、何もなかったことになるのは、とても寂しい。
「俺は、このまま誤魔化したくないし、ちゃんと話したい」
道路の先を真っすぐ見据えたまま財前くんが言う。
花火大会から帰りなのか、中学生くらいの女の子たちがきゃあきゃあと騒ぎながら、私たちを追い越し、信号を渡って行った。向こう側に行っても、楽しそうに笑う声が夜の街に響く。
青色の信号が、また、点滅を始める。
チカチカと。でも、渡ることはしなかった。完全に赤色になるのを待って、財前くんを見つめたまま言った。
「財前くんは、優しいね……」
「優しい?」
財前くんも私の方を向く。街灯の白い灯が、スポットライトのように私たちを照らし出す。夜だというのに、互いの表情がよく見えた。
「……だから、私、困らせちゃってるんだよね」
泣いたり、抱きついたり。花火大会を観に来ただけだというのに、財前くんからしたら、いい迷惑だってことばかり。せっかく一緒に来れたんだから、楽しいって思ってもらえるようにしたかったな。
「さっき、ごめんね」
泣きそうになるのを誤魔化すよう、えへへと笑う。
「別に、困ってへん」
財前くんは、でも、笑っていなかった。困っている顔もしていなかった。いつもと同じと言えば、いつもと同じ。いつもと同じように、私の話をちゃんと聞こうとしてくれるし、自分が考えていることをきちんと伝えようとしてくれる。
「優しいとかそういうのとは違くて、ハネザワさんが俺のこと好きって言ってくれたのは、ほんまに純粋に嬉しかった」
嘘を吐くこともしない。そういう人だから、嬉しかったというのも本当のことなんだと思う。
楽しくなかったってわけじゃないんだ。ちょっと、ホッとした。
「俺は誰かさんと違って……、誰にでも優しくなんて出来ひん。愛想も悪くて、あんまり気も遣えんし、人を傷つけることを平気で言う奴やから」
「うん……」
「せやから、今も、平気な顔して言うけど」
唇を引き結んで、それで、何か覚悟を決めるみたく息を吐き出して。
「ハネザワさんの気持ちには、応えられへん……」
私の目を、真っすぐに見たまま、財前くんが言った。
「……」
そのまま泣き崩れるとか、逃げるとか、そんなことは出来なかった。ただ、黙って、呆然と、それを受け入れるしかなくて、でも、どうしてか、安心していた。ちゃんと聞けて、今夜をなかったことにしなくてよかったと、そう思った。
「ごめん」
そういう安堵と、何かが静かに終わりを迎えようとしている悲しさが、涙となって瞳から落ちる。口元にあてた指から手の甲へと、涙が伝い落ちていくのを感じながら、一つ、頷いた。
分かっていたの。でも、好きだったの。
財前くんみたいに優しい人が、誰かを愛して、誰かに愛されていないわけがないって、いつも心のどこかで思っていた。分からないフリをしていたけど、どこかで気付いていた。分かっていた。でも、その『誰か』から財前くんを奪いたかったわけじゃない。ただ。私も、こういう優しい人に恋をして、好きだと言われたかった。そんな恋が、したかった。
「……花火大会、誘われた日からずっと考えてた。もし、ハネザワさんが彼女やったらどんな毎日を過ごすんやろって」
泣き顔を見せる私に、財前くんは眉を寄せた。
「俺、付き合ってる人がおって、ずっと話してなかったけど……、ごめん」
首を横に振る。財前くんの台詞じゃないけど、財前くんが謝る必要なんて何もない。私が、ただ、勝手に好きになっただけ。
「喧嘩ばっかしとるけど、なんやかんやで四年付き合ってて、惰性とか妥協とか、そう言われるとそうなのかもしれへん。もっと周りを見れば、今よりも楽しかったり、幸せになれる人生もあって、俺が、そういうのを探す努力を怠ってきただけなのかもしれへん。せやから、ハネザワさんに会って、花火大会に誘われて、初めて、それ以外の人生を考えた」
財前くんが、俯きがちに目を伏せた。
「うん……」
「ハネザワさんは、お世辞やないで、可愛いし、性格もよくて、明るくて、一緒にいると楽しいし、一緒にいると落ち着く。あの人と出会う前に、ハネザワさんと出会っていたら、俺はハネザワさんのことを好きになってたと思う」
こんなに沢山のことを話す財前くんを見るのは初めてかもしれない。滲む視界に浮かぶ財前くんを見つめれば、一生懸命、私のことと、『好きな人』のことを考えているのが伝わってくる。それが分かるから、余計に、胸が苦しかった。
「せやけど……」
静かに、ただ静かに、音もなく涙が落ちていく。好きな人の幸せを純粋に願えればいいのに、そこに自分がいないということを切なく思う。恋は、とても苦しいものだということを実感する。
「もし、ハネザワさんと出会った後に、あの人に出会ったら、俺はやっぱりあの人のことを好きになると思う。全然、ほんまに、可愛くなんてないし、捻くれてるし、テンションの上がり下がりは激しいし、一緒におると面倒で疲れることばっかやけど、ほんまに、なんでやろうな」
しゃーないなあって。
私が好きな、あの顔で、目を伏せたまま財前くんが柔らかく笑うのが分かった。春の日、あの日、初めて見た財前くんの笑った顔がスライドショーのように頭を流れていった。財前くんも恋をしていたんだなって、今ははっきりと分かる。この人も、苦しくても辛くても、一緒にいる時間を思い出すだけで、幸せに笑いが零れるような素敵な恋をしている。
「……」
大きなトラックが、二人の横を勢いよく通り過ぎていく。それを待って、財前くんが口を開いた。
「きっと。ハネザワさんと同じ時間を過ごしても、それがどんなに楽しくても、この世界のどこかにあの人がいるってことを知っていたら、俺は、あの人に――」
静かな声が、だけど、確かに聞こえる。
「今日も明日も、世界でいちばん会いたい」
私が、好きになった人。
その瞳に映るのは、いつも私ではない別の人だった。その人のことを羨ましいと思う。こういう気持ちも含めて、私は財前くんに恋心を抱いていた。
信号が、また青に変わる。
「さっき、渡っておけばよかった……」
青信号の間に。
そう、ぽつりと呟く。
「聞きたくなかったなあ……」
スンと、鼻を啜って、震える声で言う。
どんな顔をしているのか自分では分からないけれども、多分、笑えていたと思う。財前くんは困ったような顔をして、「好きになってくれてありがとう」と、私に言った。
私も。好きなれて、よかったよ。
なんて、まだ、そんなかっこいいことは言えないけど、でも、一人で転ばずに横断歩道を渡ることは出来る。浴衣の裾を揺らし、下駄をカランコロンと鳴らしながら、道路を渡る。その真ん中で一度、振り向く。
「気ぃつけや」
まだそこにいる財前くんが、右手を小さく横に振った。同じように、私も手を振り返した。それで、また前を向く。道路を渡り切っても、振り向くことはしなかった。振り向かず、真っすぐ、家を目指した。こんな顔で帰ったら、家族に心配されちゃうから、しばらく家には入れないけど。
「やんなっちゃうなあ」
大通りから少し離れたところで、立ち止まる。立ち止まったら、たちまち溢れ出した。
財前くんは──。
夜の空に顔を向ける。上を見ても、涙はこめかみを伝い落ちていく。静かに夜空を照らす月が、どんどん、滲んでいった。
恋が、終わる瞬間が、こんなにも切なくて胸が痛くなるだなんて知らなかった。恋が、こんなにも楽しくて、苦しいものだなんて、財前くんに出会わなければ、私は知らないままだった。
胸に手をあてる。
輪郭がぼやけた月を見上げたまま、いつか、この夜が思い出になる日のことを想う。今日、零した涙のことも忘れて、また誰かに恋をする日がくるのかもしれない。それでも。その時が来たとしても、私はあの人のことを忘れなくて、忘れられなくて、夏の夜に聞く花火の音とともに思い出すのでしょう。
かっこよくて、不愛想だけど人の話を聞くのが上手で、イギリスの音楽が好きで、一つ年上の先輩とルームシェアをしていて、繋いだ手が冷たくて、でもすごくすごく優しくて、大好きだった。
「……財前くんは」
口を開く。名前を呼ぶ。耳の奥に残る、花火の残響は、しばらくの間、消えてくれそうにない。
財前くんは、十八歳の私が恋をした、きっと、ずっと、忘れられない、素敵な男の子です。
「……そろそろ、帰る?」
花火の音が聞こえなくなった頃、財前くんが言った。その胸に顔を寄せたまま頷くと、財前くんはその身体をそっと私から離した。頬に残る涙の跡が、この暗がりでは見えないことを祈りながら、手の平を両方の頬にそうっとあてた。
「……ごめんね」
何に対する『ごめんね』なのか、自分でも分からない。急に感情的になって泣いてしまったことなのか、こんなに人がいるところで恥ずかし気もなく抱きついてしまったことなのか。どういう顔をして財前くんのことを見ればいいのかが分からなくて、目を伏せる。
すると、その視線の先、財前くんの手があった。
「どうぞ?」
来た時と同じよう、手を差し出してくれる財前くんに気づいて、そっと上を見る。その顔は、普段とあまり変わらないように見えた。提灯の明かりでは分からなかっただけかもしれないけど、私にはそう見えた。
「……うん、ありがとう」
その手に自分の手を重ねる。繋いだ手の先に、光も音も一切が消えてしまった夜が広がっていた。空を見上げ、次々打ち上がる花火を見ていたかと思えば、皆、今度は帰り道の方角を向く。紺色の空にぼんやりと朧げに浮かぶ白い煙だけが、花火を名残惜しんでいるかのようだった。余韻に浸ることなく動き出す時間が、少し寂しい。
――好きです。
そう告げたことを、財前くんはどう思っているの?
そう聞いたら、財前くんはどんな顔をするんだろう。そんな風に聞く勇気はない。でも、このまま何もなかったかのように明日が来て、夏休みを過ごして、九月になって――。それで、また再会することなんて望んでいなかったはずなのに、今はそれでもいいのかもしれないだなんて思っている。財前くんの気持ちを知ることが、怖い。
これまでも、それが怖くて、恋人の存在を聞くことができなかった。今も、やっぱり、本当のことを聞くのが怖かった。
「あっ、」
混雑の中、トンと、知らない人と当たっては「すみません」と互いに小さく謝り、小さく頭を下げて、去っていく。擦れ違っても、触れ合っても、それは一生の中で一回きり。もう二度と話すこともなく、触れることもない人がこの世界には大勢いる。触れ合うことが出来る人の方がずっとずっと少ない。
こんな風に手を繋ぐことが出来る人と、生きていく中であとどれくらい出会えるのだろう。こんな風に、優しく私の手を引いてくれる人と。
「……」
この恋が続くことを望む気持ちが、未練のように胸の内側に残り、気持ちを告げたことを後悔する心がぐらりと揺れる。
「行こか」
見回す限り人しかいない川原をぐるりと見た財前くんが、ゆっくりと歩き始める。それに合わせて、不慣れながらも少しずつ歩くコツを掴んできた下駄で歩き出す。聞かないといけないことを聞けぬまま、人波に流されるまま。そういう気持ちがあるせいか、混雑の中を歩くことに集中していたせいか、私も財前くんも、帰り道の口数は少なかった。
「ハネザワさん、どっち?」
河川敷から道路へと続く階段をようやく上りきったところで、財前くんが口を開いた。
沿道には警察の人が何人か立っていて、見物客たちの誘導を行っていた。右と、左と。歩行者天国になっている道路を真ん中で区切り、片方を財前くんが暮らす街の方面、片方を私がいつも使っている駅の方面へと、二方向に見物客の行き先を分けている。
「えっと、こっちです」
財前くんの行き先とは反対の方角を指差す。財前くんや一氏さんが暮らす街から一つ先の駅、そこから財前くんや一氏さんが暮らす街に向かって十分ほど歩いたところに、私が家族と暮らす家がある。ここからであれば、不慣れな足元であっても十五分あれば着く、それくらいの距離だった。
だから、大丈夫。
「ほなら、送ります」
私がそう続けるよりも先、財前くんが、私の指差した方へと人の波が流れている通りを選ぶ。
「あ、えっと、うちね、ここから結構近いんだ。だから大丈夫だよ」
手を引かれたまま、財前くんに言う。浴衣の裾と下駄と、歩き辛いことには変わりないけれども、さっきよりは大分慣れたと思う。
「もう夜やし、人すごいし、相変わらずよろよろしてるし、」
でも、財前くんは私の手を離さず、迷うことなく自分が暮らす街とは反対、私の家がある方へと向かう。
「ちょっとは慣れたと思うんだけどな……っとと、」
言っている傍からよろめく私に、立ち止まり、振り向いた財前くんが「ほらみろ」って顔をした。
「あー、えっと」
はあ、かっこわるいなあ。反省しながらも、「本当に大丈夫だよ」と繰り返す。
「そんなんで一人で帰す方が心配やから、あと……」
財前くんが何か続けようとするのを邪魔するみたく、警察の人が拡声器で「押さないでください、ゆっくり進んでください」と、見物客たちに向けて言った。
「え?」
年季の入ったスピーカーから発せられる割れた音が、財前くんの声を簡単に掻き消してしまう。何を言ったのかがまるで分らず、「何か言った?」って、そう聞き返すと、財前くんは数秒の間だけ何か思案するよう目線を上げて、でも、すぐに、「ここやと、邪魔になるから」と、再び歩き始めた。
「そうだね、」
何を言おうとしたのか、気になるけれども、財前くんの言う通り、ここでは立ち話なんて出来ない。
「ここ、真っすぐでええの?」
財前くんが聞いてくる。
「うん、もう少し先にコンビニがあるから、そこを右に曲がって、十分くらい歩くかなあ」
手を繋いだまま、夜の道を歩いていく。
屋台に店じまいの気配はなく、まだしばらく、この通りは賑やかなままなのだろう。河川敷に並ぶ提灯のぼやけた灯が、ふわりふわりと風に揺れる。少し遅れて、友達が綺麗に巻いてくれた髪の毛が、緩やかに流れる風にふわりと揺れた。
*
通りを一つ入ると、次第に周囲は静寂に包まれていった。カランコロンと、下駄の音がアスファルトを打つ音が響く。
あの胸を打つ花火の音はどこへ行ってしまったのか。遠くの方から聞こえていた賑やかな音も、川沿いの道から離れてしまえば、徐々に消えていった。家々が建ち並ぶ、なだらかな坂を上りきると、また少し、賑やかになる。でも、お祭りの音はもうしない。車線が四つある大きな通りを、ヘッドランプで光の線を描きながら車が走り抜けていく音だけが、そこにあった。
赤信号に足を止め、ふうと息を吐く。
車はよく通るけれども、人の通りはほとんどない。花火大会の見物客も、この通りまでは来ない。見慣れた風景に、一気に現実に戻ったような、そんな気分だった。
「ここ渡ったら、もうすぐそこだから、ここまでで大丈夫だよ」
そう言うと財前くんが、信号の先を見た。
「あの、壁が白いマンション、」
大きな戸建ての奥、ひょっこりと頭を覗かせている自宅のマンションを指差して言う。
「かっこええ建物やなあ……」
うちとは大違いやな。財前くんがそう漏らすのに、「中はかっこよくないよ」と肩を竦めた。
「あ、財前くんは、この通りをずーっと真っすぐ、坂を下りきって、そこからまた真っすぐ行けば駅前に突き当たるけど、ちょっと遠いかも……」
ここから見えないけれども、確かにあるはずの駅に指先を向ける。大通りを挟み、桜の木が堂々と両脇に並ぶその道は、一面がピンク色に変わる。そこも坂道になっていて、そこを下り切って少し歩くと、待ち合わせをした駅がある。
「でも、駅はもう規制がかかっていると思うから……」
二十分くらいは歩くことになるかもしれない。そう言うと、財前くんは「ああ、平気やで」と、飄々とした様子で返してきた。
「ちょっと歩きたい気分やったし、こっからの道も何となくわかる。ここ真っすぐ行くと、多分、駅に辿り着く前に自分の家に着く。歩いて十分くらいとちゃうかな」
額に手を翳しながら財前くんが言うのに、「そうなんだ」と頷き、同じ方向を向いた。
「一度、こっちまで探検にしにきたことがあるから、」
その時の景色を確認するみたく、財前くんが周囲を見回した。
「探検?」
「ああ、引っ越してきたばっかの頃、ここら辺、桜がめっちゃ綺麗やって聞いて、片付けもまだ終わってへんのに夜桜眺めに来た」
あっちから坂を上ってきてめっちゃ疲れたと、財前くんが続けた。
「一氏さんと?」
坂道を上る財前くんの隣には、きっと一氏さんがいたのだと、そう思って尋ねる。財前くんと一氏さんが知り合いで、お互いの同居相手がお互いであることを知ったのはつい最近だというのに、この二人が一緒に暮らしているということが、どうしてか、私にはとても自然なことのように思えてしまう。
二人の共通点を私は知らないのに、不思議だなあって、そんなことを思った。
「財前くんの思い出には、いつも一氏さんがいるんだね」
一緒に暮らすほど仲が良いのだから、もしかしたら、それも当然のことなのかもしれない。
「……」
財前くんは、ひっきりになしに車が行き交う道路をしばらくの間見つめて、それから、「せやな」と小さな声で言った。
一氏さんは、花火大会、どうしたのかな。次にバイトで会った時に聞いてみよう。
そんなことを考えながら、財前くんの隣で大通りを走り抜けていく自動車の光を目で追いかける。
隣で青色の信号がチカチカと点滅しているのが、視界の端っこに映る。赤になれば、いずれ、この通りを挟む信号が、今度は青に変わる。そうしたら、おやすみなさいって言って、ここまで送ってくれてありがとうって言って、それで。
「……」
それで、いいのかな。
ピタリと、私たちの前を通り過ぎていく車が消える。それから数秒を置いて、横断歩道の信号が青色に変わった。
繋いでいた手を、離す。今度こそ、これで、おしまい。
「今日は、楽しかったなあ……」
声が震える。上手く喋ることが出来なくて、語尾は消え入りそうなほどに小さかった。
浴衣を着て、待ち合わせをして、二人で手を繋いで会場に行って、花火を眺めた。
頭を巡る景色が全て思い出になってしまったことが無性に寂しくなって、それだけで涙が零れそうだった。口元に手を置いて、それを耐える。
「ハネザワさんが……、」
青信号になっても前に進まない私を急かすこともなく、黙って隣に立ったままだった財前くんが口を開いた。財前くんの方に顔を向けると、視線がぶつかった。
「ハネザワさんが聞きたくなかったら、このまま信号渡ってくれてもいいし、そしたら、九月からまた同じようにするし」
それから、そう続けた。
「聞いてくれるんやったら、渡らないでほしい」
「……」
今、この道を渡れば。
そんな思いが頭を過る。でも。今日が、何もなかったことになるのは、とても寂しい。
「俺は、このまま誤魔化したくないし、ちゃんと話したい」
道路の先を真っすぐ見据えたまま財前くんが言う。
花火大会から帰りなのか、中学生くらいの女の子たちがきゃあきゃあと騒ぎながら、私たちを追い越し、信号を渡って行った。向こう側に行っても、楽しそうに笑う声が夜の街に響く。
青色の信号が、また、点滅を始める。
チカチカと。でも、渡ることはしなかった。完全に赤色になるのを待って、財前くんを見つめたまま言った。
「財前くんは、優しいね……」
「優しい?」
財前くんも私の方を向く。街灯の白い灯が、スポットライトのように私たちを照らし出す。夜だというのに、互いの表情がよく見えた。
「……だから、私、困らせちゃってるんだよね」
泣いたり、抱きついたり。花火大会を観に来ただけだというのに、財前くんからしたら、いい迷惑だってことばかり。せっかく一緒に来れたんだから、楽しいって思ってもらえるようにしたかったな。
「さっき、ごめんね」
泣きそうになるのを誤魔化すよう、えへへと笑う。
「別に、困ってへん」
財前くんは、でも、笑っていなかった。困っている顔もしていなかった。いつもと同じと言えば、いつもと同じ。いつもと同じように、私の話をちゃんと聞こうとしてくれるし、自分が考えていることをきちんと伝えようとしてくれる。
「優しいとかそういうのとは違くて、ハネザワさんが俺のこと好きって言ってくれたのは、ほんまに純粋に嬉しかった」
嘘を吐くこともしない。そういう人だから、嬉しかったというのも本当のことなんだと思う。
楽しくなかったってわけじゃないんだ。ちょっと、ホッとした。
「俺は誰かさんと違って……、誰にでも優しくなんて出来ひん。愛想も悪くて、あんまり気も遣えんし、人を傷つけることを平気で言う奴やから」
「うん……」
「せやから、今も、平気な顔して言うけど」
唇を引き結んで、それで、何か覚悟を決めるみたく息を吐き出して。
「ハネザワさんの気持ちには、応えられへん……」
私の目を、真っすぐに見たまま、財前くんが言った。
「……」
そのまま泣き崩れるとか、逃げるとか、そんなことは出来なかった。ただ、黙って、呆然と、それを受け入れるしかなくて、でも、どうしてか、安心していた。ちゃんと聞けて、今夜をなかったことにしなくてよかったと、そう思った。
「ごめん」
そういう安堵と、何かが静かに終わりを迎えようとしている悲しさが、涙となって瞳から落ちる。口元にあてた指から手の甲へと、涙が伝い落ちていくのを感じながら、一つ、頷いた。
分かっていたの。でも、好きだったの。
財前くんみたいに優しい人が、誰かを愛して、誰かに愛されていないわけがないって、いつも心のどこかで思っていた。分からないフリをしていたけど、どこかで気付いていた。分かっていた。でも、その『誰か』から財前くんを奪いたかったわけじゃない。ただ。私も、こういう優しい人に恋をして、好きだと言われたかった。そんな恋が、したかった。
「……花火大会、誘われた日からずっと考えてた。もし、ハネザワさんが彼女やったらどんな毎日を過ごすんやろって」
泣き顔を見せる私に、財前くんは眉を寄せた。
「俺、付き合ってる人がおって、ずっと話してなかったけど……、ごめん」
首を横に振る。財前くんの台詞じゃないけど、財前くんが謝る必要なんて何もない。私が、ただ、勝手に好きになっただけ。
「喧嘩ばっかしとるけど、なんやかんやで四年付き合ってて、惰性とか妥協とか、そう言われるとそうなのかもしれへん。もっと周りを見れば、今よりも楽しかったり、幸せになれる人生もあって、俺が、そういうのを探す努力を怠ってきただけなのかもしれへん。せやから、ハネザワさんに会って、花火大会に誘われて、初めて、それ以外の人生を考えた」
財前くんが、俯きがちに目を伏せた。
「うん……」
「ハネザワさんは、お世辞やないで、可愛いし、性格もよくて、明るくて、一緒にいると楽しいし、一緒にいると落ち着く。あの人と出会う前に、ハネザワさんと出会っていたら、俺はハネザワさんのことを好きになってたと思う」
こんなに沢山のことを話す財前くんを見るのは初めてかもしれない。滲む視界に浮かぶ財前くんを見つめれば、一生懸命、私のことと、『好きな人』のことを考えているのが伝わってくる。それが分かるから、余計に、胸が苦しかった。
「せやけど……」
静かに、ただ静かに、音もなく涙が落ちていく。好きな人の幸せを純粋に願えればいいのに、そこに自分がいないということを切なく思う。恋は、とても苦しいものだということを実感する。
「もし、ハネザワさんと出会った後に、あの人に出会ったら、俺はやっぱりあの人のことを好きになると思う。全然、ほんまに、可愛くなんてないし、捻くれてるし、テンションの上がり下がりは激しいし、一緒におると面倒で疲れることばっかやけど、ほんまに、なんでやろうな」
しゃーないなあって。
私が好きな、あの顔で、目を伏せたまま財前くんが柔らかく笑うのが分かった。春の日、あの日、初めて見た財前くんの笑った顔がスライドショーのように頭を流れていった。財前くんも恋をしていたんだなって、今ははっきりと分かる。この人も、苦しくても辛くても、一緒にいる時間を思い出すだけで、幸せに笑いが零れるような素敵な恋をしている。
「……」
大きなトラックが、二人の横を勢いよく通り過ぎていく。それを待って、財前くんが口を開いた。
「きっと。ハネザワさんと同じ時間を過ごしても、それがどんなに楽しくても、この世界のどこかにあの人がいるってことを知っていたら、俺は。俺は、あの人に──」
静かな声が、だけど、確かに聞こえる。
「今日も明日も、世界でいちばん会いたい……」
私が、好きになった人。
その瞳に映るのは、いつも私ではない別の人だった。その人のことを羨ましいと思う。こういう気持ちも含めて、私は財前くんに恋心を抱いていた。
信号が、また青に変わる。
「さっき、渡っておけばよかった……」
青信号の間に。
そう、ぽつりと呟く。
「聞きたくなかったなあ……」
スンと、鼻を啜って、震える声で言う。
どんな顔をしているのか自分では分からないけれども、多分、笑えていたと思う。財前くんは困ったような顔をして、「好きになってくれてありがとう」と、私に言った。
私も。好きなれて、よかったよ。
なんて、まだ、そんなかっこいいことは言えないけど、でも、一人で転ばずに横断歩道を渡ることは出来る。浴衣の裾を揺らし、下駄をカランコロンと鳴らしながら、道路を渡る。その真ん中で一度、振り向く。
「気ぃつけや」
まだそこにいる財前くんが、右手を小さく横に振った。同じように、私も手を振り返した。それで、また前を向く。道路を渡り切っても、振り向くことはしなかった。振り向かず、真っすぐ、家を目指した。こんな顔で帰ったら、家族に心配されちゃうから、しばらく家には入れないけど。
「やんなっちゃうなあ」
大通りから少し離れたところで、立ち止まる。立ち止まったら、たちまち溢れ出した。
財前くんは──。
夜の空に顔を向ける。上を見ても、涙はこめかみを伝い落ちていく。静かに夜空を照らす月が、どんどん、滲んでいった。
恋が、終わる瞬間が、こんなにも切なくて胸が痛くなるだなんて知らなかった。恋が、こんなにも楽しくて、苦しいものだなんて、財前くんに出会わなければ、私は知らないままだった。
胸に手をあてる。
輪郭がぼやけた月を見上げたまま、いつか、この夜が思い出になる日のことを想う。今日、零した涙のことも忘れて、また誰かに恋をする日がくるのかもしれない。それでも。その時が来たとしても、私はあの人のことを忘れなくて、忘れられなくて、夏の夜に聞く花火の音とともに思い出すのでしょう。
かっこよくて、不愛想だけど人の話を聞くのが上手で、イギリスの音楽が好きで、一つ年上の先輩とルームシェアをしていて、繋いだ手が冷たくて、でもすごくすごく優しくて、大好きだった。
「……財前くんは」
口を開く。名前を呼ぶ。耳の奥に残る、花火の残響は、しばらくの間、消えてくれそうにない。
財前くんは、十八歳の私が恋をした、きっと、ずっと、忘れられない、素敵な男の子です。