財ユウ+女子 「財前くんは 10」
夕飯を買うことをすっかり忘れているのに気が付いたのは、マンションまであと少しというところだった。ビーチサンダルは壊れているし、家は目の前だし、もう今日はええやろって思いながらも、結局は片足を引きずってコンビニまで戻って、特に食べたくもないハムとチーズがレタスが挟まったサンドイッチを買って、またトボトボとマンションまでの道のりを歩いた。
コンビニがある通りを少し歩いただけで、駅前の賑わいは一気に消え、住宅街の静けさが辺りを包む。
ずっしりと重たく感じるコンビニの袋をぶらぶらと揺らし、気まぐれに鼻歌を歌う。壊れたビーチサンダルで歩くことにも大分慣れてきた。コツを掴んだのかもしれない。
「さすが俺やなあ」
ふふんと、得意げにビニール袋を一回転させてみる。
「……って、うわ」
なんて調子に乗ったら最後とばかり、また転んだ。袋から飛び出した、透明のビニールに包まれたサンドイッチが道路の上をテンテンと弾んだ。二回目ともなると、そのタイミングを身体が覚えていたのか、コンクリートに思い切り膝を打ち付けるようなことはなく手の平を少し擦りむく程度で済んだ。
「……うう」
何をしとるんや。自分に呆れてしまって、忘れかけていた膝の痛みも思い出して、そしたら手の平に新しく出来たちっちゃな擦り傷すら痛くなってきて、また視界が滲んだ。
「いたい……」
夕飯なんて買わず、あのまま大人しく家に帰ればよかった。一度ならず二度も転ぶだなんて、泣きっ面に蜂というやつだ。小春とケンカして泣いて、そのうえ転んで、そんな時に財前に言われたことがある。「こういうの泣きっ面に蜂って言うんすよね」と。憎たらしい口調でそう言うくせに、「何泣いてるんです?」って、次には俺の隣にしゃがんで聞いてきた。
コンクリートを見つめたまま、蘇る思い出に涙が落っこちる。
「何泣いてるんです?」
ああ、そう。こんな声やったなあ。あの頃は気づかなかったし、違いもよく分からなかったけれども、財前が俺に「何泣いてるんです?」って聞いてくる声は小さい子に話しかけるみたいに穏やかだった。あの頃はアイツの甥っ子もまだ小さかったから、同じノリやったんやろうなあ。
「はあ、いよいよ幻聴か……」
やれやれと、よろめきながら立ち上がる。転んだ拍子にどこかに飛んでいってしまったのか、壊れたビーチサンダルが見当たらない。どこにあるんやろうと辺りを見回せば、道路の上を転がったサンドイッチがすぐに視界に入った。ケンケンしてその近くまで行ってサンドイッチを拾い、空っぽのビニール袋に入れた。
「転んだんですか?」
また聞こえてきた声に、前を向く。十メートルくらい先にある十字路の、その向こう側。
「膝、ズル剥けで血まみれになってんで」
ゲエって顔を、俺に向けてくる。
「なんで……?」
街灯の白い明かり照らされるその姿に、勝手に足が前に出る。身体が勝手に動く。膝が痛いのとか、サンダルが壊れたことか、片足だけ裸足になってしまっていることとか、全部頭から飛んで、衝動に突き動かされるまま、十メートルの距離を全力で走っていく。
これで終わりなんや。
荷物を取りに戻って来たのか、いよいよあの家を出ていくのか、そう仕向けたのは俺だし、ハネザワさんと花火大会に行って楽しかったんかな、俺に愛想をつかしてたもんな、財前がそう思うなら、そういう結論に至ったなら、俺は全然、全然、大丈夫で、いつも通りの顔で、「それがええと思う」ってその選択を受け入れて笑って「ほなさいなら」って言う。
笑って、どうってことないって顔して、心配かけないように、未練なんてないって声で。
「うわっ」
短い距離を走り抜けた勢いをそのままに飛びついた。突然の衝撃に少しだけよろついた財前が、でも、何とかその場に踏みとどまった。
これで終わり。これで終わり。
ちゃんと離れる。受け入れる。そう思っているのに、分かっているのに、そうしたくないって、そんなのは嫌やって、絶対に離したくないって、目の前にある財前の身体にぎゅってしがみつく。矛盾している。いつも、いつも。どうしたらいいのかが分からない。
「裸足て……、何をしてきたんや」
財前が呆れ気味に尋ねてくるのにも、答えることが出来ない。頭の中がぐちゃぐちゃで、言葉なんて一つも出てこない。ただただ、涙が溢れてくるだけだ。
「ハア……、泣くなっちゅーの」
財前が盛大な溜息を吐いた。
「……アンタのせいでこっちはしんどい思いしてきたんやからな」
抱きつく俺をそのままに、財前が文句を口にする。
「……うん」
「人のこと傷つけるの、ほんまにきついんやからな」
その首元に額を寄せ、コクコクと頷き、鼻を啜る。泣きたいのは俺よりも、コイツの方なんやろうなって、そんなことは俺でもわかるけど、でも涙が止まらない。言わないといけないことが沢山あるはずなのに、今日の俺は本物のポンコツだ。
「ごめんなさい」
子供の頃みたく言う。子供の頃みたく、というか、子供そのものだ。子供だったらよかったけど、俺はもうすぐ二十歳になる見た目はもう大人でしかない立派な男子だ。なのに、みっともなくて恰好悪い。
「子供か」
財前も同じことを思ったのか、そんなことを呟いていた。それから、俺の背中をあやすみたくトントンと摩って、そのまま抱きしめた。もう、こんな風に抱きしめられることなんてないと思っていた。
「う……、うう……」
そう思ったら、また溢れ出した。
「泣いてるとこ、初めて見た」
財前が言うのに、「そんなん嘘やろ」とくぐもった声で返す。泣き顔なんて、今も昔も、数えきれないくらい晒している。今更だ。そう思うのに、財前は「初めてですわ」と繰り返す。
「……?」
「俺のせいで泣くとこ、初めて見た」
ちりんちりんと、自転車のベルが夜の道に響く。男同士抱き合う俺と財前のことをどう思ったのか、どうも思わなかったのか、細い車輪が道路を滑る音は、すぐに遠ざかっていった。
「ユウジ先輩は、俺のせいでは泣かないって思ってたから、……ちょっと予想外やった」
ごめん。
財前がそう続けるのに、その肩口に額を擦りつけるよう首を横に振った。俺が勝手に泣いてるだけだ。勝手に傷ついただけだ。でも、多分、俺は財前が思っているよりも、財前のことで簡単に泣ける。自慢にならないけど。
「この一週間、めちゃくちゃ悩んだんや。アンタが思うよりも、俺はアンタとのことで悩んで考えとるし、その上で、今、東京でアンタと暮らしとるんや。勢いとかやない、俺はそんなアホとちゃう」
泣き続ける俺をそのままに、財前が話し出す。
「うん……、うう、」
鼻をずずっと啜る。何だか間抜けな音だ。シリアスな雰囲気が台無しだ。
「……色々考えたけど、色んな可能性を想像してみたけど、俺はユウジ先輩がええなあって思う。可愛くないし、柔らかくないし、ガサツやし、そもそも男やし、なんか色んなものに逆らってる気はするし、めんどい方を選んでる気もするけど、ユウジ先輩がええなあって、何を天秤にかけても思う。せやから、ハネザワさんとは付き合えない」
もう、本当に、アホだ。バカだ。お笑いなんて興味ないって言ってたくせに、こんな結末を選ぶだなんて、コイツも芸人みたいなもんや。心の中で悪態めいたことを吐く。嗚咽ばかり零れて、何も言葉にならない。
「ユウジ先輩?」
何も言わない俺を呼ぶ声に、焦れた様子はない。それに甘えて、しばらく泣いて。
「……俺が、財前を絶対に幸せにする」
それで、ようやく出てきた一言は、信ぴょう性の欠片もない。こんなところでお笑いに走りたくはないけど、大真面目にこんなセリフを吐く俺こそがギャグだ。だって、一体どこに、俺がコイツを幸せに出来るという保証があるというのだ。ただ、一生懸命、そばにおれたらええなあって、そういう希望を言葉にしたら、そうなっただけだ。
「まあ、幸せにするとか、ほんまに、人の気持ちをズタボロに傷つけといてどの口が言うんやって感じやけど」
そう言って少ししてから、財前が夜の空に顔を向けたのが分かった。
「せやけど、いいんです」
星も何もない、花火の名残もない、静かな七月二十日の空を見上げて財前が言う。互いの体温で熱くなった体に、じわりと汗が滲んでいる。
「……ユウジ先輩と付き合うってなった時、先輩のことも、俺のことも、俺が全部まとめて幸せにするって決めてたから、アンタはそのままでいいんです」
昔のこと過ぎて忘れてたけど。
入り込んでくる財前の声は、ちょっとだけ掠れていた。なんで、そんなことを言うのか、アホな俺には分からなくて。だって、財前がここにいるだけで、こんなにも、こんなにも嬉しくてたまらないのだ。俺が嬉しくなった分、悲しくなる人がいるのに、それが分かっているのに、俺は本当に薄情で、最低だ。
「アホや……」
「俺もそう思います」
財前が、言う。
「アホや……、財前のアホ、俺、ひどい奴やからな、ハネザワさんみたいに性格よくないからな」
「そうかもしれないですね」
背中を抱いていた財前の手の片方が、今度は俺の後頭部を撫でてくる。
「俺は……、だって、」
女の子で、可愛くて、優しくて、性格も良くて、みんなに好かれて、ちょうど財前とお似合いで、財前のことを幸せに出来る子で、それで、そんないい子で、俺が持っていないものを全部持っていて、俺が与えられないものを全部与えられる。
柔らかくて可愛くて甘くて、とても魅力的なものを沢山、俺が逆立ちしたって何をしたって手に入れられないものを沢山、沢山、持っている、あの子のことが。
「うん、」
財前の背中に回した腕の力を、ぎゅっと強くする。
「俺は……」
ハネザワさんの笑顔が浮かぶ。いつも、甘くて、初々しい女の子の匂いがする。
「あの子のことが、大嫌いやった」
そう言うのと同時、ぼろぼろと止めどなく零れ出す涙が、財前の肩のあたりにぽたぽたと落っこちた。壊れた蛇口みたくだばだばと溢れる涙をそのままに、下唇をきつく噛み締める。う、う、って、情けなくてしみったれた声は、夏の夜にはまるで似合わない。
「嫌いやったんや……」
震える声で小さく繰り返すと、慰めるみたく、財前の手が後頭部をとんとんてしてくる。
こんな感情、持ちたくなかった。当たり前のように、正しく存在しているものに嫉妬するような醜さを持ちたくなかった。惨めになりたくなかった。惨めだと思われたくなかった、可哀想だと同情されたくなかった。優しくて可愛い子のことを心から応援できる人間になりたかった。ちゃんと、好きな人の幸せを一番に考えることが出来る人間でいたかった。みんなから応援されて祝福されて、そういう幸福をあげたかった。あげられる人間になりたかった。
そういう人間になって、一緒にいたかった。
「アンタが誰を嫌いでも、俺はアンタのことが好きですよ」
財前は、それだけ言って、あとは何も言わなかった。何も言わず、俺が泣き止むのをただ静かに待ってくれた。
何泣いているんです?
って俺の隣にしゃがみこんで、地面の線を作るアリの行列を眺めながら、時々、泣いてる俺に茶々を入れながら、俺が泣き終わるのを待ってくれていた。まだ中学生だった。付き合っていなくて、まだ好きなのかどうかもお互い分かっていない、そんな頃があった。
あの頃から、あんまり変わってへんなあ。って、そう思った。
*
塾帰りと思われる小学生たちが、自転車のベルをうるさく鳴らし、ついでに「ひゅーひゅー」なんて何の捻りも面白みもない冷やかしを俺たちに投げてきて、ようやく、俺の涙は引っ込んだ。俺を女と見間違えたのだろう。「東京のガキはおもんない」って、鼻を啜りながら言えば、「今のアンタの顔に勝てる面白さはない」と、俺の顔を見て笑った。まったくもってひどい奴だ。
俺が吹っ飛ばしたサンダルを二人で探して、すぐに見つかって、ついでにそれが財前のものであることもすぐにバレて、怒られた。
「いつも思ってたんですけど、そこ歌詞違いますよ」
壊れた青色のビーチサンダルと、サンドイッチが入ったビニール袋を持つ俺を背中に乗っけた財前が言うのに、鼻歌を口ずさむのをピタリと止めた。
「え、嘘や」
まさか裸足で帰るわけにもいかないし、壊れたサンダルを履いて帰るのも危ないしと、「十分で百円やからな」とケチくさいことを言いながらも、財前がおんぶしてくれた。重たい重たいと散々文句を言う財前に、鍛えた方がええでとしれっと言い返す。そんな応酬すら、何だか懐かしい。
「嘘やないわ、そんな英語ないやろ」
財前が言うのに、「あるやろ」と言い返す。「ないわ」と返ってくる。心地いいテンポで進む会話と、ゆるやかに吹く風にうっとりと瞼を落とす。このまま、ウトウトと眠れてしまいそうだった。結局一日中バイトもしてたし、わんわん泣いたから頭も痛いし、いつもより疲れていた。泣き疲れって、赤ん坊みたいやなって、自分のことながら思う。
「眠たい……」
そう呟くと、財前が「もう着くやろ」と素っ気なく言った。眠気を散らそうと、脚をぶらぶらと揺らした。
「あ、」
すると、財前が何かを思い出したような声を出した。
「なに?」
「俺、今日誕生日やったわ、まだお祝いしてもろてへんなあ……?」
どこか意地悪な口調で聞いてくる財前に眠気も吹っ飛ぶ。考えてはいた。プレゼントのこと。何を買うのかも、どこで買うのかも、ちゃんと決めていた。ただ、色々とあって、すっかり忘れていた。忘れていたというか、なんというか。
「……ハッピバースデー、トュー、ユー」
ひとまず誤魔化すべく、バースデーソングを口ずさんでみる。
「ハッピバースデー、ディーア、ひーかるぅ」
ちょっと、抑揚もつけてみる。ついでに、ビブラートってやつもつけてみた。自分でも誰の真似かは分からないけど、昔のアメリカのバラエティ番組とかに出てきそうなやたら体格のいいおっさんを彷彿とさせる歌い方を試みた。なかなか上手く出来たと思う。
「ぶっ、」
財前が噴き出す。こんな簡単なことで笑わせられるんやな。って、今までもずっと俺たちはこんなだったはずなのに、今になって気づく。
「……わ、ウケた」
ちょっと感動して、思わず呟けば、財前は「ウケてへん」と咳払いを一つしていつもの口調に戻った。
「プレゼントなあ、プレゼントは、えっと、せや、新しいビーチサンダル買うたるわ」
ちゃんと考えていて、財前が上京する俺にくれたもののお返しに、俺も指輪でも買おうかなって考えてたんや。って、それを言うのが、何となく気まずくて、照れくさくて、つい誤魔化してしまう。
「はあ、やっぱりなあ」
「……?」
「俺の指に何もないのがいけないんとちゃいます?そろそろ、俺ももろてもええんとちゃいます?」
財前が仕方ないかあ、これしかないかあって口調で言った。
びっくりして、財前の背中の上で固まる。まるで考えていたことが伝わっていたみたいだ。
「ユウジ先輩?」
返事をしない俺に、財前がちらりと後ろを見てくる。
「う……、そんなの、したら、俺のみたいやん……」
俺もそれがいいと思っていたんや。そう言おうと思っていたのに、言うより先、財前の薬指に俺があげた輪っかが嵌っている絵面を想像してしまい、慌ててしまう。
指輪を渡そうとは思っていたけれども、冷静に考えると大変なことだ。財前くんは俺のです!って、そう主張しているみたいだ。
「ああ、まあ……、そういう主張ですからね」
財前が、どうってことないように言った。
「そうなん?!」
ということは、財前からもらったアレもそうなのか。独占欲なんてありまセーンって顔しているくせに、そんなことを考えていたのか。思いがけず知ってしまった財前の一面に、驚きと、心臓の裏側をくすぐられたみたいな気分になる。
「そうやったんや……」
「今頃気づきます?」
財前がやれやれとばかり首を振った。
「はあ、へえ、俺は財前くんのものやったんやな……、へえ」
胸がどきりと鳴る。愛情表現の一つだとは思っていたけど、その意味を改めて口にされると心臓が変な風に脈を打つ。
独占欲を持たれていたという事実に、今度は落ち着かない気分になってくる。それを指にくっつけて、普通に生活をしていた自分が。
「は、はずかしい……」
急に恥ずかしくなってきて、その背中に頬っぺたをくっつける。
「……いきなり照れないでもらいます?」
ふと見てみれば、財前の白い首筋とか耳の裏が少し赤くなっている気がした。暗いし、見間違えかもしれないけど。
「ふふ……」
付き合い始めて、もう何年も経つのに。
それなのに、いつも、こうやって、お互いの気持ちを知るたび恥ずかしくなったり、ドキドキしたり、照れたり、嬉しくなったりする。やっぱり、俺たちはちょっとおかしいのかもしれない。おかしくて、いつも、笑ってしまう。
「何がおかしいんです?」
恥ずかしいと言いながら、今度は笑いだした俺に財前が尋ねてくる。
財前のその口調も、照れているばかりではない、どこか楽しげだ。夏がこれから始まることを告げるかのよう、その熱を孕んだ風が前髪を乱していく。
築二十年の冴えないマンションまでは、あと少し、もうあと一分もしないうちに到着する。
「いろいろ」
今日の夕飯はハムとチーズとレタスが挟まったサンドイッチだけだけど、誕生日の日の夕飯としては最高に冴えないメニューだけど、せやけど、御馳走は(大したものは作れへんけど)また明日に作ればいい。桃も買ってこよう。指輪はいつ買いに行こうか。一人で選んで買おうと思っていたけれども、ちょっと、やっぱり、居た堪れない気分になりそうだから、財前と一緒に行こう。財前は、明日はバイトやろうか。今日が終わっても、明日も明後日もある。
俺たちは、今日も明日も、明後日も、来週も来月も来年も、一緒にいたいなって思う。そうなるように、俺だって財前のことを笑わせて楽しませるくらいのことはしたい。
そんなふうに。
明日も一緒に過ごしてケンカして、笑って明後日はドキドキしたり、もっと好きになったりして、そんな風にずっと、ずっと。
俺と財前くんは、俺は財前くんと、ロマンチックとコメディを繰り返しながら、一緒にいたいんです。
おしまい