財ユウ+女子 「財前くんは 6」
ただのクラスメイトやからな。
携帯が、テーブルの上でガタガタと震えた。液晶に表示されたメッセージを見て、溜息を吐く。そういうことやないって心ばかりが焦って、メニューの一ページ目にあったランチセットを内容も見ずに注文した。
「ユウジ、どうしたん?」
どこか心配そうな表情で、謙也が聞いてくる。財前が俺の体調を疑うような発言をしたせいだ。
「いや、何でもない」
お人好しな同級生が「ほんまかいな」と目を細めてくるのに、「誤診やで、忍足センセ」とからかい混じりに返す。
「まだ先生やないし、国試もまだまだまだ先やし」
心配してんねんで。と、謙也は顔を顰めた。
「近所に来たからって勢いで誘ってしもたけど」
それで、今度は困ったような頼りない顔をする。謙也は昔から変わらないなあと、それを見て思った。
朝起きて、まだ寝ている財前を置いて学校に行って、課題の残りを仕上げて提出して、晴れて夏休みやーと大きく伸びをしたところで、「今近くに来てんのやけど」と、謙也から連絡があった。中高の友達の中でも数少ない『上京組』である謙也とは、昔と変わらず付き合いがある。去年は、お互い上京して一人暮らしを始めて慣れない生活に戸惑うことが多い一年だったから、あとは家もそこそこ近かったから、よく悩み相談という名のバカ話をしたものだ。同じ言葉で話せる友達というものが、知らない土地にあってはいかに有難い存在であるかを知った。
「ほら、元気やって。ピンピンしとるっちゅー話や」
財前が上京してきて、俺も引っ越すことになって、この街で二人で暮らすことになってからは、謙也と会う回数は減った。それでも、なんだかんだで一か月に一回は会っている。財前も一緒に三人で会うこともあるし、二人だけの時もあるし、俺抜きで財前と謙也で会っていることもある。相変わらずの関係だった。
「そんならええけど、風邪やなくても、悩みとかあったら言うんやで、俺とお前の仲やろ」
謙也が真面目な顔を向けてくる。
「おうおう、頼りにしてんで、忍足センセ」
笑って頬杖をつくと、謙也は「センセはやめや」とむず痒いような顔をした。
謙也は、いい奴だ。
中学の頃から変わらず。俺のことも、こうして本気で心配してくれるし、何か話せば親身になって相談に乗ってくれる。でも、財前とのことは謙也に話していない。
「……まあ、せやけど、ユウジと財前がルームシェアとか、どうなることかと思っててんけど、上手くやっとるんやな」
だから、謙也からすれば、俺と財前の共同生活は寝耳に水で、「なんで?」と、それを話した時の第一声はそれだった。なんで?って言われても、色々と揉めたけど最終的には財前に押し切られた、とは言えず、「利害の一致」とだけ答えた。利害の一致ってなんやねん、と自分でも思ったけど、謙也は「はあ、なるほど」と納得したようなしていないような、そんな様子で頷いていた。謙也は根っからのお人好しでいい奴だったから、「よう分からんけど、仲良く暮らすんやで」とか何とか、笑って言ってくれて、引越も手伝ってくれて、おまけに引越祝いにとお古のスピーカーと、引越そばも奢ってくれた。
「うーん、相変わらず喧嘩ばっかやで」
「ハハ、お前ららしいな」
先に運ばれてきたオレンジジュースにストローを差しながら謙也が、どこか懐かしそうに笑った。
あの家で、謙也にも組み立てるのを手伝ってもらった財前のベッドで、俺らセックスしてんねんで。
そう言ったら、謙也は今と同じように笑っていられるのだろうか。
「ん?どした?」
愚問だ。そんなことを告げたら、謙也はその笑顔を消して、前と同じように接してはくれなくなるのだろう。いい奴だから、『そうしよう』という努力はしてくれるかもしれない。でも、俺と財前のことを見る目は変わってしまうのだと思う。
「……」
ふと頭を過る、小学生の頃の記憶。あの時、取っ組み合いのケンカをした相手の瞳が、謙也の瞳に重なった。
ああ、嫌やなあ。
そう思う。あんな瞳を謙也から向けられる財前の姿を見たくない。もし、そういう時が来たら、軽蔑されるのは俺だけがいいなと思う。俺が、巻き込んだんだ。
「ユウジ?」
「あ、ああ、うん、何やったっけ?」
「やから、財前とユウジのルームシェア、上手いこといっとるんやなっなっちゅー話や……」
グラスの中の氷をぐるぐると掻き回す音が小さく響く。
「うん……」
「七月二十日、」
何か言おうと口を開いたのと同時、後ろから聞こえてきたハネザワさんの声に、ぎょっとして固まった。謙也に向けていた視線を、テーブルに向け左右に泳がせる。
「ん?」
俺の様子に、謙也が眉を寄せる。謙也には、ハネザワさんの声は聞こえていないのだろう。もっとも聞こえていたところで、「七月二十日」と、その発言で俺と同じような反応はしなかったと思うけど。
「なんや?」
俺が何に反応して、一人気まずげに目線を泳がせているのか、まるで見当がつかないと、謙也が首を捻った。
全ての意識が、無意識に背中に集中する。ハネザワさんが、次に何を言うのかが手に取るよう分かる。テーブルの上に置いた手を膝へと降ろし、その時を待つよう、ぎゅうっと握った。
「七月二十日、私と花火大会に行きませんか?」
どうしよう。
心臓が変な風に脈を打つ。ようやく、俺が何を気にしているのか、に気づいた謙也が、合点がいったとばかり目をパッチリと開いた。
「あの、えっと、この近くで毎年やっている花火大会があるの。規模はそこまで大きくないんだけど、すっごく綺麗だから、財前くんと一緒に見たくて……」
息が、詰まる。いつもどんな風に、息を吐き出していたんだっけ?
「……これって、俺らが聞いてたらあかんやつ?」
謙也の問いかけに何て返すのが正解なのか。一瞬だけ、俺以外の人間全ての時間が止まってしまえばいいのに。そうすれば、上手い案が思いつくかもしれないのに。
「っちゅーても、もう注文してしもたし、勝手に帰るわけにもいかんし、これで怒られるの理不尽やな」
出来るだけ聞かんようにしとこ。そう言って、まるで関係のない、今年のロックフェスについて話し出す謙也に、「せやな、」と何とか頷く。謙也の言う通り、俺らは俺らでどうでもいい話をしていた方がいいのは確かだ。
出来るだけ、意識が後ろにいかないよう、謙也との会話に集中しようとした。
つもりだった。
でも、財前が「その日、」と、そう言った瞬間、音楽フェスの話が頭から飛んだ。謙也が何やら楽しそうに話し始めるのも、もう耳に入ってこなくて、財前の次の言葉を考えて叫び出しそうになる。息ができなくて苦しいのに、今にも叫び出しそうなほど、『何か』が胸元までがせり上がってきている。
心臓が止まりそう。ダメだ、イヤだ。なにが? わけがわからない。
「その日は……」
財前の口から次に出てくる言葉を俺は知っているけど、それは、だけど。
その日は先約があるから。そう言おうとしている。約束の相手は俺で、それが理由でハネザワさんと財前が花火大会には行けない。
ちがう、ちがう、ちがう。誰かが否定する。
分かってる。俺やない。
その日を財前と一緒に過ごすべきなのは。そう思った瞬間、身体が勝手に動いた。
「ええやん、花火!」
って、なんで立ち上っとるんや、俺。
「……」
しかもいきなり。おかしい人やん。
勢いよく席を立ったせいで、目の前のコップがテーブルの上を滑るよう揺れた。
振り向いた先、財前とハネザワさんは、驚いた顔を俺に向けている。きっと、後ろにいる謙也も驚きに目を丸くしているのだろう。俺だって、自分の行動に驚いている。
「……なに?」
一瞬の後、財前が怪訝そうな顔で俺を見上げて言った。
「え、あの……」
俺を見る、ハネザワさんの表情にも動揺が浮かんでいる。
「あー……、えーと」
ここで俺がすべきことか、言うべきこととか、混乱しているくせに、どこか冷静さが残る頭で整理する。
「財前、その日誕生日やろ、花火行ったらええやん、ナイスタイミングやったな」
何を言いだすんや。って、財前が信じられないとばかり顔を顰めるのに気づかぬふりをする。ハネザワさんが、財前ではなく俺の方に顔を向けていてくれてよかったと、そう思いながら。
「な!財前!」
無理やり、強引に同意を求める。お願いやから、うんって言えって、何でこんなに必死になるのか分からない。でも、そうせずにはいられなかった。
「行くやろ?」
重ねて尋ねる。何だか、縋るみたく。
「あ、あの、無理だったらいいの」
ハネザワさんが財前へと顔を向ける。
「……」
パッと、顰め面を元に戻した財前が俺を見てくるのに、断ったらあかんって、首を横に振った。財前は俺の仕草に一瞬だけ俯いて、でも、すぐに顔を上げた。
「……二十日、空けといたらええの?」
それから、そう言った。
その時、静かに。とても静かに、財前が何かを呑み込んだのが分かった。自分から花火大会に誘っておいて、それを反故するようなことを言い出した俺に対する、苛立ちとか不信感とか、多分、そういうものを。
「え?」
さすがにこの場で俺を責めることも出来なかったのだろう。瞬きと同時、俺から視線を逸らし、今度はハネザワさんに視線を向けた。そう仕向けたのは自分自身なのに、苦しくなる。
「花火大会に行こうって話やないの?」
ちょっと驚いた顔をしてるであろうハネザワさんに、財前が頬杖をついて言う。女の子と話す時はこんな顔になるんやな。こんなにも近くで、財前が同年代の女子と話している姿を見るのは初めてだった。いつもと変わらないと言えば変わらないけれども、男相手の時とは異なる、どこか気を使うような態度に胸がじくじくと痛んだ。
「……うん、っちゅーわけで、ハイ、どうも、お邪魔しました……」
ここまで来たら、俺はもう用なしだ。
俺のことなどまるで見ようとしない財前をチラと見て、それから、ハネザワさんを見て、ちょうど上を向いたハネザワさんと目が合うのに笑顔を作って、ようやく自分の席へと腰を降ろした。
「いきなり立つからビックリしたわ」
事の成り行きを座って眺めていた謙也が声をかけてくるのに、「いや、すまん」と返し、まだ口をつけていなかった水を一気に飲み干した。身体が、冷たく冷えていく。
「お待たせいたしました!」
タイミングよく運ばれてきた料理に、ホッと息を吐く。
「あの二人、ええ感じやったんやな、やっぱり」
ハンバーグが乗っかる皿を挟み、謙也が小声で話しかけてくる。ハンバーグなんて頼んだんやっけ?と、そう思いながら「そうやな」と曖昧に返した。
「ハネザワさんやったっけ、めっちゃええ子そうやし、可愛いし、アイツも抜け目ないな」
「声でかなってんで、聞こえたら怒られるで」
後輩の恋を楽しげに見守る謙也を真似して、俺も楽しそうな顔を作った。こういうのは得意だ。
「あ、やば」
口元を押さえて、しまったって顔をする謙也に「怒られるやつや、俺は知らん」とケラケラと笑った。
まったくもって、謙也の言う通りだ。誰が見ても、ハネザワさんと一緒にいるのが幸せであることは明らかだ。ハネザワさんと付き合いたいと思う男は多くて、その期待通り、ハネザワさんと付き合ったらきっと楽しい。人の目を気にする必要もないし、堂々と街の真ん中で手を繋いで、かわいくじゃれ合うことも出来る。そうして、狭い教室で異質なものを厭う視線を向けられることもなく、誰もに、幸せそうな二人だなって羨ましがられる。
そっちの方が、正しい。
「……ところでさ」
後ろから聞こえてくる会話が怖くて、聞きたくなくて、殊更大きな声で謙也に話しかけた。
*
店を出たのは、俺らの方が早かった。人あたりよく愛想のいい謙也が二人がいるテーブルに軽く挨拶をする後ろで、俺も二人に小さく手を振った。ハネザワさんの表情は明るくて、目が合った瞬間、「ありがとうございます」って元気な声で言われた。何に対する感謝なのかって、そんなのは分かりきっている。
財前と花火大会に行くことを、俺が後押ししたからだ。
財前は普段と変わらぬ無表情で、謙也と、そして俺に「おつかれっす」と、どこか機械的に言うだけで、あとは何もなかった。目も合わなかった。
怒っているんだろうな。
それは分かる。でも、仕方がない。これはどうしようもないことなんだ。
部屋に戻ってからも、そんなことばかりをぐるぐると考えていた。夏の夕暮れでオレンジ色に染まる部屋の天井が、ずっと視界を埋めていた。付き合い始めた頃から、ずっと考えていたし、覚悟も決めていた。その瞬間をいよいよ迎えようとしている、ただそれだけのことだ。
ガチャ、という音が玄関の方から聞こえてくるのに、ゆっくりと、目線だけをそちらに向けた。足音が近づいてきて、少しの距離を置いて止まる。
「クーラーつける時はリビングのドアは閉めるって決めたやろ」
呆れを隠さない声色に、そっと、視線を上げた。
「……おかえり」
仰向けのまま言ってみたところで、返事はない。
俺を見下ろすその表情は、普段とあんまり変わらない。ポーカーフェイスって、こういうことやなと思う。
「言い訳、ある?」
寝転がる俺を見下ろしたまま財前がポーカーフェイスを崩さず言った。
「……そんなんない」
容赦無く差し込んでくる夕焼けが眩しくて目を細めながら返す。
「最っ低なことしてんで。それは分かっとる?」
その白い肌を夏の夕焼け色に染めた財前が続けた。
「あの子、俺のこと好きなんやな。そんで、ユウジ先輩はその相談でも受けてました?それで同情した?」
「……」
「花火大会一緒に行ったところで、告白されたところで、俺がそれを断るって、アンタが一番よく分かってますよね?」
淡々とした口調に、苛立ちが混じり出す。
「それは、」
「どういうつもりか知らんけど、それ分かってて、あの子と俺を花火大会に行かせようとするのが最低なことやって、自覚あります?」
聞かれたことに何一つまともに答えられない俺に、財前が質問を重ねた。
「……せやけど、財前と花火を見るのは、ハネザワさんの方が、きっと、正しい」
「正しい、ってなんや」
財前が、吐き捨てるように言う。
「……電話するわ、やっぱり花火大会は行かへんって」
ポケットから、携帯電話を取り出す。
「あ、あかん」
その動作に慌てて起き上がり、膝立ちの状態でポケットから携帯を取り出す財前の手を掴んだ。
「絶対に……、あかん」
俺の手を鬱陶しそうに振り払おうとするのに負けぬよう、手に力を入れた。
「……なんで?」
俺の手を無理やり解くことは諦めたのか、面倒になったのか、財前はゆっくりと息を吐き出し、携帯を持っていた手をそっと降ろした。
「ハネザワさん、可愛いやんか」
ひとまず安心して、中途半端に持ち上げていた腰を降ろし、尻をかかとの上にトンと乗せて、立ったままの財前を見上げた。
「それで?」
財前の表情は変わらない。口調も、あんまり変わらない。ただ、周囲を取り巻く空気は苛立ちに満ちていた。
「せ、性格もええし、優しいし、せや、大雨の日に傘にも入れてくれたんやで」
ハネザワさんと、初めて会話を交わした夜のことを思い出す。せいぜい顔を知っている、くらいの間柄だった俺にわざわざ声をかけてくれた。素直で優しい女の子。嫌になるくらい、俺とは違う。
「だから?」
俺の発言を切り捨てるよう続きを促してくる財前に、「せやから」と、そっと顔を下に向けた。
「せやから、……二人で花火大会に行ったらええんとちゃうかなーって」
俯いたまま言うと、「ユウジ先輩はどうすんの?」って声が降って来た。
「俺は、」
その声に導かれるよう顔を上げると、視線がぶつかった。
俺は。
また、喫茶店の時のように、よく分からない『何か』が込み上げてきそうになるものをゴクンと呑み込む。笑える状況でも心境でもないのに、財前の目に映る俺は笑顔だった。不思議なもんやなって、不思議なくらい冷静に思う。何で笑ってんねん。
「お、俺のことは別にええねん。財前は何も気にせんと、ハネザワさんと一緒に花火大会行ったらええねん、そっちの方が絶対に楽しいし、それに、そうすれば誰も傷つかんやろ?全部、それでうまくい、」
「俺が傷つく」
全部を言うより先、財前が大きな声を出した。
築二十年の冴えないマンションに響くその声に驚いて、言葉の続きは引っ込んでしまった。財前が声を荒げたことなんて、今まで一度もなかった。
「ユウジ先輩はいっつもそうやな。自分一人が傷つけばいいって顔して、傷つきたがりの悪癖出して、世界の不幸を背負ってますって顔して、それが俺のことを傷つけていることになんか目を向けようともしない」
ポカンとした間抜け顔を晒す俺に、財前が怒りを押し隠さず続けた。
「そんなんやない」
「せやったら何?先輩がしようしとることは何や?」
ずっと押し溜めていたものを爆発させたかのよう、一気に捲し立ててくる。
「俺は、ただ……、」
ただ、正しいことをしてほしいと思っているだけだ。正しい選択をして、正しい人と愛し合って、正しく生きた方が、俺と過ごすよりも幸福に違いないと信じている。残念だけど、俺は、正しい相手じゃない。
思春期の真っただ中にたまたま出会って、恋と思い込んでしまうほどにケンカして、互いのことを知り合って、同じ時間をたくさん過ごして、その思い込みがいつの間にか愛情に変わっていっただけだ。財前が、そうやって思い違いして、初めての恋だって浮かれていたところを、しょうもないホモの俺が付け込んだだけだ。向けられる愛情が心地よくて気持ちよくて、逃げきれなくなった。手放せなくなった。
「何が不満?」
一つ呼吸を置いて、今度は静かな声で聞いてきた。
不満なんてない。一つもない。不安なだけだ。
俺はかわいい女の子じゃなくて、財前が本当に選ぶべきは俺じゃなくて、いつかそういう日がきたら必ず負けてしまう存在で、それが分かっているから怖いだけだ。
「……ざ、財前は、勘違いしとるだけや。十五の頃に俺のこと好きやって思い込んで、そしたら何か上手くいって、それで浮かれて周りが見えていないだけで、本当は、ハネザワさんみたいな子と一緒におった方が幸せなんやって、それが分からなくなってて、それで、」
「アンタが勝手に俺の幸せを決めるな」
俺の言葉を全部掻き消すような声で財前が言った。さっきよりも、大きな声だった。
喧嘩をしたことも、それで財前のことを怒らせたことも、数え切れないくらいあるけど、こんな風に、こんな顔を向けられたのは初めてだった。絶望とか失望。そんなんがごちゃ混ぜになった悲しい顔。好きな人のことは泣かせたくないって、俺はそういうタイプだったはずなのに、何で、こんなに傷つけてしまっているんだろう。
「それやったらなんや?四年も、俺は浮かれためでたい頭でアンタと付き合ってたアホやったっちゅーことですか?」
窓の外の夕陽が、少しずつ、夜へと傾いていく。
眩しいほどの西陽が、いつの頃からか、部屋に灰色の影を落とし、その色合いを濃くしていった。
「何か言い返したらどうです?」
床に膝をついたまま動かずいる俺を、財前がハンと鼻で笑う。何か言え、と。その言葉の裏にある要求を感じ取ったところで、何も出てこない。
「……ごめん」
辛うじて出てきたのは、それだけだった。
ボキャブラリーの無さか、共感力の低さか。怒りと絶望に顔を歪ませる財前に何を言えばいいのかが分からない。
エアコンが部屋を冷やす音がうるさく感じられるほど、部屋は静かだった。
ここで二人で暮らし始めて三か月が過ぎているけど、こんなにも静かな時間は一度もなかった。会話があってもなくても、この場所はいつも心地いい賑やかさがあったはずなのに、それが夢とか嘘だったかのように、音がない。
「……もうええわ、」
ガチャリと、財前がリビングのドアに手をかける。
「ど、どこ行くん?」
部屋を出ていこうとするのに声をかければ、財前は天井を仰ぎ、大きく息を吐き出して、それから俺を見た。
「この浮かれた頭を冷やしてきます」
舌打ちを一つして、財前がリビングの扉を乱暴に開く。
「冷やしてくるって、」
どこで?って。出ていこうとする財前に抱きついて縋る勇気もないくせに、口が勝手に動いた。財前は何か俺に返そうとしたけど、すぐに険しい顔になって、結局何も答えることもなく、そのまま、バンと思い切り扉を閉めた。
「……」
財前の心を表すみたいに、閉ざされた扉を呆然と見つめた。少しのあと、今度は玄関の扉が開いて、すぐに閉まる音が部屋に響いた。
身体から、力が抜ける。
沈み込むよう、ペタリと床の上に倒れる。真上にある天井が、滲んで、歪んだ。
「これでよかったんかな……」
そっと、視線を窓の方に向ける。
夕焼け空は、いつの間にか真っ暗な夜の色へと変わっていた。
――ユウジ先輩。
名前を呼ばれるのに、目を開く。すっかり暗くなった部屋に、財前がぽつんと浮かんだ。
――ユウジ先輩、こんなとこで寝てたら風邪引くで。
俺、いつのまにか寝てたんや。財前に言われて気づく。そうだ。大学二年生になって、実技の授業が増えて、時間内に終わらせることが出来ず、家に帰ってきても課題をやっていた時期があった。徹夜が続いて、いつの間にかリビングで寝ていた俺に、財前が「こんなとこで寝るな」と、毎日のように小言を言っていた。それでも起きずにぐずる俺に、財前は呆れたよう溜息を吐く。それで、最後は結局。
――ほら。
そう言って、寝転がる俺の両手を掴み、ずるずると床の上を引きずり部屋まで連れていこうとする。一度、俺のことを背負っていこうとしてくれたれことがあったみたいだけど、結局上手くできずに俺を床に落として、いきなり理由もなく床に投げ出されたと思った俺と大ゲンカした。一緒に暮らし始めて、すぐの頃だったと思う。それ以来、財前は寝ている俺を抱き上げるなんて無謀な挑戦はしなくなって、ずるずると床を引きずるようになった。引っ張られた腕は、そのままスポンと抜けてしまいそうで、「自分で歩ける」と言って立ち上がり、だけど片方の手は繋いだままで、そのまま自分の部屋まで行って、ベッドにごろんと寝転がる。
繋いだ手の先にいる財前も、当たり前のように巻き添えだ。狭いシングルベッドに男二人で寝転がり、真っ暗な部屋の中、向き合って見つめ合う。一緒に暮らしているんだと、そういう実感が込み上げてきて、くすぐったくて、変な感じやなってその気持ちを誤魔化すみたく笑う。変な話、色っぽい事情もなく二人で一つのベッドで眠るのは、もう四年も付き合っていたはずなのに、初めてのことだった。
――おやすみなさい、ユウジ先輩。
目の前にいる財前が、眠たげに言う。俺も、おやすみなさいって言う。理由がなくとも、同じベッドで同じ布団にくるまって、二人同時にまぶたを落として、夢の中でまたキスをした。朝が来て、目が覚めたら、一番近いところに財前がいて、なんか恥ずかしかった。あの朝に覚えた感情を何と呼ぶのか。すぐそばで、「おはようございます」と、俺の頬に指を伸ばしてくる財前に「おはよう」と返す。
その自分の声で、パチリと目を覚ました。
目の前には、誰もいない。
隣にあったはずの温もりも、少し固いマットレスの感触もない。背中と首が、石になったみたいに硬くなっている感じがして、身体のあっちこっちが痛い。
「あのまま、寝てたんや……」
真っ暗だったはずの空は、薄白くなっていた。今まで眠っていたのか、起きていたのか、自分でもわからない。ただ、さっきまで俺の前にいた財前は怒っていなくて。幸せそうだった。悲しい顔もしていなかった。つい二ヶ月くらい前の話だというのに、妙に懐かしかった。
夢とか、幻だ。現実じゃない。だって、俺は財前のことを怒らせて傷つけた。俺のことを、いつも目一杯好きでいようとしてくれたのに、それをぐちゃぐちゃ踏みにじるようなことを言った。酷いことをした。自覚はあった。それでも、ちゃんとした幸福を手に入れてほしい。みんなに、祝福されるような。微笑まれるような。
「どこ行ったんやろ……」
フローリングの床の上、白くなった空の明かりが差し込む窓へと目線を向ける。今、ここに、ユウジ先輩って、差し伸べられる手はない。
いないと分かっているのに、未練たらしく両手を伸ばしてみれば、薬指に指輪がキラリと光った。
「財前くんは、どこ行ってしもたんやろ……」
どこ?って、それを見つめながらもう一度呟く。でも、返事はない。どこからも出てこない。財前が、この部屋にいない。その事実が、ぽかんと胸に穴をあける。
財前くんがいない朝は、とても、とてもーー。