財ユウ+女子「財前くんは 4」 懐かしい夢を見た。
まだ、母のことを見上げていた頃。母と担任教師の会話を聞きながら、教室の窓から見える夏の風景を眺めていた。ミンミンと、飽きず絶えずセミが鳴き続ける校庭では、学童の子供たちがサッカーだか、キックベースだかをしていて、ワアとかキャアとか、そんな声が時々上がる。よそ見に気づいた母親が服の裾に手を伸ばしてきて、上の空な態度を咎めるよう布をグイっと引っ張った。
渋々、いやいや。フウと小さく溜息を吐きながら、向かいに座る先生とは目を合わせないよう、視線は落としたまま顔を前に向けた。居た堪れない、逃げ出したい、時間を戻してほしい。そんな気持ちで心がぐしゃりと潰れそうだった。
けほ。
そしたら、咳が出た。
「今回の件は、ユウジくんは悪くないんです、ただ少し騒ぎになってしまったので、こうしてお話させて頂いているだけでして……」
先生は、気まずげだ。
けほ、けほ。
俯いたまま、肩を揺らす。
「いえ、うちの子が先に手を出したと聞いていますし、相手の子もケガをしたと」
「ああ、向こうのお母さんも少し気が立っていたのであんな言い方をしていましたけど、実際には手の平を少し擦りむいたくらいですし、ユウジくんの方が痛かったと思いますよ」
痛かった。と、そう口に出した先生は、何か思い当たったかのように項垂れた。
先生と、俺と母親の間に置かれた机の上には、子供の体操着が広げられている。蛍光ピンクのペンで、「ホモ」って、所せましと書かれていてたが、その配置はどうにもセンスのないものだった。俺やったら、斜めに並べて書くな。先生の顔も、母親の顔も見れずに、体操着を見つめながらそんなことを考えていた。
指先を宙で動かし、あの字はあっち、この字はそっちと、空想の中で文字の配置を組み替えていく。すると、今度は指先を母親の手に握られた。
「ユウジ、」
眉を寄せてこっちを見てくる母に、亀のように首を引っ込めた。
幼稚園の頃、好きな人を尋ねられ「園長先生」と答えたことがあった。園長先生は男だったから、幼稚園の先生たちからは「園長先生やなくて、女の子でおらんの?」と再度聞き直された。それでも、俺は、「女の子やなくて、園長先生がええもん」と答えたものだから、若くてかわいい先生たちは困り顔になった。
そんな昔の出来事を覚えていた奴が、同じクラスにいた。幼稚園の頃に聞いた友達の発言が、どうにも、普通とは異なるものだということに、数年の時を経て気づいたのだろう。
ユウジみたいなやつのこと、ホモっていうんやろ!
ある日、突然、そいつが俺のことを指差しながら大きな声で言った。『ホモ』という単語の意味を知ったことが嬉しくてひけらかしたかったのか、周りよりも大人になったつもりだったのか、梅雨が終わる頃、給食の時間にからかわれた。ホモってなに?みたいな目をする生徒もいる中、男が好きなんやろ、きもいな、とニヤニヤと気持ち悪く口元を歪ませ、それから、俺の席をガタガタと皆の輪から遠ざけた。
ユウジ菌が移ったら嫌やからって。そしたら、他の子供達も、嫌や嫌やって、きゃあきゃあと楽しそうに俺の席から離れていった。
性質の悪い悪ふざけ、からかい。それに少しの悪意が混じった意地悪。普通とは異なるものを徹底的に排除しようとする視野の狭さと経験値の低さ。自分が知っている世界の話しか出来ない。
だから、子供の頃から同年代の、そういう『子供』が苦手で嫌いだった。
とは言え、その子供だって、最初は『ユウジ』と悪ふざけをしているつもりだったのかもしれない。徹底的に打ちのめすとか傷つけるとか、そんな意図はなかったのかもしれない。ただ、覚えたての知識を披露したくて、その仕打ちに怒る『ユウジ』を見たかっただけだったのかもしれない。でも、その時、何でか怒って反撃することが出来なかった。何でか、大人ぶって、悪ふざけをしようとする友達に冷めた視線を向けてしまった。
もう小学校の高学年だった。幼稚園児じゃない。自分の性癖にも、薄々気がついていて、それが皆が持つものと異なる自覚だって芽生えていた。「ちゃうよ」ってムキになってでも否定すればよかったのに。
自分でもよく分からない、だけど生まれ持った性質を否定することが出来なかった。
それが最初のきっかけだった。と、思う。
バカの一つ覚えのように何度もそれをネタにからかわれた。でも、何をされても言われても、無視を続けた。こっちも意地だ。意地でも無視。その態勢を貫こうとすれば、悪ふざけはエスカレートしていって、最終的には体操着に蛍光ピンクで『ホモ』の落書き。
母親が作ってくれた巾着袋の中から取り出した体操着に書かれた落書きには顔色一つ変えなかった。今度こそ泣くんやろうか怒るんやろうかと、ワクワクしながら自分のことを見ている子供が同じ教室にいることを知っていたから、いつも通り、無視を決め込んだ。
ふうんって。
鼻であしらうよう、それを眺めた後、迷う素振りを見せず袖を通した。
誰かが、ヒュッと息を呑む音が聞こえた。
問題が起きて、初めて後悔するところが本当にアホな『子供』らしくて、『ユウジ』があの体操着を来て授業に出たら、自分たちがしたことが先生にバレて怒られるって、それに気づいたのだろう。なんだか、おかしかった。笑ってしまいそうだった。それも堪えた。「ユウジ、そのまま行くん?」と、慌てた様子で話しかけてくる数人のクラスメイトに、「せやな、体育の授業やからな、体操着やないと怒られるもん」とすたすたと校庭を目指す。首謀者の、最初にホモとからかってきたアイツも、さすがにビビったようで、廊下を若干ざわつかせながら校庭までを歩く俺の後を必死に追いかけてきているのが視界の端にはずっと映っていた。
「ユウジの体操着きっも、そんなん着て恥ずかしくないん?」
後ろから何を言われても無視した。
無視して、無視して。
「ユウジきもい、こんなん着とるの変や」
無視して、無視して。
体操着の袖を、それを脱がそうとするかのよう、思い切り引っ張られた瞬間、プツンって何か糸が切れるような音がした。堪忍袋の緒というのは、実在するのだ。その時、初めて知った。
ドン、て。
振り返った勢いのまま、掴みかかって来た同級生の身体を思い切り押した。不意打ちに驚いた顔のまま、校庭に後ろから倒れ込むのがスローモーションで見えて、その数秒後に「何するんや」って泣き声交じりの声が飛んできた。
立ち上ろうとするそいつの上に覆いかぶさって、そっからは、もう、引っ掴み合いの大乱闘。女子の誰かが呼んできた先生が校庭に姿を見せるまで、俺とそいつは掴み合って睨み合い。こっちも興奮していたからあんまり覚えていないけど、そいつはすでに泣いていた。
それで、結果として、双方の保護者が学校に呼び出されるという最悪の事態に陥ったというわけだ。
けほ、けほ。
夕焼けに鳴くカラスと、ミンミンと暑さを煽るようなセミの鳴き声、それに混じる子供の咳。風邪を引いたわけでもないのに、教室で話している時からそれは止まらなかった。
まだまだ西日が強く、母は真っ黒な日傘を差していた。オレンジと黒と。強いコントラストに、目がちらついた。それは母の気に入りの日傘で、デザイナーであった父がどこか海外に行った時の土産に買ってきてくれたものだったと思う。
「ユウジが悪くないからって、学校のお友達に手を上げたらあかんよ。手を出した方が負けになることの方が多いんやで。せやから、そういうのはお兄ちゃんとだけにしとき」
日傘の中、母がハンカチで額の汗を拭いながら言った。
「……うん」
こくりと、頷く。先生は終始庇ってくれていたけれども、でも、母はこうして学校まで呼び出され、よその母親に罵倒され、頭を下げさせられた。親に恥をかかせてしまった事実は消えはしない。自分が怒られることよりも、母を巻き込んでしまったことが恥ずかしくて居た堪れなくて、辛かった。
「学校から電話かかってきて、ほんまにビックリしたんよ」
怒っている時の口調ではなかった。どちらかと言えば、優しいものだったと思う。
「もう、せえへん」
それなのに、責められているような気分だった。しゅんと、肩を落とし、視線を俯ける。日傘の影の少し外側には、セミの抜け殻が転がっていた。
「……ごめんなさい」
そう続けると、母はとても、とてもとてもとても悲しそうな顔になった。自分が持っているものが、巡り巡って母を傷つけていることが申し訳ないと、そういう気持ちでいっぱいだった。
「ユウジ、」
上を向く。
「けほ……、うん」
また、咳が出る。
目線を合わせるために母が屈んだことで、少し遠くにあった母の顔が一気に近づいた。
「ユウジは……、」
まだ、母親を見上げていた頃の、遠い記憶。咳をする次男を見つめる視線は、戸惑いと困惑に揺れていた。母のそんな顔を見たのは、初めてだった。
ユウジは、女の子が好きじゃないの?
ユウジは、男の子が好きなの?
ユウジは、みんなと違うの?
母の瞳が投げかけてくる疑問が、一つも言葉として発されてはいないはずなのに、まるで矢のように降り注ぐ。あの体操着は、そういえば母が持っているんだっけ。
「……なに?」
けほ、けほ。
咳混じり、母の顔を見る。
その日、たくさんの、母の表情を知った。別の大人に謝る時の顔、頭を下げる時に下から見えた顔、不思議そうな顔、戸惑う顔。あの体操着を母親は洗うのだろうか。それも捨てて、新しいものを買ってくれるのだろうか。いずれにしても、その時にまた新たな顔を見ることになるのだろうと、母の顔を見上げたまま、そう思った。
「ううん、何でもない」
だけど、思うところの全てを飲み込んだかのよう、微笑んだ顔が、胸の奥深く、一番深いところにグサリと刺さった。
「ユウジ、咳が出てるもんねえ、はよ帰ろ」
まだ西日も強いのに、母は差していた日傘を閉じて、それから、ぶらりと横に垂らしていた俺の手をぎゅっと握ってきた。もう、母親と仲良くお手手を繋いで、なんて年ごろではなかったはずなのに、恥ずかしいからと解くことはしなかった。
握った手を、幼い頃にしたように母がぶんぶんと前後に揺らすのに、「歩きにくい」と文句を垂れた。
「あ、せや。桃買って帰ろうか。ユウジもお兄ちゃんも好きやろ、大きくて甘いの」
夕陽に白い肌を染めながら、次男の手を離すことなく、母が明るく言う。何も言わず頷けば、「ユウジが選んぶんやで」と、母は俺を見て言った。
そういえば。あの日以来、母とは手を繋いでいない。
*
「けほ……、うーん、誕生日かあ……」
携帯を弄りながら、咳混じり呟く。あの夢を見ると、どうもダメだ。咳が止まらなくなる。幼少期のトラウマからくる症状なんて大げさなものではなく、こうして思い出したところで心が痛むこともなく、ただただ咳が続くだけだ。当時の、まだ十年そこそこしか生きていない頃であれば人生の一大事であったが、あれからもう十年が過ぎて、その間に色んな出会いがあって、色んな経験をした。あの頃思っていたほど、世界は敵だらけではなくて、むしろその逆で、驚くくらいに幸せなことが続いていた。怖いくらいだ。
「……一年って早いなあ」
十年があっという間に過ぎたのだから、一年なんてもっと早い。
「もうすぐやん、どないしよ」
バイト先のカフェが入っている商業施設の従業員食堂は、午後三時という時間もあってか空いていた。夏休み前の課題提出を終え、共通科目の学科試験があとは幾つか残っている程度。試験がなければ学校は休み、ということで朝からシフトに入った。
「ううむ……、何しよ」
休日よりも客足は少し減るが、それでも近所に住む主婦や子連れ客は絶えず訪れ、そこそこ忙しかった。おかげで元々は一時からとるはずだった休憩も、この時間からとる始末だ。
テーブルの上に置いた携帯の液晶をスライドさせながら、夏のイベント情報やデートスポットなんてページを眺めては溜息を吐く。
免許があれば海辺をドライブなんて洒落たことも出来るけど、そもそも取ってない。遊園地で喜ぶタイプでもないし、フェスは今年はやめとこって話をしたばっかりだ。
カップルって誕生日に何するんやろうか。
何年か前にも同じことで悩んだなと思いながら、目的もなく携帯の画面を拡大させた。
一年前は、遠距離恋愛中だったから、一緒には過ごしていない。二年前は一緒に映画を観に行って、記念にってヘップの観覧車に乗って、一番てっぺんでキスをした。
「……うわー」
今考えると結構はずいことしたな。
高校生やったしな、まあ、あんなもんや。言い訳をするよう一人頷き、都内のイベント情報を表示する携帯電話の液晶に視線を戻す。プレゼントは、大体決めてあるから、あとは当日のことだけを考えればいい。
「一氏さん」
ぶつぶつと一人ごとを漏らしながら悩んでいれば、女の子の声が上から降ってきた。
「ふふ、おつかれさまです」
見上げた先に立っていたのは、ハネザワさんだった。同じバイト先にいる、俺より一つ年下の大学生の女の子。アルバイトとして入って来て以来、男どもが「かわいい」とこぞって評する、まあ、本当にかわいい女の子だ。
「ああ、おつかれさん、これから?」
授業か、普通の大学もこの時期はテストか。学校帰りにしては少し早い時間帯だなと思った。
「はい、 一氏さんもこれからですか?」
尋ねられるのに、首を横に振る。
財前もテストだと言って勉強していたことを考えると、やっぱりテストかもしれない。
「いんや、休憩」
「今日は学校ないんですか?」
「あー、うん。ないっちゅーか、テスト期間中やけど今日は何もない日やったから」
「はあ、私もテスト期間なんです……、一氏さんの学校もテストってあるんですね」
向かいに腰を降ろすハネザワさんが言うのに、上半身を起こした。
「うん、実技以外にも普通の教養科目があるから」
「美大のテストって実技だけじゃないんですね」
ハネザワさんが店から持ってきたのであろう、カフェオレとかアイスミルクティーとか、そういう色合いのドリンクが入った透明のカップにさしたストローに口をつけた。
「実技だけでええよな、受験の時も思ったけど」
俺も、店から持ってきた、氷が溶けて薄くなったオレンジジュースをずずずっと啜り上げて言えば、ハネザワさんは困ったみたいに笑った。
「あ、花火大会、行くんですか?」
テーブルの上に放ったらかしにしておいた、イベント情報が掲載されたフリーペーパーの存在に気づいたハネザワさんが聞いてくる。社食の入り口に置いてあったものだ。
「んー……、花火っちゅーか、なんかおもろいイベントがあるかなと思って」
財前の誕生日に行けるようなやつ。
心の中でそう付け足しながら返す。
「おもしろいイベントですかあ……、うーん……、あ、もうすぐ、この近くで花火大会がありますよ」
結局、花火大会になっちゃいますけど。
思いついたとばかり、ハネザワさんがその可愛らしい顔の前でパンと両手を合わせて言った。
「……」
花火大会。
そういえば、財前とは一緒に行ったことはない。大阪にいた時に、打ち上げ花火を遠くから二人で眺めたことがあるけど、それくらいだ。
「規模は小さいけど綺麗なんですよ。墨田川とかの大きな花火大会よりは人は少ないと思いますし、一氏さんの家ってこの辺ですよね、だったら電車を使わなくても歩いて観に行けますし」
まるで自分の計画のようにハネザワさんが楽しそうに話す。ハネザワさんは、確か、ここが地元だと言っていたから色々と詳しいのだろう。
「へえ。ええなあ。いつあるの?」
俺も財前も人ごみや混雑が得意なタイプではないけれども、たまには、そういう場所で夏を感じるのもいいかもしれない。
誕生日のことは抜きにしても、誘ってみようかなと携帯のスケジュール帳を開く。ついでに、見やすいスポットとか、そういうのもハネザワさんに教えてもらおうと、そんな魂胆もあった。
「七月二十日です」
すると、ハネザワさんの口から零れた日付に、「あ」と思わず声が漏れた。
ピッタリやん。
心の中で呟く。財前の誕生日に何をするのか。その悩みが解決したような気がした。
「どうしました?」
ドンピシャのタイミングに目を見開く俺に、ハネザワさんがきょとんとした顔で首を傾げた。
「あ、いや……、ちょうど空いとるなあって」
「じゃあ、ピッタリじゃないですか!彼女さんと行くんですよね」
「へ? あ、うん」
彼女。ということになっているのだ、この子の前では。財前の顔を思い浮かべながら、「そうそう」と頷く。
「実は、私も好きな人を誘ってみようと思っているんです」
すると、恥ずかしそうにハネザワさんが切り出した。
「へえ、なんやもう、知らんうちにええ仲になっとるんやなあ」
バイト上がり、ハネザワさんとはもう何度か二人きりで駅までの道のりを共にしているが、そのたび、その『好きな人』の話を聞いていた。週に一回お昼を一緒に食べるようになっただとか、第二外国語の授業で一緒に発表をすることになった、だとか。聞いている限り、その『好きな人』とやらとハネザワさんは、なかなか、かなり、いい感じの関係になっている。恋愛経験が豊富なわけでは決してない俺にだって分かる。
だから、からかうみたく、にやりと口角を上げて「ええなあ」と言ってみれば、ハネザワさんは「違いますよぅ」と困り顔を作り、その顔の前で手を横にぶんぶんと振った。
「え、そうなん?」
からかい混じりではあったものの、あながち間違ったことも言っていないと思っていたから、否定されたことに素で驚いてしまう。
「私の一方的な片思いなんですよ、あはは」
「意外やな」
今度は、こっちがきょとんとした顔をしてしまう。
「ハネザワさんみたいな子に告白されたら大体の男は喜びそうやけどな」
嘘ではない。冗談でもない。紛れもない本心だった。見た目は申し分なく可愛いと思うし、気が利くし、愛想もいい。
「そうだったらいいんですけど……、でも、その人に彼女がいるのかどうかも結局聞けなくて」
ハアと、溜息を零すハネザワさんに「それ聞くの勇気いそうやな」と、同じように溜息を零した。
「このまま夏休みに入ったら、今の関係が全部もとに戻っちゃいそうだなって思って、だから、思い切って花火に誘ってみようかなって思ったんです」
「おう、がんばりや」
嘘でも冗談でもない。心から。ハネザワさんの恋が上手くいくといいと思っているし、きっと上手くいくと思っている。何せ、あんなにも受け入れられなかった俺のことを好きだという人間が現れる世界なのだ。ハネザワさんのような『女の子』が上手くいかないわけがない。
「考えるだけで緊張するんですけど、勇気が出てきました!」
きっと、こういう『女の子』に愛される人間は幸せだ。
けほ、けほ。
また、咳が出た。
結局、バイトを上がったのは定時から一時間を過ぎた頃だった。
夏の夕陽を背に、お買い得品だった桃が入ったスーパーの袋をぶらぶら揺らしながら線路沿いを歩いていく。額に汗がじわりと滲み、一日も終わりに近づいているというのにまだまだ暑い空気にやれやれと溜息を漏らす。
「花火大会なあ……」
好きなんやろうか。駅の構内にある柱にも、その告知をするポスターが貼られていた。ハネザワさんに日にちや時間は聞いていたものの、何となく、日付が載ったポスターの写真も撮っておいた。
「とりあえず誘ってみるか」
今日の夜にでも、と通り過ぎていく急行電車の行く先を追いかけるよう後ろを向いた。
「……」
その道が、母と手を繋ぎながら帰ったあの道とよく似ていることに気づく。
「はあ、何やねん……」
この街に暮らし始めて数か月が経つけれども、そんな風に見えたことは一度もなかった。それもこれも、あの夢を見たせいだと思う。世界の全てから拒絶されたような、絶望的な気分になった日のことを覚えていないと言えばウソになるけれども、毎晩思い出すかと言われればそれもない。時間とは便利なもので、経てば経つほど、その時に見たものは曖昧になり、受けた傷は塞がって痛みも消えていく。
ただ、しいて言うなら、昨日にはなかった、いや隠れていた不安のようなものがじわじわと沸き上がってくる、体の内側がざわつく嫌な感じだけが、朝から消えてくれない。
得体のしれない、漠然とした、そう形容されるものが腹のあたりに滞っている。
部屋に戻り、シャワーを浴びて、テスト期間中だからとバイトを入れていない真面目な財前くんが帰宅して一緒に夕飯を食べて、買って来た桃を剥いて、二人でテレビの前でデザート代わりに食べても、まだ消えてくれなかった。
「桃、もっと切ろか?」
全てが上手くいっているはずなのに、何も上手くいていないような気分になる。現実が優しかったわけじゃなくて、現実の怖さを忘れてしまっているだけなんじゃないかって、そういう懐疑的な気持ちが渦を巻く。
「うん、いただきます」
わかったと立ち上り、冷蔵庫に入れた桃を取り出し、その皮をつるんと剥く。適当な大きさに切って皿に並べて、テレビ前にお飾り程度に置かれた卓袱台に置いた。俺が上京して一人暮らしをしていた頃に使っていたものだけど、意外と重宝している。
「あ、そういえば」
桃をフォークにさす財前に話しかける。胸のあたりは変わらず重たいけれども、だからと言って塞ぎ込んでいても仕方ない。
「七月二十日、誕生日やろ。花火大会、行かへん?」
駅で撮ったポスターの写真を携帯に映し出し、「これなんやけど」と財前の方に差し出す。口に入れたばかりの桃を咀嚼しながら、財前が携帯を覗き込んできた。
「……あ、これ」
「知っとる?」
「うん、うちのサークルの恒例行事になっとるみたいで、そういや少し前に誘われましたわ」
これなんやなあ、花火大会って。
桃を飲み込んだ財前が、なるほど、とばかり写真フォルダを閉じて、俺の携帯で大会のホームページを検索した。それを隣から覗き込み、「こんなサイトとかあるんやなあ」と漏らせば、「そりゃあるやろ」と財前がページをスクロールさせた。
「そっかあ、サークルの人らと行くんや」
それやったら仕方ないなあって言えば、「断りましたよ」って声がすぐに横から聞こえてきた。
「へ?」
「一応は誕生日やからな、もしかしたら何かしてくれるんとちゃうかなあ……と、万一に備えて空けといたんで、まあよろしく頼みますわ」
財前が、また桃に手を伸ばす。財前は桃が好きだってことは、一緒に暮らし始めて、一緒に夏を迎えて、初めて知った。
「……なんやそれ、俺かてちゃんと考えてます」
誕生日に何をしようかとか、何を食べようかとか、何を渡そうかとか、誕生日の日の朝は桃を剥いてやろとか。現在進行形でいろいろと。
「うん、せやからちょっと驚いてます」
俺が剥いた桃を美味しそうに食べながら、財前が言う。
「で、花火大会は行くん?行かないん?」
それにムっとしながら尋ねれば、「行きます」と、今度は嬉しそうに笑った。
「……」
その笑顔に、不思議なこともあるもんやなと思う。小学生の頃、俺のことを『キモイ』と言ってきたアイツと同じように、財前だって俺のことをさんざん『キモイ』だのなんだの、悪態を吐いてきたくせに。今は、優しい顔で「好きです」って言ってくる。俺は、好きって言われるような努力もしていなかったのに。
「ユウジ菌、うつってしもたんやろか……」
トン、と。隣にある肩に頭を乗っけて呟く。
現実が優しいのか、現実の怖さを忘れただけか。出会ったばかりの財前光は、それこそ、俺が嫌いな『子供』の一人であったというのに、今は俺の好きな人になっている。
こんなにも奇妙なことが起きるのだから、やっぱり、ハネザワさんの恋が上手くいかないわけがない。
「なんや、ユウジ菌て?」
フォークを更に置いた財前が聞いてくるのに、「知らん」と頬を肩に擦りつける。
けほ。
そこに頬を寄せたまま、咳を一つ。
「咳?今日よう出てるな」
財前が、俺の方に顔を向けたのが分かる。
「風邪でも引いた?」
「んー……」
どう説明したものか。
困ったなあって。そのまま、コテンと財前の膝に頭を乗っけるよう横向きに寝転がった。甘えたのか、誤魔化したのか。甘えて誤魔化したのか。
「なんや?」
桃の皿が置いてあるローテーブルを前に押し出し、スペースを作りながら財前が聞いてくるのに、「なんやろなあ」と、横向きを仰向きの体勢に変えて、その顔を見上げた。
少しの間、財前は何か探るような顔をして。
「熱でもある?」
それから、熱を計る時みたく、その手の平を乗っけてきた。昔から変わらない、ひんやりと冷たいその手の感触が熱なんてなくとも心地よくて目を閉じる。
「熱はなさそうやな……」
前髪を左右に別ける手が、まるで猫を撫でるみたく、額を往復する。うっすらと目を開き、その手に自分の手を重ねてみる。大きさは、ほとんど変わらない。少しだけ持ち上げてみる。
俺のとは違う、薬指には何もついていない財前の五本の指がしっかりと見えた。
「今度はなに?」
その指ばかりをじっと見つめる俺に、不思議そうな顔を向けてくる。
「ううん、何もない」
誕生日プレゼントは、もう決めている。貰いっぱなしで、返せていないもの。どこのブランドのものにするかはまだ迷っているけれども、候補は絞ってある。それを渡したら、今よりは少しマシになる気がしていた。
マシ?なにが?
自問する。でも、自分でもよく分からない。俺みたいな人間が、誰かの人生を縛るようなことをしていいのだろうか。もっと、別の、たとえばバイト先のあの子のような『女の子』の方が、財前のことを幸せに出来るんじゃないかと考えてしまう。
けほ、けほけほ。
ひっきりなしに込み上げてくる咳に、口元に手を当てた。
「先輩は夏風邪ひく方の人間やからなあ、気をつけなあかんで」
口元に、意地悪な笑いを浮かべた財前に、口を尖らせる。夏風邪はバカがひくって、そう言いたいんやろって、拗ねて、顔を横にプイと背ければ、上に向いた頬を指の裏側で撫でられた。
「はよ寝とき」
「けほ……、うん、せやなあ」
素直に答えて、むくりを上半身を起こす。風邪を引いたわけではないけれども、早く寝た方がいいというのはその通りだと思う。早く寝て、また違う夢を見て、幼少期の延長のような今日はとっとと終わらせてしまえばいい。財前によくないところだと言われる、後ろ向きなことばかり考えてしまう癖が、今日はひどい。優しくされる分、傷つきたくなる。
「冷えピタとか貼っときます?」
もう一度、念のためとばかり、財前がその手を俺の額にピタリとあて、反対側の手で自分の額に触れた。
「風邪やないもん」
額に手をあてられたまま、財前を見つめる。その瞳を縁取る、俺よりも長い睫毛がはっきりと見えた。
「なあ、財前」
その距離のまま、口を開く。
「うん?」
「花火大会、サークルの人と行ってもええんやで。俺は全然平気やし、いつも一緒やからたまには別の人と行ってもええと思う」
財前の眉が寄る。
「いや、別に、サークルの人やなくても、誰か別に行きたい人とかおったら俺を優先せんでも……」
ええよ。
って言おうとしたけど、最後まで言えなかった。
「……」
言おうとしたタイミングで、財前がキスしてきたから。
触れるだけの、どうってことないやつ。でも、たった一瞬の触れ合いでも、いつもすごく優しい。
「そういう遠慮みたいなんされるの嫌いやって言うたやろ」
そんなキスをしてくるくせに、怒っているとばかり、不機嫌な顔で言ってくる。
「怒るとキスするん?」
首を傾げてみせると、また、柔らかく触れられた。こういうものを与えられる未来が自分にあるとは、あの頃は考えもしなかった。こんなにも簡単に手に入ってしまっていいのかが分からない。現実は今朝見た夢の続きにあって、こっちが夢なのかもしれない。
このまま寝て、起きて、そしたら中学校の頃の財前が冷たい顔で俺のことを「きもい」って言う現実が待っているのかもしれない。
「……先輩?」
何かに気づいたかのよう、財前がふと唇を離した。
「泣いとるん?」
目を丸くしている財前が、滲んで見える。
ダメだ、今日は。感情とか情緒が馬鹿になっている。それが、自分でも分かった。
「どっか痛い?」
今度は優しく目元を指で拭われる。それに黙って首を横に振る。
「財前くんは、やさしいなあ」
それから、からかうみたく笑って、今度は、俺からキスをした。これ以上何かを言われたら、耐えきれなくなりそうだったから。
だって、財前くんは。
俺が、特別な苦労もなく手に入れてしまった財前くんは、怒っていると言いながら優しくキスしてくるので、それで、俺は——。
時々、むしょうに逃げたくなるんです。