【お題箱】長雨、嵐を引き寄せて 天と地を縫いつけたいかのように細く長い雨が降り続く。
水分を大量に含んだ綿のような雲が広く空を覆ってからしばらくが過ぎた。ときどき明るさを増す雲で太陽はまだ生きているとわかるものの、もう幾日も幾日もその姿を見ていない。
雲外鏡の春が地上のお社へ降りたのは雨が降り始める前だった。
地上の様子を見るために定期的に降りてはいるものの、自分の傍から離れる春を黒天狐はひどく嫌がった。いつものようにすぐに戻ると笑顔を返したものの、雨が上がらない限りは戻ることも叶わない。
『それでは、あの月が山の端にかかるまでには戻りましょう』
そう黒天狐に誓ってしまったのだ。
月が見えなくては誓いを果たせない。
雲外鏡ならば雲のひとつやふたつ、退かせてみせよと黒天狐は顔をしかめそうだけれど仕方がない。できないことはできないし、誓いを立ててしまった以上は雨が止むのを待つしかなかった。
お社の中で降り続く雨を眺める。
雨は大地に恵みをもたらすけれど、過ぎればかえって毒になる。ひどいことにならなければいいのだけれど、と吐息を漏らす。
そこに混じる音は春自身の気鬱。
長雨のせいだろうか、嫌がる黒天狐の手を振りほどいてしまった後悔がひたひたと春の心を浸食していく。
怒っているだろうか。
苛立っているかもしれない。黒天狐の傍へ戻ったら、その怒りを甘んじて受けようと思う。
「始……」
己が本体たる鏡を両腕で抱え込み、ぽつりと黒天狐の名を唇へと乗せた。
その瞬間。
背後に強烈な圧力が降ってきた。
すべてのものをその存在感だけでねじ伏せてしまうような強さと清冽さに全身の肌が粟立つ。
震える身体でどうにか振り返る。振り返らなくても、これほどまでに強い力を持った存在など春はひとりしか知らない。
「ようやく呼んだな」
美しい声と唇で春の身体はゆらりと動く。
「始」
腕の中へ引き寄せられた春に、満足そうに黒天狐は微笑んだ。
数刻の間だけ途絶えていた雨音が再び聞こえるようになった。
途絶えていたのは春の耳が雨音を受け止める余裕がなかったせいだ。
ため息にも似た長い長い息を吐き出して、春は起き上がろうとする。
「どこへ行く」
すぐ近くから不機嫌そうな声が落ち、それだけで春の身体は褥へと逆戻りした。
「どこへも。あなたのお傍におります」
横たわったまま隣に寝転ぶ黒天狐の顔を見つめる。春を見つめ返す紫紺の瞳はどこか探るような光を宿しつつも満足そうではあった。
先ほどとは違うため息を春は吐き出した。
「こんなところにいてよろしいのですか」
「おまえが俺を呼んだのだろう」
気鬱さに負けてつい黒天狐の名を唇に乗せてしまった。長雨のせいで春がいっかな戻ってこないと、やきもきしていたに違いない。だから名前を呼ばれたことにして、春を迎えに来たのだろう。
もっとも、迎えに来たという可愛らしいものではなかったけれど。
楽しそうに始が指先で春の頬へ触れる。地位でも力でもなく、心を通わせたという理由で春の顔を覆う薄衣の内へ入れるのは始ただひとりだ。
始に乱された衣服を整える隙すら与えられない。熱が上がったままの身体は春自身では思うように動かせない。
「心配するな。かえって俺がいない方がいいらしいからな」
「え……」
力強く始に抱き寄せられた。間近に始の美しい顔が迫り、春の息は止まりかける。
「おまえが傍にいないときの俺は近寄り難いと隼にも叱られた」
どう返事をしていいのやら。戸惑う春の頬に始が手のひらを這わせた。
「熱があるな」
長雨のせいかと問う始に、春は短く苦笑した。
あなたの熱をこの身で受け止めたからです、とはとても口にはできない。
黒天狐の熱と情を与えられるたび、春の身体は熱を帯びる。必要以上に力を送り込まれるせいでもあるけれど、褥を共にするが故の気怠さから逃れようとは思わない。始に求められる嬉しさはなにものにも替えがたい。
「そうかもしれませんね」
始の胸に顔を寄せ、春は静かに目を閉じた。
「では、熱が引くまでこのままで……」
言葉はない。けれど始の両手は春を強く抱きしめる。
長く続く雨を理由にすれば、始とふたり、ずっとこうしていられるだろうか。