【始春】胃も心も唇も 午後の早い時間に仕事が終わるはずの春が寮へ戻ってきたのは、夕飯には遅い時間だった。
「ただいま〜」
浮かれた声で共有ルームへやってきた春を出迎えた始は軽くため息をつく。間違いなく、何も予定がないのをいいことに好き勝手ふらついて楽しんできた結果だ。
「あれ、始?」
ソファから立ち上がる始に春はぱちぱちと目蓋を開け閉じさせる。今朝のスケジュールでは始の帰宅時間はもっと遅かったからこの反応も仕方がない。
「夕飯は?」
声をかけると春は頭を左右に振った。
「まだ。……もしかして、待っててくれた? ごめんね」
いや、と始は別の意味で首を振る。
たまたま早く終わって、それなら春と一緒に夕飯を食べられるだろうと思った始が甘かったのだ。
夕方に帰れる時間で、春ひとりしかいないという状況ならばまっすぐに寮へ戻るわけがない。早めに帰れそうだと連絡を入れるべきだった。そうしたら春は寄り道もせずに帰ってきただろう。
「本屋に寄ってたんだ」
言い訳をするように春が言う。その手には書店のロゴの入った大きな紙袋が握られている。
だろうな、と始はうなずく。先週、読む本がなくなったとぼやいていたのを思い出す。
荷物を置いて、手洗いとうがいをしてこいと春を促す。怒っているわけではないし、春に言い訳をさせたいわけでもなかった。
春が洗面所へ行っている間に始はキッチンへと向かう。春を待つ間に作っていたポトフを温める。鍋に火をかけ、冷蔵庫からサラダを取り出し、バゲットを切っていく。
「手伝おうか?」
戻ってきた春が声をかけた。カトラリーを出したら座っていろと指示を出した。
食卓へ並んだ料理に春は目を輝かせる。
「美味しそう!」
「適当に作っただけだぞ」
「始にとっては、でしょ。俺には難しいからね?」
「だろうな」
「うわ、否定もなし」
「事実だろ?」
「そうだけどさあ」
唇をとがらせる春を鼻で笑い、始は顔を近づけた。
「おまえは、おとなしく俺の料理を食べていればいいんだよ」
かすめるようなキスをひとつ。
途端に顔を赤らめて、ずるい、と春がつぶやいた。
春が料理をできないと知ったときからずっとそう思っているのだから、ずるいも何もない。自分の胃袋を満たすために覚えた料理だけれど、春のために作れると思えば身につけてよかった技能だ。
「あーあ、俺は胃袋も始に掴まれてるのかあ」
「不満か?」
まさか、と春は頭を左右に振った。
「ここも」
自分の胃のあたりを春は指差す。
「ここも」
次に胸元。心臓だろうか。
「それからここも」
唇を指先でなぞり、艷やかな笑みを春は浮かべた。
「全部、始のものだからさ」
「……おまえは……そういう……」
はああ、と深いため息をつきながら始は額へ手を当てる。しれっとこういうことをするから、この男はたちが悪い。
けれど言われっぱなしは性に合わないので反撃を試みる。
「ついでにここも、な」
春の腰へ伸ばした手を、つい、と撫で下ろす。その感触にゾクリと身体を震わせ、んもう、と春は苦笑した。
「お望みならいくらでも。ただし、先にご飯ね」
いい匂いだからお腹が空いたとスプーンを握る春にひとつだけキスを送り、いただきますと始も食事を始めた。