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    【始春】ある雨の日に 深く閉めたカーテンの向こう側から音がする。
     朝方はささやかだった雨音は、昼を過ぎることには大きく重たくなっていた。
     風に揺れる樹々の葉も、壁をしきりに叩いている。
     フロアライトは淡い橙で室内をひそやかに照らす。
     ローテーブルには分厚い手吹きのグラスがひとつ。
     グラスの中で微細な泡が底からいくつもの列を作りながら昇っていく。
     大粒の雨の中、儚い泡がかすかな音を立てている。
     手足を投げ出すようにソファへ座ったまま、春はグラスを見つめていた。
     いつかのバラエティ番組のロケ先で作ったグラスは、春の不器用さを表しているように不格好だ。
     初挑戦のわりには悪くないという始の言葉も今は遠い。
     どうしてこのグラスを選んでしまったのだろうと後悔したがもう遅い。
     今の春には立ち上がる気力なんて残ってはいない。
     気づけば逃げていった正気が身体に戻ってくるまで座って待っているしかできない。
     芒とした視線をグラスへ向けていると、不意に人の気配がした。
     無にしていた身体はすぐには動かない。
     かろうじて動いた視線に紫色の瞳が映る。
     鮮やかな生命力に満ち溢れた光。
    「そのままでいい」
     始が片手で春を制する。
     うなずきの声は音になったかどうかもわからない。
     けれど春の声ならば始は聞き取るだろう。
     ソファに座ったままの春から始は遠ざかる。
     戸棚を開ける控えめな音がキッチンから聞こえてきた。
     水の流れる音とコンロに点火される音が流れてくる。
     陶器の音に、お茶を淹れるつもりなのだ、とようやく春は理解した。
     今日は意識が外に向かない。
     手足を投げ出したままでいるとお湯の沸き立つ音が聞こえてきた。
     やがて香りが春の元へと届く。
     外界を遮断していた脳は嗅ぎ慣れた香りですら認識するのに時間がかかった。
     林檎だ、と春は思う。思って、アップルティーを作っているのかと理解した。
     まぶたを閉じた春の脳は正確にアップルティーの淹れ方をシミュレートする。
     再生される映像は春自身の手ではなく、実際にキッチンへ立っている始の手だった。
     しなやかに動く、けれど力強い指。
     うつくしい、愛することを知っている手だ。
     始の手がマグカップを手に取る。そして紅茶を注ぐ。
     けれど耳から聞こえてくる音はマグカップに注がれるものではなかった。
     別のなにかに注がれる音。
     また別のなにかに注がれる音。
     繰り返される音はカーテンの向こう側から届く雨音と響きあう。
     それは春の意識をやさしく揺さぶり、また内へ内へと誘っていく。
     テーブルへ置いたままだったグラスの中身はただの水になっていた。

     トン、と音がした。

     春の目が音をとらえる。
     厚ぼったいグラスは消え、細長いグラスがふたつ、テーブルに並んでいる。
     橙色のあかりをほのかに浴びた氷がグラスの中で位置を変えた。
     ソファがわずかに沈む。
     始が座ったのだ。
     けれどいつも感じる体温はない。
     隣りあって座る始は春に話しかけてはこない。
     放置されている。
     それが今の春にはなによりありがたかった。
     始に構う余裕が今はない。
     もうすこしだけ、と春は静かに息を吐き出した。

     視界に飛び込んできたのは氷の消えたアイスティーだった。
     ようやく感覚の戻ってきた手を何度か握る春に、隣から抑えた笑い声が聞こえてくる。
     なにかおかしなことをしただろうかと横を見る。
     笑いつつも始の表情は予想よりもやわらかかった。
    「悪かったな」
    「……なにが?」
     笑ったことだろうか、と首を傾げる春に始は頭を左右に振る。
    「今日は一日放っておくつもりだったんだ。……そういう日だからな」
    「……………あぁ……そうだね……」
     春の体内で重く澱んでいた空気を吐き出した。
     今日のオフは春がひとりで過ごすための時間だと始は知っている。
     ひとりで過ごしたいから、共有ルームにも行かず、誰とも合わない。
     心配するから事前に知らせてはあるものの、その日のうちに始が春を訪ねてくるのは確かに珍しい。
     そうか、ともう一度春はつぶやいた。
     すぐ近くに座らないのも、春に触れてこないのも、ひとりでいたい春に配慮しているのだ。
     意思は尊重したいけれど春にも会いたい。
     部屋に来たとき、そのままでいいと言ったのは始の配慮だ。
     肺の中に残っていた最後の澱みが不意に消えた。
    「やっと人の形になったな」
    「さっきまでは、ちがった?」
     動かせるようになった春の口が開く。
     始は笑うだけだった。
     雨もいつのまにか静かに糸を弾くような音に変わっている。
     気持ちが変わると雨音も軽やかに聞こえる。
     林檎のやわらかな香りと甘みはさっきまでの春ではわからなかっただろう。
    「来るつもりはなかったんだ」
     前を向いたまま始が溢す。
     わかっている、と春はうなずいた。
     春にとっては大事な時間だから、ほんとうは放置しておきたい。
     でも、顔が見たくなった。
     だから来た。
     だから触れずに、近寄らずに、同じ空間にいる。
     始が言葉にしなかった気持ちを春は理解した。
     ひとりの時間を過ごしたから理解できる。
     理解できたから、春は始を許した。
     それ以上はなにも話さず、ソファに並んで座ってお茶を飲む。
     今日は距離も開けたまま。
     ただ存在が近くにあればそれでいい。
     そういう日があってもいいと、春はグラスを傾けた。
    藤村遼 Link Message Mute
    2020/07/27 22:12:35

    【始春】ある雨の日に

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    #2次創作 #腐向け #始春

    雨の日が多いので、こういう日もあるかもしれないというお話。

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