【お題箱】お気に召すまま 今年の夏は始よりも春のほうが休みがない状態だった。
始はドラマやCMの撮影がメインで、一定期間スタジオにこもっている仕事が多かった。春も同じように撮影はあるものの、隙間時間に打合せを行うことが多い。いくつかの雑誌で定期的に掲載しているコラムの執筆もある。オンとオフの切り替えがはっきりしている始に対し、春は間断なく何かしている状態だった。
健康面では問題なさそうだったが、疲れが滲んでいるのも確かだ。
これはリーダーとしての命令、と始が告げたのはふたり揃ってオフを取ることだった。
春のスケジュールは始もおおむね把握している。あとは凝り性の春が本来は休みの時間をコラムやイベントのネタ集めに使わなければいい。そのためには始が隣にいるのが最適だった。
というのは建前で。
もちろん春の心身ともの健康が心配ではあるけれど、それと同時に始自身が春と過ごす時間の少なさが不満でもあった。
仕事があるのはありがたいことだし、できるかぎり応えたいと思う。
けれど一緒に暮らしている相方兼恋人との時間だって必要だ。
スケジュールを春がやりくりした結果、オフを迎えたのは9月も半ばになろうかという頃だった。
「おつかれさまでした」
「ありがとうございます」
「ふたりとも、明日はゆっくりしっかり休んでくださいね」
寮まで送り届けてくれた月城に頭を下げると、中へ入るよう促される。大丈夫だとわかっていても、月城はいつも見送りを許してくれない。
「おやすみなさい」
手を振り、始と春は並んで寮へと入った。
「おつかれさま」
「おつかれ」
深夜の帰宅でふたりとも疲れは溜まっている。翌日がオフとはいえ、恋人とどうこうするだけの体力はなく、春に無理をさせたくもなかった。
部屋の前でそれじゃあと片手を上げてから、ベッドに潜り込むまではどうにか人の形を保っていられた。
そこから先は記憶がない。
目が覚めた始はまず時間を確認する。
午前10時。思ったよりも早い。すっきりした目覚めなのは眠りが深かったためか、あるいは今日のオフが楽しみだったせいか。
二度寝することなくベッドから抜け出ると、身支度を整えキッチンへと向かう。
冷蔵庫から鶏ハムとクリームチーズ、レタスを取り出しバゲットに挟んでいく。ラップで包むとトレイに乗せて隣の部屋へと向かう。
この時間になっても連絡を寄越さないのだから、どうせ寝ているだろうという始の予想は当たっていた。
合鍵を使って入った春の部屋は静かだった。
トレイをテーブルに置いた始はホケキョくんの水を交換する。寝る前に春が準備した形跡はあったが餌も念の為追加しておいた。
ひとしきりホケキョくんを撫でてやる。
それから寝室のドアを開けてベッドへ近づいた。
「春」
始の声にもぞりとタオルケットの塊が動く。動いたが、すぐに止まってしまう。
ベッドの端に腰掛け、始はその塊に手のひらを置いた。
「はーる」
普段と逆だなと始は小さく笑った。
なかなか起きない始を起こすのは春で、こんな風にタオルケットに潜り込んだままなのは珍しい。
それだけ疲れが溜まっていたのだろう。寝かせてやりたい気持ちもあるが、約束があるからそうもいかない。それに、寝過ぎたと後悔するのは春なのだ。
「春、起きろ」
何度か大きく揺さぶると、ようやくタオルケットの中から春が顔を出した。
ぼんやりとしている顔は覚醒しきっておらず、始がいることも理解できているかどうか。
「はぁる」
ひたひたと手の甲で頬を柔らかく叩き、前髪をかきあげて額にキスを落とす。ふにゃりと目を細めた春が始へと両腕を伸ばしてきた。
「はじめ」
寝起きで掠れた声は事後のそれにも似て、始の心を甘くくすぐる。
求められるまま唇を重ねる。触れるだけのキスを何度かすると、春の瞳に光が射す。
「おはよう、始」
「はよ」
やっと目が覚めたらしい。
浮いた背中に両腕を回し、春を抱き起こしてやる。
「……何笑ってんだ」
腕へ伝わる振動に始は顔をしかめる。
「始が、珍しく甲斐甲斐しいなあと思って」
「たまにはな」
春の柔らかな髪をかきまぜると、嬉しそうな顔を春が見せる。
「俺へのデレはともかくとして、たまには自力で起きてくれると嬉しいんだけどなあ」
「善処する」
「起きることに関しては始が善処したことなんてないだろ」
「るせ。朝飯いらねえのか」
「都合が悪くなるとすぐ逃げる」
くすくすと笑いながらベッドから出た春はパジャマを脱ぎ捨てる。背を向け着替える春を始は待った。
「お待たせ」
リビングへ移動し、春が作ったアイスティーと始が持ってきたサンドイッチで簡単な朝食をとる。
昼は少しだけ贅沢をしようと個室でのランチを予約している。
それまでの間に本屋に行きたい、というのが春のリクエストだった。今から出かけたのではギリギリだなと思うが今回はある程度時間が読める。
始に本を選んで欲しいと春がリクエストしたからだ。
読む本に関しては始も春もジャンルにこだわっていない。けれど選ぶ傾向は違っている。自分で選ぶと偏るからたまには視点を変えたいらしい。
春自身で選ぶと時間はいくらあっても足りないが、始が選ぶのであればコントロールはできる。
選ぶのは始だが支払いは春自身で、というところが春らしいと始は思う。
信用されているのだ。
春が選びそうになく、かつ、ほどよく春の知的好奇心を刺激する内容を選ぶことと、多すぎず少なすぎずの冊数を選んでくれることの両方を始がしてくれると春は信じている。
予約したレストラン近くの大型書店に着くと、何も言わないうちから春はカートを準備した。上下2段にかごが置かれているのは、どちらも埋めろということだろう。
「よろしく、始」
苦笑する始に春は柔らかなウィンクをしてみせた。
夏休みの名残のようなフェアコーナーから春が読んでいないであろうタイトルをいくつかピックアップしてから、文芸エリアで単行本を棚から引き抜いた。
今話題の、とポップや帯に書かれた本はあえて手に取らない。
コミュニケーションの道具として、また、どの部分が受けているのか分析したがる春ならば、始が選ばなくても自分で選ぶだろう。
人文エリアは海外著者と国内著者をそれぞれ選ぶ。多少悩んだが、始自身も後で春から借りようと思う本をチョイスした。
始が選んでいる間、春は傍でおとなしく待っていた。言葉もあまり交わさない。口出ししたと思われたくない春は沈黙を選んだのだ。よくしゃべる、とは言われるが口を動かしていなければ死ぬタイプではない。必要がなければ春は黙っていることも多かった。
その代わり、始が選んだ本をかごへ入れるたびに面白いと言わんばかりの視線を寄越す。反応を見る限り、始の選択は春のお眼鏡にかなっているようだった。
フロアを行き来しながらふたつのかごへ本を入れていく。
冗談で料理本コーナーの前で立ち止まったときは春の顔を撮りたくなった。含み笑いをする始の背中を春が強めに叩く。
「はーじめ」
「はいはい」
頬を膨らませる春を笑って始は歩き出す。写真集の棚で自然をテーマにしたものと、人工建築物をテーマにしたものを選び取る。動物の写真集は寮にアニマルズがいるし、春なら自分で買いそうだからやめておいた。
最後に科学コーナーで大型の図鑑を2冊、かごへ入れる。
このときが最も春の顔が変化した。意外、と言わんばかりの表情に満足した始はレジへと向かう。
「春、会計」
「はぁーい」
嬉しそうに財布を取り出す春を見た始は、気に入ったらしいと判断して胸をなでおろした。
冊数も多いので本は事務所宛に配送してもらうことにした。予約したレストランへ両手に紙袋を提げて訪ねるわけにもいかない。
「ありがとう」
書店を出ると春が礼を言う。
「支払いはおまえだろ」
「そこじゃなくてさ、始が貴重なオフの時間を使ってくれて、俺のために本を選んでくれたことが嬉しいんだ」
「貴重なオフなのはおまえもだろ。……まぁ、たまにはこういう遊びも面白かった」
自分以外のために本を選ぶ行為は、プレゼント選びとも違う楽しさを始にもたらした。相手が春だったから、というのももちろんある。相手の好みを理解した上で予想を超えた選択に、春が驚きと喜びを同居させた表情を見せたことも始は嬉しかった。
「それにしても図鑑とはねえ」
大人向けの画集に近い図鑑を思い出しながら春は目を細める。文芸書に傾くかと思っていたのだ。これだから始と一緒にいるのは楽しいと春は思う。
始がそれを選んだ理由は明確だった。
「たまには文字より画像から情報を得るのも面白いだろ」
「そうだね」
「お前の視力がこれ以上落ちても困るしな」
「本当の理由はそっちだね?」
苦笑しながら春が周囲へ視線を走らせる。
いくつかの角を曲がって路地を歩く今は平日の昼ということもあって人がいない。真夏よりも角度の落ちた太陽がふたりを頭上から照らしているだけだ。
「もうひとつ聞いていい?」
「なんだ?」
「配送サービスを使ったのは重いからだけ?」
春の口元が柔らかなカーブを描く。期待に満ちた瞳はまっすぐに始を見つめていた。
日よけを兼ねた変装用の黒いキャップを指先でいじり、始は答える。
始がなんと答えるか、春はわかっている。
わかっていて、始に言わせたい。
「貴重なオフなんだ、俺以外に夢中になられてたまるか」
春が予想した通りの理由を始は口にする。
いつもであれば素直にならない始でも、久しぶりにふたりきりで1日過ごせるとあってか浮かれているらしい。素直に言葉を吐き出す始に春は大きく頷いた。
「それじゃあ、美味しいランチの後は、俺と一緒の時間を堪能してくれませんか」
ふは、と始は笑う。
「堪能どころか残さず全部喰ってやる」
春を覗き込むように顔を近づけた始の目つきは夏の名残を宿していた。
春が期待したのと同じように、始だって期待している。
少しだけ贅沢なランチの後は、とびきり贅沢なふたりきりの時間が待っている。そう考えるだけで始の頬は緩んでいく。
春の大きな手のひらが、無言で始の背中を叩いた。