【始春】残り1割 春の髪は緩やかに波打ち、風に乗るようにふわりと動く。指を差し入れると優しく絡みついてくるので、ふたりきりのときは無意識のうちに触れてしまう。始の真っ直ぐで黒い髪とは真逆な春の髪を気に入っているのは、春も薄々知っているのだろう。無遠慮にかきまぜても軽く笑うだけで咎めはしない。
その髪は、ライブになると変化する。
最初はいつも通りのふわふわとした髪だが、歌い、踊りを重ねていくにつれて汗を含ませる。重力とは無関係だった春の髪が、しっとりと濡れて降下する。頬に、額にはりつく髪をMCの間に直すしぐさはどこか色気があった。
同じ姿を始は別の場所で見る。
仄暗い寝室、ベッドの上で、始に組み敷かれて甘やかな声をあげているときだ。
背中を丸めて始の背中にすがりつき、ひっきりなしに嬌声と吐息を漏らす春の髪は、汗に濡れてピタリと皮膚にはりついている。
あるいは始の上で、両脚を大きく開きながら始の熱を受け入れているとき。逃げられないよう指と指を絡めあい、手のひらと手のひらを重ね合わせた春は湿った髪を首筋にはりつかせている。
汗を散らしながら踊る姿はキレのある動きとともにかっこいいだとか、綺麗だとか評される。けれど始にとってはステージの上も、ベッドの上も、艶めかしくて扇情的に映る。
アンコールのラスト一曲。
コンビ同士で踊り合う振りのために春が始へと近づいてくる。間奏の合間に呼吸を整えようと胸を上下する春と視線が合った。熱を孕んだ春色の瞳が始を捉える。
繋がり、絡みあった末に熱を吐き出す寸前のように潤んだ目だ。何よりも始の体温を上げる色。嗚呼、ここはどこだ。視界が春で埋まる。
手が、伸びた。
直後、キャアアア! と客席から悲鳴が上がる。何か起きたのだろうか。
「始」
音にならない声で春に呼びかけられ、ハッとする。
本来は背中合わせで歌わなければならないのに、始の腕は春の腰に巻きつき、湿った髪のはりつく首筋へ唇を押しつけていた。
客席からの悲鳴は、始が春を抱き寄せていたせいだった。
間奏が終わり、リカバーする余裕はどこにもない。春もここで離せば間に合わないと判断したのだろう、自分の右手を始の手に添える。
また悲鳴。
そのまま片手でできる限り本来の振りを踊りながら歌っていく。ピタリとくっついたままの春から、イヤモニではなく直接声が身体に響く。
ライブが終わったら春は怒るだろうと始は思う。ほんの一瞬、意識を飛ばしてしまったのだ、甘んじて春の叱責を受けるしかない。
けれどファンの子達が喜んでいたのだからと、結果的にはよしとして怒らないかもしれない。それはそれでまぁいいかと、パフォーマンスとして受け入れてしまえる春の柔軟さを始は愛している。
春が身体を離す瞬間、爪の先で始の指をひっかいた。
お咎めのはずなのに、それは情事の最中に見せる駆け引きにも似ていて始は背中を震わせる。
もうすぐアンコールの曲が終わる。終わってしまう。
歌いながら春へと視線を向ける。ステージの端へと向かいながらも春は始の視線を受け止め艶やかに微笑んだ。
軸のぶれないターンを一度。始とシンメトリーに動く春の髪から汗が飛び散る。
すべて終わればもう一度、春は汗に濡れるだろう。
そのときこそは取り違えではなく始の腕の中だ。
意識と思考の9割は客席へと向いているのに、残りは春のことばかり。
「始」
再び近づいてきた春に、客席からは見えないように叩かれた。