【始春】ねこの日のねこ『明日は猫の日ですよ!! 始さん、隼さん、涙、いいですね!!』
恋の言葉はいまだに承服しかねるというか、何故俺が、という気持ちを抱えたまま仕事に向かい、夜になって寮へ戻ってきた始を出迎えたのは春だった。
「おかえり」
胡散臭さを通り越して完全に怪しさを暴発させた笑顔を春は浮かべている。不審者ですと言わんばかりの笑顔に本能が始の足を後ろへと動かした。
「あ、なにそれ」
春が唇をとがらせる。
「お前のその笑顔が信用ならない」
「ひどいなぁ。ちょっとお願いごとがあるだけなのに」
「断る」
「まだ何も言ってない!」
即答すれば春から文句が降ってくる。けれど春の『お願い』がなにかなんてわかりきっている。
「どうせそれをかぶれって言うんだろ?」
後ろ手に持った猫耳のカチューシャがチラリと見えているのほ、隠せていないのではなく隠す気がないのだろう。呆れる始に春はからりと笑った。
「話が早くて助かるよ。というわけで始、猫の日ということでこれをかぶって写真を撮ろう」
「だから断る」
もう一歩下がるが今度は春が前に出る。結果的にふたりの距離は縮まった。
春の横をすり抜けて共有ルームか自室へ逃げる最短ルートを考えようにも、春の立っている場所は絶妙すぎて動けない。こいつ、計算していたな……と始は嘆息した。
「なんで猫の日だと俺がそれをかぶらなきゃいけないんだ」
「猫属性だから」
「はぁ?」
「あ、ちなみに隼と涙はとっくにつけて写真も撮り終わってます。あとは始だけ」
「その写真をどうする気だ」
「SNSに上げるんだよ、もちろん?」
言えば言うだけ始が拒絶するとわかっていながら言葉を重ねるのは、始で遊んでいるからに他ならない。
アイアンクローをお見舞いしようにも、始の両手は荷物で塞がっていてままならない。床へ下ろす隙を狙って猫耳カチューシャをつけられるかもしれず、迂闊に動けなかった。
「年に一度のことだし、ファンの子たちはすっごく楽しみにしてるんだけどなぁ」
「それとこれは別だ」
始がこういうことをすれば喜んでくれるファンがいることはわかっている。わかっているがどうにも納得し難い。
始の渋面に苦笑しつつも春は続ける。
「化粧品のCMだって仕事だからな、で割り切ってた始がどうしてこれだけ嫌がるのかなぁ。お仕事だよ、お仕事? しかもファンが喜んでくれるとっても素敵なお仕事なんだけどなぁ」
「小首を傾げるな。かわいくない」
隼みたいな言い方をするなと威嚇すれば、まぁそういうところも猫っぽいよねなどと真顔で返ってくるからタチが悪い。
結局のところ、やると決めた春はどんな手段を使ってでも遂行するから始が足掻くだけ無駄なのだ。
普段は回りくどい言い訳を並べ立てた上にやっぱり嫌ならやめておこうかなんてすぐに意見を引っ込めるのに、こういうときだけはやけに押しが強くなる。仕事だけでなくプライベートもゴリ押ししろと言いたくなるが言うだけ無駄だろう。
部屋に入れもせず押し問答をするのも時間がもったいない。仕方ないと息を吐き出しかけたときだった。
思考の端で何かが光った。高速でやってきた思いつきに始は乗ることにする。
「……やるなら条件がある」
「条件にもよるけど、それで始が猫耳をつけてくれるならいいよ」
始の性格を見越してか、無理を言っている自覚があるからか、慎重派の春にしてはあっさりと頷いた。
「やるなら俺の部屋だ。いい加減荷物を置きたい」
「了解」
ひとつめの条件は難なく受け入れられる。次はふたつめ。
「それからお前もつけろ」
「へ? 俺も?」
「ファンサービスなんだろ? それならお前のファンにだっているだろう」
「うーん、まぁ確かにねぇ……いいよ、俺が先?」
いや、と始は頭を左右に振った。
「俺が先でいい」
「はぁい」
春の反応は予想通りだった。この手のお遊びで春が難色を示すことはめったにない。だから最初に始が交換条件として『お前もやれ』を提示するのは不向きなのだ。けれど、今回に限っては都合がいい。
始の真意に気づかない春はそれじゃ行こうかなどと笑み崩れた顔で誘ってくる。完全に始が折れたと思い込んでいる。
「そうだな。行くか」
荷物を持ち替え、春の手首を掴む。
「始?」
何故手首を掴むのかと春は首を傾げた。この場合、逃げられないようにするのは春の方だろう、とでも言いたいに違いない。
「どうした? 交渉成立しただろ?」
唇の片端を持ち上げてみせた始に春が息を飲んだ。浮かれていた表情は一瞬で消え失せ、眼鏡の奥で瞳が大きさを変えた。
本能的に逃げようとした春の身体を引き寄せる。
「猫の日って言うんなら、ネコのお前がやらないでどうすんだよ」
「そっちの意味じゃないからね!?」
上下に振る腕は始が指先に力を込めれば痛みで動きを止める。引き寄せた身体を強く抱きしめ春の耳元で囁いた。
「かわいく鳴いてくれるんだろ、はぁる?」
誘いと色気を含ませても春はなびかない。
「いやいやいや、無理無理無理」
「いいって言っただろ?」
「それとこれは別問題!」
「なら、俺の写真もなしだな」
反故だと言えば、それは困ると春は唸る。
始の腕の中から逃げ出さないあたり、すること自体は嫌じゃないのだと思っていたい。
喧嘩をしているわけでもなく、お互いに体調不良なわけでもなく、明日のスケジュール的にも問題ない状態で恋人としての時間を拒絶されるのはさすがに始も落ち込んでしまう。
「何がそんなに嫌なんだよ」
言って、はたと気づいた。
「安心しろ、そっちの写真は撮らない」
「始が常識的な人間で良かったよ」
春からの冷たい視線と嫌味が突き刺さる。
どうやら違ったらしい。黙って春を見つめていると、折れた春がため息をつきながら教えてくれた。
「駆け引きの材料にするのが嫌なんだよ。それだけ」
「悪かった」
春の答えに始はすぐに謝罪した。きっかけは春だったとしても、ラインを超えてしまったのは始の方だ。
「大丈夫。……というわけで始、猫耳つけて写真撮らせてくれるよね?」
「おまえな……」
どこまでが本心なのかわかりにくい態度を取るなと言いたいが、始の心を軽くさせるためだということはわかっている。
「写真は撮る。お前の分もな。けど、そういうのは、しない」
「そういうのって?」
軽やかに春が笑い、身体を始に預けてきた。
「始が望むことなら俺はしてもいいけどね?」
「……はる、」
言っていることが違う、なんて言葉は必要ない。春の言う『始の望むこと』は駆け引きではなく本当にやりたいことだとわかっている。
「条件を変える」
「へ?」
それでも猫耳カチューシャを始につけさせることを諦めてはいない春に妥協案を示す。
「俺の部屋。お前もやる。それと、おまえの秘蔵の紅茶を飲ませろ」
「了解」
お安い御用だと笑う春を離し、ふたり並んで歩き始めた。