【始春】目覚めた君のために
ベッドサイドに置いた時計が起床時間を告げる。
重たいまぶたをようよう持ち上げながら春はアラームを止めた。
腕を伸ばしたまま二度寝をしてしまいそうになったけれど、なんのためにアラームをセットしたのかと言い聞かせてどうにか身体を起こす。
時刻は午前5時。
カーテンの隙間から漏れる光もまだ弱い。部屋に満ちた冷たい空気をかきわけるように春はベッドから抜け出る。
カーディガンを羽織っただけでは通路の寒さは防げない。早足で隣の部屋へと滑り込む。
手探りでスイッチに触れて部屋の明かりを点ける。部屋の主がいる寝室には向かわず、キッチンに春は立った。
持ち込んだコーヒー豆をミルにかけ、コーヒーメーカーへセットする。1杯分のコーヒーが出来上がるのはすぐだ。本当は自分で淹れてあげたいのだけれど、紅茶と違ってコーヒーはいささか味に自信がない。失敗してもやり直す時間が今はない。
コーヒーが出来上がる間に暖房を入れ、部屋を温める。
腕時計を見て時間を確認。
温めておいたマグカップに出来たばかりのコーヒーを注ぎ、春は寝室のドアを開けた。
「はじめー」
薄暗い部屋の照明を点けると、掛け布団の中で塊がもぞりと動く。今日はわずかばかりでも意識があるらしい。最後の手段を使わなくてすみそうだと安堵しながら春はベッドへ近づいた。
「はーじめ、起きて。時間だよ」
「………ぅ、……」
「起きて、ほら、支度しないと間に合わないよ?」
優しく言いながらも春の両手は掛け布団を掴む。一気にまくりあげて始から引き剥がす。
「始」
それから耳元で力を込めて呼びかける。何度か名前を繰り返すと、ようやく始の目が開いた。
「………は、る……?」
「おはよう、始」
始とベッドの間に手を滑り込ませた春は始の身体を持ち上げる。ふらつく身体を支えながら始をどうにかベッドの上に座らせた。
「はい、起きてーはーじーめーくーんー」
「……わか、った…」
こくりと小さく頷く姿はいつもの王様でもリーダーでもない。ただのハタチちょっとの青年だ。
始が寮に戻ってきたのは昨日ではなく今日と言っていい時間で、ほんの数時間しか寝ていないはずだ。本当はもっとしっかり寝かせてやりたいのだけれど、みっしり詰まっているスケジュールを前にそんなことはできなかった。
だからせめてもと春は始を起こす。
忙しいのも大変なのも疲れているのも知っている。肩代わりをしてあげることはできないけれど、ひとりでいるのではないと、それだけでも伝えたかった。
「はーじめ」
始の身体に芯ができたことを確認し、その手にマグカップを握らせた。強い香りは始の嗅覚を刺激したらしく、半分しか開いていなかった目がきれいに開いた。
コーヒーを飲みながら始が春を見上げてくる。
「珍しいな」
「うん?」
「お前なら、紅茶を淹れてくるだろ」
ああ、と春は微笑む。
確かに目覚ましでダージリンを飲みたいと思うけれど、それは春の好みだ。
「早起きしなくちゃいけないリーダーへのサービスです」
ずっと走り続けてくれている始を少しでも甘やかしたい。春にできることがあるのなら、なんだってしてあげたい。
ウィンクをする春に、始は小さく笑いをこぼした。礼を言われなくてもいい。その笑顔だけで春には十分だ。
「はぁる」
「なにかな?」
指先で呼ばれ、顔を近づける。
気づけば唇に柔らかい感触が残る。
「起きた」
「……始、」
「おまえは昼からだろ? 早く寝ろ」
コーヒーをもう一口飲んでから始はマグカップをサイドテーブルへ置く。立ち上がり、パジャマを脱いでいく始の背中を春は苦笑しながら見つめた。
忙しさに春の予定など忘れていたと思っていたのに把握されていた。わざわざ始のために早起きをしたことなど、すっかりバレていたのだ。
それでもいいかと春は思う。
始のために早起きをして、始のためにコーヒーを淹れて、始のために時間通りに始を起こす。それからキスも。
全部、春にしかできないこと。
相方で、親友で、恋人の春だけが持てる特権だ。それがどれだけ幸せなのか、始は知らないだろう。
支度を整えて出ていく始を見送る春に、始が振り返る。
「いってらっしゃい、始」
「いってくる」
くしゃりと髪をかきまぜられる。答える間もなく始が背中を向けて出ていく。
閉まったドアの向こう側へ向け、いってらっしゃいと春はもう一度だけ声をかけた。