【始春】めいっぱいのわがままを
年末最後の仕事を終えて始が寮へ戻ってきたのは明け方に近い時間だった。
共有ルームも暗く、寮全体が静まり返っている。半分は実家へ帰っているせいもあるが、冷えた空気に始は小さく息を吐き出した。
春の部屋へ行こうと思ったが、腕時計を確認してそのまま自分の部屋へと直行した。昨日始が出かける前に、戻ってくるのを待つと言っていたけれど、さすがに無理だろうと始もわかっている。遅くなることはわかっていたし、逆に待たなくていいと返したのは始自身なのだ。
部屋の鍵を開け、中へ入る。
予想に反して暖かな空気が流れ込んできた。始の部屋の鍵を持っているのは始と管理人と、もうひとり。気を利かせて春が暖房を入れてくれたのだろう。夜明け前の最も寒い時間帯に、部屋で震えなくて済むのはありがたい。
部屋の灯りをつける。
何かがソファで動く気配がした。まさか、と近づく始と、ソファを占拠していた春が目を開けたのは同時だった。
「……おかえり」
眠そうな声で、けれどふにゃりとした笑顔を浮かべて春が起き上がる。
「おつかれさま」
次は明瞭な声だった。相変わらず寝起きが良いと苦笑する始からコートを奪い、春はソファを譲った。
「迎えが来るのは7時だっけ? それまで寝てなよ」
「いい。今から寝たんじゃ起きられないからな」
交代するようにソファへ座った始は、背もたれへ頭を乗せて息を吐き出す。
「始」
とがめるような春の声は、少しでもいいから寝て身体を休めろという苦情を含んでいた。けれど始は一蹴する。
「起こせなくて苦労するのはおまえだろ?」
「自分で努力するという選択肢はないの?」
「無駄な努力はしない主義だ」
「そこは努力してほしいなあ」
苦笑いを浮かべる春を手招きする。静かに始の隣に座った春の手を引き、始は自分の膝へと乗せる。
「おつかれさま」
珍しく抵抗らしい抵抗もせず向かい合わせになるよう始の腿へ跨った春が抱きしめてくる。蓄積した疲労は春の体温で柔らかく溶けていく。
「はる」
「はぁーい」
始の呼びかけを、春は正しく理解していた。
実家から迎えが来るまで時間がない。年明けすぐに仕事があるので長期間離れるわけではないけれど、今年最後になるであろう逢瀬を逃す気は始にはなかった。
翌日がオフのときのように丁寧に春の理性が融け落ちるまで愛撫してやりたかったがそれすらも惜しかった。こうなることを春も予想していたのだろう、始の熱を受け止めるそこははじめから甘かった。春も望んでくれていたのだと思うと幸せで胸が熱くなる。
せめてもと深いキスを交わしながら慌ただしく熱をわかちあう。ほとんど服も脱がずに繋がりあい、果てた後は優しいキスをして身体を離した。
本当は離したくはない。けれど時間がなかった。
「いってらっしゃい。それから、良いお年を」
身支度を整え、玄関先で見送る春はさっきまで孕んでいた熱を微塵も感じさせない笑みを浮かべている。この豹変ぶりは相変わらずだなと思いつつも、きっと始だって同じなのだろう。
「そうだ、春」
「うん?」
「どうせおまえのことだからとっくに準備済みなんだろうが、来年の俺の誕生日プレゼント、ひとつ追加させてもらう」
一週間ちょっと先は始の誕生日で、その日はグラビもプロセラも、それどころか始に関わる人達が総出とばかりに祝ってくれる。最初はとまどったが、今は楽しみしかない。
毎年くれるプレゼントも楽しみだが、今回はリクエストしたいものがあった。
「なぁに? あまり高いものは買ってあげられないけど……」
車が欲しいとか言われても無理だからねとからかう春の唇に人差し指を押し当てる。
「おまえのわがままを聞きたい。俺の誕生日にできそうなことでいいから、考えておけ」
「……始?」
逆じゃないの、と春の目が告げてくるが合っている。
「いいか、最低でも20個くらいは用意しておけ」
「にじゅう!?」
「どうせおまえのことだから大したことは言わないだろうからな。安心しろ、無理なら即却下してやる。……じゃあな、春」
時間だ。人差し指を離し、かすめるようなキスをして始はドアを開ける。
「良いお年を」
閉じたドアの向こう側で春がどんな顔をしているのか、想像するだけでも楽しかった。
★ ☆ ★
デジタル時計にゼロを4つ並び、始の23回目の誕生日が訪れた。同時に春は始と唇を重ねてそのまま誕生日おめでとうと囁いた。
ベッドで絡み合うように横たわりながら、始はありがとうと目を細める。
「さてと、誕生日プレゼントをもらおうか」
「もう、先に言ってよ。部屋に置いてきちゃった」
弱い間接照明の中で唇をとがらせる春に始は違うと首を振る。
「もうひとつの方だ、春」
年末、始が実家へ帰る前にねだった誕生日プレゼント。春のわがままを聞きたいというリクエストを、春はきちんと覚えていた。できることなら回避したかったのだけれど、あいにくとお互いに記憶力は良い。忘れたとも言えないし、言わせられなかった。
「ちなみに、始が却下する基準ってなに?」
「教えない」
「ええ……だめ?」
始の腕の中で小首を傾げてみせたが効果はなかった。可愛さのかけらもないからダメだとにべもない。
さっきまでは散々可愛いとか言っていたくせに、と返しそうになったがどうにかこらえた。ヤブヘビになりかねない。今日はもうこれ以上は無理だ。
「じゃあ、始の作った朝ご飯が食べたい」
「了解。それから?」
「このまま一緒に寝よう?」
「それ、わがままか?」
苦笑しながらも始は頷く。おそらくこのふたつは想定内だったのだろう。
ふぁ、とあくびを漏らす始に深く抱きつき春も目を閉じる。
「おやすみ、始」
「おやすみ」
始の手が優しく春の背中を叩く。
次に目が覚めたときはまだ朝と言える時間帯だった。
二度寝してもよかったが、始が欲しがる誕生日プレゼントはちゃんとあげなくてはならない。
「はじめー」
声をかけ、小さく揺さぶると閉じていた始の目がわずかに開く。再び閉じそうになるところを春はとめる。
「起きてよ、二度寝しないで。ねぇ、始」
「……あといちじか、」
「俺のわがまま聞いてくれるんじゃなかったの?」
その瞬間、盛大な舌打ちが聞こえてきた。
まさかとは思ったが、どうやら本気で始は春のわがままを叶える気でいるらしい。冬眠明け直後の熊だってもっと敏捷に動くのではないかというほど重そうに身体を起こした。
「すごい……」
感動して思わず声が漏れる。
「……っるせぇ……二度はねぇぞ……」
「わぁ、舌打ちだけじゃなくて悪態もひどい」
ベッドで四つん這いになった状態ではどれほど強く睨まれても効果は薄い。
よろよろと立ち上がり、着替え始める始の背中はどう見ても黒田並の眠気をしょっていた。笑いそうになったが春もベッドから降り、睡魔と戦う始に声をかける。
「先に共有ルームに行ってるね」
もしかしたら始へのサプライズが既に準備してあるかもしれない。そこへ始と一緒に突っ込んでいくのは野暮というものだろう。始だけが味わえる特権だ。
春の意図を理解した始は小さく頷く。
「あ、始が作ってくれるのは朝じゃなくてもいいからね」
「どうせなら三食全部作ってやるよ」
「ほんと?」
嬉しいなあと春が笑えば、ようやく始も人の顔で微笑みを返してきた。
いつもと同じように6人で、けれどいつもより豪華な朝食を終えると仕事や学校へとそれぞれ出かけていった。
始は寮で仕事を、春は午後から仕事だったので時間に余裕があった。
次のわがままを言え、と急かす始に苦笑しながらいくつかを春はねだった。
「始の淹れた紅茶が飲みたいなぁ」
「最近読んだ本を貸してくれる?」
「少し散歩に行こうよ」
「風邪をひくからマフラー巻いて」
「肉まんが食べたい」
我ながらささやかなわがままだと春は思う。けれど始相手であっても、いや、始だからこそ大それたわがままなんて言えやしない。そもそもこうやって始と一緒にいられるだけで幸せだというのに、これ以上をどうやって望めというのだろう。
実のところ、年末年始の休み中に考えたとは言え、これでもいっぱいいっぱいなのだ。
けれど始はまだだと次を要求する。
「次はなんだ?」
ささやかすぎてそろそろ始がいらつきはじめる頃だろう。視線に少しばかりの呆れが混じっていて(こんなもの、今日でなくたってやってるだろう、と言わんばかりの)、春はひとつとっておきを出すことにした。
「あのね、始。黒田を洗いたいんだ」
「……は?」
「黒田を洗いたいから、手伝ってよ」
にこりと微笑んでみせると始の視線が動いた。共有ルームへ入りかけていた黒田と目が合う。ふたりの視線を浴びた黒田が異常を察してびくりと止まった。逃げ出さないのは空気に飲まれたせいかもしれない。
「うん、無理しなくていいんだ、これは俺のわがままだから。……でも一度は黒田を洗いたいなあって思っててさ、……無理にとは言わないよ? ほら、俺は黒田に嫌われているから、いくら俺のわがままだって始にできないこともあるしね」
わざとらしくため息をついてみせれば始は簡単だ。負けず嫌いに火がついた。春へ戻した視線に炎なような光が灯る。
けれどさすがに黒田が相手となると気持ちが揺らぐらしい。黒田と春の相性が悪いとわかった上での春のわがままなのだ。宣言通りに却下してくれても構わない。8割くらいは却下されるだろうと春も踏んでいた。
無言で始と見つめ合う。
愛情を交換するような優しいものではなく、探られ、それを受けて立つという勝負の視線が交わる。
たっぷり数十秒は経っただろうか、深い深いため息を始はついた。
「春、おまえな……」
「うん?」
始のしなやかな指が春の髪をかきまぜる。わ、と声をあげる春に構わず始は続けた。
「俺が却下したら、これでおしまいって言うつもりなんだろ」
正解。言葉に出さず春は笑った。
食事や散歩の最中もいくつかわがままと称して始にねだった。そして黒田を洗いたいというわがままがちょうど20個目。年末、始が考えておけと言われた数のわがままだった。
できればやりたいとは思うものの、本当に黒田まで巻き込めるとは思ってはいない。却下されることを前提にしたわがままだった。
これ以上は過ぎると春は思っている。半日の間に始が叶えてくれただけでも十分だ。
けれど春のそんな思惑を始は見抜いてしまう。
「ったく。そういう遠慮はいらないんだよ、春。おまえはろくにプレゼントもできねえのか」
「なにそれ」
始の手が春から離れる。そして黒田へ近づき、なにごとかを話している。人間体になったことがあるとはいえ、今はただのウサギだ。ちょっとばかり、否、かなり大きなウサギだけれど。
ボソボソと始の声が聞こえる。
「……頼む……そう、…いや、わかってる…ああ…」
「そこまでがんばらなくても」
ウサギ相手に頭を下げる勢いな始に苦笑すると、肩越しに黒田と目が合った。大変不本意です、と黒田が鼻を鳴らす。
それで終わり、逃げるだろうという春の予想は外れた。ダンダンダン、と黒田が足で床を叩く。振り返った始が真顔で頷く。
「いいそうだ」
「うそぉ!?」
思わず叫んだ春の脛を黒田が思い切り蹴り上げ、さらに大きな悲鳴をあげてしまった。
ドライヤーを終えると始の手が黒田の背中をいたわるように撫でていく。ふわふわのバスタオルに包まれた黒田が身震いして立ち上がった。今にも春を蹴り倒しそうな顔をしていたが、始が近くにいるせいか黒田は我慢しているようだった。
いつもであれば愚痴を言うところだが今日の春は違う。
「ああ……最高……! 黒田を洗える日が来るなんて…最高…!」
これ以上はないほどの幸福感に包まれて春は顔を上向かせる。
「おまえがそこまでふにゃふにゃなのも珍しいというか、そこまでのものか」
春の隣で複雑な顔をする始に、もちろんだよと春は笑う。自分でもキラキラした笑顔だと自覚しているが笑いを抑えきれない。
「だって、黒田だよ!? 始はいつも懐かれているから気にしないだろうけど、俺にとっては天変地異にも等しいからね?」
「さすがに言いすぎだろ……」
苦笑した始の手が黒田から離れる。途端にバスタオルを跳ねのけて黒田が走り去る。まさしく脱兎だ。
片付けを終え、共有ルームのソファへ並んで座る。
黒田の手触りを反芻する春の手は空を掴んでは離す。
「はーる」
「うん?」
「余韻に浸るのはいいが、俺を忘れるなよ?」
「あ、ごめんごめん」
あきれたような声を出すものの、存外始は満足そうだ。今日のわがままで一番難しいものだったからだろう。
時計を見ればそろそろ出かける時間だ。始のために紅茶を淹れるくらいは余裕がある。キッチンへ向かおうとした春を始がつかまえた。
「春、次はなんだ?」
「ええ、次? もう20個言ったよ?」
考えていたわがままのストックは尽きた。ねだれることはほとんどない。そう言いかけて、一度口を閉じた。
ねえ、と始の手を取りながら春は尋ねる。
「どうしてわがままを言え、だなんて言い出したの?」
誕生日プレゼントとして成立するものなのか、春にははなはだ疑問だった。どちらかと言わなくても、逆ではないだろうか。始のわがままを聞く、あるいは春の誕生日であれば納得できた。始の誕生日なのに、何故春のわがままを言う必要があったのか。
春の疑問に、簡単だ、と始は笑った。
「おまえが俺にわがままを言うのはあまりないからな、たまには聞いてやろうかと思った」
「ええ、それだけ?」
「それとな」
握っていない方の手で春の頬を始はゆっくりと撫でる。情愛を込めた動きは春の背筋をピリリと刺激する。
「俺の誕生日に、って言えば、おまえはその間、ずっと俺のことを考えるだろ?」
「……え、」
「その時間込みで、誕生日プレゼントだ」
撮影や舞台で長期間会えないことはざらにある。大学を卒業して本格的にアイドルとして働くようになってからはなおさらだ。
今回の年末年始の休みはいつもよりは短かった。だから飢えるほど離れていたわけではない。
それなのに、会えない間も始のことを考えていろだなんて、なんてわがままな王様なのだ。
始のひたむきな眼差しのせいなのか、言われた言葉のせいなのか、頬が熱くなっていく。
「…………はじめ、」
鼻先が触れるほど始が顔を近づけてくる。反射的に目を伏せたら、ふ、と始の息が皮膚をくすぐった。
「次はなんだ?」
「もう……」
そういうことかと春は苦笑する。するりと両腕を始の首筋へ回し、優しくねだった。
「始、キスして?」
これは21個目なのか、さっきの質問を入れて22個目なのか、聞こうかと思ったがやめた。始が望むなら、一日限定でも構わないというのなら、ほんの少しだけ枷を外してみようか。
触れ合わせるだけのキスを繰り返し、始が舌を滑り込ませてくる前に唇を離した。
「はる」
不満そうな始の頬を撫で、あとでね、と春は微笑んだ。
「俺はそろそろお仕事行ってきます。……だから、帰ってきたら、ね?」
「ね? なんだ?」
言わせたい始のわがままが春は嬉しいなあと感じる。
ああそうか、とようやく気づく。愛おしい人のわがままならば、なんだって聞きたいしかなえてやりたい。それは始だって同じなのだ。
「誕生日おめでとう、始。俺が帰ってきたら、好きなだけ俺を愛してくれる?」
最後のわがままも、当然だろうと始は笑って受け止めた。