【始春】幸福な五分 黒い寝具は身体を心地良い暖かさで包み込み、覚醒したばかりの意識を微睡みへ誘おうとする。
うなじにかかる恋人の寝息は穏やかだ。
こんな朝を迎えるようになってどれくらい経っただろうか。
カーテンの隙間から射しむ光が床へ作る線をぼんやりと眺めながら春は思う。
サイドテーブルには丁寧に置かれた眼鏡と水のペットボトルが一本。
始と熱をわかちあうようになってからしばらくは、未明と言ってもいい時間帯に春が自室へ戻るのが常だった。
それを始は嫌がった。
だから翌日がオフだったり、午前中の予定がないときは、翌朝に動けなくなるほどに攻め立てられる。
春が嫌がることは絶対にしないから許しているけれど、どうしてそこまでこだわるのか、実はいまでもわからない。
朝、目が覚めたときに恋人の顔が見える幸せを春は知っている。
知っているからわからなくもないけれど、始のこだわる度合いが不思議なのだ。
不思議に感じつつ、今はこうして朝も始と一緒にいる。
始が起き上がるまで、同じベッドで過ごすと決めている。
背後で始が身動ぎをした。
そろそろ起きそうかな、と春は身体の向きを変える。
間近に見る始の寝顔はいつだって綺麗だ。
無防備な寝姿は寮のあちこちでばらまいているけれど、今朝みたいな日は少しだけ特別ともいえる。
泊まりがけの仕事で見る寝顔と、春とふたりきりの寝顔は違っている。
どこがどう、とは言えない。
あくまでも感覚的なもの。
単なる優越感かもしれない。
春だけしか知らない寝顔。
これから先も、春だけが知っていればいい寝顔。
固く閉じられていたまぶたがかすかに動き、睫毛が震える。
薔薇が咲くみたいだ、と春は思う。
「おはよう、始」
菫色の瞳はまだ焦点が合わない。
輪郭が不明瞭な始の顔を見られるのはほんの数十秒だけだ。
はる、と始の唇がかすかに動く。
「おはよう」
もう一度声をかけ、上を向いている頬へ掌を軽く当てる。昨晩にはなかった、皮膚にひっかかる感触が面白い。
端正さから彫像のような顔と言われる始も人の子で、男なのだと知るひとつの変化。
学生時代から知ってはいても、恋仲になるまではこうして触れることなどできはしなかった。
「……はよ。楽しそうだな」
「うん、楽しいよ」
ようやく人の形を取り戻した始が苦笑混じりに息を吐く。
「前は、嫌がってたくせにな?」
自分の頬に触れる春の手を取り、指の関節を撫でてくる。
ついさっきまで春が考えていたことを知っているかのような始の言葉に春はそうだねと小さく頷く。
「見られたくなかったからね」
「今もだろ」
撫でた指を口元へ持っていきながら始は言う。
よくわかるね、と苦笑する春を始が引き寄せた。
「わかるだろ」
「どうして?」
「仕事で泊まったときは、おまえ、起きてすぐ眼鏡をかけるだろ」
「……そうだったかな?」
「知らぬは本人ばかりなり、ってやつか」
言いつつも、始の目は楽しそうだ。春がわかってやっていると知っているのだろう。
夜をともにした翌朝の顔を見られたくないのは始の反応を見たくないからで、それならば自分の視界がぼやけたままならいいだろうという理由でどうにか折り合いをつけている春を始は知っている。
これ以上は春が逃げるとわかっているので始も深くは踏み込まない。
始の唇は閉ざされ、言葉よりも雄弁なその指が、掴んだままでいる春の手をゆるゆると弄ぶ。
春の手を見ているせいで伏せ目がちな始は色っぽく、昨夜の名残りを感じてしまいそうだ。
しばらく始の好きにさせていたが、そろそろ解放してほしくなる。暇というよりは、いたたまれなくなってくる。
「朝だよ」
「そうだな」
「起きようよ」
完全に覚醒しているのに始はベッドから出ようとする気配がないので春も起きられない。
「もう少し、な」
春を抱きしめたまま始が身体の向きを変える。
仰向けにされた春へ覆いかぶさってくる始をずるいなあと春は思う。
春がどうにかつけた折り合いを受け入れた上で、春を逃がさないから始はずるい。
「お腹が空いたんだけど」
それでもささやかな抵抗を試みる。
「後で作ってやるからもう少し」
伏せていた目を持ち上げて始が甘くねだる。
「今がいいなあ」
「はーる」
「はぁい」
しかたがない、と春は静かに目を閉じる。
そこまで要求していないぞ、と言いながらも始の声は嬉しそうだ。
すこしだけ。
あと五分だけ。
与えた許しは重ねた唇に飲まれていった。