【始春】秘密の共有者 夕方に仕事が終わり、寮へと戻る途中。
事務所から駅へと向かうために大通りを右に曲がったところで始の視界に何かが入り込む。
「?」
ひらひらと動く何かに顔を向ければ、ふたりの少女が手を振っていた。
「お兄ちゃん!」
始に向けられたであろう言葉に首を傾げるより早く、少女たちが誰かを認識する。マスクの下で、始の口元はやわらかくほどけていった。
バタン、と共有ルームのドアが荒々しく開く。
テーブルに教科書とノートを広げていた駆と恋が、その音にびくりと身体を震わせる。
ドアに背を向け、駆と恋のノートを確認していた始がゆっくりと顔を上げた。
「睦月君、お話があります」
始の真後ろに立った春の全身から怒りにも似た空気が放たれている。口元には微笑みが浮かんではいるものの、柔らかさのかけらもない笑みはかえって春の感情を際立たせてしまう。大声を発するわけでもなく、ただ立っているだけなのに強い威圧感は駆と恋の背筋を凍らせる。
睦月君、と呼ばれた始のこめかみがピクリと動いたが何も言わない。さらりと流した。
「こいつらの勉強が先だ」
始がそう言えば春が譲ると見越してのことだろう。けれど春の表情は何も変わらなかった。むしろ眉間にいっそうシワが寄っている。
「いっ、いえいえ! 自分でやりますから春さんどうぞ!」
これは絶対無理ですって、とうろたえながら恋が答える。始が視線を向けたのに、駆が何度も頷く。
はぁ、とわざとらしく大きなため息をついて始が振り返った。
「五分だけだぞ」
「それで十分。……ごめんね、ふたりとも」
年少ふたりに向けられる春の笑顔だけは本物で、我を忘れるほどではないのだとふたりはそっと胸をなでおろした。
五分だけ、と宣言した始は春に身体を向けはしたものの、立ち上がる気配は微塵もみせなかった。
「これ、どういうことかな?」
そう言って春が差し出したのは自分のスマートフォンだった。トークアプリの画面が開かれ、ディスプレイ上部には『弥生家居間』という文字が見える。
そして中央には始とふたりの少女が写った写真があり、下の吹き出しに『始さんとデートしちゃった💜』というコメントが載っている。左右を春に似た少女に挟まれた始の顔はいつもより緩んでいて、鼻の下を伸ばして! と春が低く叫ぶ。
あちゃあ、と駆が思わず声を漏らした。
そして春が何故「睦月君」と呼んだのか、恋も駆も理解した。始が動じなかったのは春の行動が読めていたからだろう。
「どういうことも何も、帰りに偶然会っただけだ」
「デートって書いてあるけど、何をしてくれたのかな?」
「立ち話もなんだからとカフェでお茶をしただけだが?」
「へえぇぇ?」
春の声が一段低くなる。
「俺に断りもなく、俺の妹たちとデートしないでくれないかな」
「断りを入れればいいのか?」
「駄目。絶対駄目」
茶々を入れた始を遮るように春は首を左右に激しく振った。恋と駆は視線を合わせ、小さく頷く。始さん、遊んでるね、と。
ふたりのアイコンタクトにも気づかない春は大きなため息を吐き出す。
「しかも始のこと、『お兄ちゃんって呼んじゃった』って……」
「うわ」
「ええ!」
これはさすがに声が上がった。始は苦笑しながら説明する。
「人がいたからな、俺の名前を出すのはまずいと思ってくれたんだろ」
始という名前を出せば周囲にはアイドルの睦月始とわかってしまうかもしれない。とっさの判断だったんだろうとフォローする始に春は頷く。
「そこはファインプレーで褒めたけど、それとこれは別! 未成年の女の子をふたりも連れ歩くなんて犯罪だよ、犯罪!」
「相方の妹とたまたま会ったから話をしただけだろ。これのどこが犯罪だ」
「俺にとっては犯罪だから、それ」
画期的ですねという駆のつぶやきは黙殺された。恋が背中を叩いて慰める。春にはきっと聞こえていない。
「言っておくが、おばさんに電話して許可はもらってるからな」
学校帰りで制服を着ていたし、どうせお前が文句を言うのはわかっていたからなと涼しい顔で答える始に春は言葉を飲み込んだ。始を大好きな母親にまで連絡がいった上でのお茶となれば春に勝ち目はない。かつて出禁にしかけたときも、弥生家の女性陣から猛反発を食らっている。
「それで?」
長い脚を組み替えながら始が促す。春が怒っているのはデートをしたからじゃないだろう? と始の目は楽しそうに光っている。
「それはそれで怒ってるけどね? 男の人に声をかけられてホイホイついていくのは大問題」
「知らない男だったら、だろ? 俺が一番安全じゃないか」
「自信満々に言うことじゃありません。ついでに言えば始が一番危険です」
「お前にとって危険なのと、あの子たちにとって危険なのは関係ないだろ」
「関係ない? 大ありだよ、始。今後、俺の妹から半径十キロは近づかないで」
「……じゅっきろ…さすがに無茶がすぎません?」
思わず口に出してしまった駆を春が睨んだ。
「春、あと二分」
五分だけと宣言した時間を測っていたらしい始が春の文句に蓋をする。延長するのは問題ないです、などと恋や駆が口を挟む余地はなかった。
口をモゴモゴと動かした後、春は眉尻を下げて始に問う。
「……妹と、何を話したの?」
さっきまでの勢いはどこへやら、急速に春の声はしぼんでいく。
「妹たちに聞いても内緒、って教えてくれないんだよ」
グラビで一番大きな身体が小さくなった。しゃがみ込み、うなだれる春の頭頂部へ始が手を伸ばす。柔らかにうねる髪を指先に絡ませ、内緒だな、と笑いを含ませながら始は答える。
「春には秘密、って約束したからな。残念ながら教えてやれない」
「俺に言えないことってなに!?」
勢いよく顔を上げた春に始は笑う。優しくも柔らかくもない、いたずらっ子の顔つきで。
「安心しろ、悪い話じゃない」
「いやいやいや、全然安心できないんですけど。俺に言えないって、どういう……」
軽く握られた始の手がコツンと春の頭にぶつかった。
「時間だ。お前は部屋に戻って寝ろ。明日早いんだろ?」
そう言って春に背中を向けた始は、おとなしく座っていた駆と恋に待たせたなと声をかける。それ以上話すことはないと態度で示す始に諦めたのか、さっきまでの勢いを完全に失った春はおぼつかない足取りで自室へと戻っていった。撮影のため、早朝どころか未明に寮を出なければならないことはちゃんと覚えていたらしい。振り返りもせず、おやすみ、と始は唇に言葉を乗せた。
嵐が去って静けさを取り戻した共有ルームに恋の声が響く。
「始さん、ほんとに秘密なんですか?」
笑いを堪えるように始は頷いた。
「ああ、秘密だ」
飲み物一杯分の会話なんてたかが知れている。偶然出会っただけで深刻な話などできるわけがない。恋と駆にだって想像はつくことだけれど春には難しいのだろう。何しろ過保護を超えた過保護な愛情を妹たちへ注いでいるので。
「たいした話じゃないんだが、約束は約束だからな」
「始さんって、律儀ですよねぇ」
「お前たちだってそうだろ?」
穏やかな始の視線を受けて、あ、と恋が声を漏らした。
「俺、わかっちゃったかも」
「え、ほんと?」
「多分、だけど。……春さんのこと、なんですよね、始さん?」
離れて暮らす兄は元気なのかとか、無理はしていないのかとか、何か欲しがっているものはないかとか、そんな質問をいくつも始は受けたんでしょう? と恋は言う。
「俺も愛のこと、聞いちゃうと思うからさ」
本人の言葉ではなくて、近くにいる人間から見た家族の話を聞きたい。春の場合、放っておくと無茶をするとわかっているから余計に気になるだろう。
「そっかぁ……」
納得したように頷く駆とふたりで始の顔を覗き込む。
「秘密だ、って言っただろ?」
けれど始の目元はゆるみ、恋の答えが正しいことを示していた。
「まぁ、デート、っていうのは俺も驚いたがな」
「え?」
どういうことかと恋と駆が問う前に、さっさと問題を解けとせっつかれた。
『お願いがあるんです』
そう言って身を乗り出した少女の顔は真剣だった。
『春くんがちゃんと元気でいられるように、始さんが見張ってください』
『俺が?』
『始さんもお仕事で忙しいのはわかってますけど、でも春くんを止められるのは始さんだけだし』
『……最近、春くんからあんまり連絡なくって』
ぽつりと下の妹がつぶやく。そうか、と始は気がついた。ちょうど春の出演しているテレビ番組が立て続けに放送されている。生放送でない限りは前に撮られているが、収録と放送されるタイミングは彼女たちには見えない。その中で春からの連絡が減っているなら、忙しいのではないかと心配するのも当然のこと。
今は余裕があるし、春が連絡しないのは打合せ続きであまり外にも出ず、話題が少ないせいもあるだろう。あるいはプロデュース業に意識がいきすぎて忘れているだけか。
アイドルの弥生春とはテレビ越しに会える。けれど兄の弥生春と会えない、話せない寂しさはよくわかる。
始だって、寮で一緒に暮らしていても仕事の都合で春に会えないと物足りなさを感じるのだ。家族で、しかも春が溢れんばかりの愛情を注いでいる妹たちが寂しいと感じるのは当たり前だろう。
『俺ができる範囲で見張っておく。その代わり、やって欲しいことがあるんだが』
『え?』
茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべる始に少女たちは首を傾げる。その角度とタイミングがなんと兄に似ていることか。
『俺と写真を撮って、お茶してきたってあいつに連絡してくれないか? そしたら絶対、あいつは電話するだろ』
結婚するなら始くんがいい、と妹に言われた瞬間に始を出禁にしようとした春だから、間違いなくメッセージではなく電話をかけてくる。寂しさは電話越しでも話して解消すればいい。
始の提案にふたりは顔を輝かせる。
『いいんですか?』
『もちろん。ただし、俺が言い出したってのは秘密でな』
『やった! 始さんと秘密!』
そして始を挟んで仲良く写真を撮った。春への切り札を増やすためにも始のスマホでも撮影して。
カフェを出て、駅まで送るつもりだった始の申し出をふたりは固辞した。すぐそこですからと言って手を振りながら去っていく彼女たちをその場で見送る。
成人するまでは表に出したくないという春の想いを知っているから万が一を考えてお互いにトークアプリは交換していない。彼女たちから求められたこともない。春に似て思慮深いふたりは始にとっても妹のような存在で、たまに会うたびに愛おしさが増していく。
いつか、『お兄ちゃん』でも『始さん』でもなくて『お義兄ちゃん』と呼ばれたいのだと言ったら彼女たちは驚くだろうか。あるいはもうとっくに知っているのかもしれない。
そんなことを思いながら帰宅する。
少女たちと共有した秘密は始の中でほのかな熱となっていた。