down to earth「あなたは会社のいいなりですね」
何度この言葉を投げつけただろう。そして何年経っても彼はその言葉に対して否定しない。
でもこの言葉を1番投げつけたいのは過去の自分だ。
短大を出て就職して会社のために全てを尽くして残業して飲み会も参加して、業績を上げるため毎日笑顔で窓口業務を請負い何億枚もの札束を数えていた。
それなのに、上司の一言であっさり解雇されて会社を追い出された。あれだけ必死に頑張ってきたことなど全て無駄だったと言われているようだった。
会社のいいなりになってもクビになれば結局水の泡。
だから、会社の為にと必死で頑張っている人を見ると哀れに感じる、そんなに頑張っても報われることなんて結局ないのに。
彼なんて左遷されてまた飛ばされて利用される為に本社へ返り咲き、データ改竄やリストラ対象に巻き込まれている。それなのに、それでも会社にしがみつく。横から見ていて馬鹿じゃないだろうかと冷めた目で見てしまう。
だけど、本当はー
どんなに利用されても、辛い目にあっても会社を愛し続けていられることが妬ましく思える。
私もずっと同じ場所で同じ仲間といい仕事がしたい。
「大前さん、社員になりたいんですか?」
「はい、ハケンではなく社員として雇っていただけるところを探そうと思います」
春子はハケンライフの応接室で近と打ち合わせをしていた。そして春子の衝撃発言に近は戸惑いながらもタブレットで社員登用のある派遣先を検索している。
「まさか大前さんがハケンを辞めたいとはびっくりですよ、でも今は社員の方が安定していますからね。僕も子供の養育費とか考えて社員になりましたし…むしろハケンライフでコーディネーターやりませんか?」
「私の態度にハケンが怯えなければいいのですが」
「確かに、怖いですもんね〜大前さんの顔は…」
そのセリフに春子は目に角が立って近を睨んだ。
「その顔が怖いんですよ、大前さーん」
「とにかく、社員登用できるハケン先を探していただけますか?よろしくお願いします」
春子はそう言って席を立とうとした、その時にふと近が口にした
「そう言えばS&Fも社員登用で募集がありますけど…大前さんは以前ハケン切りにあってますからねぇ」
その言葉に春子の眉がピクッと動いた、聞きたくなかったその会社名。
「そこにはもう2度と足を踏み入れることはございません」
「そうなんですか?僕はてっきりS&Fで社員になりたいのかと思いましたよ」
「そこには私の天敵がいるので、顔も見たくありません」
春子は残していたお茶を一気に飲み干した。
「東海林課長の事ですか?僕は東海林課長のこと今は好きですよ」
「…そういう趣味だったんですか?」
「違いますよ、冗談はやめて下さい。昔よりも丸くなって話しやすくなったなって思ったんですよね。うちのハケンにも仕事のアドバイスをしたり、あの頃の東海林課長からは想像つかないですよ」
「…そうですか」
気のない返事をしつつも、そんなことは初耳だと春子は機嫌が悪くなった。ハケン嫌いのあの人がアドバイスだなんて、一体誰にどんなことを言ったのか。
私にはいつもとっくりだの大前っちだのふざけたことしか言わない癖に。
これ以上、近の口から東海林のプラス面を聞いていると余計にイライラしてしまうと思った春子は
「時間なので失礼します、どうぞS&F以外でよろしくお願いします」
そう要望を伝えて部屋を出た。
バス停で時間潰しに鞄から本を取り出して文字を追う。
けれどそれが一切頭に入ってこない。
東海林は今どうしているのか、リストラはされなかったようだがまた何かトラブルに巻き込まれていないだろうか。
でも、今の彼ならどんな南極、いや難局も乗り越えられるだろう。
名古屋に飛ばされた頃は彼を助けたいと思っていた。でも今はもう私の助け舟など必要ないほど変わっている。
つまり、私などもう必要ないのだ。
私はこれから社員として新しい場所で地に足をつけて生きていきたい。もう昔愛した人などは過去の人だ。
家に着き、ポストから郵便物を取りだそうとすると、ある葉書が1枚ポツンと落とされていた。
【大前さん、お久しぶりです。この度お店をオープンさせる運びとなりました。ぜひ大前さんにもきていただきたいと思っています。オープン日には東海林さんも来る予定です】
そんなメッセージと共にAjiという店名とオープン日が書かれている。
その葉書に春子の心は地震のようにグラグラと揺れた。もう会いたくない、忘れたい、そう思っているのにーどうしてこんなタイミングでこんな葉書が届くのか。そもそも誰から住所を聞いたのか、多分井手がハケンライフの名簿でも見て伝えたのだろう。
里中が独立するという話は聞いていたから、お店のオープンはとても喜ばしいことだ。だからといってわざわざ店に駆けつけるのは自分のポリシーに反する。そうだ、行くわけがない、あんなくるくるパーマに会いたくなんてないし別に行く義務なんてないのだ。
それなのに、春子は無意識に詩を書いていた。
「アジフライ慕情」というタイトルで、頭の中で自分がアジフライを揚げて東海林に食べさせている姿を思い浮かべながら。
そしてピアノを取り出して曲をつけて、デモテープを作る。さらに知り合いの作曲家に電話をしてアレンジをお願いした。
これは里中の店への開店祝いだ、特に意味はない。決してくるくるパーマに会いたいわけではない。むしろ腹でも壊してこなければいいと祈っておこう。
春子は頑なに自分の気持ちを認めず今度は着物のレンタルを申し込みに呉服店へと向かった。