十六夜演歌歌手になる夢を叶え、インディーズで出した「アジフライ慕情」はあるアイドルがカバーしてバズり、YouTube配信200万回再生を突破した。
春子、いや龍前寺アキ子は今やテレビにひっぱりだこの有名人になっていた。
「アジフライ慕情サイコー!!」
女子高生も口ずさみ、街を歩けば有線で流れて耳にしない日はないほどだ。今年のレコード大賞や紅白についても受賞、出場は確実だと言われている。
「龍前寺アキ子ですぅ」
この挨拶も定番となり真似するタレントが続出し、流行語大賞にノミネートされるのではと囁かれていた。
そしてようじ屋のテレビで龍前寺アキ子がバラエティにゲスト出演している様子をじっと見ている男が1人いた。
「今や国民的スターか…」
「東海林さん、大前さんにサイン頼めませんか?常連だったよしみで」
ようじ屋の店主にそう頼まれたが、東海林は里中の店で再会してから3ヶ月会っていない。
「いや、もう大前春子じゃないし俺も連絡先知らないからな…」
「そうなんですか、残念です」
店主は肩を落としつつも、注文の掛け声に威勢よく答えて他のテーブルに向かっていった。
サバ味噌定食を食べ終えた東海林は550円を机に置いて店を出た。
その日の夜、春子がかつて下宿していたスペインバーへ行った。ここにはよく1人で通っていて、スペイン人のマスターとも仲良くなっていた。フラメンコダンサーはマスターの知り合いのスペイン人で、その日も黒いドレスを身にまとい、軽やかなステップを踏んでいた。
その姿にふと春子を重ねてしまうが、慌てて瞬きを繰り返し現実に戻ろうとする。
出会って、離れて、また会って離れてまた会う。
そうやって繰り返すうちにいつのまにか慣れてしまったのだろうか。
あの日、再会した後も結局次の仕事があるとすぐに帰ってしまった。またすぐ会えそうな気がしたのに、次に目にしたのはテレビ画面越しだった。
ダンスショーが終わり、人もまばらになったので
東海林もそろそろ帰ろうかと腰をあげようとしていた。
するとマスターが東海林を引き止める。
「もう少し飲んでいきなよ、サービスするよ」
そう言って赤ワインのボトルを取り出し東海林のグラスに注いだ。
「そう?じゃあもう少し…」
そう口にした時、入口のドアが開く音がして、カツカツと階段を降りてくる音がした。するとマスターがその音がする方に顔を向けて嬉しそうに声をかけた。
「やぁ、ハルコ!久しぶり!!」
その言葉に東海林も同じ方向を向くと、昼間テレビで見た龍前寺アキ子の中の人である大前春子が立っていた。
東海林は思わず席を立ち、大声でいつもの名前を呼んだ。
「とっくり!!」
春子は東海林の隣のカウンターでジンロックを飲んでいた。
そして東海林は一方通行の会話をひたすら繰り返していた。
「お前テレビに引っ張りだこじゃん、芸能人と飲みに行ったりしてるのか?あ、そういやようじ屋の店主がサインくれって頼んでたぞ。色紙持ってないから代わりにコースターにでも書いてくれないか…」
「うるさい、私はゆっくりお酒を飲みたいんです。静かにして下さい」
もう時計は夜の10時を過ぎていた。客もいつのまにかいなくなり、マスターと春子と東海林だけだ。
するとマスターはグラスを拭き終えて
「奥に用事があるから、2人でゆっくり話しなよ」
そう言って席を外した。東海林は内心マスターにグッジョブと伝えて、背中を見送った。
振り返ったらまた消えていないか少し不安になりつつも、横をちらりと見ると春子はまだそこにいてほっとする。
「俺さ、部長になったんだよ。宇野部長が横浜支社に転勤になったからさ」
「……」
春子は返事もせず飲み続けている。
「後さ、俺お見合いして結婚するんだ」
そう告げると春子のグラスがカランと揺れた。
「もう50手前だろ、専務が薦めてくれて取引先の会社の娘さんを紹介してくれたんだ。15歳も離れてるけど向こうは年上好きだから気にしないって言ってくれてさ…まぁまぁ可愛いし俺も身を固めようかなって」
「…そうですか」
春子は目線を落として酒を口に運ぶ。
そんな仕草を東海林はうつろな目で見つめている。自分の結婚話に眉一つ動かさない、相変わらず思考回路が読めなくてワインを揺らして考える。
「嘘だよ…見合いはしたけど断った」
本当にその通りで、取引先の社長には機嫌を損ねられたが正直な思いを伝えると、真面目な男だと称賛されてなんとか契約解除は免れた。せっかく部長になったのに即降格かと覚悟を決めていただけにほっとした。
「そんな下らない嘘、やめてください。全く面白くありません」
春子は東海林に気づかせるように椅子を引きずりながら席を立ち、かかとを強く叩きながら店を出た。
東海林もテーブルにお金を置いて春子を追いかけて行った。店を出るとすぐに川が流れている。その水際を2人は少し距離を開けながら歩いていた。
川面には丸い月がゆらゆらと揺れていた。今日は満月かと思ったが、よく見るとほんの少し欠けている。
見えたり、隠れたり、全く見えなかったりー。
そうか、春子は月なのかもしれない。そして今少しだけ影の落ちた月、数日経てばまた見えなくなるー。
そんな春子を捕まえることもできず、ただ一緒にいる時間を少しでも長くしたくてただずっと1列で歩く。
そうしてしばらく経った頃、突然春子の足が止まった。東海林は何か言われるのかと身構えるが、直立不動のまま動かない。
もどかしくなり、自分から近づいて春子の肩を掴んで振り向かせる。
そして目にした顔色に驚いた。いつか昔見た、ちょっとでも触れたら破裂しそうな悲しみに溢れた表情だった。
「とっくり…?」
「私はもうとっくりではありません、気安く話しかけないでください」
春子は東海林の手を払い除けて、逃げようとした。
だがそれを東海林は許さなかった。
春子が手にしていた鞄が地面に叩き落とされた。
春子の両手は東海林の背中に沈んでいる。
春子は東海林のことをずっと遠くから見守っていた。
名古屋で分かれてから、旭川に行った時もずっと気づかれないように様子を見に行っていた。
その間、東海林に妻や恋人ができるたびに涙を流して忘れようと努力していた。それなのにどうしても気になって他人のフリをしたり、変装したりして東海林に直接コンタクトを取ったりもしていた。東海林は全く気づかなくて、鈍くて鈍感な男だと呆れていた。
でも、1番呆れるのは諦めの悪すぎる自分だ。
演歌歌手になってからも、こっそり東海林のことを見ていた。だが忙しくてバタバタしている間にお見合いの話を聞いて青ざめた。
お見合い現場まで行き、連れ去ろうと思っていたのに楽しそうに若い女と話している東海林を見ていたら虚しくなってできなかった。
だから、マスターに教えてもらってそのあとどうなったのか自分から聞こうと思っていたのに、東海林から結婚すると聞かされ、また名古屋の時のように目の前が真っ暗になった。
だから、嘘だと言われてほっとしたものの無性に腹が立ち、店を出た。自分勝手だとわかっているが、どうしても素直になれなかった。
どうすれば素直になれるのだろう。
そんなことをずっと考えながら、東海林の腕の中に包まれていた春子は、もう少しだけこのままでいたいと強く手を握りしめた。