そこに犬がいたので百音と菅波が一緒に住むようになった折、広めのリビングの一角が兼用の書斎エリアになった。デスクはめいめいものを置き、本棚には雑多に二人の本が混ざっている。使用頻度ごとに本の位置が変わる中、ずっと定位置といえるような場所に寄り添うように収まっているのが気象予報士試験のテキストだった。
百音が使っていた2冊と、菅波が使っていた2冊。同じ本が2冊ずつだが、どちらか1冊を処分するという選択肢もなく、百音が唇をむにむにとさせながら本棚に4冊を並べたとき、菅波もその様子を口元を緩めながら見ていて。その時が、もしかしたら、『一緒に住む』ということを何より実感した時かもしれない。
赤い丸が2つ・青い丸が2つ。お揃いの4冊が並んでいるのも徐々にしっくりくるようになった頃。テキストに書かれていた気象病のコラムの記載内容を確認したいと思った菅波が、学科専門知識編の青い丸の本を開いたところ、百音の書き込みがちらほらと見えた。こっちだったか、と思いながらも、テキストそのものは全く内容が同じ2冊のこと。特に気にせず、目当てのページを見つけて内容を確認し、必要な個所を転記した菅波は、百音の書き込みが散在するテキストを慈しむように、ぱらぱらとページを繰った。
真面目なメモがあるかと思いきや、丸い雲の描写の横に「りんご食べたい」と落書きがあったりするそれが、あの登米の時間を瞬間冷凍して保存しているようで、懐かしい日々に菅波が目じりにしわを寄せながら読むともなく眺めていると、それに気づいた百音が、どうしました?と、自分のデスクから顔を上げた。
「ん?コラムの書きぶりを確認しようと思って、たまたま手に取ったこれがあなたのテキストだったから。懐かしくて」
菅波が落書きのページを見せると、百音も懐かしいですね、とはにかむ。
「あなたは、とにかく、脱線をする人だったからなぁ」
くつくつと笑う菅波に、百音は唇を尖らせてみせ、それがまた菅波にはかわいくてたまらない。
さらに菅波がページを繰ると、裏表紙の間に挟んであった紙がぱらりと床に落ちた。A4を四分の一に折ったと思しき紙を菅波が取り上げると、百音が、あ、と声を上げた。見てはいけないものか?と菅波がかがんだ姿勢から上目遣いで百音を見ると、百音はふわりと微笑み、菅波の手から紙を取って開いて見せた。A4用紙には、手書きの地図が、菅波の少し癖はあるが几帳面な字で書かれている。それを見た菅波は、あぁ、と息を漏らした。
百音が初めて気象予報士試験を受けるという時に、菅波が作成したものである。ちょうど受験一か月前という頃、菅波が初めて訪問診療に行くエリアの話をしたときに、さっぱり方角も道順もあったものではない(ただし、よく吠える犬の位置だけは正確だった)案内図を百音が張り切って描いたのを見て、菅波が危機感を覚えたのは、むべなるかなというところである。
宮城県出身とはいえ、仙台に行くのは友人同士か親に連れられて、という程度の百音が、試験会場の正確な場所も行き方も把握していないことが判明し、そんなことでは落ち着いて試験も受けられない、と菅波は地図を描くことを決意したのだった。
「これまた、懐かしいですね」
菅波がくしゃりと笑うと、百音もうなずいて、そっとその地図を指先で撫でる。
「懐かしいです。合計3回、これを使いました」
「3回とも?」
「うん。会場は同じ場所だったから」
百音の言葉に、菅波が首をかしげる。
「同じ場所だったら、2回目以降は苦も無く行けたでしょうに」
「お守りです」
「おまもり」
百音の指は地図をずっと撫でている。
「この地図を持っていくと、先生が試験についてきてくれてる気がして」
「僕が試験についていっても、問題を解くのは百音さんですけどね」
「…そうじゃなくて」
百音が唇を尖らせたところで、菅波がはにかむ。
「分かってる」
菅波の軽口に、もう、と百音が笑い、菅波も相好を崩した。
「これ、このためだけに仙台に行ってくれたんですよね?あの時」
「え?まぁ、そうですね。仙台に他に用事があるかというとないですし」
菅波が言うと、そうだった、と百音が身を乗り出す。
「あの時、光太朗さん、水族館に行くついでだった、って言ってましたよ」
そういわれて、菅波が、あー、という顔になる。
「そうだったかもしれません」
「その時、私は、そうだったんだー、先生、サメ好きだしな、としか思わなかったんですけど」
「うん」
「その後にサヤカさんに、先生が地図書いてくれたって話をしたら、水族館は今、移転工事で休館中だ、って」
なるほど、サヤカさんにはバレていたのか、と菅波はこめかみに手をやったところで、続く百音の言葉に笑いが漏れた。
「それを聞いて、私は、あー、先生、水族館が休館中なの知らなくて行っちゃって、ヒマになったから地図の確認に行ってくれたのかな~って思ってました」
「なるほど」
本当に、わざわざ試験会場のルートを確認するという考えがなかったんだな、と菅波がしみじみした顔をするので、百音も、ねぇ、今から思えばびっくりです、という顔をしてみせる。膝に両手を置いた百音が、菅波の顔を覗き込む。
「どうして、あの時、ついでだ、なんて言ったんです?普通に、見てきました、でよかったのに」
「うーん、まぁ、それだけのために行った、というのも恩着せがましいかな、とか」
「先生らしい」
嬉しそうにほほ笑む百音に、菅波の顔も緩みっぱなしである。
「毎週、仙台は通っていたけど、街中を歩くことはなかったので、いいリフレッシュになりましたよ。定禅寺通りはとても気持ちのよい通りだったし」
「先生もすっかり仙台に詳しくなりましたけど」
「登米と東京の中間地点だったものね」
百音の手から、自分が昔描いた地図の紙をそっと取った菅波が、それを元通りに折りたたんで気象予報士試験テキストの裏表紙に挟む。挟みながら、菅波が小さく吹き出すので、なにか?と百音が首を傾げた。
「この地図を用意しないと、と決意したのは、百音さんが越菱までの地図を描いてくれた時だったなぁ、と思って」
思い出すと笑いが止まらない様子の菅波に、百音は菅波譲りのチベスナ顔である。そのチベスナ顔の頬を、菅波が両手でむにむにと引っ張ると、百音も笑わざるを得ない。
「がんばって描いたんですけど」
百音が唇を尖らせるが、いやいや、と菅波が笑う。
「北もどっちか分からなかったし、道も途切れてましたよ?」
むむむ、と百音が唇を結ぶが、あ、でも、と菅波が続ける。
「よく吠える犬の位置だけはとても正確でした」
「あぁ、あの。吠えられました?」
「吠えられました」
菅波がしみじみうなずくので、百音がころころと笑う。
「それが、最初、犬が見えなかったので、ここにいないのかな?と思って、車を停めて降りてみたところ、背後から思いっきり吠えられました」
車を降りてまで犬の所在を確かめてみたという菅波の菅波らしさに、百音は心がいっぱいである。
「ほんと、どうしてあの地図で、犬の場所だけが正確なんだか、と感心しましたね」
「どう聞いてもほめてないですが」
「ある意味ほめてますよ」
「ある意味」
今度は百音が両手を伸ばして菅波の両頬を引っ張り、菅波は緩んだままの頬を伸ばされ放題。百音の気が済んだところで、菅波が百音の手を取り、自分の膝に座せる。百音の肩に頭を預け、百音の気象予報士試験テキストを開いた。
開いたページのテーマは気象観測で、気象庁レーダーの写真の丸いドーム部分に矢印で『だいふく』という書き込みが、真面目なドップラー効果や非降水エコーのメモに交じっている。
「やっぱり、食べ物のことが多いですね」
肩越しに笑う菅波に、百音は、夜の勉強でおなかがすいてたんです、とふくれっ面をして見せる。
百音がぱらりとページをめくると、『ここは菅波先生に確認』というメモが目に入る。そのメモをそっと指でなぞった百音は、背中のぬくもりの人がどれだけの支えをくれていたのか、改めて登米での月日に思いをはせる。腕の中で、懐かしいメモを慈しむ百音に、菅波は、あの勉強会の日々がいかにくさっていた自分を立て直してくれたものか、と、ともに学ぶ喜びを今も分かち合えることに感謝を深め。
元師弟、今夫婦の二人は、しばしああだこうだ、と、数年ぶりに同じ本を覗き込んで語り合うのであった。