蛍火の先「あれ?」
もう夕方だから帰ろうと二人の方へ振り返った時、周りには誰もいなかった。さっきまで一緒にいた筈の友人達も、道行く人さえ影も形も無い。気づかないうちに売店にでも入って行ってしまったのかなと、近くの店を覗いてみる。店の中はさっきまで人がいたように電気が点けっ放しで動かされた物がそのままの位置で置かれている。しん、と静まり返る店内に冷たい空気が流れる。人だけがいない空間に薄気味悪さを覚え、私は逃げるように店を出た。外に出ても相変わらず、人気は一切無い。隣の店も、また隣の店も覗いてみたが、誰もいなかった。まるで、世界から切り離されたような感覚にいよいよ戦慄する。
〝どうしよう……〟
宛も無く、ゆっくりと歩き回る。何度周りを見回しても誰もいない。西日が眩しく熱い中、角を見つけると僅かな希望を胸に誰かいないか覗いてみる。しかし、その希望は悉く打ち砕かれ、目に入る光景はただ重く静まり返った路地だ。
「あ……」
何度目かの角を覗いた時、ようやく動くものを見つけた。夕焼けに照らされ、人の形をした影が電信柱の下辺りに映っている。良かった、人がいた。こんな変な空間から出られるかもしれないという安堵とやっと人に会えるという安心感で私は手を振りつつ、路地へ入り、影へ近づいた。
「え」
電信柱に近づいたところでぎくり、と足が止まる。何か、おかしい。影は依然としてそこにいる。電信柱の下に、微動だにしないで立っている。それがおかしいのだ。誰かを待っているにしても、次の行き先を決めかねているにしても、携帯電話をいじるでもなく、ただそこに立っている。普通の人ならば、立っているだけでも僅かな揺れがあるものだ。しかし、その影は微動だにしない。置物のように立っているだけだ。背筋に冷たいものが走った。見てはいけない。頭では分かっているのに、体は勝手にその影の持ち主がいるであろう電信柱の裏を覗こうとしている。覗いちゃいけない。見てはいけない。だめだ、だめだ、だめだ、だめだだめだだめだだめだだめ――
影が動いた。電信柱からぬうっと離れ、こちらに近づいてくる。影の持ち主は、いない。影だけが動いているのだ! 波打ち、地面から生えるように立ち上がった影がこちらへ手を伸ばしてくる。
ぱちんっ、という背後から聞こえた音に一気に緊張の糸が解け、私は弾かれたように走って大通りへ引き返した。逃げなくては。捕まったらいけない。路地を出ると、すぐ後ろでぶつかるような鋭い金属音がした。何事かと慌てて振り返ると、さっきまで影がいた路地は塞がれ、最初からそんなものなど無かったように売店が建っている。
「え? あれ?」
影は? 恐る恐る辺りを警戒するもあの影はどこにもいない。しかし、未だ人の気配は無かった。恐怖と緊張、息切れで収まらない動悸を落ち着かせようとその場に蹲る。
少し落ち着いてきた頃、腕の中に埋めていた顔を上げると、目の前に小さく仄かな光が浮いていた。またさっきの影のように悪いものではないかと思い、手を出さないでじっと見ると、その正体は蛍なのだと分かった。夏でもないのにその蛍はふよふよと元気に飛んでいる。
「蛍? こんなところで……?」
そろりと手を出して捕まえようとすると、蛍はするりと避け、少し離れるとそこで跳ねるように飛ぶ。まるで、こっちだよと言っているような蛍に、どうしようかとその場で考える。今まで人の手がかりになるようなものはあの影とこの蛍だけだ。あの影は見るからに嫌な感じがしたが、この蛍は違う。
〝なんとなく、あったかいような……〟
嫌な感じはしない。他に行く宛も無いと思い、私は蛍について行くことにした。蛍の頼りない光に誘われて友人達と回った道を戻って行く。
ふと、蛍の数が増えていることに気付いた私は何とはなしに蛍から目を離した。石畳の道の真ん中に小さな男の子が立っていた。軍服のようなかっちりした黒い服に昔風の学生帽、裏地には蛍火の絵が刺繍されているマントを纏っている。短い銀髪から覗く澄んだ翡翠の瞳にどきりとした。やっと人に会えたというのに、胸がざわつく。でも、その感覚は何だか不思議と嫌とは感じなかった。蛍が溢れる中、男の子は私と目が合うと、おいでおいでをして歩き始めた。それが合図だったかのように、蛍達は男の子に纏わりつくようにしてついて行く。駆けて行く男の子に見惚れているとどんどん引き離されていることに気付いた。
はっと我に返り、慌ててその後をついて行く。その男の子は一定の距離を保ちながら時折、立ち止まってこちらへ振り返る。私がどんなに走る速度を上げても、一向に追いつく気配が無い。
「待って、待ってよ!」
私の声を無視して男の子はどんどん離れて行く。それにつられて私も足を速めた。最初こそあの男の子は誰だろうとか、どこに連れて行くつもりだろうとか考えていたが、次第にそんな余裕も無くなってきた。それほどまでに足が早いのだ。小さな背中を追って必死に足を動かす。殆ど転がるようにして走り続けていると、不意に男の子が足を止めた。
「捕まえた!」
立ち止まったことをいいことに私は男の子の背中に抱き付いた。と思った。
♦♦♦
気が付くと、私は神社の前で呆けて座り込んでいた。ちょうど、神社まで戻って来た友人達に発見された。二人は心配そうな、泣きそうな顔をして顔を覗き込んでくる。
二人が言うには、突然私がふらふらと近くの路地に入り、そのまま行方をくらましたという。二人の話と食い違うことに首を傾げていると、一人が疲れた溜め息を零した。
「まぁ、とにかく無事で良かったよ。真っ暗だし、もう帰ろう。夕飯食べ損ねちゃう」
「そうだね。もう勝手にいなくなっちゃダメだよ。心配するから」
「うん。ごめん……」
立ち上がり、先を歩く二人について行こうと歩き出した時だった。
「出られて良かったね。また来てくれると嬉しいな」
少年の声がした気がして振り返る。神社の入り口に一匹の蛍が飛んでいた。