現パロ三池兄弟まとめ①①海を見に行く
「よう! ちょうど三人揃ってんじゃねえか!」
やたらと元気いっぱいに突然路肩の車から声をかけられ、物吉はさすがにビクリと両肩を震わせたが、一番反応が早かったのは鯰尾だった。
「ソハヤさん! ビックリした! 元気な誘拐かと思いましたよ!」
「元気な誘拐ってなんだよ。え、やば……。え……」
助けを求めるように物吉のほうを見られるが、思わず言葉を濁してしまった。
「変なやつが春には多いからな」
「いや、骨喰。それ全然フォローになってねえから」
「どうしたんですか? 今日、僕バイトの日じゃないですけど」
ソハヤは高校ニ年の物吉が通うアルバイト先の雇い主だ。自宅の近くで徒歩圏内にある革製品と貴金属工房を兄弟で営んでいる。アルバイトを初めてそろそろ一年になろうとしており、ソハヤとの関係性も良好である。週二日から三日しか行かないが、生活圏が近いので普通に買い物や道端などで会ったりはするが学校帰りに鉢合うのは初めてだった。
「お前ら、暇か? 海行こうぜ!」
*
「ったく、粟田口の連中は付き合いが悪いよなぁ」
「そりゃ突然言ったって無理ですよ。二人とも弟さんたちの面倒もあるんですから」
「お前だって兄弟いるだろ。あと包丁はいっつもうちに入り浸ってるのに」
「包丁くんが入り浸ってるのは、ソハヤさんがなんだかんだいって甘やかすからですよ」
見込みだった大型の納品が終わってそれなりの収入が入った。気分がいいから遠方に行こう、と思い立って、たまたま今日はいない兄弟の代わりに連れて行けそうな物吉と、よく工房に遊びに来ている粟田口兄弟の前田や包丁たちの兄である鯰尾、骨喰に声をかけたらしい。
普段は本人談では工房を作った借金があるのでカツカツの生活をしており(実際物吉から見てもかなりソハヤは節約家である)、気持ちの昂揚に対して発散方法が地味である。
いつもは大型チェーン店でも安くて美味いほうのコーヒーなのに、今日は普段行かない値段が高いチェーン店のコーヒーを買ってくれた。味の好みは結局飲み慣れているからか「やっぱりいつもの店のほうが美味いな」と零して。物吉が前に飲みたいと言ったのを覚えていたのだろうが、金が入ったから、と言い訳する雇い主はそれなりに不器用だが懐に入れた者にはかなり甘い、とまだ未成年の物吉でもわかる。
出発前には兄に電話してソハヤと海に行くと伝えた。「今から海?!」とさすがに驚いていたようだが、ソハヤに代わり、夕飯は食べさせて自宅に届けると約束して出発した。別に夕飯もいらないし、連絡だってする必要なかったが、ソハヤが言えと言うから連絡した。見た目に反して生真面目な男であることを、貞宗の家では重々承知しているので今更なのだが。
ソハヤの運転する車に乗るのは初めてだった。三池兄弟はどちらも背が高い。特に兄の光世は日本人の平均身長を大きく上回る。デカい車は税金が高いとブチブチ言うものの、別に運転は嫌いではないらしく、納品や買い物だけでなく嵐が来たから隣県まで走ったとか、雪が降ったから山に登ったとか、気分転換に目の前のトラックを追いかけて高速まで入って途中で折り返してきたりなど、創作活動の思考錯誤の一環として運転を最大限に利用しているようだった。
なので、その隣に座っているのが不思議だ。隣には光世がいることがほとんどだったし、光世が運転することも多い。手慣れた様子で運転する姿は工房で見る真剣に作業を行なっている姿と似通っていた。
「どうした? 酔ったか?」
「いえ、全然」
「自宅に車、無いのか?」
「ありますよ。でも僕はそんなに乗らないですね」
「そうか」
なんでもない会話をポツポツと交わす。
「海、よく行くんですか?」
「いや?」
「は?」
「どこかを目指して行ったこと、そう言われてみれば全然ねえなぁ」
遠い目線を前方に向けたままそんなことを言う。
いつもソハヤの話は遠い先の話だ。この仕事が終わったら次はこういうことがやりたい。最終的にはああしよう、こうしよう。こうしないと金の工面が厳しいなぁ。
そう言われてみれば、あ、そうか。そうなのか。
そもそもなんでソハヤはこんなことをしているのか。彼はどうしたいのか。なんのためにやっていて、どうなりたいのか。そんなこと、ただのアルバイトの、知り合ってたった一年くらいの子どもに話す必要なんてどこにもない。
だけど、なんとなくわかるのだ。ソハヤがどこかいつもなにを見ているのか、わからない瞳をしていることくらいは。
「海、僕も久しぶりです」
「だよな」
「一昨年、家族で行きました。去年から、太鼓鐘が反抗期で家族で出かけてくれなくなったから」
「ははは。そりゃそうだ。アイツ、ヤンチャそうだもんな」
そういうソハヤも光世に比べたらかなりヤンチャな見た目をしている。ゆうに十以上年齢が離れていたはずなのであまり反抗期にはならなかったのだろうか。
それとも、今更遅い反抗期なのか。
「海行ってなにするんですか?」
「さあ? まだ寒くて入れないしな」
「貝でも集めます?」
「ははは。そんなガキじゃあるまいし」
「もー! じゃあなんで海なんですか」
「覚えてるんだよなぁ。海が見えたことだけ」
意味がわからずキョトンとした。
それをチラリとだけみてソハヤが笑った。
「どこの海だかわからんが、昔いたところから、綺麗な海が見えた。高いところから見下ろすような位置でさ。
海、見るだけでいいんだ。
悪いな。付き合わせて。飯はマジで奢るし、家まで送るから」
「別に、そんなこと気にしてなんかいません」
「ついでに道の駅寄ろうぜ。野菜買いたいんだ。明日から心機一転、新しい制作だし、兄弟も今日打ち合わせに行ってるから、なにか進展があるかもな。
また、忙しくなるぞ。お前もアルバイト増やせよ」
「また賄い付けてくれるなら平日増やしていいですよ」
「あのなぁ、うちは飯屋じゃねえって言ってんだろ」
「だってお二人のごはん美味しいし」
「ったく、見た目の割に大食らいだからな。その分じゃんじゃか働いてくれよ」
「はい! お任せください!」
いつか、その「海」に自分も一緒に連れて行ってほしい。
そうとは口に出さず、精一杯の笑顔を振る舞った。早く大きくなって、この人と対等になれたら、その海に行こう。物吉は、勝手にそう心に決めた。
②その名を忘れないで
夏風邪を引いた。
基本的に体格や身体能力には恵まれているほうで、風邪なんて何年間も引いたことがない。インフルエンザにかかったこともないのが三池ソハヤの自慢だった。
三池の家は元々医師の家系だ。それなりに徹底した予防が習慣として身に付いていたのはかなり大きいだろう。まあ、そこから父親がドロップアウトし実業家となり、その息子である光世とソハヤもまた好きな道を選んだので、もう医師の家系だと言えない。それに元々医学の道に進もうとしていた光世をこっちの世界に連れてきてしまったのはソハヤのせいなのでますます居心地が悪い。
体調を崩しても栄養ドリンクを飲んでうどんを食って一日寝てればなんとかなっていたのが、久しぶりに寝込んだら長い。もう丸二日横になりっぱなしである。寝ているだけで身体の節々が痛い。まるで成長痛のようだった。
寝ていると悪いことばかり考えてしまう。
この家は、今は兄弟二人暮らしだ。趣味で革小物を作っていた光世の作品を、勝手に賞に応募したのはソハヤだった。最優秀賞まではいかなかったが、それなりに賞を取ってしまい、楽しくなったのはソハヤのほうだった。十歳年上の兄が、元々は規格外の自分の体格に合うベルトや鞄が欲しくて始めたその作品作りを小さなソハヤはずっと自分も同じものが欲しい! と駄々をこね、一緒に作ってもらった。兄の作品の一番のファンは自分であると今でも自負している。
医大に進むはずだったのが直前で進路を変えた光世により感銘を受け、同じようにソハヤが美術に興味を持つのは自然なことだった。
美大を卒業してしばらく光世の作品作りと通販や修繕の手伝いをしていたソハヤが、自身の作品で生計を立てたいと一念発起したのは三年後、コツコツと作り貯めていた作品が佳作となった。
「やっぱり俺、家を出るよ」
そう言ったソハヤのために、光世が自分の資産を崩して郊外の一軒家をリフォームし店にしたのが一年後、これでは独立にならないと怒ったが、ならば金はゆっくり返せばいい、という兄の言葉にソハヤは実力行使に出た。
戸籍を抜け、世帯を分離し、店の売り上げだけで生活する。不動産屋を挟みちゃんと店を買い取りローンとして返済する。おかげでまだ二十代のくせして数千万の借金持ちだ。ローンは本来借りられる金額ではなかったが、どうせ光世が実家か父に掛け合ったのだろうと推測している。実家の資産なら支払い能力はあるからだ。
しかし、きちんと自分の金で生活したいソハヤはやきもきしていた。こんな夏風邪でダウンしている間に注文があるかもしれない。通販の受注はどうなった。店のレイアウトもそろそろ季節柄変えなくてはいけない。光世は作品は作れるが、そういった細かいことは得意ではない。アルバイトの物吉はまだ学生なので休ませた。昨日差し入れを持ってきたというから地元密着型の店は悪くはないが気恥ずかしい。貞宗家全体に心配されているようだ。
呼吸がしんどくて、全身がダルい。起きあがろうとしても目眩がするし、遠くの記憶がぼんやりとまぶたに浮かんだ。
遠くに海が見える高台に小さな自分がいる。
いつも手を引いてくれる人物はどうやら高齢のじいさんで、悪いことをすれば引っ叩かれ、しかし良いことをすると頬をグリグリと撫で回され「えらいぞ!」と全力で褒めてくれた。流れる風には塩気がうっすらと感じられ、日差しは穏やかで永遠に時が止まったような初夏の陽気の空気である。
いつのことだかわからない記憶。
しかし、わかるのだ。これは三池の家に来る前のものだと。
実の親子、兄弟ではないと知ったのはいつだったか。
髪を染めたのはなんでだったか。
母が死んだ時、泣かない自分はなんてひどいんだろうと思った。それからろくに泣いていない。確かにあの人は自分を愛してくれたのに。
夢の中で、記憶の中で老人はソハヤの名を呼ぶ。確かに「ソハヤ」と。しかし、本当にそうなんだろうか。それだけじゃない。じゃあ「三池」の前は?
俺は一体、誰なんだろう。
一体どこからきて、なにをしたいんだろう。
自分が本当は誰の子どもで、この老人との関係はなんだ、ここがどこで、この兄弟と血が繋がっていない。
じゃあ俺は一体なんなんだ。
足元が崩壊するような感覚を味わうのは初めてではない。もう十年以上この感覚を知っている。どこにも居場所がない。足元がぐらついて、身体が言うことを聞かない。震えてしまってものが掴めなくて、目が開かない。怖い。強ばった身体がビクリと揺れた。
「ソハヤ!」
光世がひどく焦った表情で(実際にはソハヤと両親以外にはわからないだろう)ソハヤの身体を揺さぶっていたようだった。こちらの目が開いたことで明らかにホッと息を吐く。
「きょう、だい……?」
さっきまで見ていた夢が思い出せない。熱で浮かされた頭はひどくぼんやりとして、ついさっきまで寝ていたのだとようやく気づく。全身が汗まみれだった。
「ひどく、うなされていた。大丈夫か?」
「へいき」
喉がカラカラだった。光世がペットボトルをくれる。半身を起こして一気に半分近く飲み込んだ。急激に身体が地獄の底に落ち込むような感覚が戻って、倒れそうになる。それを支えた兄弟の手が額に添えられた。
「まだ熱があるな」
「冷房やだ」
「この暑さで使わないと熱中症で死ぬぞ。冷えすぎない程度に入れておく。扇風機も回しておくから」
「電気代がもったいない」
「今月は俺が出す」
「ダメだ」
「兄ちゃんの言うことが聞けないのか?」
久しぶりに聴いたその言い回しにグッと言葉が詰まった。なんだってんだ。
「自分で、できる」
「出来てないから言ってるんだ。弟の面倒くらい見させろ。それくらい出来る」
着替えを渡されて上を脱ぐと背中を冷たいタオルで拭われた。すぐに服を着ると今度はまた暑い。バタンとベットに倒れると、額に冷たいタオルが乗せられた。手桶を片付けに出て行くのかと思った光世は、まだソハヤの部屋にいるらしい。
「行かないのか?」
「お前が寝たらな」
店のパソコンを開いている。
「なあ、通販……」
「仕事のことは考えるな。やっておく」
「え、でもやりかた」
「物吉に習った。早く良くなってアイツを呼べ。さっきも来たぞ。包丁と一緒に」
「はは、暇だな、あいつら」
「ソハヤ」
この声だ。この声が、自分をここにかろうじて繋ぎ止める。沈んでいく足元が完全に見えなくなる前に、なんとか手にしたこの光への道標だ。
「うん」
「ここにいるから、まだ寝ていろ。もうだいぶ熱は下がったから、夜にでも良くなるだろう」
「うん」
「ここに、いるから」
行かないで。ここにいてくれ。
言えなかった言葉たちを、なんで兄弟は知っているんだろう。自分でなんでもやるなんて言って、結局こうして兄に頼ってしまう。不甲斐なさが拍車をかける。
そっと、手のひらに光世の手が触れた気がした。まぶたが重くてなにもわからないけれど、それだけでひどく安心してしまう。ずっと、自分を大切にしてくれた兄弟だ。
たとえ、血が繋がっていなくとも。
しかし、そのおかげで、もうその日は沈む夢は見なかった。
③暗闇を閉じ込める
「土産だ」
「そう言ってお中元まま持ってくるやつがあるか? いや、貰うけどよ」
最近独立の準備をしていて死ぬほど忙しいと鶯丸から聞いていた大包平が久しぶりにやってきた。確かに少しやつれているようだが、体力と気力だけは常人の三倍はあろうかという男だ。心配しても損するのはこちらである。
「開けるぞ?」
「構わん」
そう言ってバイトの物吉に渡した。
「うわ、結構重たいですね」
「物吉は茶を淹れるのが上手くなったな」
「茶葉がいいからですよ」
「お愛想もな」
光世の同級生である大包平は、三池兄弟が郊外に工房を構えてから近くに茶店を開いた鶯丸のいとこである。小学生の頃から付き合いのある仲なので明け透けな物言いにも慣れてしまった。物吉がバイトに来た最初の頃はその態度におっかなびっくりな様子だったが、すっかり物吉も大包平に慣れてくれて安心している。まあ、あれだけ鶯丸から大包平の話をされてれば勝手に親近感は沸くだろう。
「あ! コーヒーです!」
「コーヒー?」
「やっぱりそうか。いや、くれた方はコーヒー党でな。別の話の時に良いものがあると言っていたからもしやと思って」
「え、大包平、コーヒー飲めないのか?」
「飲めなくはないが、あまり好んではいない」
「へー、意外ですね」
「お前たちなら飲むだろうと思って」
「え、飲むか?」
「え?」
「うち、ほとんど鶯丸からもらったお茶だぞ」
「……確かに」
今大包平が飲んでいるのも、嗅いだことのあるふくよかな香りだ。
鶯丸が茶の店を構える際、商品のデザイン、店内のレイアウトや通販のイロハ、現在に渡り様々な助言をしてきた礼として定期的な茶葉と菓子の差し入れが行われている。ソハヤは勝手に「鶯丸のサブスク」と呼んでいた。見た目がヤンチャなためか洋物好きと思われているが、三池兄弟は揃って音楽以外は完全に和食派でパンより米、コーヒーより緑茶を好んでいる。貴金属商品と革小物の店なのに、客に出すものは全部緑茶なのだった。
外出時はコーヒー以外がほとんどないので、外にいる時だけ愛飲している程度だ。
「店で出すか」
「キャップ付きだし、いいんじゃないですか?」
「それとも物吉、持って帰るか? 亀甲は?」
「兄は紅茶派ですかね。まあ、誰か飲むとは思いますが」
ううん、と顎に手を置いて考える。二リットル分の紙パックのコーヒーと、ドリップコーヒーのパックが二つ。これを、どうする?
そうだ、と手を打った。
「大包平、今日何時くらいまでいるんだ? これから飯行くから十時くらいまではこっちいるだろ? あれ? 飲むんだから電車か?」
「車だ。ここで飲んでから都心に帰ろうなんて誰が思うか。有給消化が足りないと労務に言われてるから明日まで休みだ。今日は鶯丸のところに泊まる」
「ならいいか。物吉、ドリップだけ持っていけよ。うちに置いておいても腐らせるだけだ」
「え、これって腐りませんよね?」
「バカ。例えだ、例え」
店内に客はおらず、急ぎの仕事もない。もう少しで閉店時間だし、席を外す。
「なんかあったら呼んでくれ。あと大包平の相手を頼む。もう少しで兄弟も起きてくるから。鶯丸もそろそろかな」
「はーい」
「おい、俺の相手とはなんだ。いないと思ったら光世は寝ているのか」
「今日までの納品があったんで夜中まで作業されていたそうですよ。夜のほうが集中出来るとか」
そういって、普通に話し始めた二人の会話を聞きながらキッチンに立った。
「今日の店は良かったな」
「だろう? 最後に出た茶はうちから卸してる」
「だと思った」
たらたらと四人でのんべんだらりとした緩い坂道を酒が入って火照った身体を酔い覚ましに歩く。素面だとなんとも思わない坂道が、飲んでると地味に長く感じる。
「大包平はいつ頃落ち着くんだ?」
「夏が終わるまでには片付けたい」
「お前もこっちに来ればいい。仕事なんてどこでも出来るだろ。ここは環境はいいぞ」
「環境がいいのは認めるが、ここら辺単身者用のマンション少ないだろ」
「え? 鶯丸の家でいいじゃん」
「は?」
「俺もそう思ってたんだが」
「はあ?」
「お前がいつも寝泊まりしてる部屋、お前しか泊まってないからな」
「なんだと?」
驚愕している大包平を放って三人で笑う。
ソハヤは一人だけ学校も年齢も違うが、兄と小中高と一緒の大包平と、そしてその一学年上だった鶯丸とも仲良くなって二十年以上だ。仕事までこうして一緒にするとは思ってなかったが、二人とも三池兄弟の選択をとやかく言うことはなかったし、ソハヤが借金してまで工房を持ったことにも世間知らずと言うことはなかった。なので、とても信頼しているのだ。
見知らぬ夢を追うことの、なにが悪いのだ。
隣の大包平を見ていると、余計にそう思う。
「あ、そうだ。二人ともちょっとうちで酔い覚ましてけよ」
「なにかあるのか?」
ソハヤではなく光世を見た鶯丸の視線に、フルフルと首を横に振るだけの光世はどうやらしこたま飲んだためかイマイチ締まりがなかった。
「ソハヤ。これ、さっきのコーヒーか」
「そ。口直しにいいかと思って」
ソハヤが出してきたのはコーヒーゼリーだった。適当に作ってるので味の保証は出来かねると言っている最中にもう鶯丸は食べている。
「お前、マジで人の話聞けよ」
「ポーションもあるぞ?」
「脂だからいらん」
三人が口に入れたのを見届けてからゼリーを出して立ったままだったソハヤも自らの口にゼリーを運んだ。
確かにコーヒーの味がする。普段飲んでいるものよりも深い気がする。よく知らないが。酔っているし、火を通した上冷たくしているので本当のコーヒーの味はよくわからないが、醒めてきたとはいえ酔いで霞がかった頭にはよく効いた。喉を通る冷たい苦味に、うっとりと瞳を閉じて。
「美味いな」
「お! 鶯丸の美味い! いただきましたー!」
「よかったな。レア物だ」
「俺だって美味けりゃ美味いくらい言う」
「判定が厳しいんだよ」
「お前たちの飯はそこそこ美味いから食いに来てる」
「はあ? 鶯丸まさか、飯までこいつらにタカッてるのか?」
思わず立ち上がりかけた大包平の肩を掴んで座らせる。
「たまにだよ、たまに。こっちから呼んでるんだ」
「どうせ、コイツのろくに飯を食ってないのを慮ってだろう。だからちゃんとした人間らしい生活をしろとあれほど……」
「じゃあもうお前が面倒を見てくれ」
絶対言うと思った。定期的に発されるそれに呆れた三池兄弟の視線をものともせず、鶯丸は美しく笑う。鶯丸のほうが年上なのだが、世間体を一切気にしない彼をなんやかんやと気にかけてきたのは確かに大包平だった。
「……検討しておく」
これは大包平が陥落するのは近そうだ。
④昨日も明日のような日だった
ソハヤはなんでもやる。
なんでもというのは、金になるなら、という意味だが、手先の器用さは光世より上だ。美大には一浪して入ったが、そのために当然デッサン画もやったし、最近では近隣の店のロゴや包装デザインを手掛けることもあるため休日にはスケッチを怠らないし、デザインの勉強会にも定期的に赴いている。
学生時代には彫刻専攻だったので本来は物を作る方が得意だが、それが現在売り物としては彫金やアクセサリーのオーダーメイドでなんとか食っていけるまでになった。本業である彫塑の制作が疎かになっている現実はあんまり見たくない事実である。
光世はソハヤと違い、ほぼ独学で趣味が高じて気になったものに手を出す。本人の関心が高い分野については情報収集能力と学習能力の高さが著しく発揮される。ソハヤですら知らない美術の知識もあって長年引きこもっていただけではないのだと思い知ることも多い。
そして光世の商売にしていない趣味は多い。収入は不労所得と株がメインで制作は道楽だからだ。その多趣味のうちの一つが、クラッシュジーンズを作ることだった。
ソハヤが中学生の頃に穴あきジーンズが欲しいとふと思い立ったのが発端で(大体がソハヤの思いつきから始まっている)、いくつジーンズを加工したかわからない。たまたま革小物をよく買ってくれる常連がふとソハヤのジーンズを褒めたのでなんの気無しに「これも兄が作った」というと、依頼出来ないか? と発注をされたのだった。
「いや、喜んでもらえてよかったな」
「しかし価格はあれで良かったのか? もう少し見直したほうが……」
「バカ。制作時間で考えろよ。クラッシュは工程が多いんだよ。何回も洗って生地痛めて乾かして。失敗も出来ないし。久しぶりに作るからって練習用に二本もジーンズ買っちまったし……。
こないだの染めの依頼だってもう少し高くてもいいくらいだ。いつか本物の藍染まで始めそうな勢いだし、糸染めたらいっそ布まで自分で作りそうだよな、兄弟。機織りも調べておくか?」
「織を置く場所は検討しないとダメだが、俺は裁縫は出来ん。それはお前のほうが得意だろう」
「さすがにそんなガチのは出来ねえって。俺だって被服は専門外だっての。元々裾上げと下ろしのために始めただけなんだから。カバン作れるくせになにが出来ないだよ」
寒い外気にお互い耳と鼻を赤くし、反省会をしながら自宅兼工房へと向かう。
買い出しのための外出だったが、依頼者の自宅が近くにあり、納品したいと連絡すると大変喜んでくれた。店ではすぐに着てもらうことが出来ないので直接着ているのを見せてほしいというのが依頼を引き受ける条件でもあった。何度も洗いにかけダメージを与えていくのでジーンズの太さも色も変わってしまう。色は最悪また染めることが出来るが、太さについては今度は逆に履き込んで馴染ませてもらうしかない。
今回はうまく行ったが、やはりここまで個人に合わせたオーダーメイドを革製品と一緒にやるのは無理がある。納期と受注方法と受入数はもう少し考える必要がありそうだ。
「危ないぞ」
「お」
そういって光世がソハヤの腕を引いた。
すぐ真隣をハイブリッド車がすり抜けた。考え事をしていたせいか、全然気づいていなかったようだ。
「わりぃ」
「お前は本当に、集中すると周囲が見えないな」
呆れたように言う兄こそ、制作作業をしているとこちらの呼びかけも全く耳に入っていないのに。思わずムッとしたが、それに「ふ」と口元を緩ませて光世がスミノフを煽った。
帰り際、楽しくなって飲みながら帰ろう! とバカなことを言い出したのはソハヤのほうだ。この寒い中、鬼殺しをさっさと飲み切った光世はコロナビールを飲んで途中の公園に捨てると、最後のスミノフをさっさと開けていた。
ソハヤは最初の350は楽しくビールを飲み切ったが、次のレモン酎ハイに手を出し始めると寒さと尿意に負けつつあり(誰だよこのクソ寒い中酒飲んで帰ろうって言い出した奴。俺か)と今更自分がテンションが上がっていたのだと実感する。
いい夜だった。買い出ししたものは大きいものが多かったので配送手配のためほぼ手ぶらだし、夕飯は昨日のロールキャベツが自宅で眠っている。さっき依頼人から差し入れにと美味いバゲットを貰った。酒を飲んでいるのでもうこれくらいで充分だろう。
二人でダラダラと歩くのが好きだ。
だから本当はさっさと帰ってよかったのにわざわざコンビニで酒まで買って遠回りをしながら歩いている。日中は仕事で忙しいし、朝食時に光世は起きて来ないことも多い。バイトの物吉がいると指示したりふざけたりとそちらと話してしまうし、仕事を始めてからは「兄弟」というより「同僚」なのだ。店主は自分で、兄は個人事業主扱いではあるのだが。
ずっとこんな夜が続くといいと思った。
波風の無い、穏やかで、他の人が誰もいないような、車も通らない道路をウロウロとしながら帰る夜。
そんなのが、とても好きだった。もういい年した大人なのに、時々酔ったふりして兄弟に飛びついて。
兄は自分をなんだと思ってるのか、ひどいブラコンだと思うが自分も大概だ。二人で一緒になにかをするのが楽しい。嬉しい。面白い。
生活は楽ではないが、最近は色々相談や依頼もあり、忙しくて嬉しい悲鳴を上げている。
だから、こんなふうに静かに二人で帰る時間がありがたかった。
ニヤニヤしながら歩いていたら、やはり酔っているからか気付いたら隣に光世がいない。キョロキョロと視線を回すと、後ろから現れた。
「うおっ、ビックリした!」
「寒いんだろう? これでも持っていろ」
そういって渡された缶コーヒーを頬に当てられた。
「あっち! なにすんだよ!」
そういって笑い声と一緒に缶コーヒーを投げ返す。いつも光世は酔うと缶コーヒーを買う。絶対に自分では不味いからと言って飲まないくせに。
ソハヤがバカ笑いしてるのが移ってか光世も笑ってそれをキャッチするとこちらに投げ返してきた。
キャッチボールのようなそれは、家に帰るまで続いた。小学生の夏の日、初めてグローブを買って貰った日にいつまでもキャッチボールに付き合ってくれたことを思い出した。やっぱり兄バカは健在である。
⑤目的はそこにない
最近ソハヤがスープ作りにハマっている。
夜のうちに作っておいて、翌日の朝昼晩と食べれる量を仕込む。一度ルーチンにしてしまうと慣れたものだし、一品を考える必要もなくなり、野菜も適度に摂れ、最悪スープと米とかパンだけでも済ませてしまえる。いいことづくめだ。
しかし、光世が気にかけているのはそんなことではない。
ソハヤは凝り性だ。兄弟だからか人のことは言えないが、傾向として一度やりだすとかなり探究心が強くキリがない。以前カレーにハマった時は物吉が全力で半泣きになって止まるまでスパイスの調合にのめり込んだ。付き合わされる側に物吉がいて助かった。光世だけではきっとあのソハヤは止められなかった。
だが今回はまた少し流れが違う。
作っているのは比較的シンプルだ。コンソメが多いが、そこまで凝っておらず市販品のコンソメの塊だし、和風に中華と適度に味も具材も違う。それについては一日三食同じものを食べるくらいならいいが、三日三食同じはしんどいと頭を下げた前回から学習しているのだろう。
ただ、作っている時の顔が違う。カレーの時は生き生きとしていた。普段の料理は当然ただの日々の生きるための料理であってこなしているだけだ。率先して作るのがソハヤなだけであって半分くらいは光世も料理をするし、腕前もやりくりが上手いという意味でソハヤが上なだけであって味の誤魔化し方は似たり寄ったりである。
作っている間の、なにを見ているかわからない空虚な視線が、ずっと気になっていた。
「そこまで虚ろな感じなんですか?」
「虚ろとまではいかないが……なにかこう、思い詰めているのではないだろうかと……」
ソハヤが買い出しに行っている間に、ここ最近の様子を物吉に相談する。当たり前だが、ソハヤがスープを作っている時の様子は光世しか見ていないので実物を見ないで答えるにはなかなか重たい質問であった。
「そうですね……。僕と接する際は特になにかおかわりになったとは思いませんが……」
「そうか……」
多少ブラコンと心配性の気があるのも自覚しているが、それでも不安は拭えない。
ソハヤはなんでも自分で決める。もう大人なので当たり前だが、誰かを頼ることを得意としていない。気が付いたらそうなっていた。
散々甘やかしたつもりなのに、金銭面でも体力面でも社会的にも、とにかくなんでも一人で納めようとする。それは悪いことではない。責任感があり、自立している立派な大人だ。
ただ、そばで見ていると、時々地に足が付いてないような覚束ないところがあるのだ。一体なにがソハヤをそう掻き立てるのか、光世にはわからないまま長い年月が経ってしまった。
「そのまま気になっていることをお伝えするといいと思いますよ。僕を間に挟んでもいいことなんてないですから。別に仲が悪いわけでなし、子どもの喧嘩でもなし、まずはお二人で話し合ってください」
なんとも適切な模範解答である。その通りだ、と項垂れてしまった。一回り以上年下の物吉の言うことのほうが圧倒的に説得力がある。
「まあ、ソハヤさんは素直ではありませんから、そう思われるのはわかりますけどね」
そんな完璧なフォローまでくれて。
*
頭が煮えそうだった。
仕事が立て込んでだんだん眠りが浅くなっている。
あっちの手配は済んだんだっけ? そろそろ次の材料の仕入れをして、スケジュールをちゃんと組まないと……。先にあの制作を終えてからじゃないと来週は展示会の準備で店を空けるから、その前に物吉に頼んでおくことをリストアップして、そうだ兄弟にも頼まないと……。
いや、違う。そうだ、違うのだ。違くはないが、まずは落ち着いていこう。
食事のメニューを考えるのが億劫になった時、読んでいた本の中でスープを作っていて、その日の夜に同様にスープにした。翌日の朝まで持ったので、ふと考える。三食全部同じにすればいいのでは? と。
あんまり長期間だと時々賄いとして食べていく物吉や、普段は何も言わないが三日くらい同じものを食べさせ続けるとさすがに兄弟にも苦言を呈されたので一日分ずつ作ることにした。
なにも考えたくないのでとにかく野菜を切って全て鍋にぶち込み水を入れ沸騰させて中身に合わせた味付けにして翌朝まで寝かせるだけ。
簡単である。三十分で仕込みは終わる。
ルーチンになると「なにも考えない」が定着してきた。野菜の皮を剥く(春先や面倒だと剥かない)、切る、煮るの間、仕事のことを考えないようにしたかった。
車の運転中は運転には集中しないといけないし、情報量自体があるので完全に頭を空っぽには出来ない。刃物とはいえ、毎日やっていることだし慣れたことだ。なにも考えずに作るにはスープは最適だった。なにより味が適当で良かったので。
「で、適当に作っていたらこうなったと……」
「……すまん」
適当にしすぎた。
包丁を片付けてから入れようと思っていたソーセージを忘れたことに気付いたので、普段は使わないキッチンハサミでカットして直接鍋に入れていたら、指を思いっきり挟んでいた。
「きょ、兄弟ーーーー!」
血液を入れてはマズいと慌てて鍋の上から引っ込めて、腕を上に挙げ、ティッシュを取って患部を押さえつけたが、間に合わずにボタッと一筋垂れた血がソハヤの顔面にかかったところに大声に何事かと慌てて入ってきた光世が血を見て「きゅ、救急車!」と携帯を取りに行こうとしたのでタックルして止めたのだった。
第一関節を半分くらいザックリ切ったが、千切れるほどではないので今から救急に行こうという兄の意見を蹴りまくり明日朝イチで病院に行くことを約束させられたが、ぶっちゃけめちゃくちゃ痛みが来ておりそれどころではなかった。なにも考えたくない。痛い。
「ほら」
兄によって止血され、痛み止めを渡され、素直に飲む。やばい、利き手ではないのでまだマシだが、彫塑や制作では両手を使わざるを得ない。細かいところの作業をするのに人差し指が使えないというのはかなり致命的である。
どうしよう。急激に汗が背中を流れた。
「ソハヤ」
「ん?」
まだ目の前に兄がいたことを忘れていた。どんな表情をしていたのか自信がなくて、笑顔を取り繕えなかった。
「お前は、スープを作っている間、なにを考えている?」
「は?」
「答えてくれ」
「はあ?」
光世はかなり切羽詰まった瞳をしていた。
「なにも、考えてないけど……」
「なにも?」
「だからよくよく注意も出来ずにこんなことになってんじゃん……」
はあ、とため息をついた。
「なら、それ以外は? なにを考えてる」
こういう時の光世は勘がいい。
沈黙は肯定と見做される。しかし、一瞬反応が遅れた。
「だ、だいじょうぶ」
「大丈夫ではないな」
怪我をした手をそっと握られた。血の流れが心臓のようにドクドクと流れているのがわかる。それが兄弟にまで伝わっているようで苦しくなった。
「ソハヤ。忙しいのはわかっている。
ならばこそ、お前は仕事を適切に分担すべきだ」
「それは、わかってるけど……」
「自分の身体を大事に出来ないのなら、強引にでも辞めさせるぞ」
「な、ちょ、待てって! なんでそこまで……」
「お前が心配だからだ」
ハッキリと見つめられる。ちゃんと視線を合わせて、ハッキリと。
「お前がなにより大事だからだ。
仕事? 金? 俺にとっては二の次でいい。
身体が資本だ。そしてお前自身が」
その通りだ。その気持ちはわかる。そもそも兄弟の徹夜や夜更かしを二十年以上注意しているのだ。健康的な生活をしろ、と怒っている自分の言動としては不釣り合いである。
いや、お前が言うな、とも少しは思うが。
「なあ」
「ん?」
「俺は、そんなに頼りないか」
「え」
家族以外にはあまりハッキリと顔を見せたがらない兄弟が、家の中ではヘアバンドをして顔を見せる。血は繋がっていないはずなのに、同じ紅い瞳が自分を真っ直ぐに見つめる。
今日はなぜだか、見逃してくれそうにない。
「そんな、頼りなくなんて」
「なら、俺を頼れ」
「でも」
違う。兄弟にそんなことを言わせたいわけじゃなかった。アンタがよくても俺がよくない。
これ以上甘えるわけにはいかない。
だって、もうすでに甘えているのだ。こうして一緒に暮らしているだけで感謝しかない。自分を慮ってくれる、それだけで。ここで一緒に生きてくれていることが。
それを、守りたいのだ。
この生活を続けたい。たとえ実家の誰とも血が繋がってなくて、本当の自分が誰であっても、一緒の時間を過ごした家族が、兄弟が自分を「三池ソハヤ」と呼んで大切にしてくれている。それだけで身に余る幸福なのだ。
後のことなんて、全部余分でしかない。
絶対に口には出来ない。常に知らない「誰か」な自分に追われているなんて。頭のおかしい幻想から逃げるために物作りに逃避しているなんて。
そんな時に支えになっているのが、この兄弟の呼び声なのだ。呼んでくれる、そばにいてくれるだけで、もう他のものなんてなにもいらないと思っていた。
「兄弟」
光世の大きな手が、作業で小さな傷がついた、最近は染めをやっているのでなにかの薬品だったり落としきれてない染料で変な色になっている「生み出す」手が、ソハヤの頭を撫でた。
ずっと年上の兄の手は、事あるごとに自分を撫でた。もう成人してずいぶん経つから頭を撫でられるなんて何年もなかった。
子どもの頃のように、あの見下ろしながら自分を「愛しい」「大切だ」と伝えてくれる視線はずっと変わっていない。強面だろうがなんだろうが、自分にとっては怖いと思ったこともない、たった一人の大切な兄なのだ。
「一緒に、考えよう、ソハヤ。
俺に出来ること、お前に出来ること、それぞれ得意なことも不得手なこともある。二人なら、もっといろんなことが出来る。
お前が望む未来に、俺も連れて行け。
なあ、兄弟」
この瞳には、抗えない。
いつか、どちらか、なにかがあって離れ離れになるだろう。恋人かもしれないし、別のやりたいことかもしれない、早すぎる死の訪れかもしれない。
それでも、今この瞬間は、互いが互いを求めるのなら。
「うん」
俺の選ぶ未来には、きっと兄弟がいてほしい。
⑥どちらが甘いか
三池光世は大層酒に強い。大包平も酒にはそこそこ自信があるほうだが、光世はうわばみというか、ザルを通り越してワクである。それなりに顔色が赤くなったり青くなったりはするのだが元々があまり表情がないので程度の問題で「酔っている」姿は十何年も一緒に飲み交わしているのにほとんど見たことがなかった。
その光世が、悪酔いをしていた。
「一体俺はどうしたら……」
「ええい! めそめそするな、みっともない!」
「構わん。今うじうじしておけ。ソハヤがいるところでこんな姿を見せるよりよっぽどいいだろう」
「鶯丸!」
甘やかすな! と怒るが、従兄弟は笑うだけだ。
うじうじとしているのはこの男の元々の資質のようなものだが、ここ数年はそんな様子はなりを潜めていた。
兄弟で工房を作り、郊外で店を始めてからはそれなりに忙しかったせいもあるだろうが、それが落ち着いてきたのか、逆にうまく上昇気流に乗れたのか、弟のソハヤは仕事で家を開けることも定期的に増えた。
そういう日は兄弟の近くに越して同様に店を開いた鶯丸の自宅で飲み交わすようになって大分経つ。弟がいるとそれなりに体裁を保とうとするが、いないと途端にコレである。見栄も外聞もあったもんじゃない。
「で、ソハヤはいつ帰ってくるんだ」
「明日」
「なんだ、すぐではないか」
「貴様、アイツがいない間の店の暗さがわかるか? 物吉には電気点いてますか? とまで言われたんだぞ!」
思わずそれには従兄弟同士で飲んでいた焼酎を吹き出した。物吉とはアルバイトの学生である。それなりに店に顔を出しているので物吉の丁寧な物腰なのに明け透けな言い方すら浮かんできた。
「物吉……、めちゃくちゃ上手いこというな……」
「そこではない」
「いや、わかる……W数下がったくらいの感覚……くっ、ふふふ……」
「お前たち……」
誰も自分の寂しさをわかってくれない、と更に不貞腐れた。
ソハヤは現在、隣の市で開催されるグループ展に出品するため準備としてそちらに留まっている。搬入・搬出の手伝いだけなら光世でもいいのだが、ほかの製作者や作品との兼ね合いもあり、大体光世は留守番だ。こういうところでコネを作っておかないといけないといって、現地に留まる弟から特に連絡が来たことは一度もない。
過去に一度だけ「言い忘れてたわ! 米買っといて。あ、無洗米と間違えるなよ。あと値段は一番下じゃなくて二番目くらいのな。わかんなかったら家にあるやつちゃんと写メってって」と一方的に買い出しを言いつけられたくらいだ。車はソハヤが乗って行ってしまったので徒歩で米だけ買って帰った時の侘しさが忘れられない。
「全く、なにが寂しいだ。立派になって良かったじゃないか。地道に活動を続けてきた結果だろう?」
「それはそうだが……」
「うちのプロダクトも評判がいい。ホームページのデザインもアイツの発案でほぼまま通ったしな。写真まで撮ってくれた時は驚いたが、本当になんでもやるな」
「他人に伝えて作ってもらったり、既製品で好みのものを探すより、自分で作ったほうが早いと思ってる人種だからな」
「それはお前もだろう」
む、と思わず口を曲げる。
まあ、言い返せはしない。元々自分の体格に合うベルトやカバンが欲しくて自作を始めたのは事実だから。
「まあ、アイツが全然甘えないっていうのもわかるけどな」
「なんだと……」
「そりゃそうだろう」
「なぜ……!」
鶯丸と顔を見合わせる。はあ、と互いにため息をついた。
「それがソハヤの甘え方だ」
「お前がいると散々甘やかすなからな。アイツもかなりいい大人だろう?
子どもじゃないんだ。見守ってやれ」
「だが、アイツはいつも無理をする……。一人で抱えて俺にはなんにも話してくれない……。やはり、俺では力不足なのだろうか……」
「本当にダメな時は話すだろ」
「ほら、昔、いつだったか、ソハヤが一度だけ泣きついて来ただろう?」
「そんなことあったか? あいつが?」
ああ、と大包平も記憶を辿る。
「お前の家の、テーブルの傷の話か」
「それだ」
よく覚えているなぁ! と言い出した割には鶯丸が大包平を笑う。ようやく光世も思い出したらしい。確かに、とだけ呟いて日本酒を飲んだ。
小学生の時、三人で勉強をしていた。ソハヤがついて来たいというので鶯丸の家へ一緒に連れて来たのだが気付いたらいない。三人で探すとリビングから半泣きで出てきた。兄を見つけるとギュッと抱きつく。
「どうした?」
「つくえ、びーってなっちゃった……。ごめんなさい……」
マホガニーのテーブルの上にソハヤが持ってきたロボットのおもちゃが広げられている。明らかに目に見えて今さっき出来たとばかりの生々しい傷跡が見えた。ロボの部品の一部が引っかかったのだろう。指先で削り取ろうとした悪あがきの跡まで見えて、ソハヤを抱き抱えて光世は鶯丸を見た。
「す、すまない……。お母さんに謝らせてくれ」
「これくらい大した傷じゃないだろ。気にするな」
「いや、結構目立つぞ?」
三人で誤魔化し方を考えている間にソハヤが大声で泣き出した。活発で、物おじせずあまり泣くことのない幼児だったのでとても驚いたのを覚えている。
結局あれはどうしたんだったか。父と一緒に夜、鶯丸の家に謝罪に行った気がする。特に叱られた記憶がないので、お咎めは無かったのだろう。それからは、ソハヤは小学生になる前は光世の近くでしか遊ばなかった。一人遊びも大人しくなって、逆にそれがしこりのように光世の中に残ったのを今更思い出した。
自分で処理出来ないことを嫌うのは、そんな原体験があるからかもしれない。そう思うと、やはり可哀想なことをしたな、と思ってしまうのは年の離れた兄の傲慢さだろう。
「あのテーブル、まだあるのか?」
「実家にあるぞ。傷も馴染んでいいアクセントだ」
「自分の罪を償うのが他人なのが耐えられない奴なんだろうな」
「そんな大袈裟な……」
「全部自分のせいになるってわかった途端に髪染めて、学ラン改造したじゃないか。俺たちと違って公立行ったのもアイツは絶対わざとだろう」
そう言われると、そう思えてくる。
「なんだか、途端に問題児みたいに思えてきた……」
「なにを今更」
「あれはやりたいことを貫き通すぞ。面倒見るなら、覚悟しておけ、光世」
ニヤリと笑って大包平が癖でタバコに火を付けようとしたのを即座に鶯丸が「禁煙だ」と言ってはたき落とした。舌打ちをしたものの、素直に外に出て行く。
途端に静かになった室内で、チロリと日本酒を舐める。
「なにかを、抱えているのに、俺には話してくれないんだ」
「そうか」
ただ鶯丸は聞くだけだ。だが、光世もまた答えは求めていない。しかし
「気長に待て。細かいことは気にするな。お前たちなら、大丈夫さ」
そういう鶯丸が、三人の酒を飲んでいたグラスを集め、熱いお茶を淹れる準備をしている。
適当なことしか言わないが、彼の言葉にはなぜか安心を得られる。きっとただ先行きの見えない自分たち兄弟を「大丈夫」と古くからの友人に根拠なく、しかし実感を持って言ってもらいたいだけなのだ。
「ああ」
そうだといい。希望は、茶の湯気に紛れて言葉にならなかった。
「お〜い、兄弟! よっ! 鶯丸飲んでる?」
「「ソハヤ?!」」
大きな荷物を抱えてソハヤが大包平と一緒に入ってきた。
「いや、前倒しで諸々終わったから一旦家帰ろうと思って。
明日のレセプション、一緒に行こうぜ! 予定空けてあるだろ?」
「あ、ああ。事前に言われてたからな」
「おいおい、それでこんな深酒していていいのか」
呆れたように大包平が言う。
「良くはないな」
「ったく、俺がいないとすぐに酒に走るんだからな、仕方ない兄弟だぜ。
じゃ、もう茶ァ飲んでるみたいだし、その一杯で帰るぞ」
「ああ」
「あ、大包平と鶯丸にもお土産。これ、向こうで獲れた野菜。地産だってよ。たくさん貰ったからやるよ。まだ車にもあるんだ」
上機嫌でガタゴトとテーブルに野菜をおいていく。大根、にんじん、カボチャ、長芋。光世は光世で熱いままの緑茶を急いで飲み切って荷物を片付け始めた。
「悪いな、ソハヤ。ありがたく頂こう」
「おう! 俺はまだしばらくちょいちょいあっちいるから、また貰ったら分けるよ。ちゃんと使ってくれよ、大包平」
「言われなくとも」
「ソハヤ、帰るぞ」
「準備早えな、兄弟」
もう用はないとばかりに玄関に向かおうとする光世を追いかける。
「じゃあな! 二人とも! 兄弟が世話になったな!」
「またな」
全然カラーの違う兄弟が、出て行った。少ししてすぐに車が出る音がした。
「っくふふ」
「ふははは……」
どちらともなく笑い出す。机の上の野菜を見て笑ってしまう。
「アイツは嵐か?」
「滞在時間十分も無いな」
「どこで展覧会やってるんだって?」
「ああ、招待券を貰っている。行こう」
兄たちの杞憂など、吹き飛ばしてしまう弟分のエネルギーに、ただ笑うしか出来なかった。
これでは光世の心配など、まさに無駄でしかないのかもしれない。今のところは。
⑦サブスク
「ソハヤ、お前浮気しているだろう」
「は?」
鶯丸がそういうと、当たり前だが、その時同じ部屋にいた者が全員ソハヤを見た。兄弟の顔がひどい。普段からあまり明るくはないが、こんなに急激に悲壮な顔が出来たとは。
「きょ、兄弟……。お前、まさか、そんなことを……?」
「してねえ!」
「ソハヤ! まさか人妻に手を出したのか?!」
「なんでちょっと嬉しそうなんだよ! 出してねえわ!」
「そんな方だったなんて……。軽蔑します」
「物吉、お前はふざけてるな。ちょっと顔笑ってんぞ」
そして当然鶯丸も笑っている。そちらに向き直ると、鶯丸は自分の店から持って来た新作の茶をソハヤの湯飲みに追加した。それを一口飲んでから続きを促す。
「なんなんだよ……。変なこと言うなよな。兄弟が信じるだろ」
「だから誤解がないようにお前たち二人いるところで話してるんだろう」
「え、ではまさか……本当に……?」
「違う!」
通販用の梱包を三池兄弟とバイトの物吉でやっているところに、近所の小学生の包丁が遊びにきて、そこに新作の茶葉の提供をしに鶯丸がやってきた。ソハヤはそれを「鶯丸サブスク」と呼んでいる。そんななにかのついでに、みたいな風に来たくせに全然無駄話をしている。早く自分の店帰れよ、とはさすがに旧友には言いづらい。まあ、邪魔さえされなければいいのだが、こうして突然爆弾を放り込まれるのもいつものことだった。
「お前、最近うちの茶じゃないものを飲んでるだろう」
「……」
「?」
あ、バレてた。
変なところで鶯丸は目敏い。あははは〜、と適当な笑い声を上げたが、物吉が「ああ!」と声を出す。
「この間の! あれ、美味しかったですけど、言われてみれば緑茶ではなかったですね。風味が違うから鶯丸さんのところの新作かと勝手に思ってました!」
「俺は全く気付いていなかったんだが……」
「兄弟はそうだろうよ」
作業に没頭すると飲み食いも忘れる男だ。ソハヤが毎日麦茶を沸かしたり、緑茶を季節に合わせて水出ししたり、鶯丸にお茶の感想をちゃんと伝えているのも知らないだろう。
「で、その浮気相手は誰だ」
「こわ! たまたまクライアントから貰ったんだよ。お勧めだっつって。意外と良かったから通販で追加購入しちゃったけど。なんでそんなこと気付くかなぁ……」
そう言って店の裏手に行く。ゴソゴソと物色した後戻ってくる。
「こんなに買っていたのか」
「へえ〜、香りが違うんですか?」
「これなんかは緑茶に近いぜ。鶯丸も飲んでみるか」
「頼む」
「俺も俺も!」
「お前は麦茶でも飲んでろ。子どもには勿体ない」
「なんだと〜〜!」
ポンポンと包丁の頭を叩いてから再度裏に行く。簡易キッチンがあるので湯を沸かし、緑茶用ではないポットにお茶パックを入れた。
「えーと、鶯丸と物吉と、兄弟は?」
「飲む」
「俺もー!」
「はいはい」
物吉が手伝いに来た。カップを載せて先に持っていく。
「ほら」
「ふうん」
「うわ、こわ。別に俺が作ったもんじゃねえけど、こうやって審査されるの、めちゃくちゃこわい」
「前頂いたの、これと違いますよね?」
「いつのだろう。多分フレーバーが違うんだろうと思うんだが」
「熱い」
「冷まして飲め」
「兄弟はどうだ?」
「よくわからん」
思わず光世以外が笑う。さほどこだわりがないのだ。そんなものだろう。
「いや、うまいぞ?」
「わかってるよ」
ゲラゲラとソハヤと鶯丸が笑う中、物吉が笑いをがんばって堪えている。
「まあ」
「うん」
「悪くないな」
そう言って鶯丸が早々に帰って行った。
その日の夜、仕事帰りらしい大包平が三池の家を訪れた。夕食の準備を光世がしているので、自分の制作をしていたソハヤが慌てて手を拭いて出る。
「おい、ソハヤ」
「お、大包平。どうした」
「鶯丸からの言伝だ」
「直接LINEかチャットかメールにしろ!」
「昼の茶葉のメーカーを教えろと」
「あ、そうだった」
大包平にパッケージを写メらせて帰したが、あれ、もしかして、予想外に気に入ったのか? と笑いが込み上げてきた。
なんでもない顔をする鶯丸の表情を読めて、言伝まで預かるのは大包平くらいだ。あそこで素直に言えないなんて可愛らしいところもあるじゃないか。
「どうした?」
「なんでもねぇ」
扉を閉める。ふと思い立った。
「なあ、今日の鶯丸、機嫌良かったのか?」
「かなりいい」
すぐに返答が来てちょっとムッとする。
「じゃあ、今の俺は?」
一瞬だけソハヤの顔を光世が見た。あ、少し笑った。
「ちょっと不機嫌だったのに、俺が見たら笑ったから機嫌はいいな」
はあ〜〜! ムカつく!
「うるせーな! もう! 飯飯!」
「もう出来る」
そういう光世もあまり見せない力の抜けた顔だった。
⑧鬼雨待つ先に
酷いゲリラ豪雨に突然降られなすすべなくビショ濡れになり、なんとか人一人が凌げるような軒下に潜り込んだが、風が吹くたびに全身に雨水が降りかかり雨宿りと呼ぶのも馬鹿馬鹿しい有り様だった。
時間はまだ昼下がりのはずだが、まるで夜中のように真っ暗な道に知らない街に来た時のような物寂しさすら感じてしまったのは実際には剥き出しの両腕に立つ鳥肌のせいだろう。
(参ったな……。進むも退くも地獄かな、と)
店舗近くの普段利用している郵便局が臨時の工事のため閉まっており、自転車で十五分のところの隣市との境にある本局に荷物を出しに行った帰りのことだった。近いし、天気が良かったので自転車に乗って帰りには今日の夕飯の買い物をして、ついでに百均に寄って……と様々な予定を立てていたソハヤの予定は荷物を出した直後に街全体を覆う雨雲に気付き、慌てて店に戻ろうとこぎ出してからその選択を誤ったことを思い知った。降り出した雨で前も見えないほどで、本局と街の間の、バス通りなのにコンビニも住宅もなにもない、広がる私有地の畑だかミカン畑だかのど真ん中で立ち往生したのである。
今はなにも置かれていない、無人即売所だったのであろう軒下に大切な自転車を押し込み、自身の身体を畳んだ。座り込んだら顔にまで雨がかかる。シャワーでも浴びてるかのようだ。いつもは立てている前髪が全部目にかかって雨垂れが膝を抱えた肘に落ちた。
雨自体は嫌いではない。
兄弟の毛量の膨らみをしとしとと降るしっとりとした雨に原因を見たり、温かいほうじ茶を両手に包みながらガラスのこちらから見つめる分には悪くない。
ただ、時折雨に打たれるのは胸の奥を抉られるような痛感がある。こうしてたまたま降られる時に感じるのだ。いつか、どこかで、強くないはずの雨に、全身を撃ち抜かれているような、誰かの涙の代わりのような雨が、身に染みる。たった一人であるということを、雨に囲われ思い知る。
普段は晴れ男だと自他共に自負しているのに、なぜかいつも誕生日は雨が多いソハヤは、小さな頃からその日は雨が当たり前だと思っていたし、そのことを自然と受け入れていた。
一人だから、雨が教えてくれているのだと。
結局、人は一人で生まれてくるし、一人で死んでいく。当たり前のことだ。
ソハヤには家族も兄弟もいるが、血は繋がっていないし、兄弟は一人で生きていける経済力も力量もある。面倒くさがって日々を些事と思っているタイプの人間なだけだ。そばに居てくれるのは、その「兄弟」という名に縛られているからかもしれない。
その疑いが晴れない限り、ソハヤは一人という概念と共に生き続けると知っていた。いや、晴れたとしても、長年胸の奥に細かいヒゲ根は抜きようがなく、抜けばまた血がそこら中に染み渡る。もう一連托生なのだ、この「孤独」という生き物と。
自分は、なんなのだろう。
雨はただの自然現象でしかない。人の思いを託すことすら本来烏滸がましい。人間のちっぽけさは今雨に打たれる間のソハヤの心のうちをただ代弁しているように思い違いをしているだけだ。冷えていく身体を抱えて、止みそうもない雨に、こうして時々無性に立ち止まってしまう己を重ねる。
それが良くない。関係ないんだ。俺は違う。いや、違くない。だが、それを託すな。関係ねえ。
俺の弱さは、痛みは、苦しみは、全て、俺だけのものなのだ。
「ソハヤ!」
突然名前を呼ばれた気がして、ピクリと肩を動かすが、一瞬思想の深みに居たからか、考えに耽ったフリをして微睡んでいたのか、反応が遅れた。
すると、バタン! と車のドアが思いっきり閉められる音がして、組んでいた腕を掴まれ引っ張られた。
「ソハヤ! 大丈夫か?」
「……きょ、兄弟?」
「大雨でなんにも持ってなかったろうから迎えにきた」
「え……なんで場所……わかって……」
本当にキョトンとしているソハヤを見てあからさまに呆れたような顔をする光世は、その全身でソハヤの前に立って雨風から守る。待て待て、アンタが濡れるだろ、とその位置を動かそうとするも、長身は動かない。雨のかからなくなった顔を兄弟に向けた。
「お前が位置情報アプリを勝手に入れたんだろ、双方でわかるやつ。大体動けないなら連絡しろ。迎えに行くから」
連絡をする、迎えに来てもらうなど、完全に頭になかった。忘れていた。
「すげえ、ちゃんと活用してんじゃん」
「お前が時々迷子になるからな」
「迷子ではない」
迎えに、来た。
そうだ。いつも兄は、ソハヤを探しに来てくれる。
勝手に迷子になった幼少期も、わざと迷子になった小学生に上がってからも、不貞腐れて家を飛び出した中学生の時も、夜中の散歩と言っては皆が寝静まってからウロウロしていた高校生の時も、しょっちゅう制作で徹夜や終電を逃していた大学生の時も。
呼んでもないのに。
違う。呼んでいた。心の中で。呼んだら、きっと、兄弟は、来てくれると、信じたかったから。
「……ありがと」
「ん? なにか言ったか? また雨足が強くなってきたな。自転車は明日また取りに来るから早く帰ろう」
「ああ」
気が付かないでくれ。
アンタが兄弟と呼ぶ俺が、兄弟を呼べないことに。
まるでそれに応えるように、タオルが敷き詰められた助手席に座ったら、気にするなとでも言うように大きな手が頭を撫でた。水が滴るその手のひらにタオルを押し付けた。お前の背中こそビショ濡れだぞ、と伝えたくて。
「帰ったら風呂だな」
「ああ」
渡したタオルは今度はソハヤの頭に優しく載せられた。
⑨今夜はパーティー
「え、今日光世さんなんでいないの?」
「所用で実家帰ってる」
「え!? なにそれ! 夫と喧嘩した人妻みたいじゃん! ソハヤ、光世さんと喧嘩したの?!」
「してねえ! その小学生らしからぬ発想をやめろ!」
今日も今日とて学校帰りに大いに寄り道として三池兄弟の店に顔を出しに来た包丁に麦茶を出してやりながら世間話をしていたところに物吉がアルバイトにやってきた。
「お疲れ様で〜〜す。あ、包丁くん、こんにちは」
「こんにちは! なあなあ、なら俺、今日ここに泊まりたい!」
「は?」
「え?」
店舗のカウンターのすぐ後ろにある物吉用のロッカーに学校指定の鞄とローファーを置いてスニーカーに履き替え、店内用のエプロンをしたところで、包丁の言葉に思いっきり店主と同じ顔で小学生を見た。
一階部分は店舗だが、二、三階は兄弟の居住スペースだ。物吉も一階にあるリビングやキッチンまでは入ったことがあるが当然ながら二階以降の二人のプライベート空間には入ったことがなかった。
「前に光世さんのベッド、キングサイズだって言ってたじゃん! 俺一度でいいから寝てみたい! いっつも家じゃ雑魚寝状態だし、うち布団だからベッドで寝てみたかったんだよなぁ!」
「いやいや、あのな……」
「ソハヤもどうせ一人寂しく寝るんだろ? 俺が一緒に寝てやるって! 人妻みたいに」
「バカ。間に合ってます。大体寂しくねーし、部屋は別だっつーの。それにこっちは仕事が……」
「あれ? 今日は珍しく仕事詰まってないから久しぶりに早めに閉めて映画でも観ようかな〜、とか言ってませんでしたっけ?」
にんまりとしたいやらしい笑みを浮かべた物吉がソハヤの逃げ道を塞いだ。チッと舌打ちを聞こえるようにするも物吉はクスクスと笑う。
「なら、いいじゃん! なあ、ソハヤ〜〜! 明日土曜日だし〜」
「自営業は土日が稼ぎどきだっつーの!」
「なら僕も一緒に泊まりたいです!」
「なんでだよ! お前は帰れよ!」
「二人より三人のほうが楽しいじゃん!」
「……ったく、相変わらず強引だな」
エプロンのポケットからスマホを取り出して包丁に渡す。
「ほら、家電話して親御さんがいいって言ったらな」
「うん!」
「お前もだぞ、物吉。あとバイト代は定時までだからな!」
「はい! もちろんです!」
いそいそと鞄にスマホを取りに行く物吉と目の前で自宅に電話している包丁を見ながら、今日の夕飯をどうしようかと考えはじめた。
*
一旦二人を自宅に着替えなどを取りに帰らせ、一時間早く店を締めて三人で夕食の準備を始める。
「夕飯なに作るの?」
「カレー」
「わーい! カレーだ!」
「え、辛さ、大丈夫ですか?」
「あ」
物吉がソハヤの出してきたルーを見て心配そうな目を包丁に向ける。
「うち、ゴールデンとジャワのブレンドなんだけど」
「絶対無理ですよ、それ」
「辛い?」
「お子ちゃま舌には無理だな〜。仕方ねえ。物吉、包丁連れてルー買ってこい。あとヨーグルトと牛乳。あ、明日のパンも」
「はい」
「行ってきまーす!」
バタバタと出ていく二人を見送って無意識に腕まくりを再度繰り返す。ストックしていたカレールーを戸棚に戻した。これはまた、兄弟が帰ってから使おう、と。
「すげ〜〜! なにこれ、ラッシー?」
「ラッシー風」
反応がいちいちうるさいのでこちらも思わず笑ってしまう。結構すぐに帰ってきたので野菜を切らせたり、サラダを作らせたりと家庭科の実習のようだと思いながら作った。裏でこっそり作ったラッシーは好評で安心する。
久しぶりに食べた甘口カレーと赤い福神漬けの味に、昔住んでいたところの区営プールに付属していた古い洋食屋を思い出した。
「あ、風呂もう沸いてるから順番に入ってこいよ」
「え、一緒に入らないの?」
「「え?」」
さすがにこれには物吉も驚愕の顔をしている。
キョトンとしているのは包丁だけだ。
「いつもずお兄とか、後藤兄とかと一緒に入ってる」
その言葉に真っ先に反応したのはやっぱり物吉だった。
「よし! 一緒に入りましょう!」
「どうぞ。タオルは脱衣所にあるの適当に使っていいぞ」
「何言ってんだよー」
「そうですよ、ほら、行きますよ!」
「はあ? 俺も?! うちの風呂そんなにいっぺんに入れねえよ!」
「いけますって!」
「お前見たことねーだろ!」
だが、二人に引っ張られ、無理矢理立ち上がらせられる。いやにテンションが上がってる二人に引きずられるように移動しながら廊下の途中で止まった。
「で」
「お風呂、どこですか?」
「だろうな」
ソハヤは考えていた。誰かと風呂に入るなんていつぶりだろうかと。
大包平とはよく旅行に行くのと二人とも温泉が好きで立ち寄るので裸の付き合いが多いが、そういえば鶯丸とは一緒に泊まりに行ったことがない。
兄弟とは小学生の低学年までは一緒に入っていた記憶があるが、いつからか当たり前だが一人で入るのが普通だった。
ソハヤの背中をうんしょうんしょと流してくれる包丁の手がくすぐったい。
「はい、終わり! 流しまーす!」
「はいはい、っておわ! 上からかけるなよ!」
「次髪の毛だぞ」
「ええ〜、自分でやるよ……先に風呂浸からせてくれ」
「包丁くん、僕が包丁くんの頭洗ってあげますよ」
助けに入った物吉と入れ替わりに湯船に浸かる。シャンプーハットが無いからか、顔面をずっと手のひらで抑えている包丁が面白くて横からお湯をかけたり、体をつついたりしてちょっかいを出す。
「ソハヤ〜! コラー!」
「あはははは!」
「包丁くん、痒いところはないですか〜?」
「ないです!」
洗い終わった二人にソハヤがシャワーをかける。また包丁に「コラー!」と言われたがこちらも頭までビショ濡れなのだ。軽い復讐である。
泡を落として三人で湯船に浸かると、「はあ〜」と誰の声だかわからないものが口から溢れ落ちた。ソハヤの膝に包丁が乗って、物吉が反対側で丸くなっている。無理矢理だが、入れるもんだな、と感心した。
「ソハヤさん、足邪魔なんですけど」
「家主に向かってなんだその口は」
「ねむい」
「おい、包丁寝るなよ!」
「うわっ、包丁くん、身体柔らか!」
あはははと笑う物吉に包丁を渡して、湯船から出た。髪を洗ってなかったのを思い出した。ほぼ包丁が寝ているのを見て小声で物吉に話しかける。
「今日、一期いないんだってよ」
「え、そうなんですか?」
「鯰尾とかから聞いてねえのか」
「別にそんな話はしませんね」
「そりゃそうか」
今日はやたらとペタペタくっついてくるのも、一人で泊まりたいと言ったのも、多分一期がいなくて寂しいのもあるが、なにより自分たちの面倒を見る鯰尾や骨喰の手間を一人分でも省くためだったのかもしれない。いつもよりも明らかに甘えたなので。
食事の最中に一期から直接来たLINEには「弟がが迷惑を」という謝罪と共に「甘やかしてもらってすみません、ありがとう」という感謝の念が詰まっていた。これは多分後日出張の土産がまた包丁経由で届くだろう。ついでに鯰尾からも「ありがとうございます」という旨のスタンプだけが送られてきた。あとで二人にはこのだらしない顔の包丁の写真を送りつけてやろう。
「ソハヤさん、洗いましょうか?」
「自分でできます」
だが、物吉がその細い腕を伸ばしてきた。仕方ないので頭を差し出す。わしゃわしゃと人の手で洗われるのは、確かに気持ちがいい。
「お前、洗うのうまいな」
「へへへ。うちにも甘えたな弟がいたので」
「もういないみたいじゃん」
「うちも、もう一緒になんて入ってくれませんよ」
柔らかい指先に、そういえば、兄も自分の頭をよく洗ってくれたものだと思い出す。その指先を全く思い出せないのは、確かに少し勿体無いのかもしれない。
今夜寝るのはソハヤも初めてな光世のベッドだった。
光世の部屋にはあまり入らない。ソハヤは作業場と寝室も全部一緒のとても人を入れられるような状態ではない混沌とした部屋だが、光世は作業場と寝室を分けているのでそれなりに綺麗だ。テレビを観ないため、なにも無かったのでソハヤがわざわざ自室からテレビと外付けのBD再生機を運んでくる。
当然兄弟に今夜はこっちで寝てもいいか、と聞いた時には「は?」と聞いたことのない困惑した声が聴こえて笑ってしまったが、包丁と物吉が泊まりに来てるというと「どうして?」という疑問を払拭出来ないまま「まあ、構わんが……」という返事だった。いやなら嫌といえばいいのに、と思うがそう聞いても「嫌ではない」といつも言われる。
「じゃあ、親父のことよろしくな」
「ああ、別に手続きで同行しただけだ。大したことではない。そっちも戸締りちゃんとして寝るんだぞ」
「おいおい、ガキじゃあるまいし……」
「あと、夜更かしはあんまりするなよ。明日は普通に店開けるんだから」
「はーい」
「……あと、ベッドの上で物の飲み食いはやめてくれ」
「……はーい」
なるほど、懸念事項はそこだったか。そんなことを思い出しながらBDを入れた。
「なに観るの?」
いつもと違う状況にはしゃいで疲れたのか、ポカポカした身体をソハヤに完全に預けっぱなしで包丁がとろんとしている。しかしソハヤには観るべきものがあるのだ。
「サメ」
「は?」
「サメ映画」
じゃ〜〜ん、とパッケージを見せるも包丁は興味が薄い。物吉はしげしげと眺めている。
「B級映画なんて観るんですね」
「B級にはB級なりの味があるんだよ」
「はあ」
しかし映画をつけ始めたら真っ先に食い入るように見ていたのは物吉だった。
「いやいや、この展開ないでしょ」
「お約束っつーんだよ、こういうのは」
「なんでこの女の人、わかってて水着で来るんですか」
「サービスショットだからな」
バレなきゃいいだろ精神でベッドで寝落ちた包丁を抱えながらビールを煽る。物吉も光世の懸念を聞かされていたからかフタ付きのタンブラーに移したミネラルウォーターを適宜挟みながら次々とツッコミを入れてくる。こいつ、B級映画を観る素質があるな。
「え、サメ! え!? なんでマシンガン付いてるんですか?!」
「そういうサメなんだよ」
「ええ?!」
「うるさいぞ、物吉ぃ〜」
「あ、ごめんね、包丁くん。いや、それはないでしょ?!」
「わははははは! 面白いだろう!!」
「ええ……?」
などと笑っていたものの、ソハヤも後半は普通に食い入るように見入ってしまい、最終的には二人で見終わると深いため息をついてしまった。
「いや……舐めてたわ……」
「ええ……。普通に、良かったです……」
「続編、あるんだけど……」
「僕も観たいです……。いや、これは続編出ますわ……」
テレビは明日片付けるにしても、BDと再生機は自室に戻すついでに飲み食いの証拠隠滅をして、寝室に戻ると、物吉も寝落ちていた。まだ日付も変わっていないのに。
さすがにキングサイズといえども包丁サイズが三人ならともかく、ソハヤが入ると少しきつい。さりげなく包丁を真ん中に寄せて自分が入るスペースを作る。
子どもを抱き抱えるようにしてベッドに潜り込むと、同じ洗剤を使っているのに少し違う香りを感じる。年齢が上であることをそれなりに気にしているのか、ファブリック製品の香りには無頓着ながらに気を使っているらしい兄弟の慣れた匂いがする。それと、包丁の子どもらしい柔らかい匂いと人肌が、あまりに心地よくて、いつもよりも早い時間で眠れるかななんて考えていたはずなのに、あっという間に意識を手放していた。
*
昨夜連絡をもらってから、絶対に今日は兄弟が目覚めるより先に帰ってやる、と心に強く決めて実家では年を重ねたことで早起きしてしまう父と早い朝食を摂って急ぎの仕事があるからなどと嘯いて帰宅した。
店舗側からでなく、住居スペースに直接入れる普段はあまり使わない二階の勝手口から入る。
俺の部屋なのにと思いながらも寝ている人間がいるとついコソコソしてしまったものの中に入ると、兄弟と包丁と物吉が仲良く同じ方向を向いて穏やかに寝ていた。自分のベッドで。
やるべきことはただ一つ。
彼らの寝顔を撮ることだ。
*
大包平は朝のランニングを終えてシャワーを浴びたところでLINEが来ていることに気がついた。しかも相手は珍しいことに光世からである。大体は兄弟揃って会うかソハヤと会うことがお会いので直接本人とやりとりすることは多くない。そもそも光世が筆無精なのだ。
なにか良くないことでも? と思ってソワソワしながら開くと一文と写真がいくつも送られていた。
『……兄弟たちが、かわいい……』
一緒に送られていた写真を見て頭を抱えた。
兄バカもここまで極まるとは。しかし、それを見て確かにその幸せそうな寝顔に思わずこちらも笑ってしまったので、同罪かもしれない。
ソハヤに知られたら怒られるだろうそれは、知られないようにしておかねば。
⑩天体観測
「ねえねえ、ソハヤさん! 天体望遠鏡って、持ってます?」
おっ邪魔しま~す! と店内に入ってきたのは鯰尾と骨喰の双子で、入ってきてソハヤの顔を見るなり、鯰尾がそう言い出した。
「他の客の迷惑になるから走って店の中に入るな。
で、天体望遠鏡は持ってるぜ」
「ほら、持ってた~~!」
よっしゃあ! とガッツポーズをとる鯰尾とは裏腹に相変わらず表情のない骨喰が「よかった」と呟いた。
「なにかあるのか?」
「来週? なんか流星群だっけ? あるんですって」
「全部疑問形じゃねーか。もうちょっと情報得てから来いよ」
「秋田が、先週一人だけ風邪を引いて、学校の天体観測会に参加出来なかった。
それで、星を見たかったんだが、学校からは望遠鏡は借りられなくて。流星群なら望遠鏡がなくても見れるとは聞いたんだが」
「ほう、それはかわいそうだな」
「うわ、大包平さん!」
「最初からいたぞ」
店のカウンターでパソコンを広げているのはフリーランスの大包平である。もっぱら店に顔を出すときは煮詰まっている時と、物吉にすら見抜かれているほどこの店に店主たちとの食事などの約束の待ち合わせ以外の日の顔色の悪さでばれている。現在もいつも健康そうな見目なのに、ずいぶん深い隈が出来ている。
「しかし、ほんとにお前はなんでも持ってるな。あの汚い部屋で見つかるのか?」
「うるせーな。まあ、大学卒業する先輩がくれたかなりの年代物だからあんまり物は良くないと思うぜ。手入れも特にしてないし」
「でも、もし使えるなら!」
「頼む」
そっくりな仕草で二人して両手を合わせて拝むようにしてソハヤに頼んでくる。
「貸さないとは言わねーけど、流星群なら肉眼での観測のほうが向いているはずだぜ?」
「流星群だったな。それなら車を出してやろう。せっかくすぐ裏に山があるんだ。あそこの上には展望台があっただろう」
「え、大包平さんも来てくれるの?」
「ああ、そっちのほうがいいな。ならお前車出せよ。ついでに久し振りにキャンプ飯でも食うか」
ソハヤと大包平がどんどん話を進めていく。思わずキョトンとしていたが、慌てて鯰尾が口をはさんだ。
「え、えっ? 本当にいいんですか? お二人とも忙しいんでしょう?」
「子どもがそんな生意気な口を利くな。行きたくないのか?」
「行きたい」
骨喰が先に食いついていた。
「秋田も、きっと喜ぶ」
話しながらやっていた作業を止めて、ソハヤがまだ本当にいいのかとオロオロとしている鯰尾にニヤリと笑って声をかける。
「鯰尾。いいことを教えてやるよ」
そして大包平をチラリと見た。それにゆっくりと頷くと、大包平が重々しく口を開いた。
「大人はな、金を持っているんだ。自由に使える金をな」
時間は足りないがな! わははははは! と二人で笑い合う。あ、これはなんかおかしいぞ、とよく見たらソハヤも徹夜明けの時特有のテンションだと気付いたのは、普段はしないコーヒーの香りがしていたことに帰宅して兄が飲んでいるところに出くわした時だった。
*
火の使用が許可されているキャンプ場として開放されている場所に夕方着くと、すでに何組か同じような目的のグループが集まっていた。
まだ完全に秋にはならないが、夏のような暑さのない時期で、虫よけのために必ず長袖長ズボンで来い、と伝えておいたらさすがしっかりとした過保護の長兄がおそらく仕立てたのだろう、いつもは半ズボンが多い秋田と包丁もしっかりとしたキャンプ仕様になっていた。
「そろそろかな」
「そうだな」
結局色々検討した結果夕食は各々食べてからの集合となった。貴重品を持って、車の中に荷物を仕舞って、五人でぞろぞろと高台に上っていく。
「月と反対の方向を見るんだぞ」
「お、今流れたな」
「え! 本当ですか?」
「嘘!?」
わー! と夜で周囲が静かな分包丁の声が響く。鯰尾が包丁に耳打ちをしてボリュームを下げるように伝えている。
高校生三人でいる時は一番やんちゃな鯰尾が、小さい兄弟の秋田や包丁と一緒にいるとものすごくお兄ちゃんをしているので、ソハヤもなんだかくすぐったい気持ちになっていた。
秋田が、流星群を首を痛めるほど上を見ていた。一度集中するとこちらの声も入らないほど、というのは初めて知った。包丁、前田や平野とはよく会うが、あまり他の兄弟とは会う機会がなかったからだ。後ろを見過ぎて倒れそうになったところを骨喰が背中を支えてやる。もうピークは過ぎたからか、やはり三十分以上も夜空を見ているのはなかなかにキツイ。
「あ! すみません! もしかして、もう終わりですか?」
「いや、星はまだ見れると思うが、まあ、一度車に戻るか。あっちなら寝転んで見れるぞ」
「なんだ~! そっちのほうがいいじゃないですか」
「なあ、ソハヤ! ココアは?」
「あ、お前なんでついてきたのかと思ったらそれが目当てか!」
「へへへへ」
また十分ほどの下り坂をゆっくりと車まで戻っていく。
車の天井を開けて、車の中から大包平と秋田と包丁が位置取りをあーでもない、こうでもないとやっている間に、再び小さな灯油缶の中に火を着けて、牛乳をあっためココアを入れる準備を残りの三人でしていた。ついでにマシュマロでも焼いてやるか、と荷物から袋を取り出してきてから、鯰尾と骨喰がいやに火から遠いところにいることに気付いた。
寒くはないが、涼しいくらいの気温だ。二人ともちゃんと長袖のウインドブレイカーを着ているが、ぴったりとくっついていて、寒いのだろうか? ちびっこ分から作っていたが、先に二人にココアのカップを渡してやる。
「寒いか? もっと火に寄れよ。服は焦げねえから」
「あ、はい、いや、」
「ん?」
「俺たち、火、苦手なんですよね」
「は?」
骨喰はよく見たら寝ていた。ピッタリくっついているのは、寄りかかって寝ているからだ。それでも、明らかに火を遠ざける仕草をしていたので、「俺たち」というのはこの双子のことで合っているようだ。
「どういうことだ?」
思わず、足で少し灯油缶を二人から更に遠ざける。その仕草に鯰尾が軽い会釈をした。
「昔、あれいつだったかな。林間学校で、俺たちがいた宿舎だけ燃えたんですよ」
「え? やば!」
「クラスとかで泊まるとこ違ってて、設備の故障だかなんかでたまたま複数の建物使ってて、そのうちの古いほう。俺たちと、たまたま合同で被ってた薬研のいたクラスもいたかな」
別にケガも火傷も誰もしていないという。それでも、燃えていく宿舎の中にいた記憶と、夜の風景は彼らだけでなく、炎が怖くなったという者は他にもいたらしい。そういえば、粟田口の家はオール電化でIHだと誰かが言っていたのを思い出す。
それは炎が怖いという兄弟たちを慮ってのものだったのかもしれない。
「そういうのは先に言えよな~」
「あ、いや、別に目の前になければ大丈夫だからっ!」
ソハヤが火を消そうとしたのを慌てて鯰尾が止めようとして、骨喰が落ちそうになるのを止めた。
自分の近くでまだ牛乳をあっためられるようにシングルバーナーを付けた。そして灯油缶には水をかける。それなりに大きな灯りだったので、鯰尾がソハヤから渡されたランタンを着けた。
「すみません、なんか気ぃ使わせて」
「ガキが変な事気にしてんじゃねえよ」
自分の分のココアも入れて、ズズッとそれをすする。久しぶりに飲むと甘いが、外で飲むのはいかにもで悪くない。
鯰尾も自分の分のココアを飲んで、ほうと息をついた。
「誰にだってあるだろ。
知られたくないことも、知ってほしいことも、知ってほしくないのに気付いてほしいこと」
日常生活を共に過ごさねば、きっと兄弟が火が苦手であるなんてことはソハヤは一生知ることがなかっただろう。物吉も知っているのかどうか。よく一緒につるんではいるが、意外とドライな関係性を結んでいる彼らだ。そういうところには踏み込まない可能性も高い。それはそれで付き合いやすいはずだ。
「ソハヤさんにも?」
「さあ、それは内緒だ」
ニヤリと笑うと、鯰尾が少しだけ笑った。
「ほら、子どもがそんなことを気にするんじゃない。ここにはお前たちの兄貴も、今は弟たちもいないぞ。
二人っきりで耐える必要もない。お前たちは一人だ。それぞれ別の人間だ。違うことを考えてもいいし、考えているはずだ」
「はい」
真っすぐ見つめる瞳は大きくて、揺れている。ランタンの頼りない光が、鯰尾の黒い瞳の中を照らして。骨喰とよく似ているけれど、違う眼差しで。
けれど、二人は別人で、普段だって真逆なのだ。わかっているのだろう。けれど、二人でいることが正しくて、これから一人で歩んでいく彼らには重たいのかもしれない。
全て勝手なソハヤの想像でしかないが。寄り添い合っている二人は、離れることを恐れているようにも見える。
自分だって、いつまでも兄弟で暮らしておいて、こんな偉そうなことを言える立場にはないくせに。
それでも、かつて、自分が子どもだった時に言われたかったことや、言われたことや、言われなくてよかったことなどは蓄積されている。歳をとったなぁ、なんて思いながら。
「だから、誰か、いくつか、甘えられるところを作っておけよ。
それがお前の、命綱だ」
「……はい」
すこし笑って、鯰尾が腕を伸ばしてきた。なにかと思って好きなようにさせると、ソハヤの腕を掴んで自分の頭の上に持っていく。
あまりに健気な仕草に、自然と力を込めてその頭をかき混ぜた。
「そういや、大包平たち、遅いな」
「様子、見てきます?」
「俺が行くよ。骨喰、寝かせてやれ」
そう言ってソハヤが車の中を覗きこむと、まあ予想通り、大包平の腕を枕に、秋田と包丁が爆睡し、おそらくそれに釣られたのであろう大包平も一緒に寝ていた。
まだ時間的には日付が変わるまでには余裕がある。もう少しゆっくりしたら、大包平を起こして、戻ることにしよう。
それまでは、ココアのおかわりを、あの双子に入れてやることにして。