うちはの三つ巴、「断片」
サクラは普通の家庭の生まれで、中学一年生の夏までそれなりに幸せだった。
と思う。
幼いころは両親に可愛がられるばかりで気づかなかったが、小学校に上がるころには自分の髪が少し珍しいこと、学校の成績が(課業だけでなくスポーツも)良いことがだんだんと分かってきた。それに対する周囲の反応も。
「サクラ」
「はい」
サスケと同じ中高一貫の学校に二学期から通うようになったときはとても緊張した。
サクラの主人でもある同い年の彼は一見そっけないように見えるが、その実は思いやりのある優しい男の子だ。
初日だからと屋敷の車に乗って学校に行き、教員へ挨拶に行くときも、彼はまるで自分を守るかのように一緒だった。
なんて頼もしいご主人様だろう。
彼に仕えるよう言ってくれたインドラには本当に感謝している。
「ひとりにさせてすまない」
告別式が終わり葬儀屋の人間もいなくなりサクラが本当にひとりになったとき、インドラは再び現れた。
サクラの知らない大人である彼は、病院で茫然自失だった彼女の傍にいつのまにか居て、気づけば様々なことを取り仕切ってくれていた。最初は尋ねる余裕もなく漠然と父の会社のひとかと思っていたが、違うらしく、姿が見えないときを見計らうように近所のおばさん達にも誰かと訊かれた。
何も答えられないまま両親との永久の別れは終わった。
「…本日はありがとうございました。はい、はい、よろしくお願します。はい、わかりました大丈夫です。いえ、すみませんでした。本当に大丈夫です。はい、ありがとうございます」
深々と頭を下げ、最後の客を見送る。
ひとりになった家。
まだ信じられない。
今にも二人が、普通に帰ってきそうだ。
(………ばかだなわたし。)
保険とか、貯金とか、考えなければならないことがたくさんある。
明日でいいかな。
今日はもういい。明日からは、
「……っ!」
サクラは床に崩れた。
悲しみが胸を刺す。
父と母が死んだ…二人は本当にいない……
この家に自分はひとりきりだ。
「ふっ……ぅっ…」
誰もいない家で声を殺す。泣き声を聞いて、声をかけてくれるひとはいない。
慰めの声など泉下からは届かない。
「サクラ」
名を呼ばれたが気づかなかった。
「サクラ」
誰かに肩を撫でられ、涙で鈍った頭を上げる。
インドラが黒い双眸に痛ましい色を滲ませてサクラを見つめている。
「何を泣く」
「あっ」
男の両腕に引き寄せられる。
「一人で泣くな」
何が――、
家のなかには誰もいなかったはずだ、玄関の鍵はかけたと思ったけどどうして、よく知らない大人に抱きしめられる、きちんとした男のひとだけど、キザシの腕もこうだったろうか、父は昔サクラを膝に乗せていっしょに遊んでくれた、あのぬくもりは過ぎ去ってしまった、もう二度と父にも母にも会えない、触れることはできない――!
涙が次から次へと溢れて止まらない。
「サクラ、」
インドラが顎を捉える。
父とは違う手だ。
「何が悲しい。云え」
不思議な眼。
虚勢を張る気力もない。
「あ…、したの、ごはん……ひとりで食べなきゃいけないの…」
インドラは何も言わずにサクラの瞳を見つめる。
「それがいやなのっ」
いや、いやと声をあげて泣くサクラは男の胸に縋りついた。
インドラはあやすようにサクラの髪を撫でさすった。
「俺が来た以上おまえを決してひとりにしない」
サクラはそのまま男に連れて行かれた。
泣きながらインドラの腕のなかで眠ってしまったサクラが目覚めた先はうちはの屋敷。大きなベッドのなかだ。
柔らかなガウン?のようなものを着ている。下着はそのまま、制服は身につけていない。どういうことだ。どこまでが夢なの?
「お目覚めですか?」
ノックに続く女性の声にビクリと身を奮わせる。
制服が仕舞われた場所を教えてもらい、身支度を整えて、「インドラさま」の部屋に案内される。
「眠れたか」
「…はい」
夢じゃなかった。
では自分はこのひとに泣きついて、他人の家に付いて来てしまったのか。なんてことだ。いくら家族を亡くしたからってそこまで甘えていいことじゃない。家に帰らなくては、
「すみませんでした。わたし、」
「では食べに行くぞ」
肩を抱かれ、食堂に誘われる。
断わって家に帰るべきなのに、力強い腕に抗うことができない。
このひとは何者だろう。
「あの、あなたは…」
誰ですか? と聞いても失礼ではないだろうか。
「インドラだ。教えたろう」
「すみません、」
すでに聞いたのか、本当にぼんやりしていたんだ。
「いや、あんなことがあっては仕方がない」
「……」
現実を思い出すと目の奥が痺れてしまう。
泣いたらだめだ。もっと迷惑をかける。
「おまえは何も心配しなくていい」
「……」
「今は食べろ」
「…はい」
確かに、考える気になれない。
とうに目蓋は腫れているし、泣きながら寝たせいか頭が痛い。
どうしてここにいるんだろう。
食欲はあまりなかったがスープの温かさは感じられた。
このときはまだ家に帰れると思っていた。
「春野サクラだ」
部屋にはインドラとは別の男のひと(長髪)と男の子(くせっけ)がいた。
「マダラとサスケだ」
さらりと告げられ、軽く会釈をする。彼らは視線だけを返した。(ちょっと怖い。)
「サクラ、おまえはサスケに仕えろ。ここに住んで眠り、食事はサスケと供にすればいい」
「?」
「俺は食べないことも多いが、あれなら大丈夫だ」
あれと言われたサスケは険のある顔でサクラを一瞥した。(マダラはこちらを見もしない。)
まさかこのひとは、わたしが一人にならないように言ってくれているのか。冷えた体に一気に火が通った。恐々とサクラは口を挟んだ。
「そんなに親切にしてもらったら、わるいです」
小さく遠慮するサクラに、マダラの笑い声が響く。
サスケがその意味を告げた。
「親切じゃねぇだろ。仕えろと言ったんだぞ」
怒っているかのような声がサクラを刺した。ようやく頭が回り始めた気がする。
憐れまれるばかりだったサクラにとって久しぶりに浴びた別の感情だ。悲しみで麻痺していた心に彼の冷たさが心地良い。
「それは、メイドとして、ここで働けばいいんですか?」
今日この屋敷でサクラに声をかけてくれた女性はメイドさんだった。お金持ちそうだし、そういうこともあるのかも。
サスケが驚いたように眼を見張ったのが妙に楽しく感じた。
「オレの傍にいるのがこいつの命令だ。家を出て、オレと同じ中学に通うことになってもいいのか」
「それも、その仕事の一環ということでしょうか」
「好んで下僕になる気か」
マダラは笑っているが、サクラは怯まなかった。
「わたしに出来ることがあるなら、働きたいです」
口から飛び出た言葉に誰よりもサクラが仰天したが、端から見る限り彼女は平静そのものだった。
インドラは頷いた。
「これが死ぬまでおまえを守る。おまえは長生きするんだサクラ」
「………」
インドラの言葉は瞬時にサクラに染み入った。
このひとがどういうつもりでも、同情でも気まぐれでも嬉しかった。嘘でもいい。居場所を作ってくれたことが、こんなに嬉しくて、嬉しくて涙が出る。眼の奥が熱くて仕方がない。
流れる涙にインドラが手を這わせても、サクラは動かずにされるままだったがサスケが動いた。
「何を泣かせてるんだ」
サスケが掴んだ腕に険しい表情を見せたインドラは、しかし逆らわずに手を引いた。(それでいい。)
「サスケ、おまえはサクラより長く生きろ」
「……」
インドラの言葉はサクラの心に更に響いた。その心遣いがありがたくて顔があげられなかった。だからサスケがインドラを睨んでいることもサクラは気づかない。
それすらインドラは気に入ったようだ。満足げに二人を眺める。
「あとはおまえに任せよう」
学校を転校する手続きは大人に任せるしかないが、春野の家のこと、荷物を持ってくること、部屋は先に使ったベッドの部屋で、サスケの傍にいれば良いこと、(彼ら三人は親子ではないらしい。)サクラの主人はサスケだが、インドラ、マダラも同じように務めることなどが取り決められる。
「よろしくお願いします、サスケ様」
深々と頭を下げるサクラを苦い顔でサスケは見下ろした。
長い髪が揺れている。
「おい、」
「はい」
「そういうのはやめろ」
「?」
「敬語とか、メイドの仕事も、(オレはガキだし、おまえだってまだ中学生だろ。)働く必要はない」
サスケの言葉にサクラは傷ついた。
まるで、おまえは必要ない、と言われたように感じたのだ。(サスケの意図するところはそうでないのだが。)
「すみません」
か細い返事にサスケは弱った。
「そのすみませんもやめろ」
「……ごめんなさい」
涙声だ。何故こうなるんだ。
「だから、泣くなよ」
言うほどにサクラの瞳に大粒の涙が浮かぶ。参った。
「もういい」
サスケは背を向けた。サクラは泣き声のまま振り絞った。
「あの、家に帰ってもいいですか?」
「なんだと」
ギンとしたサスケの視線にサクラは竦んだが、必死に言い募る。
「わたしが帰らないと、家に誰もいなくなるんです」
「誰もいない家に帰ってどうするんだ」
ぶわっと音が立つかのように大量の涙が頬に落ちた。サスケはぎょっとした。
「おい、」
「だ、だって、四十九日が過ぎるまでは、パパとママの魂は、まだこの世にいるって、だからご飯とか一緒にお供えすれば、二人が喜ぶよって、」
あとはもう言葉にならない。
サクラの涙はサスケでさえ心配に思うほど滂沱として流れた。
幸いなことにインドラが怒鳴り込んでくることはなかったので、サスケは彼なりに必死に慰め、宥めることに成功した。
「わかった。おまえの家に帰ろう」
中学生の少年少女が手に手を取って、静まり返った春野家に帰った。時刻も遅いので、うちはの屋敷から車を使ってだ。
「ただいま」
サクラの瞳は真っ赤に腫れて足元がおぼつかないが、これだけははっきり言えた。
ここまでずっとサスケに手を握られている。ようやく家に帰れた。
「ありがとうサスケくん」
「満足したならその眼をなんとかしろ。ひでぇぞ」
「うん」
サクラはとことこと洗面所に向かった。まず顔を洗おう。涙のせいか少しひりひりする。それから目蓋を冷やそう。泣きすぎて訳がわからないくらい、しっかり腫れている。ものが見難く感じるぐらいだ。
変な日だった。
お葬式が終わって急展開。
サスケくんはちょっと怖かったけど、優しいひとだった。車の中でずっと手を握っててくれた。男の子の手って少し硬いけど、あったかかったな。
パパとママには頂きものをお供えしたし、あとはシャワーを浴びて本当に寝よう。家に帰れたと思ったらまた眠くなってきた。うちはのお屋敷で頑張るのは明日からだ。
あれ?
「サスケくん」
「なんだ」
あの、
「帰らないの?」
「どこへ?」
「えっと、うちはのお屋敷に?」
「なんでだ?」
えっ、それこそなんで疑問系なの?
翌日、二人は朝帰りをした。
大事なものだけをひとまず持って帰る。
中学一年の夏休み、サクラの新しい生活はこうして始まったのだ。