火の国のアルフ・ライラ・ワ・ライラ <二>(サスサク)
これなるは異国の若く美しい王様と、
東洋に咲く花のような娘の物語――。
彼女が一週間ぶりに主のもとへ向かった夜は、初めて王様に会ったときと同じ見事な満月が昇りました。
サクラは恋する少女のように胸をときめかせ、主のことを想いました。ハレムに移ってからこのときをずっと待ちわびていたのです。
お休みをいただいたあいだサクラには色々なことがありました。
後宮は久しく住まうものもなく、遺品を管理するもの以外ほとんど無人で放置されていたのですが、このほどサクラのために急いで整備され、王の後宮としての機能を再び持ち始めたところでした。
さらに王様の指揮で警備が強化され、浴場もサクラの部屋も、くせ者が入り込めないよう新たな柵が設置されました。サクラの居室ではいかめしい鉄格子が窓の外を覆っています。
いかにも駕の鳥ですが、王様の私室にこもりきりでいるよりはずっと自由でいられますし、王様の剣に守られていると思えば不思議と頼もしく感じました。ここでならサクラは好きなように部屋を行き来することができるのです。
後宮のなかのことではありますが、中庭に行って散策したりきれいな噴水を見ることも思いのままです。空の青いこと、緑の美しいことにサクラは晴れ晴れとした気持ちになりました。
ハレムに移ってからの変化はそれだけではありません。サクラは王様から素晴らしい贈り物をいただきました。
新しいお部屋。サクラが初めて王宮に訪れたときの部屋とは別に、広くて立派な部屋をサクラは一人で使えるようになったのです。最初に使った部屋も十分な広さだと思いましたが、その奥にある新しい部屋は寝台もついているサクラ専用の私室です。まるで王妃のような特別扱いにサクラは恐縮しましたが、王様のものと同じ見事な刺繍の布や装飾のほどこされた寝台を見て、サクラは嬉しくなってしまいました。全体のサイズは王様のものより少しだけ小さく、生地の色も王様の部屋にあったものと色違いがあるのですが、その小さな差違がかえって王宮の主とのお揃いらしく思われて、サクラはたまりませんでした。乙女心にぽわぽわと羽根が生えベッドのうえを笑顔で飛び回ってしまいます。
枕の柄や掛け布団のカバーが王様と同じだなんて、きっと物語にでてくるどんなお姫様のものより贅沢なベッドです。これではサクラは眠る度に王様を思い出さずにはいられません。気恥ずかしいので、いのが遊びにくるときはもっぱら客室用の部屋に行って過ごしました。
女一人にこのような豪勢な設えを用意してくださるなんて、王様は豪気なおかたです。やっぱり王様はまことにお心広い徳の高い君主であられます。
サクラは王様から新しい部屋と一緒に奴隷もいただいておりました。
王様の部屋からサクラをハレムに運んだたくましい男がそうでした。いかにも力仕事のできそうな立派な体格の奴隷は名を重吾と言って、普段はとても静かにサクラのそばに控えています。
何をするでもない無骨な奴隷はどうやらサクラを守るよう命じられているようです。サクラが庭に出ればついて来ますし、いのとおしゃべりをするときは部屋の隅でおとなしく座っています。それでいて彼はサクラが声をかけるとゆっくりと答えるのです。これはとても良い奴隷だとサクラは喜びました。
重吾と一緒に庭にでると、どこからともなく鳥がやってきて、重吾の肩や腕にとまって軽やかにさえずります。サクラは庭に出るのが楽しみになり、毎日決まって散歩に行くことにしました。重吾も鳥に会うのが嬉しいようで、サクラは主人として自分の奴隷の性質を好ましく思いました。
彼なら後宮に置いても大丈夫ですし、王様からいただいた奴隷ですから特別です。あまり他の侍女達に騒がれないよう重吾はマントで体を隠すことにしました。
後宮にもちゃんと警備体制は敷かれていますが、重吾はいざとなれば誰よりも頼りになることは明白でした。
重吾はいつも夜になると就寝の挨拶をしてサクラの寝所の外に行きます。こんな番兵が守っていれば王様も満足されるでしょう。
サクラは王宮の警備隊長とも布越しに挨拶をすることになったのですが、カカシという銀髪の隊長はひょろっとしてあまり強そうに見えません。サクラのその思いが伝わったのか、
「これでも私は王の武芸の指南役だったんですよ」
とカカシは言いました。
あの王様に先生がいたなんて不思議なことです。それがマスクで顔を隠しているような、まだ若そうな男のひとだなんて似合わない話です。警備隊長なんて強くて怖いひとだと思うのに、カカシはそういう感じがちっともしません。
王様以外の男のひとにこんな風に思うのはよくないことですが、サクラはカカシのマスクの下の素顔が見たいなあと思いました。王様はご存知なのでしょうか。
サクラは後宮で知った色々なことをいのと楽しく話しました。香燐ともおしゃべりをして過ごすことができました。大臣家からついてきてくれた侍女とも再会できましたし、後宮に新しく集められた侍女達にも少しずつ慣れていきました。
やはり後宮にいるほうが過ごしやすいと思いました。なのに誰と話をしても、夜になれば王様の姿が思い出されます。物語だけでなくさまざまな事柄について、王様の顔を見ながらお話したいのです。
素晴らしい部屋に重吾の生真面目な顔。庭に咲く花が良い香りを放ち、尾の長い青色の小鳥が背の高い花にとまって羽を掻いている姿。そのどちらも風に揺られている様子がのどかで可愛らしいこと。
きっと何もかも王様のほうが詳しくご存知なのでしょうが、サクラは王様の部屋を出てようやく本当の王様の話を知ることができました。これは書物にも書いてない噂話とも異なる本当の話です。サクラの胸に溜まっていく王様の物語を、サクラは王様にお伝えできたらと思うようになりました。
何よりも王様に会いたくて、サクラは夜になるとその姿を目蓋の裏に切なく思い浮かべます。会いたくてたまらない。
夜中にふと目覚めると、不安な気持ちが頭をもたげました。
自分は本当にまた王様に会うことができるのか。お休みが明けても王様に会えなかったとしたら、もしかして王様のほうではサクラのことを億劫に思ってらしたらと考えると胸が苦しくなります。もう二度と会えなくなったらどうすればいいのでしょう。王様と離れていることが恐ろしいだなんてサクラは知りませんでした。
話ができなくとも良いから王様に会いたい。夜毎サクラは人知れず願い続けました。
休みが明けて王様の私室――王宮の表からハレムとの間に設けられた寝所のある王様の私的な場所まで、サクラは前に戻ってきたのとちょうど反対の流れになって、重吾に運ばれてやってきました。
王様のそばに上がるのにいかなる邪視にあってもいけないと言って、頭から足先までを厚い布で隠されます。重吾は王様と同じように心配性なのかもしれません。
サクラは緊張と不安で足元が覚束ないため重吾が運んでくれて助かりました。
今夜は夕食を王様とご一緒することになっています。会うより先に約束めいた話があるのは初めてです。
本当に王様に会えるのだと思ってサクラは神に感謝しました。お腹は空いているけれど空いていないような気がします。自分の気持ちを振り払うのにサクラはいっぱいでした。恋心の苦しさ、王様に会える喜びもありますが、一番大事なのは王様の無柳を慰めることです。
このお務めをまっとうしなければ後宮にいる意味がありません。ハレムの女とは王様を慰めるのが仕事なのです。
重吾に運ばれながらサクラは王様へのご挨拶や今夜のお話のことを考えていました。部屋についても重吾は迷いなく奥まで進みます。
「どうぞ」
と声をかけられたときもサクラは自分に言ったのだと思いました。降ろされた先は寝台のうえのようです。捕まるのにちょうど良い棒がありました。それとも硬めに作られた枕でしょうか。丸い柱のような感触には温かいような弾力があって、サクラはこんな装飾があったろうかと思いました。
サクラはまず被ってる布を上げて重吾に礼を言おうとしたのですが、
「ご苦労」
それより早く低い声で労う声がします。
サクラがおそるおそる布を取ると、魔神のように妖しく美しい王様の顔が目の前にありました。近すぎる距離にサクラは目が眩む思いです。
「王様……?」
「なんだ」
本物の王様です。そこは王様の腕のなかでした。まさか先ほどの一言で自分が手渡されたとは思いませんでした。
サクラは王様に会いたかった気持ちがいっぺんに満たされてしまい、話したかった事柄がぷつんと沈黙してしまいました。
重吾が部屋を出ていく気配がしますがサクラは何も言えませんでした。重吾も王様も女心を全く理解していません。サクラはまるで物のように重吾から王様に渡されたのです。
重吾がいなくなると王様はサクラを抱いたまま寝台を離れました。房飾りのついた厚みのある絨毯のうえに座ります。そこには王様と二人では食べきれないほどの料理が用意してありました。
王様が食べるようおっしゃいます。サクラはまだ胸の動悸が治まらないので王様の様子を見つめました。
「どうした。お前の好きな菓子だぞ」
王様に促されましたがサクラはなかなか手を出しません。
「食べないなら話せ」
「はい」
王様の声にサクラはようやくしゃっきりしました。
久しぶりにお会いする王様にお聞かせしようと考えていた物語はいくつか候補があったのですが、サクラはそのなかでも一番優しいすみれの精とばらの精の小話にしました。
すみれの精とばらの精は互いに相手の花の色や形、その種族の違いに憧れをいだき親しくなっていくという物語です。
群れで咲くすみれは背の高いばらを素敵だと言い、一株で大きな蕾一つきりのばらは、すみれのにぎわう様子にうらやましいと言うのです。すみれの精に励まされ、ばらの精はその株を豊かに育て、花の女王ともいうべき香り高い大輪の花をたくさん咲かせることができました。それでも互いを思う気持ちはそのままに、すみれの精とばらの精は甘い季節を楽しく過ごすのでした。次の春の再開を約束して。
サクラは後宮の中庭で咲いていた花があまりに美しく見事だったので、物語を少しだけ脚色してその色や匂い、風に揺られる花びらの可憐なこと、小さな虫や小鳥が花々のあいだを飛ぶ自然の豊かで平和な光景を熱心に話しました。
語り終えたサクラはちらりと王様を見やり、
「後宮で見ました花も、風にそよいで散歩するのに本当に気持ちの良いお庭でした」
中庭のことを話しました。また新しい部屋の見事なこと、壁に飾られた布や彫刻、寝台も素敵であること、重吾はあんなに強そうなのに物静かでいつも自分を守っていること、後宮は過ごしやすく、義姉が遊びに来てくれて、王様に非常に感謝していることをサクラは伝えました。
王様はうなずき、今度こそサクラに食事を取るようおっしゃいました。
サクラはぶどうジュースを一口飲んで肉とパン、菓子にも手を伸ばします。甘くて美味しいサクラ用の料理をぱくぱくと食べることができました。
それでもサクラはほとんどの料理を残しました。たくさんのご馳走には申し訳ありませんが王様の見ている前では無理のないことです。
「食べたな」
「……はい」
返事をすると王様はますますサクラをじっと見つめます。強い視線に耐えきれずサクラはうつむきました。
変わらぬ涼しげな目元、妖しい紋様の横顔、愛しいかたの姿にサクラはまた恋という言葉に囚われてしまいます。これではいけません。だんまりは王様の得意技なのですから、サクラまで黙っていては沈黙ばかりの夜になってしまいます。
「王様にお会いできる日をずっと心待ちにしておりました」
また正直すぎる言葉が口からこぼれました。
「あのっ、お休みをいただいたことはとてもありがたくて、お部屋も庭も本当に素敵でゆっくりすることができたのですが、いつも王様を思い出して……、ええと、もうお会いできなかったらどうしようかと考えてしまって、つまりその、本当に私がこのまま後宮にいても良いのかと不安な気持ちが浮かびまして……、せ、僭越ではありますが、私はこれからもずっと王様のそばでお仕えしても良いのでしょうか……」
言い繕うほどに恋心が次々にあふれてしまいます。サクラは一言でも良いので王様から直接許しの言葉が欲しかったのですが、またも沈黙が降りました。
いのと話していたときはもっと理知的で美しい言葉だったはずなのに愚かなことを口走りました。せめてもっと毅然とした態度で申し上げるべきでした。これでは親を亡くした子供と同じかもしれません。王様は女嫌いなのに、いかにも女々しい物言いです。
サクラはすぐに物語か、今度は学問の話でもしようかと思いましたがそれよりも王様の命令のほうが先でした。
王様はただ一言、「服を脱げ」と命じられました。
「は……」
サクラは冷水を浴びせられたように身震いしました。
服を脱げとはたいへんなお怒りようです。途端に王様の眼が冷たく感じられました。サクラの顔に怯えが張りつきましたが逆らうことはできません。のろのろと服に手をかけます。
サクラは薄物のふんわりした布地の服と下に着けていたものを一枚一枚脱ぎました。王様はサクラが装飾品をつけているのは好まれないため、サクラの肌はすぐに暴かれてしまいます。最後の一枚さえなくしてしまうのはためらわれましたが、王様の命令です。
食事をとったばかりの体で裸になるのをサクラは恥ずかしく思いましたが、腹を隠そうとする手は邪魔だと言って払い除けられてしまいます。お腹のなかでは食物の消化が始まっているでしょう。そんな我が身をサクラはこの国の支配者に晒しました。
視線の先にある腹は白くやわらかそうでへその穴もよく見えます。その他の全ても。
「下を向くな」
王様の眼はまるで美術品を鑑賞するかのような感情の見えないものでした。
奴隷市場の商品もこうして客の前で裸になるのでしょうか。サクラは僭越なことを申し上げた罰で奴隷にされるのかもしれません。何よりも知らぬ仲ではないかたから受ける辱しめにサクラは泣かないよう必死でこらえました。
王様は無言で立ち上がるとサクラの顎に手をかけました。
「この体が俺のものではないと言うのか」
え?
次の瞬間にサクラは抱き上げられ、再び寝台に運ばれました。
王様はターバンを外し長い上着を脱ぐと寝間着姿でサクラのうえ被さりました。そしてサクラの頬や髪、小さな胸の膨らみや可愛らしい尖り、なだらかな腹に形の良いへその穴、その下にある両足の付け根の表面を王様の手がさらさらと撫でていきます。
ふくれた腹を撫でられたときは本当に恥ずかしかったのですが、サクラは怯えながらもじんわりとした熱を感じました。お怒りになった王様に触れられるのが恐ろしくも嬉しく感じられ、久しく離れていた夜の営みが想記されます。王様の手はあたたかく、ひと撫でごとに硬く縮こまっていたサクラの身も心もゆるやかに融け、触れられる度に体の奥が上気していくようでした。
王様の愛撫は口づけに変わりました。
太ももを撫でられ、膝のうらをくすぐられるように足を曲げられ、先ほど王様が触れた場所のすべて、サクラの恥ずかしいところさえ王様の唇が優しく触れていきます。身のうちの熱に炙られて、サクラは涙をこぼしました。王様が欲しくて切ないのです。
サクラのひそやかな泣き声に気づいた王様は涙の跡をちゅうと吸い、不機嫌におっしゃいます。
「何を泣く」
「申し訳ありません……」
王様への想いが高まり過ぎて苦しいのだとサクラは伝えることができません。
「自儘に泣くことは許さん。その涙も俺のものだからな」
「は…………」
驚いてサクラの涙が引っ込みました。
「王様、今なんと」
「俺がついているのに泣く必要はないだろう」
「はい」
「わかればいい」
サクラはよくわかりませんでした。
「あの、私は王様のものなのですか?」
「今さらなんだ。お前の養家にも伝えてある。この俺に抱かれておいて、お前は俺のものではないつもりか」
「……わたしは王様のものです」
「それで良い」
王様はきゅうとサクラを抱き締めてくださいました。王様の男らしい、大きくて硬い筋肉でおおわれた体がサクラを包みます。サクラ以上に王様の体が熱を発していることに気づくと、サクラの瞳は安堵のあまり再び潤みました。
「泣くなと言っているだろう」
「だって、王様が……嬉しくて」
美しい支配者に全てを捧げる許しを当の王様から得られたことがサクラは嬉しかったのです。
王様はこの後サクラがもっとも欲していたもの、つまり王様ご自身の硬くて熱くてたくましい甘い責め苦をたっぷりと与えてくださいました。サクラはすっかり王様を信頼し、他には何もいらないというほど幸せな毎日を過ごしました。
火の国を治める孤高の王様は、女嫌いで口数少なく、そのじつ勇ましい武芸と優れた治世をなさる熱い心を持つおかた。サクラは頼もしい腕のなかでうっとりと蜜月を過ごしました。
王様は自ら後宮においでになるのはおいやらしく、華やかな宴席などが開かれることは一切ありません。楽人どころか召し使いや侍女を呼ぶこともなく、お側に侍るのは常にサクラ一人です。
後宮での暮らしのなかで、サクラは楽器の名手や歌い手などを召し抱えることもあったのですが、王様にお話しても全く興味をお持ちになりません。何かあれば部屋の外に控えている重吾に頼み、ご自分はよく寝そべったままサクラの膝枕の他に興味はないご様子です。
サクラが話す物語にも硬いお返事しかくださらないこともございます。ただなんにせよ王様はサクラの話を聞くのはお好きなようで、「何でも良いから話せ」とおっしゃいました。
サクラは食事をしながらたわいもないことを王様にお話して、食後にきちんとした物語をするようになりました。だって食事をした直後に王様に裸をお見せするのは恥ずかしいことですし、満腹状態でああいう運動をするのは体によくありません。そう申し上げたときの王様の拗ねたお顔が可愛らしかったこと。偉大な王様の青年らしい稚気がサクラは愛しくてたまりませんでした。
王様はあれからも政務でお忙しいとき以外はサクラと夕食を共にします。給仕も置かぬ二人きりの時間はまるで王様と夫婦にでもなったようです。
変わらぬ真面目で優しいお人柄。施政者としての厳しい眼差しには時に寂しさや不安を感じることもありましたが、サクラはそんな王様を愛しました。サクラは王様と夜しか会えませんが、たとえ逢瀬のあいだだけでも間近に接するほどに濃やかな王様の人となりが染み入るように感じられます。
サクラは王様の安らぎになりたいと思いました。法律で結ばれた妻でなくとも毎夜のごとく共に過ごす喜びはサクラを十分に満たしていきます。
王様は偉大な君主であられます。その悩みは深く国を思う気持ちは誰よりも強いことをサクラは理解しました。
ですからサクラの身にある問題が起こったときは、王様にご迷惑をかけてはいけないと思い、詳しいことは何も伝えずにおりました。
ただ体調が思わしくないため、早めに休みたいことを伝えると王様は決して無理強いはなさいませんでした。
少しだけ心配だったのですが、王様はサクラと激しい夜の交歓ができなくともお怒りにならなかったのです。
それどころか王様はたいそう心配し、名だたる医者を王宮に集めようとしましたが、サクラは申し訳なくも王様のご配慮を慎んで拒みました。香燐や後宮の侍女たちが付いていれば良いのだと何度も王様に説明をしました。
これは決して偽りではなかったのですが、起きていることがどうしても辛くて、王様と一緒に食事をとることができない夜もありました。サクラは重吾を介して何度も王様にお詫びを申し上げました。そして少しばかり長い休みを頂戴して、後宮に引きこもることに致しました。
窓から見える満月を一人で眺め、会うひとと言えば香燐といの、腹心である重吾だけの夜をサクラはひそやかに過ごしました。
体がようやく元のように身動きができたとき、サクラは自分の気持ちも王様の気持ちも疑うことはありませんでした。
ただ、王様は苦難に耐えることを知っておられる寛大なかたですが、まっすぐなご気性とサクラには少し心配性な面もあって、つまりサクラをすごく心配して、もしかしたらすごく怒っているかもしれません。
実は王様から後宮まで見舞いにとのお言葉もあったのですが、たいへん申し訳なくもサクラは会うことは控えさせていただいたのです。だって王様は夜に行くとおっしゃいますが、昼間ならともかく夜のおもてなしはためらわれました。女心は厄介なものです。
サクラはせめてものお詫びにと、身の回りの役に立ちそうな、男のかたも使える刺繍入りのハンカチや飾り布を作っては王様にお贈りしました。お返事なんてありません。少しばかり短気なところのある王様は手紙や詩の書き付けなんかをくださるような趣味はないのです。わかっておりましたがサクラは寂しく思いました。本当は何度か、どうにかしてお顔を見たいと思いました。でもだからこそ会ったらいけなかったのです。王様の邪魔になってはだめですからね。
久方ぶりに主の寝台に運ばれ、サクラはベールを取って愛しいかたの気配を感じました。王様はまだいらっしゃいません。
サクラは初めての満月の夜のように部屋の中央にある敷物のうえに座ります。あの夜から自分はずいぶんと変わったように思いましたが、結局のところ何も変わっていないのだとサクラは自分に言い聞かせました。王様の無聊をお慰めするのがサクラの仕事です。
垂れ幕のあいだから王様が現れると、サクラは深く頭を垂れて、この国の支配者、偉大なる統治者の変わらぬ平安を祝福する挨拶を美々しい言葉で申し上げました。
口上を聞く王様はむっつりと黙っています。サクラの他人行儀な挨拶が気に入らないのかもしれません。
「体はどうだ」
「大丈夫です。私のことよりも、お食事はいかがですか」
サクラは王様の食事の給仕をしました。王様は共に食べるようおっしゃいますが、サクラは微笑んで答えます。
「わたしは王様の奴隷です」
王様はますます硬い表情になりました。
「……なら、それらしくしたらどうだ」
主人が望むよう振る舞う気があるなら、もっとやりようがあると王様は思いました。しかしサクラは「すぐにそのようにいたします」と答えると、するすると服を脱ぎ始めてしまいました。これが従順の証だと示すために。
「……あなたの奴隷の姿をお確かめください」
声には羞じらいと覚悟の響きがありました。それを望んだわけではありませんでしたが、王様は久方ぶりに眺める自分のものをつぶさに観察しました。
サクラは少しふくよかになったようでした。柔らかそうな肌は変わらぬ白さで、へその穴はすっきりとした形のままですが、乳房は丸く張りだし、そのうえに乗っている二つの赤い実は以前より鮮やかに色づいています。
王様はすぐさまあれをかじりたいと思いました。食事の途中ではありましたが、何よりもずっとそれが欲しかったのだと思い出しました。しかし彼は王であります。ごくんとそれらを飲み込むと、王様は自身の上着を裸の肩にかけてやりました。
「体が治ったばかりで風邪をひいたらどうするつもりだ」
このとき、女の表情が虚をつかれたように揺らぎました。
「申し訳ありません」
すすと上着の前を合わせる女のうつむいた顔にさらりと落ちる細い髪。髪と同じ淡い色の睫毛、その影から覗く翡翠のきらめきを見て、王は女を好ましく思う気持ちを抑えられなくなりました。腰を抱いて目の前に彼女を引き寄せます。
二粒の翠玉が彼の正面で大きく瞬きました。
「俺が嫌いになったのか?」
サクラは以前よりも優しい美しい女になって王の前で微笑んでいます。
前と同じように打ち解けた声を聞きたいのに、サクラはおとなしい綺麗な顔によそよそしい声音でしか話しません。歌も詩も王様は興味ありませんが、もっとあたたかで小鳥のように軽やかなサクラの声を聞きたいのです。
「なぜそう他人行儀な顔をする」
サクラは絶対的に王様のものですが、奴隷ではありません。どうしてそんなことを言うのでしょう。
「他に好きな男ができたのか」
王様は重吾の顔を思い浮かべましたが、すぐに首を振りました。王様の知る限りあの男ほど信頼できるものはおりません。重吾は軍役についているなかで最も力強く篤実な奴隷で、王のためなら自分の命など本当に投げ出すことのできる男です。重吾がついていればサクラの身は安全だと思えました。だからサクラにやったのです。
ちらと過った邪推を王様は打ち消しました。重吾はなしです。
他にサクラの近くにいる男といえば警備隊長のカカシです。あれは機転の利く男で、女の懐に入りやすい性格をしているから本当は嫌だったのですが、巧みな柔の戦いかたができる男なので仕方がありませんでした。後宮の警備が任せられるのはカカシしかいなかったのです。
重吾によれば、後宮でおとなしく過ごしているサクラの元に、報告という名目でカカシが何度かサクラと会っていたと聞いています。あろうことか、サクラは自分と一緒にいるときにカカシのことを楽しそうに話したこともあります。
サクラがカカシと。考えただけでもむかむかします。あの男はうまくやるでしょう。王である自分の裏をかき、誰にも、重吾にも見咎められずにサクラの心に忍び込むことのできる男です。
これは重罪だと王様は思いました。カカシが二度と男として使えないよう処分しようと決めました。重吾に命じようとして、重吾にも何か罰を与えるべきかと王様は考えました。重吾だっていつもサクラのそばにいれば、自分の命令よりもサクラのために逆らわないとも限りません。
そこまで王様が考えていたところ、胸元から絹で肌をこするような柔らかな空気の振動が聞こえてきました。
見ればサクラの旋毛があります。サクラは下を向いたまま、ふるふると揺れていました。
「おい、顔を見せろ」
顔を上げさせると笑っているサクラと眼が合いました。
「……おかしな王様。お会いしないあいだに浮気の物語でも読まれましたか?」
そんなもの、サクラがいないのに読むわけがありません。くすくすと笑う女に王様はなんて言えば良いのかわからなくなりました。
サクラは王に借りた上着を身にまとい、王の腕のなかから語りました。
「王様、こんな物語がございます――」
サクラはある国の美しい兄弟の話を始めました。
二人は喧嘩をして別々の国で暮らすのですが、この兄弟はそれぞれに美しい妻をもらい、全く同じ日に満月のように美しい男の子と女の子をもうけました。
そして二人の子が成長したある日、二人の父が仲違いをする前に約束していた通りに、美しい若者と乙女になった子らはイフリート(巨魔)とジンニーヤ(女妖精)の手引きによって――互いに相手が産まれたときからの婚約者であるいとこ同士と知らぬまま――正式な結婚式をあげて、初夜の床で深く愛し合いました。
そしてたった一夜の結婚の後にこの二人は離ればなれになってしまうのです。男はさらに別の国で暮らすことになり、女は男に似た可愛らしい子供を産むのでした。
その子供は大きくなり父の顔を知らない寂しさを訴えて母を困らせました。しかし神はまこと万能の力をお持ちです。父を慕う子の不思議な導きによって、男は再び愛する妻と子の元に帰ることができました。
男のいとこである妻は結婚式の夜と変わらぬ笑顔で愛する夫を迎えます。
「朝顔の花のような妻は寝所に夫を迎えるときにこう言いました。『わたくしのあなた、愛しい大切なご主人様、わたくしはあなたの奴隷です』と――」
サクラはにこにこと王様を見つめて話しました。
「私も、たとえどれほど会えないときがあっても、朝顔の姫のようにずっと王様をお慕いしております」
王様は裸のサクラのために肌ざわりのよい柔らかな布や素晴らしい刺繍の施された豪華な飾り布をたくさん集めて彼女の体を包みました。サクラはそのなかの一枚を腰に巻いて、王様に寄り添いながら話を語りました。
王様はサクラが自分に寄り添って話す声を満足しながら聞き入りました。
物語のなかで、花婿が美しい花嫁であるいとこを見て愛の炎を燃やすときは自分も同じように心が踊りましたし、異国の地で、産まれてから一度も会ったことのない父と子が不思議と情愛の念に掻き立てられる様子になんとも言えない気持ちの高ぶりを感じました。
こんなふうに物語をやすやすと操るサクラへの愛しい気持ちはひとしおでした。全くなんということでしょうか。サクラは王様の心をこんなにも惹きつけておいて、やっぱり微笑んでいるのです。
「俺に顔を見せぬあいだになぜそれほど美しくなった?」
サクラは王様の言葉に不思議そうに首を傾けました。サクラは変わったと言えば変わりましたし、変わっていないと言えば変わっていないのです。しかし王様は真剣なご様子で、確たる答えを聞かなければ許してくれそうもありません。
サクラは王様の言葉の意味を考えました。ある一つの答えにたどり着くと、サクラの笑顔がますます輝きました。
「王様が大好きだからです。わたしが王様のことを大好きだからです」
サクラは心から叫びました。もしも自分が変わったのだとしたら、その原因を作ったのは王様で、それはつまりサクラが王様を好きだからこそ起こった変化と言えました。
王様はすっかり満足してサクラの華奢な肩を優しく抱きしめました。
「たとえお前が俺を嫌っても決してお前を自由にしない。この部屋に閉じこめ、二度と外に出さずにおくことも可能だ」
サクラが何を思い何を望もうとも、王様が命じさえすればサクラの全てが王の支配下になるのです。そこにサクラの感情など関係ありません。これは神への誓約にも等しい王様の宣言です。サクラの気持ちが何であれ、王様の気持ちもまた揺らぐことのない強固なものでした。サクラもまた、以前ならば喜んで命令に応じたことでしょう。
「だが今はとにかく体を大事にしろ。お前こそ、あまり本ばかり読んで根を詰めるなよ」
サクラはほっとして王様のたくましい背中に腕を回しました。後宮の自室に戻る理由が今のサクラにはありました。
王様は本当に優しいかたです。長のお休みをいただいたのにお怒りもせずいたわってくださるなんて、王様は帝王のなかの帝王であられます。
なのにサクラは神にも等しい王様に秘密を持っているのです。
それもまたサクラが王を心から愛して、深く理解をしているためでした。
参考文献
この作品は下記を参考にしております。
・「アラビアン・ナイト2」前嶋信次訳、平凡社(東洋文庫)、1966年
p.42より「巨魔(イフリート)」、「女妖精(ジンニーヤ)」
p.56より「シットル・フスン(朝顔姫)」