最高な男
マルロの不意をついて、携帯電話の着信音が部屋に鳴り響いた。完全に意識の外にあったその音に思わず肩を跳ねさせてしまったが、すぐに冷静になってその端末を拾い上げた。
着信画面には『ヒッチ』とだけ表示されており、マルロはいったい何事かと首を傾げながら通話ボタンを押した。
ヒッチとは、大学生のころに出会い、ひょんなことから付き合うようになった恋人だ。自分がまさかこんなタイプの女子に惚れてしまうとは想像すらできなかったが、付き合ってみるととても愉快な女子で――まあ思いやりもあって優しいし、実は結構頭の回転も早く会話に飽きない女子で――、あっという間に虜になってしまっていた。
時間は夜の十時を回っており、今晩は友人と飲みに行くと言って家を出たヒッチだ。それがこんな半端な時間にどうしたのかと訝しんでいた。
「もしもし、ヒッチか?」
『あ、もしもしマルロ?』
またしても予想に反して、電話口の向こうから聞こえた声はヒッチのものではなかった。だがその人物は馴れ馴れしく自分の名前を呼んでいる。はた、と思い浮かんだのは、ヒッチの学友だったアニの顔だ。
「あー、アニか?」
『そうだよ』
当たっていたようだ。数回しか会ったことはないが、ヒッチはよくその友人の話をしているので、おそらく本人が思っている以上にマルロはアニについて知っている。
「ヒッチはどうした、何かあったのか?」
余計な思考は横においやり、単刀直入に尋ねた。
『ヒッチが酔っ払っちゃってさ。迎えにきてくれない?』
「……ヒッチが?」
『ああ』
ヒッチはよく家でも酒を飲むし、外に飲みに出ることも多い。だが、自分の裁量を把握しているようで、『迎えにきて』と言われるほど酔っ払ったことはこれまでにもなかった。
久々にアニと会ったから羽目を外しすぎたのか。いやでも、マルロが知る限りではアニと久々というほど会えなかったわけでもなさそうだった。
「わかった、場所を教えてくれ。ヒッチが迷惑をかけてすまない」
『あ、うん。別に。場所は――』
マルロはアニが告げた場所を思い浮かべて、ああ、あの店か、と納得した。ヒッチがよく行く店の一つだったからだ。
早々にアニとの電話を切ったあと、マルロはある程度の準備をして、ヒッチを迎えに行くべく夜の街へ繰り出した。
*
言われた場所に向かうと、本当にヒッチがだらしなく項垂れて、アニと一緒にマルロのことを待っていた。結局マルロのことを待ちきれなくて近くの公園のベンチに座らされていたようだ。
話しかければかろうじて反応はするが、何を言ってるのかよくわからない状態だ。完全に脱力しきっているヒッチをおんぶして回収し、アニの恋人もこちらに向かっていると言うので、途中まで一緒に歩いた。
アニとの分かれ際になり、改めて今日のことを謝罪と感謝をしたところで、
「ヒッチさ、なんか悩んでるみたいだったから。ちゃんと話し合いなよ」
アニにそう諭されて、マルロは頭上に疑問符を浮かべてしまう。ヒッチはもともと程度の差はあれど悩み多き女子であるし、度々マルロにも意見を煽ることがあった。そういうときはしっかり親身になっていたつもりだったのだから、アニに『悩みがあるみたい』と言われて、そこから驚いてしまったのだ。
とりあえずマルロは腑に落ちないながらもそれを了承し、ヒッチを抱えたまま家路に着いた。
当のヒッチ本人はときどき何かをぶつぶつ言っていて、それこそ何かを伝えたいようだとわかる。だが、言葉の選び方も抑揚もぐちゃぐちゃで、何を言っているのかさっぱりわからない。
ただ、滅多にこんな風に酔い潰れるまで飲むことがないヒッチなだけに、アニから聞かせられたヒッチが持っていると言う悩みが、いかにヒッチの中で大きな問題だったのかを理解した。
何はともあれ、ヒッチが自分ではっきりと伝えられる状態にならなければ何も始められないのだが。
家に帰ると、マルロはヒッチを外着のまま居間のソファの上に横たえた。それから自分の外着を着替え、キッチンへ水を汲みに行く。
少しでもヒッチの中のアルコール度数を下げるために、そのグラスいっぱいの水を持ってヒッチの元へ戻った。
だが、声をかけても反応しなくなってしまった。顔を覗き込むと寝息を立てていたので、仕方のないやつめ、と小声で呟いてから立ち上がった。とりあえずは自分も就寝の準備をするか、と思ったからだが、マルロが立ち上がった気配を感じたのか、
「――ん?」
ヒッチがマルロの服を掴んでいた。正確にはズボンだ、気づかずに歩いていたら、おそらくズボンが脱げていたことだろう。
それはさておき、ヒッチに意識が戻ったことに気づいたマルロは、またそこに屈み直した。ヒッチの顔を覗き込む。
「ヒッチ? 起きたか? とりあえず水を飲め」
「……ん」
そう促してヒッチの身体を支えてやると、まだ半分以上瞳を潰したまま起き上がった。ぱちぱち、と眩しそうに瞬きをして、そこにマルロが水の入ったグラスを掲げているのを見つけたようで、のろのろとそのグラスに手を伸ばした。
だがそのグラスをヒッチ一人に託すのが不安だったマルロは、そのままグラスから手を離さずにヒッチに水を飲ませる。
飲み終わったヒッチはグラスを突き返すが、そこにまた横になろうという気配は見られなかった。
しばらくそんなヒッチを眺めて、必死に眠気やアルコールに抗おうとしているその顔を覗き込む。
ヒッチの視線もマルロに向いたが、どうやらまだいまいち視線が定まらないようだ。本当にこんな風になるヒッチは珍しく、マルロはヒッチが抱えているというその〝悩み〟がさらに気になった。
「……大丈夫か? こんな風になるまで飲むことも珍しい気がするが」
マルロがそう話を切り出すと、
「……だって……」
か細く消え入りそうな声で呟かれた。
それでもヒッチは先を続けようとしない。マルロはその内容が気になっていることもあり、
「ん、なんだ? アニがお前が話があるって言っていたが」
ヒッチに喋るように促してみる。
するとヒッチは今度は顔を背けて、
「……やら、話したくない……」
なんとも舌足らずな語感で返した。
目を合わせないようにしているところにヒッチの頑なさを見たマルロだったが、反対にそうまでして隠されるとこちらも意固地になってしまう。
「どういうことだ? 悩みは一人では解決しないことが多いぞ。二人のことならなおさらだ」
いかにもな言葉で説得を続けると、ヒッチはおずおずと怯えるようにマルロのほうへ顔を向けた。
「……だって、マルロ……」
言葉の続きを待っていた、そのときだ。
「うぐっ、だってえ! 絶対別れるって言うもんっ!」
突然ヒッチの瞳から涙が溢れ出したかと思えば、すぐにヒッチは顔を押さえてうずくまってしまった。その割には大きな声で嘆くものだから、マルロは一瞬だけ怯んでしまった。しまった、酒を飲んでるときに促すべきではなかったかと気づいたが、時既に遅しというやつだ。
しかし『絶対別れるって言うもん』というヒッチの言葉に、マルロはとても嫌な予感を抱いてしまった。……自分が別れると言ってしまうほどの、何かがヒッチの悩みか。も、もしかして、ほかに好きな男ができたとか、そういう……?
マルロの視界もぐら、と揺れたが、それより目前で泣き喚いているヒッチをどうにかしなくては、と正気を取り戻した。それに、勝手に決めつけるのはよくないことだ、そう自分に言い聞かせた。
「お、おいヒッチ? 大丈夫か? ど、どうした?」
「あーやだー! マルロと別れたくないー!」
ヒッチは未だに大声でそうくり返している。もはやその内容よりもその声量が気になって、何も頭に入ってこない。
「おい、静かにしてくれっ、き、近所迷惑になるぞ」
「だってえ〜! マルロ真面目だから絶対嫌がるもんっ! あんたが真面目だからそういうところ大好きだけど、でも絶対マルロ私のこと嫌いになるもんー!」
じたばたと駄々をこねるような態度で喚き散らすヒッチに、マルロは完全に自信を失ってしまう。いやはや、今はアルコールが入っているとは言え、それにしても本当にこれまでこんな風に暴れたことがないヒッチを思うと、余計にその〝悩み〟の内容に身構えてしまう。
声量も気になるが、やはり内容を気にしないと言うことは無理だと気を改めた。とりあえず宥めるのと話を引き出すのを両方遂行すべく、マルロはヒッチの肩を撫でて、冷静さを意識した。
「少し落ち着くんだ。何も話が見えてこないぞ。どうした? 話の内容に寄ってはわからないが、俺だってヒッチをっ、」
そこまで言って、言葉がつっかえてしまう。愛している、と何も考えなしに言おうと思ったが、土壇場になってその言葉を発するのが恥ずかしくなってしまったからだ。
「――私、を?」
だが思いの外、ヒッチの気は引けたようで、泣き喚いていた声が止まったかと思うと、一生懸命にマルロを見やっていた。涙と自身が擦ったせいで、ヒッチのメイクはぐちゃぐちゃになっていたが、それだって、マルロにとってはかわいいヒッチの側面の一つだ。
その言葉を尋ねるヒッチの期待に応えるべく、マルロは慌てて代わりになる言葉を考えた。そして絞り出すように口を開く。
「いや……その、た、大切だし、お、俺が守るって、決めたしな……」
「……ほんと?」
「ああ」
肯定してやると、ヒッチは少し身を乗り出して、マルロのほうへ身体を向けた。少しずつ話せるような心境に変わっているようだった。
「……怒らない?」
不安そうにヒッチが確認を重ねる。そこまで聞かれると自信も揺らぐが、マルロは『ヒッチを守る』と言った自分に恥じないよう、その言葉を自身の中でも肝に据える。
「ああ。まあ、ことによるが、おそらく大丈夫だ」
そう言って、その真意を伝えるようにじっとヒッチの瞳を覗き込んだ。
しばしの沈黙が訪れるが、その間、ずっとマルロとヒッチは視線から互いへの信頼を確認していた。
だが、ふ、とヒッチの視線が急降下した。確かに何か後ろめたいことでもありそうな仕草ではあるが、マルロは怖気づくわけにはいかず、
「……ヒッチ?」
彼女がため込んでいる苦悩の塊を吐き出してしまうように促した。
ちらり、とヒッチの瞳がマルロのそれを確認する。ようやく勇気が固まったのか、ヒッチは目を逸らしたまま告げた。
「…………妊娠、した」
はっきり聞こえたにも関わらず、マルロの頭は真っ白に塗り替えられてしまった。
「…………は?」
気の利いた言葉が出なかったのは、そのせいだ。
「だから、私、生理がもう二週間遅れてるの。たぶん、妊娠した」
今度こそヒッチはマルロの視線をしっかりと捉えて宣言した。
マルロの視界は先ほどよりも激しくぐわんぐわんと揺れていた。
いや、てっきりヒッチが心変わりしてしまった、とか、自分に隠れて男と遊んでしまったとか、そんな内容だろうと予想していたし、またそういう内容に対しては身構えていた。
だが、ヒッチが今し方口にした悩みは、それらとは余りにもかけ離れていた。防御を一つもしていなかったところに、思いっきり殴打された気分になった。
「……えっ、は、あ!? えっと、俺の、子か?」
あまりのことに現実が受け入れられず、思わずそんな質問をしてしまっていた。するとヒッチからは鉄拳のような怒号が飛び、
「当たり前でしょ!」
鬼の仮面でも被ったような恐ろしい形相になっていた。
いや、だが、マルロにはそう尋ねてしまった理由がある。そういう方向で身構えていたのもあるが、それ以上に、万が一がないようにと気をつけていたのはまさに自分だったからだ。
「だ、だがっ、避妊はちゃんと、」
「――調べたら、ゴムの避妊率も百パーじゃないって……書いてた……」
どうやらヒッチも同じことを考えていたようで、既に調査済みだった。
――なんてことだ。
マルロは生まれて初めてだと断言できそうなほど、動揺していた。脳機能がどの方向にも回ってくれず、ずっと停止したままなのがいい証拠だった。おそらく今マルロの中では、生命に必要な最低限の活動しか行われていなかっただろう。
そんなマルロをヒッチもじっと見ている。――結論を待っている。
「……えと、あー……なんだ、ちょっ、ちょっと、待ってくれるか?」
そうマルロが情けなくも後ずさると、また目の前に座っていたヒッチの両方の大きな眼から、びゃっと涙が飛び出してきてしまう。
「ほらあ! マルロ、やっぱり引いてんじゃんっ! ああーっ!」
そしてまた先ほどのように激しく泣き出してしまった。ただでさえパニックになっているというのに、加えて目の前で恋人が泣き叫んでいる。しかもこんな夜分に。
この状況を一刻も早く収めなければならない。
「わ、わ、お、おぉ落ち着け。そ、それは、本当に俺の子で間違いないんだなっ!?」
「ひどい! 私が浮気でもしてたって言いたいわけ!? するわけないじゃん!」
涙をぼたぼたと落としながら必死に訴えるヒッチを見て、それは確かに、ヒッチに対してあまりにも信頼が欠けていたとマルロは自責した。
いや、それでも、しかし。
「あー、あー、わかった、わかったから。落ち着けって。えーと、その……、えと、」
もしヒッチが言っていることが本当だとして、自分はこれから責任を持ってその子どもを育てていけるのだろうか。その本質を一つも理解せずに、簡単にこの命を喜んでしまっていいのか。マルロの中では価値観の大革命が起こっており、混乱の頂点を極めていた。
「……ごめん、やっぱり堕ろすよっ」
すると涙を拭ったヒッチが、大真面目な顔でそう宣言した。こんな時間にどこに行くつもりなのか、ぐっと力強く立ち上がる。マルロは今度はその宣言に度肝を抜かれた。
「はあ!? 待て待て、俺はそんなこと一言もっ」
「だって、マルロ絶対でき婚とかいやでしょ!? こうするしかないじゃんっ」
「いやいやいや、ヒッチ、落ち着け!」
「あんたが落ち着きなさいよ!」
マルロもヒッチの行手を阻むように立ち上がり、二人はそこで押し問答に陥ってしまう。
だが、マルロはこんな状況でも必死に考えていた。そして思い出していた。……実はもうずっと前から、マルロは気になっていたことを調べていたのだ。だから、自暴自棄になって騒ぐヒッチの肩を強く掴み、「ヒッチ!」と声を定めた。ぐっとその瞳をしっかりと見据える。
「簡単に堕ろすと言っても、母体にも負担が大きいと聞くし、それに腹の子に罪はないだろう!?」
ようやくヒッチにマルロの声が届いたのか、
「…………え?」
今度はどうやらヒッチの頭の中が真っ白になってしまったようだ。ぐらぐらと揺れるヒッチの瞳が、マルロの左右の眼を交互に見定めている。
「な、なんだ?」
「……産んで、いいの?」
ヒッチが涙をこぼすように、言葉をこぼして尋ねた。
その瞬間、マルロの中には一気に様々な感情が突沸していた。そんなことを無垢に尋ねるヒッチが愛おしくて、自分とヒッチの子どもを迎えることができて、しかしそれらには自らがしっかりと責任を持たなくてはいけなくて、ヒッチが愛おしくて、自分の子どもを抱くヒッチはきっとさらにきれいで、その赤子もきっととても可愛くて、ヒッチやその子の未来は自分にかかっていて。
「……マルロ?」
あまりにも多くて捉えることが困難だった感情群に必死になっていると、一筋の導のようにヒッチの声が聞こえた。
それにより、マルロの脳内に残ったのは、自分の子を抱くヒッチの姿だった。――絶対に愛おしい。
ようやく、その感情の束の芯の部分を掴み取ったような安堵感がマルロを埋め尽くした。
「…………そ、そうだな……素直な気持ちを言うなら、まあ……産んで、ほしい……かもな……」
顔が赤くなっていることを自覚していたマルロは、なんとも羞恥に敵わず、視線を泳がせてしまった。ヒッチの肩を力強く持っていた手も、なんだかとても恥ずかしくなり離してしまう。
しかしそれに対してもヒッチは先ほどと同じように眼を見開いており、
「えっ、うそ……いいの?」
再び同じことを尋ねた。よほどマルロのその言葉を信じられなかったのだろう。そういう意味では、ヒッチもマルロに対して、少し信頼に欠けていたと言わざるを得ない。……しかしそれらは元々、〝今〟確かめるしかなかったのだ。
マルロは心配そうに見ていたヒッチに気づき、深呼吸をしてから再びその肩を持った。
「ああ、俺とヒッチの子だろう? まあその、いずれは……家庭を築けたらと、思っていたし……想定よりもかなり早いが……」
「……え、私、別れなくていいの?」
今度はそんなことをぱちくりと瞼を瞬かせて尋ねた。どうやらヒッチは、本気でマルロに嫌がられるものとばかり思っていたようだ。
当然そんな物言いには少しばかり心外な気持ちになってしまったマルロだ。
「何を言ってるんだ、初めからそんなことは考えていない。お前の話したい話というのが、浮気や目移りなら、と覚悟はしたが……話がこれならそれは違うだろう」
未だ信じられないと言った様相のヒッチに対して、マルロは安心させてやる意味で、この決意は必要だろうと口を再び開いた。
「……俺が、責任を持たないと」
「……マルロ……」
「俺が、――責任を持ってヒッチと子どもを守る! だから、お前は安心しろ」
そうやって力強くヒッチの瞳を捉えて、ヒッチを説得した。ヒッチがこんな風に不安になってしまったのも、おそらくはこれまでの自分の振る舞いのせいなのだろうとマルロは反省し、この決意を自ら噛み締めるように飲み込んだ。
すると突然、またヒッチの瞳を水気が覆った。だばだばと流れ出した涙に構うことなく、ヒッチはそのままマルロの胸の中へと飛び込んでくる。
「……うっ、うっ、マルロ〜〜! あんた最高じゃん〜〜! マルロ〜!」
泣きながら名前を呼ばれて、マルロもむず痒い心持ちになってしまった。加えて、いつも戯けて貶し合うことも珍しくないヒッチが、こんなにも素直に自分を慈しむ言葉を形にしてくれて、それも照れ臭さの要因の一つとなっていた。
それでもこの高揚にその羞恥は勝てない。自身の胸に飛び込んできたヒッチを離すまいと、しっかりとその背中を抱きしめてやった。
「わかった、わかったから落ち着け」
と、同時に、ヒッチの服から香るアルコールと煙草の匂いに気づき、急いでヒッチの肩を掴み直して再び視線を繋げた。
「というか! 腹に子がいるやつがアルコールを飲むとは正気か!? 以後一切の酒を禁止する!」
責任を持つと決めたのだから、心を鬼にしなければとマルロは眉間に皺を寄せた。
「……え、まじ?」
ヒッチのバツの悪そうな顔は見なかったことにして、
「お前知らないのか? アルコールは胎児に悪影響を及ぼすんだぞ」
ただそれだけを冷静に教えてやった。
するとヒッチはしばし口を閉ざし、何かを考えたあと、
「……さっきから気になっていたけど、マルロ、妙に妊娠に詳しいね」
などと、今度は反対にマルロが尋ねられる。別にやましいことをしていたわけでもないと自身に確かめたマルロは、気丈に振る舞ってヒッチに教えた。
「……まあ、その……『いずれは考えている』と言っただろう」
「……も、もしかして、予習してたの……?」
こんなに近い未来になるとは見当もしていなかったが、ヒッチの予想した通り、待ちきれずにいろいろと予備知識を仕入れていたマルロだった。……だが、『予習』と名打つほどの立派なものではなかったし、少しだけ妊娠出産を経験した主婦の体験ブログなどを読んだだけではあった。
「まあ、予習というか、き、気になっただけだ」
だがそんな返答にもヒッチは大きく頬を緩めて笑った。
「も〜何〜〜! マルロ真面目じゃん〜! 大好き〜〜!」
そしてまたぎゅう、とマルロを抱きしめるものだから、照れを思い出してしまったマルロは再びヒッチをその身体から引き離した。
「お前は酒を飲み過ぎだ! さっさと水を飲んで寝ろ! 腹の子に悪いだろう! そして明日ちゃんと検査薬で調べるんだ! 病院も予約するからな!」
マルロは落ち着きなくグラスを持ち上げて、またキッチンに向かおうと踵を返した。ヒッチに聞こえていたかはわからないが、「いい女医が見つかるといいんだが」などとぶつぶつ呟いていたのは、今、この状況を噛み締めて、またしても歓喜が湧き上がってしまっていたからだ。それらを誤魔化すために、ぶつぶつと文句みたいな言葉を並べた。
だが、居間を出る直前で、はた、とマルロは思い出した。二人が並んで写っている写真が目に入ったからだ。……それは、マルロの親戚が結婚式をしたときの記念写真だった。
くるり、とヒッチのほうへ振り返り、マルロはぴたりとそこで足を止めた。
「あと、ああ……こんな形で言う羽目になるとは想定していなかったが……その、結婚するぞ、ヒッチ」
本当に本当に想定外の事態ではあったが、ちゃんと自分から宣言しておきたかった。そしてその言葉を密かに待っていたヒッチも、それを受け取り、
「…………うん。うん、」
今度はなんとも静かに涙を流していた。その表情は本当に嬉しそうで……だがそれだけでもなく、おそらく安堵や不安も混じってはいただろう。そのヒッチの姿に、マルロは思わず見惚れてしまっていた。
「……わ、わかればいい。じゃあ俺は水を汲んできてやるからお前は着替えでもしておくんだ。いいな?」
何事もなかったように再び身体を動かし始めると、ヒッチもとても軽やかに背伸びをしながら、
「はーい」
楽しそうに返答をしてみせた。
それから寝支度を終えた二人は、なんとも言えない温もりの中で共に眠った。
*
翌朝、ヒッチが目を覚ますころには、既に居ても立っても居られなかったマルロが、妊娠検査薬を近くのドラッグストアで購入して帰っていた。
起きて早々、張り切っているマルロにげんなりしながらも――尤もこの〝げんなり〟は二日酔いのせいのほうが大きいだろう――マルロからそれを受け取り、ヒッチはトイレの中に入った。
そして数分してからトイレから出てくると、これで数分後には結果がわかるとマルロに教えた。
二人で他愛のない会話をしている内にどんどん脱線した雑談を繰り広げてしまった二人は、しばらくしてその検査の存在を思い出した。
同時にその検査薬を覗き込み――、
「――な!? いっ、陰性だぞ!?」
結果を見つめた二人の意表を、派手に突き散らかした。
「えっ、うそ!?」
当然ヒッチもその結果に空いた口が塞がらないようだ。
「えっ、だって、二週間も遅れてるから絶対妊娠したと思ってたのに!」
その検査薬を掴み取り、光の中に当ててみたりと見る角度を変えるヒッチ。しかしそこに現れた結果を示す線は、どうがんばっても陰性を示していた。
「……な、なんで調べてから騒がないんだ!」
不安もあったが、それを押し込んで期待を膨らませていたマルロは、思わずヒッチを責めるように尋ねてしまった。しかしヒッチもヒッチでその結果が信じられない様子。
「だって、怖かったんだもん! 陽性って出ちゃったら怖いじゃん!」
そしてようやく角度を変えるのを諦めて、その結果をゴミ箱に投げ込んでしまった。
……つまり、昨晩あれだけのやり取りをしたというのに、すべては早とちりだったと言うわけだ。
なんとも言い切れない気持ちになってしまい、マルロは深く呼吸を吐いた。……ヒッチの勘違いだったのだと思ったら、いろんなものが抜け落ちたように身体が軽くなった気さえしていた。
「……はあ〜〜お前は……人騒がせな……」
「……ご、ごめん……だってえ……」
ヒッチも昨晩のマルロからもらった言葉で前向きになっていたのだろう、すべて間違いだったと知り、心から残念がっているのがマルロにもわかった。
……まあ、なんやかんやあったが……。
マルロは明らかに残念そうなヒッチを見て、変わらずに可愛くて好きだなと噛み締めていた。それに、昨晩自分の中に作り上げてしまった、〝自分の子を抱くヒッチ〟が愛おしくてたまらない。――どうしてヒッチを咎めることができよう。自身との子どもを産めると安堵したヒッチは、変わらずマルロの目には愛おしかったのだ。
ソファで項垂れていたヒッチに身体を寄せ、項垂れている頭を優しく撫でてやった。
「まあ、いい。こんなことがまた起こらないとも限らないからな。準備しておく分にはいいだろう」
マルロの意図が上手く伝わらなかったようで、ヒッチは慌てて顔を上げた。……いや、伝わったからこそ、ヒッチは顔を上げたのだ。
「……マルロ?」
「……まあ、なんだ。お前がいやでなければな、その、籍は入れておいても構わないんじゃないか?」
言葉とは裏腹に、マルロの顔は真っ赤になってしまっていた。それを一番よくわかっていたのはマルロ自身だが、ここで茶化してはだめだと気を引き結んだ。
しかしその様子が面白かったのか、今度はヒッチがにやり、と頬骨を上げた。
「……マルロ、そんなに私と結婚したいの?」
揶揄うように粘っこく尋ねてやると、唐突にマルロは姿勢を前のめりに正した。
「あ、ああ! 悪いか!? 一度腹を括ったんだ、あとは遅いか早いかの問題だけだろう!」
そうやって力説するものだから、最初は面白がっていたヒッチも、だんだんとそんな気も失せてしまい……反対に、照れくさいようなくすぐったいような……そんな微妙な居心地の空気だけが残った。
それでも、ヒッチも同じように噛み締めてしまった。マルロという人間に惹かれたことが、こんなに嬉しく思えていたのだ。
そっとマルロの身体に寄りかかり、
「……ふふ、うれしい。やっぱあんた最高じゃん」
歌うように機嫌よくそう告げると、マルロはまた言葉をなくしたように口をもごもごさせていた。
おしまい
あとがき
高野さん、お誕生日おめでとうございました〜!
遅くなってしまいすみません( ;∀;)
いかがだったでしょうか……(*'▽'*)
いつも仲良くしてくださる高野さんのために書かせていただきました! ルロヒチちゃん!
私の中では進撃の中の〝当然両想い〟の二人ですから、よくアルアニちゃんのサポート役として書かせてもらっていたのですが、
今回こうやって二人メインのお話を考えるのはとても楽しかったです!♡
あとはお口に合うといいのですが……!
それではご読了ありがとうございました!
高野さん、改めましてお誕生日おめでとうございました♪