家族のいる場所雨が降る中、小魚に姿を変えたマウイが島までやってきた。以前、小魚になったときは漁師の網に引っかかってしまった。今回はそうならないよう漁師のいない方の浜へ回った。浜まで来て飛び跳ねると、マウイは元の姿に戻った。
ふと彼が村の方を見るとモアナの姿が見えた。タパを村人とともに取り込み終えて、雨除けもなくどこかへ向かおうとしている。
ちょうど雨除けになりそうな巨大な葉がマウイの近くにあった。彼は葉の茎を折って手に取った。しかし、何に変身するか。この巨大な葉を彼女に渡すのにちょうどいい姿。人間がいいだろうか。だが、変身する上で参考になりそうな村人は見当たらない。彼が頭の中で思い描ける人間は一人だけだ。
「よっ」
マウイはモアナに瓜二つな少女へ姿を変えた。鮮やかに染まった緑色のタパを纏い、簡略的になったタトゥーが全身に浮かんでいる。正直、島の人から浮いているが、どうせ雨だ。雨除けの葉で自分の姿も隠せるだろう。
「マウイ?」
「ぎゃっ!?」
突然後ろから声をかけられ、マウイは叫んで飛び退いた。
「そ、そんなに驚いた?」
声の主はモアナだった。彼女は既に雨除けの葉を手に持っていた。
「い、いや、そんなに。よくわかったな」
モアナは目を泳がせるマウイに笑いかけた。
「緑色の服を着てて、全身にタトゥーのある女の子なんてなかなか見ないから」
今いる島には緑色の染料はなく、全身にタトゥーのある者はいない。
「村に行くにはちょっと目立つかも」
「まあ、そうだな」
彼女に雨除けの葉を渡す必要もなくなってしまった。マウイは葉を地面に置いて虫に姿を変えようとした。
「ん?」
マウイは両手を見た。
「どうしたの?」
「……変身できない」
マウイが釣り針のタトゥーが入った右手を何回か降ったが、特に変化はない。
「元の姿に戻れそう?」
マウイは姿を変えようと何度か試みたが少女の姿のままだ。虫の姿どころか変身を解くことさえできない。
「前にもこうなったことある?」
モアナの言葉にマウイは首を横に降った。数千年生きてきて変身が解けなくなるなんて初めてだ。このままでは鷹になって飛んで帰るのも難しいかもしれない。マウイは帰り用の舟を借りようかモアナに聞こうとしたそのときのことだった。
「私の家に来ない?」
突然のモアナの提案にマウイは苦笑した。余所者が家に入ってよいものだろうか。
「舟で帰るさ」
そう言った瞬間に雷が轟き、マウイが拾おうとした雨除けの葉は吹き荒れる風に飛ばされた。
「雷が鳴るときに出発するのは危険じゃない?」
モアナは葉の下へマウイを手招いた。とりあえずマウイは一晩、彼女の家に泊めてもらうことになった。
「ここよ」
二人は村長の家へ辿り着いた。
「モアナお帰り。あら……その子は?」
家の中から母のシーナが現れる。
「他の島の友達。名前はマ……」
モアナは口ごもった。マウイなんて言ったら驚かれるだろう。
「マウナ」
モアナの代わりにマウイが名乗った。
「そう、マウナ!遊びに来てくれたんだけど、天気が酷くなりそうだから一晩家に泊めさせたいの」
モアナとシーナの会話を横目にマウイは不安になった。いくらモアナが友達と紹介したところで、わざわざ見ず知らずの人間を泊めさせてくれるのだろうか。
「確かにこの空だと舟は出せそうにないわね。いらっしゃい」
シーナの鼻がマウイの鼻に触れ合わせた。マウイが身構えた様子を見てシーナがハッとした表情を見せた。
「あ、この挨拶知っているかしら。もし嫌だったら謝るわ」
「いえ、モアナから教わったので……」
マウイはモアナに目配せする。モアナはそれに合わせて微笑んだ。
「よかったわ。あなたの家と違うかもしれないけれどゆっくりして頂戴」
シーナは娘とよく似た笑顔を浮かべ、二人を家の中に入れた。
「お父さんももう少ししたら帰ってくると思うわ」
「見事なタトゥーね」
夕飯を食べる中、シーナはマウイのタトゥーを見る。
「痛かったんじゃないかしら?」
「ええ、まぁ」
マウイはかじっていた魚の身を飲み込み、曖昧に返事した。彼のタトゥーは自然と浮かび上がる。その為、彼にとってはタトゥーを入れる痛みは未知のものだった。
「私のタトゥーも痛かったが、それを上回りそうだな」
トゥイがタトゥーを入れたときの話を始める。彼の話の痛みの表現が想像力を掻き立てられ、マウイは思わず顔をしかめた。
「そういえば、タトゥーがなかったらモアナと本当そっくりね」
トゥイの話が終わったところでシーナが言った。
「ああ、姉妹のようだよ」
シーナの話にトゥイが同意した。モアナはマウイの顔を見つめた。心なしかマウイの口角が緩んでいるように見えた。両親がそう言うなら、本当にそっくりなのだろう。
次第にタトゥーの話からモアナの幼少期の話へと変わっていった。彼女が幼い頃から何度も海へ行こうとしたことや、奇妙な鶏を何度も助けていたことなど……。モアナが時々話を止めたりしながら、マウイは楽しげに、彼女の両親の話に耳を傾けた。
「寝るまでお話ししない?」
夕飯を終えて、寝床を準備すると、モアナがマウイに耳打ちした。
「寝不足は肌に悪いぞ」
マウイは小声で冗談を言った。
「『寝るまで』だから」
モアナは笑って軽く肩をすくめた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
寝る前に両親に挨拶し、モアナは火を消した。
タパに潜り込み、マウイは夕飯のタロイモ粥や魚の蒸し焼きの味を思い出していた。近頃は生魚や適当に割ったココナッツを食べて生活していた。温かい料理を食べるのはいつぶりだろう。
もちろん、偉業を成し遂げたあとで人間の宴に招かれることは何度かあった。それも千年以上前だ。島に閉じ込められていた間は飢えを幾度となく味わった。過去の苦い経験を思い出し、マウイは胃のせり上がるような感覚を覚えた。自業自得だが、二度とああなりたくはない。
「マウイ?」
モアナはマウイを見つめる。食あたりでもしたのだろうか。彼女の不安げな表情に気づき、彼は眉間のシワを緩ませた。
「具合悪そうね」
「まさか」
マウイはモアナの頭を撫でた。
「……美味かった」
マウイはモアナの頭から手を離して呟いた。マウイにとって個人の家に招かれて食事をするのは生涯で初めてのことだった。
「よかった」
モアナは胸を撫で下ろした。
「生きた魚の次にな」
「あら。英雄さんは舌が肥えてるのね」
マウイの冗談にモアナは眉を上げて目を細めた。以前、マウイが釣り上げた魚を生きたまま食べようとしたことを思い出した。食あたりを心配していた自分がふと可笑しくなった。
「この姿で遊びにいってもいいな。戻れるかが心配だけどさ」
マウイ自分の腕を眺めた。
「どっちにせよ、島の人には私が話しとくね」
「ははっ、ありがとよ」
「ユアウェルカム」
普段と反対のやり取りに、二人はそっくりな顔を見合わせそれぞれ違った笑みを浮かべた。変身ができるかどうか確認できるような場所を話し合ううちに二人は眠りこけていた。
翌朝。雨は降り続いていたが、風も落ち着き、雷の音は聞こえてこない。彼女の両親に見送られ、二人は人目のつかない浜へ向かった。
昨日とは打って変わって呆気ないほど簡単に変身が解けた。勿論、変身も普段のようにスムーズに変身できた。
「昨日はなんだったんだろうな?」
マウイは釣り針を両手で抱え、首を傾げた。顔に出やすい彼が本当に不思議そうな表情をしている以上、心当たりはないのだろう。モアナはそう思った。
「とりあえず変身できてよかった。戻れないのも大変そうだもの」
「あの姿も悪くないだろ?」
「ええ。島の人に見せたいぐらい」
モアナがくすくす笑う。
「それはもう少し考えさせてくれ。じゃあ……親によろしくな」
マウイはそう言って小魚に変身して泳いでいった。
「家族か……」
魚姿のマウイは方向転換して海から顔を出し、先ほどまでいた島を見つめた。するとマウイ周辺の海面が急に盛り上がった。海が天へとマウイを掲げているようだった。
「行けってことか?」
捨てられた自分と神を繋いだ海に、マウイは尋ねた。海はさらに高くなってマウイを持ち上げた。
「何千年ぶりだろうな」
マウイはそう言って小魚の姿から鷹の姿になり神々のいる世界へと天高く飛んでいった。