湯に浮かび 空を見て幾度となく続いた感染症流行の波が一段落の風になり、市井のワクチン接種も進んだ頃。菅波が勤める病院でも対応は続くものの、年単位で続いた緊急的な体制を段階的に持続的なものに切り替えを進め、順次の休暇も取る対応が進みはじめた。菅波にも休暇の打診はあったものの、2年間の登米専従ブランクを埋める単位取得に追われ、もうしばらく東京を離れられそうにない、と百音に連絡したばかりだ。
当直明け、なんだかんだと業務に区切りをつけ、昼前に帰宅した菅波は、ざっとシャワーを浴びた後、脱衣所に溜まった洗濯物を見てため息をひとつついた。体制の切り替えと休暇のローテーションの開始で、それはそれで平時と異なることもあって、つい後回しにしていたが、そろそろ限界である。今の家には洗濯機も置いているが、もう一気に洗濯と乾燥を終えてしまいたい、としまい込んでいたランドリーバッグを取り出して洗濯物を詰める。
汐見湯裏のコインランドリーは平日の昼間とあって誰もおらず、洗濯機も一台しか回っていない。気楽でよい、と洗濯乾燥機にざくざくと洗濯物と洗剤を放り込んで所定の金額分の100円玉を投入する。ガコン、じゃばりと音がして洗濯が始まり、一旦帰宅するかどうするかと念のため持参した論文を手に思案したところに、通用口が開いた。振り返ると、汐見湯の主の菜津である。
「あ、やっぱり菅波先生だった」
マスク越しでも分かるいつもの穏やかな笑顔に、菅波も会釈を返す。
「先生、よかったら一番風呂、入っていきません?今ちょうどお風呂がたったところなんです」
「ありがとうございます。でも、今タオルなどの持ち合わせもないですし…」
「そんなの、お貸しします。たまには大きいお風呂で体伸ばしてください」
ね、と誘いを重ねられて、その厚意と心配りも分かることもあり、往時のようなリスクも低減されているという判断で、菅波はぺこりと頭を下げた。空のランドリーバッグを片手に菜津を追って汐見湯のバックヤードに入る。一時、何度も出入りしたそこがとても懐かしく、ふと奥にある階段に目が行く。その懐かし気な様子に菜津も目を細め、リビングへといざなう。棚から大判のタオルとフェイスタオル、洗面セット一揃いを取り出して菅波に渡した。
菅波は礼を言って受け取りつつ、入浴料とタオル・洗面セットの料金を菜津に渡す。遠慮しようとするところを、これは収めてください、と丁寧だがきっぱりした菅波の物言いに、菜津も頭をさげてそれを受け取る。銭湯への入り口の暖簾をくぐって時計を見れば、12時10分。汐見湯の開業は12時半からと記憶しており、それより早くとも声をかけてくれた菜津に感謝の念が湧く。
磨き上げられた浴室に入って手早く体を洗い、早々に湯船につかると、思わず「あぁ…」と深いため息が漏れた。病院でももちろんのこと、家でもシャワーですましがちで、湯につかるのはいつぶりか。少し熱めの湯に全身を包まれると、意識していなかった体の芯の疲労が緩んで溶けだすような心持になる。湯船の端に頭をのせて、湯に体を浮かせると張り詰めた緊張感がじわじわほぐれていくのを感じる。
しばらくそうして浮いていると、うとうとしてしまったようで、浴室の戸がガラリと開く音で菅波は目を開けた。浴槽の中で座りなおし、両手でばしゃりと顔に湯をかける。ほんの数分のことだが、脳がすごくリフレッシュしていることを実感する。数名が浴室に入ってきたところで、風呂から出る。心地よい扇風機の風を浴びながら服を着てざっと髪を乾かす。番台に座っていた菜津の祖父に会釈をして共同リビングに戻ると、キッチンに立つ菜津が声をかけてきた。
「先生、お早いですね。ゆっくりできました?」
「おかげさまで。ありがとうございました」
「お洗濯、まだ終わってないみたい。ね、先生、お昼食べました?」
「いえ、まだです」
「じゃあ、食べてってください。これ、新作なんです」
そういって菜津がなにやら鍋を示す。汐見湯の世話になったことを百音が聞くとうれしがることもあり、菅波はその厚意にも甘えることにする。あれこれとすみません、と言うと、したくてしてることですから、と柔らかく菜津が言うのもありがたい。ささ、座ってください、と言われてダイニングテーブルに座っていると、何やら大ぶりの深皿にごろんと丸ごと湯剥きのトマトに大ぶりの肉団子が入ったおでんが目の前に置かれた。
「おでんにちょっと食べでもほしくて、肉団子とかも入れてみたの。冷凍だけどおうどんもあるので、あとでおうどんも出しますね」
いただきます、と手を合わせて食べ始めれば、滋味に富んだ味わいが大きな風呂で緩んだ体に染み渡るような心地になる。食べているのが一人なことで、「うまいです」とキッチンに立つ菜津に言うと、菜津が嬉しそうに頷いた。
「練り物もね、いただきものなんだけどお鯛さんのすり身だったりして、ちょっと珍しいの。先生に食べてもらえてうれしい」
大きな湯剥きトマトの食感も楽しく、せっせと箸を動かしていると、じきに丼に入ったうどんが出される。複雑なうまみが出た出汁がうどんによく合い、添えられたネギの青い香りも心地よく、まともな食事がいつぶりかと感じられる。つい食事に手を抜くことを百音から菜津も聞いているのだろうな、と菅波は内心苦笑するのだった。
菅波が食べている間も、菜津はキッチンでなにやら料理を続けていて、フライパンがじゅうじゅうと音を立てている。こういう生活の音そのものが久しぶりだな、とその音にも心が和む。
暖かいものを腹いっぱいにいただいて、色んなものが満ち足りた気分で箸をおいて、ごちそうさまでした、と菅波が言えば、菜津がお粗末さまでした、と返す。
「本当にご馳走になりました。ありがとうございます」
「ほんと、これぐらいのことで。あ、先生、洗濯物取ってきたら、もう一回ちょっとこっち寄ってくれません?」
そう言われ、一度コインランドリーで乾燥まで終わった洗濯物を回収した菅波が共同リビングに戻ると、菜津がトートバッグを差し出した。
「これ、晩ご飯にでも食べてください」
受け取って中をのぞくと、使い捨てのパックに入ったお好み焼きと何かの天ぷらが見えた。
「これは?」
「実は、モネちゃんちから、牡蠣の水煮の缶詰がたくさん届いたの。それで、先生がみえたから、その牡蠣でお好み焼きにしてみちゃった。お好み焼きなら食べでもあるし、簡単に食べれるかなと思って。食べてくれたらモネちゃんも喜ぶと思う。あと天ぷらは、ハゼ。おじいちゃんがお友達とその辺でたくさん釣ってきちゃって。食べてくれたら助かります」
重ねての心づくしに、菅波は頭を下げるしかなく、ありがたくそれを受け取る。でね、そのトートバッグ、以前モネちゃんが置いていってたものなの。モネちゃんが何かの折に先生に預けてって言ってたから、今渡しちゃいます。だから、こっちに返す必要はないから、と菜津の行き届いたコメントに、百音の分まで礼を言う菅波であった。
帰宅して仮眠を取った菅波は、起きたときに体の疲労度がまるで違うことに気づく。汐見湯で熱い湯につかり、栄養たっぷりの暖かい食事を食べたことで、体が驚くほど回復したようだ。やっぱりたまには意識して緩めないと駄目だなと思いつつ、また繁忙に流される自分も容易に想像がついて苦笑が漏れる。
軽い空腹を覚え、菜津が持たせてくれた牡蠣のお好み焼きとハゼの天ぷらを温めて食べることにする。永浦水産の牡蠣はいつも通りの大きさと味わいで、お好み焼きがとくべつなごちそうに感じられ、一度見ただけのあの海と島にいやおうなしに心は飛ぶ。あの人はあの島で、今日も元気でいるだろうか。
職業病ともいうべき速さで食べ終わった菅波は、ふとベランダに出た。夕陽に染まりかけた空は雲一つなく、百音のいる方角まで広がっている。手にしたスマホをタップして電話をかけると、2コールで百音が出た。
「あ、百音さん。今、大丈夫?うん。今日、汐見湯に洗濯に行ったんです。そしたらね…」
あの島に行けるのはもう少し先。
それでも、二人で過ごしたこの地が、二人の時間を支えてくれる。繋いで、支えてくれる人がいる。
繋がっている空を見上げながら電話で言葉を交わしつつ、菅波も百音もそのことに改めて思いを馳せるのであった。