あなたの髪を乾かすとき登米に移住した僕のところに永浦さんが会いに来てくれた日。相変わらずの登米夢想での歓待を終えて、僕の家に永浦さんがいる。僕の家に泊まるのはまだ2回目で慣れない様子なのもかわいいなと思ってしまうのだから、自分の浮かれ具合も大概だけど、まぁ、それは仕方ない。
遠距離の僕の家に泊まりに行くというので、永浦さんは野村さんや神野さんにいろいろ焚きつけられてるみたいだけど、それはゆっくりでいい、と僕の考えは伝えていて、永浦さんもそれにこくり、と頷いてくれている。
登米夢想であれこれ食べさせられてあまりお腹が空いていない僕たちは、ちょっと腹ごなしにその辺を散歩して帰ってきたところ。出る前に風呂は沸かしておいていたので、お先にどうぞ、と永浦さんにすすめると、ちょっと頬をそめて、おかりしまーす、と言いながら僕が出したタオルや着替えや化粧品やらを持って脱衣所に入っていった。
かわいらしいその後ろ姿を見送って、時間つぶしと言うわけでもないながら論文に目を通す。最近通い始めた訪問診療先で気になる症状があって、読みはじめればあっという間に時間は過ぎる。脱衣所の戸がカラリと開いて湯上りでほかほかした永浦さんが出てきて顔をあげると、洗い髪をタオルでまとめたうなじがきれいだな、とつい見惚れてしまう。
「すみません、お風呂ゆっくりいただいちゃいました」
「疲れてたでしょうから、ゆっくりしてもらってよかったです」
「あ、あの、ドライヤーこっちのお部屋で使ってもいいですか?時間かかっちゃうから、あっちだと先生の邪魔かなって」
「邪魔ということはないけど、気兼ねないだろうし、もちろんこっちで使ってくれれば」
脱衣所からドライヤーを取ってきて渡せば、ふわりと笑う。化粧を落とした素顔が登米にいた頃を思い出すようで、でもそこから確実に大人になっていて、どきっとしてしまう。じゃあ、僕も風呂入ってきます、とコンセントの場所を改めて伝えたら風呂場に向かう。
湯も張ったしと思いつつ、つい習い性で烏の行水であがってしまう。寝間着にしているスウェットの上下を着て、髪をタオルドライしながら居室に戻れば、ドライヤーをかけている永浦さんと目が合った。
「あ、もう出てきた。やっぱり早風呂ですね、先生」
「つい習慣で」
「ごめんなさい、ドライヤーまだ使ってて。先生も使いますよね?」
「いや、僕は使わなくてもいいぐらいで」
焦らずどうぞ、と言うと、はーい、と返事をして、またドライヤーのスイッチを入れる。手を動かす邪魔にならない距離の隣に座ってその様子を見ていると、どうやら後頭部の髪を乾かすのが手間どるみたいだ。
「あの、後ろのとこ、僕が乾かしましょうか?」
「えっ?」
「あっ」
永浦さんがスイッチをとめてこっちを振り向く。つい言ってしまった言葉に、少し焦っていると、永浦さんがはにかみながらうなずいてドライヤーを差し出してきた。あ、聞こえてて、それで引かれてなかった。よかった。
永浦さんが僕に背を向けて近くに座りなおす。じゃあ、失礼します、とつぶやいてドライヤーのスイッチを入れると、乾ききっていないその髪がなびいた。つややかな黒に指を通しながら温風を当てると、じわじわと髪が乾いていく。もう10年以上も前に医大に入って下宿を始めたときに買った安物のドライヤーはコウコウと温風を吹き出してはいるが、こうして永浦さんの長い髪を乾かそうとすると、なんとも心許ない。
ドライヤーを近づけたり遠ざけたり、指で髪を梳いて完全に乾くまで思ったより時間がかかった。まぁ、その間、永浦さんが僕に完全に髪を委ねてくれていて、ちょっと緊張しつつも、こうしていられることを嬉しそうにしてくれていることはいい時間だったけれども。
「はい、できたと思います。確かめてくれますか?」
こんなもんかな、と区切りを置いたところで声をかけると、永浦さんが後頭部から髪を指で梳いてにこりと笑う。
「自分でやるよりきっちり乾いてます。ありがとうございます」
「どういたしまして」
どういたしましてと言いながら、手にしていたドライヤーのスイッチをまた入れて、ざっくりと自分の髪を乾かそうとする。と、永浦さんが僕の持つドライヤーをそっと取り上げて、やらせてください、って呟いて、膝立ちになってあぐらをかいてる僕の髪に指を滑らせた。向かい合っているので、永浦さんの真剣だけどどこか楽しそうな表情が見える。
永浦さんの指が僕の髪をすべる感覚はとても気持ちよくて、だけど短い僕の髪は頼りない古ぼけたドライヤーでもそれなりにすぐに乾いてしまう。ドライヤーを止めた永浦さんが、僕の髪を仔細に点検して、よし、と満足気に言うのがかわいい。スイッチを切ったドライヤーを受け取って体の後ろに置き、永浦さんの手を引いて僕のあぐらの膝に座ってもらう。後ろからそっとハグをすると、その腕にそっと手を重ねてくれた。
「ありがとうございます」
「いえいえ、こちら…こそ」
ハグで回した右腕をそのままに、左手で永浦さんの髪を一束とって指を通すと、きれいに乾いた髪はするりと指を抜けた。
「このドライヤー、僕が前の東京の家で下宿を始めた時に間に合わせで買って使っていたものなんです。とりあえずこちらにも持ってきたけど、永浦さんに使ってもらうには頼りなかったですね」
「実家のドライヤーも同じ感じだったので大丈夫です。汐見湯ではすーちゃんと出し合って、ちょっといいドライヤー買ったんですけど」
「そうなんですか。うん、僕も買いなおそうかな」
「えっ?」
僕の一言に永浦さんが驚いた様子で、そうして驚かれることにちょっとだけ焦りが出てしまう。
「また、泊まりに来てくれます…よね?その時に髪を乾かしやすい方がよいでしょうし」
「でも、私はそんなにしょっちゅう来れる…わけでもないから」
永浦さんが予定外の支出をさせることを気にするような様子に、安心してもらうように言う。
「これから、風呂上がりに急患で呼ばれることもあるだろうし、僕も普段使いしますから」
「そっか。そうですよね。冬に髪が湿ったまま外に出たら、先生が風邪ひいちゃいますもんね。それは必要ですね」
納得してうんうんと頷く頭の動きすらかわいいと思ってしまう。
「野村さんと買ったっていうドライヤーを後で教えてくれますか?購入の参考にします」
「はい、分かりました」
もう一回ぎゅっとハグをして、一旦名残惜しいけどドライヤーを仕舞いに立ち上がると永浦さんも脱衣所についてきた。歯磨きしようと思って、と言うので、ドライヤーを片したあと、二人で並んで歯磨きをする。手を動かしていると鏡ごしに目が合うのがくすぐったい。
その夜、僕の腕の中で眠る永浦さんは、まだちょっと緊張はあるけどだいぶリラックスしてくれて、こうして過ごすことに慣れてきているみたいだった。前来たよりも早く寝入った肩をとんとんと撫でつつ、僕もあくびを噛み殺す。明日は気仙沼に行くという永浦さんを10時前にはBRTの駅に送るから、その後ドライヤーを見に家電量販店まで足を延ばすかな、などと思いつつ。
翌日、二人で朝ごはんを食べて、身支度をして、一緒に家を出る。またしばらく会えないのは寂しいけど、こうして家で二人で過ごして一緒に出るというのは、それはそれでいいな、と思っていると、永浦さんが、似たことを言うのでうれしくなる。
BRTの駅で永浦さんが乗ったバスを見えなくなるまで見送って、その足で登米市中心部の家電量販店に向かう。ドライヤーを比較するものの、それに考えるべきスペックや要件も分からないことに気づき、一旦帰って調べるか、と思ったタイミングで永浦さんから、野村さんと買ったというドライヤーの情報が届いた。
帰宅して、そのドライヤーを調べ、それが備えているスペックが何の要件を満たしているか、ないしは満たされていない要件がなぜ劣後したのかを類推して、自分が考慮すべきスペックと要件が何なのかを手許の紙に整理をする。調べていくとドライヤーの世界も諸説入り乱れていて自分で何を優先するか決めていないと情報の路頭に迷うと言うことがよく分かる。
ある程度は割り切るしかないか、と思いつつ、とドライヤーを当てる間の熱ダメージは考慮外にしてよく、乾かした後の冷風による冷却が肝要であることから温冷の切り替えがスムーズなこと、そしてとにかく温冷いずれもで最低限1.5立方メートル/分、できれば2.0立方メートル/分以上の風量が確保できること、と絞り込んで、製品に目星をつける作業がだんだんと楽しくなってくる。
結局、再訪した家電量販店で実機を触ることもできた、とにかく風量が大きいドライヤーに決めて数日後に購入。『これを買いました』と永浦さんに報告のメッセージを送ると、『これ、すーちゃんが気になるけどちょっと手が出ないね、って言ってやめたのです。すーちゃんが、先生さすがってホメてました』という返信が届いた。本当に色々と筒抜けだなと苦笑も出るけど、野村さんのお墨付きなら安心かな、とも思う。実際、自分で使ってみて10年来の安物との違いは歴然で、やはり相応のスペックと値段には相応の理由があるな、と、妙な納得をしてしまったり。
それ以来、登米に来た永浦さんの髪はいつもに増してサラサラで帰京することになり、野村さんに東京の汐見湯で会った時にグッジョブと言われるようになる。
ものの。ドライヤーが高スペックすぎて髪が早く乾いてしまって、それはそれで残念な気がするなんて思いもよぎり、それをある日ふと百音さんに漏らすと、だっこしていたサメ太朗の胸ビレで頭をよしよしとされてしまったのだった。
あぁ、やっぱり。とお風呂から出てリビングに戻って、ある意味予想通りだったことに苦笑が漏れる。今日の先生は帰ってきた時点でなんだか疲労困憊だったから、まずはとにかくご飯を食べてもらって、その間に沸かしたお風呂に先に入ってもらって。お風呂上がり、書斎エリアの椅子に座った先生に、歯磨きして髪乾かしてくださいね、って声をかけて私も早めにお風呂を済ませて出てきたら、椅子に座った濡れた髪の先生がうとうととしてる。
こうなったら完全に覚醒させることは無理だし、疲れてる先生にそれはかわいそう。洗面脱衣所に戻ってあれこれ持ってきて、ベッドの横にスタンバイしてから、そっと先生に声をかける。
「せんせい、寝る支度しましょ?」
「ん-、はい」
寝ぼけまなこでも、声をかければ返事をするし、手を引けばほてほてとついてくる。こういう時の先生がかわいいなと思っているのは私だけの秘密。ベッドに座らせても、サメ太朗を渡してあげると、ぎゅって抱っこして体勢がくずれない。お手伝いえらいね、サメ太朗。
歯ブラシを渡してあげると、寝ぼけながらもしゃこしゃこと手を動かすので、その間に濡れた髪にドライヤーをあてる。ちょっと癖のあるこの髪を乾かす時間が好き。先生もそれが気持ちいのは知ってて、眠いのと相まって歯磨きの手が止まりそうになるから、寝ちゃわないように声をかける。
「はーい。じゃあ先生、歯磨きしながらでいいから、サメの系統図言ってくださーい」
サメの話題を振られると、なんだかんだ反応してしまう先生。歯ブラシを動かしながら、モゴモゴと「ネズミザメ上目、ネコザメ目、テンジクザメ目、ネズミザメ目、メジロザメ目…」って言ってる。
あぁ、でもやっぱり寝ちゃいそう。あと一息!水の入ったコップを渡して口をゆすがせながら、「じゃあ、ツノザメ上目は?」と聞くと、「カグラザメ目、ツノザメ目、キクザメ目…カスザメ、ノコギリザメ…」最後の方は目も取れちゃってるけど、髪も乾いたし、歯も磨けたし、よしってことにする。乾いた髪を撫でて、はい、できましたよ、って言ったら、ありがとうって言って、サメ太朗をだっこしたまま、ベッドにごろんと寝そべっちゃった。
うん、まぁ、上出来ってことにしよう。先生にむぎゅってされてちょっと苦しそうなサメ太朗の鼻っ面をちょんちょんってして、自分も寝る支度。電気を消して先生の隣に滑り込んだら、その気配に気づいたのか、サメ太朗と一緒に私のこともむぎゅって抱っこしてきた。サメ太朗と、狭いねって先生の腕の中でくすくす笑うこの時間は、ささやかだけどやっぱり幸せ。