電話、心、かさねて早朝、仮眠中の電話に飛び起きて汐見湯まで走って往復した菅波が、朝7時からの日勤とそこからの残業をこなし、やれやれと改めてスマホを見たのは18時すぎだった。午前中は外来が立て込み、延びに延びた外来対応を終えた後は、隙間時間でコンビニおにぎりとお茶を立ったまま流し込んで手術になだれ込んで、日中にスマホを見るタイミングが全くなかった。
着替えながら通知を見れば、ショートメッセージがポップアップしている。差出人は「永浦百音」。片手間に確認するのも気が引け、身じまいを完了して退勤の構えを整え、下りのエレベータを待ちながらおもむろにメッセージを開くと、短文が3つ。エレベータに乗り込みながら、それらを読む。
『急なお願いに、ご対応ありがとうございました』
『連日、父がすみません』
『牡蠣食べて大丈夫でしたか?』
行間にまだ百音が言いたいことが垣間見えつつ、簡潔に書かねばという考えも透けて見えるようで、ふと菅波の口許がほころぶ。エレベータを降りて職員用出入口から病院を出た菅波は、通路端に立ち止まって返信を送ろうとしてふと手を止めた。ついっとスマホのアプリを切り替えると、電話アプリの着信履歴の一番上にはメッセージの送り主の名前がある。着信時間は朝の6時半。
登米にいた頃は事務連絡で電話をすることもあったが、こちらに来てからはその機会はもちろんなく。8月に再会してからも特に電話をすることはなかった。コインランドリーで時間が合えば顔を合わせる、ないしは仕事の事務連絡をメッセージでやり取りするだけ。
そこを一足飛びに越えてきたのが、今日の早朝の電話だ。「カレシに顔出せって言えって聞かなくて、あの、父の勘違いにお付き合いさせて本当にご迷惑なんですが…」で切り出された電話の衝撃度は今はもうさておき。そうか、電話してもいいのか、とふと何か一つ許されたような気がして、菅波は着信履歴をタップした。
家に向かって歩きながらコール音を聞いていると、数コールで百音が出た。
「あ、先生。お疲れ様です。お仕事終わりですか?」
「はい。今日はもう終わりました」
「あの、メッセージでも送ったんですが、今日の朝は本当にすみませんでした。先生、お仕事の合間だったのに」
百音の声を聞きながら、菅波は川を渡るべく40年ほど前に稼働を止めた跳開橋に足を踏み入れる。川の上を渡る秋めいてきた風がずっと屋内にいた身に心地よい。橋の上を歩きつつ、会話が続く。
「勤務には間に合いましたし、気にしないでください」
「ほんとに、父が強引で…」
「いえ、僕はある意味よかったなと」
と菅波が言った時に、横を大型トラックが轟音で走り抜ける。
「え?あ、先生なんておっしゃいました?」
「あ、あの、いえ、いいです。っと、永浦さんも、お仕事終わりですか?」
「はい。今は、中継ネタ集めに川べりに来てたとこなんです」
「そうですか」
「夕焼けの橋の写真があるといいねってなって」
「橋?」
4分の3ほどを渡り終えていた欄干から、目指す岸のあたりを見渡すと、見覚えのある人影がスマホを耳に充てているのが見えた。
「永浦さん、上、橋の上見てください」
「上…あ!せんせい!」
橋にいる菅波を見つけた百音が、大きく手を振るのに、菅波も見える程度に手を振ってこたえる。電話を切り、先ほどより少し早足で橋を渡り切った菅波が植栽を大きく回り込んで川岸の散歩道に降りる階段の上に立つと、百音がスマホを手にこちらを見上げていた。少し暗くなった足元を気を付けて階段を降りると、そこに百音が歩み寄ってくる。
「先生、偶然ですね!」
「偶然でしたね。あ、言ってた写真は撮れたんですか?」
「こんな感じです」
百音がスマホの画面を数枚繰ってみせ、きれいに撮れてますね、と菅波が言うと、百音が少し得意げに笑った。
「ちょうど、写真撮れたし、帰ろうかな、もうちょっと何かネタ集めできるかな、とか思ってたとこだったんです」
「そうでしたか」
「晩ごはんどうしよっかなー、とか。今日は菜津さんたちもすーちゃんもいない日で。簡単に作るか、どこかお店に挑戦してみるか、とか」
何気ない百音の報告に、ふと菅波の気持ちが動く。
「僕も晩めしまだなんです。あの…」
菅波が言葉を継ぎかけたところで、百音が口を開いた。
「そしたらどこか食べに行きます?」
自分の夕食がまだで、菅波の晩めしもまだ。食べるあても決まっていない。なら一緒に。
とそれ以上の他意が全くない響きに菅波は内心苦笑しつつ、百音から出てきたうれしい提案を素直に受けることにする。その後に色々ありすぎて、もうだいぶと前のことに感じられるが、昨日の昼に二人で蕎麦屋に行ったことで、百音の心理的ハードルも下がっているのは、自分が電話をもらったことで電話をかけられたのと同じだろうな、と推測する。
「特に予定があったわけではないので、はい、では」
気持ちの揺れは押し殺して、きわめて平静に返事をすれば、じゃあ、行きましょう、と百音がこくこくと頷いた。
「あの、とはいえ、この辺にどんなお店があるか全然知らないんです」
「僕も大して知らないですが…。あぁ、汐見湯への途中にある店、同僚が親子丼がうまいって言ってました」
「鶏肉料理のお店ですよね。前は通ったことあります。じゃあ、そこにします?」
「そこにしましょう」
行先が決まって、では、と二人で歩き出す。店に向かいながら、夕焼けの橋の写真がいるようになった背景やこれからの季節で想定しているトピックなどを、百音が菅波に話し、菅波がそれに相槌を打ち、質問をする。その会話が壁打ちになり、百音が新しいことに気づいて、週明けに職場で相談してみよう、など楽し気な様子に、菅波もその仕事の充実ぶりを眩しく思う。
店に着けば、まだディナータイムのはしりの時間とあって、すぐに席に着くことができた。焼き鳥重や鶏の釜めしにも惹かれるものはありつつ、二人して初志貫徹と親子丼を注文する。わくわくと店の中を見渡した百音が、テーブルの真ん中に置かれたおしぼりをひとつ菅波に差し出しながら言う。
「実はあんまり一人で外食ってしたことがなくて、今日も結局キッチンで何か軽く作っちゃってたかもなので、こうして先生と来れてよかったです」
「あ、それは、どうも」
「先生は、ひとりで外食できるほうですか?」
「まぁ、人並みには、だと思いますが」
「できる人は、ひとりで焼肉にも行くって言いますもんね」
「言いますね。どうしても食べたくなったら、自分ひとりでも行くと思いますが、そうまでして焼肉を食べたいと思ったことがないな…」
「私もです」
うんうんとまた頷く様がまたとても百音らしい。その様子にわずかに口許を緩めつつ、菅波が何気ない風で口を開く。
「まぁ、洗濯のタイミングが合って必要があれば、僕でよければ、どこかの店に行きたい時は使ってください」
その言葉に、一瞬百音がきょとんとし、まずかったか、と菅波が焦ったところで、意味を理解した百音がふわりと笑った。
「ありがとうございます。すーちゃんとも仕事の時間が合わないこともままあって。その時は、ぜひ」
「はい」
そのやりとりが終わったところで、艶々とした半熟卵の照りが輝く親子丼が運ばれてきた。百音が目を輝かせ、菅波もうまそうですね、と目を細める。早速にいただきましょう、と手を合わせて、卵と鶏肉、ご飯をまとめて口に運べば、やわらかな出汁の香りと共に味わいが口の中に拡がった。おいしい、うまい、と短く言葉を交わしつつしばらく食べすすめる中、ふと菅波が先ほどの話題から口を開いた。
「野村さんとも仕事の時間が合わないことがある、って、今の永浦さんの勤務時間ってどうなってるんですか?」
チーム鮫島で一緒に稼働していた時とはまた状況が変わろうとしているとは聞いており、大学病院の働き方しか知らない菅波には、気象と報道に関わる勤務形態はさっぱり謎で、気になれば聞くしかない。
「今はですね…」
と百音が説明をして、菅波がふむふむと聞き、百音も菅波の勤務形態について改めて話を聞く。お互い、何となくコインランドリーで会うことがほとんどだったが、どう時間が合っていたのか、合わなかったのか、期せずして答え合わせの時間になった。
「そっか。じゃあ、先生に電話する時は、登米にいる時だったら診療所の休憩時間か夕方で、東京にいる時は、当直だったら午後イチ、日勤だったらこれぐらいの時間、なんですね。なるほど、なるほど」
百音がふむふむと頷いているが、そもそもこれからもそんなに電話する想定があるのか、と菅波には聞く度胸はなく。そうですね、その時間なら大体。適宜コールバックします、と答えるのが精一杯。
丼だけの簡単な食事を終えて支払の段になり、お蕎麦はご馳走になったんだからここは払います、の百音と、毎回こうやりとりしてたら店の迷惑なので普通に個別会計を、の菅波でしばらく平行線をたどりつつ、結局は個別会計に落ち着いた。店の外にでて、むぅと頬を膨らませて少し不服気な百音が菅波を見上げる。
「いつか、私にも先生にご馳走させてくださいね」
「じゃあ、僕が専門医に合格したら、祝いに蕎麦をおごってください」
「え、お祝いにお蕎麦ですか」
「蕎麦、うまいじゃないですか」
空っとぼけて言う菅波に、百音も確かにそうではある、と素直に頷く。
「まぁ、そうですけど。え、ていうか、その専門医?って言うのはいつ試験があるんですか?」
「取れるのはまぁ、早くて数年後、ですかねぇ」
「ってだいぶ先ですね。でも、分かりました。その時は、絶っ対に言ってくださいね」
「はい」
なにやら決意した様子の百音に、菅波が笑って頷く。
「じゃあ、汐見湯まで送ります」
「いいですよ、すぐそこなんで」
「とはいえもう暗くなってますし、僕も通り道ですから」
「はい」
汐見湯までの2ブロックをゆっくりと二人で歩く。お店の親子丼ってどうしてあんなに卵が絶妙にトロトロなんでしょうね、私が作るとつい火が通りすぎちゃって、と百音が言い、そもそも親子丼が自分で作れるものだという発想が僕にはないですね、と菅波がこぼす。結構簡単ですよ、と言う百音に、そんなもんですか、と返事する菅波の声音は優しい。あっという間に汐見湯に着いて、では、と菅波がそのまま歩いていくのを百音が見送る。汐見湯の角を曲がるところでちらりと振り返って会釈をした菅波に、百音も小さく頭をさげた。
就寝の支度を整えて、ふと、百音は手に取ったスマホから菅波にメッセージを送った。
『今日は親子丼一緒に行ってくれて、ありがとうございました。おやすみなさい』
風呂上がりのそのメッセージを見た菅波の口角があがる。
『おやすみなさい』
簡潔に送られたその返事に、しかし百音も口角をあげた。
翌日、登米に向かうべく東京駅の東北新幹線のホームでやまびこを待っていた菅波は、自販機で麦茶を買って立ち上がった時に、ふと視界に入ったホームの駅名標を見てパシャリと写真を撮って百音に送る。
『行ってきます』
写真にメッセージを追送すると、ポコンと返信が届く。
『いってらっしゃい。お気をつけて。みなさんによろしくお伝えください』
それに簡潔に『はい』と返事をして、菅波は乗車準備の整ったやまびこに乗り込む。
くりこま高原駅に着く頃合いに、百音から『そろそろくりこま高原ですよね、寝過ごさないでください』とメッセージが入り、菅波の『寝てません』という返信には、百音から『ですよねー』と軽口が飛んできたのだった。
月曜日、菅波が午前の診療を終えた頃合いには、百音から電話がかかってきている。週末に話をした新しいアプローチを早速莉子たちに相談したところ進展があった、という報告と追加の相談である。椎の実に昼を食べに中庭に出ながら、電話で話すその雰囲気はすっかり柔らかい。
こうして、汐見湯耕治襲来事件以来、コミュニケーションの距離がぐっと近くなった百音と菅波は、菅波が登米にいる間は折に触れた電話を、東京にいる間はタイミングが合えば週に2度ほどは昼を一緒に食べるようになり、よけいにすーちゃんをやきもきさせることになっていくのであった。