そして、深く沈む 中編※ご注意
オクタ三人衆が監督生のことを「稚魚ちゃん(さん)」と呼んでいます。
朝。最も海底では地上の太陽の光が届かないので、今が何時なのかも正確には分からない。目を覚ましても広がっているのは、珊瑚の格子が嵌められている大きな吹き抜けの窓だ。監督生の気が滅入らないようにとあの双子が誂えた物だった。ナイトレイヴンカレッジから連れ出されて、どのくらい経ったのだろう。最初は何度かこの家から脱出を図ったが、その度にリーチ兄弟に邪魔され、懇願された。どうかこの家にいて欲しい。できれば、僕達も貴女に危害を加えたり、酷いことをしたくないからと遠回しに脅されては、折角固めた意志も折られてしまう。今まで分かりやすく暴力で脅してきていた彼らが、懇願してくること自体恐怖でしかない。
それからはずっとこの家の中だけで過ごしている。幸い拘束されるようなことはないので、家の中だけは自由に動き回ることができた。動き回ると言っても、全く自由に泳げる訳ではない。彼女はまだ人魚の姿で泳ぐことができなかった。未だ尾ビレをどう動かしていいのか、どう動かせば前に進めるのか、分からない。つい人間だった時の癖で、尾ビレの先を地面に付けて歩こうとしてしまう。そのせいで彼女の尾ビレは傷だらけだった。この家に連れて来られた時、泳ぎ方はフロイドが教えると言われたが、彼自身にその気があるのか分からない。彼はこの家に来ても、じゃれてきたりやるべきことをやっていくだけなので、もしかしたら教える気など最初から無かったのかもしれない。仕方ないので、泳ぐより床を這って移動するしかない。若しくは、双子のどちらかに抱き抱えてもらうしか彼女は移動することができなかった。ベッドから起き上がり、ゆっくり床に降りて這っていく。何とか寝室を出てリビングに行くと、そこには既にジェイドの姿があった。
「おや。おはようございます、稚魚さん」
「お、はよう、ございます……」
彼らは監督生をこの家に連れて来てからは「監督生」とは呼ばない。代わりにひどく愛おしげに「稚魚さん」と呼ぶ。彼らにとって一般的に稚魚とは生まれて間もない赤ん坊やまだ小さな幼児のことを指す。フロイドが言っていたが、海の生活や文化、危険性について何も知らない、分からないから彼女は稚魚なのだという。普段の態度は一見穏やかな彼らだが、その呼び名だけで分かる。彼らは彼女を完全に下に見ており、そう見ているから守るという名目で監禁しているのだと。殺そうと思えばいつでも殺せるし、食べようと思えばいつでも食べられる。所詮、自分は彼らの暇潰しの玩具でしかないのだ。いつしか、監督生はそう考えるようになった。
彼女がそんなことを考えていると知ってか知らずか、上機嫌なジェイドはいつものように彼女を抱き上げ、椅子に座らせる。ジェイドは隣の席に着き、自分の分の食事を摂り始める。朝食の量はいつも少ないが、少食の彼女には丁度良い。海の中では火が使えないので、食事の殆どがサラダや和え物だ。主食は魚で、これも調味料で味付けしたものが多い。前にジェイドが言っていた。
「僕らは生でも構いませんが、稚魚さんは味の付いたものの方がいいでしょう?」
そう言って彼は、幸せだとでも言うようにふふと笑ったのだった。彼らは決して彼女に暴力を振るったことは無い。嫌味を言ってきたこともこの家に来てからは一度も無い。ただ、こうして一緒に食事をして、愛の言葉を受けて触れ合っているだけだ。監禁されているという事実を除けば、傍から見れば幸せな家だろう。けれど、監督生の心にはいつも自分の帰るべき場所があった。元の世界、自分の家、自分の家族。もう陸に戻れないと頭では分かっていても、あの場所が霞むことは決して無かった。
「かえりたい……」
ぼそりと彼に聞こえないように呟いたつもりだった。それまで嬉々として今日のメニューの説明をしていたジェイドの声が、ぴたりと止んだ。しまったと思い、反射的に彼を見ると、彼は黙ってこちらを見ていた。怒っても悲しんでもいない。無表情でじっと見つめられる。言い知れぬ恐怖を感じて、監督生は思わず顔を背けた。
「稚魚さん」
ひどく優しく頬を片手で包まれ、反射的にびくりと体が震える。それほど強い力でもないのに、彼の方へ顔を向けられてしまうのは、身を支配する恐怖のせいか。ジェイドは意外にも口角を上げ、微笑んでいた。彼女の頬を壊れ物でも扱うかのように撫でた、かと思うとあの嫌な笑みを浮かべて耳元に口を寄せる。
「どこにですか?」
「……え?」
「稚魚さんは一体どこに帰るつもりなんですか? 貴女の家はここですよ。僕とフロイドが帰るこの家ですよ。卒業後はアズールも近くに越して来るそうです。楽しみですね」
最後に「可愛い方」と言って頬にキスをされる。その一連の動作が何より恐ろしかった。頬に残った感触が「お前はもうここから出ることはできない」と言われているようで、呪いのように彼女の身を縛るものだと感じた。
食事を終えると、ジェイドは彼女を抱えて寝室に行く。ベッドに彼女を下ろすと、「お昼にはフロイドが来ますよ」と言って額にキスをして出て行く。食器の後片付けや軽く掃除などをして学園へ戻るのが常だった。その間、彼女はひたすら小窓から外を眺めている。窓には天井の吹き抜けと同じように珊瑚の格子が嵌められていて出て行くことは叶わないが、外の景色は見られる。その結果、分かったことはここは断崖絶壁の上にあるということ、彼らの天敵は周りにいないこと、魚すら殆ど通らないことだけだった。双子以外に話し相手がいない、本当に孤独な空間だった。双子のうちどちらかがこの家に帰ってくるまで彼女は何をしているのかというと、ひたすら脱出方法を考え、時に実行しようと這って移動するのが常だった。しかし、思い付くことは全て不自由なく泳げるようにならなければ、どうにもならない方法ばかりだった。泳ぐ練習はしているが、コツが分からない以上大した成果は無い。一度魚が泳いでいるところをイメージして尾ビレを動かそうとしたが、どうにも上手くいかなかった。尾ビレを引きずって移動する人魚の姿など何たる惨めなことか、と彼女は思わずにいられなかった。時々、引きずったところの鱗が何枚か剥がれてしまうことがある。その度に暫くの間動けなくなるほどの激痛が走り、言い様のない悲しみが訪れ、涙が滲む。泣いてどうにかなるものではないと分かってはいるが、泣かずにはいられなかった。
そして、そんなことを繰り返しているうちにお昼になり、今度はフロイドが帰って来る。
「稚魚ちゃぁん、良い子にしてたぁ~? ご飯作りに来たよぉ」
彼らにとって、この家に帰った時、彼女が何をしていようとまるで関係無かった。たとえ、彼女が脱出を図ろうとしている時でさえも、彼らはまるで愛しい恋人の手を取るように彼女の行動を阻止してしまう。この時もフォークで壁を削っている彼女の姿を見たフロイドは、「あは」と愛おしそうに笑うのだ。
「稚魚ちゃんてば、まだ諦めてなかったのぉ~? ほんとにバカで可愛いねぇ~」
「あ……ご、めんなさ――」
咄嗟に手に持っていたフォークを隠そうと後ろに回した手を素早く取られ、取り上げられてしまった。フロイドに怒っている様子は全く無い。
「ん~? 別にいいよぉ。だって、ここから出たってすぐ連れ戻してやるから」
「それより、ご飯食べよぉ」と彼は彼女の肩を抱き寄せて体に巻き付く。ごく弱い力だが、いつでも力を込められる格好に、彼女はいつも戦々恐々としていた。きっと自分は飽きられたら殺されてしまうのだろう。この格好でぎゅっと締め付けられて、苦しんで死ぬんだろう。首筋にキスの雨を降らせるフロイドを見ながら、彼女はそんなことを考えていた。でも、フロイドにはそんなことは関係無い。気の済むまでキスをすれば、彼女を抱えてまたリビングに連れて行く。
「今日はねぇ、デザートがあるんだぁ~。カレッジから少し持って来たから食べて~」
カレッジ。彼の言うカレッジとは当然ながら、ナイトレイヴンカレッジのことだ。カレッジと聞けば、監督生の脳裏に浮かぶのは、エースやデュース、ジャックの顔だが、それ以上にグリムのことが気になってしまう。自分がいなくなってから彼らはどうなったのだろうか。グリムはまだ学園に在籍していられているのか。今までも度々、訊いたことはあるが、その度に誤魔化されてしまう。昼食を共にしながら、彼女は口を開いた。
「フロイド先輩」
「あのさぁ~、稚魚ちゃん。もうオレら、そういう関係じゃないんだから、フロイドって呼び捨てで呼んでよ。その呼び方されると、陸にいた頃みたい」
「あの、エース達は……グリムはあれから、どうなったんですか?」
せめて、それだけでも知りたい。そう思って投げかけた質問だったが、それすらフロイドは許さなかった。
「知らな~い。稚魚ちゃん以外のことなんかどうでもいいし。追い出されたんじゃない? だって、アザラシちゃんって小エビちゃんがいないと生徒じゃないんでしょ? 小エビちゃんはもうオレらの稚魚ちゃんになっちゃったから、関係無いじゃん」
「でも……」
「稚魚ちゃ~ん。オレさぁ、いつまでも同じ質問されるのぉ、ふふ……すげぇ嫌い」
ふっと、それまで浮かべていた笑顔が一瞬で消える。真顔で底冷えのするような低い声でそれだけ発すると、フロイドは何事も無かったかのように食事を再開した。この話はもうするな、ということだ。監督生もそれ以上何も訊けず、ただ黙々と食事を終わらせた。
食事が終わると、フロイドもジェイドと同じように彼女を寝室に連れて行き、ベッドに座らせる。「オレ、すぐ戻らなくちゃいけないから」と言って、彼は彼女の頬に自分の頬を擦り寄せ、歯を見せず、口を開けては閉じる。それを何度かすると、「じゃあねぇ。夜はジェイドが来るよ~」と言って満足気にこの家を後にする。未だに彼女はフロイドのこの行動の意味が分からない。が、そんなことに構っている時間は無い。彼女はまたこうやって脱出方法を考え始めるのだった。
♯
「お父さん、お母さん。会いたい……会いたいよぉ……」
ある日、脱出方法を考えることにも疲れ、監督生はベッドに突っ伏して泣いていた。もう諦めた方がいいのか。受け入れてしまえば、楽になれるかもしれない。そんな気持ちが起こり始めた時だった。
「誰かいるの?」
この場にいない筈の、聞き覚えの無い声がした。その声は天井の吹き抜けの辺りから聞こえる。涙を拭って見上げると、そこには幼い人魚がいた。人間で言うと、十二、三歳くらいのオレンジと白黒の鱗が綺麗な男の子だ。短く黒い髪がゆらゆら揺れて、髪と同じ色の瞳がこちらをじっと見ていた。普段はこんなところを他の人魚が通りかかるなんて、まず有り得ない。監督生は希望を抱くよりも何よりも驚いて声が出なかった。そんな彼女に構わず、少年は口を開く。
「大丈夫? 泣いてるの?」
その可愛らしい声で漸く我に返った彼女は、答えなければと口を開いた。
「あ……ううん。大丈夫。貴方は? どうして、こんなところにいるの? この辺り、あんまり魚も来ないのに」
「僕はニコラ。今日はここら辺まで探検しに来たんだ。お姉ちゃんはどうして泣いてたの?」
一瞬、監督生は悩んだ。いくら自分が困っているとはいえ、こんな幼い少年をこちらの事情に巻き込んでいいものか。でも、一縷の望みに賭けたくなったのも事実だ。家に帰りたい。その一心で彼女は事情を話した。
少年ニコラは存外真剣に聞いてくれたようで、リーチ兄弟の名前を聞くと、非常に驚いたようだった。
「僕知ってるよ! リーチ兄弟って悪い奴らだよ。小魚や小エビ達に意地悪したり、大人達を困らせてるって言われてる。お姉ちゃん、何かあの二人に悪いことしたの? だから、こんなところに閉じ込められてるの?」
「悪いこと、なのかな……。私、家に帰りたいだけなの。でも、あの二人とアズール先輩はそれが許せないみたいで」
「アズール……? って、あのアズール!? あいつも悪い奴だっておじいちゃんが言ってた! ねぇねぇ、お姉ちゃんはお家に帰りたいんだよね? お家ってどこにあるの?」
逡巡した後、監督生は自分が元々人間であると告白した。ニコラは怖がることもせず、珊瑚の格子を外そうとしてくれたが、徒労に終わる。表情が沈む彼女を元気づけようとニコラは笑ってみせる。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。きっと僕が助けてあげる! ねぇ、この格子。そっちから押せたりしない?」
「ごめんなさい。私、上手く泳げなくて……泳ぎ方が分からないの」
「そっかぁ。でも、大丈夫だよ。僕も背ビレの片っぽがちょっとだけ小さくて上手く泳げないけど、いっぱい練習したらちゃんと泳げるようになったから。だから、お姉ちゃんも一緒に練習しよう! 僕が教えてあげる」
それからニコラは彼なりの言葉で彼女に泳ぎ方を教えた。尾ビレの根元を上下に動かすことを意識し、力を込めて水を叩くようにすると、彼女の体は今まで重かったのが嘘のように、浮くことができた。
「うそ……浮けた」
「あはは、当たり前だよ。あのね、そこから前に進みたい時は尾ビレを上、下って動かすの。進みたい方に頭を向けるんだよ。方向を変えたい時は腕で水を引っ掻くみたいにしてみて」
ニコラの言う通りに尾ビレや腕を動かすと、驚くほどすんなり泳げるようになる。あんなに苦労したのが嘘のように思えて、嬉しくて泳ぎ回りたい気分だったが、それよりここから出る方を優先させようと彼女は一先ず、落ち着くことにした。まだ安定してはいないが、何とか吹き抜けの下まで泳いで近づく。珊瑚の格子を掴んで上に持ち上げようとするが、びくともしない。何かで打ち付けられて固定されているようだった。
「だめ、こっちからでも外れない」
ニコラの方へ見上げた時、彼女はだいぶ辺りが暗くなっていることに気が付いた。はっとして時計を見ると、もうすぐジェイドが来る時間が迫っている。
「ニコラ、今日はもう帰って! ジェイドが帰って来るから」
「え、ジェイドって、リーチ兄弟の片方?」
彼女が頷くと、ニコラは納得したのか同じように頷いて「じゃあ、また明日来るね」と言って大急ぎで帰って行く。彼女も急いでベッドの上に戻ると、ほぼ同時にジェイドが部屋に入ってくる。
「おや、貴女が眠っていないなんて、珍しいこともあるものですね」
「……今日は昼間に寝たので」
一瞬ぎくりとしたが、適当な理由を付ければ怪しまれることも無い。何としてもこの双子にニコラの存在を知られてはいけない。あの子は唯一の希望だ。
「夕食の用意ができましたよ」
いつものように抱き上げられてリビングに連れて行かれる。その際、何を思ったかジェイドは動きを止め、彼女の顔を覗き込んだ。動揺してはいけない。顔に出してはいけない。努めて冷静に、何も分からない振りをしよう。
「……あの?」
「失礼いたしました。稚魚さん、また鱗を剥がしてしまったのですね。可愛そうに」
そう言って、鱗が剥がれたところを優しく撫でられ、ピリッとした痛みが走る。その痛みに顔を歪ませながらも、監督生は答えた。
「い、いえ、大丈夫です。いつものことですから」
「食事の前に手当をしましょう。少々お待ちを」
言いながら、再度ベッドに下ろされ、ジェイドはベッドサイドを開けて救急セットを出してくる。丁寧に傷口を消毒し、ガーゼを当てられる。ちょっと大袈裟なくらいに。
「あの、ジェイド先輩。ちょっと大袈裟では……」
「そうでしょうか? それより、これはいつ剥がれてしまったのですか?」
「えっと……午前中に」
「はぁ……フロイドは何もしていかなかったのですね。可愛そうに。痛かったでしょう?」
すり、とごく自然にジェイドは頬に触れてくる。
「え? ええ、まぁ」
「貴女に何かあってからでは遅い、といつも言って聞かせているのですが、なかなか……。逆に僕は過保護だと言われましたが」
「実際、そうなのでは……」
「他の方ならまだしも、貴女に対しては当たり前のことです。それこそ、過保護でも何でもなく。幸い、我が儘には慣れていますし」
「……ジェイド先輩、ってもしかして私のこと、凄く好きなんですか?」
「おや、伝わっていませんでしたか? それは残念です。僕らは皆平等に貴女を愛しているつもりでしたが」
愛、という単語に監督生はいくらか気分が重くなった。本当に愛していたら、無理矢理人魚にしてこんなところに監禁しないのではないかと思ったからだった。ぎゅっと抱き締められ、まだ何か言っているジェイドから意識を離して、彼女はニコラの言葉を頭の中で反芻していた。
「きっと僕が助けてあげる!」
それだけを希望に、彼女はこの時間を耐えるのだった。
☀
翌日、朝に来たフロイドの姿が完全に見えなくなったのを確認して、監督生は家中を探してみることにした。どこか、這っていた頃の自分には到底不可能な出入り口があるのではないかと思ったからだ。玄関のドアは当然鍵が掛かっていたが、窓はどうだろうかと一枚一枚確認していく。しかし、どの窓も小窓以外は嵌め殺しになっていて、割らない限り出ることはできなさそうだ。割って出て行くこと自体は簡単だが、痕跡を見つけられやすい。あの双子は泳ぐのが速いから、できれば痕跡が見つからずに暫くの間、勘付かれないようにしたいのが本音だ。自分に魔法が使えたら……。そう思っても無いものは無い。魔法のことを考えても仕方ない。とにかくどこか外に出られる場所を探すしかない。尾ビレの動きに慣れる為にも監督生はまず寝室を徹底的に探すことにした。
寝室、リビング、双子の部屋もキッチンも隈無く探したが、それらしい出入り口は見つからない。ニコラはまだ来ない。しかし、一つ可能性があるとすれば、あの吹き抜けだ。珊瑚の格子を切ることができれば、脱出できる。そう思って、彼女はキッチンを探してみたが、刃物の一本すら見つからない。恐らく料理をする時は魔法か、あの鋭い爪で食材を千切っていたのだろう。何も手掛かりが見つからなくて途方に暮れていると、寝室の方からニコラの元気な声がした。
「お姉ちゃん! 来たよ-!」
慌てて寝室へ行き、吹き抜けの近くまで泳いでいく。にこにこと元気な笑顔でそこにいたニコラに、監督生は静かにするように人差し指を立てる。
「ニコラ、しーっ。静かに。今出口を探してたところ」
「あ、ごめん。それで、出口あった?」
期待に目をきらきらさせているニコラとは対照的に、監督生は落胆のまま左右に首を振る。
「見つからないの。どこも塞がれてて」
「じゃあ、ここは?」
ニコラも同じことを考えたのか、この格子に触れる。その案も彼女は首を振って否定した。
「私も考えたけど、家の中に刃物が無いの」
その返答に、ニコラは少し考えてぱあっと表情を輝かせた。
「じゃあ、僕の家から持って来てあげる! ちょっと待ってて」
そう言うと、ニコラは踵を返してどこかに行ってしまった。暫くすると、果物ナイフを持って戻ってくる。
「ごめんね。おじいちゃんに言ったら、こんな小さいのしか貸して貰えなかった」
格子の隙間から持ち手をこちらに向けて差し出してくるニコラの小さな手から、そっとナイフを受け取る。
「ううん、ありがとう。これで頑張ってみるね」
心配そうにニコラが見つめる中、監督生は地道に珊瑚の格子の根元を削っていく。ぎこぎこと鋸の要領で削っていくと、だいぶ硬いが、確実に削れてきている。一カ所を削りきるのにかなりの時間を要するが、これならそう簡単に発覚しなさそうだ。削りきった後は何か簡単に手で折れる物で繋いでおけばいい。
「ニコラ、この辺りはあまり他の魚もいないし、今日は出られそうにないから家に帰った方がいいよ。貴方、オレンジ色だから目立つし、襲われちゃったりしたら大変だから」
監督生の説明に彼ははっとして頷くと、「分かった。頑張って」と言い残し、その日は家に帰っていった。それから彼女はずっと格子を切ることに集中していた。予め、目覚まし時計をお昼より少し前にセットしておいて、鳴ったらナイフを隠し、落ちた珊瑚の粉を掃除してベッドに戻る。それを彼女は三日の間、昼夜問わず双子の目を盗んで削り続けた。その間も度々ニコラは顔を見せ、彼女が脱出できた時には自分の家に来るよう、彼の祖父にも許可を貰ったらしい。陸に上がる方法が見付かるまでは、ニコラの家に匿ってもらうしかない。先のことはここから出てから考えようと、彼女は細心の注意を払って続けた。
「これを引っ張れば……よし、折れた!」
三日後、とうとう格子が外れ、ぎりぎり彼女が通れるくらいの穴を開けることに成功した。この時は格子の向こうにニコラもいたので、二人して大いに喜んだが、彼女にはまだ懸念があった。
「ねぇ、お姉ちゃん。早く出よう!」
「ちょっと待って、ニコラ。今出て行ったらすぐにバレちゃうよ。もう少し時間を稼ぎたいの。だから、今日の夜に出て行こう」
「今日の夜? 分かった! じゃあ、僕迎えに行くよ。暗くなったら来てもいい?」
「うーん……今日の夜はジェイドが来るから、彼が帰ってからかな。大体、この辺りが真っ暗にならないと」
「そうなの?」
一瞬不安げな顔をするニコラに監督生は安心させるよう微笑みかける。
「怖い?」
「怖い……けど、お姉ちゃんを助けるって約束したから。僕、やれるよ!」
「ありがとう、ニコラ。本当は貴方を巻き込みたくなんてなかったんだけど」
「ううん。気にしないで! 僕には幸運のヒレが付いてるから大丈夫!」
「幸運のヒレ?」
彼女が聞き返すと、ニコラはいつものように元気良く笑って、自分の背ビレを見せた。片方が少し小さい彼の背ビレ。彼はこの背ビレのことを言っているらしかった。
「おじいちゃんと毎朝言ってるの。僕にはこの幸運のヒレが付いてるから大丈夫って。だから、絶対お姉ちゃんも大丈夫!」
可愛らしいニコラに監督生も自然と頬が綻ぶ。ニコラの元気でぴょんぴょんと飛び跳ねるように泳ぐ姿は、どこか彼女の弟に似ていて、彼女は密かに元気を貰っていると感じていた。
「ありがとう、ニコラ。ほら、もう戻った方がいいよ。もう少しでジェイドが帰って来ちゃう」
「うん。じゃあ、また夜に迎えに行くからね」
「うん、待ってる」
格子の隙間からお互いに手を差し伸べ、少しだけ握手をすると、ニコラはその場を去り、監督生はベッドに戻る。身代わりにする海藻も用意してベッドの下に隠してある。夜の内にここを抜け出してしまえば追われることはない。……おそらくは。そんなことを考えているうちにジェイドが入ってくる。
「こんばんは、稚魚さん。今日は星がよく見えて綺麗でしたよ」
「ジェイド先輩」
「さぁ、こちらへ。夕食の準備ができていますから」
未だジェイドは彼女が泳げるようになったとは思っていないらしい。いつものように彼女を抱えてリビングへ移動すると、そこには普段揃わない顔が揃っていた。
「稚魚ちゃん、来たぁ~」
「こんばんは、稚魚さん。今日は僕もお邪魔しますよ」
アズールとフロイド。普段は決してこの家に揃わないこの三人が何故か今日、こうして一堂に会していた。一瞬、自分の脱出計画がバレたかと思ったが、どうやらそうではないらしい。ジェイドに訊くと、今日は自分がここに来て一ヶ月だという。その記念として今日はちょっとしたパーティをしようということだった。椅子に座らせられると、当然のように隣席のアズールに手を取られる。
「あの、アズール先輩?」
「ああ、まだそんな他人行儀な呼び方をするのですね。もうあなたにはあの学園も陸も、関係無いというのに。まぁ、いいです。追々慣れていきましょうね。それに、フロイド」
ぎろりと何故かアズールは隣の席に座っているフロイドを睨む。睨まれた本人は怪訝そうな顔をした。
「なぁに~? アズール、そんな怖い顔しちゃって」
「君が稚魚さんに泳ぎを教えないから、彼女は未だにこうしてあなた方のどちらかに抱き抱えられるか、這って移動していると聞きました。そのせいで、可哀想に彼女の鱗が何枚か剥がれてしまったとも聞きました。君の責任ではないですか?」
「え~、だってオレ、泳ぎ教えるより稚魚ちゃんとイチャイチャする方が好きだし。めんどいからヤダ」
「なっ、彼女が可哀想だと思わないのか! これでは怪我をする一方じゃないか」
「ですが、アズール。彼女が泳げるようになってしまっては色々と困るのでは?」
「え、困るって……」
何気なく発した一言に、ジェイドとフロイドはぎらりと歯を見せて笑った。
「ふふふ。あなたが泳げるようになってしまったら、逃げるでしょう?」
「ね~。稚魚ちゃん、ずっと陸に戻りたいって顔してたし。絶対逃げるよねぇ~」
双子の言葉を受けて、アズールも眼鏡を押さえながら嫌味な笑みを浮かべる。
「そういうことですか。確かに。あなたは未だに陸に戻ることに拘っているようですし、可能性としては十分に有り得ますねぇ」
「そ、そんな私……」
弁明をしようとした彼女を遮って、フロイドが発した。
「じゃあ、誓ってよ。稚魚ちゃん。今、ここでオレらに絶対逃げませんって誓って? 誓ってくれたら、信じてあげる」
「それは良い考えですね、フロイド。では、稚魚さんに誓って頂けたら、僕も信じましょう」
「ち、かい……」
「もしかして、あまり馴染みがありませんか? 誓いとは自身が清廉潔白であると主張すると共に、誓ったことに対して嘘を吐いたり、無かったことにしたりしない、という意味があります。僕も、これはあなた自身の口から聞きたいですね。契約書は書いて頂かなくても結構。しかし、誓いを破ったら――」
フロイドが身を乗り出して彼女に顔を近づけた。その瞳孔は開き、口角は楽しげに上がっている。彼の手が頭に置かれたと思うと、そこには小さなティアラが乗っていた。
「あは。いくら稚魚ちゃんでもちょっと痛い目に遭ってもらうかもね」
そう言うと、彼女の目の前でがちりと歯と歯を合わせて音を鳴らす。ひっと引きつった悲鳴が監督生の喉の奥から漏れる。その様子を見て、ジェイドも至極楽しそうに笑った。彼女の背後にゆっくり近づいて、後ろからネックレスを掛ける。それは虹色に輝く石が嵌め込まれたシンプルな物だった。
「フロイド、あまり彼女を怯えさせないであげてください。大丈夫ですよ、稚魚さん。あなたが誓いを破るようなことをしなければ、更に奥に繋いでおく、なんてことはしませんから」
「僕もできれば、そんなことは避けたいところです。さぁ、稚魚さん。僕達に誓ってください。今、ここで」
アズールは掴んでいた彼女の手に指輪を填める。左手の薬指に。それから手の甲にキスをして、にやりと笑って見せた。