そして、深く沈む 外伝諸注意
・視点がころころ変わります。
・またフロイドが監督生を「稚魚」言ってます。
それは嬉しい知らせ、だと思った。
昼休み。いつものように両脇に座った双子と昼食を摂っていると、珍しく監督生さんに声を掛けられた。彼女の表情はどこか暗く、思い詰めているようだった。その表情だけで僕にはすぐに分かった。彼女には何か悩みがある。
「アズール先輩、少しお話したいことがあるんですけど……」
「あなたから声を掛けてくるなんて珍しいですね。何か悩み事ですか?」
「……はい」
そう言いながら、彼女はモストロ・ラウンジのポイントカードをおずおずと差し出した。開いて見ると、ちゃんと50ポイント溜まっている。そういうことなら、断る理由は無い。何より、他でもない彼女のお願いだ。
「でしたら、今夜9時にラウンジへ来て下さい。その様子ではもっと静かな場所の方が良いでしょう」
「分かりました」
そう言って切なげに笑うと、監督生さんは元イソギンチャク達の許へ戻っていく。その後ろ姿を見送っていると、不意にフロイドの手が肩に置かれた。見ると、いつものにやにや笑いを浮かべている。
「何ですか? フロイド」
「ん~? 小エビちゃん、どうしたんだろ~って思って。ねぇねぇ、アズール。さっき小エビちゃんに声掛けられて嬉しかったんでしょ?」
何を言うのかと思えば、このウツボ、僕の反応を見て楽しんでやがる。いつもは他に興味が行く癖にこういう時だけは目敏い奴め。
「ふん。何のことですかね? 僕はいつもと同じく、困っている人を助けてあげるだけですよ」
「フロイド、今回はそういうことにしてあげましょう。あまり突くと、またアズールが拗ねてしまいます」
「うん、分かったぁ~」
ったく、何なんだ。このウツボ兄弟! にやにやしやがって! 笑うな! 僕は断じて、彼女に声を掛けられたのが嬉しいとか、相談を持ちかけられたことを喜んでいるとか、そういうんじゃない。純粋に彼女から価値のあるものを奪ってやろうと思っただけだ! その後もずっとにやにやしている両脇のウツボ共に苛立ちながら、何とか食事を終わらせた。
夜9時。VIPルームで書類を片付けているうちに彼女が訪ねて来る時間になった。
もうすぐ彼女に会える。そう思うと、どこか温かい気持ちになって胸が弾む。今は僕以外この部屋には誰もいない。一人になると、僕はいつもよりずっと自分の気持ちに素直になれた。僕は、彼女が好きだ。今日の昼間、彼女に声を掛けられて正直、嬉しかった。恐らく、あの双子も同じ気持ちだろう。目つきを見れば分かる。あの双子が監督生さんを見つめる時、見たことの無いほど優しい色を湛える時がある。学力や魔法力ならあの双子に負けないと自負しているが、これが恋愛となると、僕に勝算は無いように思えた。それが悔しくて、彼女に悟られたくなくて、いつも思ってもいないことを口走ってしまうのだった。
「しかし……」
今日は彼女が悩み事を相談しに来る。ここで先輩らしく、頼れるところを見せれば、少しは彼女の僕に対するイメージも変わるかもしれない。疲れた顔を見せてはいけないと気を引き締め直し、服装に乱れが無いか再度チェックが終わったところで、ドア越しに声を掛けられる。
「アズール、監督生さんがお見えになりましたよ」
「そうですか。では、通して下さい。ジェイド」
なるべく爽やかな笑顔を心がけて、ドアの方へ振り返ると、そこにはジェイドとフロイド、監督生さんがいた。いや、なんでお前らがいる。お前ら関係無いだろ。崩れそうになった笑顔を何とか保ったまま席へ促すと、監督生さんは「よろしくお願いします」と言って深々と頭を下げた。相変わらず、律儀な人だ。お互い席に着いて、形ばかりのポイントカードの確認をした後、早速本題に入る。
「それで、本日はどのようなご相談ですか?」
「あの……最近、凄く不安になる時があって」
てっきり僕は、学園生活での悩みだと思っていた。それこそ彼女の立場では幾らでもあるだろうと思っていた。グリムさんの問題行動だったり、日々の食費のことであったり、次の中間テストのことであったり。本当に普段の生活から生じるような、些細な問題だと思っていた。なのに――。
「つまり……貴女はこの世界とは違う別の世界の人間、ということですか?」
「……はい」
彼女の口から語られた話は、到底信じられるものではなかった。彼女が俯いている間に左右の双子の様子を見ると、僕と同様に驚いているようだった。流石にこの二人も今まで聞いたことは無かったらしい。
正直に言って、どう反応すればいいのか分からない。彼女は自分の世界に帰りたくて、精神的に不安定になっている。僕は、どうすればいいんだ。もし、元の世界に帰る方法が見つかれば、彼女は喜んで実行するのだろうか。僕を置いて。
「……嫌だ」
自分でも驚くほど小さく低い声が出た。まだ僕は彼女に告白すらしていない。なのに、彼女の心がこの世界から離れているなんて、そんなことは耐えられない。僕を無視して帰りたいなんて、良い度胸だ。
♢♢♢
非常に興味深い。監督生さんのお話を聞いて、まずそう思った。
最初は本当に冴えないただの人間だと思っていたのに、アズールとの勝負に勝っただけでなく、まさか異世界から呼ばれた存在だったなんて。確かに彼女は魔法が使えないが、それを踏まえても、常識的な知識や魔法に対する認識等何も知らなすぎると思っていた。しかし、この流れは少々面白くない。段階としては少し早いが、動いた方が良い。
沈んだ表情で自分の気持ちを吐露している監督生さんに構わず、ちらりとアズールに目配せをすると、彼はこちらを睨むように目を細め、一度だけ頷いた。ああ、どうやらアズールも僕と同じことを考えているようですね。とすれば――
「小エビちゃん、辛いことたくさん耐えてきたんだねぇ。いい子いい子したげる~」
徐に彼女の隣に座ったフロイドが、監督生さんの頭を撫でる。僕に自分の顔がよく見えるようにという片割れの配慮に甘えて、口元だけで微笑んで見せると、フロイドは楽し気に目を細めた。どうやら、満場一致のようですね。では、ますますあの薬が試せそうだ。
そんなことを考えつつ、僕も監督生さんの隣に腰掛ける。簡単には逃げられないように、しっかり退路を断っておかねば。獲物を易々と逃がす捕食者はいませんからね。
「監督生さんにはお世話になりましたし、折角こうしてポイントも貯めて来てくださったのだから、僕らが尽力して差し上げねばなりませんね、アズール」
言いながら監督生さんの背もたれ越しに、ハンドサインを送る。どの程度の薬を差し上げるかの確認のためだ。
「ええ、もちろんです。貴女は前に僕が稀代の努力家だと言いましたね? 流石に貴女を元の世界に帰す、なんて大がかりなことはできませんが、慰め程度の物は差し上げられますよ」
くい、とアズールが中指で眼鏡を押し上げ、瞬きを二度する。了承の意。ああ、可哀想な監督生さん。もうあなたは僕らから逃げられないことが決定してしまいました。
彼女の行く末が決まったことを伝える為、背もたれ越しにフロイドの手首を握ると、彼は涼しい顔をして僕の手首をとんとんと二回叩いた。アズールの場合は否定の意味になるが、フロイドの場合は違う。最高、という意味だ。直後にアズールから声がかかる。
「ジェイド、例の物を」
「畏まりました」
いつもの礼をして一度部屋を出る。急いで寮へ戻り、アズールの自室横の扉から地下階へ下り、鍵を開けて保管室へ入る。
薬の劣化を防ぐための一面真っ白な部屋。そこは相も変わらず所狭しと薬棚が並び、静かに僕を見つめていた。薬の保存のために薄暗く最低限の通気口しか無いせいで、ひんやりとした空気に迎えられる。確かあの薬は左端から二番目の棚、上から四段目にあった筈だ。目的の棚をまた鍵を使って開け、目当ての薬瓶を手に取って厳重に閉める。そのまま部屋を出ようとしてあることに気が付いた。
「おっと、うっかりこのまま渡してしまうところだった」
瓶を回すとラベルが貼ってあり、そこには「Slow Mermaid」と書いてある。これは所謂、徐々に人魚にする為の劇薬だ。毎日一口ずつ服用する条件で体に馴染むのが早いが、少々精神に副作用が出る。そこをアズールは独自開発してほぼ克服したばかりか、逆にある程度服用者の精神に干渉できる効果すら加えることができた代物だ。こんな物を彼女に薦めるなんて、アズールも本当に性格が悪い。そう思うと同時に、彼が本気であることだけは大いに理解できる。そして、この薬を何食わぬ顔で渡すであろう僕も――。
「感傷に浸っている場合ではないか」
べりっとラベルとその跡を剥がしてポケットに突っ込み、部屋を出て鍵を掛ける。もう後戻りはできない。するつもりも無い。僕らは自ら選んだのだから。
♦♦♦
あは、ジェイドとアズールってばすっげぇひでー奴じゃん。あの薬が劇薬だって分かってて渡すとか、小エビちゃんかわいそぉ~。
途中から小エビちゃんの話聞くのも飽きたから、ジェイド越しに金庫をぼーっと見てたら、面白いサイン送ってる。あー、もう小エビちゃん人魚にしちゃうんだー。もうちょっとだけ陸で遊んでたかったけど、二人が決めたんだったら良いやー。小エビちゃんのことは気に入ってるし、番にする予定だったから都合が良い。それにオレらを置いて元の世界に帰るなんて、絶対ぇ許さねーし。
「小エビちゃん、辛いことたくさん耐えてきたんだねぇ。いい子いい子したげる~」
小エビちゃんの頭を撫でてあげると、最初はびくっていつもみたいにエビっぽい動きしたけど、すぐ大人しくなった。今日は素直だねぇ~。涙流しちゃってかわいい~。
これはオレの本心。だって、そうじゃん。今までずっと故郷のこと思って小エビちゃんは泣いてたってことでしょ? 辛いよねぇ~、悲しいよねぇ~。だから、そろそろ終わりにしちゃおっか。
ぎゅってジェイドがオレの手握ってきたから、オレもサインを返す。何それ最高って。すぐアズールがジェイドに言って、あの薬を取って来てもらった。
「お待たせいたしました」
涼しい顔してジェイドがアズールに渡したのは、やっぱりあの薬。小エビちゃん用にって一個しか作ってない特注のやつ。これさぁ、他の奴が欲しいって言ったら、アズールはどんだけ吹っ掛けるんだろーね。キョーミねーけど。
「これは夢を自在に操る魔法薬です。故郷のことを思いながら寝る前にこれを一口飲んでください。夢を見ている間だけですが、故郷の風景や友人達、家族に会えますよ」
噴き出さなかったの褒めて欲しい。めっちゃ嘘吐くじゃん、アズール。ウケる。確かにこの薬、言い様によってはそう言えるけどさぁ。……あ? げ。アズールがああ言うってことは、オレかジェイドがあっちの薬飲まなきゃいけないってことじゃん。えぇ~、萎える~。
「夢……現実じゃないんですね」
「仕方ありません。何でも願いを叶えるとは言っても所詮、僕達はまだ学生の身分。大がかりな魔法にはそれなりの物が必要になる上に、成功するか分かりません。今はこれが精一杯なんですよ。悔しいことですが……。そして、この薬にはちょっとした副作用が出ることがあります」
よく言うよねぇ、さっき言った効果の方が副作用なのに。
「副作用、ですか」
小エビちゃんの顔がほんのちょっと堅くなる。警戒する方完全に間違っててかわいいねぇ。
「ええ。思う通りの夢を見せる薬ですから、精神的に不安定になったり、幻覚を見たりする可能性があります。夢と現実の区別が付かなくなったりもするかもしれません。あくまで可能性の話ですが。そして、この薬は変身薬の側面も持っています。頭の中で想像したことを現実に投影するという意味です。それで、どうします? 今回は対価は請求いたしません。僕がオーバーブロットした時の借りはこれで精算しますから」
精算にすらならないのに、何言ってんのアズール。ほんと……笑い堪えるの大変なんだから、やめて欲しいよね。そういう見え透いたこと言うの。でもぉ、面白いから黙ってよぉ~。
「……そういうことなら、有り難く受け取ります」
あー、小エビちゃんてば、何にも疑わないで受け取っちゃった。よっぽど、オレら信頼されてるってこと? そうだったら、良いなぁ~。これからの生活もあることだしね。
「では、こちらの契約書にサインを」
いつもと同じように小エビちゃんの前に置かれる、アズールの契約書。文面を見て、また腹の底から笑えてきたけど、小エビちゃんがいるから我慢しなきゃ。……この文面、一見ほんとにただの受領書だけど、それにしたってちょっとおかしいよね。『起こりうる全てを受諾』ってあるけど、それってつまりどんな目に遭っても自己責任にできちゃうってことなんだよね。
ちらっと小エビちゃんを見ると、何か固まってたからその隙に帽子を目深に被って、込み上げる笑いを何とか少し発散した。あー、やばい。早く終わんねーかなぁ。もうこれ以上、我慢すんの無理。
「ご心配なく。この契約書の内容自体は受領書のようなものです。確認して頂いて構いません」
確認したって多分、小エビちゃん気付かないよ。だって、契約以前に前提で嘘吐かれてるんだもん。気付く訳ねぇんだよなぁ。だから、すげー普通にサインしちゃった小エビちゃんを見て、アズールは機嫌良さそうに笑った。あ、今のアズールの気持ち、何か分かるかも~。オレも何か嬉しくなってきたぁ。
「ふふ。ご契約ありがとうございます。では、この魔法薬を差し上げましょう。大事に使ってくださいね」
「ありがとうございます。これで……みんなに会える」
劇薬を大事そうにぎゅって握る小エビちゃん。そこで、ちょっと悪戯心ってやつ? あれが働いちゃって訊いちゃった。
「良かったねぇ、小エビちゃん。嬉しい?」
これが最後のチャンスだよ、小エビちゃん。
「はい。これで少しは不安が解消されそうです」
そっかー。嬉しいんだ~。そっかぁ~。…………はは、もう逃げられねぇよ?
▱▱
「良い取引をしましたね、アズール。監督生さん、また何かあればどうぞ、モストロ・ラウンジにお越し下さい。僕らは貴女なら、いつでも力をお貸ししますよ」
ジェイドめ、ここぞとばかりに僕の言いたかったことをペラペラと……。まぁ、良いでしょう。彼女にはこれからゆっくり知って頂ければいいだけですから。
「本当にありがとうございました。今度何か改めてお礼をしたいです」
はぁ……こんなことでその可愛らしい笑顔が見られるのなら、いくらでも差し上げるのに。
「いえいえ。これは正式な取引ですから、お礼なんていりませんよ」
僕にとってはもう既に頂いているも同然ですから。それでもお礼をしたいと食い下がる監督生さんの背中を押して、扉を開けて見送る。我ながらなんてスマートなエスコート。本当はラウンジの入り口まで見送りをしたいけれど、これから双子と打ち合わせをしなければならない。扉が閉まり、ぱたぱたと彼女の足音が遠ざかる。その音を聞きながら、双子は嫌な笑みを浮かべた。
「ふふふ……アズールも人が悪い」
「ね~。小エビちゃん、きっとびっくりするよぉ~」
よく言う。それはお前達も同じでしょうに。それに、あの薬はそんな可愛らしいものではないですし。
「ふふふ。何のことやら、僕には全く分かりませんね」
思わず、堪えきれない笑いが絶えず零れてくる。ああ、一ヶ月後が楽しみで仕方ない。
「ジェイド、フロイド。お前達には今日からあの薬を飲んでもらいますよ」
「あー、やっぱりぃ? アズール、あれってどうしても飲まなきゃいけねーの?」
やっぱりお前は駄々を捏ねると思いましたよ、フロイド。
「あの薬を飲まないと、彼女の夢に干渉できませんよ。期間は一ヶ月しか無いんですから、サボらないように」
「うぇ~、あれクソ不味いからやなんだけど~」
「そうですか? 僕は結構、好きな方ですけれど」
ジェイド、どうした。お前正気ですか? さすがに魔法薬を美味しいと思う輩はいないと思うのですが。
「マジで!? ジェイド、本気? ってか正気? あれ後からめっちゃ発酵したキノコの味押し寄せてくるじゃん。想像しただけで吐きそう」
「フロイド、あの味は発酵した“キノコ”ではなく、発酵した“ヤマドリタケ"ですよ」
「いや、知らねーよ!! 知りたくもねーし!」
「はぁ、全く。では、今度採って来ましょう。ポルチーニの良さを知って頂きたい――」
いつまでキノコの話で盛り上がるつもりだ、こいつら。
「うるさいですよ、ジェイド・ポルチーニ。話が脱線してしまったじゃないか。僕は薬を取って来るので、お前達は仕事に戻りなさい」
「はい……」
「はぁ~い」
びしっと扉を指すと、双子はすごすごとラウンジへ戻っていく。残念そうに戻るな、ジェイド。ぱたんと扉が閉じられてからふう、と溜め息を吐いた。そのまま一度ソファに沈んで休みたい気分であったが、そうも言っていられない。彼女と双子の為に薬を取って来なくては。
杖を持ち直し、VIPルームを出て寮へ向かう。目的は保管室だ。薬棚には全て鍵が掛かっているが、一番奥の棚だけは寮長である僕しか鍵を持つことを許されていない。それほど危険な薬が保管されている。
保管室に入り、目的の棚へ近づき、鍵を開ける。確か、あの薬は三段目の奥の方に……。他の薬瓶を落とさないように一つずつ除けながら、目当ての薬を探す。それは奥の隅の方に追いやられていた。
「ああ、そういえば落ちてはいけないと、ここに移動させたんだった」
手を伸ばして瓶を掴み取ると、他の薬を元に戻して扉を閉め、鍵を掛けた。一応ラベルを確認すると、そこには「Mind Resonance」と書いてある。
精神共鳴。本来は飲んだ者同士が互いの精神に夢という形で干渉できる薬だが、僕は更に手を加えて干渉できる矛先を変えた。監督生さんに渡したあの薬だ。あの薬「Slow Mermaid」には、思い通りの夢を見せる副作用がある。陸との最後の別れをする訳ですから、思い出を振り返ることができるようにと優しい僕が改良に改良を重ねた結果、肝心の服用者の精神は魔法や薬を使えば、誰でも入り込めるようになってしまった。
これだけ聞くと、監督生さんの心は非常に危険な状態にあると言える。しかし、今回の取引で僕はそこを逆手に取った。監督生さんは僕達以外に自分の悩みを打ち明けるつもりは無いようだったし、あの薬のことも隠しておくだろうことは容易に想像できる。あの薬の存在がバレなければ、いつでも彼女の夢に干渉できるのは僕達だけだ。
それに、どんな奴でも皆快楽には従順だろう。それがずっと焦がれてきたものならば、そう簡単に手放せる筈が無い。彼女の心をあの薬に繋ぎ止めておくためにも、最初の半月は目立った動きをしないように、あの二人に言っておかなければ。刷り込みは必要だが、まだ彼女をこちら側に引きずり込むことはできない。落とすなら確実に。焦って獲物を取り逃がせば、もう二度と手に入りはしないと僕達は骨の髄まで分かり切っている。チャンスは一度だけ。だからこそ、僕はそれを逃がすつもりは毛頭無い。
薬を内ポケットに入れ、保管室を出る。さて、僕もラウンジの仕事に戻らなければ。
♦♦♦
テンション下がるぅ~。
仕事終わってアズールに呼び出されたと思ったら、あの薬渡された。今日から一口ずつ飲めって。小エビちゃんの為だったら、頑張るけどぉ~。
「この薬を毎日、ですか」
「ええ。前にも言いましたが、それを飲まなければ彼女の夢に干渉できません」
「それで、最初は刷り込みするだけなんだっけ? でもぉ、何すりゃいーワケ?」
一口に刷り込みって言われたって、具体的に何すりゃいいのか、全っ然分かんね。サブリミナル的に何か見せんのか、反復動作みたいな感じ? それとも条件反射? あ、フレグランス効果? あれ、小エビちゃんに合いそう。匂いって記憶に残りやすいって言うし。
「軽い学習で構いません。自然と海を連想させるよう彼女の意識を変えるようなものを……そうですね。サブリミナルで行きましょう。最初はほんの一瞬、認識できるかできないか程度の映像を差し挟んでください。半月繰り返し、映す時間も少しずつ長くすれば、自然と水に近い夢を見始めると思いますよ」
「んじゃあさ、アズール。フレグランス効果も付け足していーい? 海の匂いがすれば小エビちゃん、もっと早く海の夢見てくれんじゃね?」
「それは良い考えだ。流石は僕の兄弟ですね、フロイド」
やったー、褒められたぁ~。
「そうですね。確かに匂いは記憶に残りやすく、夢への影響も強そうだ。良いでしょう。採用します」
「では、そのように。おやすみなさい、アズール」
「ええ、おやすみ。ジェイド、フロイド」
「おやすみなさぁい」
やること決まったから、シャワー浴びて早く小エビちゃんの夢ん中行くかぁ~。VIPルーム出てジェイドと一緒に寮に帰る。なんか今日めっちゃ疲れたぁ~。
自分達の部屋に着くと、そのまますぐベッドに倒れ込む。あー、なんかシャワー浴びんのめんどくなってきたぁ。疲れたし、すっげぇ眠ぃ。
「フロイド、あなたが先に浴びて来た方が良いんじゃないですか。薬を飲まずに寝られたら困りますし」
ん~、ジェイドが何か言ってる。けど、眠くて分かんねぇ……。もうこのまま寝たくて、人魚の頃みたいに体を丸める。
「んぅ~……ねみぃから、じぇいどやっといてぇ……」
「おやおや。僕の言ってること分かってないでしょう。……フロイド、小エビさんのことはいいんですか?」
またジェイドが何か言ってる……。こ、えび……? 小エビって、何だっけ? 眠い。えっとぉ、小エビはぁ……。そこで小エビちゃんの顔を思い出して、一気に脳みそが起きた。
「小エビちゃん!」
やっべ、眠すぎて忘れるとこだった。
がばっとベッドから起き上がって、シャワーを浴びる準備をする。今日はこのパジャマにしーよぉ。どうせ寝てる間に脱げんだけど、今日はエビちゃん柄の気分。人間になりたての頃は、寝る時も服着なきゃいけないって言われてちょっと引いた。寝る時くらいこんな窮屈なもん着なくていーと思うんだけど、裸で起きてくるとジェイドとアズールにめっちゃ怒られんだよねぇ~。準備でーきた。さっさと入って来よぉ~。
「ジェイドぉ、先入るねぇ~」
「はい、行ってらっしゃい」
シャワー浴びたら、小エビちゃんに会える。そう思うだけで、すげぇ嬉しくなって足取りが軽くなった。はは、オレって単純。
♢♢♢
フロイドに続いて僕もシャワーを浴び、髪を乾かして後は就寝するだけとなった。フロイドと一緒に、アズールから預かった薬瓶の蓋を開ける。魔法薬特有の匂いが立ち上り、嫌そうな声を上げる彼は放っておいて、さっと一口飲んだ。ごくり、と僕の嚥下する音を聞いたのか、フロイドが舌を出して嫌悪を露にする。確かに最初は、何でしょう。妙に気持ちの悪い味ですが、後味は少しマシです。発酵したヤマドリタケだと思えば、何とか飲み込めるものですよ。そう言うと、フロイドに「それが嫌だから言ってんじゃん」と返されてしまいました。僕の力が不足だったばかりに、キノコの素晴らしさを広めることができませんでした。残念です。
「フロイド、僕はもう飲んでしまいましたよ。あなたも早く飲んで来てくださいね。僕は先に行ってますから」
「え、なんで? ジェイド、どうせ行くなら一緒にって言った――ってもう寝てんのかよ!?」
僕はもう飲んだので、さっさと寝てしまいましょう。僕が眠れば、フロイドも諦めて飲むでしょうし。
ベッドに入って目を瞑ると、いつの間にか眠っていたようだった。水の中、僕は人魚の姿でそこにいた。何も考えずに眠った時の夢はいつもこうだ。あの薬を飲んだ場合の夢は明晰夢だと説明は受けたが、少し確認してみないことには分からないこともある。決してアズールの薬を疑っている訳ではない。試しに尾鰭を動かしてみると、何の問題も無く思う通りに動いた。流石はアズールだと密かに感心しているところに、片割れの声が掛けられた。
「いたいたぁ~、ジェイドぉ~」
「おや、フロイド。やっと観念したんですね」
そうわざと声を掛けると、案の定彼は「うげぇ」と言い、舌を出して嫌そうな顔をした。
「うん、超まずかった。ジェイドもよくあんなの飲めたねって感じぃ」
「僕だって口に入れるなら、調理されたキノコの方が良いに決まってます。他の魔法薬よりはマシだと言っただけですよ」
「……結構好きとか言ってた癖に」
聞こえていますよ、フロイド。
「何か言いましたか?」
「べっつにぃー。それよりさぁ、夢ん中に入ったんなら、早く小エビちゃんとこ行こうよ」
うきうきした様子でマジカルペンを取り出す兄弟に、僕も同じようにして応えた。
「ええ、もちろん。僕達は今水中ですが、彼女はまだきっと陸上の夢を見ているでしょう。様子を見に行ってみましょうか」
「おっけぇ~」
海上に向かって二人で泳いで行く。水面から顔を出すと、少し離れたところに小さな島があり、その真ん中に小さな小屋があった。とにかく一度陸に上がって人間の姿にならなければ。そう思い、砂浜に上がると同時に尾鰭は二つに分かれ、あっという間に人間の足に変わった。取り敢えず、服はいつもの制服でいいか。フロイドも僕の後に続いて人間の姿になる。海の中でも思ったが、夢の中だからだろうか、辺りは厭に静かすぎる。
「フロイド、上がったら制服を着てください。すぐ行きますよ」
「うん~。ちょっと待って~。すぐ乾かすから」
言いながらフロイドもみるみるうちに制服を身に纏う。夢の中なら、大抵のことは思うだけで実現するのだから、魔法よりも便利だ。さて、彼の支度もできたところで僕はマジカルペンを虚空に翳して空間を“開けた”。
「すげぇ~! こっから入れんの?」
「その筈です」
開けた裂け目からはこことは全く異なる景色が見えた。僕らの見たことの無い、いくつもの高いビル、車、夥しい数の人間が行き交っている。行き交う人々を観察すると、ちらほらと明るい色の頭をしている人は見かけるものの、殆どは一様に監督生さんと同じような黒い頭をしている。それを見たフロイドが「海苔の群生地じゃん」とこぼした。この中に彼女がいるのだろうか。もう少し探ってみるしかない。
「フロイド、あなたも監督生さんを捜してください。意識を裂け目に集中させて」
「え? ってか、ジェイド。魔法で小エビちゃんの気配辿って行った方が確実じゃね?」
欠伸をしながらそう提案する片割れだが、いまいち僕はピンと来ない。
「それはそうですが、フロイド。僕らは彼女の持ち物なんて持って――」
「薬。アズールが言ってたじゃん。あの薬飲まないと小エビちゃんの夢に入れないって。それってさぁ、つまりあの薬と同じような成分、もしくは引き合う成分が少なからず、小エビちゃんの薬にも入ってなきゃ成立しないってことでしょ? 成分同士がシンクロしてなきゃ有り得ないんだから。どんな成分なんだかオレは知らねーけど」
あっさりと明示された確実な方法に、僕は舌を巻いた。言われてみれば、確かにその方法があった。試しにあの薬に入っていた一部の成分だけを魔法で発光させると、見事に壁や地面に薄らと光の筋ができた。
「流石はフロイドです」
「あは。ビンゴっしょ?」
「後はこれを辿れば……」
筋を辿るように裂け目を移動させると、最初の場所からは離れ、郊外へ出た。そこから少し坂を上がった高台の一画に彼女の家はあった。玄関らしき場所を迂回し、一番大きな窓のある場所に着く。ここからなら頭を低くして行けば中の様子も分かる上に、気取られずに済みそうだ。
「行きますよ、フロイド」
「もちろん♡」
裂け目に入ると、すぐに僕らは窓を避け、両脇に身を隠して中の様子を探る。まずは監督生さんの姿を確認しなければ、具体的な行動には出られない。ここは彼女の夢の中だが、この世界を壊すようなことをすれば、あっという間にここは一切の闇に葬られ、僕らも帰れるか分からない。それは何がきっかけになるか分からない以上、目立つ行動は避けたいところだ。ここがツイステッドワンダーランドからかけ離れている程、彼女は夢の中に僕らを意識してもいなければ、存在を認めてもいない。見つかれば、彼女の目は覚めてしまうだろう。今は束の間の優しい夢を見せて差し上げなければならない時だ。
「ジェイド、ジェイド。小エビちゃん、いたよぉ~」
しゃがんで窓枠に指先を引っ掛け、少しだけ頭を出して中を見ていたフロイドが僕の袖を引っ張る。その子供らしく無邪気な様に、思わず頬が綻んでしまう。フロイドに促されて家の中を覗くと、確かに監督生さんの姿があった。ご家族の方々に何やら興奮した様子で話しているが、ここからでは遠くて声は聞こえない。
「小エビちゃん、何の話してんだろうねぇ~」
「さぁ、何でしょうねぇ。フロイド、僕らもそろそろ仕事をしましょう」
いい加減、本来の仕事をしないと彼女が起きてしまうかもしれない。そう思ってフロイドに言うと彼は一瞬黙り、上機嫌に破顔して「うん」と言った。その表情はどこか恋焦がれた人を淑やかに待っている少女のようなものだった。普段、見たことの無い表情に僕は一瞬、体も思考も固まってしまう。
「おや、僕の兄弟はそんな顔もできるのですね」
何とか発した言葉はそれだけで、取り繕うことは一応できたろうと思った矢先だった。
「ジェイドもそーゆー顔、してるよ」
言われて思わず自分の頬に触れる。まさか自分が。すぐ傍の窓ガラスを見ると、そこには顔を真っ赤にした自分がいた。ああ、僕は自分が思っていたよりずっと――。
「小エビちゃんのこと、大好きなんだねぇ~。オレもだけど」
♦♦♦
ジェイドが動かなくなっちゃった。オレ、ただ本当のこと言っただけなんだけど。何か両手で顔隠して蹲っちゃったし、どうしよーかなぁ。
「ねぇねぇ、ジェイドぉ~。やんないの~? 早くしないと小エビちゃん、目ぇ覚めちゃうよ?」
「…………やります」
うっわ、まだ顔真っ赤なんだけど。今日のジェイド、おもしれ。ジェイドにしては珍しく、そのままの姿勢で窓を覗きながら、魔法使うことにしたみたい。胸のポケットからマジカルペンをうごうご出してる。おっしゃ、オレもやろ~。ジェイドが小エビちゃんに海の映像見せて、オレが潮の匂いを演出する。小エビちゃん達が見てる黒い箱っぽいやつに、ジェイドの魔法が掛かって、一瞬だけ海の映像が出た。小エビちゃんは気付いてないみたいだけど、魔法でオレらだけに見える匂いも確実に届いた。はぁ~い、お仕事終了~。
こんだけの為にこれから毎日通い詰めるとか、めんどいしつまんねって思う。だって、本当は今すぐにでも家ん中入って、小エビちゃん抱っこしてーし。でも、ダメなんだって。夢を壊すようなことすると、小エビちゃんの目が覚めちゃうからしちゃいけないって言われた。マジ萎える。でもいっかぁ~、現実で小エビちゃん抱っこした方が良いもんね。
「ほら、行くよぉ~。ジェイド」
「……はい」
まだ顔赤いジェイドの手を引っ張って、オレらも休むことにした。一回起きて、もう一回寝れば良いし。ジェイドが作った裂け目に入って閉める。振り返ると、いつものジェイドに戻ってた。やっと調子良くなったみたい。面白かったから、ちょっとからかってやろ。
「アズールにジェイドが肝心なとこで使い物にならなくなっちゃったって言っていーい?」
「困りましたね。明日から毎食キノコ料理を作らなければならなくなるとは。僕は別に構いませんが」
うーわ出たよ、ジェイドのガチ仕返し。本当いい性格してるよねー。ま、同じことされたらオレもそうするけどぉ。
「ぜってぇ、やだ」
「おやおや、残念です」
オレぜってー食わねーし。あとさぁー……。
「あっっつい! オレ脱ぐし、泳ぐ!」
もうやることやったし、こんな服着てられねー! 海に飛び込むのと同時に人魚に戻って泳ぎまくる。「おやおや」なんて言ってるジェイドの声が後ろで聞こえた。
▱▱
監督生さんに薬を渡してから二週間が経った。廊下で彼女と擦れ違い、目が合ったと思った瞬間、すぐ逸らされてしまった。ジェイドからの報告ではフロイドが夢散歩をサボったという話は聞いていない。ということは、あれはこちらを意識しての行動だと推測できる。薬の効果、双子の魔法は絶大。至って順調だ。そう思うと、腹の底から愉悦の笑いが込み上げてくる。もうすぐだ。もうすぐで、彼女は、僕らのものになる。口の端から漏れそうになる笑い声を無理矢理押し殺して、平静を装い、授業へ向かった。
授業中考えていたことだが、彼女が人魚になったとして住む家が無いことに気が付いた。ああ、僕としたことが彼女が手に入るという興奮にばかり気を取られて、肝心なことを忘れていた。そろそろ手配しておいた方が良いだろう。一瞬、ジェイドとフロイドに連絡しようとスマホに手を掛けたが、すぐに思い直した。あの二人は夢散歩に忙しい上、偶然にも今夜は僕の方が空いている。
「ふむ……」
一度、自分でも確認しておきたい。良さそうな場所があれば、早めに確保しておかなければ。そう思うと、居ても立ってもいられないが、夜を待たねばならない。昼間の内に一人で鏡の間に向かう生徒が居れば、他の生徒や教師に勘付かれる恐れがあるからだ。夜が来るまでは何気ない日常を演出しなければ。
「アズール氏、何考えてんの?」
いつもと同じ放課後、いつもと同じボードゲーム部の活動。今日は以前にやったマジカルライフゲームのルーレットバージョンをしている。――サイコロバージョンは狡いと、イデアさんが駄々をこねたため。ああ、可哀想なイデアさん。僕が優秀だったばかりに――ルーレットを回し、出た数字の数だけ駒を進めている時、唐突にそう言った。彼は時々、主語を抜いて話す時がある。
「何、とは?」
「はい出たお得意のすっとぼけ。アズール氏の顔見りゃ何か企んでるってすぐ分かるんですわ、拙者」
彼にしては珍しく、かなり自信があるらしい。確信めいた言い方に少し警戒した方が良いかと思ったが、次の発言でそれは杞憂に変わる。
「何企んでるのか知らないけど、あんまり危ないこととか、しない方がいいよ。いつか手酷くやり返されちゃいますぞ」
殆ど無表情に近い、興味の無い顔でイデアさんはそれだけ言うと、ゲームを進めるよう促してくる。どうやら、僕を止める気は更々無いらしい。その口だけの忠告なんて頭に留めておく価値も無いとは思うが、これだけは言っておかねばなるまい。
「どうも。ご忠告、感謝いたしますよ。イデアさん」
「フヒヒ。愛想笑い乙」
相変わらずの憎まれ口だが、今日は気分が良いので許してやろう。最も、喩えイデアさんが邪魔をしようとしても負ける気は一切無い。彼女は、僕のものだ。誰にも渡してなるものか。
夜。校内へ足を踏み入れると、痛い程の静寂に迎えられる。普段、あれだけの生徒が行き交う昼間とはまるで違って見える。時間は真夜中。自分一人だけの足音が小さく響く中、真っ直ぐに鏡の間へ向かう。この時間なら、珊瑚の海であの姿になっても他の人魚に見られる心配も無いだろう。そう思って水中呼吸の魔法薬は置いて来た。一見、僕の他に人はいないようだが、用心に越したことは無い。そう思ってわざわざ迂回路を選び、鏡の間の前へ着いた。事前に用意しておいた合鍵を使って侵入する。
普段、カーテンが開けられている鏡の間だが、今は夜中だ。当然、カーテンは全て閉められ、濃い暗闇の中で周囲に浮いている棺の窓だけがぼうっと黄緑色の薄気味悪い光を放っていた。これで空間自体が狭かったら、僕好みの空間であるのにと思いながら、部屋の中央に鎮座している闇の鏡へ近づく。鏡の前に立って目的地を告げようと口を開いた時だった。
――後悔は無いな?
「は――」
そんな声が聞こえた。周囲を見回しても、目の前の鏡をまじまじと見ても、あの仮面の男はいない。……後悔は無いかだって?
「そんなもの、ある訳が無い」
ここで躊躇する訳にはいかない。引き返そうが、突き進もうが、同じことだ。
「闇の鏡よ。僕を、珊瑚の海へ導き給え」
鏡の表面が白く光ったと思うと、僕の体は鏡の中に引き込まれた。
水の冷たさを感じると共に、体を変化させる。二本の足は八本の蛸足に、体色は肌色から黒色に。水中へ身を投じた頃にはすっかり僕の姿は蛸足の人魚に成り、海水と暗闇の冷たさをあまり感じなくなる。――最もそれは上半身だけの話だが――底に足を付けると、岩のごつごつとした感触から砂の動きまで全て分かる。久しぶりの感覚に浸る間も無く、僕は更に底へ泳ぎ始めた。理想の場所は静かで、あまり魚や他の人魚が来ない岩礁が良い。魔法で中をくり抜き、天井に吹き抜けを作れば、初めは陽の光を必要とする彼女もきっと気に入るだろう。
どのくらい泳いだろうか。あまり深く潜っても学園から通い難くなると思い、途中から潜ることは止めたが、なかなか良い場所が見つからない。早くしないと夜が明けてしまう。それまでには戻らなければ。そう思いながら次の岩礁に辿り着いた時だった。
「ここは……」
そこは静かな場所だった。まだ夜中のせいで周りにはネムリブカ達がゆったりと泳ぎ、岩の隙間から見える限りは小さな熱帯魚達が見えるだけだ。辺りは未だ暗く、緊張感のある静寂に包まれていた。ここだ。蛸足の一本で思い切り岩の表面を叩いてみるが、白く傷が付いただけで崩れはしなかった。岩礁自体の大きさも頑健さも申し分ない。周りにはネムリブカが多くいるので、他の魚や人魚も近寄らないだろう。彼女と僕達の隠れ家に相応しい。
「まさか、こんなに早く見つかるなんて……ふふふ。うふふふふふふ」
嬉しくて笑いが止まらない。そうと決まればこの辺り一面に僕達の印(しるし)を刻んでおかなければ。岩礁の真上まで泳いで行くと、丁度ネムリブカが五匹程、我が物顔で泳いでいた。少し邪魔だ。
「ちょっと退いて下さい」
魔法で頭上に光の玉を作り出すと、眩しさに目が眩んだのか、鮫達は一斉に岩礁から離れる。これで良し。後は岩礁周辺に魔法陣の印を付ければいいだけだ。まず、自分が今立っている位置に魔法陣を刻もうと、足元を見た時、岩の隙間に色鮮やかな小魚を見つけた。おや、こんなところにいるなんて、眠っているのだろうか? 今日のカロリー制限にはまだ少し余裕があることだし、小腹も空いてきたところだ。
「丁度良いな」
隙間から動こうとしない小魚を、蛸足で掴んで片手で持つ。あっさりと捕まった辺り、やはり眠っていたらしい。今更逃げようとする小魚にそのまま齧り付いた。人間の姿の時は小骨に気を付けなければならないが、この姿の時は一切気にしなくていいのが助かる。ごくりと飲み込むと、少しの満足感を得られた。普段はしっかりと調理されたものを食べるが、これはこれでたまには良い。食べている間血の匂いに釣られたのか、数匹のネムリブカが戻ってきたが、光の魔法を強めるとまた離れていった。さて、さっさと済ませてしまおう。
もう一度マジカルペンを頭上に翳し、岩礁、その周辺に隈無く魔法陣を刻んでいく。もうすぐここで彼女がいつも僕達を待っているのだと想うと、歌でも歌い出したい気分だ。粗方印を付け終わると、辺りにネムリブカの姿は無くなっていた。これで家を作るまでは、ネムリブカ達もここには寄って来ないだろう。
「さて、帰りますか」
マジカルペンをしまい、僕はその場を離れた。早く戻らなければ、鏡の間から出て行くところを誰かに見つかってしまう。この計画は学園長は当然のこと、誰一人悟られてはいけないのだから。
変身薬を飲み、闇の鏡を潜って学園に戻って来る。鏡の間は行く前と何ら変わらず、重苦しいカーテンは全て閉じたまま、相も変らぬ暗闇だけが静かに僕を待っていた。鏡の前に降り立ち、周辺を見回す。人はおろか、生き物の気配はしない。それでも、万が一を考えて僕はあまり足音を立てず、出口扉の前まで行って耳を澄ました。何の音も聞こえない。内鍵をそっと開け、扉を少し押して廊下の様子を見る。ここに来る前と同じく、誰の姿も無い。唯一の違いは若干、空が白んできたくらいか。この場を去るなら今だ。そう思うとほぼ同時に、僕は扉の隙間を少し大きくし、滑り込んで廊下へ出た。急いで扉を閉め、鍵を掛ける。これで、下準備は整った。
♢♢♢
監督生さんに薬を渡して半月といったところか。彼女の友人にも少々詳しくなったので、本日はフロイドと共に彼女の友人に“代わって”同行することにしました。そろそろ僕らの仕掛けが効いてくる頃合いかと思うのですが、どうでしょうねぇ。本日は映画を観に行くようで、余程楽しみにしていたのか、監督生さんも僕の手をぎゅっと握ってくれます。ああ、こんな嬉しいことがありますでしょうか。いつもは周りの方々が邪魔をして、彼女と手を繋ぐどころかあまり話もできないので、こんなに近くに彼女がいるなんて夢のようですね。実際、ここは夢の中なのですが。彼女の目には、今の僕らは親しい友人の姿に見えている。今までも彼女は何度かご友人達の夢を見ていたので、彼女の望む友人像というものは把握している。それに、多少逸脱していたとしても誤魔化せる自信はありますし、所詮夢です。
さて、そんなことより今は彼女の動向を注視していなければ。席に着き、映画が始まるまで監督生さんと他愛のない会話をする。
「あのね、前言ってた話なんだけど」
「うん」
不意に監督生さんが少し俯いて話を切り出した。さっきまでの雰囲気とは明らかに違う様子に、嫌な予感がした。そして、こんな時の勘はよく当たってしまう。
「私、前に好きな人がいるって話したよね」
そう言って彼女は、おずおずと僕を指した。否、勘違いするな。彼女が指しているのは、僕の左隣、元の世界の、ついさっきまで友人だった男。やはり、あなたが元の世界を恋しく思うのは、そういうことだったのですね。しかし。
「そうなんだ」
そんなの、関係ありません。僕の声は自分でも驚くほどに冷えていた。同時に納得する。これから何が起ころうと、彼女を帰す気は微塵も無くなった。誰が見ず知らずの男の許になど帰すものか。あなたは、僕のものだ。ぎゅっと、友達として繋いだままの手に少し力を込めた。
♦♦♦
つまんねぇ映画。早く終わんねぇかなぁ~。異世界に来た女の子が色々あって、ゆーじょー育んで元の世界に帰っちゃう話。暇潰しにパンフ眺めてみたけど、このあらすじしか書いてねーの。小エビちゃん、自分を主人公にした映画観ちゃうなんて可愛いけどさぁ~。パンフもちゃんとしたの作んなきゃダメだよぉ~。所詮夢だし、パンフ買わないからいいやーって思ったのかなぁ。ふふ。でもね、この映画みたいにはさせねぇよ? オレら、そこまで優しくないからさぁ。オレ、今小エビちゃんとはちょっと遠い席にいるから見えねーけど、後でジェイドに小エビちゃんの様子訊きに行こ~。
なんて思ってたら寝てたっぽい。気が付いたら映画終わってたぁ~。スタッフロールまで観て――逆にオレはスタッフロールしか観てない――オレらは会場から出る。そっから自然な流れで解散してから、ジェイドに小エビちゃんのこと訊いてみた。
「ジェイドぉ、どーだった? 小エビちゃん」
ジェイドはちょっとだけ考えてから楽しそうに笑った。
「順調ですよ、フロイド」
小エビちゃんの様子が途中から少しおかしかったんだって。なんか途中から小刻みに震えてたみたい。それってぇ……。
「オレらとは違うもの見てたってこと?」
「ええ。それに言質なら取っていますよ。水中の映像を見たそうです。うふふ。確実に彼女は海に近づきつつありますねぇ」
へぇ、順調じゃん。飽きる前に小エビちゃんのこと、珊瑚の海に連れて行けそうだねぇ。
「やったじゃん、ジェイド」
「ええ、ええ。僕達の勝利は目前ですよ、フロイド」
え。オレら、小エビちゃんと勝負してたの? ジェイドの言うことって、たまによく分かんねってなるんだよね。面白いからいいけど。
「でさぁ、次はどーすんの?」
「そうですねぇ。まずは、アズールに今日の報告をしてからですが、そろそろ僕らの隠れ家を作っておかなければなりません。場所は既にアズールが目星を付けているそうですから。監督生さんの方は監視をしつつ、他の準備に取り掛かると思いますよ」
「でもさぁ、学園長とかどーすんの? バレたらめんどくね~?」
「そこはアズールが上手く“お話”してくれると思いますよ」
そう言うけど、ジェイドは殆ど確信してる顔してた。こっちは別に心配しなくて良いっぽい。あの学園長だし、アズールなら上手くやるでしょ。それより、家かぁ~。……正直やる気出ねぇけど、小エビちゃんのためだし、ちょっと頑張っちゃおうかな~。
「さて、そろそろ帰りましょうか」
「うん」
家ができたら、いつでもそこに小エビちゃんがいるんだよね。ふふふ、楽しみだなぁ~。
▱▱
監督生さんに薬を渡してから、もう三週間。普通の人間なら、そろそろ二通りの反応が望める時期だ。シンプルに不気味な夢に恐怖を覚えて、飲むことを止めるか。悪夢から逃げ出そうとして一気に飲んでしまうか。さて、彼女はそのどちらか。まぁ、どちらにせよ、彼女はもう逃げられない。自分から飲んでくれれば、こちらの手を煩わす必要は無い。飲まなければ、もう少し時間が掛かるだけ。そのうち、衝動的に飲みたくなる。彼女のこれまでの行動から察するに、前者の可能性が高い。
漸くだ。漸くこの不安から解放される。思えば、ここまで長かった。彼女に恋をしていると自覚してからは心安まる瞬間が無かった。何せ、彼女は人を惹きつける。いつどこで彼女の心が奪われるか、分かったものではない。特に注意を払わなければならない存在が他寮の寮長だ。彼らは大なり小なり、彼女に好意を抱いている。他の誰かに取られる前に先手を打つしか、彼女を手に入れる術は無いだろうと思っていた。
でも、もうその心配はしなくていい。明日の夜にはもう僕のものだ!
「アズール、全ての準備が整いました」
笑い出しそうになったところに、ジェイドが恭しく礼をして入ってきた。フロイドもその後に続く。
「お疲れ様です、二人とも。僕、今日はまだ監督生さんに会っていないのですが、様子はどうでした?」
「はい。昨日の段階で、海水浴の夢を見ていますから。もう大分、意識は海に近くなっています」
「今はまだ浜辺で遊んでるけどぉ……あは。沖泳ぐようになったら、迎えに行かなくちゃね」
よしっ、よしっ! 順調だ。何の問題も無い。
「良い調子ですね。しかし、ジェイド、フロイド。明日の夜までは充分警戒するように。もし、万一のことがあれば……」
「容赦はしなくていい、ということですね」
「当然だよねぇ。他人の番に手ぇ出そうなんて奴がいたら、絞めるし。それに、陸でも聞いたことあるよ。他人の恋路を邪魔する奴はぁ……え~っと、何だっけ?」
「馬に蹴られて死んでしまえ、ですよ」
おっと、ジェイドと言うことが被ってしまった。「あ~、それそれ~」とうんうんフロイドが頷く。もし、そんな奴がいたら、どうしてしまうか。自分でも分かりませんね。
さて、住居の手配も双子の準備も万全。学園長の口止めと彼女の行方についての説明依頼、毛玉の処遇も済んだし、僕の計画は完璧だ。念の為、もう一度明日の流れを確認しておこう。
「ジェイド、後で明日の予定を確認しておきたいです」
「またですか? そんなに何度も確認せずとも、良いのでは?」
「今度ばかりは失敗は許されないと言っただろう。念の為です」
「畏まりました」
イソギンチャク事件の時はしてやられたが、今度こそは逃がさない。絶対に。彼女に思い知らせてやる。僕の方が強く、僕達にしか頼れる存在は無いのだと。
♢♢♢
本日は快晴。天気にも恵まれ、雲一つ無い絶好の空模様です。今夜は満月。正に彼女の門出に相応しい日。アズールとフロイドも待ち侘びていた日。もちろん、この僕も。アズールの予想では、今夜が最後の日となるそうで、現在、僕とフロイドは監督生さんの夢の中にいます。否、僕達の夢なのか、彼女の夢なのか。その境目すら曖昧になっている程、僕達と彼女の意識は非常に近い場所にある。もう人間の姿を取らなくとも、すぐ近くまで行ける距離です。僕達が浅瀬に、彼女が弟さんと一緒に浜辺にいるように。
もうすぐです。もうすぐ彼女がこの手に落ちて来てくれる。
♦♦♦
小エビちゃんがいつまでも浅瀬でぱちゃぱちゃしてるから、無理矢理沖まで連れて来ちゃった。ジェイドと二人で波起こすの面白かったぁ~。陸も面白いけど、やっぱ調子出るのは海なんだよな~。小エビちゃんも早くこっち来ればいいのに。早くあの薬全部飲んじゃえばいいのに。水面に浮かんで気絶してる小エビちゃんに近づこうとしたら、ジェイドに尾ビレを引っ張られた。振り返ると、ジェイドが首振ってる。
「フロイド、まだ接触してはいけません」
「なんで? そろそろ良いんじゃないのぉ?」
「いいえ、まだです。一度彼女には目を覚まして頂かねば。ここで僕らが恐怖を与えては、残りの薬を飲んではくれませんよ」
あー、そっかぁ。ここで焦らせて残り全部飲ませちゃおうって作戦だった。え~、でも、予定通りってなんかつまんねぇ~。
「じゃあさぁ、ジェイドぉ~」
潜ってジェイドの手を掴む。
「小エビちゃんに挨拶しに行こ? オレらもすぐ傍にいるよって。それぐらいなら、アズールも文句言わないよね」
もぉ、オレ待つの飽きた~。本当はジェイドも同じな癖に。案の定、ジェイドは待ってましたって顔して口を開く。
「そうですね、フロイド。僕も丁度、そう思っていたところです。遠くから僕らの姿を少し見せるだけなら、監督生さんもびっくりして目を覚ます程度で済むでしょうしね」
ちょっと小エビちゃんをからかってみるだけ。実際に手は出さない。捕まえるのは次にする。そう決めて、オレらは水面に向かった。ちょっと目を離している隙に、意外と小エビちゃんは進んでたみたいで、一瞬どこに行ったのか分からなくなった。けど、いたいた。必死に泳いでる。あは、かわいいねぇ~。ほらほら、泳げ、泳げ泳げ。泳がないと死んじゃうよぉ~、小エビちゃん。小エビちゃんからそう遠くない位置に、ジェイドと一緒に水面から顔を出す。小エビちゃんは一旦、泳ぐのを止めてこっちを見た。と思ったら、消えちゃった。
「あれ? 消えちゃった」
「目を覚ましたのでしょう。フロイド、先に弟さんと合流しましょうか。きっと、彼女。またここに来ると思いますよ」
「うん。弟見捨てられる程、小エビちゃんは薄情じゃないもんね。そうしよっかぁ」
あの小魚、目障りだったからついでにオレが成り代わっちゃおう。あはは、小エビちゃん、オレが弟に化けてたら、きっとびっくりするよねぇ~。オレとジェイドが同じ立場だったとしても、オレはちゃ~んと分かるけどね。
「では、行きましょうか」
「あの小魚の姿、オレも~らい」
「全く、仕方ないですね。フロイドの悪戯好きも困ったものです」
全然困ってねー癖によく言うよね~。オレよりずっとジェイドの方が楽しんでる。そう思ったけど、言うとめんどいから何も言わないで、あの小魚を捜す。きっと陸の方にいる。そこそこの波は起こしたけど、狙ったのは小エビちゃんだけだし、そんなに陸から離れた位置にはいないと思う。
陸を目指して泳いでたら、小魚発見~! なんかオレンジ色の丸い浮きみたいのに掴まってる。禄に泳げねーのにオレらから小エビちゃんを取ろうとか、マジ生意気。絞めちゃお~。この世界って、小エビちゃんがいねーとオレら以外、みんな人間らしく動かねーの。だから絞めてもそんなに面白くない。尾ビレで小魚絞めたら、人形みたいにぐったりして消える。小魚と同じ位置で小エビちゃんを待ってれば、オレかジェイドが成り代われる。そのままの勢いで、オレは浮きにしがみついた。
「いえーい、早い者勝ち!」
「おやおや、先を越されてしまいました」
最初に小エビちゃんをぎゅーってするのはオレ! だって、絶対小エビちゃんは逃げようとするし、オレの方が適任じゃん? あ~、早く小エビちゃん来ないかなぁ~。
「後は稚魚ちゃんの知ってる通りの流れ。面白かったぁ? アズールには、こういう話するなって言われてたんだけど、稚魚ちゃんのお願いだからしょうがないよねぇ~?」
稚魚ちゃんが海に来てから一週間。オレらの裏話がどうしても聞きたいって言うから、準備とか薬のこととか、オレの話せる範囲で話して聞かせてあげた。稚魚ちゃんは真っ青な顔して、「ありがとうございます」なんて心にも無いこと言ってて、ウケる。恐らくオレから脱出のヒントになりそうなこと聞きたかったんだろうけど、生憎、そこまでバカでもシンセツでもないんだよね、オレ。今更、陸になんて帰す訳ねーじゃん。お前はもう二度と、陸にも元の世界にも帰れないんだよ。さっさと諦めろよ。でも、稚魚ちゃんにそんなこと言ったら、カワイソーじゃん? だからーー
「今日は何して遊ぼっかぁ~?」
退屈しないように、これからもオレがい~っぱい愛してあげるからね。稚魚ちゃん♡