海神と恋人 13※※ご注意※※
・モブとオリキャラが割と出張ります
それでも、大丈夫という方は次ページへどうぞ
ゲルに追いつかれた千栄理は、嗚咽を漏らしながら自分の控え室に戻り、落ち着くまで彼女に傍に居てもらうことにした。鏡台の前に座って、ぐすぐすと泣く千栄理をゲルはぎゅっと抱き締めて、背中を摩ってやる。
「大丈夫ッスよ、千栄理。ポセイドン様は千栄理を置いて、他の方のとこに行ったりしないっス」
「ひっく……ぐす……ご、ごめ……ごめんね、ゲルちゃ……」
「ボクのことはいいっスから、まずは涙拭きましょう?」
千栄理を抱き締めながら、近くにあったティッシュ箱を手繰り寄せ、一枚取って彼女に渡す。すぐくしゃくしゃになるまで涙を拭き、千栄理は自分で追加の二枚を取った。
一頻り泣いて落ち着くと、千栄理は疲れたらしく、「はあ」と大きな溜息を一つした。ゲルに向き直ると、気まずそうに俯く。
「本当にごめんね、ゲルちゃん」
「いいっスよ。泣きたい時は泣いて良いんスから」
「……ありがとう」
少し元気を取り戻した千栄理は、力無くも口端を上げてみせる。ゲルに心配をかけまいと気丈に振舞おうとしたが、物の見事に失敗してしまったらしい。一瞬、心配そうに眉を八の字にするゲルだったが、すぐに気を取り直す。
「千栄理、喉渇かないっスか? ボク、何か飲み物取って来るから、ここで待ってて欲しいっス」
「え? ゲルちゃ……行っちゃった」
止める間もなく、会場へ大急ぎで戻るゲルを見送り、ならば、その間に化粧を直しておこうと、千栄理は鏡台と向かい合った。一度、化粧を落としてやり直し、元通りにしたところで、ふと、彼女は気配を感じ取った。部屋の入口から視線を感じ、千栄理は座ったまま、そちらを見た。鏡台は入ってすぐの場所に設置されているので、すぐ左を向けば、ドアが目に入ってくる。千栄理がドアの方を向くと、ほぼ同時に、ぎぃいい、と軋む音を立てて、少しだけ開かれた。ゲルだったなら、普通に開けて入ってくると思っていた千栄理は、不思議そうに首を傾げる。
ぬるりとドアの陰から現れた手に、彼女は小さく短い悲鳴を上げた。緑色の滑らかな鱗に覆われた手には鋭く、黒い爪が生え揃っており、手の甲側だけに金のマニキュアが塗られている。その薄気味悪い手はドアを掴んでゆっくり開けた。
「あら?」
現れたのは、頭と胴は美しい人間の女、腕と下半身は蛇という特徴を持ったラミアの女性だった。美しく着飾った彼女は、金色の蛇目で千栄理の姿を捉えると、訝しげに目を瞬く。
「ごめんなさい。部屋を間違えちゃったみたいだわ」
「あ……い、いいえ。大丈夫です。私の方こそごめんなさい。びっくりしてしまって」
見た目に反して友好的な彼女に、千栄理も警戒を解く。事情を訊くと、自分の控え室がどこか分からなくなってしまったと言う彼女に、千栄理は「私で良ければ、一緒に探しますよ」と申し出る。
「まぁ、本当? ありがとう。あなたってとっても親切なのね」
ゲルのことが少し気がかりだったが、困っている人を放っておくこともできない。心中でゲルに謝りつつ、千栄理はラミアの女性と共に部屋を出た。
思ったよりも早く彼女の部屋は見つかり、千栄理は安堵して、自分の部屋に戻ろうと、挨拶をして行こうとする。しかし、ラミアの女性は是非お礼がしたいと言って、自分の部屋に千栄理を招き入れた。
「本当に大丈夫ですから……」
「ねぇ、あなた、好きな人はいる? 私、とっておきの物を持ってるの。お礼にあなたにあげるわ」
そう言ってバッグから取り出したのは、何か液体が入っている小瓶だった。ピンク色の可愛らしいデザインだ。
「え? あの、それ、何ですか?」
「うふふ、そんなに警戒しないで。毒じゃないわよ。これは惚れ薬。好きな人に飲ませれば、最初に見た人を好きになるし、恋人がいれば、もっと好きになってくれるわ」
「え、でも、それは……」
「遠慮しないで。これはお礼だから。使うのも使わないのも、あなた次第よ」
半ば無理やり千栄理の手に握らせて、ラミアの女性はにっこりと笑った。もうこうなると、断り切れない千栄理は、「あ、りがとう、ございます」と口にするしかない。
「いいのよ。親切なあなたに会えたから」
「……あ、では、私、自分の部屋に戻りますね」
「ええ。本当にありがとう。またね」
「はい、また……」
本当に受け取って良いものか、少し不安に思いながらも、千栄理は廊下へ出て静かにドアを閉めた。
千栄理の足音が遠ざかっていくのを聴きながら、ラミアの女性は「うふふ」とほくそ笑む。その背後からひょこっと顔を覗かせたのは、ベリアルだった。
「ちゃんと、あの子に渡しました?」
「ええ、もちろん。あなたも見ていたでしょう?」
「第一は挨拶程度でしたけど、第二は本格的な試練ですよ。今回のテーマは……ドゥルルルルルルル!」
「ドラムロールいるのかしら?」
「デン! 『誘惑』です! 恋人が他の女に盗られちゃうかも!? っていう時に惚れ薬なんて渡されたら、普通の人間ならほいほい使っちゃうんでしょうけど、あの子は神になるんです。普通の人間じゃ、いけません」
『惚れ薬』と聞いて、ラミアはくすくす笑い出し、ベリアルは訝しげな目を向ける。
「うふふふふふ……。本当にあれが惚れ薬ならね」
彼女にしてみれば、小声で言ったつもりのようだが、内から溢れる興奮を抑え切れないようだった。口元を覆う手の下から不気味な笑い声を漏らし、勝ち誇って続ける。
「あの子がポセイドン様にあの薬を飲ませれば、あの方は私のもの……」
「……は?」
それまでの楽しげな表情は抜け落ち、怒りを通り越して虚無の表情になるベリアルに、ラミアは内心戦きながらも、努めて冷静に誤魔化そうとした。
「あ、あら。何でしょう、ベリアル様。私、何かお気に障るようなこと――」
「ぼくはお前に惚れ薬を渡した筈ですが、何してるんです? え? とっとと言いなさい。……言えよ」
ヂリッ、と頬を掠った灼熱に、ラミアは悲鳴を上げ、後退する。続いて攻撃しようとしたベリアルに待ったをかけて、彼を責め始めた。
「だ、誰が惚れ薬なんか、渡すのよっ! あんた、私の好きにしていいって言ったじゃない!」
「『好きにしていい』とは言いましたけど、『勝手なことをしていい』とは言ってません。早くしろ、次は殺すぞ」
両手に炎を作り出し始めたベリアルを見て、命の危険を感じたラミアは、とうとう白状する。
「あ、あれは……! あれは『忘却の薬』よ! あ、あの子がポセイドン様に飲ませれば……うふふ。ポセイドン様はあの子のことなんて、綺麗さっぱり忘れて、元のあの方に戻ってくれる! そうしたら、あの方は今度こそ私を……!」
「ちっ。踏み台のくせに、余計なことを……」
千栄理を神にする。ただ、それだけの目的でベリアルはハデスの命に従い、動いているが、この女にとっては、そんな事情など関係無い。
千栄理を追いかけようと背中を見せた彼をラミアは太く冷たい下半身を巻き付け、締め上げた。両手にしていた炎は消え、ベリアルは床に打ち付けるような形で捕縛されてしまう。彼の小さな体の上に、ラミアが乗った。その重量にベリアルの体が悲鳴を上げる。
「ぐっ……!? がはっ!」
「行かせない。あの子は自分の手で、あの方との関係を終わらせるのよ……!」
「この、クソアマ……!!」
「あら、随分な口を利いてくれるじゃない。もっと締めてあげたくなっちゃうわ」
ぎりぎりと首に巻き付いた蛇の尾は容赦なく、更にベリアルを締め上げる。完全に動けなくなってしまった彼の意識は、そのまま暗い闇の中へと落ちていった。