キミはボクの弟Prologue
赤司征十郎との記憶は、今となっては断片的にしかない。それでもあの幼い日の記憶が未だ残っているというのは、驚くべきことだろう。それだけボクに辛い思いをさせたのだと母は自分を責めるが、果たして本当にそうなのだろうか。
当時のボクの日課は、仕事から帰ってきた彼を玄関で出迎えることだった。いくらするなと言われても、チャイムの音がすれば玄関へ走っていった。
「ただいま」
「お帰りなさい」
「テツヤは僕の言うこと聞けないの?」
口ではそんなことを言っても、彼はいつも笑ってボクを抱き上げてくれた。彼は美しい人だった。女性的というわけではなく、整った顔立ちと均整の取れた体は美しいと評するに値したし、そして何より、美しい瞳の持ち主だった。
彼の瞳は左右で色が違い、どちらも宝石のようにキレイだった。彼は自らの目を王様の目と言い、テツヤが教えてくれたんだとボクに笑いかけた。
「今日は幼稚園で何をしたの?」
「火神くんとあそびました。ケイドロして、ボクがいっぱい火神くんたすけてあげたのに、ボクがつかまっても火神くんたすけてくれませんでした。火神くんは、こっそり走るのがへたなんです」
「そう。お勉強は?」
「おしゅう字して、お絵かきして……」
「赤司! 皺になるから、抱っこはスーツ脱いでからにしろって言ってんだろ!」
家には家政夫として雇われた虹村さんという男性もいて、彼がいない間、虹村さんが代わりにボクの面倒を見てくれた。
「メシあと少しでできるから、その間テツヤに本でも読んでくれ」
「わかりました」
「虹村さん、ボクもお手つだいします」
当時の母は、ボクが遊びに現を抜かすと、烈火のごとく怒って手を上げた。だから大人の手伝いをするというのは、ボクにとって義務同然だったが、彼はそれを嫌った。
「台所に入るのは駄目だって言っただろ?」
「ボク、ちゃんとほうちょうつかえます。ねこの手で切るって先生にならいました」
「駄目なものは駄目。危ないから、包丁は絶対持ってはいけないよ」
彼は特に、食事の準備の手伝いを嫌った。思うところはあったが、彼が言うならばと大人しく従った。
当時のボクは幼稚園に通っていたが、既に小学校中学年向きの児童書を読んでいた。本が好きというのもあったが、彼は絵本より児童書をボクに望み、彼が望むならボクもその期待に応えたかった。
「これは『ギン』って読みます。虹村さんが教えてくれました。Silverのことです」
「よくできました。じゃあ、これは?」
「『イロ』で、Colorです!」
「……普通に読んでやれよ」
「せっかくなら勉強しながらの方がいいでしょう?」
「教育熱心なお父さんだことで」
「僕たちは兄弟です」
「はいはい」
彼はボクに色々なことを教えてくれた。文字の読み書きはもちろん、英語、ピアノ、習字。どんな先生より、教え方が上手かった。
「征十郎くん」
「なあに?」
「今日、げきのやくがきまったんです」
ボクが勉強の途中で幼稚園の話をしても、彼は怒らなかった。ボクの頭をなでながら、ボクが飽きるまで話を聞いてくれた。
劇というのは、お遊戯会でやる出し物のことだった。ミッション系の幼稚園だったのもあり、年長組はキリストの生誕劇を行うのが伝統で、ボクの役はイエスの元を訪れる羊飼いだった。
「イエスさま見て、『とってもかわいい赤ちゃんだね』って言うんです」
「そう。テツヤにぴったりの役だね」
「でもボク、本当は火神くんといっしょに、へいしさんのやくがやりたかったです」
兵士役を一緒にやろうと友達と約束し、そろって兵士役に挙手したのだが、ボクだけ先生から見落とされ、最終的に余りものの羊飼いになってしまったのだ。当時からボクは存在感のない子供で、見失わないのは彼くらいだった。
「僕の可愛い羊飼い」
彼は落ち込むボクに、羊飼いは重要な役だと教えてくれた。
「いつまでも共に、僕を導いて」
****************
演目は覚えていないが、バレエを一緒に観にいったこともあった。そこでボクは彼とはぐれ、迷子になっているところを、知り合いの男性に助けてもらった。もっとも知り合いといっても数回お茶会で会っただけで、彼がその筋では有名な家の人だと知ったのは、随分後の話だ。
「テツヤ君?」
今思えば、影の薄い自分をよく見つけてくれたと思う。彼はホールの中でさまよっていたボクに、声をかけてくれた。
「やっぱりそうだ。オレのこと覚えてる? 降旗」
「はい」
「まさかこんなとこで会うなんてな。赤司はどうしたの?」
「お手洗いから出たら、征十郎くんいませんでした」
「え~と……つまり迷子?」
「征十郎くん、お手洗いの前でまってるって言ったのに……」
彼に置いていかれたのではないかという不安と、知り合いに出会えたという安心感で、ボクの目は潤んでいた。けれど、降旗さんは大丈夫大丈夫とボクの頭をなでてくれた。
それから降旗さんは彼に電話をしてくれたのだが、あらぬ誤解を受けたみたいだ。待ち合わせスペースで彼を待つ間、降旗さんは青ざめた顔で素数を数え始めた。どうやら当時流行った漫画に、冷静になるため素数を数えるという描写があったらしい。
「二、三、五、七、十一、十三…十七…十九……二十三…………」
十三までは勢いがあったが、十七以降は急にスピードが落ちた。
「つぎは二十九です」
「ホント頭いいよねキミ!」
園児に指摘されたのがショックだったらしく、机に突っ伏せたまま、なかなか立ち直らなかった。もちろんボクが素数を知っていたのは、彼に教えてもらったからだ。
「赤司そんなことまで教えてんの? テツヤ君、ちゃんと遊んでもらってる?」
「はい。前のお休みはお花を見にいきました。次のお休みは、征十郎くんのお馬さんに会いにいきます」
「池坊展にバレエ、それから乗馬か……」
そこで降旗さんは、はぁと大きな溜息を吐いた。
「オレの家のお茶会にも連れてくるし、聞いた話だと狂言も観にいったんだって?」
「ぶす見ました。女の人のことじゃないですよ?」
「知ってるから。それにしても、自分があのブランクのせいで苦労したからって、ちょっとやりす……」
「僕に意見するとは、お前も偉くなったね」
「征十郎くん!」
目立つ人だったが、その時ばかりは気配を消し、ボクたちの後ろに立っていた。ボクは彼と再会できて喜んだが、降旗さんは可哀想なほど震えていた。何故彼をそこまで恐れるのかわからなかったが、ボクに見せる顔が特別だったのだろう。後に聞く彼の評判は、決して良いものばかりではなかった。
けれど、ボクはその特別な面しか知らなかった。彼はボクの体を抱きしめ、良かったと安堵の息を吐いた。
「心配したよ。急にいなくなるんだから」
「ごめんなさい。お手洗いから出たら征十郎くんがいなくて、先に行っちゃったと思いました」
「知り合いに話しかけられてね。不安な思いをさせて悪かった」
ボクたちは自分たちの席へと移動したが、降旗さんは顔を覆い、椅子に座ったままだった。その様子を見て、ボクは彼から教わった『うなだれる』という言葉は、今の彼の状態をいうのだと理解した。
ホールの扉を開ける前、ふと彼がボクに聞いた。泣かなかったかと。泣きかけはしたが、恥ずかしくて泣いていないとボクは言った。褒めてもらえると思ったのに、彼が残念そうにしたので、特に印象に残っている。
「僕はあんなに泣いたのに、テツヤは泣いてくれないんだね」
驚いて彼の目を見たが、少しも腫れていなかった。彼は違うよと言い、ボクの前にしゃがんだ。
「昔の話だ。君のいない未来を思い、僕がどれだけ泣いたか。……すぐに思い出すよ」
彼は昔話をするのが好きだった。あんなことがあった、こんなこともあったと、ボクとの思い出を語り、最後には決まって『覚えていない?』と聞いてくる。しかし、彼の話はどれも記憶にないものばかりで、ボクが首を振れば『すぐに思い出すよ』とボクの頭をなでたが、その瞳はどこか寂しげだった。
当時は大切な思い出を忘れ、彼を悲しませる自分を責めたものだが、思い出すなど無理な話だったのだ。彼の語る昔話は、ボクの生まれる前の出来事だったのだから。
****************
氷室教授に呼び出され、ボクは本日最後の講義を終えると、そのまま研究室へ向かった。約束があるからと断ったのだが、どうしてもと言って引き下がらなかった。強引な面もあるが、無理強いをする人ではない。よほど大事なことなのだろうと思い、火神君には遅くなる旨を連絡した。
「ああ、テツヤ。入って」
教授室のドアをノックすると、大学教授にしておくにはもったいない美声が返ってくる。失礼しますと断ってから部屋に入ると、教授の他にもう一人見知らぬ男性がいた。
新しく入った助手……ではなさそうだ。男性は氷室教授と同じくらいの年齢で、教授と向かいあって座ったソファにのけ反り、足を組んでいた。変人奇人が多いと言われる大学だが、教授相手にここまで横柄な態度を取る助手はいない。
「無理を言って悪かったね。どうしてもキミに会わせたい人がいて」
「ボクに?」
「ああ。……シュウ」
氷室教授に呼ばれた男性は、口を尖らせて――俗にいうアヒル口というやつだ――頬をかいた。そしてボクに向かって、デカくなったなと告げた。しかし、ボクは男性に覚えがなかった。
「失礼ですが、以前どこかで……」
「虹村修造。覚えてないか?」
小さい時面倒を見てくれた虹村さんの下の名前はわからないが、他に虹村という名の人をボクは知らない。世話になったことを思えば、気の利いた挨拶の一つでもすべきだが、虹村さんとはあの事件以来初めて会う。なんて言えばいいかわからず、ボクはただ頭を下げた。
虹村さんは、教授がアメリカにいた頃知り合った友人らしい。教授はゼミの学生の話をよく虹村さんにし、その一環でボクのことも話題に上がったそうだ。
「ボクがあの事件の子供だと、ご存じだったんですね」
「すまない、酔った勢いで口を滑らしてしまって。ただ、シュウが関係者だったなんて、さすがに驚いたよ」
「今更……とも思ったんだが、どうしてもオマエにこれを渡したくて」
虹村さんの手にあったのは、一枚の便箋だった。三つ折りにされ、長い年月を表すように、日に焼けて黄ばんでいた。渡された便箋を広げると、中央のたった一行だけ、言葉が記されていた。
「赤司がオマエに宛てた手紙だ」
あの事件が報道されてから、彼の元に一通の郵便が届いた。送り主は赤司征十郎、中を開けてみれば二通の手紙が入っていた。一通は虹村さんへのお詫びの手紙で、その中にはボクが生きていればもう一通の手紙を渡してほしいとも書いてあったそうだ。
「……」
「赤司はな、オマエのこと……!」
「シュウ」
氷室教授が虹村さんの言葉を遮る。
「キミの気持ちもわかるけど、判断するのは彼だから」
ボクは手紙を元の形に閉じると、今まで預かってくれていた礼を言い、機会があればまた会いましょうと言って虹村さんと別れた。お互い、その日は永遠に来ないことをよく知っていた。
マジバに着くと、火神君が例のごとくハンバーガーのタワーを作っていた。リスのように頬を膨らませて食べている後ろから、首にチョコシェイクを当てれば、予想以上のオーバーリアクションが返ってきた。
「Wow!!」
「お待たせしてすみませんでした」
「言葉と態度が合ってねーんだよ!!」
「こうでもしないとキミ、気付かないでしょう」
彼はボクが幼稚園の時、一番の親友だった火神君その人だ。ボクが退園してからはそれっきりだったが、縁とは不思議なもので、インカレのバスケサークルで再会した。小学校から中学の途中までアメリカに行っていたらしく、驚いたり感情が高ぶったりすると英語が出てしまう。
火神君はまだ不満そうだったが、ボクの言葉に反論できず、またハンバーガーを食べ始めた。
「タツヤ、なんの用だったんだ?」
「いくら親戚とはいえ、目上の人には敬称を付けないといけませんよ」
「いいんだよタツヤは。で、なんだって?」
「面白いものをいただきました」
正確には氷室教授からではありませんがと前置きし、火神君に例の手紙を渡す。彼はハンバーガーを片手に持ったまま、空いた方の手で手紙を広げ、『なんだこれ?』と首を傾げた。ボクが赤司征十郎からの手紙だと言うと、途端に顔をしかめハンバーガーを置いた。
「捨てろよ、こんなもん」
「母を悲しませたのを除けば、ボクは彼に感謝すべきでしょうね」
「おい」
「贅沢をさせてもらいました。言えばなんでも買ってもらえましたし、習い事もたくさんさせてもらって。彼が基礎を作ってくれたから、こうして京大にも受かったんだと思います。それに、そもそもあの事件がなければ、今頃ボクは母からの虐待で死んでたかもしれません」
「おい!」
ドンとテーブルを強く叩く音がし、周りの視線が一気に集まる。しかし、火神君は気にせず声を荒げる。
「バカ言ってんじゃねーよ! まさかこの手紙、真に受けたのか? あんな頭のおかしい男のこと、さっさと忘れちまえ!!」
「彼は……完全に狂ってはいなかったようです」
たった一度だけ、彼と旅行にいった。自然豊かな場所で、冬の浜辺で遊んだのを覚えている。忙しい彼と一日中一緒にいられて、ボクは柄にもなくはしゃいだ。
だが、最後となった日の夜。彼はボクを抱きしめ泣いた。
「テツヤと呼ぶ自分を許してほしいと。彼はそう言って泣いたんです」
ボクが未だ彼の記憶を失わないのは、本当に彼のことが好きだったからだと思う。彼が喜んでくれるなら、彼が求める『テツヤ』を演じることは苦でなかった。
だが彼は、ボクを誘拐した人だった。そして、泣きながら許しを乞うた次の日、自ら命を絶った。
火神君に渡した手紙は、今彼の手の中でくしゃくしゃに丸まっている。手紙に書かれた『愛している てつや』という言葉を、ボクの都合のいい風に解釈することはできても、真実を知る術はない。
幼いあの頃のように、尋ねようにも彼はこの世にいない。王様の目は、もうボクを見ないのだから。
Side Red ①
その日は雨だった。昇降口を出ると、雨の向こうに迎えの車が見えた。それは僕にとってごくありふれた日常の一コマだったが、何故かその日は無性に嫌気が差した。あの黒い車に乗れば、なんの面白みもない家に着いて、また同じ一日が繰り返される。僕は傘を閉じると、裏門から外へ出た。
学校を後にして最寄りの駅に行くと、家とは反対方面の電車に乗った。通っていた小学校は私立のため電車通学する者も多く、小学一年生が一人で電車に乗っていても不審がられなかった。
僕は名も知らぬ駅で降り、人通りの少ない方へ方へと歩いていった。次第に道は舗装されていないぬかるんだ土へと変わり、濁った水たまりが至る所にできていた。
わざと水たまりの真ん中を突っきれば、革靴の中に水が入ってきて歩く度ぐちゃぐちゃと音がする。ここまで濡れてしまえば、傘を差しているのが無駄な気がして、横を流れる川の中に放り投げた。
なんとも馬鹿らしい行為だ。その自覚はあったが、その馬鹿な行為が止められなかった。水に浸かった靴に、肌に張り付く服。どれも不快だったけれど、僕はまた新しい水たまりに自分から足を突っ込んだ。
僕は幼いなりに疲れていたのだろう。将来赤司グループを担うに相応しい人間であれと、そればかりを求める厳格な父。何事においても一番であるため、遊ぶ時間などなく、習い事に追われて一日が終わる。
それなのに父は僕を疎ましく思い、使用人は腫物のように扱った。わかりきったことを繰り返す授業と幼稚な同級生のいる学校は、なんら僕の助けにはならなかったし、救いになるはずの母は、僕が生まれてすぐ死んでしまった。
そんな時だった、彼に出会ったのは。
急に雨がやみ、不審に思って頭上を見れば、見知らぬ男が傘を差し出していた。彼は僕同様ずぶ濡れで、僕は柄にもなく幽霊が出たのかと思った。
いくら物思いに耽ていたとはいえ、こんな近くに来るまで他人の存在に気付かないとは思えなかったし、彼の肌は病的なまでに白かった。
「風邪を引いてしまいますよ」
そう言って僕に傘を差すが、自分は雨に打たれたままだ。彼の髪からは滴がぽたぽたと落ち、水色の髪が肌に張り付いている。不思議な光景だった。彼の髪は晴れ渡った青空の色をしているのに、そこから滴が落ちていた。
「僕の家にいらっしゃい。古い家ですが、雨宿りくらいはできますから」
彼は僕に傘を持たせると、空いた手を引いて歩き出した。自分の立場を考えれば、この手をすぐに振り払い、逃げなければならなかった。日本有数の財閥の創業家に生まれたのだ、見知らぬ他人に付いていくなどありえない。
けれど、僕は大人しく彼に従った。濡れてなお暖かい手が、とても心地良かった。
互いに無言で歩き、しばらくして到着したのは古い日本家屋だった。造り自体は立派だが、建てられてから随分月日が経っているようで、壁や柱は薄汚れ、土間玄関の天井隅には蜘蛛の巣が張っていた。
僕はタオルを渡されると、玄関から入ってすぐの部屋で待つように言われた。構造からして客間を兼ねていると思われたが、木彫りの置物が所狭しと飾ってあり、客を迎える場所としては相応しくない気がした。
しかもその置物というのが統一感がなく、日本猿の彫刻があるかと思えば、グアムの神様の像があり、その隣には有名な猫のキャラクターもある。独特のセンスというよりかは、何も考えずにただ並べただけに違いない。この家の持ち主の性格が、何となくわかった瞬間だった。
そこへお待たせしましたと言って、彼が浴衣を腕にかけ戻ってきた。
「服が乾くまで、これを着ていてください。少し大きいかもしれませんが、折れば大丈夫でしょう」
彼が持ってきたのは、子供用の浴衣だった。藍色の縮緬生地で、浴衣を着るには時期が早かったが、濡れた服のままよりはマシだ。さっそく着付けてもらったが、着られればいいですよねと言って、帯は後ろでリボン結びにされた。
「さて、何をして時間を潰しましょう? 花札……は、教育上あまりよろしくないですし。将棋にしましょうか」
さも名案と言いたげに手を叩くと、彫刻の台にしていた将棋盤を引っ張り出す。僕がルールを知らないと言っても気にせず、駒の読み方から動かし方まで、丁寧に教えてくれた。
駒に書かれている漢字くらい既に読めたが、これは『ふ』と言いまして歩くという意味の漢字なんですと、普通の子供のように教えられるのが新鮮で、僕は何も言わず説明を受けた。
一通りの説明を受けたが、子供には難しいと判断したらしく、やっぱり将棋崩しにしましょうと提案された。説明された遊び方は単純だったが、勝負は僕の連戦連勝で、彼は負ける度もう一回と戦いを挑んできた。
彼は滅多に表情を変えない人だったから誤解されやすかったが、感情の起伏がないわけではない。むしろ相当の負けず嫌いだ。もう一回もう一回と粘り続け、将棋崩しはなかなか終わらなかった。
「おや?」
リベンジ戦のため駒の山を作っていた彼が、外廊下の方を見て声を上げる。つられて僕もガラス戸の向こうを見れば、いつの間にか雨はやんでいた。
季節外れのストーブの前に吊るした僕の服に触れると、少し首を傾げたが、大丈夫だと判断したようだ。
「着ているうちに乾くでしょう」
そう言ってハンガーから服を外した。
「最後まで勝てなかったのが残念ですが、今日は楽しかったです。さあ、支度をしてください。駅まで送っていきましょう」
自分の服を受け取った時、ふとある光景が脳裏に浮かんだ。学校の靴箱に、わざと置き忘れた携帯電話。きっと今頃けたたましく鳴っているだろうが、鳴らしているのは使用人で、それも僕を心配してのことではない。仕事だからだ。
そして父は、恐らく僕が未だ家に帰っていないことを知らない。
「帰る場所がないと言ったら……どうします?」
つい零れた本音に、彼が瞬きを繰り返す。そこで自分が赤司の人間にあるまじき失言をしたと気付く。聞かなかったことにしてくれと頼む前に、予想外の答えが返ってきた。
「野良さんでしたか」
「野良……?」
「それならお家が見つかるまで、ここにいていいですよ。干してないから湿っているでしょうが、一応予備の布団は残してますし。ただ、下着どうします? さすがに修造兄さんのが残ってるとは思えませんし、人のお古を穿くとか嫌ですよね」
「あの……」
「あ、そっか。お風呂入っている間に洗えばいいか。新しいのは明日買いましょう」
信じられないことに、僕はその日、他人の家の湿っぽい布団で寝た。
次の日の朝、当然迎えの者が来ていると思ったのだが、いたのは彼だけだった。鳥の巣のようになった頭でおはようございますと挨拶し、朝ご飯はどうしますかと聞いてきた。
「朝はご飯派ですか? それともパン派? ……といってもパンはないので、必然的にご飯になりますが」
「あ、あの!」
「はい、なんでしょう?」
「家に連絡は……」
「お家ないんでしょう?」
「それは、その」
「第一、キミの名前も知らないのに、どうやってキミのご自宅に連絡するんですか?」
そこで初めて、自分が一度も名乗っていないことに気が付いた。名乗らずとも皆が自分は赤司征十郎だと知っていると、心のどこかで思っていた驕りを指摘された気がして、羞恥で顔が熱くなった。
「ボクの名前は、黒子テツヤといいます」
「黒子テツヤ……」
色素の薄い彼の名に、黒という字があるのは意外だったが、口にすればこの人の名は黒子テツヤ以外ないと、すんなり自分の中に落ちた。キミの名前は何ですかと尋ねられ、僕は一瞬迷った後、下の名前だけ口にした。
「征十郎です」
「征十郎君ですか。かっこいい名前ですね」
テツヤは苗字を言わなかったことには触れず、口の端を少しだけ上げた。
****************
事実は小説よりも奇なり。僕はテツヤの家で暮らすことになった。テツヤは広い一軒家に一人で住み、学校や会社には行っていなかった。僕の世話を焼く以外は、ほとんどの時間を読書に費やし、時たまテレビで放送されるバスケの試合を楽しみにしていた。親より若い彼を見て、僕は世捨て人という言葉が頭に浮かんだ。
とにかく、テツヤは変わった人だった。父に身代金を要求したのかと聞けば、キミのお父さんってどこにいるんです? と逆に質問され、たとえ善意でも貴方のしていることは犯罪だと言ったが、家のない子を追い返す方が非難されるべきでしょうと真顔で返した。
彼は犯罪者になることを恐れていなかったようで、匿っている僕が外に出ても気にしなかった。外の空気が吸いたいと言えば、車に気を付けてとだけ言い見送り、試しに無断で出かけてみたが、何事もなかったかのようにお帰りなさいと僕を出迎えた。
もっとも、おかしいのは僕もだった。何も言われないのをいいことに、他人の家に居座っている。彼に迷惑がかかるとわかっていても、『赤司』を強いられない日々が手放せなかった。
奇妙な共同生活が始まって、一ヶ月が過ぎた頃だ。散歩から戻ると、玄関に見知らぬ男がいてテツヤと話していた。紺色の制服に帽子……警察官だ。
自由な日々の終わりを思い、やや感傷的になる僕とは対照的に、テツヤは普段よりテンションが高かった。
「見てください。この男の子、キミにそっくりですね」
僕に気付くと、警察官から受け取った写真を見せ、似ているでしょうと同意を求めてくる。もちろん似ているどころの話ではない。写真に写っているのは僕だ。何故自ら墓穴を掘るのか、僕には理解できなかった。
「似ていますが、オレじゃないです」
彼をかばったのは、恩義を感じていたからだ。こんな自由な時間は、この先二度と訪れないと幼くてもわかっていた。
けれどテツヤは人の気も知らないで、僕の顔の横に写真を置き、写真と僕を交互に見る。
「こんなにそっくりなのに?」
「目の色が違うでしょう」
「あ、本当ですね」
僕は生まれつき目の色が左右で違い、右目が赤で左目が橙色だ。しかし写真の中の自分は、両目とも黒かった。
「べ、別に弟さんを疑っているわけではありませんで。近所に似たような子を見なかったかと思いましてね……」
中年の警察官が、慌てて会話に入ってくる。低姿勢なこの態度が演技なら大したものだが、後日、彼の動揺は演技でなかったと証明された。
「この子以外知りません」
急に体を引き寄せられると、背中に彼の手が回った。抱きしめられているんだとわかったのは、やや時間が経ってからだ。あんな風に優しく抱きしめられた経験など僕にはなかったから、理解するまでに時間がかかった。
「こんなキレイな子、他にはいません。ね?」
向けられた顔は、表情の乏しい彼が見せる初めての笑顔だった。しばらく見入ってしまったが、我に返ると自分の体勢が恥ずかしくなり、なけなしの抵抗をした。
「いい加減離してください」
「いいじゃないですかたまには」
テツヤは面白がって、抱きしめる力を強くする。所詮は大人と子供の力の差、いくらテツヤが細くても僕が敵うはずがなかった。
警察官は僕がもがいている間に、次の家へ聞き込みに向かった。
「お巡りさんにばれちゃいましたかね?」
僕が諦めて大人しくなった後、頭上から小さな笑い声が聞こえた。
「あの様子だとばれていないと思います」
「そういえば、何故写真のキミは目の色が黒かったんですか?」
「簡単な話ですよ。左右で目の色が違うなんて不気味ですから、普段はカラーコンタクトで隠しているんです」
父は京都の旧家出身で、合理主義にも関わらず迷信深い。彼にとって赤と橙のオッドアイは不吉なもので、僕は小学校に上がる前からカラーコンタクトをするよう言い付けられていた。もっとも、テツヤと会った時はすべてに嫌気が差して、コンタクトを外していたが。
僕の話を聞き終えると、テツヤは互いの額が付くほど、顔を近づけた。
「こんなにキレイなのに、隠すなんてもったいない」
水色の髪と彼の吐息が肌に当たり、心臓の鼓動が速まった。
「宝石みたいにキラキラして、とてもキレイなのに」
「物珍しいから、そんな風に思うんですよ」
「いいえ」
静かだが、僕の主張を一切認めない声だった。
「キミの目は王様の目です」
「王様?」
「はい。人の上に立つ者の目です。キミならばキングでなくエンペラーでしょうね、多くの人を導く力がある。ボクはキミの目が好きですよ」
テツヤは人の目を見て話す人だったから、この時も僕の目を見つめて話していた。彼の瞳に僕の左右で違う瞳が映るように、僕の瞳には彼の空色の瞳が映っていた。何故それまで気付かなかったのか不思議なほど、澄みきって美しい瞳をしていた。
だが、それを口にできるほど当時の僕に余裕はなかったから、照れ隠しで咳払いをし、話題を変えた。
「黒子さんは、まだオレを家に置いてくれますか?」
「ボクがいる間はそのつもりです」
少し気になる言い方だったが、そのまま話を続けた。
「それだったら、いつ人から聞かれてもいいように、オレたちの関係を決めておくべきだと思います。幸い今日はばれませんでしたが、次も上手くいくとは限りません。失礼ですが、おいくつですか?」
「十九です」
今ならば、外見と年齢のギャップに驚いただろう。当時の彼は高校生、下手をすれば中学生に見えた。だが、幼い僕からすれば、十九才と高校生の外見の違いなどわからなかった。単純に僕たちの年齢差だけで判断した。
「あの警官も兄弟と勘違いしましたし、兄弟と名乗るのが自然でしょう」
「随分似てない兄弟ですね」
「従兄弟くらいにしますか?」
「従兄弟はもう間に合っていますから、兄弟にしましょう。そっちの方が面白そうです」
「それでは兄弟ということで。これからよろしくお願いします黒子さん」
「こら」
額を指で弾かれ、初めての経験に言葉を失っていると、テツヤが違うでしょうと言った。頬を膨らまし、怒っているポーズを取る。
「お兄さんを苗字にさん付けする弟が、どこの世界にいますか」
「世間にはいろんな事情を抱えた人がいますので、そんなこともあるかと」
「もっと素直に、お兄ちゃんとかお兄ちゃんとかテツヤとかお兄ちゃんとか。他に呼び方があるでしょう」
「それでは……テツヤで」
「あれ? ボクのお兄ちゃん押しに気付きませんでした?」
「貴方は、あまり兄という感じがしないので」
「これは手厳しい」
言葉に反し、テツヤは楽しそうだった。僕は僕で、彼を下の名前で呼んだことに、違和感と興奮を覚えていた。
僕とテツヤは年の離れた兄弟で、両親は仕事のためアメリカにいる。それが僕たちの考えた設定だった。テツヤはともかく、僕が平日の昼間家にいるのはおかしいので、六つではなく五つと年齢を偽ることにした。
仮初とはいえ、関係が明確になったからか。その日を境に、生活は一変した。
「黒…………テツヤ」
「はい、なんでしょうか征十郎君」
「今から買い物ですか……じゃなくて。今から買い物?」
「そうですよ。何か欲しい物はありますか?」
「いえ、特には。あの、オレも一緒に行っていいですか?」
「かまいませんが、近所のスーパーですよ?」
「今までスーパーというものに行ったことがないので、興味があるんです」
「わかりました。一緒に行きましょう」
「もしかして、それ」
「あ、征十郎君でもバニラシェイクは譲れません」
「今日も夕飯をバニラシェイクですますつもり? それはあくまで嗜好品であって、食事にはなりませんよ」
「キミ、随分難しい言葉を知っていますね」
「ごまかすな」
「……」
「あ、すみませ……」
「ふふっ、しっかり者の弟を持つと困りますね」
「……」
「また?」
「すみません、ボクの料理スキルだと湯豆腐が限界で」
「そこじゃない。何度消えれば気がすむんだ? スーパーに来る度、探す破目になるオレの身になってくれ」
「ボクが消えるんじゃなくて、キミが勝手に見失うんですよ」
「ほら、手を出して」
「?」
「手を繋いでいれば、見失わないだろ」
「はい、わかりました。征十郎君は賢いですね」
「テツヤ、何してるの?」
「アルバムの整理です」
「ピンボケとか見切れているのばかりっていうのが、予想どおりというか何というか……」
「これは撮った人のせいです! ほら、中学の頃の写真が特にひどいでしょう」
「ふ~ん」
「そうだ。今から写真撮りません?」
「今から?」
「よく考えれば、アルバムに兄弟の写真が一枚もないというのは、おかしくありません?」
「……うん、いいよ」
「寒い……」
「この家古いですからね。熱効率最悪です」
「テツヤは寒くないの?」
「そりゃ寒いですよ。自慢ではないですが、ボクはとても寒がりです」
「自慢にならないね」
「寒いなら、もう一枚毛布増やしましょうか?」
「テツヤも寒いんだろ?」
「はい」
「だったら一緒の布団で寝よう。その方がお互いのためだろ」
「そうですね。湯たんぽ代わりに抱きしめてもいいですか?」
「好きにすればいい」
「テツヤ! 家の周りを知らないヤツが、うろうろしていた」
「そうなんですか?」
「きっと刑事だ。オレ、しばらく外に出ないようにするよ」
「いけませんよ、その年で引きこもりなんて。堂々としてればばれないものです、手品と一緒ですよ」
「テツヤは呑気だな」
以前の生活と比較すれば、レベルは格段に落ちただろう。料理下手なテツヤはゆで卵と湯豆腐くらいしか作れなかったし、家は古くてお世辞にも快適とは言えなかった。
それでもテツヤと食事を共にし、同じ布団で寝、他愛ない会話を交わすのが心地良くて。いつからか、テツヤが隣にいるのは当たり前になった。そして、テツヤがいなければ寂しさを感じるようになった。
少し気恥ずかしかったが、素直にそう告げれば、それはボクたちが兄弟になったからだとテツヤは答えた。
「家族に遠慮は不要です。キミがしたいこと、思っていること、隠さずに言ってください。甘えん坊が許されるのは、弟の特権ですよ」
『赤司征十郎』は、人に甘えてなどいけない。でも、『黒子征十郎』だったら? 僕は恐る恐る、隣に座るテツヤの膝に頭を預けた。
テツヤは何も言わず、僕の頭をそっとなでてくれた。涼しげな見た目と違い彼の手は温かく、心地いい温もりが眠気を誘った。
「お兄ちゃんって、呼んだ方が嬉しい?」
「今更呼ばれても、違和感しかないですね。今までどおり、テツヤと呼んでください」
「……テツヤ」
「はい、なんですか?」
「オレ、今まで食べた料理の中で、テツヤの湯豆腐が一番好きだよ」
「そうですか」
意味のない会話。無駄な時間。それなのに、僕は初めて『幸せ』という感情を知った。
****************
「今から水族館に行きませんか?」
唐突な誘いは、一月も半ばになった頃だった。正月が終わり、皆学校や仕事などの忙しない日々に戻っていた頃だ。僕たちといえばそんな世間の喧噪を離れ、いかに寒さを凌ぐかと飽きたお餅の消費方法ばかり考えていた。
テツヤは基本的にインドアだったから、あまり外に出かけなかった。行っても近所の公園や図書館くらいで、遠出をしようとしたのはこの時が初めてだった。
「今日じゃなくて、土曜か日曜まで待った方がいいんじゃないか」
その日は火曜日、休日と比べれば来場者は少ないはずだ。テツヤは堂々としていればいいと言うが、捜索されているはずの僕は、できるだけ人目につかないよう行動すべきだ。影の薄いテツヤと違い、自分が人目を引く容姿である自覚はあった。
それならば水族館に出かけること自体止めればいいのだが、テツヤと遊びにいくのは堪らなく魅力的だった。
「ボクたちせっかく毎日が日曜日なのに、わざわざ人が多い日を選ばなくてもいいじゃないですか」
「わざわざ人の多い日に行くべきだと言っているんだ」
「わざわざ人の多い日に行けば、それだけキミのこと覚えている人に見つかる可能性が高くなります。断固今日行くべきです」
「……そんなに今日行きたいの?」
「はい。思い立ったが吉日、です」
テツヤは頑固だ。自分に非があると認めない限り、主張を曲げたりしない。だからこれ以上言っても無駄だとわかっていたし、それに何より、ボクはテツヤにとことん甘かった。
テツヤの行きたがった水族館は他県にあり、僕たちは電車を乗り継ぎ、二時間近くかけて目的地に向かった。一つ年をごまかしている関係上、僕は切符を買わず、どの路線でも不審がられなかったことに若干傷ついたが、得したお金でバニラシェイクを買いましょうと、テツヤは誰のためかわからない発言をした。
人気のある水族館だったのでがら空きではなかったが、やはり休日と比べると人は少なかった。互いに何故平日にと疑問に思うらしく、すれ違う相手は僕たちを横目で確認していく。内心気が気でない僕は自然と顔が強張っていたが、テツヤは逆に表情が緩んでいた。
「うわぁ、スゴイですね」
目の前に広がる大水槽を見て、感嘆の声を上げる。
「動物園も好きですけど、水族館はなんというか……神秘的なところがあると思いません?」
「そうかもね」
学校行事でしか動物園と水族館に行ったことはなかったが、それでもテツヤの言いたいニュアンスはわかる気がした。日の下にある動物園と違い、水族館の中は仄暗い。そんな中、淡い光に照らされた水槽とその中を泳ぐ無数の魚たちを見ると、別世界に来たような気持ちになる。
だからだろうか。魚たちを眺めるテツヤの横顔が、普段の彼とは違って見えたのは。
「征十郎君?」
無意識のうちに、テツヤの体に抱き付いていた。頭の上から不思議そうな声が聞こえてきたが、一番不思議だったのは僕自身だった。
──館内の皆様にお知らせします。当館一階イベントプールで、十一時よりイルカショーを開催いたします。イルカたちによる華麗なショーを、ぜひご覧ください。繰り返します……
「ほら、イルカショーが始まっちゃう。行こう」
「まだ全然展示見れてません」
「次のイルカショーは三時だから、先に見てしまった方がいいよ」
「それもそうですね。けど、何も抱き付かなくていいじゃないですか」
「手を引っ張っても気付かないテツヤが悪い」
タイミング良く流れた館内放送のせいにして、僕は突然の衝動をごまかした。
イルカショーが始まると、テツヤは普段のテツヤに戻っていた。大騒ぎすることはないが、イルカがジャンプする度に、スゴイですねと言って拍手を贈る。観客の中から一名がイルカと握手ができると聞けば、僕の手を無理やり上げさせ、自分も同伴の保護者としてちゃっかり握手をしていた。
「写真撮りますよ~」
スタッフが最後に僕たちとイルカの写真を撮り、写真はその場でもらえた。見ればテツヤは相変わらずの表情のなさだったけれど、僕には楽しんでいるのが十分伝わった。
「テツヤ、お腹空いた」
「レストラン行きましょうか。何が食べたいですか?」
「お子様ランチ」
「いいですね、ライスの旗は持って帰りましょう」
「デザートだけですまそうとか、考えてないだろうね?」
「ボクはそこまで甘党じゃないですよ」
いつものように手を繋ぎ、三階にあるレストランに向かう。外にいたせいでテツヤの手は冷たかったが、それでもすぐに温かさを取り戻す。その温かさに朝から続いた緊張はほだされ、僕も彼と一緒に水族館を楽しむことにした。
食事をすませると、順路に沿って館内を見て回った。最初の大水槽の次にはホッキョクグマやペンギンのいるエリア、次は打って変わって熱帯魚のエリア。小さな生き物たちが個別に展示されているエリアを抜ければ、癒しゾーンと名付けられたエリアに着いた。
主な展示はクラゲで、大きな球体の水槽を中心に、柱のように細長い水槽が周りを取り囲むように配置されている。クラゲを照らす光の色は徐々に変化していき、水色から黄色、緑、青、紫、赤、そしてまた水色に戻る。
「ゆっくり見てもいいですか?」
「かまわないよ」
イルカのように賢いわけではない、ただゆらゆら動くだけなのに、クラゲは人の心を掴む。スノードームのような水槽の前には、ベンチが設置されていた。
テツヤが先に腰掛け、僕もその隣に座る。他のエリアでは『面白い形をしてますね』とか『これ○○○っていうみたいですよ、変な名前ですね』とか、逐一コメントをしていたが、テツヤは何も言わずクラゲを見ていた。
その横顔を盗み見れば、彼の白い顔がクラゲを照らす色と同じ色で照らされていく。美しいと思った。魚よりもクラゲよりも、この時の彼が一番神秘的で幻想的だった。
「……どうしましたか?」
また僕は彼に抱き付いていた。しかし、今度は理由がわかっている。
僕は不安だったのだ。僕の知らない面を見せるテツヤが、このまま水の向こうに行ってしまい、二度と戻ってこない。そんな不安に駆られたのだ。
「オレたちは、ずっと一緒だよね?」
この日のテツヤは、表情が豊かだった。僕の問いかけに、わかりやすく顔を歪めた。もしかしたら、情けない顔をしていた僕につられたのかもしれない。
ごめんなさいとテツヤは謝った。
「もう少ししたら、ボクはキミとお別れしないといけないんです。『おじいさん』の話は、したことありましたよね?」
テツヤは広い一軒家に一人で暮らしていたけれど、天涯孤独の身ではなかった。彼は時に父親、母親、それに従兄の話をした。だが、一番多く話題に出たのは『おじいさん』という人だった。
テツヤと彼の正確な関係はわからない。血は繋がっていないとテツヤは言った。それでも彼との写真を見て思い出話をする時のテツヤは、懐かしそうに目を細めていた。口にはしなかったが、随分と嫉妬したものだ。
「ボクはおじいさんと約束をしているんです。二十歳になれば、おじいさんの所へ行くって。だから二十歳の誕生日を迎えれば、キミとお別れしないといけません」
テツヤの誕生日は、一月三十一日だ。間近に迫った特別な日を、どうお祝いするか考えていたのに。酷い裏切りだった。
「そんな約束破ってよ」
「約束は守らないといけません」
「オレにあの家にいてもいいと言ったのは、テツヤじゃないか! それも立派な約束だろ!!」
「家が見つかるまでは、ボクが家にいる間は。……そうも言ったはずです」
「家なら見つけたよ、君と暮らすあの家がオレの家だ」
僕の家はテツヤと一緒に住むあの古い家、僕の名は黒子征十郎、僕はテツヤの弟。その事実が僕のすべてとなっていた。
テツヤが困った顔をして、僕の目元を拭った。
「泣かないで、ボクの王様」
テツヤに言われて、色違いの目から涙が流れているのに気付いた。どんなに周りの人間から陰口を叩かれ、父から気味悪がられたとしても、泣きなどしなかった。けれど、テツヤと離れる未来を想像しただけで、簡単に涙は溢れてきた。
「嫌だ、テツヤがいなきゃ嫌だ」
「キミは皆から愛される王様になります。ボクがいなくても、キミを愛する人は大勢現れますよ」
「テツヤがいない世界で、王様になっても意味がない! ……置いていかないで、ずっと側にいるって約束してよ!!」
テツヤはあやすように僕の頭をなでたが、そんなことで涙はおさまらなかった。静かな館内に僕の泣く声が響き、通りかかった他の客が遠巻きに眺めてくるが、取り繕う余裕はなかった。
僕は感情のまま泣き続けた。
Side Blue ①
大学はスポーツ推薦で決まった。周りから卒業できるか心配されたが、一年の前期はさつきのノートと持前の勘で乗り切った。乗り切った気でいただけだと後からわかるのだが……。
とにかく。オレは晴れやかな気持ちで、大学初めての夏休みを楽しんでいた。バスケ部の練習は相変わらずびっしり詰まっていたが、講義がないというだけで気分がいいモンだ。
そんな中、急に親父が東北へ転勤することになった。お袋は『悪人面の大ちゃんなんかより、パパと一緒にいたいわ』とかほざいて、親父に付いていくのを即決した。誰が悪人面だ、オレの顔は親父と瓜二つだっつーの。
まぁそれはさておき、ここからが問題だった。オレは一人っ子。親父とお袋が東北に行くと、オレが一人家に残ることになる。寂しいとかそんな感情の前に、死活問題だった。今でもそうだがオレは家事ができない、料理・洗濯・掃除、全部ダメだ。
見兼ねてさつきの親父が一緒に住むかと言ってくれたが、さすがに断った。さつきはガキの頃から一緒に育った兄弟同然の仲だが、あれで一応女だ。しかもおっぱいだけは文句なし。何もしないと言い切れないのが、悲しい男の性だ。
しかし、何を思ったかさつきが、
「おばさんたちがいなくなったら、私が代わりにご飯作りにいってあげる!」
とのたまったから、事態は急変した。さつきの料理を食べ、生死の境をさまよった過去がフラッシュバックする。アイツはオレに保険金でもかけてるんだろうか……。
オレはどうにかして回避する方法がないか考えた。考え過ぎて知恵熱が出たくらいだ。そんな時会ったのが、中学の時同じ部活だった黄瀬だ。黄瀬とは卒業してからも時々遊んでいた。
「桃っち、まだ料理ダメなんスか?」
「年々悪化してる」
「……」
「黙んな」
「スンマセン」
しばらく二人して黙り込んだが、黄瀬がそうだと声を上げる。
「オレたちのシェアハウス来ないっスか? 今一部屋余ってるんスよ。知らないヤツ来るよりは、青峰っちが来てくれた方が全然いいし」
黄瀬は中学の時同じ部活だった二人と、シェアハウスに住んでいた。黄瀬の元チームメイトということはオレの元チームメイトでもあり、名前は緑間と紫原という。
一緒に住むほど仲が良かった覚えはないし、何事もきっちりしたい緑間とゆるゆるの紫原が同じ家に住むのは想像できなかったが、聞けばそれぞれ事情があった。
緑間は大学近くに住みたかったが、親に一人暮らしを反対されたため。紫原は住居探しを面倒くさがり、始めた時には部屋が空いていなかったため。黄瀬はシェアハウスという響きに憧れがあったためだ。
黄瀬にはいろいろ突っ込みたいが、家の場所や暮らしぶりを聞くと、さほど悪くない。家事は分担制らしいが、向こうもオレに家事のスキルがないことはわかってたから、風呂掃除とか皿洗いでいいっスよと言った。
今まで全部お袋に任せていたことを考えると面倒だったが、さつきの料理から解放されるなら話は別だ。
「いいぜ、オレもシェアハウス混ぜろ」
「決まりっスね。詳細は後でメールするっス」
「しかし、帝光バスケ部スタメンが勢ぞろいとはな」
「そうっスね……って、青峰っち。ショウゴ君のこと、忘れてない?」
「…………………………………あぁいたなそんなの」
突如決定したシェアハウスでの生活は、思いの外快適だった。家は築十年と比較的新しく、個人の部屋は実家のオレの部屋より広い。徒歩では通えなくなったが、電車を使えば三十分で大学まで行けた。大嫌いな家事はしないといけないが、時間が合えば男四人で酒盛りなんかもする。
大学生らしい、楽しい時間を過ごすことができた。
****************
シェアハウスに引っ越してすぐのことだ。珍しくオレと黄瀬のオフが重なり、一緒に買い出しへ出ていた。
「また雨っスね」
「そうだな」
その年は、夕方になると毎日のように雨が降っていた。片手にスーパーの袋、もう片手に傘。日本人の平均身長を軽く超える体格のせいで、肩とスーパーの袋は雨でびしょびしょになった。
「明日も降るなら、部屋干し決定っス。洗濯機、乾燥機付が良かった……」
「オマエは主婦か」
「いやいや、青峰っちもすぐこうなるから」
そんな他愛のない話をしながら、黄瀬が鞄から家の鍵を出すのを待っていた時だ。ギィーギィーと錆びついた音が聞こえてきた。雨音に混じりながらも、一定の間隔で聞こえてきて、一度気になると耳から離れなくなった。
早く出せよと黄瀬を急かす間も、音は変わらず聞こえてきた。ギィーギィー……ギィーギィー……と。
「……今の時間、逢魔時っス」
「なんだそりゃ」
「一番、『これ』に会いやすい時間」
鍵を探す手を止め、両手首を下に垂らして目をひんむく。ぞくりと背筋に冷たいものが走ったのをごまかすため、黄瀬の頭をゲンコツで殴った。
「イタッ!」
「どーせ向かいのボロ屋に決まってんだろ」
シェアハウスの向かいには、一軒のボロ屋が建っていた。都内にも関わらず、庭師が必要なほどの敷地に、庭に負けず劣らずデカい純和風の家。
だが、建てられて大分経つのか、はたまた手入れが雑なのか。見た目はボロボロだ。廃墟とまでは言わないが、お化け屋敷とは言ってもよかっただろう。
春から住んでいる黄瀬たちは慣れていたが、オレはまだそこまでいってなかった。気を抜いていた時に、この家を見た時ほど心臓に悪いモンはない。夜に見てしまい情けない声を上げたのは、ここだけの話だ。オレは気を引き締めてから向かいを見れば、案の定取れかかった門が風で動いて…………いなかった。
代わりに錆びた鉄の門の上に、血の気のない白い手があり、その手から服が張り付いている濡れた腕を上がり行き着いたのは、髪の隙間からのぞくぎょろっとした目玉だった。
「「ギャアァーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」」
男二人の悲鳴が、辺り一帯に響く。
「もうなに? ヒネリつぶすよ」
いつの間にか帰っていた紫原が、不機嫌な顔をして家から出てきた。腰を抜かしたオレたちは、救いを求め紫原の巨体に縋り付く。
「む、む、紫っち! で、で、で」
「で?」
「出た! ついに出た!!」
黄瀬が震える指で幽霊を指し、声が出なくなったオレは必死に頷く。しかし紫原は、はぁ? と呆れた声を出すだけだった。
「ただの黒ちんじゃん」
「「え?」」
そこでまた、ギィーギィーと耳に付く音が鳴り始めた。見れば幽霊の手が離れた門が、風で前後に動いていた。
「お友達、驚かせてしまいましたね」
ずぶ濡れの幽霊が、こちらに向かって歩いてきた。歩くだけあって、足が二本ちゃんと付いている。
「突然で申し訳ありませんが、熱さまシート持っていませんか?」
「ごめん、冷えピタしかない」
「言い方が悪かったです。冷却ジェルシートがあれば、いただけないでしょうか」
紫原は自分のかなり下にある額に手を当て、う~んと唸った後、濡れた手を払った。
「熱ないっぽいけど、そんなことしてんから風邪引くんじゃないの? 傘差す習慣付けたら?」
「必要なのは、ボクでなく征十郎君です。昼間に熱が出て、買いにいこうと思ったんですが、側を離れるなとごねられまして」
「ふ~ん」
何か引っかかるのか小難しい顔をしてから、紫原は冷えピタを取りに家の中へ戻った。
さすがに時間が経てば、オレも正気に戻った。目の前の男は紛らわしいことこの上ないが、生きた人間だった。オレの視線に気付くと、相手はぺこりと頭を下げた。
「向かいに住む黒子テツヤです。驚かせてすみませんでした」
「どうも。紫っちとは仲良いの?」
オレが返事する前に、黄瀬が割って入ってきた。黄瀬は誰にでもフレンドリーに見えて、実は違う。人によってあからさまに態度を変え、自分が認めた相手が、自分が認めた相手以外と親しくするのが気に食わない。この時も見るからに上から目線で、敵意を隠すつもりはまったくなかった。
「お菓子の袋詰めセールで知り合って以来、兄弟共々仲良くしてもらってます」
弟という言葉を聞いてオレは思わず、マジかよ……と漏らした。幽霊と勘違いする男の小型版がまだいるのかと思うと、気が滅入った。それは黄瀬も同じようで、露骨に顔に出ていた。
「失礼な。征十郎君は、ボクと違って美人さんですよ?」
そこで濡れた髪をかき上げ、よく見えなかった顔が露わになる。悪くもないが良くもない、極々平均的な顔なのに、水色の目を細めてはにかむ顔に目を奪われた。
オレと黄瀬が言葉を失っていると、冷えピタを持った紫原が戻ってきて、様子が気になるからと向かいの家へ見舞いにいった。二人を見送った後も黙って突っ立っていた黄瀬が、ぽつりとつぶやいた。
「可愛い……」
「は?」
「どうしよう青峰っち。これが一目惚れっスか?」
「オレに聞くな」
もっともな返しだったのに、調子に乗った黄瀬はキャンキャン騒ぎ始めた。
「ヤバいヤバい! オレのマイ・エンジェル降臨っス!! ヤバいヤバいヤバい!!」
「ヤバいのはオマエだ」
女に不自由しない面して──実際不自由していなかったようだが──どうして男相手にこうも浮かれているのか。堀北マイちゃんのおっぱいを見て、黄瀬がふ~んですませた理由がわかった気がした。オレは自分の世界に浸る黄瀬を残し、そっと一人家に入った。
同居人から心の距離を置かれているにも関わらず、家に戻ってからも黄瀬はうるさかった。勝手に黒子っちとあだ名を付け、黒子っち黒子っちと連呼した。
「あの透明感がいいッスよね! 女みたいな生々しさがないというか。あ~半年損した、なんで今まで黒子っちのこと気付かなかったんだろ」
「さっきからオマエ、男に可愛いって……」
「えぇ~? 青峰っちはあの天使の微笑み見て、何も感じないんスか?」
「……」
「ほら」
「うるせー、このホモ野郎!」
「ホモじゃないっス!!」
信憑性の欠片もない叫びだった。
それからほどなくして紫原は帰ってきたが、背中に知らない子供を乗せていた。単体で見れば小学校の低学年くらいとわかっただろうが、紫原との対比のせいで、赤ん坊のように小さく見えた。
「誰っスかその子」
「征ちん」
「……征十郎?」
「ピンポーン」
テツ──オレはこの後黒子をテツと呼ぶようになる──が言っていた弟らしき名を言えば、見事に当たった。しかし、背中に乗ってる子供は、テツと似ても似つかなかった。
全体的に色素が薄いテツと違い、真っ赤な髪をしていたのもあるが、弟の方は華があった。顔は伏せていてよくはわからなかったが、それでもそこにいるだけで人目を引くオーラを感じた。
「考えてみたらさー、ミドチンに看病させればいいじゃん? だから連れてきた」
その時外出中だった緑間は、医学部だった。オレと黄瀬はそれもそうだなと同意したが、帰ってきた緑間が専門はまだ履修していないのだよ! とブチ切れるのまでは、想像できなかった。
「オレとしては征十郎クンじゃなくて、黒子っち連れてきてほしかったっス」
「黒子っちというのは、ボクのことでしょうか?」
「「うおぉ!!」」
「すみません、また驚かせてしまいました」
紫原の隣で小さく手を上げた男に、素っ頓狂な声が出た。担がれた征十郎はしっかり見えたのに、テツにはまったく気が付かなかった。突然の出現にオレの心臓はバクバク言っていたが、黄瀬はすぐに『くぅううぅrrrrrろこっちぃいいぃいい!!』と叫んで、立ち直っていた。この打たれ強さは、高校時代笠松とかいう主将にしごかれたせいだと、オレは思っている。
テツははしゃぐ大型犬を死んだ魚のような目で見ていたが、直接抗議してきたのは征十郎だった。
「テツヤを変な呼び方で呼ぶな」
黄瀬を睨みつける顔は、やはり兄貴と似ておらず、順調に育てばイケメン間違いなしの顔をしていた。だが、何より印象に残ったのは、色違いの目だった。熱でだるそうなのに、赤と橙の瞳だけは射抜くような鋭さを持っていた。
****************
シェアハウスの向かいに住む兄弟は、黒子テツヤと征十郎といい、二人きりで暮らしていた。両親は仕事で海外にいるそうで、テツが征十郎の面倒を見ているのだという(驚くことに高校生だと思っていたテツは、オレたちより年上で二十歳だった)。黒子兄弟は一晩オレたちの家に泊まったが、翌朝には征十郎の熱が引いたので、自分たちの家へ帰っていった。
テツたちとはそれっきりになるかと思ったが、再会は三日もしないうちにやってきた。
「こんばんは」
「アンタ確か……」
部活からの帰り道、突然声をかけられた。振り返ればテツと、そっぽを向いた征十郎がいた。
「帰りですか?」
「ああ。アンタは?」
「ボクは今から夕飯の買い物に」
「今から?」
時計は七時を回っていた。オレがガキの頃は六時に飯を食ってたから、これから買い物して夕飯を作るとなると、かなり遅くなる。オレが考えてることがわかったようで、テツは苦笑いしていた。
「ちょっとケンカしてしまいまして。それで遅くなったんです。ね?」
「……」
手は繋いでいるくせに、征十郎はテツの問いかけに答えず、横を向いたままだ。随分下にある顔ははっきりとは見えないが、心なしか両目とも赤いように思えた。
「オレたちの家でメシ食うか?」
「え?」
「今からメシ作ってたら遅くなんだろ。黄瀬が今日はカレーだって言ってたし、二人分くらいどうにかなんだろ」
「お気持ちは嬉しいですが、突然お邪魔しては……」
「別にかまわねーよ、作ったのオレじゃなくて黄瀬だし。アンタが来るなら、アイツも喜ぶだろ」
テツはちょっと考え込んだ後、わざわざしゃがんで征十郎に、『キミはどうしたいですか?』と聞く。
征十郎は値踏みするように、オレの顔をじっと見上げてきた。アーモンド型の赤と橙の瞳は、ガキとは思えない迫力があった。
「お言葉に甘えて、お邪魔してもいいですか?」
「お、おう」
「ありがとうございます。ほら、テツヤもちゃんとお礼言って」
子供とは思えない言い回しに、オレがたじろいだのは無理もない。家に着くまでオレが先頭で、二人は後ろを付いてきたが、その間二人の話す内容が聞こえてきた。
「テツヤが約束さえしてくれれば、青峰さんに迷惑かけずにすんだのに」
「ボクはちゃんと約束しましたよ。二十一になる直前までいるって」
「そっちじゃない。どうして一緒に連れていってくれないんだ? 簡単な話じゃないか」
「いくら征十郎君の頼みでも、それだけはダメです」
会話の中身はわからなかったが、テツを連れてきた時の黄瀬のテンションの高さに、飯を食い終わった頃には忘れていた。今でも時々ふと思う。もし忘れていなければ、オレは『あの時』違った行動が取れたんじゃないかと。
それからオレたちと黒子兄弟の交流は続いた。テツは見た目に反してスポーツ好きで、特にバスケが好きだというので、オレたちと気が合った。互いの家を行き来する以外にも、近くのストバスに六人で行ったり、そろってNBAの試合をテレビで観戦したりした。
「黒ちん何見てるの?」
「駅前でもらったんです。キレイだと思いませんか?」
テツは駅前でもらったチラシを紫原に見せた。東京近辺の離島が紹介された旅行会社のパンフレットだった。
「東京近辺に、こんなキレイな海があるなんて。一度でいいから実際に見てみたいですね」
「黒ちん海派? オレは海派」
「もちろん海派です」
「は? 海じゃ蝉捕りできねーだろ。断然山だわ」
「「えぇ~」」
バスケを除けばテツは紫原と一番気が合い、バスケを除けばオレたちは好きな物も趣味も正反対だった。けれど、バスケという一点で、オレたちは誰よりも仲良くなった。呼び方が黒子さんからテツに変わったのは、すぐの話だ。
皆で飯を食って、オレが皿洗いをしていると、テツは必ず手伝いにきた。客は座っとけと言っても、キミと話しにきたんですと言う。……ちょっとだけ、ホントにちょっとだけ。可愛いと思ってしまったオレは悪くない。
だが、二人きりの時間はそう長くない。決まって子供の足音が聞こえてきて邪魔された。
「オレも手伝います。テツヤ、布巾貸して」
入口近くにいたオレを素通りし、征十郎はテツの隣に行って服の裾を引っ張った。征十郎もつくづく現金だった。テツが来てからでないと、手伝いにこない。
「そういや、マジバでシェイクの半額セールしてたぞ」
「本当ですか。さっそく明日行かなくては」
皿を洗いながらテツに話しかけると、お決まりどおり征十郎が割り込んできた。
「青峰さん、余計なことを言わないでください。テツヤはバニラシェイク中毒なんですから」
「それを言うなら、キミだって湯豆腐中毒じゃないですか」
「湯豆腐は食事だからいいんだ。いいかいテツヤ? 何度も言っているけど、シェイクは嗜好品なんだ。あんななんの栄養もない物ばかり食べていては駄目だよ」
「カルシウムがいっぱい取れます」
「カルシウムが取りたいなら、牛乳とか煮干しとか、健康にいい食材がいくらでもあるだろ? だいたい、シェイクに含まれる砂糖の量は……」
兄貴の食生活に説教をするとは、小学校に上がる前の子供とは信じ難い話だ。後から本当の年齢は違ったと知ることになるが、それでも征十郎は妙に大人びていて、甲斐甲斐しくテツの世話を焼いていた。
兄と弟が逆転した兄弟と、言えなくもなかったが……。
「征ち~ん、ミドチンが将棋したいって」
「誰もそんなこと言っていないのだよ!」
台所に顔を覗かせた紫原の後ろから、緑間の声が聞こえる。それにツンデレ乙~と紫原が返した。
テツがオレと一番仲が良かったのなら、征十郎と一番仲が良かったのは緑間だろう。二人は将棋仲間で、テツたちが遊びにきた時は、必ずと言っていいほど将棋をしていた。
ただし、実力は征十郎の方が上で、オレが知る限り緑間は一度も勝ったことがない。それが負けず嫌いの緑間に火を点け、アイツから勝負を仕掛けるようになった。
征十郎は皿を手にしたまま、物言いたげにテツを見上げる。テツは困ったように笑うと、一旦皿を拭く手を止め、その場にしゃがんだ。テツは征十郎と話をする時、いつも視線を合わすためしゃがんでいた。
「良かったじゃないですか、いってらっしゃい。ボクではもうキミの相手になりませんから」
「でも」
「ボクもすぐ行きますから」
「あ~、黒ちんはゆっくりでいいよ。ホモの黄瀬ちんがうるさいから」
「ホモじゃないっス!!」
今度は黄瀬の叫び声が聞こえた。
「時間はまだあるでしょう? だから大丈夫。ボクはキミと一緒ですよ」
そう言えば、征十郎は渋々リビングに向かった。一連の流れを見ていた紫原は、一言キモいとつぶやき、征十郎の後を追った。テツは何事もなかったかのように皿洗いに戻ったが、さすがのオレも黙ってはいられなかった。
「どうにかした方がいいだろ」
もちろん征十郎のことだ。一見兄と弟が逆転したような兄弟だが、実際は違った。緑間が兄弟ではなく母と子のようだと言っていたが、まさにそのとおりだ。征十郎はテツの側を離れようとしなかった。手を繋ぎ、体に寄りかかり、体の一部がテツに触れていないと安心できないようだった。
それなのにテツは呑気で、
「来年になれば大丈夫ですよ」
と、何食わぬ顔で言った。本当にテツは呑気で、自分を過小評価していた。
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後悔は人生に付き物だ。時折ふと思い出す小さなものから、いつまでも頭から離れない大きなものまで。様々な後悔を経験する。あの兄弟に関することは、忘れることのできない大きなものだ。オレだけでなく、黄瀬や緑間、紫原も同じだろう。
だが他の三人が『何か二人のためにできなかったのか』というのに対し、オレは『どうしてあの時行動しなかったのか』。オレが声をかけたからって何か変わったとは思えないが、それでも未だ後悔の念は尽きない。
忘れもしない、一月三十日。冬真っ盛りで、オレは手袋マフラーに貼るカイロと完全装備で家を出た。少し遅い昼飯を食べてから部活のため家を出たのだが、つい見る習慣が付いた向かいの庭で、珍しい光景を見た。
「どうして約束してくれないんだ!?」
子供特有の甲高い声は征十郎だった。大人びた征十郎が感情を露わにするのも珍しいが、テツとケンカしているのが珍しいと思った。
よくケンカするとテツは零していたが、オレはそれまで二人がケンカするのを見たことなかったし、想像もできなかった。征十郎は真っ赤な顔をしてテツの体を揺さぶり、テツは黙って好きにさせていた。
「テツヤ、テツヤってば! なんとか言えよ」
「……征十郎君」
「嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ!!」
何か言えと言ったくせに、耳を押さえて聞くのを嫌がる。オレの知る征十郎とは思えない仕草だった。
「征十郎君」
未だ思い出すのは、この時のテツの声だ。ただ征十郎の名前を呼んだだけなのに、耳にこびりついて離れない。テツは膝をつき、征十郎の背に手を回した。
「わかりました。約束しましょう」
荒れた庭の中、抱き合う二人の姿に胸騒ぎを覚えた。けれど同時に、他人の介入を許さない雰囲気があった。オレは迷った末、そのまま大学に向かった。自分の勘には絶対の自信があったのに、見過ごしてしまったのだ。
とてつもない過ちを犯したと知ったのは、その日の夜だ。他の三人はそれぞれ用があり、オレだけが家にいた。チャイムの音で目が覚め、枕元に置いてあるケータイを見れば、日付が変わって一月三十一日になっていた。チャイムが鳴りやむ気配はなく、それどころかドアを叩く音までし始めた。
オレの脳裏を過ったのは、夏場によくやるテレビの怪談特集や合宿の時聞いた都市伝説。促されるままドアを開ければあの世に連れていかれ、ドアを開けなくてもあの世に連れていかれるという理不尽なヤツだ。
オレは枕を武器に、とりあえず玄関の近くまで行ってみた。そうすると、今度はチャイムとドアを叩く音の合間に、『……て、……て』と途切れ途切れの高い声が聞こえてきた。怪談話が苦手なオレが、ここまで不気味なシチュエーションで覗き穴を確認したのは、今でも不思議だ。
「征十郎?」
覗き穴の向こうに見知った顔を見つけ、オレは玄関のドアを開けた。
「オマエ、こんな時間に……」
「テツヤを助けて!」
オレの顔を見るなり、征十郎が叫ぶ。そこでちょうど雲が引き、月の光が差し込むと、オレは絶句した。昼間見た征十郎の白いセーターが、真っ赤に染まっていたからだ。思わず征十郎の肩を掴むが、違うと首を横に振る。
「オレは怪我してない、それよりテツヤが! お願いします、テツヤを助けてください!」
いつもすました顔した征十郎が、必死になって助けを求めたのに。オレはテツを助けてやれなかった。
征十郎に引っ張られ家に行けば、玄関から入ってすぐの部屋でテツは死んでいた。部屋の中は薄暗くて、テツらしきヤツが横たわっているのしかわからなかったが、むせ返る血の臭いでテツはもう助からないと知った。
オレが動けずにいたのに、征十郎はテツに駆け寄り、テツヤテツヤと泣きながらその体を揺する。時々、ぴしゃりと水が跳ねる音がした。
我に返ったオレが救急車を呼ぶまで、征十郎はずっとテツの名を叫び続けた。
「すみませんでした、夜中に起こしてしまって」
だが、救急車に乗り込んだ時には、大人しくなっていた。人一倍賢いせいで、テツが助からないのを理解してしまったのだろう。それにしても落ち着きすぎていたのは、きっと征十郎はこうなることを知っていたからだ。
「オレが代わりに電話してやるから、親の番号教えてくれないか?」
その時のオレは、大学に入ったばかりのガキだった。自分だけでは対処しきれず、大人の判断が欲しかった。それでテツたちの親のことを聞いたのだが、征十郎はテツに視線を向けたまま変なことを言う。
「親というのはテツヤの親ですか? それともオレの親?」
「え?」
「テツヤの親なら、申し訳ないですが知りません。オレの親のも忘れてしまいました。ただ、警察に聞けばわかるんじゃないですか?」
疑問符を浮かべるオレを無視し、征十郎はテツの手を取り、自分の頬に当てた。
「やっと約束してくれたのに、どうして? どうして……オレを置いていった? ずっと一緒にいてくれるって言ったのに」
テツの手は血に濡れていたが、征十郎は構わなかった。初めて見る死体より、なんの躊躇いも見せない征十郎の方が不気味だった。
病院に着いてしばらくは征十郎と一緒にいたが、後から来た警察に事情聴取をされ、住所と連絡先を言えば解放された。征十郎のことを聞いたが、答えてもらえなかった。
オレはそこから紫原が帰ってくるまでの記憶がない。知り合いの死体を見たことが、思った以上に堪えたみたいだ。
夕方のニュースが始まる時間に紫原は帰ってきて、無言でテレビを点けた。手に握られているのは、いつものスナック菓子ではなくケータイだった。何度もチャンネルを切り替えるのをぼんやり見つめていたが、テレビから聞こえてきた名前に耳を疑った。
──先ほどからお伝えしています『赤司征十郎君誘拐事件』の容疑者ですが、今日の午前一時に都内の病院で死亡が確認されました。自殺と見られています。黒子テツヤ容疑者は……
あの極端に影が薄いテツの名前が、テレビ画面から聞こえてくる。しかも容疑者なんて言葉を付けられて。どうすればいいかわからず紫原を見れば、ケータイを顔に押しつけられた。そこには今より幼い征十郎が映っていて、いつの間にもらったんだと思ったが、すぐに自分の間違いに気付く。
画面に映っていたのは、某大型掲示板だった。オレが高校の時騒がれた『赤司征十郎君誘拐事件』について書いてあり、下にスライドさせれば『ショタに目覚めた』とか『これは攫う』という無責任な字が躍る。
「目の色違うけど、これ絶対征ちんだよね」
「なんだよコレ」
「オレだって知んないし。……ただ征ちんがこの赤司征十郎で、今テレビで言ってた黒子テツヤが黒ちんなら」
二人は兄弟じゃないよね。続けられた言葉に、目の前が真っ暗になった。
その後も様々なことが判明した。征十郎の本名は赤司征十郎だということ。本当は小学二年生だということ。そしてテツは征十郎を攫った誘拐犯で、二人は兄弟ではないということ。
真実を知った時、オレたちは言葉を失った。だが、紫原だけは違った。二人が兄弟でないと聞くと、良かったと言った。
「だってあの二人、気持ち悪かったじゃん」
菓子で口をもごもごさせ、一見普段と変わらないように見えた。
「単体なら好きだったよ、征ちんも黒ちんも。けどさ、あの二人そろってると気持ち悪かったじゃん。アレで本当の兄弟とか、将来悲惨だし。近親相姦なんて、あり得ないでしょ?」
オレには兄弟がいないから、紫原が言うことはわからない。確かにあの二人はいつも一緒で、仲が良すぎるくらいだった。けれど、荒れた庭の中で抱き合う二人の姿は、いっそ神聖にすら感じた。
****************
オレは大学を卒業すると警察官になった。社会人になれば時間はあっという間に過ぎるモンで、気付けばアラフォーなんて呼ばれる年齢になっていた。今日は非番だが、大学病院の大先生になられた緑間から『人間ドックに来い!』と言われ、貴重な休みを台無しにしている。
車から降りると、十階建ての病院を見上げた。白い壁がベージュに塗り直された以外は、何も変わらない姿で因縁の病院は建っていた。この病院はテツが運ばれた病院だ。緑間が勤めてなければ、絶対来なかった忌わしい場所でもある。
事件の後、二人が住んでいた家は物好きが大量に押し寄せ、一月も経たぬうちに取り壊された。オレが卒業するまで空き地のままだったが、その後どうなったかは知らない。征十郎に関しても、京都にいる実の親の所へ帰ったと聞いただけで、他のことは何もわからない。
あの兄弟(本当は誘拐犯と被害者だが)とオレたちを繋げるモンはなくなり、記憶は薄れ、いつしか忘れるだろうと思っていた。だが、現実はそう上手くいかない。
「影薄いくせに、いつまでも居座りやがって。テツ図太かったからな」
乾いた笑いが漏れる。相手は憎むべき犯罪者なのに、オレは未だテツを悪く思えない。たった半年の付き合いだが、アイツがいかにバスケ好きで頑固で正義感強くて、優しかったか知ってしまったせいだろう。……征十郎も、オレと同じじゃないだろうか。
「おっと、失礼」
物思いに耽ていると、ドンと腕に何かぶつかる感触がし、すぐ謝罪の言葉が聞こえた。
「いや、こっちこそ……」
悪かったな。そう続けたかったが、言葉にならなかった。オレにぶつかったのは、鮮やかな赤い髪をした男だった。『ボクと違って美人さんですよ?』と言われたキレイな顔が、大人になれば目の前の男みたいになるんじゃないか。
相手もオレに覚えがあるのか、オレの顔を凝視したまま視線を逸らさない。口から出かかった言葉を止めたのは、子供の声だった。
「どうしましたか?」
男に気を取られて、全く気付かなかった。水色の髪をした色の白い子供だった。幼稚園にいっているかいないか、それくらいの年だ。男はその言葉で我に返り、なんでもないよと微笑むと、子供の手を引き去っていった。
「違う、アレは征十郎じゃない」
二人の姿が見えなくなった後、オレはようやくそれだけ言えた。オレにぶつかった男は、征十郎にそっくりではあった。だが、目の色が違う。あの男は両目とも黒かった。必死に自分の馬鹿な考えを否定するが、それでも手を繋いで歩く後ろ姿が、頭から消えない。
待合室で待っている間も、駐車場で会った男のことで頭が一杯だった。こんな時に限ってオレの番はなかなか回ってこず、気を紛らわすため持ってきた競馬新聞を広げる。しかし、広げた途端取り上げられてしまった。
「病院でこんな品性のない物を読むな」
「んだと? オマエ、競馬は紳士の嗜みだって知らねーのかよ。馬なめんな」
「オマエがやっている時点で、紳士の嗜みではないのだよ」
心底馬鹿にした目をして、緑間がオレを見下げた。デフォルトみたいなモンだが、眉間に皺が盛大に寄っている。
「まあいい。付いてこい」
「オマエ、人間ドックやってたのかよ」
「馬鹿め。オレは心臓外科医だ」
「あぁ? オレあと少しで順番……」
「担当には話してある。病院で騒ぐな」
緑間は人の話を聞かず、スタスタ歩いていく。……ああ、コイツはこういうヤツだった。オレたちの中では常識人みたいな扱いされていたが、周りの迷惑考えずおは朝のラッキーアイテム持ち歩く自己中ヤローだ。
人がこめかみに青筋浮かべているのもまったく無視で、緑間は関係者専用のエレベーターに乗り込んだ。そのうえ、早くしろとオレを急かす。仕方なく乗り込めば、オレたちの他に乗っていたのは、けっこう胸がデカい看護師だけだった。
緑間はオレの視線に気付くと、不快そうに顔を引きつらせたが、咳払いをし眼鏡のフレームを押し上げた。
「昨日急患で、二十代前半の女性が運ばれてきた。過労による発熱で症状はすぐ回復したんだが、錯乱していて退院手続きができずに困っているのだよ」
「それがオレとどう関係あるんだ?」
「『警察を呼べ』と暴れ、こちらの話をまったく聞かないし、訳も話さない。オレは薬を使うのも手だと思うのだが、担当医が可能な限り薬を使わない方針のヤツでな」
「それでオレかよ。非番の警官使わずに、自分たちだけでどうにかしろ。警察は何でも屋じゃねーんだぞ」
「善良な国民が困っているのに、公僕の発言とは思えないのだよ。仕方ない、後でおしるこを奢ってやろう」
「いらねーよ!」
「病院で騒ぐな」
目的の階に着くと、途端つんざくような女の叫びが聞こえてきた。
「……て、離……よ!」
甲高い声で部分部分しか聞き取れないが、どれだけ取り乱しているかはわかる。確かにこれは面倒そうだ。緑間に案内され病室の前に行くと、声は一層大きくなり、耳を塞ぎたくなるほどだった。
病室では、若い女がベッドの上で暴れていた。小柄な体のどこにそんな力があるのか、若い看護師の男が二人がかりで押さえているのに、看護師の方が苦戦している。右手の男にいたっては、頬が赤く腫れている。ご愁傷様だ。
「落ち着いて、な? 警察呼ぶ前に、オレに話聞かせてくれません?」
「いいから警察呼んでよ!!」
オレたちと同年代の男が女を落ち着かせようとしているが、火に油のようだ。女はますます声を荒げ、暴れ続ける。
「高尾」
「真ちゃん! いや~待ってたぜ」
「患者の前で、その呼び方はやめろ」
「休みのとこ悪いな青峰! 久しぶりに会っていきなりだけど、ちょっと頼むわ」
そう言って両手を合わせてくるのは、緑間の高校時代の相棒だ。バスケの試合で何度か対戦したから覚えている。年を取ったが、飄々とした雰囲気はそのままだった。
オレは上着の胸ポケットを探り、期待されている物を取り出す。最近になって勤務時間外の携帯が許可されたとはいえ、この使い方はアウトだろ。……この場にチクるヤツがいないことを祈る。
「アンタが呼んでた警察だ」
警察手帳を見せると、女の動きがピタリとやんだ。水色の瞳が、これでもかというくらい大きく見開かれる。
「ほら、さっさと警察呼ぶ理由話せよ。なんで騒いでんのか知らねーけど、病院困らせていい理由にはなんねーぞ」
警察手帳を見せたまま、女が暴れるベッドに腰かける。女はみるみるうちに大人しくなり、暴れていた時には気付かなかったが、未成年にも見える幼い顔つきをしていた。さらによく見れば、色は白くて目もデカイし、地味だが美人の部類に入るだろう。
「刑事さん、私……私……」
刑事ではないが、訂正する必要はない。その後の言葉を待ったが、女は急にベッドから飛び降り、土下座してきた。
「お、おい」
「刑事さん、お願いします! あの子を探してください。あの子は優しい子なんです、倒れた私を放っていなくなるような子じゃないんです! それなのに、私……私が全部悪いんです。仕事のイライラをあの子にぶつけて、全部悪いのは私なんです。もうあの子にひどいことしませんから、探してください。あの子だけが生きがいなんです、お願いします!」
「落ち着け! まずは順番にしゃべってみろ」
顔を上げさせようとするが、床に頭をつけ女は叫び続ける。
「哲也を探してください! 哲也を助けてください! お願いします、哲也を助けてください!」
──オレは怪我してない、それよりテツヤが! お願いします、テツヤを助けてください!
必死の形相で、オレに助けを求めた子供が思い浮かんだ。そして、次に思い起こされたのが駐車場で会った男。オレを見て驚いた顔をしていた。
「(何考えてんだよオレは。たまたま同じ名前なだけで)」
駐車場の男と一緒にいた子供は、目の前の女と同じ色の髪をしていた。顔は思い出せない、存在感の薄い子供だったから。
「(違う、あの男の目は黒かったじゃないか)」
そうだ、あの男は征十郎じゃない。征十郎じゃない。征十郎じゃない!
Side Red ②
死んだ人間との約束など無効だと言っても、テツヤはおじいさんとの約束を反故にしてくれなかった。僕がいくら泣こうと、テツヤは困った顔をするだけだった。
僕はテツヤといるためなら何でもできたから、ある約束をしてもらった。
「おじいさんは、二十歳になったらすぐ来いって言った?」
「いいえ」
「それなら二十一になる直前まで、オレと一緒にいるって約束して」
「いいですよ」
テツヤは驚くほど簡単に、僕の願いを叶えてくれた。
「それからおじいさんは、テツヤ一人で来いって言った?」
「いいえ」
「だったら! オレも一緒に連れていって」
先ほどの約束より、ずっと簡単だと思ったのに。テツヤは頑なだった。
「それだけはできません」
「どうして!? おじいさんとの約束には違反しないだろ!」
「ダメなものはダメです!」
僕はその日、初めてテツヤとケンカした。それからもずっと同じことでケンカし、テツヤが二十一になる前日の一月三十日になっても、決着はつかなかった。
僕は朝からテツヤに約束を迫り、普段昼食を食べ終わる時間になっても、テツヤを離さなかった。テツヤが痺れを切らし、僕を押しのけて買い物にいこうとした時、僕の中で何かが弾けた。裸足のまま彼を追い、その背に抱き付いた。
「何してるんですか! 足をケガしたら……」
「どうして約束してくれないんだ!?」
僕が第三者なら目を覆いたくなる有り様、そこにいたのは聞き分けのないただの子供だった。僕はがむしゃらにテツヤの体を叩き、怒りとか悲しみとか恐れとか、そういった感情を全部テツヤにぶつけた。
いくら子供の力とはいえ痛いだろうに、テツヤは黙って僕の好きにさせた。それがまた癪に触り、テツヤの体を叩き続けた。
「テツヤ、テツヤってば! なんとか言えよ」
「……征十郎君」
「嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ!!」
見兼ねたテツヤが僕の名を呼ぶが、これ以上拒絶の言葉を聞きたくなくて耳を塞いだ。けれど、テツヤはそっと僕の手を下ろし、そのまま僕を抱きしめた。
「わかりました。約束しましょう」
「オレも連れていってくれる?」
「キミの側にずっといますよ。ボクの可愛くて甘えん坊な王様」
だが、それはうそだった。テツヤは僕に毒と偽り睡眠薬を飲ませると、自分は包丁で頸動脈を切って自殺した。目を覚ました僕は向かいの家に助けを求めたが、無駄だった。僕はテツヤの葬式に出ることもできず、父の元に連れ戻された。
僕がいない二年の間に、父は東京支店から京都本社に異動し、家も勤める使用人も学校も、僕が知るものは何も残っていなかった。だが、それからの日常は以前となんら変わらなかった。習い事で埋め尽くされた一日に、僕を厭う父と不気味がる使用人、教師、同級生。
「……『僕』を愛してくれるのは、テツヤだけだ」
父は僕が戻ってきても、テツヤのように抱きしめてはくれなかった。ただ僕に、王様の目を隠すよう命じただけだ。
強くなりたいと思った。奇跡が起こってまたテツヤに出会えた時、もう置いていかれないような強い人間になりたいと思った。
「待っていてテツヤ。僕は強くなる」
父や家の意思は関係なく、僕はすべてにおいて勝つことを目指した。辛いと感じることもあったが、テツヤを思えばささいなことで、いつしか息をするように勝利を収める人間になっていた。
僕は大学を卒業した後、父の会社に入社した。周りは跡を継ぐためと思っているが、僕からすれは手っ取り早く力を得るための手段にすぎなかった。表向きは父に従順に従っており、命じられれば祖父の見舞いのため東京へも行った。
赤司グループの基となった会社は京都発祥で、今時珍しくグループの中核機能は京都に残っている。だから先代トップである祖父はずっと京都住まいだったのだが、心臓を患い、心臓に強いとされる東京の病院へ入院した。
そこまでして生にしがみつく価値が彼にあるとは思えないが、僕には関係のない話だ。模範的な孫を演じると、仕事を理由に早々と退席した。そしてその足で、病院の喫煙室へ行き一服吸っていた。煙草を美味いと思ったことはないが、僕にとって喫煙は日々のノルマだった。一日三箱を目安に吸っている。
我ながら滑稽だと思うが、僕は早く死にたかった。いつかテツヤに会えるという望みが捨てきれない一方で、あの世に行かない限り再会はないともわかっている。その矛盾が、喫煙という間接的な自殺を選ばせた。
作業として煙草を吸っていると、喫煙室の扉がわずかに開いた。だが、何故か人の姿が見えない。この病院の喫煙室は駐車場横の屋外に設けられていて、風が吹いた拍子に開いたかと思ったが、すぐに引き戸だと思い出す。
「こんにちは」
挨拶をされ、ようやく視界に入らない小さな子供が来たのだとわかった。どうして子供が喫煙室にと思う前に、彼の容姿に釘付けになった。
「テツ……ヤ?」
彼は昔アルバムで見た、小さな頃のテツヤにそっくりだった。空色の髪も大きな瞳も、白い肌も儚げな雰囲気も、全部テツヤだった。
「おにいさんは、どうしてぼくのおなまえ、しってるんですか?」
子供なのに丁寧な喋り方をし、テツヤそっくりの顔で首を傾げる。僕は自分の愚かさに嫌気が差した。テツヤは誠実な人だ。死んだ人間との約束でさえ大切にした。それならば、死してなお約束を守るため、僕の元に戻ってきてもおかしくないじゃないか。
テツヤが僕にしてくれたように、視線を合わせるため膝を曲げれば、変わらぬ綺麗な瞳が僕を映していた。あの日血だまりの中で閉じた目が、もう一度僕を見ているのだと思うと、胸に熱いものが込み上げてきた。
「当然だろ? 僕はテツヤの弟なんだから」
「おにいさんはおかあさんよりおとなだから、ぼくのおとうとじゃありません」
「血が繋がらず、たとえ年齢が逆になろうと、僕たちの関係は変わらない。僕は君の弟だ。そして君が僕のお兄さん」
「ぼく、おにいさんのことしりません」
「今はね。大丈夫、すぐに思い出すよ」
テツヤは黙ってしまったが、未だ腑に落ちない顔をしている。きっと何もかも忘れてしまったのだろう、相変わらず酷い人だ。けれど覚えていないなら、思い出してくれるまで待つだけだ。僕は賭けに出た。
「お母さんはどうしたの?」
すると目を伏せ、服の裾をぎゅっと握った。
「おかあさん、おしごといっぱいたいへんで、きのうきゅーきゅーしゃでびょういんにきたんです。ぼく、おかあさんがよくなるまで、まっててっていわれたけど、おかあさんのことしんぱいで、おかあさん、いつもたばこのまーくのおへやにいるから、ここにいるとおもったのに、いませんでした」
母親が急に倒れて一緒に病院に来たが、病院の人間が目を離した隙に母親を探しにきた……というので、だいたい当たっているだろう。もしかしたらテツヤのことだから、あまりの影の薄さに忘れられたのかもしれない。
「そうか、ここで待っていて正解だった。僕はテツヤのお母さんに頼まれて、テツヤを探していたんだ。急にいなくなったから心配したよ」
「おにいさんは、おかあさんのおともだちですか?」
「ああ。お母さんはね、しばらく入院しないといけなくなったんだ。とても重い病気で、誰も会えないICUって部屋にいるんだ」
「おかあさん、しんじゃいやです」
テツヤの目に、みるみるうちに涙が溜まっていく。テツヤが泣くなんて信じられないが、涙を流す姿に心が痛んだ。自然と手が頭に伸びたが、テツヤの体が大げさなほど跳ねる。
どうしたのだろう、慣れていないせいか? だが、向かいの大学生たちには好きにさせていた。気が合わないと互いに言った男の、テーピングが巻かれた手にも触れさせていたのに。
「ご、ごめんなさい」
「気にしないで。テツヤ、お父さんは今どこにいるかわかる?」
「ぼく、おとうさん、しら……、な……」
我慢できずついに泣き始めたのが可哀想で、僕はそっと頭に手を乗せたが、今度は拒絶されなかった。俯いて泣くテツヤは、僕の顔が笑っていることに気付かない。
僕は本当に運が良い。シングルマザーは、社会的弱者になりやすい。弱者であればあるほど、行方不明の子供を探す手段は狭まる。
「お母さんが入院している間、僕がテツヤの面倒を見ることになったんだ。テツヤはいい子にして、お母さんが良くなるのを待てるね?」
テツヤは泣きながら何度も頷く。だが、これ以上泣くまいと唇を噛みしめているので、駄目だよと人差し指をそっと乗せた。
しかし、いつまでもこうしてはいられない。幸い喫煙室に僕以外はいないが、いつ人が来てもおかしくない。
「僕の家は京都にあって、帰るのに少し時間がかかるんだ。ちょっと退屈かもしれないけど、いい子にできるね?」
「はい」
「後でバニラシェイク買ってあげる」
行こうかと声をかけ手を差し出せば、テツヤは少し戸惑った後、僕の手を握った。小さくなっても、テツヤの手は昔と同じように温かかった。
****************
「おにいさんがおにいさんじゃないなら、おにいさんをどうよべばいいですか?」
「征十郎君と、そう呼んで。……あの頃と同じように」
京都へ向かう新幹線でお願いしたとおり、テツヤは僕を名前で呼んでくれるようになった。
「せいじゅうろうくん」
舌足らずな言い方だが、僕の名前を呼んでくれる。たったそれだけのことでも、僕には何事にも変え難い幸せだ。飲んでいたコーヒーをテーブルに置くと、なあに? と聞き返す。声は自然と甘ったるくなった。
「あのですね」
「うん?」
「これ、よんでください」
俯いたり顔を上げたりを繰り返し、やっと胸に抱えた絵本を差し出した。顎で大輝や涼太を使っていたあの頃とは、雲泥の差だ。僕は苦笑しつつ、テツヤの脇に手を差し膝の上に乗せた。
これでも家に連れてきた当初と比べれば、格段に良くなった。当初は必要以上に気を遣い、何か買い与えようとすれば遠慮し、身の回りのこともすべて自分でやろうとした。
「さむい冬が北方から、きつねの親子のすんでいる森へもやってきました。ある朝、ほらあなから……」
絵本を読む傍ら、僕は考える。何故テツヤは再会した時、頭にかざされた手を怖がったのか。何故大人の顔色をうかがい、迷惑をかけまいと必死になるのか。何故こんなに本が好きなのに、文字が一つも読めないのか。……僕の導き出した結論は、恐らく正しい。
「(死んでしまえばいいのに)」
テツヤに吐いたうそのように、重い病気になってそのまま死んでしまえばいいのに。テツヤを傷つけるなんて、絶対に許せない。声が強張ってしまったのか、大人しく聞いていたテツヤが僕を見上げる。
「どこかいたいんですか?」
僕の声のトーンが下がったのは、痛みが原因だと思ったらしい。僕はううんと首を振った後、彼の体を後ろから包み込んだ。この一週間で、体に触れても怖がらなくなった。
「どこも痛くないよ。テツヤが一緒にいてくれるから、どこも痛くない」
「いたくなったら、いつでもいってください。ぼく、おまじないしてあげます」
「おまじない?」
「はい。いたいのいたいの、とんでいけー」
僕の胸をさすり、『とんでいけ』のタイミングで手を離す。可愛らしい仕草に、思わず頬が緩んだ。こういう時、この子は本当にテツヤなんだと実感する。僕のことを心配して愛してくれるのは、テツヤだけだ。
気を取り直して絵本を再開しようとした時、チャイムの音がした。壁にかかった時計を見れば、いつの間にか約束の時間になっていた。インタホーンに出てエントランスの扉を開ければ、数分もしないうちに今度は玄関のチャイムが鳴る。
「初めまして、よく来てくださいました。虹村修造さん」
「……」
戸を開けた先にいたのは、虹村修造という男性だった。顔立ちは悪くないが、こちらを警戒しているのも相まって、なかなかの強面だ。今のテツヤは怖がってしまうかもしれないと、少し不安になった。
虹村さんは仮にも再就職先に来るというのに、パーカーにジーンズとラフな格好をしていた。僕の視線に何を思ったか、スーツで子守させるつもりかと睨まれた。そのままリビングに案内したのだが、ソファに座るテツヤを見て彼の足が止まった。
「テツヤ、おいで」
テツヤは絵本を脇に置くと、小走りで僕の元へ走ってくる。表情は変わっていないが、どことなく緊張しているのが伝わってきた。僕は安心させるため、彼の肩に手を置くと、ご挨拶をと促した。
「こんにちは、くろこてつやです」
「よくできました」
彼には家の中では黒子、家の外では赤司を名乗るように言ってある。褒めてあげれば恥ずかしいのか、僕の服の裾を掴んで顔を埋めてしまった。可愛いと頭をなでたが、虹村さんが黙っていなかった。
「ふざけんな! 一体何考えてんだ!?」
「いきなり大声を出さないでください。テツヤが怖がるじゃないですか」
「何が『テツヤ』だ! テツヤそっくりな子供に黒子テツヤ名乗らせて、オマエの思惑はなんだ!? 今更オレたちに何しろって……」
「僕はただ、貴方のお力が借りたいだけですよ『修造兄さん』」
彼こそが、テツヤの話に度々出てきた従兄の修造兄さんだ。テツヤの記憶が戻った時、近くにいるのは見知らぬ他人より身内がいいだろうと、テツヤの身内で彼の世話ができる人を探していた。
そんな時、ちょうど虹村さんが再就職先を探していると知り、彼に頼むことにした。赤司征十郎の名で黒子テツヤの面倒を見てほしいと頼めば、電話越しでも彼が警戒しているのがわかった。
彼からすれば、僕はテツヤに誘拐された被害者だ。従弟が犯した犯罪をネタに、強請られるとでも思ったのだろう。だが、放っておくわけにもいかず、こうして僕に会いにきた。
「お会いしたことはなかったが、貴方の話はよくテツヤから聞きました。テツヤのことを、実の弟のように可愛がってくれたと。……この子は正真正銘、黒子テツヤだ」
怯えてすっかり小さくなってしまったテツヤを抱き上げる。空色の髪が僕の顔にかかり、自然と笑みが浮かんだ。
「今は何も覚えていませんが、きっと僕たちのことを思い出す。記憶を取り戻した時側にいるのが、従兄の貴方ならテツヤも安心するでしょう?」
ねえテツヤと、今度はテツヤに話しかける。
「こちらは虹村修造さん、明日から君のお世話をしてくれる人だ。怖く見えても、本当は面倒見のいい人だから大丈夫。以前の君もよく懐いていた」
本音を言えば、他者の介入を許さず、昔のように二人きりの生活を送りたかった。けれど仕事がある以上、そうはいかない。僕の代わりに、幼い彼の世話をする人物が必要だった。
「ぼく、ひとりでおるすばんできます」
「駄目」
「ちゃんとできます。いままでも、ひとりでおるすばんしてました」
頬を膨らまし、テツヤが反論する。恐らく、テツヤの言っていることは本当だろう。ここ一週間、それとなく普段の暮らしぶりを聞き出してみたが、保育園や幼稚園はおろか、どこかに預けられている形跡はなかった。
「本を読めるようになりたいんだろ?」
本という単語に反応し、視線だけ僕に向けてくる。テツヤはあまり表情が変わらないのに、瞳はとても雄弁だ。その目はイエスと言っていた。
「そのためには勉強が必要だ。でも、一人じゃできないだろ? ……ああ、虹村さん。心配しないでください。今の生活に慣れれば、すぐに入園手続きをしますので。貴方は必要最低限のことだけ教えてくれれば結構です」
「オマエ、今幸せか?」
虹村さんが突然、脈略のないことを聞いてくる。趣旨はわからないが、僕の答えは決まっている。
「ええ、とても」
テツヤが戻ってきてくれたのだ。これ以上の幸せはない。虹村さんは僕の答えを聞くと、口を尖らせて頭をかきむしり、続いてテツヤの頭をぽんぽんと叩いた。
「あ~、悪かったな驚かせて。これからよろしくな」
「テツヤ、虹村さんは謝ってくれたよ。こういう時、なんて言うの?」
「……もういいよ」
「いい子だ」
最初こそ虹村さんを警戒していたテツヤだが、彼が帰る頃にはすっかり懐いていた。虹村さんの顔を見て、『あひるさんのおくちです』とまで言ってのけたのだから、この先も大丈夫だろう。あまりに懐くのが早くて思うところもあるが、彼とは僕より長い付き合いなのだ。それも致し方ないと自分を納得させた。
「せいじゅうろうくんは、とってもしんせつです」
その晩、風呂から上がりパジャマに着替えさせていると、何を思ったのかそんなことを言ってきた。
「おかしもえほんもかってくれます」
「テツヤが遠慮しなければ、もっといっぱい買ってあげる」
「なんでですか? おかあさんのおともだちだからですか?」
「あんな女は関係ない。君が僕のお兄さんだから、僕の所に戻ってきてくれたから。……それだけだ、他に理由なんてないよ」
納得はしていないようだが、彼の中では一区切りついたらしい。今度は別の質問をしてきた。
「ぼく、まえに、にじむらさんとあったこと、あるんですか?」
「うん。ずっと昔にね。そのうち思い出すさ」
「なんでおたばこ、すてたんですか? もったいないです」
「君が側にいるから、吸う必要がなくなったんだ」
「どうしてせいじゅうろうくんは、ひるとよるで、めのいろがちがうんですか?」
カラーコンタクトの存在を知らないテツヤからすれば、夜になると赤と橙に変化する目が、不思議で仕方ないのだろう。
「ぼく、よるのめのほうが、きらきらしててきれいですきです」
「王様の目っていうんだよ」
君が教えてくれたんだと言ったが、首を傾げてしまった。
「昼間も、今と同じ目の方がいい?」
「はい!」
「わかった」
何不自由のない暮らし、最高の教育、輝かしい未来。テツヤ、すべて君に捧げよう。君が僕を幸せにしてくれたように、今度は僕が君を幸せにしてあげる。
そうすれば、おじいさんの所に帰ったりせず、僕の側にずっといてくれるよね?
Side Other Collar ~green~
看護師から高尾先生が困っていると相談を受けた。高尾は高校で知り合った部活の……相棒と言ってやってもいいのだよ……で、大学は違ったがなんの縁か同じ病院で働くことになった。話を聞くところによると、若い女性が急患で運ばれてきたのだが、意識を取り戻すなり警察を呼べと暴れ出したらしい。
本来なら同じ科の医師に相談すべきだが、高尾が何かとオレにかまうので、周りはオレたちの仲が良いと勘違いしていた。下僕のことなど知ったことではないが、今日のおは朝で蟹座のキーセンテンスは『情けは人のためならず』だった。警察官になった青峰の受診日でもあったので、ヤツを使うことにした。
しかし、おは朝を恨む日が来るとは夢にも思わなかった。この結果が、誰のためになるというのか。
「哲也を探してください! 哲也を助けてください! お願いします、哲也を助けてください!」
女性は青峰に頭を下げ続け、いなくなった子供を探してほしいと訴えた。女性の子供の名を知っていれば、青峰に会わせたりしなかった。黒子の件で、一番心に傷を負ったのは青峰だ。アイツは黒子と最も親しく、さらに遺体まで目撃しているのだから。
黒子テツヤは、気に食わない男だった。本の趣味以外で、気が合った試しはない。B型のオレとA型の黒子とでは相性が最悪だから、当然といえば当然かもしれないが、黒子テツヤという人物は理解し難かった。そして、これから先も理解することはないだろう。自ら命を絶つヤツのことなど、一生理解できない。
黒子が自殺した日、オレは高校時代の先輩方と一緒に、高尾の家に泊まりにいっていた。翌朝いつものようにおは朝を見ていると、世間を一時騒がせた『赤司征十郎君誘拐事件』の容疑者が自殺したというニュースが流れ、容疑者は黒子テツヤという聞き慣れた名だった。
帰宅して待っていたのは、パソコンに映る容疑者の写真。紫原がネットから探し当てたもので、中学の制服を着る少年は、オレの知る黒子テツヤに違いなかった。
事件が起きてからすぐ春休みとなり、黒子たちのいない生活が日常となってきた頃だ。入っていたバスケサークルで飲み会があり、あるOBが顔を出した。オレと入れ違いで卒業したため面識はなかったが、医学部出身のOBだった。
「『赤司征十郎君誘拐事件』って覚えてる?」
オレたちは同じテーブルになり、彼は飲み始めてすぐ赤くなった顔でそう言った。
「あの容疑者が運ばれた病院、うちの病院だったんだよ」
「え~、そうなんですかぁ。先輩、犯人見たんです?」
隣に座った同期の女子が、媚びた声を出す。彼は自分は直接見てはいないと前置きしたうえで、黒子の首の傷について話し始めた。大げさな身振り手振りを加えて説明し、その様子はどこか得意げだった。
「ま、もっとひどい遺体はいくらでもあるから。それより誘拐された子供の方が大変でさ」
「征十郎君、めちゃくちゃ可愛いですよね!」
「不謹慎だぞおい」
同じテーブルの先輩が、笑いながら同期を咎める。
「途中で例の事件だってわかって、子供保護しないといけないじゃん? だから安置所から別の部屋に連れていこうとしたのに、すごく嫌がって。遺体にすがってテツヤ、テツヤって――ああ、犯人の名前ね――連呼して。担当した先輩、涙腺ヤバかったって言ってた」
「あの事件、二年くらい誘拐されてたんですっけ? 子供って薄情っすね、オレ親だったらショックだわ」
「私たちの二年と子供の二年は、全然違いますよ~」
「いや、それがさ。聞いた話によると誘拐された子、虹彩異色症なんだと。ああ、オッドアイのことね。で、ここからは某掲示板情報だけど、父親は迷信深くて、左右の目の色が違うだけで化け物扱い。養育はするけど愛情は与えません、みたいな? 赤司グループって進んでるイメージあったけど、トップの実態はそんなモンらしいぜ」
「私が聞いたのだと、奥さんが実は浮気してて、赤司社長の子供じゃないっていうのもありました」
「マジか。ま、だからって犯人にあそこまで懐くのもバカだよな」
ガシャン。
ビールジョッキが倒れる音で、盛り上がった会話は一瞬にして静かになった。
「すみません」
オレが思ってもない謝罪を口にすると、再び場は騒がしくなった。
「やだ、先輩大丈夫ですかぁ?」
「おいおい、勘弁してくれよ」
「すみませ~ん、おしぼりください!」
服の前面がビールで濡れ、情けない声を出すOB。おしぼりで代わりに服を拭く同期、先輩は店員を呼びとめ新しいおしぼりを頼んだ。
大学生になって、オレは随分と大人になった。高校までのオレならば、迷わず顔にぶっかけてやった。あの兄弟のことを何も知らないくせに、軽口を叩くのが許せなかった。
だが同時に、黒子への怒りも覚えた。あれほど自分を慕っていた征十郎を残し、何故自殺したのか。犯罪を正当化するつもりは毛頭ない。征十郎が実の家族の元へ帰れたのは、喜ばしいことだ。
それでもオレは、征十郎が哀れでならなかった。
****************
あの事件の時から倍近い年齢になり、忘れはしないが強い憤りは薄れていた。それなのに、また蒸し返される日が来ようとは。
青峰は女性の訴えを聞くと、事件性があると判断し担当部署へ連絡を取った。女性は幾分か落ち着きを取り戻し、今は警察の事情聴取に答えている。
「征十郎に会ったというのか」
オレと青峰は一段落つき、休憩スペースの自動販売機で互いに飲み物を買っていた。そこで青峰は、病院の駐車場で征十郎に会ったと打ち明けたのだ。
「正確には征十郎っぽいヤツに、だ。顔立ちに面影があったし、あのガキと思えない雰囲気もそのまんまだったが、目の色は両方黒かった」
それだけならまだしも、その男は水色の髪をした小さな子供を連れていたと言う。
「存在感ないヤツで、顔は思い出せねーが、髪の色は水色だ。あの女が言ってた子供の年齢より小さく見えたけど、子供の年齢なんてわかんねーよな。征十郎が小二だって、オレたちわかんなかったし」
「まさか! できすぎなのだよ」
「ああ、できすぎだ。征十郎みたいな男が、テツに似た、テツと同じ名前のガキ連れてるなんてよ」
「……調べるのか?」
あえて誰をとは言わない。だが青峰は、何も言わず頷いた。
「医者として、これだけは言っておこう」
飲み切ったおしるこ缶を放ると、缶は弧を描きゴミ箱の真ん中に落ちた。バスケをしなくなって久しいが、この程度の距離オレには問題ない。
「虹彩の色が変わることはあり得る。事故や病気、場合によっては自然に変化することもある。日本人はほとんどないがな。だから虹彩の色が昔と違うからといって、すなわち別人とは限らない。それに」
「それに?」
「今の時代、カラーコンタクトという便利な物がある。赤と橙の虹彩異色症など目立って仕方ないからな、普段は黒のカラーコンタクトで隠している可能性は十分あるのだよ」
青峰は人間ドックを受けずに帰っていった。
オレはその晩、将棋セットを買って帰った。征十郎との勝負で使っていた盤と駒とは比較にならない、陳腐な携帯用だった。それでも駒を盤に差せば、あの頃のことが鮮明に思い浮かんだ。
征十郎は子供と思えないほど強かった。結局、オレは一度も勝てなかった。黒子曰く、たった一度の説明でルールを理解したというのだから、飛び抜けて頭のいい子供でもあった。
「将来棋士になれますね」
オレたちの勝負を観戦していた黒子がそんなことを言い、征十郎も満更ではなさそうだった。
もし黒子が生きていたら、征十郎は今頃有名な棋士になっていたかもしれない。アイツは利口だが、恐ろしく単純だ。黒子が喜ぶなら、棋士の道を選んだだろう。
王将を手にした時、それはオレの駒ですよと、征十郎が言っていたのを思い出した。
「テツヤがオレの目を、王様の目だと言うんです。まったく、詩人だとは思いませんか?」
子供らしくない言いぶりは相変わらずだったが、その表情は年相応で、屈託なく笑っていた。
青峰に助言しておきながら、オレはアイツが会った男が、征十郎だとは思えなかった。征十郎が黒子に褒められた瞳を隠すとは考えにくい。
しかし一方で、征十郎の可能性も捨てきれなかった。征十郎にとって、黒子はすべてだった。アイツが黒子と似た子供を見つけた時、正気でいられるとは思えない。
「本当にオマエは気に食わん男だ、黒子」
あれほど才能のある子供を犯罪に走らせたのならば、オレはオマエを許さない。何も言わず消えたオマエを、生涯許すことはない。
Side Other Collar ~purple~
製菓の専門学校を出て、先生の知り合いのケーキ屋に就職した。そこの店主が年ですぐに引退して、オレが跡を継ぐことになって。気付けば雑誌やテレビで紹介される人気店になっていた。
辛いことは少ない方がいいに決まってるけど、我ながらこんな苦労知らずでいいのかなとは思う。オレが苦労したことといえば、作業場のドアが低すぎて頭を打つくらいだし。
人気店になって儲けた金で、作業場をオレ仕様に改築できたのは良かったけど、同時にウザいこともいっぱい付いてきた。コンテストに出ろとかチェーン店出さないかとか、周りがすげーうるさい。そういうの全然興味ないって言ってんのに、あいつらの耳腐ってるんじゃね?
あんまりうるさいから、腕のいい子に全部押しつ……任せて、お菓子修行に出ることにした。洋菓子やってんだからフランスとか行けばいいんだろうが、慣れ親しんだ日本のスナック菓子が食べれなくなるのはアウト。そこで、学生時代ほとんどやらなかった和菓子を勉強することにした。場所は東京から離れたい一心で、京都を選択してみた。
京都に行く前に、黄瀬ちんとミドチンと飲むことにした。峰ちんも呼んだんだけど、忙しいとか言って断られた。モデルから俳優に転身して引っ張りだこの黄瀬ちんと、急患当たり前の医者のミドチンが来れて、万年平社員もとい平警官の峰ちんが忙しいからダメとかどうよ。ま、峰ちんとそこまで仲良くなかったし、別にいいんだけどさ。
「京都、か……」
「偶然っスね、オレも近々撮影で京都行くんスよ。紫っち、京都でも飲まない?」
「気が向けばね」
「ひどっ!」
黄瀬ちんはすっかり酔っぱらってケタケタ笑っているが、ミドチンの様子がおかしかった。
オレが京都に行くと言ってから、顔が青くなった。酔ったのではない、ミドチンは酔ったら赤くなるタイプだから。
「京都になんかあんの?」
「いや、別に」
言葉を濁すが、明らかに何かある。ミドチンはいつもむっつりしてるけど、何考えてるかはわりとわかりやすい。見るからに言おうかどうか迷っているのを見れば、オレも酒が回ってるからなんかムカついてきた。
「言いたいことあんなら、早く言えば? ウザイんだけど」
いつものミドチンなら怒ってるはずなのに、『征十郎が……』とつぶやいた。
「征十郎が、京都にいる」
オレも黄瀬ちんも、その言葉で一気に酔いが覚めた。オレたちの中でその名前と黒子は、タブーになっている。ミドチンだってそれはよく知っているのに、何を今更言い出すのか。黄瀬ちんの声は、薄情なほど冷たかった。
「白けるからやめてくんないっスか。征十郎クンがどこにいようと何をしようと、オレたちにはもう関係ないじゃん」
それなのにミドチンは、まだ征ちんの話をする。
「青峰が、征十郎とよく似た男と会った。オレの病院でだ。その後、黒子とよく似た子供の失踪事件が起きた。それもオレの病院でだ。青峰は子供の失踪事件を調べているが……子供は京都にいるかもしれない」
ミドチンはグラスの酒を一気に空けると、額に手をつき俯いてしまった。表情は見えないが、大体の想像はできる。
「紫原、オマエの言うとおりだったのだよ。あの二人は異常だった。兄弟にしては、あまりに距離が近すぎた。オレが人事を尽くさなかったばかりに……このざまだ」
その後ミドチンは忘れてくれと言ったけど、そんなの無理だ。
****************
京都の人というのは皮肉と嫌味でできているイメージだったけど、修行先の人はみんないい人だった。オレがお茶会にいきたいと言えば、お師匠さん自ら連れていってくれた。
お茶会が開催されるのは、ガイドブックに載るような庭園にある茶室だった。庭園はまさに和といったかんじで、お師匠さんが石の置き方から砂の流れの意味まで教えてくれたはしたが、さっぱり理解できなかった。それでもキレイだと感じるのは、日本人離れした体のオレも、なんだかんだ言って日本人だからなんだと思う。
「今日点てられるのは、降旗先生といいましてね。まだお若いが、人柄なんでしょうねぇ。あの人のお茶会は、いつも和やかなんですよ」
今日はうちの練り切りが出るんですと、目元の皺を深くしニコニコしてるのを見ると、さすがのオレも罪悪感が湧く。
オレがお茶会に出たいと言ったのは、勉強のためじゃない。降旗光樹のお茶会には、幼なじみの赤司征十郎が来ると聞いたからだ。お茶会に参加する赤司征十郎と、大学の時向かいに住んでいた征ちんが同一人物だというのは調査済み。調べたのはオレじゃなくて全部さっちんだけど。
ミドチンはあれから何も話さなかったけど、さっちんはいろんなことを教えてくれた。ミドチンが勤める病院で、黒ちんそっくりの、しかも名前まで同じ男の子が行方不明になったこと。そこに征ちんらしき人物がいて、峰ちんが独自に調査を始めたこと。オレが飲みに誘った日も、征ちんの家を張り込んでたみたい。
さっちんは結婚前は探偵事務所に勤めていて、その伝手を使って峰ちんに協力していると言っていた。中学以来さっちんとは疎遠になったけど、峰ちんとさっちんは今でも仲がいいようだ。あの二人、なんで結婚しなかったんだろうねホント。
「(けどオレ物好きだな~)」
赤司征十郎がお茶会に小さな男の子を連れてくるって聞いたら、そりゃ気になるけど、見れば気持ち悪くなるのわかりきってるのにね。
茶室には既に先客がいた。着物を着たおばさんとおばあさんの中間くらいの人たちで、お師匠さんの後ろから現れた巨体に驚いた顔をした。けど、オレの名前とオレの店の名前を聞くと、驚きの種類が変わった。
「まぁ、あの有名な」
「東京へ旅行にいった時、紫原さんのお店に伺ったことがありますのよ。とても美味しゅうございました」
「テツヤ君、このお兄さん有名なお菓子屋さんなのよ。……あら? テツヤ君?」
「ここにいます」
「ま!」
手を上げた男の子は、男の子を探してた人のすぐ隣にいた。着物を着たおばさん連中の中にいれば、小さな男の子は目立つはずなのに、この子は誰かさんみたいに簡単に埋もれていた。
男の子は昔会った誰かさんと同じ無表情さで、オレの顔をじっと見てきた。
「何?」
「お兄さんは、イチゴのおかし作りますか?」
「春には作るかな」
「ボクのお母さんは、イチゴがすきです」
「んなことオレに言われてもねぇ……。キミは何が好きなの?」
普通の会話の流れだと思うが、男の子は急にキョロキョロしだして、続いてオレに手招きした。しゃがめということらしい。
「ボクはチョコがすきです」
素直にしゃがんであげれば、両手で口を囲って、オレの耳元でささやく。……いや、それって人に聞かれたらまずいこと? バニラじゃねーのかよとは思ったけど。
そこへ、覚えのある声がした。
「テツヤ」
「征十郎くん」
男の子が駆けていった先には、二十代後半らしき男が二人並んでいて、その内一人は誰なのかすぐにわかった。見た目に面影が残っているのも大きいけど、何より『テツヤ』と呼ぶ声の感じが変わっていなかった。声の高さは変わろうと、あの感情の込め方は何も変わっていない。
「征十郎くん、あのお兄さんおかし屋さんです。イチゴのおかし作るって言ってました」
大人になった征ちんは、あの頃と同じ目をして小さな男の子の頭をなでている。いつもは凛としているのに、特定の相手にだけとろとろに溶ける目が、オレは嫌いだ。
「紫原さん、ですよね。テレビで何度か拝見したことがあります。お会いできて光栄です。この子は僕と違って洋菓子の方が好きで、特にバニラ味が好きなんですよ」
チョコが好きだと言った子供に、ね? と言って微笑みかければ、子供は黙って頷いた。
「そうだ。紫原さんは、もう水仙をご覧になりましたか?」
「いいえ、真っ直ぐこちらへ寄りましたから」
オレの代わりに、お師匠さんが答えてしまう。
「それでしたら、まだ時間がありますしご案内しましょう。ここの水仙は有名なんですよ」
「それはいいですね。私も降旗先生とお話したいことがありますし、いってらっしゃい」
「だから先生って呼ぶのはやめてください! オレにはまだ早いですよ!!」
どっと温かな笑いが湧く中で、征ちんも一緒に笑っていた。けど、オレをちらりと見た時の目は、少しも笑っていなかった。
男の子も一緒に行こうとしたが、征ちんはおば様方の相手をしてあげてと言って、連れていかなかった。年齢層の高いお茶会で、小さな子供はアイドルだ。周りも快く子守を引き受け、側で聞いていて相変わらずうまいなと思った。
茶室から少し下った先に、有名だという水仙が咲いていた。有名なのが納得できるほど数が多く、種類も豊富だった。咲いていたのはすぐに思い浮かぶ白や黄色だけでなく、青味がかったのや変わった形のもあった。
ただオレたちにとって、水仙が咲いていようと枯れていようと、どうでもよかった。顔見知りとして話せる場なら、どこでもよかったのだ。
「久しぶりだね敦。元気そうで何よりだ」
征ちんは、オレの知る征ちんからすごく変わっていた。一人称や俺の呼び方はもちろんだけど、雰囲気がとても鋭くなった。彼は優しい王様でなく、民が恐れる王様に成長していた。
「オレのこと、覚えてたんだ」
「その名字にその背丈。忘れろという方が無理がある」
それにと征ちんは続ける。
「テツヤと一緒にいた時のことは、すべて覚えている」
ああ、やっぱり。やっぱり黒ちんの話。
「ホント昔からさ、口を開けばテツヤテツヤテツヤって」
黒ちんと征ちん、オレは二人とも好きだった。黒ちんはケンカもしたけど気が合ったし、征ちんは傍から見たら生意気なガキだったけど、オレは嫌じゃなかった。
けど二人並んだら別だった。
「そっくりな子供誘拐するくらい、黒ちんのことが好きなわけ? なんで? 男同士じゃん。兄弟じゃん!」
昔から思ってた疑問をぶつける。オレにも兄ちゃんがいるから、兄ちゃんが大切だって気持ちはわからないでもない。けど、征ちんの黒ちんへの思いは明らかにおかしい。でも征ちんは、オレの方がおかしいみたいな目で見てくる。
「何を勘違いしているか知らないが、あの子はテツヤだ。だって、テツヤは僕とずっと一緒にいるって約束したんだから」
「そりゃ小さい頃はどこ行くのも何するのも、ずっと一緒だった。でも、デカくなったらオレも兄ちゃんも自分の世界持って、大人になったら別の道を進んだ」
気持ち悪い気持ち悪い。大好きな二人が気持ち悪くなるのが、我慢できなかった。
「兄弟がずっと一緒にいるなんてありえない!」
オレの言っていることは、当たり前のことだ。何も間違っていない。なのに征ちんは傷ついた顔をして、走っていってしまった。その後姿に小さな頃の征ちんが重なって見えて、よくわからないけど涙が出てきた。
Side Other Collar ~yellow~
京都ロケが終わり、オレは紫っちではなく、違う人を喫茶店に呼び出した。カフェでなく喫茶店というのが相応しい店は、事務所の先輩から教えてもらった。白髪に口髭と渋い見た目のマスターは、店に貼るためのサインをねだったりしない。他の客の目に触れぬ席へそっと案内してくれるので、静かに過ごしたい時に重宝する。
オレより少し遅れてきた相手は、青峰っちに負けないくらい人相が悪かった。子供と写っていた写真では、もっと愛想が良かったから、単に不機嫌なだけかもしれない。
「人気俳優の黄瀬涼太が、オレになんの用だよ」
「お忍びなんで、名前は避けてほしいっス」
「勝手に人の身辺探っておいて、何言ってやがる」
それを言われては、ぐうの音も出ない。オレは探偵事務所に彼──虹村修造さん──を調べさせ、『黒子テツヤ』の名をダシに呼び出した。
「それについては謝るっス。けど、黒子っちのことでアナタと話がしたくて。オレ、黒子っちの一番の親友だったんスよ」
大学一年の時、向かいの家に仲のいい兄弟が住んでいた。年の離れた兄弟で、オレは兄の方を黒子っち、弟を征十郎クンと呼んだ。二人を家に泊めたのがきっかけで交流が始まり、いつしか黒子っちたちのいる生活は、オレにとって当たり前のものになっていた。いつまでも変わらないという、錯覚すら起こすほどに。
けれど出会った年の冬、黒子っちは自殺した。それだけでもショックなのに、仲のいい兄弟は兄弟でなく、誘拐犯と攫われた子供だとその後判明した。
二人と過ごした日々は楽しかったけど、オレはその思い出に蓋をし、忌まわしいものとして封印した。でも、ずっと忘れることができなかった。そこへ緑間っちから子供の行方不明事件を聞き、青峰っちがその事件を調べていると聞けば、何もしないでいるのはできなかった。
「ああ、オマエか」
虹村さんは注文を聞きにきた店員に、オレのカップを指さし、『同じのを』と頼んだ。
「テツヤが向かいの大学生に、変なあだ名付けられたって言ってたんだよ」
「それ、オレじゃなくって紫っちっス」
「大型犬みたいなヤツって言ってたから、オマエだろきっと」
「いやいや、オレは気まぐれな猫タイプっスよ……というか、黒子っちと仲良かったんだ?」
「まあな、アイツは従弟というか弟みたいなモンだったし。電話でよくオマエたちの話してたな」
「へぇ~。じゃ、トーゼン征十郎クンのことも、アンタ聞いてたんでしょ」
「……」
押し黙った虹村さんの前に、探偵に撮らせた写真を置く。写真は虹村さんがハンドルを握り、小さな男の子が助手席に座っているものだ。子供の格好からして、幼稚園の送り迎えに撮ったのだろう。
「この子、赤司テツヤクンっていうんでしょ? 征十郎クンの養子の。まだ若くて未婚なのに、養子縁組するってなんでなんスかね? 結婚できない女に孕ませた子供かな~って最初思ったけど、征十郎クン面白いくらい女の影ないし。第一、全然似てないから違うっスね」
子供とは思えないオーラを漂わせていた征十郎クンと違い、この男の子はぱっとしない。それでもよく見れば愛くるしい顔をしていて、彼は征十郎クンではなく、探偵から入手した卒園アルバムの黒子っちに似ていた。
「この写真撮るの、すげー苦労したって業者が零してたわ。写真撮ろうとしたら、いきなり動いて見切れたり、原因不明のピンボケが発生したりで大変だったらしくて。ホント、見た目だけじゃなくて、そういうとこまで黒子っちそっくり」
「オマエ、一体何が言いたい?」
黙って聞いていた虹村さんがドスの利いた声を出すが、そんなんで怖気づくなら、最初から呼び出したりしない。第一、オレも我慢の限界だった。
「そうっスね……いろいろ言いたいことはあるんスよ? たとえば、なんで征十郎クンのとこで働いてるのかとか、テツヤクンと東京でいなくなった哲也クンとの関係とか」
問い詰めて吐かせたいことばかりだが、ずっと言ってやりたいことがあった。
「なんで黒子っち死なせたんだよ。アンタ、仲のいい従兄のお兄ちゃんだったんだろ? アンタなら黒子っち止めれたんじゃねーのかよ」
大声を出さなかったのは、俳優としての体面ではなく、あまりに怒りすぎて声を荒げる余力もなかったから。
すべては黒子っちの死から始まった。黒子っちが死ななければ、あの楽しい日々がずっと続いて、征十郎クンは黒子っちに似た子を誘拐せずにすんで、オレたちがこんなに苦しみ続けることもなかった。
今のオレは俳優失格の、ひどい顔をしていると思う。けど、虹村さんは平然としていた。怒りを返すわけでもない、ただ淡々と言ってのけた。
「誰にも止めれなかったんだよ。テツヤは、生まれながらの死にたがりだった」
****************
虹村さんは、黒子っちの小さい頃の話をしてくれた。黒子っちと虹村さんは家が近かったのもあり、兄弟同然に育ったそうだ。黒子っちは幼い時から無表情で影が薄く、本が好きだったが、オレの知らない面はその時から既にあったようだ。
「オレが気付いた時には、アイツはもう死にたがりだった。死にたくなるような辛いことがあったわけじゃない、それなのに死に強い憧れがあった。一回遮断機降りた線路の中で突っ立ってたことがあってよ。顔が腫れるまで殴ったらアイツ痛いって泣いて、電車轢かれたらもっと痛いんだぞって叱っても、それでも死にたいって……」
当時のことを思い出しているのか、虹村さんの顔に影が差す。だが、オレの知る黒子っちとあまりにかけ離れていて、いまいちピンと来ない。
「テツヤがああなった理由は、誰にもわからない。それが余計に叔母さん追い詰めて、とうとうメンタルやられて入院することになった。そこで、オレの祖父さんがテツヤを預かることになったんだ」
黒子っちは虹村さんの父方の従弟で、そのお祖父さんは母方らしい。だから黒子っちとお祖父さんは何ら血の繋がりはないが、人のいいお祖父さんは黒子っちを放っておけなかった。
老い先短い自分と過ごし、命が終わる瞬間を目にすれば、きっと死への憧れは消えるだろう。そう考えた彼は、自分を看取るまでは絶対命を絶たないと黒子っちに約束させた。
しかし黒子っちの考えは変わらず、それどころかお祖父さんが死ねばすぐに後を追うというのが、彼の口癖だった。末期癌で余命宣告されたお祖父さんは、最後の約束を黒子っちとした。
「成人するまで、自分の所に来てはいけない。それが祖父さんとテツヤの二回目の約束だ。ま、テツヤは自分に都合良く、二十歳の時に祖父さんの所に行くって解釈してたがな」
舌打ちする彼に、どうせなら八十とかにしとけば良かったじゃないかと言えば、俳優の顔を殴りやがった。彼だから二十歳まで延ばせたんだと怒る気持ちはわかるが、どうして拳が付いてくる?
「オレは二十歳の誕生日当日に、テツヤは自殺すると思ってた。思ってたけど、放っておいた。オレたちもいい加減疲れてたからな、厄介者払いじゃないが、これでようやく楽になれると思ったんだ。だけど次の日、テツヤの家に様子を見にいったら、アイツは生きていた」
「征十郎クンに出会ったから、死ぬのを思い留まった?」
「オレはそう思ってる。赤司には感謝してるよ」
「恨んでるの間違いじゃないっスか。征十郎クンが一番黒子っちを止めれる位置にいたのに、結局彼は何もできなかった」
オレが虹村さんに怒りを覚えたみたいに、虹村さんが征十郎クンを恨むのは当然の感情だと思う。単なる八つ当たりだとわかっていても、誰かのせいにしなければ気持ちの整理はつかない。
だが、虹村さんはいやと首を振った。
「赤司がいてくれたから、テツヤは二十一直前まで生きていた。あの死にたがりを一年も長く生かしてくれたんだ、恨むなんてお門違いだろ」
「だから、アンタは何も言わないんスか」
「ねちっこいヤローだな。言いたいことは、さっさと言え」
「黒子っちそっくりな子供を黒子っちに見立てるのが、征十郎クンの幸せだとアンタは思ってるから。犯罪に目瞑ってんのかよって言ってんの」
「何勘違いしてんだか知らねーが、これだけは言っとく。……赤司の幸せ邪魔すんな。青峰と紫原にも伝えとけ」
それだけ言うと、五百円玉をオレに投げつけ席を立つ。青峰っちや紫っちの名前が出てきた理由は知らないけど、今はそれどころじゃない。
「飲み逃げする気っスか!!」
「そんだけありゃ足りるだろ」
「足りねーよ! っていうか、問題はそこじゃない! 逃がさないっスよ」
「逃げてんじゃなくて、これから幼稚園のお迎えがあんだよ!」
オレは虹村さんに食い下がり、幼稚園まで付いていったのだが、そこで新たな悲劇が始まっていたことを知った。
オレが彼に惹かれたのは、彼が死にたがりだったからかもしれない。当時のオレは、オレの顔目的で寄ってくる女の子に嫌気が差してて、軽い女性不信になっていた。
女の子たちの行動は『生』の象徴そのものだったから、『死』に傾倒する彼が魅力的に映ったのかもしれない。オレは本質的にはストレートだし、彼を純粋に好きだったかといえば自信がない。
けどね、黒子っち。それでも好きだったのは本当だよ。どうしようもなくキミが好きだった。だから、オレにはわからないんだ。征十郎クンのこと、とても好きだったキミが何故死を選んだのか。大好きな人がいるのに死にたいと思う気持ちが、オレにはわからない。
Side Red ③
敦の言葉が頭から離れない。兄弟がずっと一緒にいるなんてありえない? うそだ。テツヤは僕とずっと一緒にいると約束した。敦の言うことなんてうそなのに、頭から離れなかった。
あれから心臓の痛みが治まらない。あまりに痛くてお茶会を欠席し、テツヤにおまじないをしてもらったが、痛みは一向に治まらない。
「ただいま」
普段ならテツヤが玄関でお出迎えしてくれるが、深夜の帰宅になってしまい、今日のお出迎えはなしだ。時間帯を考えればわかりきったことなのに、それでもテツヤの姿を探してしまう。そこへ虹村さんがお疲れと言って、リビングから出てきた。
「テツヤ、オマエが帰ってくるの待ってたんだが、さすがに寝かせたぞ」
「そうですか。遅くまですみません」
「テツヤにあんまり心配かけんなよ」
「わかっています」
虹村さんに言われなくても、テツヤがどれほど僕を心配しているかなんてわかっている。あのお茶会の日から僕を見る度空色の瞳を曇らせて、どこか痛いんじゃないか、おまじないをしてあげようかと言ってくる。
「今日もオマエのこと心配してたぞ。朝出る時今日も痛そうな顔してた、あのトトロのお菓子屋さんにひどいこと言われたんじゃないかって」
「トトロ?」
「お茶会に馬鹿デカいヤツが来たんだろ? 確か東京で有名な店やってる……」
「敦のことですか」
面白い言い回しに思わず笑ってしまう。中身は攻撃的だが、外見だけでいえばトトロのように大きくてのんびりしている。
「知り合いか?」
「ええ、そんなところです」
「あと、最近同じ車がよく家の前に停まってるとも言ってたぞ。色の黒い男だったらしいが、そっちも覚えないか?」
「大輝でしょうね。僕の方で対処しますから、虹村さんは気にしないでください」
虹村さんは口をすぼめて物言いたげにしていたが、早めに相談しろよとだけ言って帰っていった。
寝室に行くと、ベッドの隅に寄ってテツヤが寝ていた。後から来る僕のことを考えてくれたのだろう。犬のぬいぐるみを抱え、丸くなって寝ている姿は愛らしかったが、テツヤの寝ている姿は嫌いだ。僕を置いていった時のように、そのまま目を覚まさないのではないかと不安に駆られる。
「テツヤ、起きて」
小さな体を揺さぶり、瞼が開くのを待つ。だが、少し身じろぐだけで、目を覚ます気配はない。もう一度揺すろうとした時、自分の手が赤く染まっていることに気が付いた。同時に指の間に粘ついた感触がし、鼻につく鉄の臭いもした。
「テツヤ、テツヤ」
テツヤの体を揺さぶる度、水音がし、シーツの赤い染みは広がっていく。よく見れば犬のぬいぐるみだと思っていたのは包丁で、刃が鈍く光っていた。
「テツヤ! 起きろよ、起きろってば! テツヤ、テツ……」
「……いたいです」
非難めいた声と共に、空色の瞳が薄らと開かれる。テツヤは口をへの字にして目をこすっているが、体はどこも汚れておらず、抱えていたのも犬のぬいぐるみだった。
自分の手を再度見てみるが、どこにも血は付いていない。それでも手の甲を伝い滴っていく感覚やほのかな温かみ、臭いは消えなかった。
「ないちゃうくらい、いたいんですか?」
テツヤが困った顔をして、変なことを聞いてくる。意味がわからなかったが、頬に触れれば手が濡れた。自分が泣いていると自覚すると、涙は次々と色違いの目から零れていった。
「痛いんだ、痛くてたまらない。テツヤがいてくれないと痛いんだ」
「ボクはここにいますよ」
「ずっと一緒にいてくれないと痛いんだ」
「いっしょにいてあげます。おまじないしてあげますから、なかないでください」
心臓をさすり、一生懸命おまじないをしてくれる。小さな手は温かくて、痛みは大分引いたけれど、涙は止まらなかった。
もしテツヤがあのまま生きていたら、結婚して家庭を築いたのだろうか。死んでしまったおじいさんにさえ嫉妬したのに、生きている人間で僕より大切な人ができるなんて耐えられない。
「まだいたいですか?」
「痛い。ずっと一緒にいるって約束してくれないと治らない」
「いいですよ」
「うそつき」
「ボクはうそつきじゃありません」
テツヤはうそつきだ。そんなこと言って、また僕を置いていくに決まってる。敦が言うように、成長したら僕より大切な人を作って、僕を置いていく。
「どうして? どうして兄弟なのに、ずっと一緒にいられないんだ?」
「いっしょにいてあげます。だから征十郎くん、なかないで」
テツヤはさする手を止め、抱き付いてきた。僕の腕にすっぽり収まる小さな体。この体が大きくなって、また昔のように抱きしめてくれる日を待ち望んでいた。けれど、大きくなれば置いていかれる。それならば……。
「……本当に、僕とずっと一緒にいてくれる?」
「男に二言はありません!」
「じゃあ、指切りして」
小指を差し出せば、テツヤは自分の小指をからめ、ゆびきりげんまんと可愛らしく歌い出す。歌詞の意味も、この約束の意味も、彼はわかっていない。
けど、それでいいんだ。いくら約束したって、君はいつの日かまた僕を置いていく。以前の君がそうだったように、君は僕を同じ場所へは連れていってくれない。
それならば、置いていかれる前に、僕が連れていけばいい。
次の日、僕は幼稚園にテツヤを迎えにいった。まだ園の時間が終わっていないのと、いつもは虹村さんが迎えにくるので、僕の姿を見ると園の先生は驚いていた。
しかし、身内に不幸があったので迎えにきたと言えば、対応した外国人の教諭はすぐテツヤを呼びにいってくれた。彼女がきっとテツヤの話していたアレックス先生だ。
テツヤは校庭で、男の子とボール遊びをしていた。つたないドリブルをして、最近テレビで見たバスケの真似事をしているのだろう。相手は随分と腕白そうな子で、大輝を小さくしたような子だなと思った。
テツヤはアレックス先生に話しかけられ、僕の存在に気付くと、相手の男の子と何か話をしていた。だが、それもすぐ終わり、慌てた様子で駆けてくる。
「征十郎くん!」
「そんなに慌てなくていいよ。着替えておいで」
何故僕が幼稚園にいるのか聞こうとしたが、その口を人差し指で塞ぐ。テツヤはなおも不思議そうにしていたが、素直に帰り支度をしにいった。だが、よほど僕の真意が気になるようで、制服のボタンをかけ違えて戻ってきた。
アレックス先生に別れの挨拶をし園を出ると、園のフェンスの向こうから『あかし、またあしたな!』という元気な声がした。見れば、先ほどテツヤと遊んでいた男の子が手を振っており、テツヤも彼が見えなくなるまで手を振り続けた。
「あの子が火神君?」
幼稚園の話をする時、一番よく出てくる子の名前を挙げる。テツヤはそうだと言い、クリスマスのお遊戯会で兵士役をした子だとも言った。
テツヤの通う幼稚園はミッション系で、クリスマスにミサを行う。その後お遊戯会として各学年で出し物をするのだが、テツヤたちはイエスの生誕劇をした。羊飼いのテツヤばかり注目して他はあまり覚えていないが、やたら声の大きい兵士役の子と写真を撮ってあげた気がしないでもない。
「虹村さんはお休みですか?」
「お休みしてもらった、という方が正しいかな。長い休暇が取れたんだ。今から旅行にいこう」
「……ようちえん、お休みしてもいいんですか?」
「ああ。僕が間違ったこと言ったことある?」
「征十郎くんの言うことは、ぜったいです!」
「そうだね」
僕からお墨付きをもらえ安心したようで、どこに行くんですかと輝いた目で聞いてくる。内緒と言えば頬を膨らましたが、それでも楽しそうだった。
車は家に置いてきたので、近くのバス停までテツヤと手を繋ぎ歩いた。バス停までの間、出席の時忘れずに名前を呼ばれたことや火神君とバスケの練習をしたことなど、園での出来事を事細かに僕に伝えようとする。
「征十郎くんが来たから、ボク火神くんにごめんなさいして、それから……征十郎くん」
「なんだい?」
話の途中で、テツヤがクスクス笑い出す。
「火神君が征十郎くん見て、オマエの父さんカッコイイなって。でもボク、ちゃんと征十郎くんはお父さんじゃありませんって言いました」
「それで?」
「だったら兄ちゃんか? って聞かれたんですが、お兄さんでもありませんって言いました」
「それで?」
「征十郎くんは、ボクの弟だって教えてあげました」
「そうだね。僕は君の弟だ」
「それなのに火神くん、とってもへんな顔してました」
「いいじゃないか、他人がどう思おうと」
外では僕たちの本当の関係をしゃべらないよう言っていたが、つい気が緩んでしまったのだろう。……まぁ問題ないか。彼がテツヤに会うことは、もう二度とないのだし。
「バスを降りたらお昼にしよう。何が食べたい?」
「マジバでラッキーセットと、バニラシェイクが食べたいです」
「僕はチョコシェイク頼むから、一口交換しようか?」
「はい!」
テツヤは少し変わった。以前より表情が豊かになったし、隠しているつもりだろうが、本当はバニラよりチョコが好きだ。テツヤがテツヤらしくなくなるのは嫌なはずなのに、その変化を許容している自分がいる。マジバでは、急にバニラシェイクが飲みたくなったとうそを言い、チョコシェイクと交換してあげた。
僕たちはその後京都を離れ、離島の貸し別荘に来た。昔、テツヤが行きたいと言っていた場所だが、観光シーズンは夏のため、冬の島は寂しいものだった。自然以外何もないこの場所では退屈するんじゃないかと心配したが、杞憂だったらしく、テツヤはとても喜んだ。
「征十郎くん、見てください!」
今日も探検と称して遊びにきた海で、宝探しに夢中だ。海岸で見つけたピンク色の巻貝を手に乗せ、僕に見せてくる。
「これが一ばん大きくてキレイでした!」
「ああ、また耳当てを外して。風邪を引いたらどうするんだ?」
数日後には彼を連れていくつもりなのに、僕は何を心配しているのだろうか。しかし、テツヤはなおも興奮した様子で、洞穴を見つけたから一緒に見にいこうと僕の手を引く。
手を繋ぎ始めたのは僕からだった。テツヤを見失わないように、手を繋ごうと僕が言ったのだ。もう二度と見失わないように、離れないように。この手を決して離さない。そう決意したのに……。
「大好きだよテツヤ」
「ボクも征十郎くんのこと大すきです」
「うん、知ってる」
何故だろう、心臓が痛む。ようやくテツヤと永遠に一緒にいられるのに、どうしてこの心臓は痛むのだろう。
****************
君がこの手紙を読むことはないだろう。明日、僕は君を連れていく。
この手紙は自分の気持ちを整理するため、ただそのためだけに書いている。
僕の人生の大半は、無価値なものだった。人は僕を羨むが、彼らの羨む人生に一体何の価値があるのか。
僕にとって、生きながらに死んでいた日々だ。価値があるのは、君と共にいた短い月日だけ。君との月日だけが彩りを持ち、僕へ生の喜びを教えてくれた。
君と君との日々は、僕のすべてとなった。
おかしな話だ。始まりはどうあれ、君は誘拐犯で僕は攫われた子供だ。何故ここまで強く君を慕うようになったのか、自分でもよくわからない。
君が僕の兄だと言ってくれたから好きになったのか、それとも君を好きになったから兄として慕ったのか。どちらでもあり、どちらでもない気がする。
それでもただ一つ確かなのは、僕は君に会えて幸せだった。君に会えなければ、僕は幸せという感情を知らずに、一生を終えていたに違いない。
母親の元から連れ去った僕を、君は恨むだろう。それは当然のことだ。それでも僕は
「馬鹿馬鹿しい」
書きかけた手紙を握り潰し、そのままゴミ箱へ叩きつける。テツヤを連れていくと決めたのに、何を今更弱気になっているのか。思いの外大きな音が出てしまったせいで、背後でテツヤが起きる気配がした。
「征十郎くん……?」
瞼をこすり、寝ぐせだらけの頭でテツヤがベッドから降りてくる。テツヤはトコトコと僕の元まで歩いてきて、パジャマの裾を引いた。
「またしんぞうが、いたくなったんですか?」
「なんでそんなこと聞くの? 泣いてなんかないだろ」
「とってもいたそうなお顔です」
テーブルライトしか明りのない部屋で、僕の表情がわかるとは思えなかった。けれどテツヤは、悲しそうにつぶやいた。
「かみさまは、ボクのおねがい聞いてくれないんでしょうか」
「またあの女のことを祈ったの?」
子供相手とは思えない、低い声が出る。母親は重い病気で入院中だと信じているテツヤは、幼稚園に併設された教会で、母親の病気が良くなるよう毎日祈っている。それを保護者面談で言われた時、僕は目の前が真っ暗になった。
テツヤを産んだだけの、テツヤに酷いことをした女のため、テツヤは祈る。僕がどれだけ努力しても、結局テツヤはあの女の方が大事なのだ。以前のテツヤがおじいさんを優先したように、僕はいつまでたってもテツヤの一番にはなれない。
しかし、テツヤは怯えた様子を見せず、首を横に振った。
「おまじないしても征十郎くんのしんぞういたいままだったから、かみさまに征十郎くんのいたいいたいなくしてくださいって、おねがいしたんです。かみさま、ボクのおねがい聞いてくれたとおもったのに……」
テツヤは顔を上げ僕の顔を見た途端、大きく目を見開き、その目に涙が瞬く間に溜まっていった。
「征十郎くん、ないちゃいやです」
「ごめん、ごめんね。『てつや』」
もう耐えられなかった。てつやの体を抱きしめ、僕は声を上げて泣いた。
僕だって、本当はこの子供がテツヤじゃないとわかっている。テツヤはこんなに優しくない。平気で約束を破って、僕を一人置いていった。
それでも、僕はこの子が愛おしい。文字の読み書きや箸の使い方を一から教え、一緒にバレエを観にいき、乗馬にも連れていった。マジバで食事をするなんて日常さえ、大切な思い出だ。この子は優しいから、チョコレートが好きなのに、僕のためにバニラシェイクを選ぶ。
「テツヤと呼ぶオレを許してくれ」
この子を愛し、この子の健やかな成長を願う気持ちに偽りはない。けど、テツヤがいないと耐えられないんだ。彼はあまりにテツヤと似ていて、手放すなどできはしない。空色の髪と瞳も、白い肌も、温もりも、何もかも似すぎている。
Side Blue ②
病院で発生した失踪事件は、事件と事故の両面で捜査が進められている。オレは担当にならなかったが、ある程度なら伝手を使い情報が入ってきた。
今有力視されているのは事件の方、疑いをかけられているのは子供の母親だ。児相にも前々から注視していた親子のようで、子供の殺害を隠すための狂言ではと睨まれている。
母親は子供と一緒に救急車で運ばれ、それからずっと治療を受けていた。子供を殺す時間なんてないと思うが、他に目ぼしい容疑者がいないことから、捜査本部は息子殺しに傾いているそうだ。
そう、征十郎は容疑者から外れた。確かに祖父の見舞いのため病院を訪れていたが、証拠がなかった。あるとすればオレの目撃証言だが、他に目撃者がなく監視カメラにも映っていない。
よほどの証拠が新しく出ない限り、赤司財閥の御曹司を容疑者にするのは難しいだろう。だが、征十郎は子供の失踪事件と同時期に、養子を迎えている。調べたところ、子供の名は『テツヤ』。……黙っていられるはずがなかった。
それからオレは休みの日を利用し、征十郎を調べた。調べてすぐわかったことは、征十郎は子供を引き取ってから黒のカラーコンタクトをやめ──緑間の推理が当たっていた──虹村というテツの従兄に当たる人物を雇い、子供の面倒を見させている。それだけでも十分怪しいのに、休みの日に子供と歩く姿を見れば、疑いは確信に変わる。
赤ん坊の時くらいしか写真を撮っていないと言うから、母親の証言を基に高尾に似顔絵を描かせたのだが、子供の顔は似顔絵とよく似ていた。加えて、髪の色はあの女と同じ水色。
征十郎の養子と失踪した子供が同一人物というのは、まず間違いない。いつものオレなら捜査権限なんか無視して、多少強引な手を使ってでも、あの子供を母親の元に帰していた。
けれど、オレは未だ踏み出せていない。子供の横で笑う征十郎の顔が、テツの横で笑う顔と同じだったから、征十郎を見る度決意が揺らいだ。オレの中でアイツは、テツを助けてくれって叫んでる姿で止まっていて、歪んだ形でもアイツの幸せを邪魔するのが忍びなかった。
その日、オレは新入りをパトロールに行かせ、一人交番でぼんやりしていた。次の日は休みだったが、張り込みのため京都に行くか迷っていた。捕まえる気のない捜査ほど、無意味なものはない。
そこへシャララ☆ と間抜けな音楽が流れてくる。……黄瀬だ。この間会った時、黄瀬がオレのスマホ勝手にいじって、着信音を自分のデビュー曲に変えたんだった。今時着メロはないだろ。それにファンの中でも黒歴史扱いらしいのに、なんで当の本人は気に入ってんだ?
「おい、なんのよう……」
「青峰大輝だな」
スマホから、見知らぬ男の声がする。誰だと聞く前に、相手から虹村修造だと名乗った。
「赤司付け回してたオマエなら、オレが誰だかわかんだろ」
虹村さんは、オレに黙秘も言い訳も許さず、すぐに本題へと入った。
「赤司とテツヤが行方不明になった。もしかしたら二人は、東京にいるかもしれない。オマエも探してくれ」
「なんだよそれ」
「テツヤを幼稚園に迎えにいったら、赤司が連れて帰ったって言われた。家に行っても二人ともいねーし、赤司の電話にも繋がらない。アイツの会社に電話したら、子供が熱を出して早退したって言われるしよ。赤司は最近、オマエらのせいでメンタルやばかったから。それに時期が時期だ、早く見つけた方がいい」
「時期ってなんだよ」
「もうすぐテツヤの命日だ。アイツが馬鹿なこと考えても、おかしくないだろ」
虹村さんは京都は自分と黄瀬で探すと言い、東京は任せると電話を切った。もう迷っている暇はない。用意していた辞表を机に叩きつけると、バイクを走らせた。
テツが住んでいた家に向かったが、そこは更地のままで誰もいなかった。他にもテツがよく行っていた近くのマジバやスーパーにも行ったが、征十郎の姿は見当たらなかった。打つ手がなくなり、オレはさつきに助けを求めた。
「もしもし大ちゃん? どうしたの?」
電話はツーコールもしないうちに繋がり、幼なじみの声が聞こえてくる。さつきにはこれまでも、征十郎の件でいろいろ協力してもらっていた。
「また征十郎の件で頼みがある。アイツが今どこにいるか、調べてくれないか」
「……」
「おい、聞いてんのか!? 急いでんだ、頼む」
普段なら文句を言いつつわかったと言ってくれるのに、今日に限って黙り込む。そして聞こえてきたのは、さつきとは思えない弱々しい声だった。
「もうやめよう」
「いきなり何言ってんだよ」
「これ以上過去に振り回されるのは、やめよう? 大ちゃんは何も悪くないじゃない。それなのに、どうしてこんなに苦しまないといけないの?」
さつきは、いつもオレの味方だった。テツが死に後悔に苛まれるオレを、さつきは励ましてくれた。大ちゃんが悪いんじゃない、誰にも止められなかったのよと。さつきがいてくれたからオレは立ち直れたし、感謝してもし足りない。だが、今は甘えてはダメだ。
「頼む。オレがこれ以上後悔しないように、協力してくれないか」
「どうして後悔しないって言いきれるの?」
「そうだな。ヘタに動いて、また後悔するかもしれねー。でも動かなかったら、確実に後悔する」
今やさつきも一児の母だ。子供を奪われて悲しむ母親のためだと言えば、協力しただろう。だが、そんな薄っぺらい建前言ったところで、なんの解決にもならない。
「オレは未だにガキだよ。全部自分のためだ。また見過ごしたら、オレはもうこの負い目から解放されない。だから動く」
「……四十にして迷わずなんて大うそだよね」
「あぁ?」
「わかった」
「さつき」
「大ちゃんが二度と後悔しないように、私も協力する」
私に任せて! と無理に明るく努める。ありがとなさつき、やっぱオマエいい女だよ。
****************
「おい、様子どうだ?」
ドアを開けると部屋は真っ暗で、水色の目玉だけがぎょろっと浮かんでいた。思わず変な声が出て、テツはすみませんと頭を下げた。
「おかげさまで、大分熱は下がったみたいです。明日の朝には良くなるでしょう」
「そっか」
紫原に担がれてきた征十郎は、今は緑間のベッドで寝ている。ガキとは思えない迫力で黄瀬を睨んだ後、征十郎は意識を失った。よく見れば大量に汗をかき、家を出た時には三十九度を超えていたとテツが教えてくれた。
緑間が帰ってきた時、治療しろとテツを含めた四人で振ったのだが、すかさず緑間の雷が落ちた。オレたち全員を正座させると、医学部一年生は一般人とほとんど変わらず、心配なら病院に連れていけと叱りつけた。しかしテツが保険証がないんだと言えば、ツンデレは子供用の薬を買いにいき、自分のベッドを征十郎に貸した。
テツは雨でずぶ濡れだったから、風邪が移らないように家に戻るか、征十郎とは違う部屋で寝るよう勧められ、黄瀬がはりきって自分の部屋に誘ったが、テツは頑なに征十郎から離れることを拒んだ。
「やっぱり、別の部屋で寝た方がいいんじゃねーか?」
「いいえ、ここにいます」
「あ~黄瀬が嫌なら、紫原の部屋でも」
「彼が嫌ということではなくて」
テツは征十郎の汗を拭うと、そっと頬をなでた。すると征十郎の目が薄らと開き、掠れた声でテツを呼んだ。熱が下がったといっても辛いらしく、肩で息をしていた。テツは征十郎の手を取ると、自分の頬に当てた。
「ここにいますよ。側にいると、約束したでしょう」
結局テツは、征十郎と同じ部屋で寝た。次の日起こしにいけば、テツは征十郎を抱きしめるようにして寝ていた。
オレは兄弟がいないからわからなかったが、兄弟というのは随分甘ったるいモンだと思った。それを紫原に言えば、兄弟で普通あんなにベタベタしないと嫌な顔をされたが。
「やべ……寝てた」
首がガクンと落ちた拍子に目が覚めた。いつの間にか、うたた寝していたらしい。首を回してからLINEを確認するが、見つけたという報告は一件も入っていなかった。
さつきの力をもってしても、征十郎の居場所を突き止めることはできなかった。アイツはこうなるのを予見してか、一切痕跡を残さなかった。紫原や緑間も途中から参加して行方を捜したが、二人を見つけられないまま一月三十日を迎えていた。
オレは最後の望みをかけ、東京の外れにある離島に向かっていた。昔、テツがパンフレットを見ながら行ってみたいと言っていた場所だ。征十郎がいる確証はなかったが、オレたちはそんなささいな思い出に賭けるしかなかった。一日一本しか運航しないフェリーに乗客はほとんどおらず、地元の人間らしいのがぽつぽつといる程度である。
それにしても懐かしい夢を見た。あれはテツと初めて会った日のことだ。付きっきりで看病するのを見て、当時は仲が良いんだなくらいしか思わなかった。でも、今なら違う見方ができる。
一晩中看病するのが苦にならないほど、テツは征十郎が好きだったんだ。少しでも苦痛に思えば、あんな母親みたいな目はできない。
あの頃は征十郎にばかり兄離れしろと言ったが、テツも十分ブラコンだった。『側にいると約束した』と言っていたが、あれは『側にいると約束したのだから、側にいさせてほしい』という意味だったんだと思う。
「なんで死んじまったんだよ」
諸悪の根源はオマエだぞと心の中で語りかければ、キミにしては難しい言葉知ってますねと返された気がした。いや、さすがのテツも反省してるか。アイツは子供好きだから、罪のない子供が巻き込まれるのを良しとしないはずだ。
人が過去に思いを馳せているのに、地元民らしい爺さんがオレの隣の席に座った。ガラガラで席が選び放題にも関わらず、だ。爺さんは紙切れを広げると、あぁ~としわがれた声を出した。
「アンタ、緑間真太郎さんかい?」
辛うじて違うとだけ言えば、紙切れをもう一度見て、今度は別の名前を言う。
「それじゃあ、紫原敦さん」
「違う」
「黄瀬涼太さん」
「違う」
爺さんは人違いかのうと漏らした後、頭をかいて投げやりに言った。
「青峰大輝さんでどうじゃ」
「そうだけど……なんでアンタ、オレたちの名前知ってんだ?」
「おお、アンタ青峰さんか!」
渋い顔をしていたのが、一気に晴れやかになる。島の人間だから漁師なのかもしれない、日に焼けシミだらけになった顔を、爺さんはくしゃくしゃにした。
「娘のお客さんから頼まれてな。内地から知り合いが遊びにくるんで、場所を教えてやってくれって」
兄ちゃんワシに会えて良かったのうと、バンバンとオレの背中を叩くが、オレは爺さんみたいに悠長でいられなかった。
「娘さんの客の名前、なんだ?」
年取って鈍くなったのか、オレに睨まれても爺さんは動じなかった。
「ん? 黒子征十郎さんじゃ」
「……」
「どうした兄ちゃん?」
「場所教えてくれ!」
急に食いついたオレに爺さんは怪訝そうな顔をしたが、それも一瞬で、島の地図を取り出すと貸別荘の場所を教えてくれた。海が一望できる崖の上に建っていて、浜辺にすぐ出られるから夏にオススメだと爺さんは言った。
爺さんから別荘まで案内しようかと言われたが、バイクがあると断った。善意の塊みたいな爺さんだったが、付き合っていては日が暮れる。オレは船を降りると、一直線にバイクを走らせた。
その間、頭の中はごちゃごちゃだった。何故オレたちが来るのを知っていたのか、何故自分の居場所を知らせるマネをしたのか。もしかして、自分たちの死体を発見させるために……? 縁起でもない考えを振り払うように、オレはバイクのスピードを上げた。
「(それにしても、黒子征十郎かよ)」
征十郎は本名の赤司ではなく、黒子と名乗った。単なる偽名だとか、オレたちを意識してだとか、そんな風には考えられない。きっとアイツは、未だにテツの弟のつもりなんだ。
十五分ほどバイクを走らせると、青い屋根と真っ白な外壁の平屋が見えてきた。女子供が好きそうな外観で、小さな庭には子供用のブランコが置いてあった。そして爺さんが言っていたように、すぐ側は崖になっており、落下防止のための柵が設けられている。
今日は雲一つない快晴で、空はどこまでも青い。柵の外に立つ男は、空に吸い込まれてしまいそうだった。
「征十郎!!」
「来るな! それ以上来たら、この子と飛び下りる」
バイクを捨て駆け寄ろうとしたが、征十郎の腕の中には小さな水色の塊がいた。こんな大声でやり取りしてるのに、子供は微動だにしない。最悪のケースも頭に浮かんだが、考えるのは後からでいい。
崖際に立つのは、間違いなく征十郎だった。病院でぶつかった時とは違い、赤と橙のオッドアイを隠していなかった。そして黒子征十郎を名乗る以上、コイツがしようとしているのはただ一つ。子供──アイツにとってのテツ──との心中だ。
「馬鹿なこと考えんな。そのガキ離せ」
「テツヤと約束したんだ、ずっと一緒だって。だから、このまま連れていく」
「人の事バカ扱いしてたくせに、いつの間にそこまでバカになった? なんでそのガキが、テツになんだよ」
「テツヤだよ。この子はテツヤだ。生まれ変わって、僕に会いにきてくれたんだ。テツヤじゃないなら、何故こんなにそっくりなんだ?」
征十郎が言うとおり、子供はテツそっくりだった。頭の天辺から爪先まで、テツをそのまま小さくしたと言ってもいいほどに。征十郎は子供をさらに抱きしめ、水色の髪に顔を埋めたが、ふと顔を上げ何もできないオレを笑った。
「大輝は、またテツヤを助けられないんだね」
「……」
「大輝だけじゃない、真太郎も敦も涼太も! 皆テツヤのこと好きだったのに、誰も助けられはしないんだ」
──どうしてテツヤを助けてくれなかったんですか。
オレの耳に聞こえてきたのは、挑発的な言葉ではなく、小さな子供の泣き声だった。白いセーターを赤くした子供が泣きながら、何故助けてくれなかったんだとオレを責めている。
オレはやっと、オレたちが呼ばれた理由がわかった。そしてしないといけないことも。普段ならプライドが邪魔してできないが、今はなんの抵抗もない。地面に膝をつくと、そのまま頭を下げた。
「すまなかった」
オレが家に行った時には、テツは死んでいた。けどそんなこと、征十郎にもオレにも関係ない。征十郎にとってすべてだったテツを、オレは……いや、オレたちは助けてやれなかった。
「テツを助けてやれなくて悪かった。でもそのガキは関係ない、離してやってくれ」
「この子はテツヤだ」
「テツじゃねーよ。見かけは似てるけど、中身は全然似てねーわ。そいつは、必要以上に優しすぎる。……オマエのために、黒子テツヤ演じてたんだろ?」
この子供の行動は、本当にテツの生まれ変わりかと錯覚するほど、テツそのものだった。本が好きで、バニラシェイクが好きで、バスケが好きで。だが、長い間張り込んで様子を観察していれば、それが演技だとわかった。楽しそうな雰囲気が、少しも伝わってこないのだ。
こんな小さな子供が、演技を続ける理由は簡単。征十郎が喜ぶから、ただそれだけだ。テツは自分をしっかり持ってるヤツだったから、誰かのマネなんてしようとしない。けどこの子供は、自己犠牲の塊みたいなヤツだ。
「オマエも本当はわかってんだろ? そいつはテツじゃない。哲也っていう名前の、まったく別の人間だ」
征十郎が、腕の中の子供の顔を見る。その顔には、明らかに迷いが出ていた。オレは声の限り叫んだ。
「征十郎!!」
征十郎はまた笑った。だが、先ほどの妖しい笑みでなく、テツの前で見せていたのと同じ笑顔だった。様変わりした雰囲気に気を取られ、オレは走り出すのが遅くなった。
「青峰さん、この子を頼みます」
柵の向こうに寝ている子供を下ろすと、
「バイバイてつや」
そう言ってオレの目の前で、崖の向こうに消えていった。オレの伸ばした手は、征十郎に届かなかった。
Epilogue
テレビは今日も誘拐事件のことを取り上げる。犯人の心の闇、警察の失態、飽きることなく同じ話題を繰り返す。だが、オレを英雄視する報道には笑いが出る。オレは誘拐された子供のために動いたんじゃない、全部オレ自身のためだ。そんなオレが英雄だなんて、馬鹿らしいにもほどがある。
征十郎が自殺したことで、誘拐事件は明るみになった。征十郎は戸籍を偽造し、誘拐した子供を自分の養子とした。しかし、その巧妙な手口に周りは偽造に気付かず、誘拐された当人も母親が入院中のため預けられていると思っていた。
それだけでもマスコミには絶好のネタなのに、征十郎の人間性・カリスマ性、アイツ自身誘拐された過去があるということが、報道を加速させた。
そこへオレが辞表を出してまで誘拐された子供を助けたという、間違ってはいないが正しくない情報が漏れ、オレの家の周りはマスコミだらけだ。おかげで、ここ一週間外に出られていない。
無駄とわかりつつカーテンの隙間から外をのぞくが、昨日と変わらない光景に、壁へ八つ当たりする。だが、オレが壁を蹴る音に混じって、電子音が聞こえてきた。スマホの着信音で、鳴るのは久しぶりだ。あまりにマスコミの電話が多いから、特定の番号以外かからないよう設定し直したのだ。
「もしもし」
「よう、久しぶりだな」
「なんの用っすか」
「テメー、それが年上に対する態度か」
電話をかけてきたのは虹村さんだった。虹村さんと一緒に行動していたのは黄瀬と紫原で、オレが虹村さんと連絡取るのはLINE上だけだった。こうして話すのは、征十郎たちの失踪を電話してきた日以来だ。そして、ちゃんと一対一で話すのは、これが初めてだ。
「テツヤ助けてくれて、ありがとな。オマエが助けてくれなかったら、テツヤは今頃死んでいた。赤司は自分ではどうしようもできなくて、オマエら呼んでテツヤを助けようとしたんだろうな。……今日アイツからの手紙が届いてた」
消印は自殺した当日のもので、虹村さんに宛てた謝罪の手紙の他に、子供宛の手紙も同封されていた。
「テツヤが生きていれば渡してほしいって書いてあった。迷いがないなら、こんな手紙書かないだろ」
「手紙にはなんて?」
「『愛している てつや』」
「……それだけ?」
「ああ、それだけだ。便箋の真ん中に、たった一行だけ書いてある」
オレが何も言えずにいると、虹村さんが不思議なんだと話し始めた。
「カタカナじゃなくて、ひらがなで『てつや』って書いてあんだよ。なんでひらがななんだろうな? 急いでたわりには字が丁寧だし、第一、急いでたからってカタカナをひらがなにしないよな」
聞いていて白々しいなと思った。この人は、征十郎がわざとひらがなで名前を書いたことも、その理由も知っている。しばらく沈黙が続いたが、電話の向こうから鼻をすする音がし、なんでだよと悲痛なつぶやきが聞こえてきた。
「テツヤの本名である漢字の『哲也』と書くほどには、割り切れなかった。けど、黒子テツヤと別の人間だって認識していたから、ひらがなで『てつや』にした。…………なんで赤司の幸せ邪魔したんだよ。オマエたちさえ邪魔しなければ、アイツは『てつや』を『哲也』として愛せるようになったのに。赤司は、ようやく幸せになれたのに」
押し殺した声が聞こえていたが、突如ツーツーという電子音がし、画面には通話終了の文字が出る。
オレは虹村さんがどういう人物かよく知らないが、あの人もオレと同じだったのかもしれない。たとえ偽りの形であっても、征十郎の幸せを壊したくなかった。ただ、あの人は自分のために動いたオレと違って、一貫して征十郎の幸せを願った。
「(オマエはひどいヤツだよ、テツ)」
オレだけじゃなく、黄瀬や緑間、紫原、それに虹村さん。みんなの心に傷を残していった。征十郎はテツに会わなければ、それこそ『王様』になっていただろうし、なんの関係もない親子が引き離されることもなかった。
けど、テツの一番ひどいところは、それでも憎み切れないところだ。全部オマエのせいだと罵ってやりたいのに、テツと過ごした思い出が邪魔をする。征十郎も、テツを憎めれば楽だったろうにな。
人が珍しく真剣に悩んでいたのに、シャララ☆ と場違いな音楽が聞こえてくる。……黄瀬だ。
「黄瀬ムカつく」
「いきなり何!?」
ひどいっス~と涙ぐむ声がスマホ越しに聞こえてきて、ますますオレの機嫌は悪くなっていく。
「切るぞ」
「切らないで! 青峰っち、今から飲みにいこう!」
「は?」
「だ~か~ら~。今から飲みにいこう。緑間っちと紫っちはもう誘ってるから。あ、無職の青峰っちからは、お金取らないっスよ」
本当に黄瀬はバカだ。気に入らない人間にはとことん冷たいくせに、一旦認めるとどこまでも献身的だ。自分だって今回の件で思うところはあるだろうに、オレのためにノリの悪い二人を無理矢理誘ったんだろう。そんなに気遣ってたら、そのうちハゲるぞ?
「家の周りマスコミだらけで、外出れねーんだけど」
「心配ご無用っス。オレを誰だと思ってるんスか、売れっ子俳優の黄瀬涼太っスよ?」
「オマエやっぱムカつくわ」
黄瀬はグダグダ文句を言っていたが、一時間後に迎えにいくと言い電話を切った。
さて、と。人前に出ないからって、ここ数日髭も剃っていない。オレは背伸びをし、とりあえずシャワーを浴びることにした。
番外編:Side Black
昔から、ボクは変わっていた。影が極端に薄いのもそうだが、人として大切なものが欠けていた。いつからそうなったのかはわからない。ただ、小学一年生の時には既にそうだった。
その日は雨だった。帰り道、同級生の女の子が電柱の近くに集まっているのを見かけた。当然影の薄いボクに気付かず、可哀想などと一通り騒ぐと、そのまま去っていった。
彼女たちが去った後、何を見ていたのか確認すれば、そこには濡れてよれた段ボールが置いてあった。中には三毛猫が一匹。身動き一つせず、目は閉じたままだ。毛が体にべったりと付いて、猫の体は信じられないほど細かった。
触って確認はしなかったが、ボクが見ているのは『猫だったもの』だ。小さな三毛猫は、段ボールの中で死んでいた。
「(いいな)」
ボクは修造兄さんが通りかかるまで、ずっと猫を見ていた。段ボールの猫を自分に置き換える想像をすると、普段変わらない表情が緩むのが、自分でもわかった。
ボクは影が薄いのを不便だと思いはしても、気に病んだことはなかった。だから、親を恨んだことはないし、今でもボクを育ててくれたことに感謝している。
一人っ子だったが、近所には従兄の修造兄さんが住んでいて、彼は自分の弟や妹と同じように、ボクを可愛がってくれた。
クラスの人気者にはなれなかったが、親しい友人はいた。
勉強も運動もすべて平均、でも学校は好きだった。
それなのに、何故だろう。ボクは死に憧れた。小さい頃は憧れるだけですんだが、小学校の高学年になると行動に移すようになった。
小学校の通学路には、都心部では珍しく踏切があった。ある日、踏切を渡っている途中で、カンカンと警報音が鳴り遮断機が下り始めた。普段なら急いで渡るところだが、その時ふと思った。このままここにいれば、死ねるのではないかと。
猫の時と同じで、その想像はボクにとって魅力的だった。自分が跳ねられる瞬間を頭に浮かべると、身震いがしたほどだ。修造兄さんが見つけなければ、ボクはあの時死んでいた。
修造兄さんに泣くまで殴られた後、家に帰ると今度はお母さんにクッションで殴られた。お父さんが止めに入っても、決してやめようとしなかった。
「何考えてるの!? 何か言いなさいよ、死んじゃうとこだったのよ!!」
お母さんが髪を振り乱して怒り、そして泣く姿を、ボクは初めて見た。殴られるより、そちらの方が衝撃的だった。お母さんは最後にはその場に座り込んでわんわん泣き始め、ボクはどうすればいいかわからなかった。
「テツヤはお父さんやお母さん、それにお祖母ちゃんが死んだら悲しいですか?」
お父さんはとても怖い顔をして、けれどいつもどおり丁寧な話し方でボクに聞いてきた。ボクがはいと答えれば、今度は悲しそうな顔をされた。
「それと同じで、お母さんはテツヤが死んだら悲しいんです。だからあんなに怒って、泣いているんですよ」
そう言われれば、普通の子供なら自分の過ちに気付いただろう。けれど、ボクは欠けた子供だった。お父さんの言葉が、腑に落ちなかった。ボクは死ねれば幸せなのに、お母さんが悲しむ理由がわからなかった。
ボクが何も言わないのは、納得していないからだとお父さんにはわかったようで、力なく首を振った。
「テツヤがあのまま電車に撥ねられていたら、大勢の人に迷惑をかけていました。電車に乗っていた人たちは、ケガをしたかもしれません。それにテツヤを撥ねた運転手さんの気持ちになってください。理由はどうあれ、人を殺めてしまったのです。深く後悔されるでしょう。テツヤはそれでも、自分がしたことが正しいと思いますか?」
死にたいとは思うが、人に迷惑をかける気は毛頭ない。ボクはやっと自分がしたことの重大さがわかり、お父さんとお母さんに謝ったが、お母さんはそんなことどうでもいいと言って、ずっと泣いたままだった。
それからボクは、両親に連れられていろんな病院に行った。そこで様々な質問をされ、イラストを見せられ、診断結果を聞かされたが、ボクの死への憧れは消えなかった。遮断機が下りた踏切に入ることこそしなかったが、リストカットに首吊りと、様々な方法を試しては家族に止められた。
お母さんはボクのせいで精神を病み、入院することになった。幸せだった家庭を壊したのは誰でもない、ボクだ。責任は感じたが、それでもボクは死に憧れた。
中学に入り、ボクはある男性の元に預けられることになった。修造兄さんのお祖父さんで、木吉鉄平さんといった。修造兄さんが彼を『祖父さん』と呼ぶから、ボクも倣って彼を『おじいさん』と呼んだ。
「キミがテツヤ君か、よろしくな。黒飴食べるか?」
「いりません」
「ははっ、そうか。欲しくなったら言うんだぞ」
おじいさんはとても手の大きな人で、中学生になったボクの頭をぐしゃぐしゃとかき回した。
ボクはおじいさんのことをすぐ好きになった。大らかで頼りがいがあり、ボクのせいとはいえギスギスした実家では味わえない安らぎがあった。おじいさんはボクに将棋や囲碁を教えてくれ、お気に入りの花札はよく二人で遊んだ。
「なあテツヤ、一つ賭けないか?」
ボクが来て一月経った頃、おじいさんは賭け花札をしようと言ってきた。
「賭け事はいけません」
「お金は賭けないさ。テツヤの命を賭けよう」
おじいさんは天然気味で、真剣なのかふざけているのか判別のし難い面があったが、この時は真剣だった。
「テツヤが勝ったら、いつ死んでもいいぞ。オレは止めない。ただ、オレが勝ったらオレの死を看取ってくれ」
「ボクにおじいさんが死ぬまで死ぬなと?」
「ああ。なに、勝てばいいんだ。そうだろ?」
おじいさんは花札好きだが、さほど強くない。強くないというよりは、始めたばかりのボクと互角だったから、かなり弱い。おじいさんとの生活は好きだったが、死への憧れの方が勝っていたので、ボクはその賭けにのった。
しかし、何故かその時だけおじいさんは強かった。札が驚くほど良くて、ボクは結局おじいさんが死ぬまで死ねなくなってしまった。今思えば、恐らく札に細工をして勝負を挑んだのだ。勝った途端おじいさんは晴れやかな顔をして、約束だからなとボクの背中を叩いた。
だが中学二年の秋に、おじいさんは末期癌と診断され、余命宣告を受けた。入院しても治らないとわかると、彼は家で最期を迎えることを選んだ。
本当はボクのために、ボクに命が消える瞬間を見せるために、おじいさんは自分の命を縮めたのだけど、当時のボクにはわからなかった。
「なあ、最後に一つだけ。オレのお願い聞いてくれないか?」
すっかり小さくなってしまった右手の小指を差し出し、彼は新しい約束を求めた。
「オレが死んでも、二十歳になるまで死なないって約束してくれ」
「嫌です! おじいさんを看取ったら、ボクもすぐおじいさんの所に行きます。天国でまた二人で暮らしましょう」
「テツヤ、本当にこれが最後のお願いなんだ。頼むからオレの所に来るのは、もっと後にしてくれ」
この頃のおじいさんは、ベッドで寝たきりになっていた。自分の口で飲み食いできなくなっていたから、左腕には点滴のチューブが刺さり、髪は薬の副作用でほとんど抜け落ちていた。指一本動かすのでさえ辛かっただろう。震える手で小指を出すおじいさんを無下にできるほど、ボクは非情になれなかった。
「オレは二十歳になる直前に、ばあさんと会ったんだ。テツヤも大切な人に会えるといいな」
そう言い残し、おじいさんはその後すぐ亡くなった。
おじいさんのお葬式には、多くの人が訪れた。親戚だけではない。学生時代からの友人、昔の仕事仲間、デイサービスで会った花札仲間という人もいた。様々な人が来て、皆彼の死を悲しみ泣いた。
ボクは死んだ後のことに興味はなかったが、彼らの姿を見ていいものだなと思った。おじいさんだからここまで多くの人が涙を流すのだろうが、誰か一人でもボクのために泣いてくれれば、それは幸せなことだと思った。その幸福を二十歳になるまで奪ったおじいさんに、ボクは心の中で文句を言った。
修造兄さんはおじいさんが亡くなると、アメリカに行ってしまった。元々伯父さんが手術のため渡米していて、その時修造兄さんも一緒に行くはずだった。それがおじいさんの容体が悪化したので、先延ばしになっていたのだ。
「なんで死にたいんだ?」
空港に見送りへいったボクに、修造兄さんはそう聞いた。何度言われたかわからない台詞。ボクも決まった言葉を返した。
「なんで生きたいんですか?」
彼がボクの死にたがる理由がわからないように、ボクにも彼が生きようともがく理由がわからない。修造兄さんはそれ以上何も言わず、アメリカへ旅立っていった。
ボクは中学を卒業すると高校には行かず、おじいさんと暮らした家に引きこもった。戻ってこないかとお父さんから誘われたが、ボクのせいでこじれた家にのうのうと帰るわけにはいかなかったし、おじいさんとの思い出がある家で、二十歳までの時間を過ごしたかった。幸いおじいさんは資産家だったので、贅沢をしなければ十分なお金をボクに用意してくれた。
ボクはほとんど家の外に出なくなったが、雨の日だけは別だった。ボクは傘を差さず、雨の中を歩くのが好きだった。それというのも、風邪を拗らせて肺炎になって死なないかなという淡い期待があったからだ。病死なら、おじいさんも文句は言えまい。
二十歳まであと一年を切っていたが、その日もボクは雨足が強くなったのを見計らい、外へ出かけた。春とはいえ雨は冷たく、雨がボクの体温を徐々に奪っていくのが、死に近付いているようで恍惚とした気持ちになった。
けれどそこで、ボクは運命と出会った。彼こそがおじいさんの言っていた二十歳前に会う大切な人だった。
人気のない細い路地に入ると、小学校低学年の男の子が一人歩いていた。小学生とわかったのは黒いランドセルに高そうな制服を着ていたからで、鮮やかな赤い髪は雨に濡れてもなお輝いていた。
暗い顔をして雨に打たれる姿に、昔見た猫の姿が重なった。段ボールの中で死んでいた三毛猫、死の憧れを自覚させた存在。けれど、何故か気分は高揚せず、違う感情が芽生えた。
「(可哀想)」
気付けば、彼に傘を差し出していた。ステッキ代わりに持っていて正解だったと、自画自賛したものだ。近くで見れば彼はキレイな瞳をしていて、右がルビーのように鮮やかな赤、左は角度によっては金にも見える橙色をしていた。あの死んでいた猫の目はわからないが、同じ色をしていたのかもしれない。猫にオッドアイは多いと聞くし。
雨がやむまでのつもりで家に招いたが、彼は家がないと言った。ボクもおじいさんと会わなければ、彼と同じように家がなかっただろうから、同情したのかもしれない。そのまま家に泊めた。野良猫に仮屋を与える程度の気持ちだったのだが、猫はしばらくして弟になった。
黒子征十郎という弟は小さな王様で、利発で美しく、なんでもできた。王は孤独と聞くけれど、彼も多分に漏れず愛情に飢えて孤独だった。だから、少しでも彼の孤独を癒せればと思った。
「お兄ちゃんって、呼んだ方が嬉しい?」
「今更呼ばれても、違和感しかないですね。今までどおり、テツヤと呼んでください」
「……テツヤ」
「はい、なんでしょう?」
「オレ、今まで食べた料理の中で、テツヤの湯豆腐が一番好きだよ」
「そうですか」
ボクみたいな冴えない男のどこがいいのか、征十郎君はボクを慕ってくれた。ボクはというとすっかり情が移ってしまって、あんなに楽しみにしていた二十歳の誕生日が、もっと遅くなってもいいかなと思うほどだった。
だが、ボクは見誤っていた。
「嫌だ、テツヤがいなきゃ嫌だ」
ボク以上に、征十郎君がボクとの生活を大切にしていたのだ。大人びた彼が、人目もはばからずz泣いた。彼の宝石のような目が涙で濡れるのは美しかったけれど、心が痛んだ。二十一になる直前まで行くなと言われれば、それで彼の心が少しでも晴れるならと了承した。
だが、もう一つの約束は決して了承できなかった。彼は王様になる人だ。ボクのような凡人とは違う。彼をおじいさんの所に──天国に──連れていくわけにはいかなかった。
「オレも一緒に連れていって、ずっと側にいるって約束して」
ボクも頑固だが、征十郎君も頑固だ。いくらボクがダメだと言っても、決して諦めなかった。その後向かいの大学生と仲良くなり、ボク以外の大切な存在ができたので諦めるだろうと思っていたが、ボクが旅立つ当日になっても諦めなかった。
ついに運命の日を迎え、ボクは心が躍っていた。二十一才の誕生日前日、ついに死ぬことが許される日が来た。だがボクとは反対に、征十郎君は思い詰めた顔をし、繋いだ手を一時たりとも離そうとしなかった。
「お腹空きません?」
「空かない」
「朝も食べていないでしょう? ご飯買いにいきましょう」
「テツヤが約束してくれたら行く」
征十郎君は朝から約束を迫り、普段は昼食をすます時間になっても、ボクは動けず仕舞いだった。彼に断食させるわけにはいかないから、無理に引き離して買い物にいこうとしたが、そこで征十郎君の怒りが爆発した。
「どうして約束してくれないんだ!?」
裸足のまま庭に飛び出し、ボクの体をでたらめに叩く。流れる涙を拭おうとせず、ありとあらゆる感情をボクにぶつけてきた。何故ボクのためにここまでしてくれるのかわからず、心臓が締め付けられた。彼は魅力的な人間なのだから、ボクの代わりなんてすぐ現れるのに。
しかし、我ながらひどい男だと思うが、ボクのために泣いてくれるのが嬉しかった。おじいさんのために泣く人がいたように、ボクには征十郎君がいる。そう思うと、心が満ちていくのがわかった。
「わかりました。約束しましょう」
「オレも連れていってくれる?」
「キミの側にずっといますよ。ボクの可愛くて甘えん坊な王様」
連れていくことはできないけれど、ずっと側にいることならできる。ボクのために泣いてくれる彼のために、ボクができる最大限のことをしてあげようと思った。おじいさんは待っててくれると言ったから、彼を見守ってからおじいさんの所へ行けばいい。
いくら賢くても、征十郎君は子供だった。ボクが約束を意図的に曲げたことに気付かなかった。痛いくらいにボクの体に抱き付き、今度は嬉し涙を流した。
「買い物いきましょうか?」
「うん」
しばしの抱擁の後、真っ赤に腫れた目元を拭う。すっかり遅くなってしまったので、外で食べましょうかと聞いてみたが、彼は嫌だと言った。
「テツヤの湯豆腐がいい」
「わかりました」
「あとバニラシェイク買って帰ろう。今日は怒らないから」
「ありがとうございます」
ボクの最期の晩餐は、望んだとおりバニラシェイクになった。
夜になると、一度眠りに就けばそのまま心臓が止まる毒だと偽って、征十郎君に睡眠薬を飲ませた。
「眠くならないよ」
「すぐにはなりませんよ。いらっしゃい」
いつものように一緒に布団に入り、彼の体を抱きしめる。昔ながらの造りで一向に部屋が暖まらない家だが、こうして彼と布団に入れば、いつだってすぐに暖かくなる。
「テツヤ」
「なんですか?」
「オレ、テツヤと会って初めて十二月生まれで良かったと思った」
「どうしてです?」
「十二月生まれだったから、テツヤに二回も祝ってもらえた」
大げさなと言おうとして、途中で止めた。ボクがしたのは誕生日ケーキを買って、安物のプレゼントとバースデーソングを贈っただけだが、彼はそんな普通の幸せに飢えていたのだろう。一度目の誕生日はとても嬉しそうに、二度目は嬉しさの中に切なさを潜めていた姿が思い浮かんだ。
「青峰君たちに、お別れの挨拶するの忘れましたね」
二度目の誕生日の時、一緒に祝ってくれた友人たち。ケーキを作ってくれた紫原君、素直におめでとうの言葉が言えなかった緑間君、青峰君はプレゼントを選ぶのを手伝ってくれた。黄瀬君は黒子っちの時はもっと豪勢にしようと耳打ちしてきて、征十郎君に転ばされたなんてこともあった。
突然いなくなってしまうのは申し訳ないが、彼らはこれからを生きる人だ。半年だけ親しくしたボクのことなど、いずれ忘れるだろう。
「そうだね。けどいいだろ、今日くらいオレに独占させて」
「青峰君たちは、ボクたちはべったりしすぎだって言ってましたよ」
返事を待ったが、征十郎君は黙ったままだ。不審に思って顔をのぞけば、目をパチパチさせ今にも眠ってしまいそうだった。彼ともう話せなくなるのが寂しくて、彼の背に回す手へ力を込めた。
それで眠気が引いたのか、うとうとしていた征十郎君がボクの服を引っ張る。辛うじて聞き取れる程度の小さな声で、好きだよと言い、征十郎君は瞼を閉じた。後には穏やかな寝息だけが聞こえてくる。
自分でも不思議に思っていたことがある。死にたい人間は死なせてやればいいというのが、ボクの考えだ。社会のルールや道徳心で、死を妨げるのはおかしいと思っていた。だがその考えは、何故か征十郎君にだけは当てはまらなかった。
彼に伝わることはないとわかりつつ、ボクは自分の気持ちを口にした。
「ボクもですよ。いつの間に、これほど愛しい存在になってしまったんですかね」
それがすべての答えだと知ったのは、自分の首を掻っ切った後だ。彼が王様になる人だからでない、ただ単に大好きな彼に死んでほしくなかったのだと……そんな簡単なことに、ボクは最期の時が来るまで気付けなかった。
次に意識を取り戻した時、ボクは同じ場所にいた。ただ、目の前には血まみれの自分と泣き縋る征十郎君。その後ろで茫然と立ち尽くす青峰君。二人は隣に立つボクに、気付いていないようだった。
征十郎君の側にいると約束したが、死後の世界があるかは半信半疑だった。それでも今の状況を考えると、ボクは幽霊になったらしい。手をかざせば、向こうの景色が透けて見えた。
「テツヤ、テツヤ、テツヤァアアア!!」
救急隊員の人がボクの死体を運ぼうとしても、征十郎君はボクから離れようとしなかった。そんなに泣かないでほしいと彼に手を伸ばしても、ボクの手は彼の体を通り抜けた。代わりに青峰君が、征十郎君を押さえつける。
「(青峰君にも悪いことをしました。早く忘れてくれるといいんですが)」
征十郎君の手前冷静でいようと努めているが、動揺しているのは目に見えてわかった。この時のボクは、もっと違う方法で死ねば良かったかなと思ったくらいで、まだ事の重大さをわかっていなかった。
それを理解したのは、征十郎君がお父さんの所へ帰ってからだ。征十郎君のお父さんは、行方不明だった息子が帰ってきても、彼を抱きしめはしなかった。始めの頃はひどい人だと思ったが、征十郎君を通して彼を見るうちに、そうではないとわかった。
自分に息子を抱きしめる資格はないと、彼はそう思っているようだった。仕事を優先し、自らの手で子供を救い出せなかったことを恥じている。帰ってきた征十郎君に休みなく習い事をさせ、目の色を隠すよう言い付けたのも彼のため。彼の将来のため、彼が目の色のせいでいらぬ誹りを受けないため。だが征十郎君に、その思いは伝わっていなかった。
「僕を愛してくれるのは……テツヤだけだ」
征十郎君は、不器用な愛情を理解できなかった。
「待っててテツヤ。僕は強くなる」
歪に笑う征十郎君を見て、ボクは自分の愚かさを思い知った。
それから彼は、あらゆる他者を拒絶した。彼が好きだという人も、彼に憧れる人も大勢いたのに、誰にも心を開かなかった。唯一心を開いたのが、哲也君という……ボクの小さな頃にそっくりな男の子だった。
彼をボクの生まれ変わりとして接する征十郎君は、明らかにおかしかったけど、修造兄さんは止めてくれなかった。修造兄さんは、征十郎君の幸せを最優先した。
「虹村さん、これはどう読みますか?」
「あ~、それは『ギン』だ。シルバーのことな。つーか、もうそんなの読んでんのかよ」
修造兄さんは男の子の世話をするため、赤司家の家政夫になった。今も幼稚園の制服のシャツにアイロンをかける傍ら、男の子が見せた児童書の漢字を教えている。
「小学三年生向きって書いてんじゃねーか。面白いのか?」
「……」
「無理して読むな。こないだ買ったギミック絵本にしとけ」
「……こっちの本の方が、征十郎くんがよろこんでくれます」
征十郎君は、彼にボクと似た行動を取ることを望んだ。ボクが活字中毒だったので、絵本より児童書を求めた。そしてこの男の子は、征十郎君が喜ぶことを何より優先する。
癖のアヒル口をして、修造兄さんはしゅんとした男の子を見ていたが、アイロンのスイッチを切り男の子の隣に座った。
「あのバカもオマエくらい思いやりがあれば、死んだりしなかったろうにな」
「だれかしんじゃったんですか?」
「オレの従弟の大バカだ。自分を大切に思うヤツが大勢いたのに、勝手に死んじまった」
「なきましたか?」
「そりゃ泣いたさ。悲しいのもあるけど、半分は怒りだな。祖父さんがあれだけ必死になって伝えようとしたことを、アイツは少しも理解しなかった」
男の子は急にソファから下りると、ティッシュ箱を持って戻ってきた。
「ボク、その人のためにおいのりしてあげます。だから、なかないで虹村さん」
「……すまない」
男の子の優しさへの礼と、彼を母親から引き離していることへの謝罪。両方の意味が込められた言葉だった。
修造兄さんが泣く傍らで、ボクも泣いていた。おじいさんや修造兄さんがボクに生きろと言い続けたのは、ボクを大切に思っていたから。ボクを大切に思う人たちを不幸にするから。どうしてこんな簡単なことが、わからなかったのだろう。
ボクが不幸にした征十郎君は、青峰君たちが助けてくれようとしたけど、結局自ら命を絶ってしまった。
彼の死を見届けると、ボクは見知らぬ空間にいた。そこは何もなく、どこまでも続く地平線と青空だけが広がっていた。突然のことで立ち尽くしていると、ポンと肩を叩かれた。
「結局来てしまったんだな」
「ごめんなさい……」
おじいさんの顔を見ると、それしか言えなかった。おじいさんは苦笑いをすると、ボクの両肩を掴み、体の向きを変えた。
「説教は後だ。迎えにいってやれ」
視線の先には、赤い髪の青年が立っていた。ボクより背が高くなり、体つきもしっかりとしている。けれど後ろ姿に、あの幼い日の面影が残っていた。ボクは駆け出し、大きくなった背中を抱きしめた。
「ごめんなさい」
勝手だと思いながら、彼の背に涙が滲む。彼はしばらく何も言わなかったが、ふと笑う気配がした。
「全部許してあげる。だから」
どこまでも穏やかな声。眠る哲也君にかけた最後の言葉のように。顔を上げれば、振り向いた彼と目が合った。王様の目は笑っていた。
「正面から抱きしめてほしいな」
小さい頃と全然変わっていなくて、思わず笑ってしまった。正面から抱きしめてあげれば、腕にすっぽり収まることはなかったけれど、幸せそうに目を閉じる様子は何一つ変わっていなかった。
「馬鹿な王様。せっかく助けてあげたのに」
「どうして連れていってくれなかったの?」
「キミのことが、誰よりも好きだったから」
「それはオレも一緒だ。君を誰よりも好きだったから、いつまでも共にいたかった」
「ごめんなさい」
「もういいよ。その代り、もっと抱きしめて」
「わかりました」
ずっと抱きしめていてあげます。キミはボクの弟だから。