我が主と秘密遊戯を2(後編)第六章:生きた証
「離脱者の発表を行います。刀剣男士2の明石国行の勝利。審神者5の播磨、敗北です」
一階の医療室に行った。彼の主はいなかった。ずれた掛け布団、机の上に置かれた薬と包帯、そして床の血痕。彼は先を急いだ。
「離脱者の発表を行います。審神者1の五七桐が遊戯を棄権しました。五七桐の棄権に伴い、刀剣男士5の一期一振も遊戯を離脱します」
広場近くの本棚が並ぶ部屋に行った。彼の主はいなかった。腰かけの背もたれに羽織がかけてあるのを見つけた。
「離脱者の発表を行います。刀剣男士3の鶴丸国永の勝利。審神者4の竜胆、敗北です」
建物の外に出、どこまで行けるか試してみた。門を潜ろうとしたところで結界に阻まれた。彼の主はいなかった。
「もう一組発表いたします。刀剣男士4の堀川国広の勝利。審神者8の豊玉、敗北です」
門から北西の別建屋に行った。彼の主はいなかった。前に来た時は座面に矢の刺さった椅子があったが、誰かが矢を抜いたようだ。
「離脱者の発表を行います。刀剣男士7の加州清光の勝利。審神者6の爪紅、敗北です」
四階の庭園に行ったが、彼の主はいなかった。その後同じ階の廊下で、主の髪留めを拾った。
「離脱者の発表を行います。…………の勝利。…………、敗北です」
今度は三階の金属の扉の部屋に行った。彼の主はいなかった。刀鍛冶が彼を出迎え、鍛刀はできないと木の板で伝えた。彼は落ちていたタブレットを拾い、部屋を後にした。
「離脱者の発表を行います。…………の勝利。…………、敗北です」
階段を下り目的の階に着くと、幅の広い通路が見えた。彼はここで起きた出来事を思い返したが、彼にとってはさして重要なことではなく、主の元ヘ急いだ。
神隠しされた審神者と神隠しした刀剣男士による秘密遊戯。残る参加者はへし切長谷部と茶坊主のみ。
長谷部は拾ったタブレットの地図を元に、聖堂の前に来ていた。七組目離脱後も何度か前を行き来した場所だ。部屋の中に入らなかったのは、無意識のうちに避けていたと認めざるを得なかった。
木製の扉を押すと、場に似つかわしくない血の臭いが漂ってきた。彼は部屋の奥へと走り、キリスト像のかけられた壁に背を預け座る主を見つける。
「見つかっちまったね」
キリスト像の上には天窓があり、像がある一帯だけわずかながら明るくなっている。それ故、彼女が珍しく髪を垂らしているのも、墨色の着物に赤黒いシミができているのもはっきり見えた。長谷部は躓いて怪我の具合を確認しようとしたが、主がそれを手で制した。
「さすがのアンタでも間に合わなかったか」
「申し訳ありません。ですが、しゃべらないでください。傷に障ります」
「私が初めから宗三のこときちんと伝えてれば……」
話が噛み合わないのは痛みで主の意識が朦朧としているからだと長谷部は思っていた。けれど彼女は雰囲気で行き違いがあると察したらしく、彼が握る髪留めを見、それから彼の顔を見た。
「これ、爪紅から渡されたんだろ」
爪紅とは加州に負けた審神者の名だ。だが彼は遊戯中爪紅とは遭遇しておらず、髪留めは廊下で拾ったのだと伝えれば、彼女はしばらく黙り込んだ後、そうかいとだけつぶやいた。長谷部は彼女に髪留めを返そうとしたが、茶坊主は受け取らずに正面を向く。
「なあ長谷部、私の懺悔を聞いてくれないか?」
「それよりもまずは手当てを」
「できることはもうやったさ。それに話している方が気が紛れるんだよ神父様」
「……嫌な言い方をされますね」
場所と状況、それに長谷部の格好から彼を神父と呼んだのだろうが、あまりいい気はしない。だが彼は、話を聞くこと自体は拒否しなかった。主命ならば従うまでであり、そして茶坊主が言うとおり、彼の目から見てもこれ以上の手当はできなかった。茶坊主はありがとうと礼を言い、自分の過去を語り始めた。
茶坊主は地元では名の知れた神職の家に生まれた。霊力が高い子供を授かるため、同じ一族の者同士で結婚するのはよくある話で、彼女も幼い頃から彼女の従兄と結婚することが決められていた。
しかし生まれた時こそ強い力を持っていた彼女だが、成長するにつれその力は失われていき、ついには跡継ぎである従兄との婚約も破談となる。それが彼女が二十二の時の話。家にいられなくなった彼女は審神者となった。
「あの頃は戦争も始まったばかりで、神職の家系ってだけでありがたがられたもんだ。こんな力のない女でも是非にと喜ばれたんだよ」
不純な動機で始めはしたが、彼女は審神者という職業にやりがいを感じた。歴史を守る仕事は正義感の強い彼女に合っていたし、自分が呼び出した神々が強くなっていくのを見ると充実感も得られた。けれど本丸の運営が軌道に乗ってきた頃、従兄が妻と死別し彼女との再婚を望んだ。
「君を忘れたことはなかったってアイツ言ったんだ。ふざけんなって思うだろ? 仕事が面白くなってきて、ようやく前を向いて歩き出した時にそんなこと言いやがって」
どれも彼が初めて聞く話だった。様々な感情が湧き起こったが、彼は目を伏せ、断られたのですか? とだけ聞いた。
「ああ、私にだってプライドはある。けどアイツ、その後すぐに死んじまった。……勘違いしないどくれ。終わり方も含めて、審神者を続けたことに後悔はない。ただアイツと結婚して子供を産んでたら……こんな私でも世界に『生きた証』を残せたんじゃないかって思うんだ」
そこで彼女の顔が泣きそうにぐしゃりと歪んだ。
「私が助けた子が現世に帰って、子供ができて、その子が子供に茶坊主って女がいたからお前が今ここにいるんだって言ってくれたら……。それって私の『生きた証』になるんじゃないかって。みんな助けてやりたかった、でもそれって誰でもいいってことでもあるんだ。だから誰の力にもなれなかった」
「そういうお考えもあったのかもしれませんが、それだけだったわけでもないでしょう。貴方はそういう方だ」
長谷部は遊戯中の彼女のことは何も知らないが、それでも容易に想像することができた。自分の勝敗に執着せず、他の審神者を助けるため奔走し、皆の敵となった鬼札も切り捨てはしなかった。肩の怪我だって他の者を助けようとして負ったものに違いない。
茶坊主は首を振り、長谷部の胸に顔を埋めた。長谷部は彼女の背に手を回そうとしたが、すまなかったと言われ手が止まった。
「私はアンタに一番謝らないといけない。すまなかった長谷部。私はアンタの望む主じゃなかった」
彼を呼び出したのは、若い女だった。自分の新しい主が女だとわかると、彼は酷く落胆した。短刀ではあるまいし、女なんぞに仕えて何になる。けれど彼は自分の気持ちを隠し、恭しく新しい主に頭を下げた。
主となった女に仕え始め、女のことを知れば知るほど、長谷部は失望した。女は何一つ満足にこなせなかった。指揮は初期刀の助言がなければできず、細かいことが苦手で政府に出す報告書も抜けが多い。資源の管理など論外だ。
性格も彼が求める主君像とはかけ離れていた。姉御肌といえば聞こえはいいが、刀剣の身の回りの世話を買って出、夜になれば酒が飲める連中を誘い宴会を開く。宴会の度次郎太刀と肩を組み、大口を開けて笑う姿に、長谷部は頭が痛くなった。
それでも長谷部は文句一つ言わず女に仕えた。それが従者のあるべき姿だからだ。これほど優秀な刀を手放した信長はうつけであり、長政は優れた主君だったのだと思うために。偽りの笑みで女に仕え続けたのだが……。
「私はアンタから信長公を忘れさせてやることも、長政公を越えることもできなかった。こんな女じゃなくてもっと優秀な審神者だったらって思っただろう。けどアンタはよく仕えてくれた。あの時神隠ししてくれたおかげで、私は人より長く生きれた。だからもういいんだ長谷部」
本丸が遡行軍に襲われた時、茶坊主は薬研とその兄弟たちを敵に向かわせ、長谷部には自分ごと本丸を燃やすよう命じた。薬研ではなく自分が、主の最期を共にする刀に選ばれたのだと長谷部は思った。本丸に火を点け主の元に戻る途中、戦う薬研を見て気分が高揚した。しかし、戻ってきた長谷部に彼女は逃げるように言った。
──何戻って来てんだい。早くお逃げ。
──今までよく仕えてくれたね長谷部。だから、もういい。早くお逃げ。
彼女を隠したのは、裏切りに対する報いを与えたかったからだ。彼女が思うような忠誠心からの行動ではない。長谷部は彼女を主として認めていないのだから、忠誠心などありようがないのだ。
「これが本当の最後の主命だ。私から自由におなり。本霊に戻って、新しい刃生始めて、今度こそアンタに相応しい主を見つけるんだ」
彼から離れ顔を上げた茶坊主の目は、とても優しかった。時々短刀たちに向けていた、母親のような目だ。けれどそれは長谷部にとって、何の慈悲にもならなかった。
「嫌です」
「長谷部」
「主命といえども聞けません」
「意固地になったって仕方ないだろ。長谷部、……」
「うるさい!!」
固まった茶坊主を見て、長谷部は自分の失態に気づく。しかし茶坊主は苦笑し、長谷部の顔に手を伸ばした。
「でっかい図体して、何泣いてんのさ」
馬鹿な子だねぇと言いながら、茶坊主は長谷部の目尻を拭う。何故泣いているのか、自分のことなのに彼にはわからなかった。そしてどうすれば涙が止まるのかもわからず、茶坊主の顔を見つめるしかできなかった。
失態を重ね、守るものがなくなったからだろうか。互いに触れずにいたあの日のことについて、尋ねていた。
「俺を刀解しなかったのは何故ですか?」
彼の神域へ道が繋がり、主を連れていこうと主の体を引き寄せた時、彼女は長谷部の柄を掴んだ。無駄な抵抗と高を括り止めなかったが、その後筆舌尽くしがたい痛みに襲われた。だがそれも一瞬のことで、突然の痛みを疑問に思いながら、彼は主を神隠しした。
あれは審神者たちが噂する合意なき刀解だったのではないか。そう思い至るまでに時間はかからなかったが、何故刀解が最後まで遂行されなかったのかは今に至るまで聞けずにいた。
「私の力じゃ合意なき刀解は無理だった」
「……」
「違うんだ長谷部!」
彼女が長谷部の服を掴む。とっさに右手を使ってしまい顔をしかめるが、彼女は必死だった。
「私なんかのために長谷部の時間を無駄にしたくなかった! アンタに相応しい主の元へ行ってほしかったんだ。だから逃げろとも言った。アンタに、長谷部に幸せになってほしかったんだよ!」
「俺の主は貴方だ。貴方以外を主と呼ぶつもりはありません」
偽りの仮面をつけ言っていた言葉が、するりと出てきた。自分の本性はばれていたのだから、今更ご機嫌取りなんてしないでいいはずなのに……。そこまで考え、長谷部は偽りの仮面をつけた気になっていただけだと気づく。
長谷部はこの主が好きなのだ。無能でがさつで、彼のためだと言いながら見当違いなことをする彼女が、どうしようもなく好きなのだ。だから無能だと蔑みながら近侍の座は他に譲らず、逃げろと言われて絶望した。
「俺を愛してください」
一度自分の気持ちを認めてしまえば、秘めていた思いが堰を切ったように溢れてきた。
「俺を誰よりも愛してください。他の連中よりも、俺の方が優れていると認めてください。俺を、俺を……俺をお側に置いてください。俺はいつまでも貴方と共にありたい」
「……わかった。わかったから、いい加減泣くのはやめな。いい男が台無しだ」
そう言って彼の涙をまた拭ったが、しばらくして彼女がふっと笑う。けれどその声は震えていた。
「私も馬鹿だねぇ。『生きた証』ならここにいるじゃないか」
彼の胸に突っ伏し肩を震わす主に、長谷部は何と声をかければいいかわからず、天を見上げれば十字架に張りつけられたイエス・キリストの像があった。あれほど懺悔を強いているように見えた神の子が、今は彼を見守っているように見えた。
「離脱者の発表を行います。刀剣男士1のへし切長谷部の勝利。審神者3の茶坊主、敗北です。これをもって、第二回秘密遊戯を終了いたします」
≪離脱条件一覧≫
審神者1:五七桐 【引き分け】
離脱条件(易)政府の用意した8種の道具のうち、2つ以上を使用する
離脱条件(難)政府の用意した8種の道具を全て破壊する
鬼札(審神者2):長船
離脱条件 刀剣男士を1口刀解する
審神者3:茶坊主 【敗北】
離脱条件(易)5時間以上他の参加者と遭遇しない
離脱条件(難)24時間以上誰とも遭遇しない
審神者4:竜胆 【敗北】
離脱条件(易)審神者が1名以上遊戯に勝利する
離脱条件(難)審神者が4名以上遊戯に勝利する
審神者5:播磨 【敗北】
離脱条件 遊戯開始から328分が経過する
審神者6:爪紅 【敗北】
離脱条件(易)遊戯の勝者が2名以上になる
離脱条件(難)審神者と刀剣男士が、それぞれ2名以上遊戯に勝利する
審神者7:眉月
離脱条件(易)7つ以上の離脱条件の所持者を特定する
離脱条件(難)刀剣男士陣営全ての離脱条件の所持者を特定する
離脱条件(極)???
審神者8:豊玉 【敗北】
離脱条件(易)5時間以上嘘を吐かない。ただし、真偽は審神者の認識に基づく
離脱条件(難)25時間以上嘘を吐かない
刀剣男士1:へし切長谷部 【勝利】
離脱条件 自分が神隠しした審神者の真名を把握する
刀剣男士2:明石国行 【勝利】
離脱条件 遊戯開始後、6名以上の参加者と遭遇する
刀剣男士3:鶴丸国永 【勝利】
離脱条件 自分が神隠しした審神者が神隠しに合意する
刀剣男士4:堀川国広 【勝利】
離脱条件 刀剣男士1、3、5、7のうち、1名以上が遊戯に勝利する
刀剣男士5:一期一振 【引き分け】
離脱条件 2回以上、離脱条件が変更される
刀剣男士6:燭台切光忠
離脱条件 自分が神隠しした審神者と30分以上同じ部屋に留まる
刀剣男士7:加州清光 【勝利】
離脱条件 審神者1、3、5、7のうち1名以上と、2時間行動を共にする
刀剣男士8:三日月宗近
離脱条件(易)自分が神隠しした審神者の半径3.28メートル以内に1時間半いる
離脱条件(難)???
≪道具一覧≫
道具1:宗三左文字
道具2:秘密遊戯の候補者リスト
道具3:位置情報アプリ
道具4:拘束札×3
道具5:???
道具6:刀装用祭壇
道具7:刀鍛冶
道具8:とある打刀の赤縄
第七章:終わりの始まり
宗三は今の主から神隠しされた前の主を助ける方法があると言われ、遊戯への参加を決めた。だが、もし『主を神隠しした男を殺すことができる』と言われていたら、彼の決断は変わっていただろうか。
「あれ? 宗三君?」
主を助けるため、赤縄の置かれた部屋に行ったが一足遅く。部屋を出れば、廊下の向こうに因縁の男が現れた。燭台切光忠。彼の主を強姦したうえ監禁し、ついには神域に連れ去った。
──助けて! 僕はここだ!
「残りの一人は加州君だと思ってたけど、君も参加者?」
脳裏に蘇った主の姿に気を取られ、その間に燭台切の接近を許してしまった。奇襲をしかけるにはもう遅い。舌打ちの一つでもしたい気分だったが、顔にはおくびにも出さず、彼はわざと刀から手を離した。
「いいえ、違います。僕は政府の用意した道具の一つです」
参加者を偽る方法も考えたが、今の彼にはタブレットがない。嘘を吐き通すのは難しいと判断した。
「へぇ、なるほどね」
やはりなと宗三は心の中でつぶやく。燭台切は宗三が同じ本丸にいた宗三左文字だと気づいていない。新しい主の下で過ごすうちに、宗三の中にあった彼女の霊力が薄れたからだろう。
「主を探しているのですか?」
気づいていないのなら、気づいていないが故にできることもある。宗三は何も知らないふりをして、情報を引き出すことに決めた。
「そうだよ。早く見つけてあげたいんだけど、宗三君は僕の主を見なかった?」
「さあ? 知りませんね」
見つけてあげたいという言い方に思うところはあるが、彼は知らないふりを続けた。実際、彼もまた主を見つけていないのだから見なかったというのは本当だ。燭台切はそっかと言うも、元から期待はしていなかったらしく、落胆しているようには見えなかった。
「ところで」
その流れのまま燭台切光忠らしい気さくさで、彼は宗三に聞いた。
「宗三君は誰の味方?」
あまりに直球すぎて驚いたが、燭台切が自分を即座に信用するとは宗三も考えていなかった。
「審神者の味方だった……というのが正しいのでしょうね」
「どういうことかな?」
「道具として配置された僕を顕現したのは、五七桐という名の審神者でした。ですが貴方も知ってのとおり、彼は棄権しましたから。今は主もおらず、晴れて自由の身です」
「君はその人が棄権するのを止めなかったのかい?」
「『政府の用意した8つの道具を全て破壊する』、それが彼の離脱条件でした。なので僕たちは別れて道具を探していて、彼が棄権した時、僕は側にいませんでした。一体全体、どうして棄権なんてしたんでしょうね」
「八つの道具の中には、君も入ってるけど」
「僕はこの遊戯のためだけに用意された存在ですから、遊戯が終われば刀解されます。早いか遅いかの違いだけですよ」
作った嘘の中に事実を織り込んでいく。燭台切はそうなんだと相槌を打ちはするも、宗三の発言を吟味しているようだった。だが、警戒はされていない。上々の出来だ。宗三は燭台切の反応に手応えを感じながら、どうやって燭台切の離脱条件を引き出すか、頭の中で算段をつけていた。
「それなら僕が協力してってお願いしたら、君は協力してくれる?」
燭台切が投げかけた言葉に、彼は言葉を失った。表情をなくした彼を見て、やっぱりねと燭台切は苦笑するが、宗三は取り繕うことすらできなかった。
「どいてどいてどいて~!!」
カツカツというよりガツガツといった方がいいヒール音と、加州の張り上げた声が響く。二人そろって燭台切が元いた廊下の先を見れば、白いパーカーを着た少年を俵担ぎした加州が走ってくる。加州は両端に寄った彼らの間を駆け抜け、加州が通り過ぎたと思えば今度は三日月がやって来て、三人はあっという間に廊下の曲がり角へ消えていった。
「まだやってたんだ」
三人が消えていった先から燭台切に視線を移せば、彼は片手を上げ目の前の階段を小走りで下りていく。宗三はとっさに体を前に傾けたが、追うのをやめた。彼の足なら追いつけるが、最高練度の彼と今戦う意義は薄い。
──助けて! 僕はここだ!
あの日の主の声が響く。現世へ一時帰還した主が帰ってこず、皆が心配していた。無関心を決め込んでいた宗三でさえ、ふと気づけば主のことを考えている有様だった。
あの日、手持ち無沙汰だった宗三は、遠征へ行くまでの間一人庭の散策をしていた。すると、女に名前を呼ばれた。今本丸には男しかおらず、幻聴だと思いながらも辺りを見渡せば、また名を呼ばれた。
声のした方を見ると、使われていない部屋の襖がわずかに開いており、その向こうに人影が見えた。周りに誰もいないことを確認してから部屋の前へ近づき、宗三は襖を開けた。
──主……なのですか?
聞かずにはいられなかった。主の姿は、宗三が知る主とは大きく異なっていた。装束が狩衣から緋袴に変わっているのはまだいい。短かった髪が結えるほど長くなり、生娘にはない女の色香がした。
ダンっと大きな音が響く。宗三がらしくもなく壁を拳で殴ったからだが、今の宗三の頭を占めているのは燭台切の言葉だった。
「(僕に協力してくれなんて、よくもぬけぬけと)」
宗三は思う。もし『主を神隠しした男を殺すことができる』と言われていたとしても、自分は迷わず遊戯に参加しただろうと。
加州が離脱した以上、眉月が屋上庭園に留まる理由はなかった。むしろ、三日月がいるので一刻も早くその場を去るのが賢明だった。鬼札の手を掴み立ち上がらせようとするが、鬼札は体重をかけ拒否する。
「立て」
彼の行動は善意によるものではなく、彼女を自身の勝利のために利用しようとしていたからであり、彼女の判断は正しいといえる。だが、だからといって眉月が彼女の意思を尊重するはずはなく、一度手を離すと彼女の頬を叩いた。
鬼札が頬を押さえ彼をにらみつけるが、彼の心は少しも動じなかった。立てともう一度命じる。従わない場合は、もっと強硬な手段に出るつもりでいた。
「――」
三日月が鬼札の真名を呼んだ。動きを封じるに、口は入らないらしい。
「俺の刀を使っていいぞ。お主の好きなように使うといい」
眉月は舌打ちをすると、鬼札が完全に立ち上がる前に屋上庭園を出、最寄りの階段から一階へ逃げた。
全力で走り続け、昇降口を出ようとしたところで眉月は足を止めた。結界に邪魔され会場の外に出られないのは確認済だった。
走るのをやめると大量の汗が吹き出し、疲労感が襲ってきたが、彼は腰を下ろそうとする自分を諫め、一期一振が所有していたタブレットで地図を開いた。
四階の屋上庭園に赤と青のアイコンが表示されている。続いて一階を見たが、こちらは昇降口に赤いアイコンが一つのみである。彼はその他の参加者の位置も確認したうえ、爪紅が講堂と呼んでいた建物に身を隠すことにした。
学校生活に縁のない彼には、講堂がどういう施設なのか知らなかったが、奥のステージに向かい椅子が設置されていることから、だいたいの用途は想像できた。彼が講堂に来たのは二度目だったが、以前来た時と違い、ステージ近くの椅子の座面に矢が刺さっていた。
「(弓兵か)」
こちらも縁がなかったが、見る限りかなりの威力らしい。彼は階段の麓に座り逃げ道を確保してから、離脱条件一覧が見られる自分のタブレットを開いた。
≪離脱条件一覧≫
審神者1:五七桐 【引き分け】
離脱条件 政府の用意した8種の道具を全て破壊する
鬼札:???
離脱条件 刀剣男士を1口刀解する
審神者3:茶坊主
離脱条件 24時間以上誰とも遭遇しない
審神者4:竜胆 【敗北】
離脱条件 審神者が4名以上遊戯に勝利する
審神者5:播磨 【敗北】
離脱条件 遊戯開始から328分が経過する
審神者6:爪紅 【敗北】
離脱条件 審神者と刀剣男士が、それぞれ2名以上遊戯に勝利する
審神者7:眉月 0:39:32
離脱条件 離脱条件変更から4時間以内に、全ての離脱条件の所持者を特定する
審神者8:豊玉 【敗北】
離脱条件 25時間以上嘘を吐かない
刀剣男士1:???
離脱条件 自分が神隠しした審神者の真名を把握する
刀剣男士2:明石国行 【勝利】
離脱条件 遊戯開始後、6名以上の参加者と遭遇する
刀剣男士3:鶴丸国永 【勝利】
離脱条件 自分が神隠しした審神者が神隠しに合意する
刀剣男士4:堀川国広 【勝利】
離脱条件 刀剣男士1、3、5、7のうち、1名以上が遊戯に勝利する
刀剣男士5:一期一振 【引き分け】
離脱条件 2回以上、離脱条件が変更される
刀剣男士6:???
離脱条件 自分が神隠しした審神者と30分以上同じ部屋に留まる
刀剣男士7:加州清光 【勝利】
離脱条件 審神者1、3、5、7のうち1名以上と、2時間行動を共にする
刀剣男士8:三日月宗近
離脱条件 自分が神隠しした審神者の半径3.28メートル以内に2時間いる
残る空白は三つ。鬼札、それから刀剣男士1と6だ。小講堂で鬼札の遊戯者名を聞き出さなかったのは、痛恨のミスとしか言いようがない。鬼札の名がわかっていれば、茶坊主の敗北を狙う線もあった。
しかし今の彼にとって過去を悔いる時間すら惜しく、考えねばならないのはいかに早く確実に、鬼札を離脱させるかだ。燭台切が刀剣男士1なら話は簡単だ、鬼札の真名を彼の前で言うだけでいい。だが刀剣男士6の場合はと眉月は考える。
鬼札は三日月の手に落ち、燭台切に鬼札の居場所を教えたところで、三日月は鬼札を渡さない。そこで二人が争ってくれればいいが、一番ありえるのは三日月の頼みを燭台切が了承するパターンだ。『お前の主に手荒な真似はしない。だから、二時間ほど待ってくれ』。そう言われれば、燭台切は断らない。断る理由がない。
眉月は再び一期のタブレットを見た。黄色のアイコン(突然屋上庭園に表示され、時間からして宝珠だと判断したのは正解だった)はなく、あるのは赤いアイコンが三つ、青いアイコンが四つ。
赤が審神者、青が刀剣男士なのはほぼ間違いないとして、タブレットの故障でない限り、三日月、燭台切、長谷部の他にもう一人刀剣男士がいることになる。
「(考えられる可能性は何だ?)」
眉月は自分自身に問いかける。
「(離脱した刀剣男士の内一名が、実は会場に残っている)」
もしくは
「(対となる審神者がいない九番目の刀剣男士が存在する)」
今の彼が思いつく可能性は、その二つだけだった。タブレットに表示されている赤のアイコンは、彼を除くと他に二階と四階にいる。眉月は時間がないのを承知のうえで、茶坊主に会いに行くことにした。
目的の部屋は講堂の二階出入口からすぐ出た所にあった。扉を開ければ、真っ先に壁のキリスト像が目に入ってくる。彼はタブレットの表示に従い奥へと進んでいったが、茶坊主に近づくにつれ、血の臭いが強くなっていった。
講壇に隠れて彼女の姿は途中まで見えなかったが、近くに行くと彼女が壁にすがり、右肩を怪我しているのがわかった。
「アンタか」
眉月を見て、茶坊主の表情が緩んだ。けれどそれは刀剣男士でなかったからであり、歓迎されていないのは聞かずともわかった。わかったうえで、彼は全て無視した。
「鬼札の遊戯者名、長谷部と燭台切、もしくは宗三左文字の離脱条件。どれでもいい、あんた何か知ってるか?」
彼は加州が口にした宗三左文字のことが引っかかっていた。鬼札は相手の刀剣男士を燭台切と言ったが、彼女の証言以外に証明するものはなく、本当の相手は宗三左文字であってもおかしくはない。
茶坊主の性格を考えると、知らなければ知らないと即答しただろう。けれど彼女は何も言わない。何かあると察し、眉月は答えを促したが、茶坊主は彼の言葉に被せてきた。
「アンタ、爪紅を裏切って加州に味方したそうじゃないか」
「それがどうした?」
「根性腐った野郎だね」
「気に食わないやつは負ければいいってことか? あんたの決意はそんなものだったのか? かわいそうな鬼札が助かれば他はどうでもいいのか?」
あえて挑発的な言葉を並べれば、茶坊主は嫌悪感を露にしながらも、自分の持っている情報を眉月に教えた。
鬼札の相手は燭台切光忠であり、宗三左文字は燭台切に隠された主を助けるため、政府の道具として遊戯に参加した。茶坊主は途中まで宗三と行動を共にしていたが、爪紅のことで仲違いし、別れたのだと茶坊主は言う。
「あの子は主を助けるため遊戯に参加している。アンタに構ってる暇なんてないんだよ」
心入れ替えりゃあ違うかもしれないけどと付け加えるが、眉月にとってはどうでもいい情報だった。
「そいつは自分の主が鬼札だと知っているか?」
「知ってるね。それがどうした?」
眉月はそれさえわかれば十分であり、茶坊主に用はもうなかったのだが、怪我を負った茶坊主を見ていると、抑えていた感情がふつふつと沸き上がってきた。全くの時間の無駄だと思いつつ、彼は茶坊主に疑問をぶつけた。
「あんた、何故自分より他の参加者を優先する?」
「もう話しただろ」
「あんなの理由になるか」
茶坊主が言うように、審神者3でありながら眉月たちに協力する理由を彼女は話していた。現世に帰っても知り合いがいない自分より、家族が待っているあんたたちの方が大事だと茶坊主は言った。彼女から聞いた時の、怒りとも苛立ちともつかない気持ちが、眉月の中で再発する。
「俺も現世に知り合いはいない。血縁者は姉以外いないと聞くし、その姉も現世に行ったところできっと会えない。それでも俺は現世に行く。どんな手を使っても、人から恨まれたとしても。俺は自由な世界へ行く」
彼の強い意志を前にして茶坊主は目をそらしたが、何かに気づいたらしく、眉月を再度見た。
「何でアンタは『帰る』って言わないんだ?」
茶坊主にしても爪紅にしても。現世に『帰る』、もしくは『戻る』と言う。だが眉月は終始『行く』としか言わない。
「もしかしてアンタ……」
『行く』としか表現できない彼の背景に思い当たる節があるらしく、嫌悪に満ちた表情はみるみるうちに憐れむものへと変わる。しかし彼女の変化は眉月から苛立ちすら失わせ、茶坊主に対する興味を完全になくした彼は、出口へ向かった。
「宗三に会ったら!」
宗三の名に、眉月は振り返った。傷に響いたらしく、背を丸めて腕に爪を立てていたが、彼女は続けた。
「茶坊主が謝ってたって伝えてくれないかい? アンタが自分の主さえ良けりゃそれでいいなんてやつじゃないこと、アンタを振り回した私が一番わかってるのに、悪かったって。あと、できればがんばりなよとも言ってほしい」
眉月は最後まで聞きはしたが、返事をすることはなかった。
聖堂から出ると、眉月は再度参加者の位置情報を確かめた。青いアイコンは一階に二つ、三階と四階に一つずつある。鬼札を示す赤いアイコンも一階にあったが、三日月の真名呪いがある以上、安易に近づくのは危険だった。
狙うは一階と三階の刀剣男士のどちらかだったが、彼は一階の刀剣男士を選んだ。一階といっても二人がいるのは彼が先ほどまでいた講堂で、離れた場所から様子を伺える点も、一階の刀剣男士を選んだポイントだった。
彼は目と鼻の先にある講堂の扉を見つめ、できるだけ足音を立てないよう注意して扉に近づいた。そして慎重に扉を押し、わずかにできた隙間に体を滑り込ませる。彼は一階の様子を見たい誘惑にかられたが、腰を屈め会話に集中する。
「……、……縛…………たか……………た。……主……………………ろうからな。どこ………………………。…………面倒…………る…………」
音は辛うじて聞こえるが、部分的にしか言葉として認識できない。しかし話しているのは長谷部らしいとはわかった。
「………………………………と…………ず」
一方、もう一人の声は長谷部より小さくほとんど聞き取れない。燭台切でないことぐらいしかわからない。もっとも、燭台切でなければ残りは一人しかいないのだが。
眉月は会話に聞き耳を立てつつ、目はタブレットに向けていた。会話の音が消えると、画面上の青いアイコンが一つ、入口へと移動していく。実際に見たわけではないが、出ていくのは長谷部なので、彼は黙って成り行きを見守った。
外に出ていった青いアイコンは講堂から遠ざかり、しばらくしてもう一つの青いアイコンが舞台の方へ進む。今度ははっきりと声が聞こえた。
「いい加減出てきたらどうですか?」
眉月は立ち上がり、自分を見上げる刀剣男士の姿を確認した。三日月から逃げている時にすれ違った人物であった。桃色の髪に同系統の色の和服と、寒色系の江雪とは対照的であるが、線が細く長身なところが似ているといえば似ている。だが、天下取りの刀と聞き眉月が想像したイメージとはずいぶん違った。
躊躇いがなかったわけではないが、眉月は一階へ下り、宗三と対峙した。宗三は探るような視線を彼へ向けるが、眉月は面倒な前置きを抜かし真っ向勝負に出た。
「あんたが秘密遊戯にいる理由は茶坊主から聞いた。その上であんたと交渉がしたい。あんたと俺の利害関係は一致している」
「貴方も鬼札の敗北を望んでいるのでしょう? 眉月」
「前はな。今はあんたの主が離脱さえしてくれればいい。……俺はあんたがあの女に刀解されるのが、一番手っ取り早く確実な方法だと思ってる」
審神者2の離脱条件は『刀剣男士を1口刀解する』。一つだけ難易度が飛び抜けて高いと思っていた。だが、参加者でない刀剣男士の存在が判明した以上、その考えは変わる。審神者2は政府の道具として参加した自分の刀を刀解するという勝ち筋が用意されていたのだ。
「このタブレットには参加者の位置情報が表示される。お前の主のとこまで俺が連れてってやる」
「……」
「まさか刀解は嫌だと言うんじゃないだろうな」
「貴方に言われずとも、元よりそのつもりでいました」
本来は喜ぶべき回答なのだろうが、平然とそう言ってのける刀剣男士の死生観を、彼は薄気味悪く感じた。
けれどすぐに頭を切り替え、四階へ急ぐよう宗三に命じる。鬼札が再び三日月と接触したこと、三日月に使った拘束札の効力がそろそろ切れる頃だと告げると、宗三は眉月を俵担ぎし駆け出した。
「残りの説明は移動しながら」
「わかった」
どいつもこいつも人を米俵扱いしてと心の中でぼやくも、眉月は参加者の位置を注視しつつ、宗三に必要な情報を伝えていった。しかし、他の通路より幅が広い二階のコンコースを通り抜ける途中で、四階に動きがあった。彼は間に合わなかったとは伝えずに、一旦引けと宗三に伝えた。宗三は減速せず進行方向を変え、職員室の方へ向かおうとしたが、乱暴に眉月を下ろし刀を抜いた。
急いで体勢を立て直した眉月だったが、宗三は宙に向かい刀を振り下ろす。彼に宗三が切ったものは見えなかったが、宗三の足元から白い二片の『何か』が天井へ浮かび上がり、眉月目がけて急降下してくる。
あまりの速さに動けず、飛んでくる最中に一枚になった『何か』は彼の胸元に貼りついた。もちろん剥がそうとしたが、手が動かない。手だけではない。胸元に貼りついた物を見るため、首を下に向けることすらできなかった。
宗三と目が合い、彼の次の行動の予測がついたので、眉月は叫んで止めた。
「俺はいい! それより決着をつけろ、来るぞ!」
彼の手にあるタブレットには、二階コンコースにある二つのアイコンに、四階から来た青と赤のアイコンが接近する様が映し出されていた。
彼の手から刀を抜こうとする女に、三日月は新たな命を出した。
「――、もうよい。楽にしろ」
女の手が宙に止まり、地面へと落ちていく。女が崩れ落ちたのは、三日月の命によるものではない。地面に手を突き蹲る女に三日月は言う。
「俺もお主に酷なことをしたな。許してくれ」
女はどこまでも人であろうとしたのだと三日月は思う。負の感情に蓋をし、自分より他者を優先すべきと考え、それなのに眉月を切ろうとした自分に絶望している。自分の主とは対照的な姿を、三日月は偽善者と責める気にはなれなかった。
「人の子ならば、誰にでも負の感情はある。俺がそれを利用したのだ、お主は悪くない。それ以上傷つく必要はない」
反発されることも予想したが、女は限界をとうに超えていた。体をさらに丸く小さくし、嗚咽が聞こえてくる。背中をさすり慰めてやりたかったが、あいにく政府の道具で体を拘束され、彼は指一本動かせなかった。
「僕は……ずっと、負け、負けないとって」
感情が高ぶり上手く言葉が紡げずにいるが、三日月は急かすことなく彼女の言葉を待つ。
「僕のせい、みんな負けて。けど、できなかった……」
「やはりお主が鬼札か」
刀剣男士にしてはあまりに稚拙な攻撃の跡に、他の審神者から暴行を受けたのだろうと思っていた。そして先ほど、その現場を目の当たりにした。
「すまんな、痛かったであろう。あれはまだ子供なんだ。物事の良し悪しがわかっておらん」
「仕方ないんだ。あの子も現世に帰りたいんだから仕方ない…………そう思えなくて。私、思えなくて。播磨からしたら僕も同じなのに、帰る資格ないって播磨に言われたのに、僕は……」
「現世に帰りたいならば帰ればいい」
女が顔を上げるのが雰囲気でわかった。すすり泣く声はするが、女は何も言わない。きっと涙の溜まった瞳に三日月を映し、三日月が背を押してくれるのを待っている。彼は女の欲しい言葉を与えた。
「何を思い悩むことがある? 鬼札になったのはお前のせいではない。何故お前の帰りたいという思いを犠牲にしなければならない?」
「……」
「俺がお前を勝たせてやろう」
「動けないのに?」
泣いていた女とは思えない冷静な返しに、三日月は声を上げて笑った。至極当然の疑問であるが、三日月はハッタリをかましたわけではない。
──嘘じゃないよ。宗三にあげたんだ。
「(まさかここに来てあの男の話が活きるとは)」
三日月は五七桐から聞いた宗三左文字の話をした。彼は宗三が道具として参加した理由も聞いていたので女に伝えると、女はそんなはずないとつぶやいた。けれど言葉とは裏腹に、声色には期待が含まれている。三日月の読みどおり、女は燭台切の主だった。
「政府は達成不可能な条件をお主に課したのではなく、誰よりも早く勝利できる条件を与えていたわけだ」
「今更そんなこと言われても」
「そう、今更だ。今更負けてどうする? お主以外にはあと二人しか残っていない。そのうちの一人は俺の主だ」
「でも茶坊主は! それにあの子もまだ子供……」
「宗三の思いに応えてやってはどうだ?」
女の反論が途中で止まり、場は静かになった。だが三日月には、女が最後まで守っていた砦が崩れる音が聞こえた。
三日月が女に護衛をする条件を話すと、女は黙って立ち去った。真名を使えば確実であったが、彼はあえて女の意思に任せた。どうせ札の効力で二時間動けないのだ、気長に待つのも悪くないと思った。
できることといえば思考をめぐらすことぐらいだが、それも限られていた。祭壇周りの資源が全てなくなっている理由を考えたが、堀川と加州は既に離脱しており、新たに屋上庭園を訪れる者もいないので、考えを深めることはできなかった。
己の運命をかけた遊戯が開催されているとは信じられないほど静かで、風に乗って花の匂いが運ばれてくる。
主が本丸に来た日のようだと三日月は思った。彼を囲う檻に捧げられた幼子。白い髪、白い肌、目だけが血のように赤く。けれど抱き上げれば柔らかく、三日月を見て笑う姿は愛らしかった。
本丸の主が彼を認めたからか、本丸中の枯れていた花が一斉に元の姿に戻っていく。風に吹かれ、花の匂いが運ばれてくる。幼子はさらに機嫌が良くなり、三日月もまたこの贄を受け入れることにした。
「あんなに愛らしかったのに、どこで育て方を間違ったんだろうなあ」
そう疑問視をつけて独り言ちるが、管狐の入れ知恵が原因だとはわかっていた。ただ三日月はこうも思った、露悪的に振舞ったところで主への執着が薄まることはないのにと。
女が去ってから一時間半ほど経ち、拘束が切れる時間が近づいてきた。女は未だ戻ってこない。驚きも落胆もしないが、見込み違いだったとは思う。けれど、彼の耳に硝子戸の開く音が聞こえた。女の荒い息遣いもする。彼はそのまま戸を開けておくよう女に伝えた。
「三枚目は残っていたか?」
女は三日月の前方に立つと、札を一枚彼の顔の前に持ってきた。三日月の体に貼られているのと同じ拘束札だ。
彼がこの札を初めて見たのは明石の時だ。奇妙な格好で固まっていると思えばすぐに離脱し、札について聞くことはできなかったが、その後札の説明書きを見つけ、壁の跡から三枚あるらしいということまでは掴んだ。
女と彼の主のやり取り、加州の真名による命から、女が拘束札を所持していたと推測した彼は、女に三枚目を探してくるよう頼んだのだ。
「どこにあった?」
「保健室」
「聞いておいてなんだが、どこかさっぱりわからん」
袖で口元を隠し笑い、一泊間を置いて、拘束が解けたのだと気づく。三日月は刀をしまうと、長船から拘束札を受け取った。そして開けられた戸に向かい、札を飛ばす。
「眉月の動きを封じよ」
対象者へ繋がる道に向け飛ばした札は、意思を持っているかのように飛び続け、屋上庭園を出ていく。
「行くぞ」
三日月は女を横抱きし、札の後を追った。
しがみついていなければ振り落とされそうなスピードで、三日月が札を追いかけていく。長船の体感としては一分もしないうちに二階へ着き、札は曲がり角で二回とも左に曲がってコンコースへと飛んでいった。
二回目の角を曲がった後見えたのは、三日月に向かい刀を構える宗三だった。審神者3の遊戯者名は茶坊主であり、へし切長谷部とも会った。だから目の前にいる宗三左文字は参加者ではなく、三日月の言うとおり彼女を助けるため参加した彼女の宗三だ。けれどその姿を見ても、長船は未だ信じられずにいる。
三日月は長船を下ろすと、刀を抜いた。そのまま宗三へ向かっていくのかと思いきや、彼女の腰を掴んで引き寄せ、首へ刀を当てる。
「勝たせてやると言ったのは本心だ。ただ……」
体を屈め、長船の耳元へささやく。
「二時間ほど待ってくれ」
三日月から殺意は感じなかったが、少しでも身動ぎすれば首に刃が食い込みそうで、唾を飲み込むことさえ躊躇われた。タブレットを失った長船に、三日月の言う二時間の意味はわからない。だが拘束札を貼られた眉月が視界に入り、これから良くないことが起こると直感的に感じた。
「ずいぶんと姑息になりましたね。天下五剣の名が泣きますよ」
「天下五剣の名など、主と比べれば何の価値もない」
三日月は長船の体をさらに抱き寄せた。
「俺とて、女を傷つけるのは不本意だ。二時間ほど待ってくれ、そうすればお前の主は無傷で返そう」
「三日月さんの頼みでもそれは難しいな」
背後から声がした。振り返りはできないが、コンコースは中庭が見下ろせるようガラス張りになっており、ガラスに燭台切の姿が映る。柔らかな言葉を選びながら殺気を隠そうともしていなかったが、ガラス越しに長船と視線が合うと、表情が和らいだ。大丈夫だよと長船へ言う。
「君は僕が守ってあげるから」
燭台切は刀を抜き構えるが、攻撃には転じない。三人の刀剣男士の力は拮抗しており、宗三と燭台切は長船がいるため仕掛けることができず、また三日月は三日月で、一方を攻撃すれば一方に長船を奪われるとわかっているので動けない。
三者の膠着状態は長く続き、どう転ぶかわからない状況に、彼女は何もできない無力な我が身を呪った。だが、膠着を打破したのは彼女と同じ無力な審神者だった。
「その女の真名は――だ!!」
眉月の発言の理由を考える間もなく、事態は急展開を迎える。といっても、長船には何が起きたのか上手く説明することはできない。彼女からすれば、三日月の拘束が緩んだかと思えば、ほぼ同時に中庭の方から大きな破壊音が聞こえ、気づいた時には三日月でなく宗三に抱きかかえられていた。
宗三は彼女を抱きかかえたまま、走り出した。廊下を真っすぐ進むのではなく右に曲がり、眉月の前を走り去る際に彼が持つタブレットを奪い取る。
一瞬であったが、長船は眉月と目が合った。血のように赤い瞳は、彼女より刀剣男士に近い存在に思える。けれど、改めて見た彼は、思っていた以上に幼かった。長船は自然と彼に向かい手を伸ばしていた。
「お前の遊戯……!」
「――、しゃべるな!!」
眉月が長船に何か言おうとしていたが、三日月の怒鳴るような叫び声にかき消される。長船の手は眉月に届かず、宗三は入り組んだ先にある階段から一階へと下りた。
一階に下りてからも宗三は走り続けたが、南西にある普通教室に入って、ようやく足を止めた。彼は長船を下ろすと、長い睫毛に縁どられた色違いの瞳で彼女を見つめる。
彼女は思わず視線を逸らしたが、何故か宗三の方がすみませんと謝る。彼女が視線を戻すと、宗三は彼女の真名を呼び、自由に話していいと三日月の命を上書きした。長船は礼を言うが、その後が続かない。宗三も何も言わない。
「いいように使われているとわかっていながら三日月に協力して、僕はあの男の子を犠牲にしようとした」
助けに来てくれた宗三に言うべきことではないと彼女にもわかっている。けれど一度口にすると止まらなかった。
「僕はあの男の子を切ろうともした。あの子だけじゃない、加州に隠された女の人も。あの人は現世に帰りたかっただけなのに、僕は自分のことしか考えていなくて、あの二人以外の審神者も僕のせいで負けてしまった。僕なんかじゃなくて、五七桐のような人こそ助かるべきだったんだ」
「彼と会ったのですか?」
彼女としては独り言の延長にすぎなかったが、宗三は五七桐の名に反応した。長船は不意打ちを食らい言葉が引っ込んでしまったが、言いなさいと促され、部室らしき部屋にあったメッセージについて伝えた。
「あの人にしては頭を使いましたね」
宗三はそうつぶやくと、眉月から奪ったタブレットを見、それから行きますよと言った。頭の回転が追いつかず突っ立ったままの長船に焦れ、宗三は長船の手を引く。
中庭の横を通り、曲がり角で北へと向かう。階が違うとはいえ燭台切がいた場所へ近づいていくのだから、彼女の歩くスピードは遅くなった。
背負いましょうかという申し出には、首を振って断った。蹴られた腹部は痛むことには痛むのだが、痛覚が麻痺し、小講堂を出た時ほどの痛みは感じなくなっていた。
「燭台切の気配がすればすぐに気づきます」
宗三は彼女の足取りが重くなった真の理由に気づいたらしい。彼女は頷いて返事をし、彼はまた前を向いた。また無言の時間が続くと思われたが、階段が見えたところで宗三が言う。
「あの時も貴方の手を引いて逃げれば良かった」
宗三が何を悔いているのか。皆まで言わずとも、長船には察しがついた。
本丸の一室に監禁された長船を宗三が見つけ、燭台切から逃げる手助けをしてくれることになった。しかし本丸の指揮権を握っている燭台切と正面衝突するのは得策ではなく、また彼はその日の遠征部隊に組み込まれていて時間がなかった。
宗三は燭台切の注意を引きつける役を担い、彼女はその間に執務室にある緊急避難ゲートから現世へ逃げることにした。宗三の計らいでこんのすけとも合流でき、執務室に行くまでは順調に事が進んでいた。
だが、ゲートには燭台切が施したと思われる結界が張られていた。苦心の末結界の無効化には成功したが、彼女は燭台切に見つかり、神隠しされてしまう。
けれど、宗三を恨んだことは一度もなかった。それだけは自信を持って言えた。ただ、何を言っても彼の思いに沿ったものになりそうになく、長船は沈黙を選ぶ。宗三は階段を上らず真っすぐ進み、広い畳の部屋に入った。
畳の部屋に家具は置かれておらず、長船は自分の学校にあった作法室を思い出した。主に使っていたのは茶道部だったが、彼女も特別授業の華道の時間に利用したことがあった。
しかし目的地は隣接している坪庭だったようで、宗三は部屋を通り抜け、灯篭の根元の白い砂利を払う。砂利の下からは、ナースコールのような手のひらサイズの押しボタンが出てきた。
「五七桐ほど自分本位な人間もそういませんよ」
彼は押しボタンを拾うと立ち上がり、後ろで眺めていた彼女へ向き直った。
「一期一振と向き合うのが怖くて、逃げているだけの人でした。貴方が思うような聖人君子ではないですよ」
「何でそんな風に言うんだ! 五七桐は君を思って、メッセージを残してくれたんだろう? 素晴らしい人じゃないか、僕なんかよりずっと……」
「いつまでうだうだ言ってるんですかうっとうしい」
直球で感情が露になった物言いに、長船は反論の言葉が封じられた。
「人は自己犠牲を尊びますが、へし切の笑顔並に胡散臭いと思いますよ僕は。この短期間で五七桐、茶坊主、眉月と主を変えてきましたが、一番まともだったのは眉月ですね。燭台切が刀剣男士1か試したのは業腹ですが、勝ちたいと、生きたいと思い行動することの何が悪いのですか?」
「……君、変わった?」
宗三の勢いに押され、ただただ呆気に取られていた長船の口からぽろりと零れた言葉に、宗三は盛大に顔をしかめた。
「貴方、今言うべきことがそれですか?」
「ごめん、けど……変わったなぁって。いい主に出会えたのか?」
彼女の顕現した宗三がこの場にいるということは、政府所属になったか他本丸に譲渡されたかのどちらかだろうが、新しい主から良い影響を受けたと考える方が自然に思えた。宗三は黙り込んだ後、見せつけるように溜息を吐いた。
「今の主はまあ及第点です」
「君に及第点をもらえるなんて、立派な方なんだろうね」
「何なんですか貴方は。思い悩んでいるかと思えば急に関係のない話をしだして。相変わらずですね」
「そうかな?」
「そうですよ」
いつもの気だるげな雰囲気が消え去り、額に手を突きうんざりした様子の宗三がおかしくて、つい顔が綻んだ。けれど宗三は真剣な面持ちになり、笑ったことを咎められるのかと長船は思ったが、宗三は彼女の目を見つめ言う。
「風切羽が切られる前に、鳥籠の外に出なさい」
彼女は不思議でならなかった。
「どうして君は僕のためにそこまでしてくれる?」
審神者と刀剣男士、それ以上でもそれ以下でもない間柄だった。彼は主だからと審神者を盲目的に慕う刀ではない。後悔を口にしていたが、過去の失態を挽回するためだけに、全てを投げ打つほど愚かでもない。
「君には、新しい主の元で生きる道があったんじゃないのか?」
「……全部済んでから話します」
宗三は彼女に砂利の下から見つけたボタンを渡し、道具の使い方を聞いた。近くで見ると尚更、この何の変哲もないボタンが政府の道具とは信じがたかったが、燭台切と対峙する宗三には重要な武器だった。
宗三に道具の使い方を説明すると、今度は宗三が鍛錬所の存在を話す。さらに眉月から奪ったタブレットで燭台切の位置がわかると言い、燭台切は鍛錬所の前で待ち構えているとも言う。彼女は思わず手の中の押しボタンを握り締めた。握り締めた手は震えている。
「行きますよ」
宗三はこれからのことを話し終えると、震えている彼女の手を引いた。彼は否定するだろうが、大丈夫だと言われているようで長船は嬉しかった。
──元の鳥籠に戻ったら、足掻いてみるよ。
彼との約束を果たす時が来た。長船はもう迷いはしない。ただ、彼に手を引かれ歩くのはこれで最後だと、考えないようにしていることだけは許してほしかった。
≪離脱条件一覧≫
審神者1:五七桐 【引き分け】
離脱条件(易)政府の用意した8種の道具のうち、2つ以上を使用する
離脱条件(難)政府の用意した8種の道具を全て破壊する
鬼札(審神者2):長船
離脱条件 刀剣男士を1口刀解する
審神者3:茶坊主 【敗北】
離脱条件(易)5時間以上他の参加者と遭遇しない
離脱条件(難)24時間以上誰とも遭遇しない
審神者4:竜胆 【敗北】
離脱条件(易)審神者が1名以上遊戯に勝利する
離脱条件(難)審神者が4名以上遊戯に勝利する
審神者5:播磨 【敗北】
離脱条件 遊戯開始から328分が経過する
審神者6:爪紅 【敗北】
離脱条件(易)遊戯の勝者が2名以上になる
離脱条件(難)審神者と刀剣男士が、それぞれ2名以上遊戯に勝利する
審神者7:眉月
離脱条件(易)7つ以上の離脱条件の所持者を特定する
離脱条件(難)刀剣男士陣営全ての離脱条件の所持者を特定する
離脱条件(極)離脱条件変更から4時間以内に、全ての離脱条件の所持者を特定する
審神者8:豊玉 【敗北】
離脱条件(易)5時間以上嘘を吐かない。ただし、真偽は審神者の認識に基づく
離脱条件(難)25時間以上嘘を吐かない
刀剣男士1:へし切長谷部 【勝利】
離脱条件 自分が神隠しした審神者の真名を把握する
刀剣男士2:明石国行 【勝利】
離脱条件 遊戯開始後、6名以上の参加者と遭遇する
刀剣男士3:鶴丸国永 【勝利】
離脱条件 自分が神隠しした審神者が神隠しに合意する
刀剣男士4:堀川国広 【勝利】
離脱条件 刀剣男士1、3、5、7のうち、1名以上が遊戯に勝利する
刀剣男士5:一期一振 【引き分け】
離脱条件 2回以上、離脱条件が変更される
刀剣男士6:燭台切光忠
離脱条件 自分が神隠しした審神者と30分以上同じ部屋に留まる
刀剣男士7:加州清光 【勝利】
離脱条件 審神者1、3、5、7のうち1名以上と、2時間行動を共にする
刀剣男士8:三日月宗近
離脱条件(易)自分が神隠しした審神者の半径3.28メートル以内に1時間半いる
離脱条件(難)自分が神隠しした審神者の半径3.28メートル以内に2時間いる
≪道具一覧≫
道具1:宗三左文字
道具2:秘密遊戯の候補者リスト
道具3:位置情報アプリ
道具4:拘束札×3
道具5:???
道具6:刀装用祭壇
道具7:刀鍛冶
道具8:とある打刀の赤縄
第八章:鳥籠の外へ
眉月は恵まれた霊力の持ち主であったが、力に偏りがあった。太刀に大太刀、槍、薙刀しか呼び出せず、唯一の例外は打刀のへし切長谷部だ。そのため加州や宗三と違い、長谷部に関してはそれなりにわかっているつもりだった。だが、彼が知っているのは、へし切長谷部という刀の一面にすぎなかったらしい。
「いや~、あれは肝が冷えたな」
眉月の隣で三日月が眉月のタブレットを操作しながら語りかけてくるので、長谷部のことかと彼は返した。
眉月が鬼札の真名を叫んだのを契機に、事態は動いた。宗三と燭台切が動き、三日月が二人を迎え撃とうとする。だが、刃が交わる前に突如大きな破壊音が聞こえ、宗三は鬼札を取り戻すとその場から逃亡した。
これは眉月の憶測になるが、中庭を挟んだ向かいの廊下に投石兵がいるのが、宗三には見えていたが残りの二人には見えていなかった。結果、投石兵の存在に気づいていなかった三日月たちは突然の破壊音に気を取られ、宗三はその隙をついた。
中庭の木々が邪魔して見えにくくはあったが、眉月の立つ場所からも、投石兵とその隣にいる長谷部が見えた。長谷部の行動は謎が多い。何故鬼札を巡る戦いに介入したのか。茶坊主の離脱条件が元に戻るのを危惧したのだとしても、室内では使えない投石兵を用いたのはどうしてか(音と状況から判断して、投石兵の放った石は天井か長谷部がいる側の廊下のガラス壁にぶつかったのだろう)。彼の知る長谷部は、こんな不可解な行動を取る刀ではなかった。
「あれはあれで驚いたが、俺が言っているのはその後だ」
その後と言われ思い当たるのは、一つしかない。眉月が鬼札の遊戯者名を聞き出そうとした時、被せるように声を張り上げた三日月には、いつもの余裕はなかった。
「その様子だと長谷部が参加しているのは知っていたのだろう? 間に合ったから良かったものの、先に鬼札に命じておくべきだったなあ」
「何故燭台切を行かせた?」
今度は眉月の方から問うた。眉月は未だ札の影響で動けず、三日月は彼の傍で時が経つのを待っている。つい先ほどまで、残った参加者のほぼ全員が関与した戦闘があったとは思えぬほど、場は静かになっていた。
「主ならわかるだろう。燭台切を行かせねば、宗三が刀解されてしまう」
「俺が聞いているのは、燭台切を一人で行かせた理由だ。お前も一緒に行った方が確実だった」
三日月は鬼札の奪還は難しいと判断すると、燭台切の足止めをしつつ、燭台切へ交渉を持ちかけた。宗三の出自と鍛錬所の場所を教え、鬼札に暴行を加えた眉月が勝たないよう、時間を調整してくれるよう頼んだ。燭台切は不服そうであったが刀を納め、宗三が逃げた先の一階にしか行けない階段ではなく、上の階に繋がる階段がある方へ去っていった。
もし眉月が三日月ならば、燭台切と共に鍛錬所へ行った。燭台切が約束を守る保証はなく、それならば共に鍛錬所へ向かい、眉月の離脱条件が達成できなくなるまで妨害するのが一番確実だ。しかし三日月はくすりと笑う。
「他者を信用することも時に大切だぞ」
「思ってもないことほざくなクソジジイが」
悪態を吐くが、それすら三日月は嬉しそうに受け止める。
眉月の最も古い記憶は、畳の部屋で一人座っているところから始まる。いくつの時だったのかさえわからない、あいまいな記憶だ。ただ、心細かったのはよく覚えている。
その後三日月がやって来て不安は薄れるが、まるで知らない男を観察するように、幼い彼は三日月を見上げる。三日月は眉月に向かって何か言い、眉月を抱き上げる。
聞き慣れない言葉だったけれど、三日月につられて眉月も笑い、この時の三日月の微笑は眉月の中で長年慈愛の象徴となった。
だが七つの誕生日に買ってもらった白うさぎの世話をするうちに、自分がうさぎに向ける目と三日月が自分に向ける目は同じだと気づく。ただ愛でるだけが目的の格下の存在。それが三日月にとっての眉月だ。慈愛の象徴は嫌悪を抱かせるものへと変わった。
「たとえ俺が負けたとしても」
三日月からすれば、眉月の言葉はうさぎの鳴き声にすぎない。だが彼は、自分に執着する頭のいかれた男に突きつけてやりたかった。
「俺は自由になることを諦めない。俺という存在があり続ける限り、お前の神域に行こうが地獄に行こうが、俺は自由を手にしてみせる。絶対にな」
彼の決意を聞いても三日月は揺るがず、月の浮かぶ瞳に偽りの慈愛をたたえて彼を見つめている。胸糞悪い、眉月はそう吐き捨てた。
そんな折、急に中庭から差し込む光が消え、対峙する相手の顔が見えなくなる。眉月の頭に停電という文字が浮かんだが、そもそも会場内には電気が通っていなかったことを思い出す。
しばらくすると再び光が入ってきたが、光の種類は違った。ただ周りの様子を確かめるには十分な明るさであり、彼は三日月の顔を見て冷笑した。
「余裕かました結果がこれか? 案外早く決着がつくかもな」
月明かりに照らされた三日月の顔に笑みはなかった。
坪庭に埋まっていた政府の道具を見つけた時、宗三は五七桐の本心に触れた気がした。わがままで動く自分より他の参加者を優先すべきだと言ったのも、嘘ではない。だがその言葉の裏に、彼の本当の思いが潜んでいたように思えてならなかった。
五七桐は、一期に負けるための理由が欲しかったのではないかと宗三は思う。自分が望んだのではない、他の参加者のために働いていたら一期に先を越されてしまい、仕方がなかったのだと。手の届かない永遠の存在になることを望みながら、一方で愛する人と永遠を共にする未来を彼は夢見ていた。
「(面倒な性格だ)」
宗三自身、人のことは言えない自覚はあったが、土の中に隠されたものを見てそう思った。そして彼らの結末を知っているのでそれ以上深く考えることはやめ、彼は自分本位な人間だと主に告げた。
五七桐の隠した道具は、スイッチを押すたびに昼夜が入れ替わるという物だった。宗三は主から道具の効果を聞くと、彼女が言うところの作法室を出、講堂の三階へ行った。燭台切が鍛錬所の前で待ち構えているのは、眉月のタブレットで把握しており、主には講堂に残ってスイッチを押す役を任せた。
従来の責任感と、自分のあずかり知らぬところで自分の命運が決まることの不安から、複雑な表情を浮かべていたが、宗三は足手まといになると言い切った(彼女は複雑な表情のまま苦笑していた)。
「いいですか?」
三階の扉の前に立ち、互いに顔を見合わせる。宗三の問いに主はこくりと頷き、スイッチを持った手を伸ばす。宗三はスイッチが押されるその瞬間に扉を開け、廊下に向かって駆け出した。
昼夜が入れ替わるという言葉どおり、会場内は一瞬にして暗闇に覆われた。廊下の窓からの月明かりを危惧していたが、幸運なことに光が差し込んで来たのは、彼が窓の前を通り過ぎてからだった。
室内の夜戦、完全なる暗闇からの奇襲。昼間ほど見えはしないが、それでも宗三の目は討つべき敵を捉えている。宗三は駆けてきた勢いのまま、燭台切に向かい、刀を振りかぶった。
だが振るった刀が当たる前に、男と目が合う。夜戦とはいえ正確な太刀さばきに狂いはなく、無傷とはいかないが燭台切は宗三の刃を受け止める。
「やるね……!」
追撃は難しいと判断し、宗三は後方へ跳びのき、燭台切と距離を取った。
「(奇襲を警戒していたのは当然として、何故攻撃が通らなかった?)」
次の攻撃の機会を狙いながらも、奇襲が失敗に終わった原因を考える。宗三と燭台切の練度は共に最高値であるが、室内の夜戦で太刀の彼が、打刀である宗三の攻撃を受け止められはしないはずだ。
「(僕の知らない政府の道具を持っているのか? それとも……)」
──審神者の体を犯して力を得たからか。
審神者と刀剣男士が性的関係を結ぶと、刀剣男士にかけられた制限が解け、主従が逆転すると聞く。主従の逆転が刀剣男士の能力にどのような影響を及ぼすかはわかっていないが、一番納得できる理由だった。
怒りで目の前が赤く染まり、歯を食いしばって堪えなければ、衝動のままに切り込んでしまいそうだった。夜目が効かなくとも彼の怒りは燭台切に伝わったらしく、燭台切は宗三へ言う。
「僕は彼女を守りたいだけなんだ」
「寝言は寝てから言いなさい」
「宗三君だってわかっているはずだ。主の周りの人間がいかに身勝手だったか、そのせいで主がどれだけ傷ついていたか。主はこれ以上傷ついたら壊れてしまう。だから僕がずっと守ると決めたんだ」
ますます怒りが湧いてきそうなものの、不思議と耐え難い衝動は弱まった。独り善がりな物言いが、過去の彼の発言を思い起させたからかもしれない。
『それほど神気を注がれたのなら、鳥籠の外に出てもまともな人生は送れませんよ。もっと言いましょうか? 貴女はその鳥籠から出ても、そこより少し大きな鳥籠に戻るだけです。それでも貴女はそこから出たいのですか?』
彼女に言った言葉を、彼は一言一句違えず覚えている。突き放すつもりで言ったのではない。燭台切の鳥籠に押し込められた主を哀れに思いつつ、主に己を重ね、別の鳥籠に移るしかできない苦しみを、彼女に味わわせたくなかった。
けれど宗三は彼女の決意を聞いた。彼女は鳥籠の中で求められた一人称ではなく、初めて自分を『私』と言った。宗三は胸元に手をやり、指が布越しに細長い形を捉えた。見ずともそれで十分だった。刀を構え直し、仇敵に宣言する。
「宗三左文字、行きますよ」
あの日聞いた彼女の決意に、応える時がやって来た。
長船は宗三から渡された眉月のタブレットを見ていた。このタブレットは政府の道具の一つであり、離脱条件や遊戯のルールが見られない代わりに、地図で参加者の位置がわかるらしい。
三階の地図を開くと宗三が言っていた鍛錬所の前で、青のアイコンが二つ激しく動いている。彼女の命運を決める戦いが扉を挟んだすぐそこで繰り広げられるというのに、彼女がいる講堂では、物音一つ聞こえなかった。
宗三からは各参加者の動きを定期的に確認するよう言われており、長船は各階の地図に切り替えていく。二階の眉月と三日月に動きはなく、茶坊主と思われる赤いアイコンも二階の一室に留まったままだ。
「……」
もう迷いはしないが、それでも二人の審神者について考えずにはいられなかった。長船が負けていれば、おそらく今頃現世に帰っていただろう二人は、今何を思うのか。長船は目を閉じた。この罪は一生背負い続けなければならない。
「あなたは助けてもらえるのね」
講堂に表示されたアイコンは一つだけのはずだが、声が聞こえた。長船が目を開けると、タブレットのバックライトしか光源はないというのに、播磨の姿が細部までよく見えた。露になった肩に、丈の短いスカート、走るのには向いていないヒールの高い靴、そして指のなくなった丸い手……。
「私を見捨てたあなたが、どうして助けてもらえるの?」
二メートルほど離れた場所に立つ播磨が彼女を責める。
「どうして私は助けてもらえなかったの? 私とあなたの違いは何?」
「……」
「どうしてあなたには宗三がいて、私にはいなかったの? あなたのせいでみんな負けたのに、なんであなただけ助かるの?」
「……」
「一人だけ卑怯だ、ずるい、私だって現世に帰りたかった!」
「……」
「……何か言ってよ」
長船は播磨の気が済むまで黙って誹りを受けようと思っていた。けれど播磨のやるせない気持ちが垣間見え、黙ったままでいるのは単なる逃げだと考え直した。ただ何から話せばいいかわからなかったので、思いついた順に口にする。
「多分、怖かったんだ」
真っ先に頭に浮かんだのは、遊戯に負けた播磨が長船に助けを求めた時のことだ。
「自分でも何であんな酷いことをしたのかわからなかった。でも、怖かったんだと思う。君に掴まれたら自分まで地獄に引きずり込まれそうで、君の手を払った」
一度話し始めると、言葉が堰を切ったかのように溢れてきた。
「僕も同じような目に遭ってようやく、あの時の君の気持がわかった。いや、わかるなんて言ったらいけない。君はもっと傷ついて絶望したはずだ。本当に、ごめんなさい。僕は君を裏切った。なのに僕は、君と出会わなければと思ってしまう」
播磨と出会わなければ、鬼札にならずにすんだかもしれない。鬼札でなければ、これほど罪の意識に苦しむこともなかった。それが理性で抑えつけている長船の本心だった。
けれど一方で、もし播磨と出会っていなければ、プレッシャーに負けて動けなくなり、誰よりも早く負けていたかもしれないとも長船は思う。それに播磨は、彼女に対し親しい友人のように接してくれた。
家や男のような振る舞いをするせいもあり、長船は友人と呼べる存在が今までいなかった。そのため播磨の距離の近さに戸惑ったが、嫌ではなかった。むしろ、遊戯中であるにも関わらず、播磨といるのは楽しいと感じた。
「君はいい人だった。明るくて、素直で、君がいてくれたおかげで僕は、今ここに立っている。君は本当に僕が負けることを望んでいるのか。君は人の不幸を望むような人だったろうか。君の最期にばかり気を取られて、本来の君の人となりを歪めているんじゃないか。そんな風に考えること自体、君は許せないかもしれないけど。でも、君は僕に何を望むんだ? 君と同じように永遠に神域に囚われればいいのか、生きて贖罪をすればいいのか。負けて楽になればいいのか、勝って自由になればいいのか。わからないんだ。……けどね、播磨」
長船は札を取りに保健室に行った時のことを思い出す。播磨が持っていた札はすぐに見つかった。三日月の所へ戻るのに時間がかかったのは、眉月だけでなく、播磨のことも考えていたからだ。
審神者でありながら、何通りもの『if』を考えた。地獄に落ちる彼女の手を握ってあげれば、札で動けなくなった明石を誰にも会わない場所に隔離していれば。もっと時間を遡って、もっと違う出会い方ができれば。
どの『if』も魅力的だったが、『if』は現実にはならない。長船は泣きそうになるのを堪えながら、播磨に伝えた。
「助けられてばかりいるのはやめる」
彼女の言葉を聞き終えると、播磨の姿は消えた。
長船はタブレットのバックライトを頼りに、一階へ下りた。一階のステージ近くに、座面に矢の刺さった椅子があった。タブレットを持ったまま片手で抜こうとしたが抜けず、他の椅子にタブレットを置き、両手で思い切り引っ張ってようやく抜けた。矢尻の鋭さに唾を飲み込むが、意を決め、三階まで駆け上がる。
三階の扉を開けると、刃の交わる音が聞こえた。長船はタブレットを懐にしまい、代わりにナースコールのような政府の道具を取り出す。幸い廊下の窓から月明かりが差していたので、彼らの元までタブレットなしでも走っていけた。
「燭台切!」
腹の底から叫ぶと同時に、政府の道具のスイッチを押す。時間帯は昼に戻り、廊下で戦っていた二人の男の姿が、日の光で鮮明になる。互いに重傷になり、鍔迫り合いしていた男たちの視線が長船に集まった。
長船が思っていたより彼らとの距離は離れていたが、刀剣男士の身体能力を信じ、彼女はスイッチを投げ捨てると、矢の軸を両手で握り自分の胸に突き立てた。
「主!!!」
燭台切の意識が長船のみに向けられた時、勝負は決まった。宗三が無防備に晒された背中に、一撃を食らわした。
深々と突き刺したはずの矢が、長船の手をすり抜け、床に落ちる。刺した箇所は赤く滲み、血が流れているのもわかるが、死を覚悟するほどの痛みではない。何故と思うが、時間が経ち落ち着いて考えてみれば、矢を短刀のように扱おうとするのは無理があった。
いくら矢尻が鋭くても、矢の形状では力が分散し、致命傷にはならない。戦闘のプロである刀剣男士ならば違ったかもしれないが、長船は彼らの戦闘を眺めていただけの素人に過ぎない。
だが、胸を刺す前に気づいていれば、きっと燭台切の注意は引けなかった。
「迎えに行くまで出てくるなと言ったでしょう」
宗三の左袖はずり落ち、胸の刻印が露になっていた。ずり落ちた左袖だけでなく、着物の至る所が切れ、血が滲み、麗しい顔にも大きな刀傷が走っている。だが激しい戦いを一番象徴しているのは彼の刀で、真っ赤に染まった刀の切っ先からは血が滴り落ちている。
長船は燭台切に視線を戻した。血の海の中でうつ伏せに倒れている彼は全く動かないけれど、それでも恐怖を感じる。だが、今の彼女には恐怖を抑えつけるだけの覚悟があった。燭台切の傍まで近づき、倒れた彼に言う。
「卑怯だと罵ればいいさ」
自分の身に危険が及べば、燭台切は彼自身のことなど顧みず、助けにくるだろうと長船は踏んだ。そしてそのとおりになった。卑怯な手だが、これが彼女にできる唯一の攻撃手段だった。
「お前なんかに僕の羽はやらない。僕は、僕の力で鳥籠の外を飛ぶ」
訣別の宣言が済むと、彼女は宗三へ鍛錬所の場所を聞こうとしたが、背後から微かに声が聞こえた。燭台切はよろめきながら体を起こし、床に膝を突いたまま長船を見上げた。彼女は身構えたが、燭台切の口から出たのは謝罪だった。
「ごめん」
「……」
「君を守れなかった、傷つけてしまった」
──こんなに細くて小さな体なのに、このままでは壊れてしまうと思ったんだ。
燭台切が彼女を監禁した理由を聞いても、彼女は到底納得できなかった。身も心もボロボロにしておいて、何から守っているつもりなのだと思っていた。だが、今長船の胸に過るのは切なさだ。
長船は彼が豹変した理由が知りたかった。身だしなみに人一倍気を遣い、面倒見が良く、主に対し保護者のように振る舞う。至って普通の燭台切光忠だった彼が──信頼していた彼が──変わってしまった理由を、長船はずっと探していた。
けれど彼が変わったのではなく、単なるボタンの掛け違いだったとしたら? 彼は長船のことがよく見ていた。万屋で気になっていた簪をプレゼントされた時、立場上彼女は断らねばならなかったが、本音を言えば嬉しかったのだ。
──この人は私のことを大切にしてくれる。
長船の体から力が抜け、頬を涙が伝う。気づけば長船は彼の名を呼んでいた。
「燭台切」
燭台切は慈愛に満ちた表情で微笑み、おいでと口が動く。惹きつけられるように長船の足が前に動くが、びしゃりと生温かいものが顔に飛んできた。
「何やってるんですか貴方は」
宗三が燭台切の後ろに回り込み、彼の胸を刀で貫いた。前屈みになって崩れた燭台切は、今度こそ本当に動かなくなった。怒りを滲ませた宗三の言葉に、長船は我に返った。
「ごめん」
涙を拭う主を見て怒る気が削がれたのか、宗三はわざとらしく溜息を吐き、刀を振るって血を落とす。そして鞘に収め、長船に差し出した。
「鍛錬所はその扉の向こうです」
宗三が顎をしゃくり、刀解の場所を示す。覚悟を決めてきたはずなのに、刀を受け取るまでに時間がかかった。そして刀を受け取ってからも、その重さに長船の心臓は激しく鼓動した。
「元々、機密の漏洩を防ぐため刀解される約束で参加したんです。それが少し早まるだけですよ」
「どうして君は僕のためにそこまでしてくれるんだ!?」
結局答えが聞けないままだった疑問を、再び口にする。宗三は胸元に手をやったが、そこに布がないと気づくと脇腹に手を突っ込んだ。
出てきたのは十センチ強の木の棒で、宗三は棒を見るなり眉根を寄せた。棒の先には金具と、割れた青い蜻蛉玉が付いている。燭台切にプレゼントされた簪のことがなければ、瞬時には簪と判別がつかなかったかもしれない。
「餞別に持ってきましたが……伊達男のくせに無粋ですね」
宗三は簪をしまい、長船を見た。
「貴方が僕を馬鹿にしたからです」
「え?」
「貴方を助ける理由ですよ。鳥籠の外がいいものだとは限らないと言った僕に、貴方は鳥籠の外に出たことがある者だけがそういう発言をしろと言った。貴方は僕を馬鹿にしたんです」
そんなことで? と言いかけたが、長船は慌てて口を噤んだ。けれど心の中でもう一度、そんなことで? とつぶやいた。宗三がプライドの高い刀剣男士だというのは知っているが、それにしても命を賭してまで雪辱を晴らそうとすることではない。
「ええ、僕は器の小さい刀ですよ」
長船の考えを読み、宗三の目つきが鋭くなった。
「貴方のことを絶対に許せない。だから助けにきたんです。元の鳥籠に戻って、鳥籠から出られずに苦しんで、その度に僕のことを思い出して、僕を馬鹿にしたことを悔やめばいい」
「僕を忘れないでって言いたいの?」
長船なりに要約したつもりだが、宗三は絶句してしまう。自意識過剰だったと反省した長船は謝ったが、宗三はぷいっと横を向く。見えた耳は心なしか赤かった。
「どうしてそうなるんですか」
「ごめん」
「もういいです。さあ、早く刀解しなさい」
手を取られ、鍛錬所の前まで引っ張られる。今度こそ最後だと長船は思った。刀の付喪神である彼の手は彼女より冷たかったけれど、この温かさは決して忘れないだろう。どう涙を堪えるか考えていたのに、不思議と涙は出てこなかった。
「元の鳥籠に戻ったら足掻くよ。足掻いて、苦しんで、君のことを思い出して……でも僕は君と違って絶対鳥籠の外に出てみせる」
「嫌な女ですね」
「そりゃ君の主だから」
フフッと笑って、宗三の顔を見る。改めて見ると彼の左目は綺麗な青色をしていた。奇遇にも、彼が持っていた簪の蜻蛉玉と同じ色だった。
「離脱者の発表を行います…………」
≪離脱条件一覧≫
審神者1:五七桐 【引き分け】
離脱条件(易)政府の用意した8種の道具のうち、2つ以上を使用する
離脱条件(難)政府の用意した8種の道具を全て破壊する
鬼札(審神者2):長船 【勝利】
離脱条件 刀剣男士を1口刀解する
審神者3:茶坊主 【敗北】
離脱条件(易)5時間以上他の参加者と遭遇しない
離脱条件(難)24時間以上誰とも遭遇しない
審神者4:竜胆 【敗北】
離脱条件(易)審神者が1名以上遊戯に勝利する
離脱条件(難)審神者が4名以上遊戯に勝利する
審神者5:播磨 【敗北】
離脱条件 遊戯開始から328分が経過する
審神者6:爪紅 【敗北】
離脱条件(易)遊戯の勝者が2名以上になる
離脱条件(難)審神者と刀剣男士が、それぞれ2名以上遊戯に勝利する
審神者7:眉月 【???】
離脱条件(易)7つ以上の離脱条件の所持者を特定する
離脱条件(難)刀剣男士陣営全ての離脱条件の所持者を特定する
離脱条件(極)離脱条件変更から4時間以内に、全ての離脱条件の所持者を特定する
審神者8:豊玉 【敗北】
離脱条件(易)5時間以上嘘を吐かない。ただし、真偽は審神者の認識に基づく
離脱条件(難)25時間以上嘘を吐かない
刀剣男士1:へし切長谷部 【勝利】
離脱条件 自分が神隠しした審神者の真名を把握する
刀剣男士2:明石国行 【勝利】
離脱条件 遊戯開始後、6名以上の参加者と遭遇する
刀剣男士3:鶴丸国永 【勝利】
離脱条件 自分が神隠しした審神者が神隠しに合意する
刀剣男士4:堀川国広 【勝利】
離脱条件 刀剣男士1、3、5、7のうち、1名以上が遊戯に勝利する
刀剣男士5:一期一振 【引き分け】
離脱条件 2回以上、離脱条件が変更される
刀剣男士6:燭台切光忠 【敗北】
離脱条件 自分が神隠しした審神者と30分以上同じ部屋に留まる
刀剣男士7:加州清光 【勝利】
離脱条件 審神者1、3、5、7のうち1名以上と、2時間行動を共にする
刀剣男士8:三日月宗近 【???】
離脱条件(易)自分が神隠しした審神者の半径3.28メートル以内に1時間半いる
離脱条件(難)自分が神隠しした審神者の半径3.28メートル以内に2時間いる
≪道具一覧≫
道具1:宗三左文字
道具2:秘密遊戯の候補者リスト
道具3:位置情報アプリ
道具4:拘束札×3
道具5:時間帯変更用押しボタン
道具6:刀装用祭壇
道具7:刀鍛冶
道具8:とある打刀の赤縄
審神者局。陸海空三軍と並ぶ存在となった審神者と刀剣男士を統轄する政府の機関だ。政府機関の例に漏れず、その建屋の明かりは深夜になっても消えることはない。特に十階はこの一年と半年ほど、深夜どころか休日含め、明かりが消えているところを見たことがないと噂されている。
その審神者局十階で男が深夜、一人で黙々とキーボードを叩いていた。局で寝起きする日々が日常となり、エナジードリンクと胃の痛みで瞼を無理やりこじ開けている。頭に辞職の二文字を浮かべる精神的な余裕すらない。
しかし彼があと半歩のところで踏み止まっているのは、今取り組んでいる仕事のゴールが見えていたからだった。
「お疲れ」
コンビニのビニール袋を持った男の同期が、そう言って彼のデスクの側にやって来た。
「報告書登録されてるぞ」
「やっとか! ったく仕事がおせーんだよ」
文句を言いつつ、男の顔は綻んでいる。報告書とは、彼が四年間携わってきたプロジェクトに関するものだ。先日、彼の血と涙の結晶であり、お上に振り回された『とある遊戯』が開催され、あとは観覧者からの感想を取りまとめれば終わるところまで漕ぎつけていた。
彼は共有フォルダに登録されている報告書ファイルを開き、一ページ目から順に読み進めていく。だが、画面を上から覗き込む同期が、先に結果を言ってしまう。
「大不評でした~」
同期が男からマウスを取り、該当のページを表示させる。
「ルール元に戻せって」
「はぁ!?」
同期はマウスで円グラフの横に書かれた感想を示しながら、音読する。
「『勝つ気のない審神者が八人中三人もいるのは調整不足としか思えない』、『タブレットが壊れすぎ。経費をケチって安物を買うからだ』、『刀剣男士への贔屓が露骨で、勝ってもつまらない』……お前らが勝たせろって言ったんだろうが!!」
一年前の悪夢が蘇り、男は雄たけびを上げた。同期は持っていたコンビニの袋を、彼のデスクに置いた。袋の中に入っているのはエナジードリンク。買ってきた本人のと、家に帰られると信じていた男の分の二本あった。
「正式には明日指示が出るけど、来年に向けて元のルールで『秘密遊戯』作り直せってさ」
「作り直せとか簡単に言うなよ! そんな時間も、予算も! どこにあるっていうんだよ!!!」
「俺に言うな」
「もう辞める! こんな仕事辞めてやる!!」
顔を突っ伏しておいおいと泣き始めた男の肩に、同期がぽんと手を置く。男はまだ同期のデスクの引き出しに、辞職願があることを知らない。
徐々に体に力が満ちていき、同時に世界も明るくなっていく。審神者の力により肉の器を顕現させ、宗三左文字はとある本丸に降り立った。
「……宗三左文字と言います。貴方も、天下人の象徴を侍らせたいのですか……?」
桜吹雪がやみ、自分を顕現させた審神者の姿が見える。車椅子に乗った巫女装束の女だった。マスクをしているのでわかりにくいが、年の頃は二十の後半だろう。宗三左文字は珍しい刀ではないのに、女は目を大きく見開き、彼を見上げている。
「どうした大将?」
車椅子を支えている薬研藤四郎が身を屈め声をかけると、女はようやく我に返った。マスクを取り、車椅子から立ち上がる。絶世の美女ではないが、醜女でもない。自分の主になる女なのだから、それなりの顔立ちと言っておくかと宗三は心の中で言った。それなりの顔立ちの女の左の頬には、大きな痣があった。
「ようこそ、宗三左文字。これからよろしく」
他の刀剣も彼と同じような反応をしたのだろう、慣れた様子で彼の疑問に答えた。
「歩けないわけではないんだけど、事故に遭ってから体を悪くして、長時間立っていることができないんだ。この顔の痣も同じ事故の時に。いい加減慣れて、マスクを外さないといけないと思っているんだけどね」
「大将、俺たちはマスク外せなんて思っちゃいないぜ。大将がマスクしてた方が安心できるならすればいい。まあマスクしようがしまいが、大将がべっぴんなのは変わらないけどな」
「ありがとう、私は果報者だね」
笑う主に薬研は顔をしかめ、車椅子に座るよう促す。なかなか過保護な薬研藤四郎らしい。
「それじゃ宗三の旦那、本丸を案内するぜ」
「薬研」
女が薬研の名を呼ぶが、待ってと置き換えられる言い方だった。薬研は車椅子の向きを変える途中で止め、主の顔を覗き込む。
「宗三と二人で話したいことがあるんだ」
他の薬研より過保護とはいえ、短刀詐欺と呼ばれる刀だ。理由を聞くような無粋な真似はせず、わかったと返事し、車椅子の向きを直してから鍛錬所を出ていく。
女は薬研が去ったのを確認してから、宗三を見上げた。その際、耳の上に刺した簪の飾りが揺れる。青い蜻蛉玉の付いた簪は、女の年齢には若すぎる代物なうえに、飾りの蜻蛉玉は割れていた。
「私は君より前に宗三左文字を顕現させ、失った。私にとって君は、二振り目の宗三左文字になる」
少しだけ付き合ってほしいと女は言った。
「君は一振り目とは違う刀だ。それはわかっている。わかったうえで、私の戯言に付き合ってくれないか?」
「お好きにどうぞ」
短く素っ気ない返しだったが、女は泣きそうな顔でありがとうと言った。
「鳥籠は足掻く前に出されてしまったよ」
女は宗三を見ているが、宗三を通して一振り目の宗三左文字に話しかけていた。
「付喪神に隠されるような娘はいらないと言われた。ごめん、苦しまずに鳥籠の外に出てしまって」
「……」
「鳥籠の外がいいものだとは限らないって君は言ったけれど、あれは本当だね。家の名がなくなれば、私には何の力もなくなった。また審神者になるなんて何を考えているんだって思うかもしれないけど、遊戯の影響でこんな体になってしまって、食べていくにはこれしかなかったんだ」
女が苦笑いを浮かべ、宗三は黙って女の話の続きを聞く。
「鳥籠の外に出られず苦しむ度、自分のことを思い出せと君は言ったね」
女が胸に手を当てた。白魚のようだった手は瑞々しさがなくなり、女が鳥籠の外で味わった苦労を表していた。
「いつも君のことを思い出した。その度にがんばろうと思った。けど苦しくて辛い時だけじゃない、嬉しい時も。私は君のことを思い出した。君がいれば何と言っただろう、君がいればもっと嬉しかったんじゃないかって。……人はこれを恋と呼ぶのかもしれないね」
「主、僕は……」
「さて!」
今までの調子とガラリと変わり、女は薬研に見せていたのと同じ顔に戻った。部屋の外で待っているだろう薬研の名を呼びながら、自分で車輪を動かして鍛錬所を出ていく。空気を読んで隠れていた刀鍛冶たちが物陰からひょっこり顔を覗かせていたが、赤面している宗三は気づいていない。
「言えなくなったじゃないですか」
一振り目の記憶が残っていると。この先のことを思い、宗三は手で口を覆った。