華族令嬢テツナちゃんとお兄様の緑間君、赤司君③
約束の時間に遅れたが、伯母様はよく来てくれたと直々に僕を出迎えた。遅刻した理由を話せば、それは災難でしたとわざとらしく顔を歪めた。
「つい先ほどまで真太郎がおりましたのよ」
「表で会いました。テツナとの結婚は許さないって、宣言されてしまいましたよ」
「あの子ったら……」
伯母様は額に手を当て、深い溜息を吐いた。
「まだテツナのことを年端のいかない子供だと思っているんですわ。どうぞ真太郎のことは、お気になさらずに」
「僕としては、真太郎からも認めてもらいたいんですがね」
「私からよく言っておきます」
全くの無意味と知りながら、恐れ入りますと頭を下げた。真太郎はその程度で軸がぶれる男ではないし、テツナへの思いも母親に言われて諦める程弱くない。もっとも斯く言う僕も、邪魔さえしなければ祝福なんぞ結構と思っているが。
女中にお茶を出すよう言いつけると、伯母様は僕を書斎に案内した。普段は客間に通されるのだが、今日は伯父様たっての希望で書斎にしてほしいらしい。
「二人きりで話したいことがある、といったところでしょうか」
「私も同席できたら、征十郎さんに加勢いたしますのに」
「それは頼もしい」
「……旦那様は何をお考えになっているのかしら。これほど良いお話は他にありませんのに」
耳に胼胝ができるほど聞いた、ここ最近の彼女の口癖だ。確かに気持ちはわからないことはない。何も知らない身からすれば、伯父様の行動は不可解だ。
富も権力もある伯爵家の嫡男が、芸者の子供が欲しいと申し出ている。これほどおいしい話はそうそうないのに、従兄妹同士で血が近いから反対しているとくれば、誰だっておかしいと思うだろう。実際考え直すよう伯父様に進言する取り巻きは多く、テツナに何か問題があるのではないかと邪推する者もいる。
「僕のような若輩者に、テツナを預けるのは不安なんでしょう」
「まぁ! そのように仰るものではありませんわ。確かに年は近いですが、貴方ほどしっかりした方は、私他に存じませんわ」
そこで伯母様が、ついと僕との距離を縮め、声を潜める。
「征十郎さん、私は何があっても貴方様の味方ですから。この婚姻は、必ずや両家に福を運ぶでしょう」
「……貴女のご厚意を蔑ろにするつもりはありません。ご実家も悪いようにはいたしませんよ」
伯母様は何も答えず、曖昧に頷くに留めた。彼女のテツナへの仕打ちを考えれば、それ相当の罰を与えたいところだが、彼女にはこれから働いてもらわないといけない。作り笑いを浮かべ、頼りにしていますと添えておいた。
書斎に通されると、伯父様はソファに座って葉巻を吸っていた。伯母様が去り、その後お茶を持ってきた女中が去るまで、彼は他愛のない世間話しかしなかった。さらに女中が去ってしばらくしてから、蓄音機をかけ、ようやく本題に入った。
「何度足を運ぼうが、私の考えは変わらん。君とテツナの結婚は許さない」
「僕も同じです。何度断られようが、諦めるつもりなど毛頭ないです」
この後の展開を予感させる、ベートーヴェンの激しい音楽が場に流れる。伯父様は運ばれてきたお茶に口をつけたが、その間も眉間に皺を寄せ、不快感を隠そうとしなかった。こういった点が、真太郎によく似ていると思う。
「何故そこまでテツナに拘る? 君ほどの男なら、他にいくらでも相手はいるだろう」
「あの子に出会ったその日から、僕の伴侶はテツナだと決めています」
「伯爵家の身で、自由恋愛をするつもりか」
「さすがの僕も、親の同意なしに相手は決められませんよ」
同意するように仕向けはするがという言葉は飲み込んだ。
情勢を見極めたいという父の意向から、僕には長い間決まった相手がいなかった。だが、僕が初めてテツナに結婚を申し込んだ直後、母が同じ伯爵家の令嬢を用意してきた。それまでは候補の一人に過ぎなかったのだが、母は父を説得し、僕の正式な許嫁とした。もっとも、説得というのは建前で、決定権は彼女にあった。母は赤司家の中で、当主の次に力があったのだから。
僕の妻となるべきはテツナただ一人。大人しく従う振りをしてどう打開すべきか考えていたが、母が死に、分家に男の双子が生まれたことで事態は一変した。
「ご存じのとおり、赤司では双子が優先して当主に就く。現当主の次は父、もしくは飛ばして双子である僕ですが、その後が問題だ。僕の子供が双子でない限り、当主の座は分家にいってしまう」
「徹子が双子を生んだのは、たまたまだ。緑間が双子の生まれやすい家系という訳ではない」
「そうは言いますが、貴方のお祖母様は双子だったのでしょう? 単なる伯爵家より、その血を引く男爵家の娘の方が、赤司にとっては価値があります。……ああ、勘違いはなさらないでください」
最後に大切なことを付け加える。
「僕がテツナを妻に欲しがるのは、赤司の思惑のためではありません。一人の男として、テツナに惚れているからです」
「その方が尚更、性質が悪い」
「酷い言い様ですね。僕も男ですから、純粋な思いのみとは言えませんが、それでも綺麗なものだと思いますよ? ………それでは、こう言いましょうか。これ以上渋ると、父が緑間に揺さぶりをかけるでしょう。僕と違って非道な人ですから、テツナを差し出さねば家が潰れるところまで追い詰めるでしょうね」
伯父様はとうとう手で顔を覆い、わかってくれと声を絞り出した。
「私は君たちを結婚させる訳にはいかないんだ」
「従兄妹では血が近すぎる……そんな理由では、僕も赤司家も納得しませんよ」
「従兄妹などではない」
音楽が一番の盛り上がりをみせた時だった。
「君とテツナは、実の兄妹だ」
音に紛れてしまいそうな小さな声だったが、僕の耳にははっきりと届いた。
伯父様はその後、自分の罪を告白した。僕と片割れは危険な状態で生まれてきて、片割れは一度も息をしないまま死んでしまった。皆の意識は、辛うじて息をしている僕に向けられ、死んだ赤子の性別は二の次となった。ただ母の乳母だけが、僕たちの性別が違うことに気が付いた。
死んでいるとはいえ、男女の双子に違いない。彼女は赤子の遺体を持ち出すと、判断を仰ぐため伯父様の元を訪れた。しかし、どんな奇跡が起こったのか、赤ん坊は息を吹き返していたのだという。
「私は天を呪ったよ。あのまま死んでいれば、何の迷いもなく地面へ埋めてしまえたのに」
後々発覚する恐れもある、殺してしまうのが最善の手だ。けれど母と同じ空色の髪が、彼の決断を狂わせた。彼は男児の遺体を用意するとともに、子供を馴染みの芸者に預けた。そして子供は、母の名をとってテツナと名付けられた。
「あのまま芸者の元で育てさせれば良かった。伯爵の血を引きながら平民として生きるのは哀れだと、徹子に泣かれても折れなければ……そうすれば、こんなことには……」
「何を……」
「信じられない気持ちはわかる。だが、信じてくれ。テツナは君の双子の妹なんだ」
テツナが僕の双子の妹? 何を、何を、何を……。
「何を今更仰るんですか」
そう言った時の伯父様の顔は、実に滑稽だった。口をぽかんと開け、威厳などあったものではない。
「今の貴方の言葉を聞くまで確証はありませんでしたが、大よその見当はついていましたよ」
「そうか、そうか……そうだよな」
伯父様は急に乾いた笑いを上げ、ソファに背を預ける。緊張の糸が切れたようにも見えた。
「君は私を試したのか。徹子も乳母も鬼籍に入った、真実を知っているのは私だけだ。だから、」
「ねえ伯父様」
「ああ、何だ?」
「血縁なんて、人の認識のうえでしか成り立ちません。僕とテツナに同じ血が流れていると、伯父様の証言以外にどう証明するんですか? 貴方の証言さえなければ、テツナの兄は真太郎で僕はただの従兄。真実がどうあれ、それがこの世に存在する唯一の事実だ」
ねえ伯父様ともう一度呼びかける。彼の顔からは笑みが引き、最悪の事態に顔が強張っていた。
「テツナを僕にください」
「ふ……る……」
『ふざけるな』と言いたかったのだろうが、上手く口が動かないらしい。本人も自分の異変に気付いたのか、もう一度声を発しようとするものの、似たような音しか出てこない。そうしている間にも手から葉巻が滑り落ちるが、視線で追いかけるだけで拾おうとはしなかった。
「危ないですよ」
伯父様の足もとに落ちた葉巻を拾い差し出すが、受け取る素振りはない。彼は僕がいなくなったにも関わらず、同じ姿勢のまま正面を見ている。そこで懐から懐中時計を取り出し時間を確認すると、ちょうど目安の時間になっていた。
「大陸由来の薬だ。効果は抜群でしょう?」
本当は立ち上がって僕の横っ面を殴りたいところだろうが、彼はもう指一本すら動かせない筈だ。聞いた話では、まず末端の感覚がなくなり、続いて手足が動かなくなり、その次は目だったか。とにかく最後は肺が動かなくなって、息ができなくなる。
女中の身元はもっとよく確認した方がいいですよと耳元で囁けば、頭のいい伯父様のことだ。お茶を持ってきた新入りの女中に、一服盛られたとわかっただろう。
「せっかくだから、思い出話をしませんか? こうしてゆっくり伯父様と話すのは、これが最後になるでしょうから」
僕は元いた席に戻ると、もらった葉巻を吸う。音楽はピアノの独奏へ移っていた。
僕は自分でも恵まれた人間だと思っています。富と権力のある家に生まれ、努力さえすれば常に結果が伴った。けれどついぞ満たされることはなかった。常に勝利し一番であり続けても、何かが足りない。周囲から見ても、そして自分から見ても、僕は完璧に近い存在だったのに、重大な『何か』が欠けていた。それがわからなくて、幼い頃の僕はいつも鬱屈としていました。
けれどあの子を初めて見た時、自分に欠けているものが何かわかりました。欠けていたのはこの子だと、この子は僕の半身だと。この感覚は誰にもわからないでしょうね。愛おしいと思う一方で、自分の中に飲み込んで一つになりたいとも思う。本能というものを実感したのは、あの時が初めてです。
真太郎から話は聞いていました。腹違いの妹ができたが、存在感のない薄気味悪い奴だと。しかしいざ本人に会ってみると、真太郎の目がいかに節穴かわかりましたよ。
あの子は花だった。可憐で清らかで、芯が強い。視界に入ればその美しさに惹きつけられ、見えずとも香りがその存在を知らせる。僕からすれば、テツナほど存在を主張するものはなかった。
あの子はよく家に遊びにくるようになりましたが、天国と地獄を一度に味わう気分でした。あの子が遊びにくれば、僕の心は休まった。あれほど満たされなかったのに、テツナがいるだけで欠けたものが再生していく気がしました。それなのに、日が沈めば手放さなければならない。テツナが僕の妹だったら帰さずにすむのにと、いつも思っていました。
母の行動を怪しんだのは、早い段階からです。彼女のテツナへの接し方は、姪に対するものとは思えなかった。自分を『お母様』と呼ばせるのもおかしいと思った。僕を『お兄様』と呼ばせるのはまだわかりますが、いくら伯母様がテツナを快く思っていないとしても、自分を差し置いて母と呼ばせるのは面白くないでしょう。母は聡明で気配りのできる人だった、そんなことに気が付かない筈がなかった。
多分に願望が含まれていましたが、テツナは母の子供ではないかと考え始めました。母の怪訝な態度、見た目が瓜二つな母とテツナ。それだけではない、僕の双子の片割れが本当に男だったのか。そんな噂話は僕の耳にも届いていました。母の力が日増しに強くなるにつれ、噂を口にする者は消えていきましたがね。年齢が一つ下なのは気になりましたが、そんなの届け出の時どうにでも調整できますから、大した問題ではないでしょう。
御託を並べましたが、最後は勘です。あの子を見る度に湧き上がる感情が、本能の囁きが、あの子は僕の妹だと告げていました。白黒はっきりつけたい性分ですので、ある日母を試してみました。母のいる前で、テツナに結婚を申し込んでみたんです。ええ、伯父様の予想どおりです。普通なら子供同士の戯れだと片づけるのに、凄い剣幕で反対しましたよ。穏やかな人だったのに大声を上げ、あれほど可愛がっていたテツナを暗に非難する発言をした。その後僕に許嫁を宛がってきましたから、まず間違いないと確信しました。
ただ、ここからは伯父様の想像と違うでしょうが、僕は喜びました。これほどテツナに惹かれる理由がわかったのだし、あの子が僕の半身であるように、あの子にとっても僕はかけがえのない半身なんだと。
そして自分の置かれた状況にも感謝しました。妹ならば、いつか他の男にやらねばならない。けれど僕たちは従兄妹だ、僕はテツナを手にする権利がある。そして力も。
哀れなのは真太郎ですね、アイツは僕と真逆だ。あの堅物があれほど入れ込んでいるのに、妹だからと手が出せない。まぁ僕から言わせれば、あの子に兄として信頼されているのだから御相子でしょう。
伯父様、僕は貴方にとても感謝しています。僕たちの命を救ってくださり、僕たちを従兄妹にしてくれた。貴方がもっと家の繁栄を考える欲深い方だったら、僕もこんなことをしなくてすんだのに。残念で仕方ありません。
けど安心してください。伯父様が大切に育てたテツナは、これからは僕が守ります。伯母様は貴方と違って貪欲な人だ、赤司の力を欲している。テツナとの結婚に、積極的に動いてくださるでしょうね。
「人……認……」
おや、まだ話せるんですか。驚きですね。人の認識……でよろしいですか? 僕が先ほど話したことについてです?
「君……生きて……限り、……たちは………兄妹だ」
……確かにそうですね。僕が生きている限り、僕たちは従兄妹ではない。けれど残念ですね、僕は実の妹を犯すことに何の抵抗もないんですよ。
お休みなさい伯父様、良い夢を。
音楽が鳴りやむと、もう一度伯父様の顔を見る。土気色で、生きている人間の顔色ではなかった。それでも念のため、口元に手を当て脈を測る。どちらにも何の変化もないことを確認すると、だらしなく開けられた口を閉じ、僕を睨みつける目を閉じた。
「誰か! 誰か来てくれ!! 早く!!」
腹の底から声を出し、冷たくなった伯父様の体を揺さぶる。しっかりしてくださいと悲痛な声を出すが、彼の魂がこの場を見ていれば何と思うだろうと考えれば、笑いが込み上げてきた。死んでも死にきれないだろうな、きっと。
慌ただしい足音が聞こえてきて、すぐにドアが開かれる。先頭に執事、後ろに若い小間使いの男がいた。二人とも伯父様の様子を見ると、只事ではないと瞬時にわかったようで、旦那様と叫びながら部屋に入ってきた。執事は旦那様旦那様と叫ぶばかりで、案外若い小間使いの方が使えて、医者を呼んできますと走っていった。
その後も続々と人が集まり、場は騒然となった。医者はまだかと怒声が聞こえる。
そんな中、ふと花の香りがした。清らかで、それでいて甘美で、いつも僕を満たしてくれる。きっとこの香りは、同じ血が流れる僕しかわからないだろう。
「テツナ」
テツナはドアノブに手をかけ、茫然と立ち尽くしていた。可哀想なほど青い顔をして、今にも倒れてしまいそうなのに、僕以外誰も気付いていない。名を呼ばれ我に返ったのか、テツナはふらふらと部屋を後にした。
「テツナ」
場を抜け出し、細い手首を掴む。
「離してください」
「どこに行くつもりだ?」
「真太郎君に知らせないと。お父様が大変だって、真太郎君に」
「落ち着いて。真太郎が家を出たのはいつだと思っている? 今から追いかけても無駄だ」
「それでは学校に電話して」
「真太郎はミルクホールで待ち合わせをしているんだろう?」
「それではミルクホールに行って……」
いつも冷静な子だが、身内の不幸に慣れていないのだろう。思考が止まり、真太郎に知らせることで頭がいっぱいになっている。良くも悪くも、真太郎は兄としてとても信頼されている。極限に立たされた時、テツナが頼るのは真太郎だ。
もし僕とテツナが兄妹として育てられていたら、彼女は同じ信頼の眼差しを僕に向けたのだろうか。僕が本来手にするべきものを奪われた気がして、嫉妬心が芽生えた。
「真太郎君に、早く言わ……」
「テツナ」
これ以上テツナの口から、他の男の名を聞きたくない。口を閉じさせるため抱き締めれば、テツナの体は震えていた。
「大丈夫、大丈夫だよ。お前には僕がいる」
「征お兄様……」
僕の服をぎゅっと握り感情を堪えているようだが、声が涙声になっている。僕は一段と強く、テツナの体を抱き締めた。ただし、彼女を安心させるためではなく喜びから。久しぶりにお兄様と呼んでもらえたのが嬉しい。僕はやはりこの子の兄だ、兄と呼ばれると歓喜する。
ようやく手に入れた。いや、取り戻した。
お帰りなさい、僕の半身。
母の腹の中でのように、ずっと愛し合おう。