痛みをあげる 髭切が私の本丸に来たのは、遡行軍との戦いが終わる半月前ほどでした。私の本丸ではまず遠征に出て人の身に慣れてから白刃隊に組み込んでいましたから、彼も同じようにしました。
けれどそろそろ出陣させようかとなった時に政府から待機命令が出され、出陣も遠征もできず本丸に籠っていますと、こんのすけがふらりと現れてこれから終戦宣言が行われると告げました。戦争の終わりは、随分とあっけないものだと思ったものです。
戦争が終わっても、私にはまだ仕事がありました。審神者としての最後の仕事、刀剣男士たちを本霊にお返しする仕事です。審神者の中には半日で皆刀解した者もいたと聞きますが、私は人のために戦ってくれた彼らに何かしら報いたくて、一振りずつ自分の部屋に呼んでは、何か願いはないかと聞きました。
「全部が全部聞いてあげられるわけではありませんがにないっていうのは駄目ですよ」
そう言えば、皆思い思いの願いを口にしました。万屋に欲しい物がある、宴会がしたい、祭に行きたい、近侍にしてほしい。遠慮したのか、時間がないことを知っていたのか。どれも私が叶えてあげられる細やかな願いでした。
初期刀から顕現した順に願いを聞いていきましたので、膝丸を部屋に呼んだのは十七番目でした。兄とは違い彼は早い時期に私の本丸に来てくれて、主戦力として活躍してくれました。彼の生真面目さと平安の時代に生きた刀の独特のペースに、始めこそ苦手意識を持っていましたが、共に過ごすうちに気が置けない間柄になっていました。
「君は現世に戻ったらどうする?」
「そうですね、結婚でもしようかしら」
「それがいい。俺たちの代わりに君を守る人間が必要だ」
「冗談で言ったのに。相変わらず貴方は真面目ですね……貴方のお願いはそんなに言いにくいんですか?」
本題の前に世間話をしだすのは彼らしくなくてそう聞けば、やはり言いにくい内容だったようで、彼は長い間黙り込んだ後、重い口を開きました。
「俺と兄者を刀解するのは最後にしてほしい」
それは、当然の願いでした。あれほど髭切に会うのを楽しみにしていたのに、彼らが一緒にいられたのはたったの半月だけです。少しでも長くと考えるのは、おかしくはありません。
膝丸が言おうか迷っていたのは、私を気遣ってのことだったのでしょう。それが余計に申し訳なく、私は了承の返事をするので精一杯でした。
その後も刀剣男士たちの願いを聞いていき、とうとう最後の髭切の番になりました。よくよく考えれば、こうして彼と二人きりで話すのはこれが初めてでした。
「髭切のお願いは何ですか?」
私は彼も膝丸と同じことを言うのだと思っていました。名前を忘れたなんて言っても、彼らは仲の良い兄弟でしたから。でも、髭切の願いは違いました。
「戦に出たいな」
淡々と言われた言葉に、私は膝丸の時とはまた違う胸の痛みを覚えました。戦に出ようにも、もう斬るべき敵はいません。彼の心の内を思うと私は何も言えなくなりましたが、髭切はそんな私を見てくすりと笑うと、膝丸は何を望んだのかを聞きました。
私が膝丸の願いを教えると、彼はう~んと唸りましたが、
「じゃ、僕もそれで」
とあっさり願いを変え、私は新しい願いを了承しました。膝丸の時と同じように、それ以上のことは言えませんでした。
決められた猶予の間に刀剣たちの願いを叶え、願いを叶えた者から順に刀解していきました。最後に源氏兄弟を同時に刀解すると、私の審神者としての任は終わりました。
本丸を後にした私は、その後お見合いで知り合った男性と結婚し、男の子と女の子を一人ずつ授かりました。戦いに明け暮れた日々がうそのように穏やかな時間を過ごし、最期は二人の子と孫たちに見守られて生を終えました。
いろいろありましたが、幸せな人生だったと思います。ただ、死ぬ間際まで気がかりだったのは髭切のことでした。刀としての本分を全うできなかった彼の心が、いつか満たされることを願うばかりでした。
夏は嫌いだ。暑いし、日差しが強くて焼けるし、蝉がうるさい。でも今はそのどれも気にならない。気になるのはもっと早くと思っても全然速く走れないことと、ホームルームでの先生の話。女子生徒、雨の日、行方不明。キーワードが全部そろっている。
バス停からずっと走りっぱなしで、息は切れるしセーラー服が汗でべとべとだけど、お隣のインターホンに飛びついた。嫌がらせかっていうくらいチャイムを連打していたら、幼なじみの弟の方が出てきた。
「君か。一体なんの真似だ?」
思ったとおり、眉間に皺が寄っている。いつもならイケメンが台無しだよとからかうところだが、そんな余裕はなかった。
「ひーちゃん、ひーくんはいる!?」
ひーちゃんが弟で、ひーくんが兄の方。双子だから兄も弟もないように思うけど、兄は弟を呼び捨てにして、弟は兄を兄さんと呼んでいる。
「兄さんならいるが……おい!」
後ろから聞こえる怒鳴り声を無視し、私は幼なじみの家に乗り込んだ。おじさんやおばさんがいた頃はもっと遠慮していたけど、二人は今おじさんの仕事の関係で九州にいる。この家にいるのは双子の兄弟だけだ。
大きな音が立つのもかまわずリビングの扉を開ければ、音に反応した兄と目が合った。ソファに長い足を組んで座り、手にはテレビのリモコンがある。彼は私の顔を見ると、ふんわりと笑った。
「あ、いらっしゃい」
二人は顔がいいのはもちろん、身長も高いし頭も運動神経もずば抜けていい。昔から女の子の注目の的だったけれど、近寄りがたい雰囲気の弟に対して兄はこんな感じでゆるふわだから、兄の方がもてていた。
彼が笑うとつられてこっちまで笑顔になるけど、今日は違う。
「またひーくんがやったのね」
「う~ん、なんのこと?」
「とぼけないで! 私のクラスの子が行方不明になったの、ひーくんのせいでしょう!!」
放課後のホームルーム、いつになく畏まった担任の先生から話があった。四日前から風邪で休んでいる子は、本当は病欠ではなくて行方不明なのだと。
私はそれを聞いてすぐにわかった。行方不明になった女の子は小柄で細身、普段はお団子にしていたけど、プールの時間結び直しているのを見た時には、肩甲骨の下あたりまであった。それに四日前は雨だった。濡れて帰ったらお母さんに叱られたので、よく覚えている。
「これで何度目? どうしてあんなことするの!?」
「君が何を言っているのかわかんないな」
自分でもすごい顔をしているのがわかったけれど、彼は自分のペースをちっとも崩さない。いつの間にか弟がリビングに来ていて、仲裁に入ろうとしているのが気配でわかったが、私の怒りは収まらなかった。
「髭切、答えなさい!!」
彼の前世の名を呼んで命じる。すると彼は目を細めた後小首を傾げ、ごめんね主と言葉ばかりの謝罪をした。私は怒りとか悲しみとか、いろんなごちゃごちゃした感情が一気に爆発して、髭切に持っていた鞄を投げつけた。
私が前世の記憶を取り戻したのは、中学生の時だった。当時はバレー部に入っていて、その日も夜遅くまで練習していた。制服が可愛いからと決めた中学校は家から遠く、電車を乗り継ぎしないと通えなかったが、その日は人身事故の影響で、乗換の駅で足止めを食らった。
普段ならお母さんに連絡して迎えにきてもらうが、朝ケンカしたまま家を出たので素直に頼めなかった。幸い歩けない距離ではなかったし、私は駅を出て歩いて帰ることにした。
でも歩き出してすぐに後悔した。路地裏のせいか街灯がほとんどなく、おまけに雨の日だったから不気味さが助長されて、歩いているだけで背筋に悪寒が走った。
多分三十分は歩いた頃だったと思う。駅を離れてからは人と会わなかったけど、そこで初めて人を見つける。
けどその人はおかしかった。雨なのに傘もささず、道の真ん中に立っていた。背中しか見えないので正確なことはわからなかったが、紺色の学ランを着ていたから中学生か高校生なのだろう。自分のことを差しおいて、なんでこんな時間にこんな場所でと思った。
それからその人が赤くなった日本刀を持っているのと、地面に女の子が倒れているのに気づいた。彼女の周りにできた水たまりは赤く、なんの知識もない私でも、死んでいるとわかるほどの血の量だった。
その日も蒸し暑くて汗をかいていたけど、暑さのせいでない汗が流れ、口の中がカラカラになった。それでも、目の前の光景から目を離すことができない。
私の中では何時間も死体を見つめていた気がするけど、実際はそれほど時間は経っていなかったと思う。女の子を殺した男が私に気づいて、刀を手にしたまま振り返った。逃げなければと思うのに、足が地面にくっついて動かず、私は自分が殺されるのを待っていた。でも男もその場から動かなかった。
「さっちゃん?」
私は親と親戚と幼なじみの彼にだけ、さっちゃんと呼ばれる。成長期になってもあまり低くならなかった声は、私のよく知る人のものだった。彼は濡れた髪をかき上げ、珍しい金色の瞳と目が合った。
その目を見て、私の中に今まで眠っていた前世の記憶が蘇った。家族を歴史修正主義者によるテロで失い、彼らと戦うため審神者となり、多くの刀を顕現させ彼らの主となった。
一度思い出せば日常のささいなことまで鮮やかに蘇り、食堂での席順や打刀同士がケンカして付いた柱の傷、万屋の店番の女性によくおまけをしてもらったことまで思い出した。
「髭切」
記憶の中の姿より随分幼くなったが、目の前にいる人物が自分の刀剣の生まれ変わりだとわかった。
髭切、最後に来て最後に別れた刀。一度も戦に出してやれず、そのことが生涯気がかりだった。髭切はパチパチと瞬きし、ありゃと驚いた時の口癖を言う。
「思い出したんだ」
記憶が蘇ったことを喜ぶのではなく、かといって今まで忘れていたことを責めるのでもなく。彼はただ純粋に驚いていた。
女の子の死体は遡行軍のように骨になった後消え、髭切の刀と彼に付いた血も、同じように消えた。
次の日、突然部活が中止になって早く帰るよう言われ、理由は教えてもらえなかったけれど、三年生の先輩が帰宅途中で行方不明になったからだと噂で聞いた。あれから五年近く経っても、彼女が見つかったという話は聞かない。
女子学生の失踪事件はその後も続いた。中学三年になった時は隣のクラスの女子が、高校に入ってからは近くの学校の女子高生二人と同じ高校の下級生二人、そして今回のクラスメイト。共通しているのは皆小柄で細身、髪の長い女子学生で雨の日に姿を消しているということ。
「やめるんだ」
「膝丸離しなさい!」
鞄を投げただけでは足りなくて、髭切に掴みかかろうとした私を膝丸が止める。膝丸も髭切と同じように私の幼なじみとして転生し、彼もまた前世の記憶を持っている。
私が暴れても膝丸に勝てるはずがなくて、できることと言えば彼を睨みつけるぐらいだった。
「膝丸はいつもそう! 髭切が何やっても髭切の味方ばっかり」
「弟は僕より主の方に甘いと思うんだけどな」
「兄者、今は黙っていてくれ」
「お前、兄者と兄さんを使い分けるの面倒じゃない?」
「いいから黙っていろ」
膝丸はソファとは離れた場所にある食卓用の椅子に私を無理矢理座らせると、自分もその隣に座った。
「兄者には俺が言って聞かせる」
「毎回そう言うけど、髭切が聞いた試しなんてないじゃない」
「だからといって、頭に血が上った君が言って何になる? 俺に任せろ」
膝丸の言うとおり、自分でも感情的になっている自覚はあったし、頭の悪い私では言いたいことが上手くまとまらなくてめちゃくちゃになっちゃうとはわかっていた。
それでも自分では何もできない現実を突きつけられるのは悔しかった。あんなに怒っていたのに今度は悲しくなってきて、じわじわと涙が込み上げてきた。
二人とも黙ってしまって、テレビの賑やかな声の中に、私のしゃくり上げる声だけがする。膝丸はしょうがないなと溜息を吐くと、私の背中に手を回してそのまま抱き締めた。
今はそれほどではないけど、昔はちょっとしたことですぐ泣いていて、膝丸は私が泣く度こうやって抱き締めて慰めてくれた。
「さっちゃん」
視線を上げると、いつのまにか髭切も側に来ていた。髭切は身を屈め、ぐっと距離が近くなる。
「ごめんね、もうしないから」
女の子が行方不明になる度聞く台詞だ。うそつきって言ってやりたかったが、物言いたげに見つめるだけになってしまう。
「泣きやんで。ね? ほら、いいこいいこ」
そう言って頭をなでる彼は、いつもの穏やかな幼なじみだ。優しくて、時々天然が入って、けれどいざという時には誰よりも頼りになる。誰よりもそのことを知っているから、余計に彼が人殺しなんてする理由がわからず、落ち着きかけた涙がまた頬を流れた。
「お待たせしました。本日のパフェお二つとホットコーヒーです」
店員さんが私と髭切の前にパフェを置き、髭切はパフェを横の膝丸にスライドさせる。店員さんはそれを見て、紙ナプキンの上に置いたスプーンを、慌てて膝丸の前に置き直した。
ああ、可哀想に。膝丸が恥ずかしさで震えてる。わざわざ私に自分の分の注文を頼んだのだから、察してあげればいいのに。髭切のことだから本当に気づいていないのか、気づいていてわざとやっているのか。どちらもありえそうだから困る。
「ひーちゃんは古臭いのよ、いいじゃんスイーツ男子」
「ありゃ? お前いつからスイーツの付喪神になったの?」
「お願いだから二人とも黙ってくれ」
泣かせたお詫びにということで、髭切から前に行きたいと話していたお店のパフェを奢ると言われた。
私があれほど必死に訴えたのに、髭切はまるでわかっていなくてますます腹が立ったけれど、間に入った膝丸の顔を立てて、奢ってもらうことにした。こんなことで怒りが静まりはしないけど、もうしないと言われれば、それ以上強くは言えないのも確かだった。
三人でカフェに来ると、私と膝丸がスイーツを、髭切はホットコーヒーを頼む。髭切の方が甘い物が好きそうに見えるから、今みたいに膝丸でなく髭切にスイーツが出されることが多いが、髭切は甘い物に興味がない。というか、食全般に興味がない。ホットコーヒーを頼むのだって、メニューを開かなくても大抵の店にはあるからだ。
「ひーくん一口くらい食べない?」
「食べろと言われれば食べるよ」
「つまんない。ひーくんも甘い物に目覚めればいいのに。ね、ひーちゃん?」
「俺に振るな」
上に乗ったシャインマスカットを取り皿に避け、クリームとアイスを堪能する膝丸とは対照的に、髭切はカップに口を付けたかと思えばすぐに飲み干してしまった。ここはコーヒーにも力を入れていると聞くのに、もったいない。
パフェを食べながら話をしていると、パフェを持ってきた店員さんとは別の店員さんがやって来た。
「お水をお注ぎしましょうか?」
声に反応し顔を上げれば、思わずあっと声が出た。
「ちかちゃん」
店員さんは部活の後輩のちかちゃんだった。カフェでバイトしているとは聞いていたが、この店で働いているとは知らなかった。ちかちゃんも私だと気づかず水を注ぎに来たようで、驚いた顔をした。
「先輩! えっ、もしかしてデートですか?」
「そんなわけないでしょ。……ああ、ちかちゃん入れ違いだから知らないか」
二人はただの幼なじみだと知っているのに白々しいと思ったが、よく考えれば、髭切たちが卒業したのと入れ替わりでちかちゃんが入学してきたのだ。
私にハイスペックな双子の幼なじみがいるというのは有名な話なので知っているだろうが、顔は知らなくてもおかしくない。
「この二人が私の幼なじみ」
そう言えばちかちゃんもああ! と声を上げた。手が自由ならポンと手を打っていたと思う。
「この人たちが噂のお二人ですか!」
「噂ってなあに?」
「兄さん」
「いいじゃないか。ね、教えてくれない?」
膝丸が窘めるが、髭切が噂の内容について更に尋ねる。彼氏がいてもイケメンに微笑まれると誰でもドキドキしてしまうもので、先ほどの元気の良さがうそのようにしおらしくなって目が泳いでいる。それを見て髭切はクスクス笑ったが、少しも嫌味に感じなかった。
別に髭切の行動に不自然な点はない。自分に関する噂は気になるだろうし、ちかちゃんはかわいいから、声をかけたくなる気持ちもわかる。けど、どうしてか胸騒ぎがした。
「ちかちゃん、あの人店長さん? こっち見てるみたいだけど」
「あ、ごめんなさい! 失礼します!」
当てずっぽうで言ったのだが、ちかちゃんは慌ててキッチンへ戻っていく。髭切はその姿をずっと目で追っていた。
ちかちゃんは小柄で細身だ。私と体型が似ているから、部活のストレッチでよくペアになって、それがきっかけで仲良くなった。
髪も長い。緩く編まれた髪は垂らすと肩甲骨あたりまであるらしく、先輩よりちょっと長いくらいですと言っていた。
女子学生。私の後輩なのだから、女子学生に決まっている。
「ひーちゃん、明日の天気ってわかる?」
いきなり天気の話をして、膝丸はちょっと怪訝な顔をしたけどすぐに答えてくれた。
「午前中は晴れるが、夕方から雨だと言っていたな」
髭切の次の標的はちかちゃんだ。そしてちかちゃんが殺されるのは、明日かもしれない。私は居ても立ってもいられなくて、カフェから帰るなり髭切に懇願した。
「あの子は絶対にやめて!」
「だからもうしないって」
「うそだ。ねえひーくん、お願い。お願いだから」
髭切はそもそも人を斬るつもりはもうないと言うけれど、一体誰が信じるだろうか。行方不明になった女の子の存在を知り、私が問い詰める度、彼はもうしないと言った。
「あの子本当にいい子なの。明るくて面白いし、最近彼氏ができたばかりで……」
「悪い子ならいいの?」
もうしないの一点張りだった髭切が、急に別の返しをしてきた。一見普段の温和な彼のままだったけど、長年の付き合いでイライラしているのがわかった。
髭切は基本的に気が長くてゆるいから、怒ったりすることはほとんどないが、普段は折れる私がいつまでも食い下がるから、いら立っているようだった。
「暗くて、面白くなくて。彼氏がいない子なら君はいいって言うの?」
「そんなこと言ってない」
「そう? 僕にはそう聞こえるけどな」
現にと髭切が続けて言う。
「性格をよく知らない今までの子の時は、そんなに必死にならなかったじゃないか。殺さないに越したことはないけど、殺しちゃったならしょうがないよねって……まったくそう思わなかったって、君は言える?」
髭切は試すように私の顔を見るが、私には言えると断言できなかった。してしまったものは仕方ないと思ったから、髭切がもうしないと言えばそれ以上何も言えないなんて理由を作って、彼を責めるのをやめるのだ。
髭切は私が反論できないとわかっているから、私の返事を聞かずに、リビングを出て部屋に戻ってしまった。静かになった場に耐えられず、私はだんまりを決め込んでいた膝丸に当たった。
「ひーちゃんの馬鹿!」
八つ当たりだと言われても仕方ないが、それでもちょっとくらい助け舟を出してくれたっていいだろう。兄者には俺が言って聞かせると言ったのは、どこのどいつだ。
私の考えることなんて膝丸はお見通しらしく、額に手を突き溜息を吐いた。私と髭切がもめる度、彼はこの仕草をする。
「言っても兄さんは聞かない」
「髭切には自分が言って聞かせるって、ひーちゃんが言ったんじゃない!」
「兄さんは刀なんだ」
よくわからない言葉に一瞬考えが止まったが、的外れな回答に再び怒りが湧いた。けど膝丸は違うんだと言う。
「俺は人として生まれ変わった。生まれた時から前世の記憶はあるが、それはあくまで記憶に過ぎない。膝丸と呼ばれるより今の名で呼ばれる方がしっくりくるし、君や兄さんに対し前世の呼び方をするのは、違和感がある」
膝丸がそんな風に思っていたとは知らず、正直びっくりした。私は二人のことをひーくん、ひーちゃんと呼んでいるが、前世の記憶を取り戻してからは髭切、膝丸と呼ぶ方がしっくりくる。
それに時々、自分でも気づかないうちに前世の喋り方や考え方に戻っていることがある。私と前世の私は、置かれた立場の違いもあって、性格が正反対って言ってもいいくらい違うのに。
「でも三人の時は私のこと主って言うし、髭切のことも兄者って」
「それくらいは話を合わせるさ。それに兄さんは、俺が兄者ではなく兄さんと呼ぶことに違和感を覚えるのだろう。兄さんは君よりも前世の影響を強く受けている……いや、あれは前世そのものだな。兄さんは人ではなく、源氏の重宝髭切の太刀として再び生まれたんだ」
「信じられない」
「前世で髭切は刀としての本分を全うできなかった。だから再び体を得た今、その本分を全うしようとしているんだろう」
「……私のせいだって言いたいの?」
顕現するだけしておいて、出陣もせずに刀解したから。彼のお願いを聞いてあげなかったから。だから髭切は人を斬るというのか? けど膝丸はすぐに違うと声を張り上げた。
「混同するな! 君は君だ。審神者だったのは君とは違う人間だ」
「やっぱり私のせいだって思ってるんじゃない!」
「前世の君のせいではないし、もちろん今の君のせいでもない! ……誰のせいでもない。だが、刀に人を斬るなと何故言えよう」
真面目な膝丸が悩まなかったとは思わない。悩んだうえで、髭切は止められないと悟ったのだ。けど私は納得することなんてできなくて、膝丸を残し髭切のいる二階へ向かった。
しばらくの間髭切の部屋の前で迷っていたけど、意を決してドアをノックする。どうぞと返ってきた声は、怒っていないように聞こえた。私は半開きにしたドアの隙間から部屋の中をうかがうと、ベッドを背もたれにして座っている髭切が、おいでと手招きをする。私はおずおずと部屋の中に入っていった。
「どうしたの?」
まるで何もなかったかのように、いつもの穏やかな顔で見上げてくる。側まで来はしたけれど、隣に座るのはなんだか違う気がして、立ったままで言った。
「彼女は斬らないで。斬るなら私の知らない人にして」
覚悟を決めたはずなのに、目を丸くする髭切を見ていたら、不意に涙が零れた。
前世の私の人生も、今の私という人間も。すべてを否定する発言だ。それでも私はちかちゃんが死ぬのは絶対嫌だ。ちかちゃんが助かるなら他の人が死んでもかまわない……そう決めたのに、なんで私は泣いているのだろう。もしかして、泣いているのは前世の私?
「さっちゃん」
立ち上がった髭切に、涙を拭っていた手をどかされ、彼の顔が近づいてくる。キスされるんだなとわかった。体の横に下ろした右手を押さえつけられたけど、そんなことしなくても私は逃げられないのに。
唇が触れて、少しして離れて。けどまたすぐに触れて、キスが深くなっていく。泣いてぼんやりしていた頭がますますぼんやりしていき、初めてキスをした日のことを思い出す。
前世の記憶を取り戻したあの雨の日、前世の口調に戻って髭切を責めた私に、彼はキスをした。ファーストキスはレモンの味がするとか言うけれど、私は血の味がした。唇を離した彼の口から覗いた牙のような犬歯は、私の血で濡れていた。
「さっちゃん」
キスの合間に髭切が掠れた声でささやく。私と二人きりの時は、頑ななほど私のことを主としか呼ばないのに、こんな時だけは私をさっちゃんと呼ぶ。
「もうこの話はやめにしよう。ね?」
何も言わなくても、私のとろけきった顔を見ればわかるのだろう。いい子と笑って、私のピンクベージュのバレッタを外すと、私を後ろのベッドに押し倒した。
髭切はずるい。私が髭切を好きなことも、さっちゃんと呼ばれればすべてを許してしまうことも、全部知っている。
私はまた髭切を止められないのだろうか。
初めて人を斬ったのは中学の時だった。雨の日、女の子の後を付いていき、人気のなくなった所で斬った。まだランドセルを背負った女の子だった。
今世になってから刀を握ったことはなかったけれど、気づけば僕の手には刀があり、なんの迷いもなく彼女を斬った。ランドセルの下の長い髪ごと彼女の背がすぱりと斬れ、前世の記憶は元々あったが、自分の名と体が一致した瞬間だった。
それから定期的に人を斬り続けた。誰でもいいわけではなく、斬りたいと思うのは髪の長い年下の女の子で、屈強な男でないのは自分でも不思議だったが、それでも人を斬った瞬間感じる僕が僕に戻る感覚は手放せなかった。
主の後輩だという女の子を見た時も、僕の斬るべき子だと思った。主はいつも以上に必死になって、他の人間だったらいいとまで言って僕を止めようとしたけど、僕が斬るべき相手だと認識してしまったのだから止めるのは無理だ。
僕は今、昨日行ったカフェの外で彼女が出てくるのを待っている。会計をすます時、主の目を盗んで彼女に連絡先を渡し、シフトの時間は抑えてある。今日は夕方からのシフトで、夜の九時に終わると言っていたから僕としては好都合だ。
「……来た」
八時五十分、彼女が店から出てきた。白い花柄に赤い縁取りがされたビニール傘、それに……。
「(レインコート借りたのかな)」
ビニール傘は来た時に差していたのと同じだが、レインコートは着ていなかった。確かに視界がぼやけるほど雨足は強くなってきたが、レインコートなんて着たら動きが制限されて刀が思う存分振るえないのに。
そこまで思った後、普通の人間は刀を振るうことなんて考えないのだと気づき、笑ってしまった。
僕は少し距離を空けて彼女の後を追った。いつも衝動のままに行動して、計画を練ったことなんてないけれど、毎回上手くいった。雨の日の夜、後を付いていけば彼女たちは人気のない路地裏へ入っていく。人に見られたのは、あの主の時だけだ。
もっとも、人に見られたって問題はない気がする。この時代では、刀剣男士の存在は遠い昔の話。人混みの中で人を斬ったって、彼らからすれば何が起こったかわからないし、証拠だって残らないのだから警察に捕まることもない。
いつもどおり、前を歩く彼女は人通りのない小道へ入っていく。僕は人が周りにいないのを確認すると、握っていた傘を放り投げた。すると手のひらに光が集まって刀の形へなり、僕は具現化した刀の柄を握り締めた。
ああ、欠けていた体の一部が戻ってくるようなこの感じ。たまらない。けどまだ駄目だ。
「鬼だろうが刀だろうが」
人の子だろうが
「斬っちゃうよ」
標的に向かって走り、女の背に刀を振り下ろす。手に伝わる肉を斬る感覚と、熱い血飛沫。僕が求めてやまないものはこれだ。自然と口角が上がり、高揚感で心臓が張り裂けそうになる。
けれど。斬った女が前のめりに倒れ、レインコートのフードがずれてピンクベージュのバレッタが見えた時、時が止まった。
「主?」
倒れた女の横顔に雨がかかる。僕は人の顔や名前を覚えるのが苦手だけど、自分の主の顔を間違えるはずがない。血の海に倒れているのは、紛れもなく僕の主だった。
なんで? どうして? いつの間に入れ替わった? 何故斬るまで気づかなかった? 頭は忙しく動いているのに、体は一つも動かない。僕は倒れた彼女を見下ろすしかできなかった。
──ひーくんにあげる。
こんな時なのに、急に主が小さかった頃のことを思い出した。家に傘を忘れ、弟の傘に入って家まで帰っていると、レインコートを着た主が僕の傘を持ってきてくれた。彼女の親にも僕の親にも黙って来たらしく、その頃大人たちは大慌てで警察に電話しようとしていたと後から聞いた。
──ありがとうさっちゃん。
──どういたしまして。
あの時の彼女はまだ前世の記憶がなくて、三人でいても僕は彼女を主と呼べなかった。彼女の記憶が戻った時、一番嬉しかったのは彼女を再び主と呼べるようになることだった。彼女はさっちゃんなんて可愛らしく呼ぶ女性ではなかった。
「さっちゃん」
血と雨が混ざった水たまりに膝を突くと、赤く色づいた滴が彼女の頬に飛び散る。何をするんだと頬を膨らまして怒りそうなのに、彼女は目を閉じたままだ。代わりに僕が拭ってあげたが、自分の手が真っ赤なのを忘れていたせいで、彼女の顔が余計に汚れてしまった。
「さっちゃん」
まだまだ小さな女の子だと思っていたのに、目を閉じた彼女は随分と大人びて見える。けれど頼りなさげなのは変わらなくて、僕の後を付いてまわって、僕のすることに一喜一憂するのはいつまでも変わらなくて……。
「さっちゃん、さっちゃん! さっちゃん!!」
肩を揺らすが彼女は起きない。僕のさっちゃんは、僕が殺してしまった。
髭切へ
あなたがこれを読んでる時、私はこの世にいないでしょう。
切られる痛みというのを私は知らないから、どれほど痛いものなのか想像もできないけど。それでも私は後悔しないと思います。
前世の私は、最期まであなたのことが心にひっかかっていました。私はあなたに何もしてあげられなかったから。ううん、何もできなかったのは今世も同じですね。私はあなたを止めてあげることができなかった。
だからね髭切。私はあなたに痛みをあげる。
あなたはこれから先、人を切ろうとする度、私を切った時の痛みを思い出すでしょう。その痛みがあなたを止めてくれる、あなたを人にしてくれる。
これが私が唯一あなたにしてあげられること。
「酷な事をする」
あの日、兄さんに渡してほしいと託された手紙は、まだ俺が持っている。そして渡された日と同じ雨の日には、こうして読み返している。
あの晩兄さんはずぶ濡れになって帰ってきて、俺の顔を見るなり泣き崩れた。俺はその時まだ彼女の手紙を読んでいなかったが、それですべてを察した。
後日彼女の後輩に連絡を取ると、彼女が行方不明になったあの日、彼女が突然バイト先にやって来て、話したいことがあるからバイト終わりまでロッカールームで待たせてほしいと言ったらしい。
従業員以外は規則上立ち入り禁止らしいが、店長の目を盗んで友人や恋人を中に入れる者がいるようで、何より彼女から有無を言わさぬ強い口調でお願いされ、後輩は断り切れなかったらしい。
しかし、後輩がバイトを終え戻った時には彼女はロッカールームにおらず、ロッカーにしまった後輩の私服もなくなっていたという。
何が、彼女を突き動かしたのだろう。審神者としての使命感からか、それともひーくんと呼び慕った幼なじみへの情からか。だが、もし兄さんへの想いからだとしたら……。すべてを失ってもいいと思うほどのものだったのか。父も母も、そして俺をも置いて。それでもいいと思えるほど、彼女は兄さんを愛していたのだろうか。
玄関の開く音が聞こえ、俺は机の引き出しに手紙をしまうと自室を出た。階段を下りれば、ずぶ濡れで玄関にたたずむ兄さんが見えた。
「斬れなかったのか?」
今日は雨。先日、彼女のように髪が長く、彼女とよく似た体型の女性を熱心に見ているのを見かけた。今までの兄さんなら、今日その女性を斬っていたはずだ。けれど浮かない顔を見れば、何も聞かなくても失敗に終わったのだとわかる。
「シャワーでも浴びてきたらどうだ? 風邪を引くぞ」
「いい」
「兄者」
「無理に僕のことそう呼ばなくていいよ」
うつむいたまま顔すら上げようとせず、仕方がないので風呂場からタオルを取ってくると、兄さんの頭に被せた。そして家に引っ張り上げ、リビングのソファに座らせる。
「今コーヒーを入れるから、飲んだら風呂に入れ」
台所にはドリップコーヒーもあったが、食に興味がない兄さんにはインスタントで十分だ。カップに粉を入れ、電子ケトルで沸かした湯を注ぐ。立ち上る湯気に、味はともかく暖を取るには十分だろう。
兄さんの前にコーヒーを置けば、ありがとうと礼を言って両手で持ち上げた。俺は兄さんが一口飲んだのを見届けてから、また風呂場にタオルを取りに行こうとした。しかし背の後ろから、ぽつりとつぶやく声がする。
「苦い」
驚いて振り返ると、兄さんは両手で持ったカップの中を見つめていた。
「苦くて飲めない」
兄さんは彼女が望んだように人になった。だからこそ俺は、彼女は残酷なことをしたと思う。人になったからこそ、彼女の与えた痛みはより強く、耐え難いものへとなっている。
ひーくんへ
切られる痛みというのは、言葉にできないほど辛いものだったけれど。私は後悔していません。
今になってわかりましたが、前世とか関係なく、私はあなたのことが好きだっただけなんです。だからあなたを止めてあげたかった。
ひーくん、ひーくんに痛みをあげる。
私を切った時の痛みが、あなたを止めてくれる。あなたを人にしてくれる。
これが私が唯一あなたにしてあげられること。
ごめんね、ひーくん。最後にさっちゃんって呼んでくれて嬉しかったよ。