狂ってしまったお姫様 緑間テツナから赤司テツナになって、私はとても幸せだった。新入りの女中にお父様を殺され、ずっと拒んでいた相手と結婚を強いられたのは、確かに辛かった。けれど、その後の生活は幸せだった。
由緒ある赤司伯爵家に不相応な身である私を、赤司家の人たちは温かく迎え入れてくれた。そして、夫である征十郎さんは私のことを第一に考えてくれた。元々私には甘い人だったけれど、時折覗かせていた冷酷な面は鳴りを潜め、宝物のように大切にしてくれた。
彼は私が長年思いを寄せていた人だ、結婚を拒んだのは偏に私が彼に相応しい女ではないから。今でもその考えは変わらないけど、彼の愛情を一心に受ければ、もう拒むことはできなかった。
二十歳になると待望の子供を授かった。赤司家では双子が家に福を運ぶと考えられ、跡継ぎも双子が優先される。私が高貴な血のお姫様たちを抑え彼と結婚できたのは、双子が生まれやすい血筋のためだ。周りは当然双子を産むことを期待したが、征十郎さんだけはお前が無事ならばそれでいいと私を気遣ってくれた。
そう、とても幸せだったのだ。あのお父様の手紙を読むまでは。
お腹の膨らみが目立ち始めた頃だった。斎藤と名乗る男性が、私を訪ねてきた。初めて顔を合わせるが、その名前に覚えがあった。お父様がとても信頼されていた部下の名が斎藤だった。私の記憶は正しかったようで、斎藤さんはお父様の部下だった方の息子だと言われた。
彼から渡されたのは表に『緑間テツナ様』と書かれた白い封筒で、久しぶりに目にするお父様の字だった。突然命を奪われたお父様のことを思うと、自然と目頭が熱くなる。表情がないとよくからかわれたものだが、妊娠しているせいか随分涙もろくなった。
恐縮している斎藤さんに、何故お父様が書かれた手紙を持っているのか尋ねたところ、正確なことはわからないがと前置きしたうえで、自分の父親が緑間男爵から預かっていたのだと答えた。
彼の話によれば、訳あって京都の実家を手放すことになり家の整理をしていたところ、私と真太郎君の名前が書かれた手紙を見つけたのだという。裏面を確認すればお父様の名前があり、何らかの理由で父親が預かっていたものだろうと判断し、こうしてわざわざ持参してくれたそうだ。
斎藤さんのお父様も私のお父様と同時期に他界され、斎藤さんは手紙の存在を知らされていなかったので、届けるのが今の時期になってしまったと頭を下げられた。
「緑間男爵様には、これからお届けに上がる予定です」
「それでは私が預かりしましょう。真……兄には、私から渡しておきます」
「そんな! 伯爵夫人様にそのようなご足労は……!」
「かまいませんよ。こんな用でもなければ、会う機会は滅多にないんですから」
伯爵夫人という立場と、征十郎さんが少々束縛が過ぎるせいで、気軽に真太郎君と会うことはできない。久しぶりに会う口実にしたいと言えば、斎藤さんはまた深々と頭を下げた。
今思うに、あの時真太郎君宛の手紙を預かっておいて正解だった。未だ開封していないが、彼の手紙にも私宛の手紙と同じ内容が書いてあるに違いない。
『この手紙は私の身に何かあった時のため、斎藤に託したものだ。』という書き出しで始まる手紙は、私を地獄に突き落とした。お父様が何故頑なに征十郎さんとの結婚を反対したのか、私はようやくその理由を知った。
手紙を読んでから三日三晩悩み抜いて、私はお腹の子と共に死ぬことを決意した。征十郎さんが仕事で遠出する日を選び、嫁入りの時持たされた護身刀で腹を刺すことにした。けれど命の危機がわかるのだろうか、刺そうと手を振りかざした時に限って子供がお腹を蹴ってくる。
「そんなことしても……助けてあげられませんよ?」
意を決して刀を振り下ろしたが、寸前のところで自分以外の手が刀身を握る。赤い滴が刀を伝い、ぽたりと私の洋服に落ちた。
「……どうして?」
「お前を傷つけることは、例えお前であっても許さない」
刀を握っているのは、ここにいない筈の征十郎さんだった。いくら切羽詰まっていたとはいえ、周囲に誰もいないことは確認していた。いつの間に部屋の中に入ってきたというのか。私の考えることくらいお見通しのようで、気配を消すのはテツナの専売特許ではないよと、空いた左の手で私の指を外しながら言った。
手の届かぬ所へ投げられた刀が鏡台に当たり、派手な音が鳴る。けれど私には、どこか遠くで鳴り響いているように感じた。
「自覚が足りないようだね。お前は僕のものだよ。何故こんな馬鹿げたことをした?」
「このお腹の子は生まれてきてはいけないんです」
「だからといって、テツナが死ぬことはないだろう。子を流す方法など、他にいくらでもある」
「何てこと言うんですか! 自分の子供が可愛くないんですか!?」
「テツナがしようとしたことは、そういうことだろう?」
征十郎さんの言うとおりだ。可愛い我が子を殺そうとしたのは、紛れもなく……私自身だ。
そのことを自覚した途端体から力が抜け、後ろにいる征十郎さんにもたれる形になる。彼は私を支えるため、腹に手を回し背後から抱き締めてきたが、その温もりに安堵する自分が忌まわしい。
「だって……だって……」
「愛しているよテツナ。僕の半身、僕のかけがえのない……」
征十郎さんは私の首筋に顔を埋め、続きを囁いた。
「僕のかけがえのない妹」
征十郎さんが置いた手を中心に、お腹に赤い染みが広がっていく。彼が私のお腹に触れるのは、妊娠してからは初めてだ。子を授かって浮かれていた私は、子について何も言わないのは気遣ってのことだと勘違いしていたが、そうではない。単に興味がなかったのだ。自惚れでも何でもなく、彼が興味を抱くのは私だけだ。
その後何度も死のうとしたが、その度に征十郎さんに止められた。少しも思っていないくせに、どんな子供にも生まれてくる権利はある筈だと平然と言う。何て酷い人なんだろう。彼は全てを知ったうえで、私を妻に迎え、罪を犯させたのだ。
ガラガラと、世界が壊れる音がする。その中に赤ん坊の泣く声がし、声のする方を向けば、男の子の双子がいた。赤い髪の男の子と、水色の髪の男の子。周りの人はとても喜んでいるが、ガラガラと壊れていく音は鳴りやまない。
母さんはオレたちを産んですぐ結核にかかった。十年以上経った今でも病は治らず、彼女は一人別宅に隔離されている。その話が本当であれば、オレと双子の弟であるテツヤは、母さんの顔を知らないことになる。しかし、オレたちは月に一度会う女性が、自分たちの母親だと知っている。
「征士郎君」
十代の少女のような声で、彼女はオレを呼ぶ。父さんの名に一画足したオレの名は、この人が付けたのだという。
「本宅のタエさんに、あの中にあるの全部、売ってきてくださいと伝えてください」
タエというのは女中頭のこと。母さんが言うあの中にあるのというのは、彼女が指さす箪笥の中に溢れんばかりに入っている父さんからの贈り物だ。見ただけで値の張る代物だとわかるが、母さんはそのどれにも袖を通さない。
「売ったお金で、施設の子供に何か買ってあげてください」
「そんなことをすれば、タエが父さんに叱られます」
「大丈夫です。征お兄様には、私から言っておきますから」
母さんは父さんのことを、『征お兄様』と呼ぶ。
彼らは従兄妹同士だ。結婚前ならば、その呼び名もおかしくない。だが結婚して十年以上経ってもその名で呼ぶのは、彼女の頭がおかしくなってしまったからだ。
そう、結核というのは建前で、頭がおかしくなったから閉じ込められているのだ。大人しそうに見えて実は勝気な性格だったと聞くが、今では見る影もなく、いつも気怠そうに目を伏せている。自分でも自覚があるようで、お母さんが可哀想だと悲しむテツヤに、こんなことを言う。
「これでいいんですよ。畜生は檻の中で飼うものですから」
テツヤは顔をさらに歪ませるが、彼女は表情一つ変えない。もし気がおかしくなる前だったら、傷心のテツヤを抱き締め慰めてくれただろうかと、オレらしくない馬鹿な妄想をしてしまった。
「お母さんは何故、自分のことをああ言うのでしょうか」
母さんの家からの帰り道、テツヤがオレに嘆く。
「お母さんは少しも野蛮なことなどしません。だいたい、何でお母さんは閉じ込められないといけないんですか? 頭がおかしいからって言いますが、征君は本当だと思いますか? みんな気付いているのに言わないだけだ。お母さんが閉じ込められているのは、お父さんが……」
「そこまでにしておくんだ。殺されるぞ」
テツヤが唇を噛みしめ黙り込むのは、オレの発言が決して冗談ではすまないからだ。母親似のためオレよりは父さんに気に入られているテツヤだが、所詮あの人の世界は母さんとそれ以外に分けられている。もしテツヤが母さんを解放するよう訴えれば、あの人は黙っていないだろう。
赤司家の力を恐れ表立っては言われないが、赤司征十郎の妻に対する異常な執着は有名な話だ。結核だからと兄である真太郎伯父様にも会わせず、そのくせ自分は結核を患う妻の家に寝泊まりする。唯一の例外はオレたちだが、母さんに泣かれて黙認しているに過ぎない。現状以上を望めば、もう二度と母さんと会えないに違いない。
「征君は、あんなお母さんを見て平気なんですか」
今にも涙が零れ落ちそうな瞳が、オレを見つめる。昔からそうだ、テツヤは人のために泣く。小柄で大人しそうな見た目に反し性格は男らしく、小さい頃木から落ちて骨折した時も、歯を食いしばって泣くのを堪えていた。テツヤは自分のためには泣かない、けれど人のために涙を流すことができる。テツヤのそういう所は何物にも代え難い美点だと思うし、同時に誇らしくもある。オレは彼以外のために泣こうとは思わないから。
「気の毒だとは思うが、オレは母さんよりテツヤが大切だ。薄情だと罵られようと、お前の安全を何より優先する」
テツヤはじっとオレの顔を見つめた後、ごめんなさいと言って抱き付いてきた。
「辛いのは征君も同じなのに、ボクばかり我儘を言ってごめんなさい」
言葉以上の意味などなかったのだが、オレは何も言わずテツヤの頭を撫でてやった。元は一つの存在だったからだろうか、こうしてテツヤに抱き付かれ二人の距離がなくなると、とても心が休まる。それはテツヤも同じらしく、先ほどより落ち着いて見えた。
母さんは一人でも満たされるようにという思いを込めて、父の名に一画足した名をオレに付けた。けれどそれは無駄だったようで、オレの心はテツヤが側にいなければ満たされない。それは成長するにつれ顕著になり、最近では彼に向ける感情が肉親に向けるものは違うことに気付いた。
母さんは自分を畜生だと言うが、畜生はオレの方だろう。オレは実の弟に恋をしている。
ボクの双子の兄である征君は、全てが平均のボクと違い何でもできる。彼の両の目の色が違うのを理由に、跡継ぎから外そうと企てる人がいるが、彼こそがお父さんの跡を継ぐに相応しい人物だとボクは思う。
ただし、少し悪戯が過ぎるのが難点だ。月に一度のお母さんとの密会を終え屋敷に戻ると、彼はボクを自分の部屋に呼んで、二通の手紙を見せた。一つは緑間テツナとお母さんの旧姓の名が書いてある手紙、もう一つは真太郎伯父様の名前が書いてある手紙だ。ボクはその手紙に覚えがあった。
「まさかキミ、勝手に持ってきたんですか!?」
「テツヤも中身が気になっていただろう?」
お母さんが厠に行っている間、征君はお母さんの鏡台から二通の手紙を見つけ出した。ボクは全く気付かなかったが、鏡台の引き出しは二重底になっていて、その中に手紙が隠されていたのだ。征君は昔から二重底の下に隠された物が気になっていたらしく、読んでみようとボクを誘った。もちろんボクは断ったけど、まさかあの後勝手に持ち出していたなんて。信じられない。
「人の手紙を読むなんて悪趣味です。絶対駄目です」
「そうは言っても、興味をそそられないか? 父さんは母さんの嫁入り道具を全部処分して、新しく自分が用意したっていうじゃないか。父さんは緑間テツナの存在を消し、赤司テツナだけにしたいと思っている。そんな人が母さんの旧姓が書かれた手紙を処分しないなんて、おかしいだろ?」
「気付かなかっただけでは?」
「オレだって気付いたのに?」
ボクだって自分で言っていて、その可能性は限りなく零に近いことはわかっている。
ボクが言い返せずにいるうちに、征君はお母さん宛ての手紙を封から取り出し広げようとしていたので、慌ててその手を掴む。
「とにかくいけません!」
「テツヤは泣いているより、これくらい元気な方がいいな。可愛い」
「そんなこと言っても誤魔化されませんからね!」
しれっと恥ずかしいことを征君は言う。ボクも彼が急に悪戯っ子の顔を覗かせたのは、お母さんの言葉に落ち込むボクを励ますためだとわかっていて、彼なりの気遣いは確かに嬉しいけど、だからといって人の手紙を読んでもいいことにはならない。
その後もボクは必死に止めたのだが、征君の方が一枚も二枚も上手だ。いつの間にか言いくるめられて、ボクは肩を引き寄せられる。手紙の右端を征君が持ち、左端をボクが持つ。
「……」
「そんな顔しないで。テツヤは悪くないよ、悪いのはオレだ」
「いいえ。こうなれば連帯責任です、ボクもお咎めを受けます」
「お咎めって」
クスクス笑う彼を睨み付けるが、それでも征君はおかしそうに笑っていた。ボクは征君を無視し、さっさと手紙を読んでしまうことにした。
この手紙は私の身に何かあった時のため、斎藤に託したものだという一文から手紙は始まっていた。斎藤というのが誰かはわからなかったが、読み進めていくうちに、これはお祖父様からお母さんに宛てた手紙だとわかった。
――テツナ、お前は私の娘ではないのだ。お前の本当の親は、徹子だ。
お祖父様はボクたちが生まれる前に亡くなっていて面識はないが、それでもお母さんはお祖父様の子供でないという記述は衝撃的だった。けれどそんなことがどうでも良くなることが、後に続いている。ボクの記憶が正しければ、徹子というのは父方のお祖母様のお名前だ。
お祖父様の手紙はそれだけでは終わらなかった。お祖母様が赤司家で禁忌とされる男女の双子を産んだこと、その双子のうち女の子を男の子の遺体とすり替えたこと。お祖母様が悲しまれたので、お祖父様の子として女の子を引き取ったことが書いてあった。
「『お前と征十郎は、実の兄妹だ。決して結ばれてはいけない』」
征君が手紙にある一文を読み上げる。ボクはその後の彼の言葉を待った。この手紙がお祖父様のものだという確証はなく、第一彼が真実を言っているとは限らない。征君ならそう言ってくれると思ったのに、彼の言葉はボクの期待と正反対のものだった。
「なるほど、だから畜生か。気を病んだだけにしてはきつい言い方だと思っていたが、このことを言っていたのか。……母さんが畜生なら、近親相姦によって生まれたオレたちは、一体何なんだろうね」
「征君は、ボクを汚いと思いますか?」
その問いは、無意識に近かった。
「テツヤ?」
「征君は、ボクのことを罪深いと思いますか? ボクのこと嫌いですか?」
「どうしてそうなる? テツヤは誰よりも綺麗だし……とても愛しいよ」
「ボクもそうです。キミのこと誰よりも尊い存在だと思っています。けど」
手紙を強く握る彼の手の上に、自分の手を乗せる。手を通して彼の温もりが伝わってきて、泣きたい気持ちが少し和らいだ。
「他の人は違うでしょう。ボクたちはどう足掻いても罪の子だ。ボクたちを真に理解し、尊重してくれる人は互い以外ありえない」
罪を犯したと嘆くお母さんにだって、ボクたちの辛さはわからない筈だ。ボクの辛さをわかり受け止めてくれるのは征君だけで、征君の辛さをわかり受け止めることができるのはボクだけだ。
征君はそうだねと答え、ボクの頬を両手で包んだ。目と鼻の先に迫った目を見て、以前どこかで見た気がして、さてどこだったろうかと考えた。お父さんがお母さんの話をする時に見せる、あの狂気が滲んだ赤い瞳だと気付くと、少し怖く思った。けれど、ボクもきっと同じ目をしている。目を閉じるのをやめ、彼の目と唇を受け止めた。
「血は争えんな」
父さんの手紙を読み終えた後、自然と口を吐いて出た。
手紙は征士郎とテツヤが持ってきた。テツナの家を訪ねた時、オレの名前が書いてある手紙を見つけたので持ってきたという。いくらオレ宛とはいえ人の持ち物を勝手に持ち出すとはいただけないが、テツナが持っていたという一点で、オレは目を瞑ることにした。二人は何がおかしいのか、互いに顔を見合わせて笑うと、手を繋いで帰っていった。確か今年中学に上がった筈だが、未だ兄弟離れができないらしい。征士郎は言うまでもなく、テツヤも案外しっかりしていると思っていたのだが……。
そこまで考えて、オレは頭を振った。あの二人がどうなろうと、オレには関係ない話だ。
封筒の表には緑間真太郎様と父さんの字で書いてあり、長い間日の光を浴びて黄ばんでいたが、封はしっかりと閉じられていた。何故テツナがオレ宛の手紙を持っていたのかは謎だったが、手紙を読み進めるうちに、そんなものは取るに足らない些細なことだとわかった。
書かれている内容をまとめれば、テツナが本当は伯母様の子供であり、征十郎の双子の妹であること。テツナがオレの妹になるまでの経緯。何故父さんがあれほど赤司との結婚を反対したのか、ようやくわかった。
恐らくテツナも同様の手紙を受け取ったのだろう。子供を身ごもり嬉しそうにしていたのに、ある日を境に離縁したいとオレに泣きつくようになった。朝起きたら子供が流れていないかと思う自分が許せないとも言っていた。アイツはこずるい所もあるが、根は潔癖だ。開き直ることができなかったのだろう、今に至るまでずっと。
だが、この手紙を読んで最も腑に落ちたのは、父さんの叔母様に対する思いだ。明確に書かれた場所はない。けれど、叔母様に関する記述は、他の箇所と調子が違うように感じた。元々、随分仲の良い兄妹だとは思っていたのだ。手紙をまめにやりとりし、いつも気難しそうな顔をしていた父さんが、叔母様の手紙が届いた日だけはにこやかだった。彼女の葬式の時も、人目を憚らず棺に縋って号泣した。後にも先にも彼が泣く姿を見たのは、あの時だけだ。
「血は争えんな」
ようやく本当の理由がわかった。父さんは叔母様を、妹以上の存在として見ていたのだ。確かにオレと父さんは親子だと改めて思った。
最近、よく同じ夢を見る。夢の中ではテツナはまだ緑間で、オレたちは二人きりで旅行に出かけていた。海水浴場の近くに宿をとると、テツナは泳いでみたいと言い出し、オレは人前で肌を晒すなんぞ言語道断だときつく叱った。だが、夢の中のテツナは実にテツナらしく、夜中にオレの部屋を訪ねてきて、人目に付かない今泳ぐから付いてきてほしいと言い始めた。いくら兄妹とはいえ、年頃の男女が―しかもオレは実の兄妹でないことを知っている―夜中の海で二人きりとは問題外だ。しかし所詮は夢だ、オレは誘惑に勝てずテツナを海に連れていった。
だが、海に向かう途中オレたちは暴漢に襲われ、テツナは足を滑らせ崖から落ちた。崖下に助けにいき、気絶するテツナを見て、オレの本能が囁いた。この機を逃せば、テツナは征十郎のものになってしまう。その前に奪ってしまえと。オレはその声に従い、テツナを大陸に連れ去った。
目を覚ましたテツナは、頭を強く打った衝撃で、視力を失っていた。オレはそれを利用し、緑間真太郎は死んだと思い込ませると、全くの別人として接することにした。最初こそ警戒していたテツナだが、次第に別人となったオレに心を開いていく。そうしてその夢は、オレがピアノを弾いている場面で終わる。オレがピアノを弾き、その横にはテツナが寄り添っている。そんな甘美な場面で、いつも朝を迎える。
――ソレハオマエガ望メバ、手ニ入ッタ未来ダ。
――そうだろうな。
――オマエハ何ヲシテイル? コノママ、テツナヲ諦メルツモリカ?
――まさか。
自分の内側から聞こえてくる本能の声を否定する。
――オレはただ時が満ちるのを待っているだけなのだよ。
――時ガ満チル? ドウイウコトダ?
オレは堪え切れず、声を上げて笑ってしまった。昔は押さえつける側だったのに、いつしかオレは本能の声より狂ってしまった。
「オレがテツナを奪い返すのは、テツナがオレを兄だとわからないほど……狂った時だ」
兄として好かれるのでは意味がない。アイツはオレの女なのだから。
父さんの手紙には、何があってもテツナと征十郎を結婚させてはいけないと書いてあった。随分と親不孝をしてしまったが、これから挽回しよう。赤司から妹を取り返す、それは貴方も夢見た筈だ。貴方の分まで、オレが成し遂げる。
テツナは僕が実の兄だと知ると、離縁を迫った。顔を合わせれば離縁しろとしか言わず、真太郎に泣きついては僕を苛立たせた。そして段々と大きくなる腹を見つめながら、何かの拍子に流れてくれないかと考える自分に絶望し、徐々に気を病んでいった。
周りは子を残していくのならばいいじゃないかとテツナに同情する向きもあったが、やっと取り戻した半身を手放すつもりはない。気休めでも離縁しようとは言わなかった。
子を産むと、テツナは物を口にしなくなった。自殺しようとする度僕に止められるものだから、餓死しようと思ったらしい。忌々しいが真太郎を呼んで説得させ、最悪の事態は免れたが、その時もテツナは離縁したいと真太郎に泣きながら訴えていた。
別に僕はテツナを苦しめたい訳ではない。テツナには何も知らせず、誰よりも何よりも、幸せにしてあげたかったのに。あの伯父様の手紙が、全てを台無しにした。
「テツナ、夫婦は止めて兄妹になろう」
「きょう……だい……?」
「そうだ。僕は妹としてお前に接するよ、だからお前もまた僕を『征お兄様』と呼べばいい」
「じゃあ離縁してください」
「それだと世間にお前と暮らす理由が示せない。兄妹として共に暮らすため、夫婦という立場を利用する。それでいいじゃないか」
寝室を別にするという言葉が決定打になり、テツナは僕の提案を了承した。テツナも馬鹿ではない、現在の自分が引き出せる最良の条件だとわかったのだろう。
「ああ、ただし条件がある。お前に触れない代わりに、お前を独占させて?」
触れることができないのならば、せめて彼女の目に映るのは僕だけでありたかったし、彼女の姿を見るのは僕だけでいたかった。
あれから十数年。約束どおり、僕はテツナを妹として扱っている。元々自分の半身としてあの子を愛していた僕だ、妹と妻を切り離して考えるのは難しい。だからあれから十数年、約束どおりテツナを抱いていないという方が正しいか。テツナの住む別宅で寝泊まりするが、寝室は別々に用意している。
少しは状態が良くなるかと思ったが、テツナは罪の意識に苛まれ、改善するどころか時が経つほど狂っていった。今日も寝ていると、襖の向こうからすすり泣く声がした。襖を引き隣のテツナの寝室の様子を見れば、彼女は籐椅子に縋り背中を震わせていた。
「ごめんなさい、ごめんなさいお母様」
どうやら今日は母が来ているらしい。ここ最近伯父様が続いていたから、母さんが来るのは一月ぶりだ。
「どうしたのテツナ?」
全てわかっているが、彼女の隣に跪き、訳を聞いてやる。そうすれば大きな目に涙を溜め、テツナが征お兄様と呟く。髪を整えるように頭を撫でれば、テツナの目からぽろぽろと涙が零れた。僕の前では徹底して無表情を貫く昼間とは、雲泥の差だ。
「お兄様」
「ああ、僕はここにいる。お前の側にいる」
「征お兄様!」
昔よりさらに白く細くなった腕を僕の首に巻き付け、救いを求めてくる。僕がテツナの体温に安堵するように、テツナも僕と触れ合うと気が鎮まる。最初は泣いてばかりだったが、言葉を口にできる程度には落ち着いた。
「お母様が鬼を連れてきた」
「僕には見えないよ」
「嘘! あそこにいるじゃないですか!?」
テツナが指さす方向には何もなく、障子を通して月の光が差し込んでいるだけだった。だが、テツナにはその場所に恐ろしい鬼と母が見えるらしく、また僕の胸で泣き始めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいお母様。お母様が駄目だって言ったのに、私、征お兄様と……実のお兄様なのに、私……」
「母さんには後で僕が話をしておこう。ほら、僕の部屋においで。僕の部屋には、鬼は入ってこられないから」
テツナは泣きながら何度も頷く。正気の人間がこの場にいれば、何とも滑稽な光景だろうが、これが僕たちの日常だ。夜中になると母か伯父のどちらかが、鬼を従えテツナの枕元にやってきて、僕と結婚したテツナを恐ろしい顔をして非難する。何と言っているのか聞いたことがあるが、二人は何も言わず、ただ黙ってテツナを責める目で見てくるのだという。
僕の部屋に来てからも、襖一枚挟んだ向こうに母と鬼がいるのが怖いようで、尚も僕の腕の中で震えている。落ち着かせるためという名目で髪に触れれば、柔らかでそれでいてさらさらと指が通っていく。晴れ渡った空の色をした髪だが、彼女を照らすのは今は月の光だけだ。僕がそうした。
「一つになろうか」
頭が回らないらしく、口元に手を当て小首を傾げる。随分と子供っぽい、男を誘う仕草をするものだ。
「僕に触れていると落ち着くだろう?」
「はい」
「それは僕たちが元は一つだったからだ。僕とテツナは母の腹の中で交わっていて、それが本来のあるべき姿なんだ。だから僕たちは離れていると不安で、触れあえば互いに安堵する。……鬼が見えるのも、母さんが怒って見えるのも、お前の精神が安定していないからだよ。本来の姿に戻れば、お前は落ち着くよ」
潤んだ目でじっと僕を見つめてきたが、しばらくして首を横に振った。だが僕とした約束のことには触れず、征お兄様と言って僕の胸に顔を埋めて甘えてきた。
あともう少しだ。テツナが僕の誘いに考え込む時間が長くなってきた。本能で僕を拒絶するが、同じくらい、いやそれ以上に本能が僕を求めている。僕がそうであるように、早く本来の姿に戻りたいと訴えている。
太陽の下、微笑むテツナが好きだった。意外と気が強く、それでいて繊細で、表情は乏しくても瞳で雄弁に語るテツナが好きだった。けれど真実を知り、罪の意識に苛まれるのなら。
「狂っておしまい」
兄と交わることが禁忌だとわからなくなるくらい、狂ってしまえばいい。