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    鬼が来りて笛を吹く(前編) 雨音が聞こえ、風を通すため開けていた窓を見れば、ピカッと空が光った。遅れて雷の音が聞こえてくる。つい先ほどまではあんなに晴れていたのに、横殴りの雨が部屋の中に入って来て、私は慌てて窓を閉めた。
     このまま雨が続くようでは、銀座は諦めた方がいいかもしれない。いや銀座へのお誘いとは限らないけれど、先日も銀座を歩くと鬱憤が晴れるとおっしゃっていたから……。窓の外を見ながらそんなことを考えていると、コンコンと扉を叩く音がした。
    「お嬢様、お客様です」
     人と会う約束はしているが、私が先方の家を訪ねることになっている。だが約束のお相手の顔を思い浮かべると、あり得る気がしてきて私は女中に尋ねた。
    「どなたかしら?」
    「膝丸様と髭切様です」
    「わかりました、今から伺います。ご苦労様でした」
     どうやら私の取り越し苦労だったらしい。女中に返事をすると、鏡台の鏡で確認してから客間に向かった。

     客間に行くと急な通り雨にやられたらしく、膝丸さんと髭切お兄様が手ぬぐいで髪を拭いているところだった。
    「お待たせしました。お二人とも災難でしたね。お車ではなかったのですか?」
    「車ではあるんだけど、気分転換に歩いたらやらかしてしまったねぇ」
    「すまないが、兄者にもう一枚手拭いをもらえるか?」
    「ええ、今用意させましょう」
     廊下に出て、近くを歩いていた小間使いに手ぬぐいを二つ用意させる。小間使いはすぐに手ぬぐいを持ってきて、一つをお兄様に、もう一つを膝丸さんに渡せば、彼はややばつの悪い顔をしてすまないと礼を言った。
    「おめかしして、どこかに出かけるの?」
    「これからお姉様とお会いする予定なんです」
     お姉様とはお兄様の奥方、友子様のことだ。小烏侯爵家のご出身であるが気さくな方で、女学校時代から親しくさせてもらっている。

     お兄様はお姉様の名を出すと、途端に顔をしかめた。
    「また友子? 今度は何だって? 買い物? 歌舞伎?」
    「会ってから話すと言われまして、まだ私もご用件は伺っていません」
    「君には君の都合ってものがあるんだから、友子にいちいち付き合わなくていいよ」
    「兄者、姉上も彼女のことを気にかけてくださっているんだ」
    「友子より僕にかまってほしいな」
    「兄者!」
     お兄様は私より一つ上、膝丸さんとは三つ離れているが、傍から見ると膝丸さんの方が兄のようだ。
    「自分の奥さんを義理の姉に取られて、お前はいいの?」
    「俺と彼女はまだそのような関係ではない」
    「大学卒業とか言ってないで、さっさとしちゃいなよ。僕、早くお前の子供が見たいな」
    「兄者!!」
     膝丸さんが先ほどより大きな声を出して注意するが、心なしか顔が赤い。それを見て声を殺して笑っていると睨まれてしまい、お兄様に助けを求めるが、お兄様も私と同じだった。

    「お兄様、髪に糸くずが」
    「え? どこ?」
    「じっとしておいてくださいね」
     手ぬぐいで拭いた時に付いたのだろう、白い糸くずが髪に付いていた。自分の髪の同じ所を指すが、見当違いの場所を触っているので、じれったくてつい手が伸びてしまった。
     取れましたよ。そう言う前に腰を引き寄せられ、気づけばお兄様の胸に顔を押しつけていた。
     ふわりと香る花のコロンに、出かかった言葉を飲み込む。お兄様は昔からコロンを嗜まれていて、夜会で一緒に踊る時など、ごく近い距離になると花の甘い香りがした。お姉様と結婚されてからは一緒に踊ることも減ったので、つい懐かしいと思ってしまった。
    「兄者……何の真似だ?」
    「うん? 肘丸が羨ましそうに見ているから、こうしたらどんな顔するかな~って」
    「そんな興味本位で女性に抱きつくな! それに俺は膝丸だ!」
    「はいはい」
     お兄様は膝丸さんの反応を見て満足したようで、あっさりと私を解放した。

    「君も嫌なら嫌だと言ってくれ」
    「嫌といいますか、あの、驚いてしまって……すみません」
     お兄様に他意はないとわかっているから嫌な気はせず、かといってされるがままになっているのは確かにはしたないことであるし……上手く言葉に表せられず、説明を諦めて謝罪した。
    「お二人こそどちらへお出かけになるんですか?」
     膝丸さんの物言いたげな視線に耐えられず、唐突だが別の話題を振った。お二人とも雨に降られ着崩れてしまったが、ジャケットを羽織りネクタイまで締めている。お二人は普段から洋服を着ているが、私の家に遊びに来たにしては畏まった格好だ。
     私の質問にお兄様は膝丸さんを見、膝丸さんはその視線を受け、叔母上の所だと答えた。

     膝丸さんたちの実の父親である先代子爵の妹、そして義理の父親の現子爵の姉。清和男爵夫人。私はお会いしたことがないが、男爵夫人は最近になって私と膝丸さんの結婚に反対するようになった。子爵様は母親代わりの姉を無下にはできず、私の父も頭を悩ませている。
    「大丈夫、大丈夫。僕たちがちゃんと説得するから」
     無意識のうちに隠していた右手を、お兄様が握る。私の名を呼ばれ、顔を上げれば膝丸さんと目が合った。彼は西洋の人のように、相手の目を見て話をする。私はその強い眼差しが好きだった。
    「叔母上も君の人となりがわかれば、身分など取るに足らないことだと思われるだろう。俺に任せておけ」
    「……はい、よろしくお願いいたします」
     約束の時間が迫っているのは私だけではなかったようで、膝丸さんたちはその後すぐに帰られた。お二人が帰られる頃には雨はやみ、すがすがしい晴空に戻っていた。

     お二人を見送ってからほどなくして私も家を出たが、車の中で自分の右手を眺めていた。いくら力を入れても動かない中指と薬指。お父様曰く、私を引き取った五つの時には既に動かなかったらしい。お父様がいろんな医者にかけてくれたが、どの医者も口をそろえて今の医学では一生治らないと言った。

     ──指のない子供ができたらどうするつもりですか!?

     子爵夫人の言葉を思い出す。膝丸さんとの婚約が決まって間もない頃、三人で庭で遊んでいると子爵夫妻の口論が聞こえてきた。夫妻の仲は悪く、口論自体は珍しくなかったが、口論の原因は指の動かない私だった。
     指が動かないのはないのと同じ。いつまでも消えない苦い思い出だけれど、悪いことばかりではなかった。

     ──指なんて関係ない。君は僕の可愛い妹だよ。

     お兄様は私の手を取ってそう言ってくれた。

     ──何があろうと、君は俺のお嫁さんだ。

     あの頃の膝丸さんは女の子に見間違えられるほど愛らしく、泣き虫で、私の代わりに泣いてくれた。
    「(早くお嫁さんにしてくれないかしら)」
     ご本人の前では決して言えない本音を、心の中でつぶやいた。



     車から降りれば、蝉の声が一層大きく聞こえてきた。雨で少しは涼しくなることを期待したが、むしろ蒸し暑さが増し、襦袢が汗で肌に張りつき気持ち悪い。
     洋服は涼しいわよというお姉様の言葉が頭に浮かぶ。お姉様が着ているモダンな服に憧れがないといえば嘘になるが、洋服はまだまだ珍しい。絶対似合うと言ってくださるのはありがたいが、人の注目を浴びるようなことはしたくないのが私の本音だ。
    「それではお暇する前に電話しますね」
    「かしこまりました」
     運転手を一旦家に帰らせると、私は目の前にそびえ立つ源家を見上げた。いつ見ても立派なお屋敷である。御一新後に東京に来て建てたという館は、欧州の有名な建築家に造らせたそうだ。台所以外は全て西洋風の造りで、最上階には有名な桜の名所を見るためだけに設けられた展望室がある。……源家の懐事情を知っている身としては、お屋敷が立派であれば立派であるほど、何とも言えない気分にかられてしまう。

     膝丸さんが由緒正しき武家の血を引く方であるのに対し、私はしがない商人の娘だ。いくらご嫡男ではないとはいえ、平民の娘を嫁にしようとするのには理由がある。
     端的に言ってしまえば、お金がないのだ。それも今に始まったことではない。私と膝丸さんの婚約が決まったのは、私が八つの時。膝丸さんにいたっては六つだった。お父様が援助するようになってからは大分持ち直したと聞くけれど、お兄様が跡を継がれた時のことを思うと不安が過ぎる。
     お兄様はいいのだ。大らかな方だけど、締めるところは締めるから。問題はお姉様で、お金に不自由することなく育った方だから、お金の使い方が大胆だ。銀座にご一緒した時など、側で見ている私の方が肝が冷えた。
    「(確かに小烏家から援助はあるんでしょうけど、それがいつまでも続くとは限らないし。生活の質はなかなか落とせないというから、今からでも……)」
     そこまで考えたところで首を振った。お金についてあれこれ言うのははしたない。ちょうど庭仕事をしている使用人がいたので、声をかけ中に入れてもらった。

     私が案内されたのは、客間ではなくサンルームだった。お庭が一望できるサンルームは、お姉様のお気に入りであり、私にとっても思い出深い場所である。お姉様が輿入れする前は、よく三人でフルートを吹いたものだ。
     そう、右手が満足に使えない私がフルートを吹けるはずがないのだけれど、一曲だけ私でも演奏できる曲がある。こんな気持ちのいい場所には似合わない、異様な音階の何とも不気味な曲。今ではほとんど聞くこともなくなった。曲名は……。
    「暑い中ご苦労様」
     籐椅子に腰掛けたところで、お姉様が来られた。お召しになっている杏色のワンピースは、以前銀座にご一緒した時買われた服だ。私が着物であるのを見て、お姉様は貴方も頑固ねと笑った。

    「私が思うに、膝丸さんはきっと洋服がお好きよ」
    「そうでしょうか?」
    「きっとそうよ。ああいうお堅い人こそ、新しいものが好きだったりするのよ」
    「今度伺ってみます。それよりお姉様、今日はどのようなご用事で? 兄の鶯丸の手紙でしたら、新しいのはまだ届いておりませんの」
     洋服の話を切り上げ、英吉利に留学している兄の名を出す。変わり者の兄が書く手紙は、兄らしくご学友の大包平さんと緑茶が恋しいという話がほとんどだったが、お姉様にはそれが面白いらしい。家族である私より、お姉様の方が鶯丸お兄様の手紙を楽しみにしていると言ってもいいかもしれない。だが、呼ばれた理由は手紙ではなかったようだ。
    「貴方のお兄様の手紙は私とても待ち遠しいけれど、貴方を今日呼んだのは別のことで」
     そこへ女中がキンキンに冷えた紅茶を持ってきた。お姉様は氷をたっぷり入れた紅茶がお好きで、好んでよく飲まれる。何でも普通が一番だと思う私でも、今日のような暑い日は見ているだけで涼しげな気分になれて良い物だなと思う。

     お姉様は女中が出ていったのを横目で確かめてから紅茶を一口飲み、それから私に言った。
    「今日お呼びしたのはね、貴方たちの結婚のことなの」
     先ほどの我が家でのことを思い出し、体が強張るのを感じた。気を紛らわせようと私も紅茶に口を付けたが、お姉様は私と違って楽しそうに声を弾ませた。
    「膝丸さんが卒業するまでと待つなんて言わずに、すぐに結婚してしまいなさい」
    「…………」
    「どうしたの?」
    「……ぃぇ、何…も…………ゲホゲホッ」
     気管に入って咽そうになるのを必死で抑えるが、とうとう咳が出てしまった。しかしお姉様は気にせず話を先に進めてしまう。
    「貴方はもう二十四なのよ? なのにこれ以上待つだなんて、あんまりじゃないですか」
    「……でもお姉様」
     ようやく咳が収まったので、先へ先へと進む話に待ったをかける。

    「結婚の時期は子爵様がお決めになることですし、清和男爵夫人のこともありますから」
     私の予想に反しお姉様は頬に手を添えられ、パチパチと瞬きを繰り返す。
    「男爵夫人が何か?」
     お姉様の反応は、はぐらかしているのではなく本当に何も知らないようだった。『ありゃ? え~と、言ってなかったっけ? ごめんごめん』と笑うお兄様の姿が浮かび、頭が痛くなった。
    「だ、男爵夫人から源家のご嫡男であるお兄様を第一に考えて行動するよう膝丸さんはご助言をいただいたようで。膝丸さんも元よりそのお考えでして、自分の家庭を持つより先に、お兄様を支えられるよう精進していきたいと……」
     夫であるお兄様が何も話していないのに、私の口から伝えてはいけないだろうと、この場では誤魔化すことにした。しかしお姉様は、綺麗な顔を歪ませる。
    「本当に膝丸さんはお兄様思いなのね」
     言葉と合っていない表情と空気に言葉を返せずにいると、お姉様の眉間の皺はますます深くなった。

    「私も兄弟仲がいいのは結構なことだと思っています。けれど、限度というものがあるでしょう? 膝丸さんときたら兄者兄者と、口を開いたかと思えば旦那様のことばかり。旦那様も旦那様で、弟がいれば十分だから子供はいらないなんて言うのよ!?」
     お姉様はお兄様から言われた時のことを思い出したのか、机を乱暴に叩いた。元々感情の起伏が激しい方ではあるけれど、ここまで怒りを露わにされるのは珍しい。
     しかし、それも当然だと思う。女にとって子供の有無は何より重要であるし、お姉様は周囲の反対を押し切ってお兄様と結婚されたのだ。好きな人と結ばれたというのに、その好きな人から自分との子は望んでいないと言われたら、傷つかない方がどうかしている。
    「お姉様、お兄様が膝丸さんを大切にされるのには理由があるんです」
     それでも、お姉様には誤解してほしくなかった。あの膝丸さんのいない三年間が、お兄様をそうさせてしまったのだ。

     膝丸さんが十四の時、子爵夫人は膝丸さんを連れてご実家に戻られた。夫人は子爵様と離縁し、膝丸さんを子供のいない弟夫妻の養子にすることで、ご実家の跡取りにしようと考えていた。しかし、それは全て子爵様に断りなくされたことで、お二人が離縁することも膝丸さんが養子になることもなかったけれど、当時は夫人のお許しになる方以外、膝丸さんと会うことは禁じられた。源家で面会を許されたのは膝丸さんの叔父の現子爵様だけで、私とお兄様には許可が下りなかった。
     子爵様がご病気で亡くなり、現子爵様と子爵夫人が再婚することで丸く収まったが、三年ぶりに再会した時、膝丸さんは膝丸さんでなくなっていた。

     ──兄者、俺の今の名は『薄緑』だ。

    「三年ぶりにお会いした膝丸さんは、十四才の少年から十七才の大人の男性に変わっていました。本来なら喜ぶべきことなのでしょうが、私もお兄様も自分たちの知っている膝丸さんではなくなったような気がして、素直に喜べませんでした。そこに加えて膝丸さんのお名前が変わっていたのですから……あの時のお兄様は本当にお可哀想でした」
     悲しみに打ちひしがれた横顔を、私は未だ忘れられない。膝丸さんを取り返すことができず無力感に苛まれていたお兄様に対し、あまりに酷い仕打ちだった。
    「目を離した隙に、膝丸さんがまたどこかに行ってしまうのではないか。自分の知らない誰かになってしまうのではないか。その後元のお名前に戻されましたが、それでもお兄様は不安なのだと思います。膝丸さんはそのことをよくご存じですから、お兄様のお側を離れないようにしているのでしょう」
    「……」
    「お兄様は時々人の気持ちを考えずに物を言うところがありますが、決して悪気はないんです。あの方は本当にお優しい方で、膝丸さんだけではなく昔から私にも色々と……」
    「……して」
    「え?」
    「いい加減にして!!」

     耐えられないと言わんばかりに、お姉様は立ち上がって叫んだ。
    「そうやって貴方が私の知らない旦那様の話をするのが、一番嫌なのよ! 調子に乗らないでちょうだい。貴方は平民で、指がないのよ? 旦那様に釣り合うものですか!」
     それだけ言うと背を翻し、サンルームから出ていってしまった。私は突然のことに事態を把握できずにいたけれど、時間が経つにつれお姉様の発言の意味がわかってしまった。
     お姉様は私とお兄様の仲を疑っている。膝丸さんと早く結婚するように勧めたのはそのためだ。膝丸さんのいない間、世間が好き勝手に噂をしていたのは知っているが、まさかお姉様まで……。衝撃の大きさに動けずにいると、いつのまにか源家の執事が隣に立っていた。彼は一礼し言う。
    「お車を用意いたしました」
     つまりは帰れということか。わかりましたと返事はしたが、帰る前にお手洗いを借りることにした。

     お手洗いの戸を開けると、私は真っ先に備えつけられている鏡を見た。日本人離れした色素の薄い肌に髪、それに目の色も。異国の血が混ざっているのかと聞かれるたび嫌で嫌で仕方がなかった。
     けれどお姉様は西洋のお人形のようで素敵じゃないと私を褒めてくれた。色素が薄いのが不気味と言うのなら髭切さんや膝丸さんも不気味だと思うの? と、私の言動を窘めてくれたのもお姉様だ。

     ──貴方はこんなに綺麗なのだから、もっと自信を持ちなさい。

     綺麗でお優しくて、お姉様の言葉に何度救われたことか。あの方は本心から私のことを褒め、励ましてくださった。お姉様の今までの言葉を疑うつもりはない。ただ、あの綺麗な方の胸の奥底にも鬼がいて、それが顔を覗かせてしまっただけで。

    「(私は、大丈夫かしら?)」
     鏡の中の私が、自分の頭に恐る恐る手を伸ばしている。もちろん髪以外は何もないのだが、そんな当然のことに酷く安心した。ほっとして手を下ろした時、緩んだ口元から鋭い犬歯が覗いていた。
    「ひっ!」
     引きつった声を出し、後ろに飛び退く。咄嗟に口元を隠したが、そっと手を外すと、やはり鋭い犬歯が見えている。
    「……馬鹿馬鹿しい」
     私の犬歯は元から鋭い。だから人と話す時は極力口元を隠すようにしている。何を今更驚いているのだろう、以前より鋭くなったように見えるのはきっと気のせいだ。



     その後何度かお姉様を訪ねたが、会ってはくださらなかった。そんな折に膝丸さんから電話があったので、私はお姉様に関することだと思い電話に出たが、そうではなかった。
    「今、何と?」
     聞こえた言葉が信じられずに聞き返したのだが、彼の台詞は変わらなかった。
    「俺との婚約をなかったことにしてほしい」
     彼は私が電話に出るなり、婚約破棄を申し出たのだ。冗談でしょうと言えれば良かったが、彼はこんな性質の悪い冗談を言う人ではないと、私は誰よりも知っている。
     まだ昼間なのに、辺りは真っ暗になってしまった。上映が終了した直後の映画館みたいだった。けれど、いくら電気が点くのを待っても一筋の明かりも見えず、自分の喉から出ている声は、遠くから聞こえてくる。
    「それは男爵夫人のことで?」
    「叔母上は関係ない、俺が決めたことだ」
     膝丸さんとは思えない無責任な発言だ。二十四まで待たせた女に対してあまりに無責任だった。

     好きな方ができたのですか。

     理由はそれしか考えられなかった。夫人や家のことが理由ならば、膝丸さんはきっと真摯に説明してくれただろう。お兄様に関することなら別だが、お兄様は私たちの結婚に賛成している。
    「貴方がそうおっしゃるなら、私は従うまでです」
     本当に聞きたいことの代わりにそう言えば、後は自分でもびっくりするほどすらすらと言葉が出てきた。
    「父へは子爵様からお話ください。父も源様の名を借りて商売をしていたのですから、筋さえ通していただければお話を受けるでしょう」
     もしかすると私は、いつか別れを告げられると覚悟していたのかもしれない。お姉様が言うとおり、私は平民で彼より年が上で、指が動かない。それに……とても醜いものを隠している。
     長い間、膝丸さんは何も言わなかった。私は心のどこかで期待していたが、彼は私と同じく了承の言葉を口にした。
    「わかった。君の言うとおりにしよう」
     受話器を置く音がし、彼の声は聞こえなくなった。私はお母様に肩を叩かれるまで、受話器を耳に当てたまま立っていた。

     お兄様が家に来たのは、床に就いてしばらく経ってからだった。コツン、コツンと一定の間隔を開けて音が聞こえ、体を起こせば窓硝子に何かが当たるのが見えた。布団から出て窓の外を見ると、庭に黒いシャツを着た人がいた。
    「お兄様」
     見なかったことにしてベッドに戻ってしまおうかとも考えたが、来てと手招きをされれば行かざるをえなかった。使用人に気づかれぬよう、二階の自分の部屋から一階の勝手口に出、つっかけにネグリジェというみっともない格好でお兄様の前に出る。恥ずかしいという思いは、お兄様の顔を見れば吹き飛んだ。
    「どうしてあの子の話を受けたの?」
     開口一番、お兄様はそう言った。感情の起伏のない喋り方に、膝丸さんがいなくなった頃のお兄様の姿が重なる。私までお兄様を傷つけてしまったのか。申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、それでも言うべきことは決まっていた。
    「私は膝丸さんの決めたことに従うまでです」
    「僕はそんな薄っぺらい言葉を聞きに来たんじゃない」
    「薄っぺらいと言われましても、それが全てです」
    「嘘だ。君はあの子のことが好きだったんじゃないのか?」
     好きだからといって、何になるのだろう。結婚は家と家とを結びつけるもので、当事者の気持ちなど関係ない。お兄様や膝丸さんのような身分の高い方なら尚更だ。
     本当に馬鹿馬鹿しい、馬鹿馬鹿しい問いなのに。奥底に押し込んだ思いが、引っ張り上げられてしまった。
    「……あの方は違ったようです」
     お兄様は私の言葉に息を飲んだが、即座に違うと否定する。

    「あの子のしたことには訳があるんだ。それは……今は言えないけど」
    「やめてください」
    「父さんは婚約破棄について承諾していない。僕が、必ずあの子を説得する。だから、もう少しだけ待ってほしい」
    「……」
     お兄様のお気持ちはありがたかったが、膝丸さんの心が変わるとは思えなかった。あの方はお兄様のことをとても尊敬しているが、自分の信念を貫き通す強い人だ。そもそも人に言われて心変わりするようならば、あの人は婚約破棄など口にしない。
     不意に右手を取られ、お兄様が両手で握り締めた。夏とはいえ夜中は冷える。冷たくなった手先に、じんわりとお兄様の熱が伝わってきた。
    「僕の可愛い妹は、お兄ちゃんの言うこと信じてくれないの?」
     先ほどまでの深刻な様子が一変して、お兄様はいつものようにふんわりと笑った。その笑顔に、幼い日のことを思い出す。お兄様は変わらない。いつまでも私のお兄様だ。けれど……。

     ──何があろうと、君は俺のお嫁さんだ。

     不意に視界がぼやけ、嗚咽が漏れる。いい子いい子と頭を撫で慰められたが、涙は止まらなかった。



     八月が九月になり、暑さが落ち着いて秋めいてきても、お父様の所に婚約破棄の申し出は来なかった。あの日から膝丸さんとは会っておらず、子爵様とどのような話をされているのかはわからないが、少なくとも上手くはいっていないようだ。
     けれど、同時にお兄様からも何の音沙汰もなく、待っているうちに神経が衰弱して床に伏せることが多くなった。そのおかげで源家に行かなくなった理由を怪しまれずにすんだが、そんな折、訃報が届いた。九月も終わろうとしている時だった。

     番頭が血相を変えて持ってきた新聞には、お姉様がお屋敷に入った強盗に殺されたと書いてあった。新聞社が面白おかしく書いたでたらめな記事だと思いたかったが、源家に電話をかけても繋がらず、使用人をお屋敷に向かわせるも警察に追い返され何もわからなかった。
     強姦されたうえ殺されただとか手足をバラバラに切られたのだとか、酷い噂話ばかりが聞こえてきた。二日後にかかってきた子爵様直々の電話で、私たちはやっと正確な情報を得られたが、お姉様が強盗に殺されたというのは本当だった。
     通夜には私と両親の三人で参列した。お父様たちは婚約破棄のことを知らない。それに婚約破棄の話があろうとなかろうと、私はお姉様をお見送りしたかった。後味の悪い別れとなったが、親切にしていただいたことに変わりはない。
    「あんな酷い事件だったんだ。若い娘が寝込んでいると言っても、誰も疑わんさ」
     私の体調を心配し、お父様は通夜を欠席するように言った。実際、立っているだけで目眩がし、支えなしに歩くことは難しかった。
    「お姉様には良くしていただきました。行かないなんて薄情なことはできません」
    「そんな青い顔をして、通夜の間もたないでしょう」
    「お母様、違います。もたせるんです」
     私が意地になっていたのは、膝丸さんのこともあった。実態はどうあれ、世間的には私は膝丸さんの婚約者のままだ。しかるべき対応をしなければ、彼が悪く言われてしまう。お父様とお母様は私の強情さに根負けし、通夜に行くことを許してくれた。
     
     私の体調のこともあって着くのが遅くなり、式場の寺には既に多くの人が集まっていた。至る所からすすり泣く声が聞こえ、私はお父様に支えてもらいながら受付を済ましたが、若い女性は皆似たようなもので悪目立ちはしなかった。
    「ああ、これはこれは」
     本堂に向かおうとしたところで、お父様が足を止めた。
    「この度のことは、本当に、何と申し上げればよいのか」
    「お忙しいところ、ご足労いただきありがとうございます」
     顔を上げるのすら辛かったが、聞こえてきた声につられ顔を上げた。膝丸さんだった。離れ離れになった三年の月日を思えば、何てことのない短さなのに、あの時と同じくらいずっと会えずにいたように感じた。
    「とんでもございません。まだお若いのに、さぞやご無念だったでしょう。他のご家族の方々にお怪我は?」
    「他の者は皆無事です。あの日は俺も兄者も留守で、屋敷にいたのは姉上一人でした」
    「あまりご自身を責められないように。悪いのは外道の強盗なんですから」
    「彼女……丈夫……か?」
     膝丸さんが何か言っている。ご挨拶しなければならないのに、視界がぐらぐらと揺れ、上手く言葉が紡げない。
    「……様…………聞いて……この調…………、…………通夜……出……と言い…………」
    「ですが、…………」
     お父様たちの声が遠のいていき、揺れる視界は徐々に薄暗くなる。
    「――――!」
     意識が完全に途切れる前、誰かが私の名を叫んだ気がした。



     フルートの音が聞こえてくる。異様な音階の何とも不気味な曲、『鬼が来りて笛を吹く』。著名なフルート奏者である男爵が作曲したこの曲は、右手の中指と薬指を一度も使わない。私が唯一吹ける曲でもあった。
    「――――」
     展望室の扉が開く音と共に名を呼ばれ振り返れば、亡くなった先代の源子爵様が立っていた。私が慌ててお辞儀をすると、そんなに堅苦しくしなくていいと子爵様は鷹揚に笑われる。
    「私の娘はいつまでも他人行儀で良くない」
     少なくとも私には、子爵様は寛大な方であった。平民の、それも指が動かない女を家に迎えることに葛藤はあったろうに、私の前ではそのような素振りを一切見せなかった。
    「髭切は?」
    「……」
    「君を責めてるんじゃない。むしろ謝るのはこちらだ。まったくあいつときたら」
    「あ、あの、お兄様でしたらお電話があって一階へ下りられました」
     子爵様の言葉を肯定も否定もできず、私はお兄様の行先を告げた。けれど子爵様はお兄様を探しに展望室に来たわけではなかったようで、そうかとだけ言い椅子に腰を下ろされた。

    「サンルームには行かないのか?」
     子爵様は窓の外に視線を向けたまま、そう聞かれる。この時膝丸さんは子爵夫人の家におり、私たちは会えなくなって一年が経とうとしていた。膝丸さんがいた頃はサンルームでよくフルートの練習をしていたけれど、私もお兄様もいつしかサンルームを避けるようになっていた。
    「今の時期は桜が見事ですから」
     けれど私は強がりを言った。実際桜が見事だというのは本当で、見渡す限り一面の淡紅色の絨毯は、この世の物とは思えないほど美しい。地上からは見られない絶景に、この時ばかりは展望室を設けて正解だと思った。
    「そうだ、花にまつわる面白い話を聞かないか?」
    「まあ、ぜひお聞きしたいです」
     子爵様のお気遣いに感謝し、私は促されるまま子爵様の隣に座る。子爵様は私が座ったのを見届けてから、源家にまつわる不思議な話をしてくれた。

     子爵様の話によると、源家の血を引く者は特殊な体質をしていて、体から甘い花の匂いがするのだという。しかし匂いを感じ取れるのは血が近しい者だけだとも子爵様は言われた。
    「更に面白いことにね、血が近くても同性では駄目なんだ。現に私も妹からは花の匂いを感じるが、弟からはしない。不思議だろう」
     根が素直な人間なら信じたのかもしれないが、私は面白い作り話だと思って聞いていた。もしかしたら本当なのかもしれないと思わせる源家の由緒正しい血筋に憧れもした。
    「花とおっしゃいますが、どのような花の匂いなのです?」
     相槌代わりの質問だったが、子爵様は神妙な顔をして視線を落とす。男の方に花の種類について聞くのは愚問だったが、それにしても子爵様の反応は妙だった。しばらくして子爵様は阿片とつぶやく。
    「阿片は花ではないが、阿片としか言いようがないな」
    「阿片は甘い匂いがするのですか?」
    「……ははっ、すまないすまない。君が熱心に聞いてくれるので、つい調子に乗ってしまった」

     当時病気のことは知らされていなかったが、子爵様はいつも青白い顔をして、体つきも薄くなっていた。椅子から立ち上がった拍子にふらついて倒れそうになったのを、私はとっさに支えた。
     その時、ふわりと甘い香りがした。髭切お兄様が付けているコロンと同じ匂いだ。甘い香りなのに下品ではなく、いつまでも嗅いでいたくなるほど心地いい。コロンの匂いの甘さに酔っていると、子爵様が私の体を離した。
    「もう大丈夫だ。ありがとう」
    「い、いえ。お怪我がなくて何よりです」
     自分のはしたない行動に羞恥心を覚えていると、子爵様は寂しげに微笑んで、私が椅子に置いたフルートを見た。
    「今日はもうフルートを吹かないでくれるか? あの曲は私を責めているように聞こえる」
    「『鬼が来りて笛を吹く』が、ですか?」
    「ああ」
     確かに『鬼が来りて笛を吹く』は、聞いていて気分が良くなる曲ではない。指の制約さえなければ、私も演奏しようとは思わなかっただろう。けれど、責めていると表現したのは、後にも先にも子爵様だけだった。

     私は責めていると表現された理由がどうしても気になり、思い切って子爵様に聞こうとしたが、横から強い力で引き寄せられた。子爵様と同じ、甘い匂いがした。
    「お兄様……」
     子爵様と話をしている間に、お兄様が展望室に戻ってきていた。だがお兄様は無言のまま、険しい顔で子爵様を睨んでいる。元々良くなかった親子仲は、膝丸さんの件で決定的になった。ピリピリと刺すような雰囲気に、また言い争いが始まるのかと心配したが、この時は先に子爵様が折れた。
    「彼女は膝丸と結婚するんだ。そのことを忘れるな」
     それだけ言うと、展望室を後にされた。表立って言う者はいなかったが、膝丸さんはもう帰ってこないと皆口々に言っていた。だから子爵様は、膝丸さんではなくお兄様を私の婚約者にするつもりだとも、だから私が毎日のように源家を訪れるのを黙認しているのだとも言った。けれど子爵様にそのお考えはないのだとわかり安心した。

     私は自惚れていたのだ。子爵様のお考えばかりに気を取られ、あの人の気持ちについては何も考えなかった。あの人も私と同じ気持ちだと、勝手に思い込んでいた。



     甘い匂いがした。花の匂いだ。心地良くて、もっと嗅いでいたくなる。何の花かはわからないけれど、これほど良い香りなのだ。きっと美しい花なのだろう。見てみたいと願ったら、真っ暗だった世界が徐々に明るさを取り戻していった。
    「起きた?」
     淡く柔らかな髪、優しげな金色の瞳。久しぶりに見る整ったお顔は、少し疲れているように見えた。
    「……お兄様?」
    「うん。どうしたの? 不思議そうな顔をして。夢でも見てた?」
     確かに夢を見ていたが、内容は思い出せない。体を起こそうとすると、お兄様が背を支えてくれた。

     私は見知らぬ部屋で寝ていた。畳の敷かれた小部屋だったので、最初は使用人の部屋かと思ったが、使用人の部屋にしても狭く古かった。ではここはどこだろうか? そんなことを考えているうちに、徐々に頭へ血が回っていき、意識を失う前の状況を思い出した。私は通夜の受付を済ませたところで倒れたのだ。きっとここは庫裏の一室なのだろう。
    「通夜は?」
    「まだやってるんじゃない?」
    「どうして……」
     通夜の最中ならば、喪主であるお兄様が庫裏にいるのはおかしい。しかし私が皆まで言う前に、お兄様は苦笑して訳を話された。
    「友子の親が気狂いみたいに騒いでね、追い出されちゃった」
    「お兄様」
     私がその場を見ていないからかもしれないが、娘を亡くした親に対して言っていい言葉ではない。眉根を寄せ非難めいた声が出たが、お兄様は平然としていた。

    「医者は貧血だろうって。ずっと体調が悪かったんだってね、無理しないで良かったのに」
     そう言いながら、私の顔にかかった髪をそっと払う。あんな酷い発言をした人と同一人物だとは思えない優しい手つきだ。お姉様はこんな風に接してもらったことがなかったのかもしれないとふと思う。人前だというのもあるだろうが、お兄様からお姉様に触れることはほとんどなかった。
    「お姉様にはお世話になりましたから、どうしてもお見送りしたかったんです」
    「あの子に会いたかったからじゃなくて?」
     私が本心を言い当てられ言葉を失っていると、違うの? と追い打ちをかけられる。お姉様にお世話になったから、膝丸さんの顔に泥を塗らないため。どちらも嘘ではないが、全てでもない。膝丸さんに会う絶好の機会だと、喜ぶ自分も確かにいた。
     それでもそんな醜い気持ちを認めるわけにはいかず、否定しようと口を開いたが声が出なかった。
    「そういえば、本当の答えを聞いていなかったね。どうしてあの子の話を受けたの?」
     婚約破棄の話があった日の夜、お兄様が真っ先に尋ねたことだ。私が固まっていると、お兄様が私の頭を撫でる。お兄様の手が動くたび花の甘い香りがし、頭がぼんやりとする。するとどうだろう。出なかったはずの声が、生涯隠し通すつもりだった秘密と共に出てきた。

    「お兄様は、鬼を見たことがありますか?」
     脈絡のない問いかけにお兄様は目を丸くしたが、柔らかく微笑まれ、あるよと言う。醜かったかと聞けば醜かったと答え、もういないけれどと付け加える。お兄様が見た鬼がどんな鬼だったかは知らないが、これだけは言えた。
    「お兄様が見た鬼より醜い鬼が、私の中にはいるんです」
     近所の男の子からは指なしとからかわれ、石を投げられた。年配の先生は左手で筆を持つ私を見、非常識だと頭を叩いた。女学校や夜会では、平民の指がない女のくせにとわざと聞こえるように陰口をたたかれた。
     他人が何て言うかなんかどうでもいいじゃないか。鶯丸お兄様はそう言うけれど、私はお兄様のようにはなれなかった。心ない言葉を浴びるたび、私の中で暗い感情がどんどんと積み重なり、醜い鬼へと姿を変えていった。


     ──どうして私は指が動かないの?
     ──どうして私は華族のお姫様に生まれなかったの?
     ──どうして膝丸さんは私を置いていくの?

     ──あの三年間は何だったの? 私は一体何のために待っていたの?

     ──ああ、あの人を奪った女が憎らしい。


    「とても人には見せられません。特に膝丸さんには、見せたくなかった。あの人が美しいと言ってくれた私のままでありたかった。だから婚約をなかったことにしてほしいと言われた時も、すぐに了承しました。嫌だと言えば、私の中の鬼が出てきてしまうから」
     本当は嫌だと泣いて叫びたかった。膝丸さんを困らせてでも、引き止めたかった。けれど、それよりも膝丸さんに鬼であることを知られたくないという思いが勝った。
     お兄様の顔を見ることができず、話をしている内に自然と俯いてしまったが、突然顎に手をかけられ、上を向かされる。膝丸さんと同じ金色の瞳に、呆けた私が映っている。

    「いい匂いだね」
     お兄様は笑みを深くする。
    「甘い、甘い……阿片の匂いだ」
    「阿片?」
     お兄様が言うように、先ほどから甘い匂いがしている。お兄様のコロンと似ているが、もっと甘く心地良く、息をするのも辛いほど強いのに、ずっと嗅いでいたくなる。阿片は恐ろしい麻薬と聞くけれど、これほど甘美な匂いがするならば、依存して抗えなくなるのもわかる気がした。
    「僕の名は鬼を切った刀が由来なんだけど。君が鬼だというのなら、堕ちる所まで共に堕ちようか」
     私はお兄様から目が離せなかった。大らかなお兄様が初めて見せる妖艶な笑みと雰囲気に、私は完全に呑まれてしまっていた。
    「僕と結婚しよう」
    「……」
    「ごめんね。あの子のこと、説得できなかった。このままだと、あの子と君は何の接点もなくなってしまう。僕は嫌だな、可愛い妹が赤の他人になってしまうなんて」
    「……」
    「僕と結婚すれば、あの子の妻にはなれないけど、姉にはなれる。あの子と近しい場所に、君は戻ってこられる。……ねえ、君の中の鬼はどんな手段を使ってでも、膝丸の側にいたいと叫んでいるんじゃないか?」

     その時、どこからかフルートの音がした。通夜をしているお寺でフルートの音がするはずないのに、確かに私には『鬼が来りて笛を吹く』が聞こえた。異様な音階の不気味な曲、右手の中指と薬指のない鬼が吹ける曲。気づけば私は、はいと返事をしていた。フルートの音はますます大きくなっていった。



     私はその後、通夜振る舞いの席を辞した両親と共に帰宅した。さすがにその場での話はなかったが、ほどなくして源家から正式なお話があったらしい。
     『らしい』というのはお父様がご自分のところで話を止めていたからで、私がそのことを知ったのはお姉様のお葬式から二月経ってからだった。人目を憚るようにやって来た女中を不審に思いつつ、久しぶりにかかってきたお兄様からの電話に出れば、『やっと出てくれた』とか『君からもお父さんに言ってくれない?』とか言われ、何が何だかわからなかった。
     お父様はお兄様との結婚を快諾されるとばかり私は思っていた。孫が未来の子爵になるのだから当然だろう。だが私が思っている以上に、お父様は子煩悩な方だった。今でさえ平民の婚約者に対して風当たりは強いのに、お相手がお兄様になれば今までの比にはならない。何より、私が膝丸さんを好いていることを、お父様はよく知っていた。
    「お父様ったら酷いわ。血が繋がっていなくても、私はこの家の者です。お家の役に立たせてください」
     お兄様から電話をもらった後の食事の席で婚約の話をすると、お母様はずいぶんと驚かれ、お父様は苦虫を潰したような顔になった。
    「お兄様……いえ、髭切さんとの結婚をお受けいたします」

     膝丸さんが家に乗り込んできたのは、それから更に半月後のことだった。興奮しきった彼の様子から察するに、お父様が半月近く尚も返答を躊躇っていたか、子爵様がわざと膝丸さんに告げるのを遅らせていたかのどちらかだろう。
    「どういうことだ!?」
     私の顔を見るなり、彼は声を荒げた。客間の外に控えていた女中にも、彼の怒鳴り声は聞こえていたようだ。その証拠に女中は怯えて、最後までお茶を持ってこなかった。
    「何のお話ですか?」
    「白を切るな! 兄者とのことだ。父上は君が快諾したと言っていた」
    「私は子爵様と父の決めたことに従うまでです」
     私はその時、まだ部屋の入り口に立ったままだった。膝丸さんは目尻を吊り上げつかつかと私に近づいてきて、肩に彼の手が触れたかと思えば、次の瞬間には扉に押しつけられていた。
     痛みで瞑った目を開ければ、信じられないほど近くに膝丸さんの顔がある。彼が大きく口を開けると牙のような犬歯が見え、彼の気迫も相まってかみ殺されるのではないかと背筋が凍った。

    「素直に言ったらどうだ! 君は最初から俺ではなく、兄者の方が良かったのだろう!?」
     だが、この言葉で恐怖心は消し飛んだ。代わりに来たのは絶望だ。彼は、私を身分目当ての女だと思っていたのか。私のこの想いは、彼には伝わっていなかったのか。
    「大切なお兄様が私のような女と結婚するのが許せませんか?」
     いけないと制止する内なる声が聞こえたが、私は鋭くなった鬼の歯を覗かせて、膝丸さんに食ってかかっていた。
    「自分が髭切さんには不釣り合いだということくらい、私だってわかっています。でも元はといえば、貴方が勝手なことをしたからではないですか!? 身分の低い女には、何をしたっていいと思っているんでしょう? 冗談じゃないわ! 私にだって感情はあります!」
     大きな声を出すのは慣れておらず、叫んだ後頭がくらくらした。それでも止めれなかった。言い返されるとは思っていなかったのだろう、膝丸さんが怯んだ隙に私は彼の体を乱暴に押し返した。しかし私が全力を出しても彼は少しよろめいただけですみ、それが余計に憎らしかった。
    「能天気に笑っているだけの女だなんて思わないで!!」
     このままだとみっともなく泣いてしまいそうで、私は唇を噛み締めると、客間を飛び出した。

     酷い人、酷い人、酷い人。でももっと酷いのは、それでも嫌いにさせてくれないことだ。部屋に逃げ帰った後も、彼を責める気持ちよりも彼に鬼の姿を見せてしまった後悔ばかりが浮かび、鏡台に突っ伏して泣いた。
     疲れて涙が出なくなるまで泣いて、ふと顔を上げれば、埃避けの布がいつの間にかずり落ちており、鏡に恐ろしい形相の鬼が映っていた。

     ──堕ちる所まで共に堕ちようか。

     髭切さんの言葉が蘇る。そうか、私は堕ちたのか。だから鏡には嫉妬と恨みに支配された般若が映っている。私の考えを肯定するように、不気味なフルートの音が聞こえてきた。きっとこのフルートを吹いているのも私なのだろう。



     両家の間で話はまとまったが、世間への公表はしばらく控えることになった。好奇の目にさらされるのは避けられないが、それでも今は時期が悪すぎる。お姉様が亡くなってから半年も経っていないのに加え、一向に犯人が見つからないことから、身内による犯行などというふざけた噂が立ち始めていた。
     結局いいことがないままその年は終わり、唯一良かったと言えるのは、鶯丸お兄様が英吉利から帰ってきたことだった。
    「すいぶん上手くなったじゃないか」
     部屋でフルートの練習をしていると、気づかぬ間にお兄様が後ろに立っていた。これからお父様の側について商いを学ぶらしいが、当面は家でゆっくりするのだそうだ。
    「いつからいらしたのです?」
    「まだ髭切に習っているのか?」
     私の質問は無視されてしまったが、お兄様と話しているとよくあることだ。いちいち気にしていては埒が明かない。
    「友子様が輿入れされてからは、膝丸さんに見ていただいていました。……それも今ではありませんが」
     膝丸さんに最後に練習を見てもらったのは、最後にお姉様とお会いした日の一週間から二週間前だったはずだ。まだ半年しか経っていないのに、ずいぶんと昔のことのように思える。当然といえば当然だが、あの日以来膝丸さんとは会っていない。用があって源家に行っても、必ず彼は留守にしている。
    「そうだわお兄様」
     脳裏に浮かぶ彼の姿を消してしまおうと、明日からの旅行について話をした。

    「髭切さんに何かご伝言がありましたら、お預かりしますよ」
     髭切さんは陸軍の将校様なのだが、この冬から神戸の駐屯地へ異動となり、そのため帰国したお兄様とはまだ会っていない。私は明日、髭切さんのいる神戸へ遊びにいくから、ちょうどいいと思ったのだ。
     しかしお兄様は喜ぶどころか、不機嫌になってしまう。感情をむき出しにする人ではないが、それでもちょっとした雰囲気の変化で察することはできる。
    「お前はもっとまともな男だと思っていたと伝えてくれ」
    「いくらご学友とはいえ失礼ですよ」
    「まさか弟の女を奪うとは思わなかった。奪われる弟も弟だがな」
    「子爵様が我が家を思ってご提案くださったのに、そんな風におっしゃらないでください」
    「髭切の意思が全く働いていないと思うか? あれは昔からお前を気に入っていた」
     お兄様には帰国してから髭切さんとの婚約を知らせたのだが、お兄様はずっと髭切さんが言い出したのだろうと怪しんでいる。人に無関心のようでいてその実、些細な変化も見逃さない人ではあるが、その観察眼がこんなところで発揮されるとは思わなかった。

    「たとえそうだとしても、いいではありませんか。後妻ではありますが、お家のためには良いことです」
    「家も他人も、どうでもいいじゃないか」
    「お兄様」
     跡取りとしてあるまじき発言に、顔をしかめる。しかしお兄様は静かに私の顔を見つめた。
    「他人のことなんか気にするな。お前の生きたいように生きればいい」
    「……」
    「そう伝えてきたつもりだが」
     綺麗な鶯色の瞳に見つめられると、この人は私の兄なのだと実感する。両親が事故で亡くなり、実父の友人だったお父様に引き取られたのが五つの時。当時のことはおぼろにしか覚えていないが、兄になる人の口癖が『他人のことなんか気にするな』だったので戸惑ったのは覚えている。
     兄らしくない兄で、私がお兄様の奔放な振る舞いを注意する側だった。一つしか年が違わないのもあり私が姉と間違えられることもあったし、お兄様ではなく髭切さんと兄妹と勘違いされることの方が多かった。
     それでも、私を案じる姿を目の当たりにすると、共に過ごした年月が私たちを兄妹にしたのだと思う。ただ兄妹であるが故、お兄様の鋭い観察眼も鈍ってしまったらしい。
    「私は自分のしたいようにしていますよ」
     世間から非難されようと、膝丸さんからどう思われようと。私は自分の意思で、膝丸さんの側にいることを選んだ。



    さいこ Link Message Mute
    2023/08/06 1:36:54

    鬼が来りて笛を吹く(前編)

    pixivに掲載していた大正パロの刀さに。再掲するにあたり、構成を見直しています。膝さにを前提とした膝さに・髭さにで、髭切はモブと結婚した状態からスタートします。また、前編ではほとんど出番がないですが、うぐさに要素もあります。
    これも蝶毒パロですが、そんなにきちんとパロディしてないので、知らなくても問題ありません。知っていたらネタ元あれかってなって少し楽しいかも。

    #刀さに #髭さに #膝さに #源氏さに #刀剣乱夢 #うぐさに

    more...
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