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    鬼が来りて笛を吹く(後編)
     神戸に向かう列車の中で、私はぼんやりと外の景色を眺めていた。神戸まで半日以上かかるので話し相手に同じ年の女中を連れてきたが、彼女は家を出た時から上の空で、私は早々におしゃべりするのを諦め、景色を見ることに専念した。
     しかし景色は次第に代わり映えのしないものになり、瞼がだんだんと重くなっていく。意識が飛び飛びになった頃、扉を叩く音が聞こえ目が覚めた。慌てて背筋を伸ばすが、女中が扉を開けるのを見て、既に車掌が切符を確認しに来ていたことを思い出す。
     開けられた僅かな扉の隙間から男性が客室に滑り込み、そして入れ替わるように女中が外へ出ていく。男性は後ろ手で扉を閉めると、パナマ帽を脱ぎ、続いてロイド眼鏡を取った。
    「久しぶりだな」
     不審な男は膝丸さんだった。声が出せずにいると、彼は私の向かいの座席に座った。
    「無礼を働いてすまない。だが、君と二人きりで会うにはこれしかなくてな」
    「……」
    「俺の顔を見るのも嫌かもしれないが、どうか話を……」
    「ふふっ」
     突然クスクス笑い出した私を見て、膝丸さんが目を丸くする。しかし私は笑いが止まらなかった。
    「どうなさったんですか、その格好」
    「変か?」
    「いいえ、とてもよくお似合いです。映画俳優のよう。でも膝丸さんがそんな不良の格好をするなんて」
     いつも洋服を着こなされているだけあって、とても様になっている……いや、様になりすぎている。普段の生真面目な膝丸さんとの差が大きくて、似合っているのに笑いが止まらなかった。膝丸さんが渋い顔をして私を見るのもまたおかしくて、笑いの波はなかなか引かなかった。

    「……もういいか?」
    「ええ……ふふふっ、……失礼しました」
     笑いをどうにか押し込め返事をする。彼は大きな溜息を吐いた後、苦笑いを零した。
    「口を利いてもらえるとは思わなかった」
     その言葉は私を現実に引き戻した。驚きのあまり感覚がおかしくなっていたが、私たちは決して互いに笑い合える立場にはいない。それはもう過去の話だ。
    「何が君にとって一番いいのか、ずっと考えていた。君を傷つけたくないと思い取った行動は全て裏目に出、かといってこのまま何もなかったことにするのがいいとも思えない。源の家にいる以上、いつか君は真実を知ってしまう」
     淡々と話しているが、膝丸さんの姿にはどこか悲壮感が漂っている。彼は私の目をしっかりと見つめて話をする。
    「兄者にもう俺の声は届かない。父上たちも、事を荒立てず穏便にすまそうとしか考えていない。君の父上に正直に伝えるのも考えたが、俺が婚約者を取り戻そうと狂言を吐いていると思うだろうな」
     彼は一拍間を置いて、聞いてくれるか? と尋ねた。私は黙って首を縦に振った。

     膝丸さんたちの父親である先代子爵様は、長年決して結ばれることのない女性に想いを寄せていた。それは子爵夫人と結婚してからも変わらず、子爵様と女性は逢瀬を重ねていたのだという。
     髭切さんが生まれてすぐ女性も女の子を身籠り、源家の神戸の別荘で子を産んだ。子爵様も女性も子供を引き取ることができなかったので、子供は別荘の管理人夫妻に預けられた。しかし管理人夫婦は自分たちの娘が生まれると、今まで育てていた子供を乳児院に入れてしまう。
    「子供はとある商家に引き取られたが、その夫婦も自動車事故で亡くなってしまう。幸いなことに、亡くなった夫の親友が子供を自分の養子にした。子供を引き取った男は、困窮した華族が娘を嫁に欲しいと頭を下げるほどの財を築いてた」
     ドクドクと心臓が早鐘を打ち、知らぬ間に胸の上に手を置いていた。私はよほど酷い顔をしているのか、膝丸さんは視線をそらし目を瞑って苦悶の表情を浮かべたが、続きの言葉を言う時、彼はまた真っ直ぐに私を見た。

    「その父上の子供は、生まれつき右の中指と薬指が動かなかったそうだ」
    「嘘……」
    「嘘ではない。探偵に調べさせれば君が乳児院にいたことも、君を引き取った夫妻のこともわかった。君が乳児院出身であると君の父上が知っているかはわからんが、もし仮に知っていたとしても。源家と関係があるとは思いもしないだろう」
    「そんな……そんな馬鹿な話……」
    「だがこれが真実だ。君は俺の姉で、兄者の妹だ」
     嘘だ嘘だとうわごとのように繰り返しつぶやくが、本当は嘘ではないと理解していた。膝丸さんは人を傷つけるような嘘を吐く人ではないと知っているから。
     でも信じたくなかった。私が長年思い続けてきた人が実の弟で、更に実の兄と結婚しようとしているだなんて。
    「私が子爵様の落とし子だというなら、どうして子爵様は何も言わなかったのです? 貴方も、髭切さんも! どうして私に隠そうとしたんですか?」
    「父上は最後まで気づかなかったのだろう。仮に気づいたとしても、自分の罪を隠したかった。……父上が長年思いを寄せていた女性は、叔母上だ」

     長い間、私たちは何も話さなかった。いろいろなことが腑に落ちたが、私の中にある常識がその事実を認められず、その場に座っているのがやっとだった。膝丸さんも今の私には話しかけない方がいいと思ったのだろう。
     けれどいつまでもそうしているわけにはいかず、膝丸さんは立ち上がり、外していた眼鏡をかけ帽子を被る。
    「君の女中だが、責めないでやってくれ。俺が無理を言って頼んだんだ」
     彼女の様子がおかしかったのは、膝丸さんが事前に口裏を合わせるよう頼んでいたからだった。膝丸さんが私に背を向ける。膝丸さんがいなくなってしまう、そう思った時には手が勝手に彼の服を掴んでいた。出口を見ていた彼の目が、再び私に向けられる。
    「親の決めたことでしたが、私は貴方を」
     膝丸さんは驚いていたが、私の手を振り払いはしなかった。
    「ずっとお慕いしておりました」
     実の弟とわかったうえで告げるべき言葉ではない。それでも言わずにはいられなかった。言ったら何だか気が抜けてしまって、服を掴んだ手がストンと落ちたが、私はその手を引かれ、膝丸さんに抱き締められていた。
    「膝丸さ……」
    「年上の美しい人だと、俺にはもったいない人だと思っていた」
     痛いくらいに強く抱き締められ、自然と涙が流れ落ちる。
    「それでも君への思いは募るばかりだった。……愛していた、俺の生涯で愛する女性は後にも先にも君だけだ」
     最後にもう一度強く抱き締め、膝丸さんは体を離した。彼は帽子を目深に被り、今度こそ私の前から去っていった。

     膝丸さんがいなくなって十分もしないうちに、女中が客室に戻ってきた。彼女は部屋に入るなり頭を下げ謝ったが、返事をする気力もなく、私は窓の外に目をやった。走れど走れど、同じような景色ばかり流れてくる。景色を眺めているのも辛くなって、私はそっと目を閉じ……。



     ▷ 膝丸さんの思いに応えなければならない。  2ページへ
     ▷ 神戸に着いたら髭切さんと話そう。     8ページへ



     もっと自分の想いを伝えていれば、彼女のことを信じていれば……。そう考えることはある。だがどんな過程を踏んだとしても、俺たちは姉弟であり、結ばれることは決してない。

     年上の美しい人、血の繋がった実の姉。それなのに、未だ彼女への想いを断ち切れない。



     初めて彼女と会った時、俺の婚約者は何と美しい人なのだと思った。当時の彼女はまだ八つだ、愛らしいと言った方が適切だろう。だが、俺は美しい人だと思った。
    「――――と申します」
     父親に紹介され頭を下げると、淡い色の髪を結ったリボンが揺れたのを覚えている。亡くなった父上が愛らしいお嬢さんだと彼女を褒めたが、俺も口が達者ならば同じことを言ったと思う。
     当時の俺は君も知ってのとおり不甲斐なく……いや、不甲斐ないのは今も変わらないな。目の前の美しい人に怖気づき、挨拶を返すことすらできず兄者の後ろに隠れてしまった。母上や兄者は微笑ましいと言わんばかりに笑い、君たち家族もまあ似たようなものだったが、父上は違った。
     兄者と違って出来の悪い俺に対し、父上は厳しかった。叩かれたり罰として食事抜きを命じられたりするのは当たり前、暗い蔵の中に一日中閉じ込められることも珍しくはなかった。君たち家族がいる手前普段と比べれば抑えていたが、父上はこの時も俺の態度を叱り、手を振り上げた。
    「すごく可愛い子だったから驚いちゃったんだよね? ……えっと」
     兄者という人は昔からどこまでが本気でどこまでが冗談なのかわからず、父上からかばってくれたのは嬉しかったが、俺の名前をど忘れしていた。まともに呼んでもらったことの方が少なかったからな、不自然に開いた間で全てを察した。
    「兄者がまた俺の名前を忘れた!」
     あのように無様に泣くとは、今でも思い出すと恥ずかしい。しかし悲しくて泣いているのに、頭の一部はやけに冷静で、泣きながらまた父上から殴られると考えていた。だが俺に触れたのは、父上の拳ではなく柔らかな手だった。
    「泣かないでください、膝丸さん」
     レースのハンカチで涙を拭われ、彼女の金の瞳と目が合った。子供に愛や恋がわかるとは思えんが、でも確かに……あの時の俺は優しく微笑む彼女に恋をした。

     指のことは後から知った。そのことを母上が良く思っていないことも。だが、指が動かないことなど些細なことだ。常にたおやかで、奥ゆかしく、品がある。彼女は素晴らしい人だった。子供心に、華族よりも華族らしい品格を持った人だと思った。
     俺は彼女に夢中になったが、今思うに、あの頃の俺は彼女が自分をどう思っているかまでは頭が回っていなかったのだろう。俺は彼女を好いている、その自分の気持ちだけで満足していた。
     彼女への思いに良からぬものが混ざり始めたのは、中学に上がってからだ。きっかけはフルートだった。俺の成長に合わせ、三人で遊ぶ場は庭からサンルームへ移ったが、俺はサンルームでフルートをよく吹いていた。理由は単純だ、彼女にいいところを見せたかったから。フルートは兄者より俺の方が上手かった。
     彼女はいつだって俺の演奏を真剣に聞いてくれたよ。演奏が終われば、大きな拍手を送ってくれた。照れ臭くはあったが、控えめな彼女からもう一曲聞かせてはくれないかと頼まれるのが嬉しかった。

    「聞くだけじゃなくて君もやってみない?」
     ある日兄者がそう言った。彼女は苦笑していたな、指が動かない私には無理ですと。否定できるものなら否定してやりたかったが、楽器を演奏するにあたり手が自由に使えないのは致命的だ。しかし兄者は横に置いていた茶封筒から、譜面を取り出し俺に渡した。
     『鬼が来りて笛を吹く』。今では聞くこともなくなったが、当時は曲が発表された直後で、ちょっとした話題になっていた。何とも不気味な曲だという印象はあったがじっくり聞いたことはなく、初めは兄者の考えが読めなかった。
     だが、譜面を読み進めていくうちにあることに気づいた。右手の中指と薬指を一度も使わないのだ。見間違いを疑いもう一度頭から見直すが、やはり最後まで中指と薬指を使わずに曲は終わる。

    「確かにこれならば君も吹けるかもしれない」
    「でしょう?」
     ただの冗談だと思っていたらしく、俺ができると言えば、彼女は随分と驚いていた。
    「気持ちのいい曲ではないうえ、初心者には難しいと思うが……やってみるか?」
     俺はそう尋ねたが、彼女の性格を考えるに断るだろうと考えていた。実際、お気持ちは嬉しいですがと断るための前置きを彼女は口にした。だが、そこへ兄者が大丈夫大丈夫と声をかける。
    「肘丸がきちんと教えてあげるからさ」
    「勝手に決めないでくれ。それと俺は膝丸だ」
    「えぇ? 教えてあげないの?」
    「いや、もちろんそのつもりではあるが」
     また兄者が俺の名前を間違えた。……泣いてはない、泣いてはないぞ。もう中学になっていたのだ、人前で泣きなどしない。
    「ですが、膝丸さんのお手を煩わすようなことは……」
    「俺は問題ない」
    「夫に甘えるのも奥さんの役目なんだから、遠慮ばかりしてたらいけないよ」
    「あ、兄者!?」
    「旦那さんを立てると思ってさ。ね?」
     そのように呼ばれる関係になるのは、まだ遠い未来の話だと思っていた俺は、突然のことに声が裏返ってしまったが、兄者は素知らぬ顔で彼女の説得を続ける。彼女も最初こそ神妙な顔をしていたが、動揺する俺を見て口元を押さえて笑った。
    「それではご指導をお願いいたします、旦那様」
     笑いながらではあったが初めて旦那様と呼ばれ、頬がカッと熱くなるのを感じた。部屋に教本を取りにいくとその場から逃げ出すも、兄者が声を押し殺して笑っているのが横目に見えた。

     俺の部屋は二階にあり、出窓からサンルームが見えるのだが、教本を探している最中、サンルームの兄者と彼女の様子が見えた。兄者たちは譜面台の前に立ち、何か話していた。とても楽しそうに話していて、兄者がフルートを分解して見せると、彼女はここまで悲鳴が聞こえてきそうな顔で驚き、そして笑う。
     あんな風に、心の底から笑う姿を俺は初めて見た。衝撃を受けると同時に、俺が知る彼女の表情はとても少ないと気づく。
     どんなに顔立ちの整った者でも、思いきり笑ったり泣いたりすれば顔は崩れる。けれど、彼女にはそれがなかった。俺の知る彼女は、いつだってたおやかに微笑んでいた。



     嫉妬、疑い、怒り、諦め。純粋だった想いにそんなものが混ざり始めた。だが、君が思うほど俺は深刻にはならなかった。時が全てを解決すると、漠然とそう思っていた。兄者と同じ年になる頃には、俺はもっと頼りがいのある男になっていて、そうすればきっと彼女も心を開いてくれるだろうと、信じていた。
     今度の転機は十五の時だ。母上の帰省に同行したのだが、そのまま屋敷に軟禁されてしまった。母上は父上と離縁するつもりで、俺を子のいない叔父上の養子にしようと考えていたらしい。今は母上の暴走だったことも、兄者や彼女がずっと待っていてくれたことも知っているが、当時は屋敷の外に出ることを禁じられ、母上の親族以外と会えずにいたので何も情報を得られず、不安ばかり募らせていた。
     外に出ることを許されたのは三年後、父上の葬式に出るためだった。迎えは父上が……ややこしいから叔父上と言おうか。迎えは叔父上が来てくださった。ああ、先ほど母上の親族以外と会うことはできなかったと言ったが、あれは嘘だ。叔父上は唯一の例外で、何も外のことは教えてくれなかったが、暇を見つけては会いにきてくださった。
     父上はわからんこともないが、自分の子である兄者は禁じたのに叔父上には何故俺と会うことを許したのか。未だにその理由はわからんが、俺が生まれる前まで叔父上は我が家で暮らしていたというし、母上としては共に暮らしたことのある叔父上ならば信用できると思ったのかもしれないな。
    「姉が兄から離れようとしないんですよ。棺桶に入れることさえ泣いて嫌がって」
    「まあ。本当に仲の良いご兄妹なこと」
    「まったく、みっともない。夫のいる身でありながら好き勝手して」
    「あら? 私におっしゃった?」
    「そんなつもりは……!」
    「冗談ですよ。貴方だけはいつも私の味方でいてくださったもの」
     母上たちはそんな会話をしていたが、俺は式場に早く着かないかと、そればかり考えていた。親不孝にも、俺は父上の死を悲しむのではなく、兄者や彼女と会えることを楽しみにしていた。

     式場でのこと、君はどこまで知っている? ……そうか、君は全部見ていたか。では話が早い。俺が式場に着くなり兄者は俺の名を呼び、人目をはばからず俺を抱き締めた。
    「膝丸!」
     やっとお会いできたと喜ぶ一方、名前を呼ばれると罪悪感が湧いた。俺の名は膝丸ではなくなっていたからだ。母上の家に所縁のある名に変えられ、三年の間に俺自身もその名に馴染んでしまった。兄者から名を呼ばれることをあれほど望んでいたのに、その時は源の家を捨てた俺を責めているように感じた。
    「兄者、俺の今の名は『薄緑』だ」
     堪らずに新しい名を告げると、俺の上着を掴む手が緩み、兄者の体が離れていく。驚くあまり……だったのだろうが、兄者から拒まれた気がして悲しかった。そこへ追い打ちをかけるように、離れた場所から俺たちを見守っていた彼女が、俺ではなく兄者の側へ駆け寄った。
    「お兄様。こうしてまたお会いできたのですから、それだけで十分ではないですか」
     彼女は兄者と亡くなった姉上が並ぶと、まるで一枚の絵画のようだと俺に言っていた。だが俺から言わせれば、兄者と彼女の方がよほど絵になった。兄者を気遣い寄り添う姿の、何と様になっていたことか。三年ぶりに見る彼女は少女から、兄者に相応しい妙齢の婦人に変わっていた。変わらないのは、俺に見せる表情だけだった。
    「お久しぶりです。ご立派になられて、始めはどなたかわかりませんでした」
     そう言って俺に寂しげな微笑を向ける。彼女が言うとおり、三年の間に俺は望んでいた大人の男に近づいた。体つきはしっかりとし、兄者の肩ほどしかなかった背は、兄者と並ぶほどに高くなった。けれど……。
    「(年上の美しい人)」
     彼女は変わらない、変わってはくれない。いつまでも年上の美しい人であり続ける。結局母上は叔父上と再婚することになり、俺が母上の家を継ぐ話はなくなった。薄緑という名も、しばらくして元の名に戻した。しかし全て元どおり、とはならなかった。俺の中には三年前とは比べものにならないほど、不純な感情が根づいてしまった。



    「だから髭切に易々と譲ったのか?」
     十年ぶりに会う鶯丸はそう言うと、鶯色の瞳を閉じ湯呑に口を付ける。昔から考えの読めない男だった。自分のことよりも友人の大包平という男の話ばかりして、俺がそのことを指摘した際に敬語を使いそびれた時も、謝る俺に対し細かいことは気にするなと言い、何事もなかったかのように大包平の話を再開していた。
     今日も、話を聞いてもらえるとは思わなかった。突如訪ねて来た俺に、十年の月日などまるでなかったように、まあ茶でも飲んでいけと言って家に上げた。それから気色が悪い話し方をするなと敬語を使う俺へ言ったが、それもどんな感情で言ったのか掴めなかった。
    「俺が彼女に婚約破棄を申し出たのは、姉上がまだご存命の頃だ」
    「……あいつは受けたのか?」
    「ああ」
     彼は驚く素振りを見せなかったが、彼女は家族にもあの一連の出来事を話さなかったらしい。
    「会えば意思を貫けないと思い、彼女には電話で話した。無礼にもほどがあるが、彼女はわかったと。筋さえ通せば父も話を受けるだろうと言った。俺はできた人だと改めて思ったが……何故泣いてくれないのだろうと思った。取り乱してほしかった、泣いて嫌だとすがってほしかった。親が決めたからではない、確かに俺に情があるのだと示してほしかった」
     勝手この上ないが、自分から言い出しておきながら、俺は彼女への想いを断ち切れなかった。姉上の通夜で彼女が倒れた時も、彼女に触れようとした男を睨みつけ、彼女を横抱きにし庫裏まで運んだ。

     町医者には単なる貧血だと診断されたが、それでも俺は庫裏に残った。自分にはその資格がないとわかっていながら、彼女から離れられなかった。
     庫裏で二人きりになり彼女の寝顔を眺めていると、彼女の意識が戻ることを願う一方、このまま目が覚めなければいいのにと考える自分もいた。俺が彼女の側にいられるのは、彼女が意識を取り戻すまでの間だ。だが、同時にこうも思った。彼女が目覚めたら誠心誠意謝って、全てなかったことにしてもらえばいいのではないかと。
    「そうこうしているうちに兄者が庫裏に来て、医者の診断結果を聞いた後、本当に彼女と別れていいのかと俺に聞いた。俺の迷いなど兄者にはお見通しのようだったが、彼女を抱きかかえた時に香った花の匂いを思えば、俺に選択肢などなかった。俺が己の答えを伝えれば、兄者はお前の考えはわかったと言い、式に戻るよう諭された。……兄者はあの時覚悟を決めたのだろうな」
     父上に大事な話があると書斎に呼ばれたのは、その年の十二月だ。姉上を殺した犯人は見つかっておらず、未だ新聞記者が家の周りをうろついていたが、事件直後のことを思えば落ち着きを取り戻していた。
     父上は開口一番、婚約の件は話がついたよと言った。俺はいいんですかと聞き返していた。
    「君の家の援助がなければ、源家は立ち行かない。それに俺は彼女との婚約破棄を望む理由を、父上には告げていなかった。俺は父上に感謝したが、どうも話が噛み合わない」
     友子の件があるから公にするのは先になるがとか、後妻でも孫が子爵になるなら願ったり叶ったりだろうとか、何故か兄者の再婚の話をする。
    「お前が兄思いなのは知っていたがこれほどまでとは思わなかったと言われ、俺はようやくあってはならないことが起きてしまったのだと理解した。父上が俺を呼んだのは、俺と彼女の婚約を解消し、兄者の後妻として彼女を宛がう話が両家の間でまとまったからだった」

     俺は書斎を飛び出し、兄者に詰め寄った。気が狂ったかとののしっても、兄者は普段と変わらぬ様子で良かったねと俺に言う。あの時のことは、今思い出してもぞっとする。兄者は良かったね、これであの子を堂々と『姉上』って呼べるよと言ったのだ。僕はあの子から『お兄様』って呼ばれるの好きだったのになと羨ましがりもした。
    「だが、俺が己を律していられたのはそこまでだ」
     彼女も結婚に同意していると聞いた時には頭が真っ白になった。猜疑心にかられながら、心の奥底では彼女も俺を愛していると信じ込んでいた。だから兄者との結婚を望んだと聞いた時、我を失った。
    「俺は怒りに身を任せ、彼女をなじった。元から兄者のことが好きだったのだろうと醜い嫉妬心をぶつければ、あの大人しい彼女が般若の顔をして言い返してきた。念願の微笑以外の表情が、他の男に取られてから見られるとは皮肉なことだ」
    「それほど愛していたというなら、何故あいつとの婚約を破棄した?」
     何も知らない彼からすれば、もっともな疑問だろう。覚悟を決めてきたはずなのに、いざその場面になると躊躇してしまう。しかし、彼女の死の真相を話すには触れざるをえなかった。
    「君の妹は先代源子爵の落とし子であり、俺の実の姉だ」
     鶯丸は初め俺の言葉を上手く咀嚼できずにいたが、時間が経つにつれ表情にじわじわと驚きと戸惑いが広がっていく。さすがの彼も驚かずにはいられないだろう。俺の話は信じがたいが、同時に否定もできない。彼女は養子であり、俺がどれだけ彼女に惚れていたかを知っているからこそ、鶯丸は俺の話を否定できない。
    「俺たちは結ばれてはいけない関係だった。兄者もそうだ」
    「待て。それなら髭切は……」
    「実の妹とわかったうえで、彼女と結婚しようとした」
    「……正気か?」
     当然の反応なのだが、兄者にとって彼女の存在はそれほど大切だったのだと、兄者の弁護に回ろうとする自分を抑え先を続けた。

    「いくら言っても、兄者に俺の言葉は届かなかった。父上にも事の真相を話したが、父上は家の恥を公にしないことを優先された。君たちの御父上に話すことも考えたが、今の君だって半信半疑なのだ。言ったところで、俺が婚約者を取られた腹いせに破談させようと画策しているとしか思わんだろう」
     こんな突拍子のない話を信じてくれるとしたら、彼女しかいなかった。
    「彼女が兄者の赴任先の神戸に行くと聞き、彼女と同じ列車に乗り込んだ。そして人目を忍んで彼女の客室に会いに行き、事の真相を告げた。彼女も初めは嘘だと否定したが、最後は俺の話を信じてくれた。……だから、川に身を投げたのだ」
     彼女は皆が寝ている間に神戸の別荘を抜け出し、その一週間後、彼女の草履が近くの川に浮かんでいるのが見つかった。遺体はついに見つからず、警察は事故として処理したが、自殺に違いなかった。
     わかりきったことだった。彼女が親の決めた結婚に異を唱えるなどできるはずがなく、罪を犯さないためには自ら命を絶つより他なかった。
    「彼女に真相を告げると決めた時、邪な感情はなかったとは断言できない。禁忌を犯させないためとは建前で、本当は兄者に彼女を奪われたくないだけだったのかもしれない。……どちらにしろ、君の妹を殺したのは俺だ」

     場に沈黙が流れた。鶯丸は持っている湯呑に視線を落とし、何か考えているようだった。俺は殴られるのも覚悟のうえだったが、彼は落ち着いていた。いくら兄妹といっても、血の繋がりがなければこんなものなのかもしれない。鶯丸がようやく言葉を発したのは、俺が諦めて帰ろうとした時だった。
    「今更俺に話す気になったのは何故だ?」
    「軍の命で上海に行くことになった」
    「上海?」
    「大陸は今何かと騒がしい。この間も満州で大きな武力紛争があった。俺の仕事は少々特殊で前線に立つことはないが、かといって無事に日本に帰られる保証もない。ならば、君に真実を伝えねばと思ってな」
    「そうか」
     鶯丸は立ち上がり、少し待っていろと言い部屋を後にした。十五分から二十分ほどして鶯丸は戻ってきたが、やや色があせた黒のケースを手に持っていた。
    「餞別だ。持っていけ」
     目の前に突き出され、ケースの正体を聞く前に勢いに負け受け取ってしまう。もっとも、彼の手にある時からおおよその見当はついていた。テーブルの上で金具を外しケースを開けると、中には思ったとおり彼女の名が刻まれたフルートが入っていた。

    「妹の死でお前を責めるつもりはない。逃げることもできたのに、命を大事にしなかったあいつが悪い。ただ、俺はお前に対し腹が立っている」
     彼の顔を改めて見て、俺は大きな勘違いをしていたことに気づく。この男のどこが落ち着いているものか。いつもは凪のように穏やかな鶯色の瞳が、これほど激情にかられているというのに。
    「何故あいつを信じてやらなかった? あれはお前に惚れていた」
    「……」
    「俺から言わせれば、あいつと髭切の関係は単なる依存だ。お前がいない寂しさを、互いに慰め合っていたにすぎない。あいつが本当に好いていたのは、お前だけだ」
     
     ──親の決めたことでしたが、私は貴方を……ずっとお慕いしておりました。

     列車の中で聞いた彼女の言葉が蘇る。俺の服を掴む手が、行かないでくれと告げていた。潤んだ瞳に見つめられたあの瞬間、俺は彼女の愛情を確信した。もし彼の言うとおり俺が彼女のことを信じていれば、未来は変わったのだろうか。……いや、どんな過程を踏んだにしろ、俺たちが姉弟であることは変わらない。



     ▷ 「ありがたく頂戴しよう」 俺はフルートを受け取った。   26ページへ
     ▷ 「君が持っているべきだ」 俺はフルートを鶯丸に返した。  17ページへ



     家を出ようとしたところで、親父に呼び止められた。どこに行くのか聞かれたので、妾の家だと答えた。親父はそうかとだけ言ったが、何か言いたげにして玄関に留まるのでこちらから振ってやれば、親父は死んだ妹の話をしだした。
    「最近な、お前の嫁にしてたらって考えるんだ」
     妹は婚約者のいる神戸へ出かけた後行方不明になり、一週間後、近くの川で遺体が発見された。妹の草履が岸辺にそろえて置かれていたことから自殺とみられているが、一方で世話役として連れて行った女中は未だ行方がわからず、警察は女中の犯行を視野に入れ捜査していると言っていた。もっとも、今捜査がどうなっているかは俺たちにはわからんが。
    「そうすりゃもっとのびのび暮らせたんだ。俺が欲張って華族に嫁がせようなんぞするから、我慢ばかりさせてよう……。そうだ、お前が言うように世間の目なんてどうでもいいんだ。もっと、もっと…………俺は清吉とお加代さんにあの世で合わせる顔がねえ」
     妹の件があってから、親父は一気に老けた。髪が白くなり、背が曲がり、泣き言をよく口にする。死んだ妹の両親に申し訳ないというのが親父の口癖になった。引退は震災からの立て直しの目途が着いてからにしろとは言っているが、引退させればそのままぽっくり逝ってしまいそうな危うさがある。
     どうしたものかと悩んでいたら、お袋がやって来たので後は任せることにした。

     妾宅へ向かう電車の中で、昔のことを思い出した。高校の後輩に八丁という男がいた。大包平には及ばないがあいつもなかなか面白い男で、俺に妹をもらえと最初に言ったのは八丁だった。
     源夫妻が離縁し、膝丸が母方の家を継ぐだ継がないだで揉めていた頃だ。世間は妹たちの婚約の行方より、妹と髭切の話で持ち切りだった。婚約者が不在なのをいいことに、妹と髭切は逢引を重ねている……世の連中が好きそうな話だ。
     後ろめたいことがないのなら好きに言わせておけばいいと俺は思うが、大包平は違った。兄であるお前が妹を守ってやらないでどうすると。妹が婚約者の兄に色目を使う女だと噂されて、お前は何も思わないのかとも言われた気がする。

     ──兄さんが代わりに嫁にもらえば万事解決じゃない?

     側で俺たちの会話を聞いていた八丁が、そう言ったのだ。妹と血の繋がりがないことを教えた覚えはないが、きっと何かの拍子に話したのだろう。大包平は大真面目故に馬鹿をやってる男なので八丁を叱ったが、俺は面白い発想だなと感心していた。
    「(大変だったのはこの後だ)」
     大包平に感化され、俺も少しは兄らしいことをしようと思ったのだ。俺もあの時は若かった。源家へ行こうとする妹を引き止め、噂をこれ以上助長する真似はするなと……。
    「(……らしくないことはするものではないな)」
     十年前の出来事を思い返しているうちに、電車は最寄りの駅に着いた。

     妾宅に着き呼び鈴を鳴らすが、誰も出てこない。家の鍵は持っているが、庭に行ってみることにした。俺の選択は正しかったようで、庭に近づくと女中の悲鳴じみた声が聞こえてきた。
    「後生ですからおやめください!」
     女中は空を見ていた。女中が見ている先を追うと、太陽ではなく柿の木があった。震災の被害を免れ、今年も多くの実をつけている柿の木に、妾が登っていた。
    「お兄様、お帰りなさい」
     妾は俺に気づくと破顔した。
    「今戻った。木登りか?」
    「お兄様に柿を食べさせてあげようと思って」
    「今度庭師に言って取らせますから! 危ないですから早く下りてください!」
     女中が心配するのはもっともで、柿の木は見た目に反して折れやすい。だが妾は注意されたことでへそを曲げ、さらに上に登ろうとする。
    「上の方にあるのはまずいぞ。あれは野鳥が食べるもんだ」
     妾の動きが止まり、もう少し下の方にあるのが色づきがいいと誘導すれば、得意げな顔をして柿を取りに行く。あとは大福を持ってきたから一つで十分だと言えば終わりで(土産に持ってきたのは大福でなくキャラメルなのだが、興奮させすぎてはいけない)、妾は柿を一つだけ持って下りてきた。
     柿の礼を言えば、妾は上機嫌になった。今度はもっといっぱい取ってあげるとはしゃぐので、どうやって諭そうか考えながら、妾の……妹の服の汚れを払ってやった。

     俺が妹の死に疑念を抱いたのは、妹だという水死体が男女の区別が難しいほど膨れ上がり腐っていたからではない。髭切が不気味なほど冷静だったからだ。膝丸が憔悴しきっていたというのは理由にならない。膝丸が母方の家に連れて行かれた時、妹が毎日通って支えねばと思うほど気落ちしていたあいつが、妹の死を前にして他者を気遣う余裕などあるはずがなかった。
     不審に思いその後の髭切の行動を探ってみると、神戸の外れにある別荘に足繁く通っているのがわかった。確信めいたものを感じたが髭切を問い詰めるだけの証拠はなく、時間だけが過ぎていった。
     事態が動いたのは、妹が行方不明になって半年を過ぎた頃だ。膝丸から電話があった。夜分に何事かと思えば、すぐに神戸に来いと言う。
    「君の妹が生きていた」
     驚きはなかった。膝丸の様子からして、妹の身に良くないことが起きたのだとも察した。

     半年ぶりに見る妹は痩せ、気が狂っていた。何もない空間を見つめ、ぶつぶつとつぶやいたかと思えば、突如絶叫し頭をかきむしる。膝丸が止めるが妹は暴れ続け、妹の手には淡い色の髪が大量に絡みつき、右の中指と薬指以外は血で汚れていた。
     別荘の地下に座敷牢があり、そこで喉に短刀が刺さったまま息絶えている髭切と、髭切の遺体を茫然と見ている血だらけの妹を見つけたと膝丸から聞いたのはこの後だ。だが、俺の知る妹は永遠に戻ってこないと、妹の錯乱した姿を見ればわかってしまった。
     鍛えている膝丸が抑えきれないほどに暴れていたが、病弱で体力のない妹の抵抗は長く続かず、膝丸に手を掴まれたままズルズルと床に崩れ落ちていく。
    「――――」
     妹の名を呼ぶが妹は反応しない。膝丸に目で妹の手を離すよう伝え、妹の横に膝をつく。
    「忘れろ」
     妹の顔がゆっくりと俺の方を向いた。色素の薄い瞳は濁っていたが、わずかに理性の光が宿っている。だが俺は妹の目を手で覆い、もう一度忘れろと言う。
    「全部忘れて子供に戻って、親父とお袋と、俺のところへ帰ってこい。何も気にするな、俺たちがずっと守ってやる」
     俺の言うとおり、妹は全てを忘れて子供になった。あれほど愛した膝丸も、お兄様と慕っていた髭切も、その髭切の命を奪ったことも。全てを忘れ、家にやって来た時の五つの子供になった。

     妹を守るためには、妹は死んだままになっている方が都合が良かった。妹は俺の妾ということにした。頭はおかしいが見目のいい女を妾として囲っている、変わり者という評判がこの時ほど役に立ったことはない。中には怪しんで探りを入れる連中もいたが、昨年の震災でそれどころではなくなり、家の周囲で見かけることもなくなった。
    「ねえお兄様」
     妹が小首を傾げ、じっと俺を見る。子供のような振る舞いだが、俺が目を閉じさせてから目に光が宿ることはなくなり、ずっと濁ったままだ。
    「お花のコロンはつけないの?」
    「あれは廃番になった」
    「ハイバン?」
    「売れないから作られなくなった。諦めろ」
    「なんで? あんなにいい匂いだったのに!」
    「俺に聞かれても困る」
     一番手短にすむ答えを投げ、決まったやり取りを繰り返して妹が諦めるのを待つ。

     初めは何のことを言っているのかわからなかった。俺は花のコロンどころか、コロンをつけたことが一度もない。気がおかしくなった奴の言うことを真に受けるなと親父は言ったが、俺は膝丸に心当たりはないか尋ね、結果妹の出自を知ることとなる。
     信じがたい話であったが、膝丸の話が本当であれば、いろいろなことの辻褄が合った。全てを忘れたはずの妹がコロンに固執するのもだし、源の兄弟がそろいもそろって妹に入れ込んでいた理由もだ。唯一説明がつかないのは、髭切が妹に短刀を持たせ、自ら殺されるのを願ったこと(状況的にそうとしか思えない)だが、妹が正気に戻らない限り真相はわからないし、わからなくてもいいことであった。
    「柿を剥いてきてくれ。あと茶も頼む」
     妹のなんで攻撃をかわすため女中に柿を渡すも、今日は虫の居所が悪いのか、いつも以上にしつこく絡んできて俺の腕にべったりとくっつく。
    「かしこまりました若様」
     女中は家から一番の古株を連れてきた。俺が生まれるより前から家にいるので、妹のこともよく知っている。ただよく知っているが故に、頭がおかしくなった姿を見るのは辛いのだろう。今にも泣きだしそうな顔をして家の中に引っ込んでいった。……まいったな、あれでは当分茶が出てこない。
    「ねえお兄様、ちゃんと聞いてる?」
    「聞いている」
    「うそ! お兄様の嘘つき」
    「よくわかってるじゃないか」
    「お兄様の馬鹿!」
    「それよりいいかげん離れろ。みっともないぞ」
     腕に引っ付いたままの妹に離れるように言うが、妹は瞬きを繰り返し、大きな声を出して笑った。
    「お兄様らしくないこと言うのね。他人がなんて言うかなんか、どうでもいいじゃない!」

     ──他人がなんて言うかなんかどうでもいい。違いますか?

     意識が過去に引っ張られる。大包平に感化され、兄らしいことをしようとした日。玄関で草履を履いている最中の妹に話しかけ、噂を助長するだけだから髭切に会いに行くのはやめろと注意した。
     けれど妹は少しも動じることなく冷ややかな目で俺を見、他人がなんて言うかなんかどうでもいいと、俺が妹に伝え続けてきた言葉を口にした。俺は何も言い返せず、妹を見送った。

    「そうか」
    「どうしたのお兄様?」
    「そうだったのか」
     十年かかってようやくわかった。俺は大包平の言葉に感化されたのではない、八丁の言葉に突き動かされたのだ。俺は、本当はこう告げたかったのだ。
    「他の男の所に行くな」
     目の前の妹はぽかんとしている。けれど思い出の中の妹は、草履を脱ぎ俺の元へ戻ってくる。

     ──他人がなんて言うかなんかどうでもいい。違いますか?

     妹が俺に向かって微笑む。髭切に見せる飾らない笑顔で、膝丸を見る時と同じ熱のこもった視線で。

     ──貴方を愛しています。




    【バットED 壺中の天(鶯丸)】

     妹を囲う箱庭を手に入れ、彼の長年の願いは叶った。愛しい人はもう他の男の元へ行くことはない。義理の兄との結末を見た後は、実の兄との結末を見てみよう。既に見た人は最大の謎を解くため膝丸編へ。



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     あの子を一目見たその時から、愛しいと思った。弟以外でそんな感情を抱くのは、あの子が初めてだった。愛しい愛しい、僕の妹。

     僕は父さんと違って大切なものを手放したりなんかしない。だって手放せば、息ができなくなるじゃないか。



     突然の通り雨にやられ、彼女の家に寄ってから叔母さんの家に行った日。叔母さんは全てを白状した。それまで下手に出ていた僕が、急に突き放したからだろう。
    「貴方はもう源家の人間じゃない。源家のことは僕が決める」
     あの子を侮辱する言葉の数々に、堪忍袋の緒が切れた。弟は僕より理性的だから堪えていたけど、本当は僕以上に腸が煮えくり返っていたはずだ。
    「違います、源家のことは貴方の御父上が決めることです!」
    「父さんが貴方に逆らえないのなら、僕が本来継ぐべきだった爵位を返してもらう」
     十四しか年の違わない義理の父親には、僕なりに敬意を払ってきたつもりだ。彼が十近く年が上の母さんと再婚してくれたおかげで、弟は家に帰ってこられた。元々爵位など僕にとってはどうでもいいものだったし、あの時の恩を思えば、少しも惜しくなかった。けれどこれ以上僕の大切な子が蔑ろにされるのならば、僕は彼を当主の座から退ける。

     僕はそれだけ言うと弟を連れて帰ろうとしたが、叔母さんが必死の形相で引き止め、婚約に反対する本当の理由を言うと告げた。
     叔母さんは使用人に人払いを命じ、さらに自分の目で応接間の外に誰もいないことを確認してから、話し始めた。
    「私は結婚前に、娘を産みました。……夫との子ではありません」
     気が立っていた僕もこれには怒りを忘れてびっくりした。まさか自分の叔母がという思いと、何故今その話をするんだという思いで、ただただ驚いた。
     生前の祖父の性格を思うと勘当されなかったのが不思議なくらいだが、周りには静養のためだと嘘を吐き、叔母さんは腹が目立つ前に神戸の別荘に籠り女児を産んだ。女児は別荘の管理人夫婦に預けられ、彼らの子として育てられることになった。

    「私もあの頃はまだ若い娘でしたから、子供のことは父に任せきりで……。娘は生まれつき右手の中指と薬指が動きませんでしたが、それを除けば至って健康だと聞いておりました」
     管理人夫婦には、養育費という名目の口止め料を毎年払っていた。祖父が亡くなると養育費の支払いは叔母さんが行うようになったが、叔母さんは管理人たちの報告に疑問を持つようになり、娘を連れてくるよう命じた。
     連れてこられた娘は叔母さんではなく管理人に似ており、右手の中指と薬指が動かないのは本当だったが、手を引っ掴んで裏返すと、指の根元に刃物で切ったような真新しい傷跡があった。
     手紙でしかやり取りしないのをいいことに、管理人夫婦は叔母さんの子と偽って自分たちの子供を育てていたのだ。

    「叔母上の子が彼女だと?」
     弟が叔母さんに尋ねる。右手の中指と薬指が動かないと聞き、弟も僕と同じことを思ったようだ。叔母さんは弟の問いに対し何も言わなかったが、否定もしなかった。
    「つまりは過去の過ちを知られたくないって身勝手な理由で、彼女との結婚に反対したってこと?」
    「兄者」
    「お前は誰の味方?」
    「短気を起こさないでくれ。……叔母上のご事情は理解したが、源家は彼女の家の援助なしには立ち行かないと叔母上もご存知だろう」
     なおも膝丸は説得を続けようとする。一人だけ落ち着き払っているのが気に食わなくて、僕は頬を膨らましそっぽを向いた。
    「髭切さんのせいじゃない!」
    「僕?」
     しかし叔母さんがいきなり癇癪を起こし、原因は僕にあると言い出した。もちろん心当たりなんてなく、すっとんきょうな声が出たが、叔母さんが次に叫んだ言葉で血の気が失せた。
    「あの娘から甘い匂いがするって、貴方が言うから! だから気づいてしまったんじゃないの!」

     昔、学校に通い始めて間もない頃だ。僕だけ叔母さんの家に招かれたことがあった。膝丸はまだ大人の手が必要な年頃で、それに叔母さんは膝丸より父親似の僕の方を可愛がっていたから、それ自体は不思議なことではないけれど。
     彼女はその日、自分から甘い匂いはするかと聞いてきた。しないと言えば、そうでしょうねと笑った。
    「私もお父様やお兄様からはしても、叔父様からはしなかった。血が離れすぎているんでしょう」
     叔母さんは僕に、源家の人間の特殊な体質について教えてくれた。叔母さん曰く、源家の者は体から甘い花の香りがするのだという。けれど匂いを感じ取れるのは、同じ源の血を引く者だけであり、それも血の近しい者しか駄目なのだと彼女は言った。
    「父さんや弟からそんな匂いはしないよ」
    「せっかちね髭切さん。この話には続きがあるの。匂いはね、異性間でしかしないのよ」
     叔母さんはそこで急に深刻な顔になって、僕に顔を近づけた。やはり彼女から花の匂いはしなかった。
    「甘い香りがしたとしても、決して惑わされないで。それは阿片の……人を狂わす恐ろしい毒の匂いなの」
     僕はわかったと頷きながら、内心はコロンも付けていないのに人から花の匂いがするわけないと思ったのだが……。

    「あの子は、私とお兄様の間に生まれた子です!」

     あの子を一目見たその時から、愛しいと思った。弟以外でそんな感情を抱くのは、あの子が初めてだった。愛しい愛しい、僕の妹。愛しいと思ったのは血の繋がった妹だったからか。



     父さんが死んだ時、人目を気にせず棺にすがりつき、声を上げて泣いたのは、母さんではなく叔母さんだった。仲がいい、いや良すぎる兄妹。叔母さんの証言を裏付ける出来事を、この目でいくつも見てきた。
     それでも確証を得たくて探偵に神戸の乳児院を調べさせれば、二十年ちょっと前に右手の指が動かない小さな女の子が乳児院の前に捨てられ、裕福な商家に引き取られたとわかった。そしてその商家というのが、彼女が実父母だと思っている夫婦であった。
     探偵からの報告書を弟に渡すと、僕は弟に背を向け煙草に火を点ける。今は弟の部屋にいるのだが、出窓からはサンルームがよく見えた。最近は友子がサンルームを使うことが多いけど、思い出すのは彼女と弟が並んでいる姿だ。
    「これは僕とお前、二人きりの秘密だよ」
     報告書を読み終わった頃を見計らい、弟に声をかける。顔は見えないが、どんな顔をしているかは容易に想像できた。
    「僕たちは叔母さんから何も聞かなかった。そうすれば全て上手くいく」
    「何を言っているんだ兄者」
    「叔母さんが父さんに告げ口するかもしれないけど、僕が上手くやっておく。お前が言ったように源は彼女の家の援助がないと成り立たないし、父さんは源子爵であることにこだわっている。爵位の件をちらつかせれば、黙るさ。母さんもお前たちを結婚させようと躍起になっているし。……現金だよね。あの子のこと散々侮辱しておきながら、仲の悪い叔母さんが反対し始めたら自分は賛成に回るだなんて」
    「兄者!」
     後ろから肩を掴まれ体を向かされて、弟と目が合う。僕と弟の目の高さはあまり変わらない。僕がいない間に、この子は僕と同じ高さまで成長した。

    「彼女は……俺の姉だ」
    「言わなければ誰もわからない。お前はあの子のこと、愛しているんだろう?」
     どうか僕に同調してほしいと願ったけど、やはり僕が思ったとおりの行動を膝丸は取る。
    「愛していれば何をしてもいいというのか!? 彼女のことを思えば、何も告げずに源家から遠ざけるべきだろう!」
     弟は部屋を飛び出て、その足で彼女に電話をした。父さんには彼女から婚約破棄の了承をもらったの一点張りで、何故破棄したいと思ったかの理由は告げず。もちろん父さんが納得するはずはなく、嘘でも彼女に非があることにすればいいのに、そうできないのは膝丸らしい。

    「……様」


    「……那様!」


    「旦那様!」


     大声で呼ばれ、現実に引き戻された。友子が眦を上げて僕を見下ろしている。ノックくらいしてよと言うと、しましたとこれまた大声で返される。このまま揺り椅子に座ったままだと更に怒らせそうで、面倒だったが椅子から降りた。
    「お母様から聞きました! 清和男爵夫人が膝丸さんたちの結婚に反対しているそうじゃないですか!」
    「今更何?」
    「今更聞かされた私の身になってください! 私は貴方の妻なんですよ!?」
    「ありゃ?」
     そんなはずはと思い記憶を辿ってみるが、友子と会話した覚えはあっても会話の内容までは覚えていない。ただ友子の様子からして、きっと言っていないのだろう。
    「うん、まあそういうことだから」
     叔母さんの件より、今は膝丸の説得の方が重要だ。あの夜涙を流したあの子との約束を果たすためにも、何としても膝丸を説得しなければならない。しかしいつもは僕に従順なくせに、今回ばかりは頑固でいけない。はっきりいってお手上げだった。

    「またそうやって私だけのけ者にして……。男爵夫人のことは父にお願いしてみましょう。父もあの子のことはよくできた娘だと褒めていましたから、きっと力になってくれます」
    「そのよくできた子に、君は何て言ったの?」
     え? と声を上げ、疑問符を頭に浮かべている姿に怒りが湧く。執事から友子があの子を一方的に怒鳴りつけ、家から追い出したことは聞いている。執事が彼女の様子を伝えてくるのは初めてだから、彼もただならぬ雰囲気を感じたのだろう。
    「平民だと馬鹿にした? それとも指が動かないことを? ねえ、何て言って僕の大事な妹を傷つけた?」
     友子が僕の言っていることを正確に理解したかはわからないが、僕の怒りは確実に伝わっている。部屋に乗り込んできた時の勢いが嘘のように、急に縮こまってしまった。だが、生来の気の強さからか、黙っているだけでは終わらなかった。
    「本当に貴方は、膝丸さんとあの子のことになると人が変わりますね!」
     それだけ吐き捨てると、そそくさと部屋から出ていった。僕は溜息を吐き、また椅子に座り直した。視線の先には、立てかけた軍刀がある。
    「僕にだって譲れないものはあるんだよね」
     誰に言うわけでもなく、独り零した。



     弟の説得に手間取っている間に、友子が死んだ。僕は後妻として彼女をもらうことにした。弟の側にいる彼女が好きだったけど、僕でも膝丸でもない男の元へ去ってしまうのは耐えがたかった。
     彼女の父親は当初断るつもりだったようだが、彼女の意思を聞き心を決めたのだろう。僕たちは正式に婚約者となった。ただ、喪中であったり、小烏家の出方を見たり、世間がまだ友子の死を騒いでいたり。そういった諸々の事情もあって、世間に公表するのはしばらく控えることにした。
     事件後僕は軍の命で神戸に異動となり、彼女と離れて暮らすことになった。後々は東京の実家に戻るつもりだが(彼女は膝丸の側にいるために僕と結婚するのだから当然のことだ)、しばらくは神戸暮らしになるかもしれない。僕は神戸の地に慣れさせるために、彼女を神戸に招いた。
     だが、彼女の体が弱いことを完全に失念していた。半日の長旅の後駅の待合室に現れた彼女は、血の気のない顔をしていた。彼女を見た第一声が再会の挨拶ではなく、大丈夫? だったのは仕方がない。

    「列車で酔った? それとも貧血?」
     今にも倒れてしまいそうな彼女の手を取れば、彼女の体がビクンと跳ねる。あまりに体温が違いすぎて驚いたのだろう。いくら冬といえど彼女の手は冷え切っていた。
    「平気、です」
    「そんな青い顔で言われても説得力ないよ。ほら座って」
     彼女を無理矢理ベンチに座らせると、連れていた女中に駅員から白湯をもらってくるよう命じる。せっかく神戸に来たのだから、僕が借りている家ではなく別荘に招待することにしているが、別荘に行くには車で一時間ほど走らなければならない。今の彼女の状態では耐えられそうになかった。
    「横になる?」
    「いえ、結構です」
    「そう言うと思った」
     日が沈んでだいぶ経つとはいえ、まだ駅には人がいる。人目を気にする彼女が、横になるとは思えなかった。僕はせめてもと自分の着ていた外套を脱ぎ、彼女にかけた。

    「……髭切さん」
    「なあに?」
     背を丸め俯いている彼女の表情はよくわからない。
    「お父様が順番が逆になってもいいと」
     順番? と思わずオウム返しする。順番と言われても、何を指しているのかがわからない。長い沈黙の後、彼女はやはり小さな声で僕の疑問に答えた。
    「源家の跡継ぎを残すことが何よりも重要だと」
    「ありゃあ」
     ここまで言われれば、彼女が父親から何を言われたのか想像できる。僕たちが結婚するのはいつになるかまだ見通せないし、結婚してからすぐ授かったとしても男の子でなければ意味がない。彼女の父親が急ぐ気持ちもわからなくはないが、僕との結婚を渋っていたくせに変わり身が早すぎはしないか。
    「大丈夫大丈夫。僕にとって、君はいつまでも妹だよ。変な気は起こさないから」
     僕たちが結婚という手段を選んだのは、僕は彼女を繋ぎ止めるため。彼女は弟の側にいるため。呼び方が『お兄様』から『髭切さん』に変わり、義理の兄から婚約者へ立場が変わろうと、僕は彼女を妹だと思っている。

     けれど、彼女の声は晴れなかった。
    「ですが、いつまでも避けて通れはしません」
    「子供は授かりものなんだから、授からなかったと白を切ればいい」
    「子供ができなければ、子爵様たちに離縁を迫られるかもしれません」
    「妾を作れとは言われそうだけど、さすがに離縁はないんじゃないかなぁ」
     そうは言いつつも、鬼の首を取ったかのようにやいのやいの言う母さんの姿が頭に浮かんだ。僕がいつも彼女を守られるわけでないし、やはり子供がいた方が都合はいい。
    「あ、そうだ」
     不意に名案が浮かび、手を叩く。
    「弟との子を、僕の子ということにすればいい」
     源の血を残さないといけないのなら、何も僕である必要はない。それに僕は自分の子供より、弟と彼女の子供が欲しかった。しかし、彼女は僕の提案に乗ってこなかった。
    「本気、ですか?」
    「うん」
     彼女はまだ何か言いたそうにしていたが、前方から人がやって来る気配がして、僕は彼女から視線を外した。湯呑を持った女中が、こちらに向かって歩いてきているところだった。

     白湯を飲み少しは体が温まったようだが、彼女は尚も調子が悪そうにしていた。しかしこのまま寒い待合室にいるよりは、早く別荘で休んだ方がいいと判断し車に乗せた。車に乗っている間も彼女はぐったりと女中にもたれかかり、別荘の管理人に夜食を用意させていたが、車から直接客室のベッドに運び休ませることにした。
     一人で食事を取った後、彼女は膝丸から嫌われていると勘違いしているのだから、僕の提案は奇妙に思えただろうと気づく(そもそも生真面目な彼女が不貞が前提の提案をのむはずがないかとも思った)。だが、彼女の女中が部屋を訪ねてきたことで、僕はもっと大きな失敗を犯したのだと知る。
    「膝丸が?」
     僕はあの子の体調について話しに来たと思ったのだが、女中は神戸に向かう列車の中で膝丸とあの子を引き合わせたと白状した。
    「お嬢様がお可哀想でつい……。申し訳ありません」
    「ま、別にそれはいいんだけどね。膝丸はあの子に何を話したの?」
    「私はすぐその場を離れましたので、お二人が何を話されていたのかはわかりません。ですが、先ほどお嬢様の様子を見に行った際に……青酸カリを買ってきてほしいと」
     膝丸恋しさに自殺するつもりではないかと、女中の声は震えていた。僕はそっと目を閉じ思う。

    「(僕を試したか)」
     あの子は、列車の中で彼女に真実を教えたのだろう。そして真実を知った彼女は僕を試し、僕の答えは彼女の倫理観からは外れていた。
    「あの子は今寝ている?」
     女中は思った反応が返ってこない僕に戸惑いつつも、はいと返事をする。
    「もう少し詳しく話を聞きたいから、お茶を持ってこさせよう。そこに座って」
     僕は立ち上がると、自分の前の空いたソファを指さす。女中は自分が用意しようと僕の後を追ったが、座っておいてとにっこりと微笑めば、何度も頭を下げソファにおずおずと座った。僕はそれを見届けてから、管理人を呼びに行った。



     用意した珈琲は女性が飲むには苦いので、角砂糖を三つ入れておいた。僕が自分の珈琲に口をつけると、女中もとても甘くなった珈琲を一口飲んだ。
    「膝丸はいつ君に逢引の手筈を頼んだ?」
     まずは起きた順に話を聞くことにした。女中は出発の前日に膝丸が人目を忍んで訪ねてきたことや、兄者には決して言わないでくれと念を押されたこと(さすがに言いにくそうにしていた)を話す。そして膝丸が去った後、彼女が黙ってずっと外の景色を眺めていたとも。僕は軽い相槌を打ちながら彼女の話を聞き、一通り喋り終わった後に沈黙が訪れたので、昔話をして時間を潰すことにした。
    「僕の母と実の父は仲が悪くてね」
     脈絡のない話に困惑しているだろうが、彼女の立場上、僕の話を遮ることはできない。
    「顔を合わせれば口論し、次第に顔を合わせることすらしなくなった。そんな生活に嫌気が差したんだろう、母さんは父さんとの離縁を決意し家を出た。膝丸を連れてね」
     
     全ては母さんの独断だった。母さんの実家を継いだ叔父さんには子供がおらず、膝丸を叔父さんの養子にして家を継がせるつもりだったようだが、父さんも僕も、膝丸本人でさえ知らされていなかった。
     母さんの実家を訪ねても弟に会うことすらできず、父さんは膝丸を取り返そうと躍起になったが、あの人は昔から膝丸に冷たく、信用できなかった。兄者兄者と僕の後を付いてまわっていた弟が連れ去られたのに、僕はただ黙って見守るしかなかった。
    「あの子は空気のようにいて当たり前の存在だった。けど僕はその空気を失い、どう息をすればいいのかわからなくなった。息を吸っても肺に酸素が届かず、息を吐いても淀んだ重たいものは僕の体から出ていかない。僕はこのまま息ができなくなって死ぬんだと思った」
     あの悪夢のような三年間、僕が生きながらえたのは彼女がいてくれたおかげだ。彼女が側にいる時だけ、僕は息の仕方を思い出せた。

     自分だって不安で仕方なかっただろうに、彼女は僕を励ますため度々家にやって来た。お兄様しっかりしてください、膝丸さんも悲しまれます。そんな風に言われても僕は自分の内に閉じこもって返事もろくにせず、けれど彼女は諦めることなく僕の側にいてくれた。
     膝丸がいなくなって一月ほどした頃だ。時間になれば彼女が帰ってしまうことに耐え切れなくなり、帰ろうと背を向けた彼女を後ろから抱き締めた。
    「彼女が十七、僕が十八の時だ。僕たちはもうじゃれあいで抱きついて許される年齢ではなかったけれど、彼女を引き止めるにはそれしか思いつかなかった」

     ──僕が膝丸の代わりにフルートを教えてあげる。

     ──だから毎日来て。僕に息の仕方を思い出させて。

    「それまでも彼女からは甘い匂いがしていたけど、この時はとびっきり甘い匂いがした。コロンをどんなに濃くしたって比にならないくらい濃密なのに、嗅げば心が安らいだ。叔母さんの話を聞いた時、僕が膝丸ほど驚かなかったのは、多分あの時の経験があったからなんだろうね」
     あの三年間、僕は毎日のように彼女からする阿片の匂いを吸い続けた。その結果僕は骨の髄まで阿片にやられて、阿片なしでは生きられなくなった。

     そこで船を漕いでいた女中が、ガタンと音を立てソファから崩れ落ちた。彼女が持っていたカップも一緒に落ち、白い絨毯に黒いシミが広がっていく。味が誤魔化しやすいと思って珈琲にしたが、お茶の方が後始末は楽だったかもしれない。
     もう話を聞く相手はいないので部屋を出た。台所に行き管理人からスキットルを受け取ると、二階にある彼女の部屋へ向かう。女中のことは既に話をつけてある。
     彼女がいる部屋は二階の一番端の客室。乳白色の扉の前に着くと、中から風の吹き込むような音が聞こえ、僕はノックもなしに扉を乱暴に開けた。
    「女中が戻って来ないので察したのはお見事だったんだけどね」
     扉を開けると、寝ているはずの彼女が街着姿で窓の側に立っていた。せっかく暖炉に火を点けているのに、窓を全開にしているから部屋の空気が冷たくなっている。
    「そもそも女中に青酸カリを頼むのは迂闊だよ。あの女中は主人思いで、おしゃべりだ。周りを信用しすぎるところとか、本当に君は箱入りのお姫様だよね」
     僕が部屋の中に足を踏み入れると、彼女は窓の外を見下ろした。窓から逃げるつもりだったようだが、木登りもろくにしたことがない彼女には無理だ。

    「僕にとってたいていのことはどうでもいいし、大らかにゆったりと過ごすのが一番だと思っている」
     一歩、また一歩と彼女に近づいていく。
    「でも君と膝丸のことだけは譲れない」
    「貴方は……」
     腕を伸ばせば届くほどの距離まで詰めたところで、ようやく彼女が口を開く。もっと怯えているかと思ったが、意外と声はしっかりしていた。
    「全てをご存知なのでしょう?」
    「全てって?」
    「私が、先代子爵と清和男爵夫人の間の子だと」
    「それがどうしたの?」
    「どうしたのって……。私は貴方の実の妹で!」
    「君は愛する男の側にいるため、他の男に抱かれる決意をした。僕は妹が遠くに行ってしまわないように、結婚という形で繋ぎ止めようとした。どちらも正気の人間がすることではないね」

     膝丸、お前のすることは全部裏目に出るね。お前さえ黙っていれば、僕だってこんなことしなくてすんだのに。

     僕はズボンの後ろのポケットからスキットルを取り出し、ぬるくなった珈琲を口に含んだ。そして油断している彼女の手を引き、そのまま口付けた。暴れられる前に掴んだ手に力を込め抵抗を封じ、口付けをより深くする。
    「(甘い……)」
     水筒を開けた時には、確かに珈琲の香りが漂っていたのに、今は花の匂いしかしない。甘い花の香りは阿片の香りであり、僕の妹である証だ。
     口の中の珈琲がなくなって唇を離すと、彼女は僕に向かって倒れてきた。その瞼は閉じ、静かな寝息が聞こえてくる。



     神戸の別荘の地下には座敷牢がある。管理人から聞いた話では、叔母さんも一時期この座敷牢で生活していたらしい。お腹が目立ち始める前に座敷牢に入り、座敷牢で彼女を産んだというのだけれど、何故父さんは妹を座敷牢から出したのだろう。結婚後も妹への未練を断ち切れず、孕ませるほどに愛していたというなら、牢に入れたまま出さねば良かったのに。

     座敷牢の入り口は、管理人の住む別棟の台所にあった。普段はゴザの下に隠されているが、ゴザを取り重い石の蓋を外せば、石造りの暗い階段が現れる。地下だから当然電気は通っておらず、階段を下りるにはランプが必要だ。ただ彼女の牢の前まで行けば、牢の天井付近に設けられた小さな格子窓から光が差し込み、多少マシになる。
    「おはよう」
    「……」
    「ありゃ、ご飯食べなかったの?」
    「……」
     彼女を隠して今日で一週間になるが、その間食事は僕が運んだ。しかし彼女は食事に手をつけず、頑なに無言を貫く。牢の鍵を開け、文机の上に食事を乗せた盆を置いたが、彼女は僕を視界に入れることすら拒んだ。
    「さすがの僕でも傷つくなぁ。……また無理矢理食べさせないと駄目?」
     そう言うや否や、そっぽを向いていた顔が僕を見る。ただし、彼女とは思えないほどおっかない顔で。口移しで食べさせたことを怒っているようだ。

     彼女はたおやかな女性だ。座敷牢に閉じ込めてしまえば、泣き崩れて出してほしいと懇願するか、泣きながらも受け入れて大人しくなるかのどちらかだと考えていた。けれど実際は違い、初めて見せる気の強い一面に驚く一方、僕や膝丸と同じ血が流れているのだからと納得もする。
     彼女の隣に座れば、即座に間を空けられた。しかし僕もすぐに間を詰め、彼女はまた逃げようとしたが、壁に阻まれ動けなくなる。
    「……変な……気は起こさないと言ったじゃないですか」
     一週間ぶりに声を出すので、出だしの声は掠れていた。けれど、僕を憎々しく思っているのはよく伝わってきた。
    「僕を置いて死のうとなんてするからだよ」
    「それもそうですが……!」
    「ああ、もしかしてキッスのこと?」
     監禁と比べれば口付けなんて大したことではないが、彼女は肩かけを強く握りしめる。何も知らない時は僕の子供を産むつもりでいたのに、口付け程度にこだわるとは思っていなかった。
    「君がご飯食べないから。そうでなきゃ僕だって妹にキッスしたりしないよ」
    「ええ、私は貴方の妹です!」
     僕は至って真面目な気持ちで答えたのだけれど、彼女は頭を抱えてヒステリックに叫んだ。

    「実の妹とどうして結婚しようと思ったんです!?」
    「それは」
    「おかしい、おかしいです! 貴方はおかしい!」
     僕の主張を聞こうとはせず、彼女はおかしいと繰り返す。取り乱す彼女をなだめる術が思い浮かばず、僕は仕方なく持ってきた新聞を広げ、彼女の前にかざした。気を取られて静かになった隙をつき、今日来た本当の用件を話す。
    「僕、君のお葬式に出るために東京に帰らないといけないんだ」
     目を見開く彼女がおかしくて、つい笑ってしまった。
    「ああ、文字を読むには暗いか。……ほら」
     彼女に新聞を持たせ、机に置いたランプで照らしてやる。そうすれば『行方不明の××家令嬢、水死体で発見される』と彼女の家の名が書かれた見出しが見えた。
     本当はこの前日の記事に、神戸に遊びに来ていた彼女が突如源家の別荘から消え、兵庫県警は身代金目当ての誘拐事件とにらんで捜査しているなんて書いてあったが、彼女には今日の記事だけで十分だったようだ。
     
     彼女は何度も何度も記事を読み返していたが、目の動きが止まり、新聞を持つ手が大げさなほどに震え出した。このままでは新聞が破けてしまうなと思っていたら、急に頭上からの光が消え、牢の中が一気に暗くなる。どうやら始まったようだ。格子窓を見れば板で覆われ、釘を打つ音がしている。
    「雨?」
     窓があった場所を見つめながら彼女がつぶやく。今までも雨の時は中に入り込まないように板で塞いでいたが、今日は雲一つない快晴だった。
    「じゃあ、いい子にして待っててね」
     ランプを持ったまま立ち上がると、彼女に向かい手を振った。そのまま牢の扉を開け出ていく僕を見て、彼女もようやくこれから起こることを悟り、慌てて立ち上がる。だが座りっぱなしの生活を一週間も続けていれば、足の筋肉は落ちてしまう。彼女は立つ前に均衡を崩し、前のめりに倒れた。
    「待って……待って、待って!! 行かないで!!」
     地下室に彼女の悲痛な叫び声が反響するが、入り口に蓋をしゴザで隠してしまえば何も聞こえなくなった。



     彼女の両親は、彼女の着物を着た遺体を自分の娘だと信じ込んでいた。最後に姿をと申し出たが、娘が可哀想だから遠慮してほしいと断られ、彼女の父親はお前がついていながらと僕の胸倉を掴み殴りかかろうとする。
     殴られるだけのことはしているから別に構わなかったけど、鶯丸が間に入り止めた。両親は娘の死に取り乱し、僕と話している最中もずっと泣いているぐらいだったのに、鶯丸は不気味なほど冷静だった。僕には及ばないけれど、彼が彼なりに妹へ愛情を注いでいたのは知っている。だから余計に不気味だった。
     ただ危惧すべきは、鶯丸ではなく膝丸だった。憔悴しきったあの子は一人で立ち上がることすらできず、式の間は僕がつきっきりで世話をした。参列者は婚約者を失った弟を憐れみ(彼女と僕の婚約は結局公表しないまま終わった)、気を強く持てと励ましの言葉を贈る。けれど礼儀正しい弟が礼を言う気力さえ失い、目を離したら自ら命を絶ってしまいそうで恐ろしかった。

     当初は式を済ませたら仕事を理由に神戸へ帰るつもりだったが、膝丸のことがあり東京を離れるのが難しかった。僕は人目を盗んでは、神戸の管理人に電話を入れた。管理人の言うことは毎回同じで、彼女は大人しくしているが食事はほとんど取っていないのだという。
    「今は食事を持って行っても、布団の中に潜ったまま出てきません」
    「食べているところは見ていないのか?」
    「声をかければ何らかの反応があるかもしれませんが」
    「……」
    「失礼いたしました」
     すぐに神戸に帰りたい。けれど膝丸から目が離せない。あの子は葬儀後、一日の大半をサンルームで過ごすようになり、彼女との思い出の場所でいつぞやの僕のように、死を願うようになった。
    「ねえ膝丸」
     だから僕は賭けに出る。本当はこんな言葉、弟にかけたくはないのだけれど。籐椅子に座る弟の前に膝をつき、頬に触れ、項垂れた顔を上げさせる。
    「この兄のために、もう半年ほど生きてはくれないか? その後はお前の好きにすればいい」
    「半年……」
    「僕はお前の帰りを三年待った」
     膝丸の目は長すぎると訴えていたが、あの三年の空虚な時間について、膝丸も思うところがあるのだろう。ついと目を逸らしてしまう。それをまた名を呼んで、僕の方を向かせた。
    「膝丸、お前まで僕を置いていくのか?」
     彼女みたいに。そう付け加えれば、膝丸の目からぽろりと涙が零れた。

    「兄者、俺はもう駄目だ」
    「お前は僕のために半年も待ってはくれないの?」
    「違うんだ兄者。俺はもう、俺でなくなってしまう」
     泣き虫だった幼い頃のように、膝丸はぽろぽろと涙を流す。だが膝丸、膝丸と何度も名を呼んで背をさすっても、昔のように泣き止んではくれない。
    「俺が、俺が彼女を追い詰めたのに……兄者と彼女を恨む俺がいる。兄者が俺から彼女を奪ったと、彼女は俺を残して勝手に死んだと。実の兄と姉を恨む俺がいるのだ」
     切ってくれと膝丸がつぶやく。指の先が真っ白になるほど、僕の服を強く握りしめる。
    「俺が鬼になってしまう前に、どうか俺を切ってくれ」
     前に彼女にも言ったが、僕の名は鬼を切った刀の名からつけられた。そして実際鬼を切ったこともある。僕が鬼退治は得意だからいいよと答えれば、膝丸は泣きながら笑った。
    「けどね、半年は待って。そうじゃないと不公平だ」
    「……承知した」
    「いい子。それと」
     頬を流れる涙を拭ってやってから言う。
    「もし堕ちる覚悟ができたなら、共に堕ちて鬼になろう」



     神戸に戻るとすぐ別荘に向かったが、座敷牢の窓に打ちつけた板が不自然に思えるほど汚れていた。
    「本当に開けていないんだろうな?」
     何か小細工をしたのではないかと疑い、管理人に探りを入れれば、真っ青な顔をして否定する。
    「言いつけはきちんと守りました。板も外していませんし、ランプは階段を下りる時しか使っていません。それにお嬢様の前に出る時は、きちんと布を被って……!」
    「……まあいいや」
     管理人の話を途中で遮り、僕は家の中に入った。座敷牢の入り口がある台所に行くと、ゴザが部屋の隅に追いやられ、入り口の石の蓋が丸見えになっていた。子供を見せろと言われ、慌てて娘の指を切ってごまかそうとする男だ。後で脅しておかないとなと思いながら階段を下った。
     階段はもちろんのこと、牢の前に来ても暗闇は続いていた。耳を澄ますが、何も聞こえない。光を最小限に抑えるためランプにかけていた布を取ると、地下は格段に明るくなった。ランプの光なんて電気と比べればたかが知れているけど、それでもあまりに暗い場所だったから、格段にと表現してもおかしくはない。

     牢の方に光を向ければ、まず折れた文机が見えて我が目を疑った。一度目を瞑ってから見直したが、やはり文机は折れている。そして折れた文机のすぐ側に、盛り上がった布団があった。逸る心を抑えつつ、牢の鍵を開ける。
    「いい子にしていた?」
     布団に向かってそう声をかければ、布がこすれる音がした。音がしてしばらくしてから白い手が布団から出、次に頭が出てきた。しかし出てきたと思えば、すぐに引っ込んでしまう。
    「僕の顔を見るのが、そんなに嫌?」
     布団の上から軽く叩いて訴えるが、眩しいと掠れた声がする。暗闇の中にいた彼女には、ランプの光でさえ強烈な光に思えるようだ。僕は彼女がいるのとは逆の隅にランプを置き、もう大丈夫だよと布団を叩く。すると恐る恐る彼女がまた顔を覗かせた。
     一目見てわかるほど、彼女はやつれていた。いつも身なりをきちんとしていた彼女が、日が高い時間にも関わらず、髪を垂らし寝間着姿のままだったので、余計にそう感じたのかもしれない。
     彼女が体を起こそうとするのを手助けするため、つい手が出た。手を払われるかなと少し不安になったが、彼女は僕の手を素直に受け入れた。

    「会いたかったよ」
     素直な気持ちを告げれば、僕をじっと見つめていた彼女が、急に泣き出した。ぽろぽろと涙を流して泣く姿が膝丸にそっくりで、愛しいと思う気持ちが更に強くなる。名前を呼び背をさするが、やはり彼女も泣き止まなかった。
    「姉弟そろって泣き虫だね」
    「もう……来ないのかと思った」
     しゃくりあげながらそう言い、子供のように目元を押さえて泣く。全ては僕の思惑どおりではあるけど、彼女が不憫だった。彼女が泣き止むまで、背をさすり続けた。
     ろくに食事を取っていないせいで弱っているのだろう。泣くだけ泣くと、彼女は壁に縋って眠そうに瞬きを繰り返した。僕は絶好の機会を逃すまいと、彼女の顔の横に手を突き、耳元に顔を寄せた。すると久しぶりにあの甘い阿片の匂いがし、ついつい顔が綻ぶ。
    「いい子にするって約束できるなら、ランプを置いていってあげる」
     そうささやくと、今にも閉じられそうだった瞼が開いた。
    「ちゃんとご飯食べてくれる?」
     しばらく間が空いた後、彼女の頭が小さく動く。
    「僕の言うこと、聞いてくれる?」
     今度は先ほどよりも早く彼女は頷いた。
    「半年、いい子でいられたら。窓の板も外してあげる」
    「半年……」
    「半年なんて、あの三年と比べればなんてことないだろう。約束できない?」
     彼女は必死になって首を振った。僕はいい子いい子と頭を撫でる。いい子はきちんと褒めてあげないといけないから。



     それから仕事が休みの週末に、別荘へ通う生活が始まった。夜遅くに別荘に着き、日曜は一日中彼女と牢の中で過ごした。平日は毎日管理人と連絡を取っており、僕がいなくてもちゃんと言いつけを守り、食事は取るし文机に乗って窓の板を外そうとはしないと報告を受けている。……文机に乗って跳んだとしても届かない位置に窓はあるのに、それすらわからなくなるほど彼女は追いつめられていたらしい。その後遺症は未だ尾を引き、ランプの明かりを得ても虚ろな目をしてぼんやりしていることが多い。
    「いい子にしていた?」
     彼女に会う時はまず始めにこう聞くのだが、彼女はこくりと小さく頷くだけだ。しかしいい子いい子と頭を撫でれば、薄らと笑みを浮かべる。そしてあと何日ですか? と僕に聞くのだった。
    「あと半月だよ」
     彼女が言っているのは、窓が開くまでの残りの日数についてだ。最初は悲しげに僕の言った日数をつぶやいていたけど、一月を切ってからは顔が綻ぶようになった。僕も悲しむ顔より嬉しそうに笑う顔の方が好きだから、笑う度にいい子と褒めてあげる。

     でも、そろそろ何かご褒美をあげてもいいかもしれない。窓を開けるのはできないけど、何か欲しい物くらい……。着物、宝石、花、お菓子。女性が好きそうな物を頭の中で挙げていくが、どれも今一つピンと来ない。どれをあげても喜んでくれそうだが、それは僕からの贈り物であるからであって、彼女が欲しい物ではない気がした。
    「何か欲しい物はない?」
     迷っていても仕方ないので、直接本人に聞くことにした。彼女はゆっくりと瞬きをし、欲しい物? と首を傾げる。僕が思う以上に神経の衰弱が進んでいるようで心配になったが、何でも買ってあげると言えば考える仕草を見せた。たっぷり時間を使って、それから彼女はフルートが欲しいと答えた。
    「フルートを吹いたところで助けは来ないよ」
     いくらフルートの音がよく通るとはいえ、別荘は町中から離れた場所に建っている。つい顔をしかめてしまったが彼女は怯えず、広げた自分の両手を見た。光見たさに壁を掻きむしり、ボロボロになっていた指は幾分かまともになったが、傷跡は完全にはなくなっていない。
    「指が……動かなくなります。貴方が、教えてくれたのに」
    「君にフルートを教えたのは膝丸だろう?」
     彼女は両手を見下ろしたままだったが、空気が震えたのがわかった。

    「君がフルートを吹く切欠を与えたのは僕で、流暢に吹けるようにまでしたのも僕だ。けど音楽は聞くだけだった君に、音の取り方から指の使い方まで重要な基礎を教えたのは膝丸だ」
     膝丸はよく彼女の前でフルートを吹いていた。彼女も膝丸の演奏を熱心に聞き、フルートは二人の仲を深める重要なきっかけとなった。そんな折、偶然譜面を手に入れた『鬼が来りて笛を吹く』が、一度も右手の中指と薬指を使わないことに気づき、彼女にフルートを勧めたのだ。
     今思えば、随分と無茶なことを言ったものだ。『鬼が来りて笛を吹く』は、素人が演奏する曲ではない。それを吹けるようになるまで練習した彼女の努力には脱帽するが、全ては膝丸が彼女に基礎を叩き込んだからだ。
    「君は練習しても右手が思うように動かなくて、僕はもうしなくていいよと何度も言おうとした。けど、それをあの子が止めた。あの子は決して匙を投げず、君に寄り添い続けた」
     彼女の手が僅かに震えている。僕はその手を握り、あえて今まで聞かなかったことを聞いた。

    「膝丸に会いたい?」
     彼女は僕の手を強く握り返したが、会いたくないと答えた。
    「どうして? 僕と結婚してでも、膝丸の側にいたかったんだろう?」
    「こんな……」
     途中で途切れた言葉の続きを僕は待った。急かしてしまいそうなのをじっと堪え、彼女が言うのをひたすら待つ。一時間にも二時間にも感じるほど長い時間をかけ、彼女がやっと口を開いた。
    「こんな酷い姿、あの人には見せられません」
    「君は綺麗だよ」
     お世辞でも何でもない、本当のことだ。外にいた頃と比べると今はぼんやりとしていることが多くなったけど、それはそれでまた危うげな魅力となっている。花の匂いを纏った彼女は、その存在こそが人を惹きつけ惑わせる阿片のようだった。
    「綺麗だよ、誰よりも何よりも君は綺麗だ。僕の言うことが信じられない?」
     それから僕が何を言おうと、彼女は膝丸には会えないと拒んだ。けれど虚ろだった瞳に光が宿るのを、僕は見逃さなかった。

     次の日、月曜日だけれど僕はまだ別荘に留まっていた。朝と昼とを別荘の本館で時間を潰し、日が暮れてから管理人のいる別棟へ行った。ちゃんと敷かれるようになったゴザを取り地下へ下りるが、昨日と違う点は全身を包む襤褸布を被っていることだ。布を被った状態でランプと盆を持って階段を下りるのは、なかなかに骨が折れた(あの横着な管理が本当に僕の言いつけを守っているのか、疑念が芽生える)。
     管理人から聞いたとおりに、まずランプを牢の外に置き、それから鍵を開けて中に入る。深く布を被っているので見えにくいが、彼女は敷いたままの布団の上に座っていた。机と布団との間には人一人座れる程度の空間があり、僕は机の前に座ってから盆を置こうとしたが、背中に硬い物が触れる感覚がした。
    「動かないでください」
     彼女の声だ。語尾が少し震えている。
    「鍵をください。私は本気です、言うとおりにしないと刺します」
     見えないので推測するしかないが、彼女が手にしているのはナイフだ。洋食が出た時にくすねたのだろう。布団の上に座っていたのは、ナイフを隠すためだった。
    「そんなのじゃ人は殺せないよ」
     そう言って被っていた襤褸布を取ると、背後で彼女が息を飲むのがわかった。外したのは頭の部分だけだが、僕と認識するには十分だ。

     ゆっくり振り返ると、彼女の手にはもう何もなかった。ナイフを握っていたはずの手は口を隠し、震えている。そこへ僕が懐から短刀を取り出すものだから、彼女は死を覚悟し、ぎゅっと目を瞑って体を丸めた。
     いくらランプの光があるといえど地下は薄暗く、短刀を鞘から抜くと、反射する光はないはずなのに眩しいまでにきらめく。僕は彼女の左手を取り、抜き身の短刀を握らせた。
    「逃げたいのなら、僕を刺してお逃げ」
     彼女が目を開いたところで、右手も添えさせ、刃を僕の喉元に向ける。
    「ここの喉仏の下の窪みの所。ここなら骨がないから、君の力でも突けるよ」
     刃を肌に当てさせると、彼女は嫌だ嫌だと首を振って逃げようとするが、それを上から押さえつける。
    「誰も君を責めないよ。僕を殺して膝丸のところにお逃げ」
    「嫌です、やめてください……いや、やめて、いや」
    「友子を殺したのは僕だ」
     僕の告白に彼女の動きがぴたりと止まった。大きく見開かれた目が、僕を見つめている。
    「君と結婚するのに友子が邪魔だった。そんな理由で僕は自分の妻を殺したんだよ。もっと言おうか? 君の女中を殺したのも僕だ。睡眠薬を飲ませた彼女に、君の着物を着せて川に放り込んだ」
     彼女の手がまた震え出したが、先ほどとは違う理由でだろう。

    「僕が正気に戻るのを待っているのなら無駄だよ? 君が知っている髭切は、あの三年の月日の間に死んだんだ」
     今ここにいるのは、彼女の優しい兄の皮を被った狂人だ。弟を奪われた悲しみから阿片に溺れ、阿片なしでは生きられなくなった馬鹿な男だ。僕は死にでもしない限り、愛しい彼女を逃がしてやれない。
     重ねていた手をそっと離し、僕は刀に貫かれるのを待った。彼女の中に怒りは確実に芽生えているはずなのに、切っ先が僕の肌を掠めたかと思えば手を引っ込め、柄を握り直し、また僕に突きつける。それを何度も繰り返すものだから、おかしくて笑ってしまった。
    「どうせ君がいなくなったら息ができなくなるんだ。いっそ一思いに殺して」
     僕が見ていたらやりにくいだろと思い、瞼を閉じる。



     ▷ しばらくして喉に鋭い痛みが走った。      6ページへ
     ▷ しばらくして彼女のか細い声が聞こえてきた。  23ページへ



     軍の機密である故鶯丸には言えなかったが、俺が上海へ行くのは阿片の密売人の監視のためだ。密売人の男は軍命を受け大陸で阿片を売っているが、横領の噂が絶えず、俺が監視役として派遣されることになった。
     俺は大学卒業後、兄者と同じ陸軍に入り、今年に入って兄者の部隊に配属された。俺に上海へ行くよう命じたのは兄者だった。
    「急な話だが半月後に、上海へ行ってもらいたい。僕も仕事の目途がつけば大陸に渡る」
    「……」
    「不服そうだね」
    「い、いえ! 自分は決してそのような……」
    「はははっ、その喋り方やめてよ。ここには僕とお前しかいないんだからさ」
     確かに執務室には俺と兄者しかいなかったが、軍務に当たっている間はあくまで上官と部下である。だが兄者はじっと俺を見つめ、無言の圧力をかけてくる。
    「何故兄者がこんな汚れ仕事をしなければならないんだ」
     根負けして普段どおりの喋り方に戻し、兄者には相応しくない仕事だと訴える。口を尖らす俺を見て、兄者は笑った。
    「お上の命令は絶対なんだよ。それに臨時でこれももらったしね」
     そう言って兄者が親指と人差し指で円を作ったので、面食らってしまった。意外? と聞かれ、素直に頷く。
     彼女の死を契機に彼女の家と縁が切れ、源家の借金は膨れていくばかりだ。しかし、汚れ仕事をしてまで兄者が家を守ろうとするとは思わなかった。俺は華族が華族たる振る舞いをできなくなったのならば、爵位を返上すべきだと思っているし、兄者も俺と同じ考えだと思っていた。
    「僕とお前と、あの子が生まれた家だ。何としても守らなければならない」
     兄者は椅子から立ち上がると机の前に立ち、俺にもっと近くに寄るよう言った。二歩ほど前に出たがもっとだと言われ、ようやく満足してもらえたのは兄者が俺に触れられる位置にまでなってからだ。革の手袋が俺の前髪を払い、弧を描く金の瞳と目が合う。
    「軍命よりも何よりも、お前が尊重しないといけないことはわかっている?」
    「ああ」
     十年経った今も、あの日の誓いに変わりはない。
    「俺は兄者を置いていかない。生涯兄者に仕えよう」

     彼女の草履が川から見つかったと知らせが来た時、俺は着の身着のまま神戸行の列車に乗り込んだ。突然やってきた俺に兄者は驚いていたが、それよりも憔悴しきった姿が目を引いた。
    「ちょうど良かった。彼女の女中、東京へ連れて帰ってくれないか? 弱り切って、一人では帰れそうにないんだ」
    「兄者」
    「お前からも彼女のお父さんによく言っておいてくれ。あの女中に落ち度はないよ」
    「兄者、俺を切ってくれ」
     なあに急にと兄者は苦笑するが、兄者はきっと俺の仕出かした罪を知っていた。
    「神戸に向かう列車の中で、彼女に姉弟であることを告げた。俺が彼女を追い詰めた。俺が彼女を殺した! 兄者、俺を切ってくれ」
    「やだ」
    「頼む」
    「やだ」
     兄者に腕を引かれ抱き寄せられたかと思えば、しばらくすると涙混じりの声が聞こえた。
    「僕が、叔母さんに彼女の匂いの話をしなければ……けど、僕はいつそんな話をしたのかも覚えてなくて……。お前じゃない、お前は悪くない。僕が話さなければ……お前たちは今頃幸せになって……」
     そこで俺は兄者に切ってもらうことばかり考えて、まだ自分は泣いていないことに気づく。彼女を殺した俺に泣く資格はないのに、兄者につられ涙が込み上げてきて嗚咽が零れた。そんな俺を肯定するように、兄者は抱き締める力を更に強くした。
    「お前はどこにも行くな、僕を置いていくな」
    「……兄者の御心のままに」
     俺が兄者にできる唯一の罪滅ぼしはそれしかなかった。兄者に子供はいないため、父上たちはもしもの時を考え俺の入隊に反対したが、俺の心は決まっていた。



     兄者の命を受け、俺は上海へ渡った。大陸に行くのは初めてだったが、上海は俺の想像以上に栄えていた。東洋のパリと評されるだけあり、西洋風の建築物が並ぶ華やかな街で、悔しいが東京よりも洗練されていると言わざるをえない。俺に与えられた家は租界内の黄浦江に面した一軒家だったが、件の男と待ち合わせたのは租界の外の阿片窟でだった。
     租界の外は同じ上海とは思えないほど退廃していた。至る所に内戦の傷痕が残っており、日が暮れれば街路灯がないため真っ暗になる。特に男と待ち合わせた場所は場所が場所なだけに、その地域に近づくにつれ腐臭がし、道には乞食や横たわったまま微動だにしない者が多くいた。
    「ようこそ上海へ、源大尉」
     阿片窟は支那人向けの物だったが、特別に作られた個室に男はいた。軍の中にはこの男を阿片王と呼ぶ者もいるが、支那の民族衣装を着ている以外は、取り立てて特徴のない中年の男である。男は俺の顔を見ると、貴方のような綺麗な顔では密売人はできませんよと気味の悪い笑みを浮かべた。
     
     表向き俺の仕事は男に軍の命を伝え、男から阿片の販売状況の報告を受けることになっている。通訳代わりに連れてきた部下を通し、男から阿片の栽培状況や売れ行き等を聞く。冴えない風貌の男だが、軍人を前にしても怖気づくことなく、下手に出ながらも俺を値踏みする狡猾さを持っている。……この仕事、なかなか骨が折れそうだ。
     男は一通り話を終えると、二階に案内すると立ち上がった。二階と言われてもわからずにいたが、部下が男の腕を掴む。
    『ここに男はいるのか?』
    『……なるほど。せっかくの男前がもったいない』
    『いないんだな。だったらやめておけ、機嫌を損ねるだけだ』
    『そうは言わずに見ていってください。今日のために特別いいのを用意していますから。大尉が気に入らねば、貴方がもらえばいい』
    『……見るだけだぞ』
     二人は支那の言葉で会話し、部下は男の腕を離すと俺の後ろに付いた。
    「(誰が男色家だ)」
     俺にばれていないと思っているようだが、生憎上海に来るにあたり言語は学んできた。完璧に理解はできなくとも、ここが売春宿を兼ねていることくらいはわかった。

     女っ気がなくこの年まで独り身でいる俺のことを、世間が何と言っているかは心得ているつもりだ。だが、彼女以外の女に触れたいとは微塵も思わない。どれほどいい女を用意されようが、俺の気持ちは変わらない。もっとも、こんな阿片窟にいる女など高が知れているだろうが。
     二階に通されると、細い廊下の両隣に部屋が並び、戸は閉められていたが嬌声が漏れ聞こえてくる。俺の顔をちらちらと盗み見る部下と目が合えば、青い顔をして俯いてしまった。しかし阿片王と呼ばれるだけはあり、男は張りつけた笑みを崩さず、一番奥の部屋へと俺を案内した。
    「阿片の吸い過ぎで死んだ男が囲っていたそうなんですがね」
     男が戸を開けた部屋に入ると、造りは先ほどまでいた一階の部屋と変わりなかった。しかし目的が目的だけあり、部屋には寝台が置かれており、その上に白に金の刺繍が施された海派旗袍の女が座っていた。
    「どうです? 年は少々いっているが、楊貴妃も顔負けの美しさでしょう」
    「日本人か?」
    「おや、これは目敏い。ええ、彼女は日本人です。噂によると、とある華族の落とし子なのだとか」
    「これは大きく出たもんだ。おい、お前。名前を言ってみろ」
    「無駄ですよ。彼女は目と耳が不自由でして、意思の疎通ができません。ですが、悪いことばかりではありませんよ。人は不自由な部分を補うため、他の部分が発達するそうです。……阿片で気が狂った男が、最後まで彼女は手放そうとしなかった。清純そうな顔をしていますが、まあそういうことですよ」
    『俺に回せ』
    『それは大尉の返事を聞いてからだ』

     男と部下の会話は耳に入ってこなかった。淡い色の髪に、日本人離れした白い肌。伏せられた金色の瞳。十年前永遠に失ったはずの彼女が、そこにいた。心臓が高鳴る中、近づいて寝台の上に置かれた右手を取れば、彼女の体がびくりと震えた。
     目が見えないというのは本当らしく、上がった手の近くを見てはいるが、朧な目は焦点がずれている。そんな中、柔らかな手を握り締める。彼女は反応しなかったが、俺が諦めずに手を握り続けていると、彼女も手を握り返してきた。期待していた結果になるかは疑わしかったが、動いたのは親指と人差し指、それに小指だけ。中指と薬指は伸びたままだった。
    「いくらだ?」
    「お近づきの印ですから結構です」
     後ろに控えている男に聞くが、見当違いな答えが返ってくる。
    「彼女を身受けする。いくら払えばいい?」



     使用人は現地で雇ったので、彼女を連れて帰っても驚かなかった。ただこのことは他言無用と厳しく言いつけ、彼女を長椅子のある部屋に連れて行った。段差に何度も足を取られる彼女を見ると、隣に座り支えられる場所が良かった。
     彼女を座らせた後俺も隣に座れば、椅子が沈んだ感覚でわかったのだろう。俺の方に顔を向けた。だが、やはり視線が重なることはない。
     渋る店主を押し切り彼女を連れ帰りはしたが、俺はなおも信じきれずにいた。兄者によく似た風貌と動かない右の中指と薬指。彼女しかありえないが、謎が多すぎる。何故目と耳が不自由になったのか、何故死んだはずの彼女が上海にいるのか。他人の空似という可能性も排除できない。
    「君は――――なのか?」
    「……」
     彼女の名を口にするが、返答はない。ただ気配で喋ったことはわかるのか、ゆっくりと瞬きをし小首を傾げる。

     目が見えない、耳も聞こえない。あの阿片の密売人が言っていたとおり、これでは意思の疎通が取れない。盲人のため点字なるものがあるらしいが、具体的にどのようなものか俺は知らないし、彼女も点字の教育を受けているとは思えない。原始的ではあるが手のひらに文字を書いて伝えるしかないのだろうが、果たして手のひらの感覚だけで文字を認識できるものなのか。少なくとも俺は無理だ。
    「あの」
     鈴を転がすような声に、胸が熱くなる。夢の中で何度も聞いた彼女の声だった。
    「貴方は日本語がおわかりになりますか?」
     彼女はそう言って俺に左手を差し出す。
    「私の言葉がわかるなら、私の手を握ってください」
     見知らずの他人と握手をしようとする彼女に違和感を覚えたが、彼女は触れることでしか相手の意思を確認できないのだと思い出す。躊躇したものの、左手を握った。焦点の合わない彼女の目が、大きく見開かれる。

    「今度は右手を握ってもらえますか?」
     彼女は先ほどより早口になった。右手は膝の上に置かれたままだ。今までも彼女の左手を握った者はいたのかもしれないが、目の前に差し出されたから握ったに過ぎなかった。失望を何度も経験し、それでも期待せずにはいられない。俺は彼女の左手を一旦寝台の上に置き、右手を取った。
     日本語がわかる人間だと確証が取れると、彼女は飛びかからんばかりの勢いで俺にしがみついた。
    「私は――――と申します! 日本人です! 暴漢に襲われて、気づいたら見知らぬ土地におりました。私を日本に帰してください。父は東京で貿易商をしております、お礼は必ず父にさせます。どうかお助けください!」
     一気に捲くしたて、力があまり入らないはずの右手までもが、俺の手を痛いほど強く握りしめる。
    「後生ですから私を日本に帰してください! お願いいたします!」
    「待て、落ち着くんだ」
    「どうか、どうか!」
     制止の声をかけるが、彼女の興奮は収まらない。耳が聞こえないのだから声掛けは無駄だと気づくが、俺が落ち着かせる方法を思いつくまで彼女は待ってはくれなかった。
    「日本に婚約者がいるんです」
     彼女としては同情を引こうとしたのだろうが、俺には逆効果だった。

     彼女が日本に帰ったら一体どうなる? 兄者は未だ独り身だ。兄者との結婚の話が再燃するかもしれない。いや、鶯丸にも血の繋がりのことは言ってある。兄者との結婚はないが、それでも……。
    「(俺と彼女が結ばれることはない)」
     彼女の幸せを思い、身を引くことを決めた。けれど、それは彼女のいない日々の辛さを知らなかったからできたのだ。彼女を失ったあの日から、世界は色を失った。何を見聞きしても心は動かず、時間ができればサンルームに足を運び、在りし日の彼女に想いを馳せる。彼女の姿や声を思い出す度、失ったものの大きさを痛感した。
    「……せない」
     年上の美しい人、血の繋がった実の姉。禁忌を犯さないため、一度は遠ざけようとした。
    「どこにも行かせない。君は俺のものだ」
     彼女を長椅子に押し倒し、両手を頭の上で抑えつければ、全てを悟った彼女が涙を流した。金色の瞳から零れた涙は、こめかみを伝って落ちていく。可哀想だとは感じず、それどころか泣き顔に興奮した。
     衝動のまま流れ続ける涙に舌を這わせば、甘い花の匂いがした。白百合のように清楚な香り、俺からも同じ匂いがしているとは信じ難かった。



     一度踏み越えてしまえば、禁忌は大した足枷にならなかった。それからは毎夜彼女を抱いた。罪の意識は次第に麻痺していったが、その分酷い嫉妬心にかられた。
     彼女が泣いたのは初めて抱いた時だけで、後は抵抗らしい抵抗をせず、太ももに手をやれば自ら足を開く。行為に慣れた様子に、怒りが湧いた。そもそも、視覚と聴覚を失った今の彼女に、俺は俺として認識されていない。それなのに嫌がる素振りを見せないのは、俺に対する裏切りだった。
    「俺を慕っていたと、どの口が言うんだ?」
     甘い声を漏らす口に指をねじ込め、聞こえないとわかっていながら罵倒する。彼女は顔を歪めるも、俺がいつまでも指を抜かないと指に舌を這わせ、そのことが余計に俺を苛立たせた。
     だが、抱かないという選択肢はなかった。どんなに醜い嫉妬心に苛まれようと、それを凌駕する劣情。高嶺の花だと思っていた彼女が、自分の腕の中で乱れることへの高揚感。何物にも代え難かった。

     今日も仕事を終え、彼女を抱くために家に帰る。使用人に軍帽と外套を渡し、彼女のいる寝室へ向かおうとしたところで引き止められた。
    「女の人、今日は駄目です」
     日本語で会話でき、簡単な読み書きもできる女を雇ったが、それでも女の日本語はたどたどしく抑揚も日本人のそれとは違う。
    「お前に指図される謂れはない」
     盛りのついた猿だと暗に非難された気がし、更にそう非難されても仕方がないと自覚はあるので、言い返す言葉には棘がある。しかし女は、違う違うと両手を顔の前で振った。
    「女の人、病気」
     使用人はまだ何か言っていたが、俺は寝室に駆け込んだ。部屋に入れば彼女は扉に背を向け寝台の上で寝ていたが、海派旗袍を着た背中が殊更小さく見えた。
     昔から体が弱い人だった。季節の変わり目になると体調を崩し、貧血で倒れることも多かった。連日無体を働かれ、体が悲鳴を上げるのは当然のことだ。

     寝ている彼女の顔を覗き込むと、浅い呼吸を繰り返し大粒の汗を流している。枕元に落ちていた濡れた手ぬぐいで汗を拭うと、彼女が薄っすらと目を開けた。
    「膝丸さん……?」
     かすれた声で名を呼ばれ、息が止まるかと思った。だが、高熱で朦朧として懐かしい名前を口にしただけだと思い直す。彼女には源家の者特有の匂いについては話していない。俺が膝丸だとわかるはずがない。そう、わかるはずはないのだが……。
     安心したのも束の間、今度は強い罪悪感に襲われた。彼女は未だ俺を信頼してくれているのに、俺は一体何をしているのか。俺は、彼女の尊厳を踏みにじっている。居たたまれなくなり、俺は彼女の左手を取った。
    「はい、何でしょうか?」
     簡単ではあるが、共に暮らすうちに彼女と意思疎通する術を身につけた。左手に指で文字を書き、それを彼女が口にする。合っていれば右手を握り、間違っていれば左手を握る。彼女からの問いかけに対しては、右手を握れば『はい』で左手を握れば『いいえ』だ。
     左手に指をはわすと、彼女は横になったままだが手があるだろう方向を見、意識を集中させた。
    「は……ほ、……し……い……ま、……も……の……。……ほ、し、い、も、の。……『欲しい物』ですか?」
     合っていた文字を拾い、頭の中で単語に置き換えてから俺に聞く。俺は右手を握った。彼女のためではない、単に自分が罪の意識から逃れたいだけだとわかっているが、彼女が何でもいいんですか? と尋ねるので、俺は彼女の右手を握った。
    「フルート」
     聞き間違いかと思い、反応が返せなかった。彼女は苦笑いを零した。
    「フルート……やはり駄目ですよね」
     普段の彼女なら決して口にしなかっただろう、高熱が彼女を大胆にさせたようだ。しかし、耳が聞こえないのに何故フルートを……自分の都合のいいように考えてしまいそうになり、頭を振る。俺は右手と左手のどちらを握ろうか迷い、彼女が左手を引っ込めようとしたので、慌てて握った。
    「フルートを、買ってくださるんですか?」
     戸惑いの見える問いかけに俺は腹を決め、今度は右手を握った。

     翌日、部下に案内させ楽器店を訪れると、運がいいことにフルートが置いてあった。本音を言えば彼女が使っていた独逸の会社の物が良かったが、昨今の情勢を考えるとフルートが手に入っただけでもありがたい。
     楽器店を後にし、仕事に戻るため車に乗り込もうとしたところで背後から呼び止められた。俺に声をかけてきたのは、露天商の老人だった。洗練された上海の街並みに似つかわしくない異分子だが、不思議なことに俺は声をかけられるまで老人の存在に気づかなかった。だからか、部下が老人を追い払おうとするのを止め、老人の話を聞くことにした。
    「仏像を売っております。いかがですか? お悩みがあるのでしょう?」
     商品の大半は香が占めていたが、店主の右横に仏像が三体置かれていた。銅製の観音像で、大きさは七寸から八寸ほどだ。それらしいことを言って客の心を揺さぶり商品を買わせるのは商人のよく使う手法とわかっていながら、俺は真ん中に置かれた仏像に手を伸ばす。
     露店で売られているような仏像だ、近くで見ると造りの粗さが目につく。そのせいもあるのだろうが、想像していたよりもずっと重かったので、ちょっとした凶器だなと罰当たりなことを考えてしまった。けれど三体の中からこの仏像を選んだのは、柔和な笑みを浮かべる観音菩薩に、日本にいた頃の彼女の面影を見たからだ。
    「お安くしておきますよ」
     ふっかけてくるかと思いきや、子供の小遣い程度の値段で逆に怪しかったが、買わずに帰るという選択は既になく、俺は店主に金を払った。

     彼女が欲しがっていたフルートを買って帰ったのに、フルートではなく先に仏像を渡したのは、仏の導きだったのかもしれない。彼女の細い指が握らされた物の正体を確かめるため何度も行き来する。行き来する度、彼女の顔つきが少しずつ変わっていく。

    『想像していたよりもずっと重かったので、ちょっとした凶器だなと罰当たりなことを考えてしまった』

     本当に彼女が俺と同じように考えたかはわからない。だが俺は、そう考えている表情だと思い、彼女の表情に救いを見出した。俺は仏像を持っている彼女の手を誘導し、枕の横に仏像を置かせると、押し倒して無理やり抱いた。まだ熱の引いていない彼女は弱々しい抵抗を見せたが、仏像に手を伸ばすことはなかった。
     だが翌日、フルートを渡すと彼女に変化が見られた。今の彼女は右手が自由に使えないだけでなく、指を置く位置を見ることもできなければ、自分の奏でる音色を聞くこともできないのに、澄んだ音色であの異様な音階の不気味な曲を奏でた。そしてその晩、寝台で俺を待つ間、手探りで枕元にまだ仏像があるか探しているのを見かけたので、使用人には仏像を枕元から動かさないように言いつけた。

     彼女がフルートを吹き、俺がその晩に彼女を抱く度、彼女の手は枕元の仏像に向かうようになった。そして何度目かの夜でついに、彼女が仏像を握った。自分に覆いかぶさる下劣な男のこめかみを、彼女が銅像で殴りつける。男が倒れると、今度は銅像を振り上げて男の頭に何度も何度も……。
    「(すまない兄者)」
     薄れる意識の中、兄者に詫びる。俺は兄者との約束を守れなかった。けれど兄者、どうか俺を許してほしい。こうしなければ、俺は彼女を解放できない。



     弟が上海で女を囲っているらしい。周囲にはきつく口止めしていたようだが、人の口に戸は立てられない。あの子の直属の部下に問いただせば、噂は正しいと白状した。絶世の美女だが目と耳が不自由で、現地妻として囲っているに過ぎないと弁解していたが、僕にとってはどうでもいいことだ。
     膝丸の隣にあの子以外の女がいると思うと虫唾が走る。誘惑に負けた膝丸も許せないが、弟をたぶらかした女が何より許せない。僕は自らの手で女を殺すため、上海に渡った。上海に来て早々弟の家に案内しろと言った時には、弟の部下は震え上がっていたが構わず、道中死体の後始末について指示をした。
    「(前にもこんなことあったな)」
     弟の部下は車の中で待たせ、僕一人軍刀を手にし弟の家の前に立った時、昔のことを思い出す。愛しい妹のためにやったことだけど、結果的にその妹の命を奪うことになった。
    「……違うか」
     彼女のためにやったのではなく、僕は僕のためにやったのだ。昔も、今も。僕という人間は変わっていない。

     感傷的な気持ちを振り払い、玄関の戸を叩くが反応はない。しかし戸に耳をつけると中から物音が聞こえてくる。勘づかれたか? 僕は先ほどよりも強く、再度玄関の戸を叩いた。
     すると使用人と思われる中年の女が出てきたが、何故か土間に座り込んでいる。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、僕に何か伝えようとしているのだが、口からは意味のある言葉は出てこない。
     だが女の話を聞かなくとも、家の奥から漂ってくる血の臭いで何が起きたのか察しはついた。僕が来ると知り、膝丸が囲っている女を切ったのだ。そうに決まっているし、そうでないとおかしい。それなのに僕は早足で血の臭いのする奥の部屋へと急いだ。

     ──俺は兄者を置いていかない。生涯兄者に仕えよう。

     膝丸は僕に誓ったんだ。ずっと僕の側にいると、彼女のように僕を置いていかないと。しかし戸を開けた先にいたのは、頭から血を流し寝台の上に横たわる弟だった。
    「膝丸!!」
     駆け寄り、膝丸の体を抱きかかえるが、体は硬く、冷たくなっていた。それが何を意味するかはわかっているが、信じたくなくて膝丸の名を何度も呼ぶ。けれど膝丸は兄者と返してはくれない。意思の強い真っすぐな目は閉じられたままだ。
    「膝丸……膝丸、なんで……」
     不思議なことに涙は出なかった。彼女の時もそうだった。膝丸が神戸に来るまで、僕は泣けなかった。信じたくなくて、実はどこかで生きているのではないかと希望が捨てられなくて……。
    「お兄様?」
     彼女のことを思い出していたから、それで幻聴が聞こえたのだと思った。けれど花の匂いがした。血の臭いをかき消すほど強く、あの甘い阿片の匂いがした。恐る恐る声のした方を見れば、寝台の下に女が座っている。女の前には血で赤黒くなった銅像が転がっており、女の手も銅像と同じように赤かった。
     膝丸の仇を取らないといけないのに、体が動かない。女はゆっくりと顔を上げる。
    「――――」
     女は十年前に失った妹と同じ顔をしていた。目と耳が不自由だというのは本当らしく、僕の顔を見、僕が妹の名を呼んだというのに、髭切お兄様ではないのですか? と聞いてくる。

     膝丸の体を寝台に横たえると、僕は女の前に座り、女の手を取った。赤くなった手は、右手の中指と薬指だけが不自然に伸びている。何より、距離が近づいたことで、甘い匂いがより強烈になった。女の顔がくしゃりと歪む。
    「お兄様、お兄様!」
     女が……最愛の妹が、僕の胸にしがみついて泣く。
    「助けに来てくださったんですね」
    「……」
    「今までの人と違って、優しい方だったんです。でも、フルートが、フルートが……私……もう膝丸さん以外の人は嫌だったんです!」
     彼女の言うことがわからない。一体何があった? 何故彼女が生きている? 何故目が見えない? 耳が聞こえない? 何故、彼女が膝丸を殺した?
    「お兄様、膝丸さんは? 膝丸さんに会いたいです」
     もう何もわからない。ただ一つ言えることは……。



     なんて悪夢なんだ。夢ならば早く、覚めてくれ。



    【バットED 悪夢】

     とっても酷いバッドED。誰一人として救われない。フルートならば何でもいいというわけではないようだ。一つ前の選択肢に戻って鶯丸からフルートを受け取ろう。既に隠された真相にたどり着いた人は、髭切編へ。



     ▷ 髭切編へ      1ページへ
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    「お兄様」
     目を開ければ、彼女の手は下ろされ短刀は布団の上に落ちていた。目の前の状況が信じられずにいると、またお兄様と呼ばれ、彼女が胸にしがみついてくる。
    「お兄様、お兄様!」
    「何で」
     僕の胸で泣いている彼女が信じられなくて、思わず疑問詞が零れる。彼女は迷いはしても、最後は僕でなく膝丸を取ると思っていた。
    「息ができなかったのは、お兄様だけではありません」
    「……そう。そうだったんだね」
     僕の手は自然と彼女の背に回っていた。そしていつもの調子でいい子と口にしかけ、止めた。

     ──僕が膝丸の代わりにフルートを教えてあげる。

     ──だから毎日来て。僕に息の仕方を思い出させて。

     あの時、帰ろうとする彼女を抱きしめても、彼女は抵抗らしい抵抗をしなかった。腑抜けになった僕を憐れんだからだと思っていたが、本当はそうではなくて、彼女も帰りたくなかったのだ。僕に引き止められるのを待っていた。帰れば、また息ができなくなってしまうから。
    「馬鹿な子」
     僕と違って、阿片以外の方法があったろうに。助けを求めれば、優しい父母と妹思いの兄が救ってくれただろうに。
     彼女からは甘い花の匂いがする。甘ったるい阿片の匂い。きっと僕からも同じ匂いがしている。あの三年の間に、僕たちは互いに狂わし合っていたのだろう。堕ちて堕ちて、互いを鬼にしてしまった。



     俺は兄者の命を受け、神戸に来ていた。東京を発つ時には雨が降っていたが、半日かけやって来た神戸の地では雨は降っていなかった。それでも夏特有のじっとりとした空気に、不格好だと思いながらシャツの一番上のボタンを外した。
     昨日の晩、兄者から電話があり神戸の別荘に来るよう命じられた。まだ兄者と約束した半年は経っていないが、俺を憐れんでくれたのだろう。そして最後の思い出の地に神戸を選ばれた。確かに彼女が生まれ、彼女が命を絶った神戸は、俺たち兄弟が最後に過ごす場所として最もふさわしい気がする。
     あの日兄者に願った思いは、今も変わっていない。俺なんかのために兄者の手を煩わせてよいのかと悩みもしたが、俺の胸の内に溜まったこのどろどろとした醜いものは、兄者に切ってもらわねば消えぬと思う。

     改札口を出て待合室に行こうとしたところで、中年の男から膝丸様でしょうかと声をかけられた。そうだと答えれば男は別荘の管理人であることを告げ、車を用意しているので乗るように俺へ言った。叔母上の話でしかこの男のことを俺は知らないが、大柄な割には気が弱そうで、主人を騙して自分の子供を育てる輩だとは信じがたかった。
     車を走らせ、一時間ほどして別荘に着いた。山奥にあるとは聞いていたが、別荘の周りは森で囲まれ、他に建物らしい建物は見当たらない。人の目を避けるにはもってこいの場所だった。
    「髭切様は向かいの別棟でお待ちです」
    「別棟に?」
    「荷物は私が運んでおきますので」
     別棟といっても管理人家族が住んでいると思われるこぢんまりとした建物だ。何故そのような場所に兄者がいるのか疑問に思ったが、管理人は俺の荷物を持ちそそくさと消えてしまう。

     別棟に行くと、玄関で兄者が待っていた。
    「長旅ご苦労様」
     兄者の手には軍刀があった。俺はやっと別棟に呼び出された意味を知る。
    「お疲れのところ悪いけど、ちょっと付いてきてくれる? ああ、靴も持ってきて」
    「承知した」
     返事をした後になって靴が必要な理由が気になったが、兄者は振り返ることなく家の奥へと進んでいくので聞く暇はなく、俺は兄者の後を追う。玄関から真っ直ぐ進んでいけば、台所に行きついた。
    「それじゃあ行こうか」
     俺が来たのを確認すると、兄者が机の上に置いてあったランプに火を灯す。そしてランプを持って台所の隅に行き、床下へ下りていった。

     目の錯覚かと思ったが、近づいてみれば台所の隅に床が四角くくり抜かれた場所があり、石造りの階段が地下へと続いていた。靴が必要な理由がわかり、兄者は俺の気づかぬ間に靴を履いていた。
     初めは食糧庫を予想していたが、実際地下へ下りてみれば地上以上に空気がじっとりしており、食糧の保管には向かないとわかった。ではここは一体何のために造られたのか? その疑問はすぐに解消された。兄者の後に続き石畳の廊下を歩けば、木の格子が見えた。座敷牢だ。
     しかし驚くは、格子の向こうに人がいたことだ。女がいた。文机に向かっているため俺には背しか見えないが、兄者と同じ色の髪をしている。心臓が大きな音を立てて鳴った。
    「おっ、あったあった」
     兄者はポケットから鍵を取り出し、牢の扉を開けた。女がゆっくりと振り返る。
    「いい子にしていた?」
    「はい」
     兄者の問いかけにそう言って微笑むのは、死んだはずの愛しい人だった。立ちすくむしかない俺を尻目に、兄者は軍刀を鞘から抜くと俺に握らせた。お前に選択肢をあげると兄者がささやく。
    「僕を殺して彼女を助けるか、彼女と一緒にここで暮らすか。どちらか選ぶんだ」
     
     兄者の言葉が上手く頭の中に入ってこない。いや、脳が理解することを拒んでいる。俺が抜き身の刀を握っている意味も、彼女がここにいる意味も、わかりたくなかった。辛うじて兄者とだけつぶやけば、俺はそんなに情けない顔をしていたのだろうか、兄者は困ったように笑った。
    「これじゃ膝まですぱっと切るのは難しいかもしれないけど、殺すのには支障ない」
    「兄者」
    「彼女は僕を止められなかった。止められるとしたらお前だけだ」
     反射的に彼女を見れば、彼女もまた困ったような顔をして笑った。そして目を閉じ、静かに首を振った。
    「君はそれでいいのか……?」
     自由を奪われ、兄者のためだけに生きることを強要され、本当にそれでいいというのか。だが彼女は俺の問いかけに、何も言わず頷く。
     俺はもう一度、兄者を見た。名を呼んでくれないと泣き、彼女との仲に嫉妬し、いつも振り回されてばかりだったが、兄者は俺にとって唯一無二の存在だ。父上や母上より、兄者に認められたいと常に思っていた。その思いは兄者の非道な行いを見せつけられた今でも、薄れてはくれない。

    「兄者、俺の名を呼んではくれないか?」
    「膝丸」
    「もっと呼んでくれ」
    「膝丸」
    「もっと」
    「膝丸、僕の弟」
     手から力が抜け、刀が石畳の上に音を立てて落ちる。俺にはもう刀を拾うことはできず、自ら牢の中に入っていけば、両手を広げた彼女が迎え入れてくれた。そっと柔らかな腕に抱き締められれば、甘い花の匂いがした。白百合のような香り、この香りには覚えがある。姉上の通夜で、倒れた彼女を抱き支えた時にしたのと同じ匂いだ。こんなにも清楚な香りが、忌々しい血の繋がりを示すものだとは、何とも皮肉な話だ。
    「フルートが聞こえるね」
     扉の閉まる音に混じり、兄者がつぶやくのが聞こえた。耳を澄ませてよく聞けば、確かにフルートの音が聞こえてくる。異様な音階の不気味な曲、『鬼が来りて笛を吹く』だ。フルートの奏者は三人ともここにいるのに、一体誰が吹いているのだろう。
     だが、この場に相応しい曲であるのもまた確かだ。鬼になることを躊躇わなかった兄者に、共に堕ちることを選んだ俺たち。ここは鬼の巣窟だ。しかし、兄者は俺とは違う感想を抱いたらしい。
    「嫌だな。ようやく手に入れた理想郷なのに」
     彼女の家との繋がりがなくなり、源家は窮地に立たされている。いずれここも売りに出さねばならないだろう。その時、兄者はこの別世界をどうするつもりなのか。
     だが共に堕ちると決めた以上、兄者の判断に従うまでだ。俺は目を瞑り、口を閉じた。



    【バットED 壺中の天(髭切)】

     メリーバッドED。大切なものを閉じ込め自分の理想郷を作った髭切だが、未来は暗澹としている。友子殺しの犯人はわかったが、最大の謎はまだ隠されている。後編冒頭の選択肢に戻り、膝丸編に進もう。もう一人の兄との結末を見るには、一つ前の選択肢へ。



     ▷ 膝丸編へ      1ページへ
     ▷ 一つ前の選択肢へ  16ページへ



     軍の機密である故鶯丸には言えなかったが、俺が上海へ行くのは阿片の密売人の監視のためだ。密売人の男は軍命を受け大陸で阿片を売っているが、横領の噂が絶えず、俺が監視役として派遣されることになった。
     俺は大学卒業後、兄者と同じ陸軍に入り、今年に入って兄者の部隊に配属された。俺に上海へ行くよう命じたのは兄者だった。
    「急な話だが半月後に、上海へ行ってもらいたい。僕も仕事の目途がつけば大陸に渡る」
    「……」
    「不服そうだね」
    「い、いえ! 自分は決してそのような……」
    「はははっ、その喋り方やめてよ。ここには僕とお前しかいないんだからさ」
     確かに執務室には俺と兄者しかいなかったが、軍務に当たっている間はあくまで上官と部下である。だが兄者はじっと俺を見つめ、無言の圧力をかけてくる。
    「何故兄者がこんな汚れ仕事をしなければならないんだ」
     根負けして普段どおりの喋り方に戻し、兄者には相応しくない仕事だと訴える。口を尖らす俺を見て、兄者は笑った。
    「お上の命令は絶対なんだよ。それに臨時でこれももらったしね」
     そう言って兄者が親指と人差し指で円を作ったので、面食らってしまった。意外? と聞かれ、素直に頷く。
     彼女の死を契機に彼女の家と縁が切れ、源家の借金は膨れていくばかりだ。しかし、汚れ仕事をしてまで兄者が家を守ろうとするとは思わなかった。俺は華族が華族たる振る舞いをできなくなったのならば、爵位を返上すべきだと思っているし、兄者も俺と同じ考えだと思っていた。
    「僕とお前と、あの子が生まれた家だ。何としても守らなければならない」
     兄者は椅子から立ち上がると机の前に立ち、俺にもっと近くに寄るよう言った。二歩ほど前に出たがもっとだと言われ、ようやく満足してもらえたのは兄者が俺に触れられる位置にまでなってからだ。革の手袋が俺の前髪を払い、弧を描く金の瞳と目が合う。
    「軍命よりも何よりも、お前が尊重しないといけないことはわかっている?」
    「ああ」
     十年経った今も、あの日の誓いに変わりはない。
    「俺は兄者を置いていかない。生涯兄者に仕えよう」

     彼女の草履が川から見つかったと知らせが来た時、俺は着の身着のまま神戸行の列車に乗り込んだ。突然やってきた俺に兄者は驚いていたが、それよりも憔悴しきった姿が目を引いた。
    「ちょうど良かった。彼女の女中、東京へ連れて帰ってくれないか? 弱り切って、一人では帰れそうにないんだ」
    「兄者」
    「お前からも彼女のお父さんによく言っておいてくれ。あの女中に落ち度はないよ」
    「兄者、俺を切ってくれ」
     なあに急にと兄者は苦笑するが、兄者はきっと俺の仕出かした罪を知っていた。
    「神戸に向かう列車の中で、彼女に姉弟であることを告げた。俺が彼女を追い詰めた。俺が彼女を殺した! 兄者、俺を切ってくれ」
    「やだ」
    「頼む」
    「やだ」
     兄者に腕を引かれ抱き寄せられたかと思えば、しばらくすると涙混じりの声が聞こえた。
    「僕が、叔母さんに彼女の匂いの話をしなければ……けど、僕はいつそんな話をしたのかも覚えてなくて……。お前じゃない、お前は悪くない。僕が話さなければ……お前たちは今頃幸せになって……」
     そこで俺は兄者に切ってもらうことばかり考えて、まだ自分は泣いていないことに気づく。彼女を殺した俺に泣く資格はないのに、兄者につられ涙が込み上げてきて嗚咽が零れた。そんな俺を肯定するように、兄者は抱き締める力を更に強くした。
    「お前はどこにも行くな、僕を置いていくな」
    「……兄者の御心のままに」
     俺が兄者にできる唯一の罪滅ぼしはそれしかなかった。兄者に子供はいないため、父上たちはもしもの時を考え俺の入隊に反対したが、俺の心は決まっていた。



     兄者の命を受け、俺は上海へ渡った。大陸に行くのは初めてだったが、上海は俺の想像以上に栄えていた。東洋のパリと評されるだけあり、西洋風の建築物が並ぶ華やかな街で、悔しいが東京よりも洗練されていると言わざるをえない。俺に与えられた家は租界内の黄浦江に面した一軒家だったが、件の男と待ち合わせたのは租界の外の阿片窟でだった。
     租界の外は同じ上海とは思えないほど退廃していた。至る所に内戦の傷痕が残っており、日が暮れれば街路灯がないため真っ暗になる。特に男と待ち合わせた場所は場所が場所なだけに、その地域に近づくにつれ腐臭がし、道には乞食や横たわったまま微動だにしない者が多くいた。
    「ようこそ上海へ、源大尉」
     阿片窟は支那人向けの物だったが、特別に作られた個室に男はいた。軍の中にはこの男を阿片王と呼ぶ者もいるが、支那の民族衣装を着ている以外は、取り立てて特徴のない中年の男である。男は俺の顔を見ると、貴方のような綺麗な顔では密売人はできませんよと気味の悪い笑みを浮かべた。
     
     表向き俺の仕事は男に軍の命を伝え、男から阿片の販売状況の報告を受けることになっている。通訳代わりに連れてきた部下を通し、男から阿片の栽培状況や売れ行き等を聞く。冴えない風貌の男だが、軍人を前にしても怖気づくことなく、下手に出ながらも俺を値踏みする狡猾さを持っている。……この仕事、なかなか骨が折れそうだ。
     男は一通り話を終えると、二階に案内すると立ち上がった。二階と言われてもわからずにいたが、部下が男の腕を掴む。
    『ここに男はいるのか?』
    『……なるほど。せっかくの男前がもったいない』
    『いないんだな。だったらやめておけ、機嫌を損ねるだけだ』
    『そうは言わずに見ていってください。今日のために特別いいのを用意していますから。大尉が気に入らねば、貴方がもらえばいい』
    『……見るだけだぞ』
     二人は支那の言葉で会話し、部下は男の腕を離すと俺の後ろに付いた。
    「(誰が男色家だ)」
     俺にばれていないと思っているようだが、生憎上海に来るにあたり言語は学んできた。完璧に理解はできなくとも、ここが売春宿を兼ねていることくらいはわかった。

     女っ気がなくこの年まで独り身でいる俺のことを、世間が何と言っているかは心得ているつもりだ。だが、彼女以外の女に触れたいとは微塵も思わない。どれほどいい女を用意されようが、俺の気持ちは変わらない。もっとも、こんな阿片窟にいる女など高が知れているだろうが。
     二階に通されると、細い廊下の両隣に部屋が並び、戸は閉められていたが嬌声が漏れ聞こえてくる。俺の顔をちらちらと盗み見る部下と目が合えば、青い顔をして俯いてしまった。しかし阿片王と呼ばれるだけはあり、男は張りつけた笑みを崩さず、一番奥の部屋へと俺を案内した。
    「阿片の吸い過ぎで死んだ男が囲っていたそうなんですがね」
     男が戸を開けた部屋に入ると、造りは先ほどまでいた一階の部屋と変わりなかった。しかし目的が目的だけあり、部屋には寝台が置かれており、その上に白に金の刺繍が施された海派旗袍の女が座っていた。
    「どうです? 年は少々いっているが、楊貴妃も顔負けの美しさでしょう」
    「日本人か?」
    「おや、これは目敏い。ええ、彼女は日本人です。噂によると、とある華族の落とし子なのだとか」
    「これは大きく出たもんだ。おい、お前。名前を言ってみろ」
    「無駄ですよ。彼女は目と耳が不自由でして、意思の疎通ができません。ですが、悪いことばかりではありませんよ。人は不自由な部分を補うため、他の部分が発達するそうです。……阿片で気が狂った男が、最後まで彼女は手放そうとしなかった。清純そうな顔をしていますが、まあそういうことですよ」
    『俺に回せ』
    『それは大尉の返事を聞いてからだ』

     男と部下の会話は耳に入ってこなかった。淡い色の髪に、日本人離れした白い肌。伏せられた金色の瞳。十年前永遠に失ったはずの彼女が、そこにいた。心臓が高鳴る中、近づいて寝台の上に置かれた右手を取れば、彼女の体がびくりと震えた。
     目が見えないというのは本当らしく、上がった手の近くを見てはいるが、朧な目は焦点がずれている。そんな中、柔らかな手を握り締める。彼女は反応しなかったが、俺が諦めずに手を握り続けていると、彼女も手を握り返してきた。期待していた結果になるかは疑わしかったが、動いたのは親指と人差し指、それに小指だけ。中指と薬指は伸びたままだった。
    「いくらだ?」
    「お近づきの印ですから結構です」
     後ろに控えている男に聞くが、見当違いな答えが返ってくる。
    「彼女を身受けする。いくら払えばいい?」



     使用人は現地で雇ったので、彼女を連れて帰っても驚かなかった。ただこのことは他言無用と厳しく言いつけ、彼女を長椅子のある部屋に連れて行った。段差に何度も足を取られる彼女を見ると、隣に座り支えられる場所が良かった。
     彼女を座らせた後俺も隣に座れば、椅子が沈んだ感覚でわかったのだろう。俺の方に顔を向けた。だが、やはり視線が重なることはない。
     渋る店主を押し切り彼女を連れ帰りはしたが、俺はなおも信じきれずにいた。兄者によく似た風貌と動かない右の中指と薬指。彼女しかありえないが、謎が多すぎる。何故目と耳が不自由になったのか、何故死んだはずの彼女が上海にいるのか。他人の空似という可能性も排除できない。
    「君は――――なのか?」
    「……」
     彼女の名を口にするが、返答はない。ただ気配で喋ったことはわかるのか、ゆっくりと瞬きをし小首を傾げる。

     目が見えない、耳も聞こえない。あの阿片の密売人が言っていたとおり、これでは意思の疎通が取れない。盲人のため点字なるものがあるらしいが、具体的にどのようなものか俺は知らないし、彼女も点字の教育を受けているとは思えない。原始的ではあるが手のひらに文字を書いて伝えるしかないのだろうが、果たして手のひらの感覚だけで文字を認識できるものなのか。少なくとも俺は無理だ。
    「あの」
     鈴を転がすような声に、胸が熱くなる。夢の中で何度も聞いた彼女の声だった。
    「貴方は日本語がおわかりになりますか?」
     彼女はそう言って俺に左手を差し出す。
    「私の言葉がわかるなら、私の手を握ってください」
     見知らずの他人と握手をしようとする彼女に違和感を覚えたが、彼女は触れることでしか相手の意思を確認できないのだと思い出す。躊躇したものの、左手を握った。焦点の合わない彼女の目が、大きく見開かれる。

    「今度は右手を握ってもらえますか?」
     彼女は先ほどより早口になった。右手は膝の上に置かれたままだ。今までも彼女の左手を握った者はいたのかもしれないが、目の前に差し出されたから握ったに過ぎなかった。失望を何度も経験し、それでも期待せずにはいられない。俺は彼女の左手を一旦寝台の上に置き、右手を取った。
     日本語がわかる人間だと確証が取れると、彼女は飛びかからんばかりの勢いで俺にしがみついた。
    「私は――――と申します! 日本人です! 暴漢に襲われて、気づいたら見知らぬ土地におりました。私を日本に帰してください。父は東京で貿易商をしております、お礼は必ず父にさせます。どうかお助けください!」
     一気に捲くしたて、力があまり入らないはずの右手までもが、俺の手を痛いほど強く握りしめる。
    「後生ですから私を日本に帰してください! お願いいたします!」
    「待て、落ち着くんだ」
    「どうか、どうか!」
     制止の声をかけるが、彼女の興奮は収まらない。耳が聞こえないのだから声掛けは無駄だと気づくが、俺が落ち着かせる方法を思いつくまで彼女は待ってはくれなかった。
    「日本に婚約者がいるんです」
     彼女としては同情を引こうとしたのだろうが、俺には逆効果だった。

     彼女が日本に帰ったら一体どうなる? 兄者は未だ独り身だ。兄者との結婚の話が再燃するかもしれない。いや、鶯丸にも血の繋がりのことは言ってある。兄者との結婚はないが、それでも……。
    「(俺と彼女が結ばれることはない)」
     彼女の幸せを思い、身を引くことを決めた。けれど、それは彼女のいない日々の辛さを知らなかったからできたのだ。彼女を失ったあの日から、世界は色を失った。何を見聞きしても心は動かず、時間ができればサンルームに足を運び、在りし日の彼女に想いを馳せる。彼女の姿や声を思い出す度、失ったものの大きさを痛感した。
    「……せない」
     年上の美しい人、血の繋がった実の姉。禁忌を犯さないため、一度は遠ざけようとした。
    「どこにも行かせない。君は俺のものだ」
     彼女を長椅子に押し倒し、両手を頭の上で抑えつければ、全てを悟った彼女が涙を流した。金色の瞳から零れた涙は、こめかみを伝って落ちていく。可哀想だとは感じず、それどころか泣き顔に興奮した。
     衝動のまま流れ続ける涙に舌を這わせば、甘い花の匂いがした。白百合のように清楚な香り、俺からも同じ匂いがしているとは信じ難かった。



     一度踏み越えてしまえば、禁忌は大した足枷にならなかった。それからは毎夜彼女を抱いた。罪の意識は次第に麻痺していったが、その分酷い嫉妬心にかられた。
     彼女が泣いたのは初めて抱いた時だけで、後は抵抗らしい抵抗をせず、太ももに手をやれば自ら足を開く。行為に慣れた様子に、怒りが湧いた。そもそも、視覚と聴覚を失った今の彼女に、俺は俺として認識されていない。それなのに嫌がる素振りを見せないのは、俺に対する裏切りだった。
    「俺を慕っていたと、どの口が言うんだ?」
     甘い声を漏らす口に指をねじ込め、聞こえないとわかっていながら罵倒する。彼女は顔を歪めるも、俺がいつまでも指を抜かないと指に舌を這わせ、そのことが余計に俺を苛立たせた。
     だが、抱かないという選択肢はなかった。どんなに醜い嫉妬心に苛まれようと、それを凌駕する劣情。高嶺の花だと思っていた彼女が、自分の腕の中で乱れることへの高揚感。何物にも代え難かった。

     今日も仕事を終え、彼女を抱くために家に帰る。使用人に軍帽と外套を渡し、彼女のいる寝室へ向かおうとしたところで引き止められた。
    「女の人、今日は駄目です」
     日本語で会話でき、簡単な読み書きもできる女を雇ったが、それでも女の日本語はたどたどしく抑揚も日本人のそれとは違う。
    「お前に指図される謂れはない」
     盛りのついた猿だと暗に非難された気がし、更にそう非難されても仕方がないと自覚はあるので、言い返す言葉には棘がある。しかし女は、違う違うと両手を顔の前で振った。
    「女の人、病気」
     使用人はまだ何か言っていたが、俺は寝室に駆け込んだ。部屋に入れば彼女は扉に背を向け寝台の上で寝ていたが、海派旗袍を着た背中が殊更小さく見えた。
     昔から体が弱い人だった。季節の変わり目になると体調を崩し、貧血で倒れることも多かった。連日無体を働かれ、体が悲鳴を上げるのは当然のことだ。

     寝ている彼女の顔を覗き込むと、浅い呼吸を繰り返し大粒の汗を流している。枕元に落ちていた濡れた手ぬぐいで汗を拭うと、彼女が薄っすらと目を開けた。
    「膝丸さん……?」
     かすれた声で名を呼ばれ、息が止まるかと思った。だが、高熱で朦朧として懐かしい名前を口にしただけだと思い直す。彼女には源家の者特有の匂いについては話していない。俺が膝丸だとわかるはずがない。そう、わかるはずはないのだが……。
     安心したのも束の間、今度は強い罪悪感に襲われた。彼女は未だ俺を信頼してくれているのに、俺は一体何をしているのか。俺は、彼女の尊厳を踏みにじっている。居たたまれなくなり、俺は彼女の左手を取った。
    「はい、何でしょうか?」
     簡単ではあるが、共に暮らすうちに彼女と意思疎通する術を身につけた。左手に指で文字を書き、それを彼女が口にする。合っていれば右手を握り、間違っていれば左手を握る。彼女からの問いかけに対しては、右手を握れば『はい』で左手を握れば『いいえ』だ。
     左手に指をはわすと、彼女は横になったままだが手があるだろう方向を見、意識を集中させた。
    「は……ほ、……し……い……ま、……も……の……。……ほ、し、い、も、の。……『欲しい物』ですか?」
     合っていた文字を拾い、頭の中で単語に置き換えてから俺に聞く。俺は右手を握った。彼女のためではない、単に自分が罪の意識から逃れたいだけだとわかっているが、彼女が何でもいいんですか? と尋ねるので、俺は彼女の右手を握った。
    「フルート」
     聞き間違いかと思い、反応が返せなかった。彼女は苦笑いを零した。
    「フルート……やはり駄目ですよね」
     普段の彼女なら決して口にしなかっただろう、高熱が彼女を大胆にさせたようだ。しかし、耳が聞こえないのに何故フルートを……自分の都合のいいように考えてしまいそうになり、頭を振る。俺は右手と左手のどちらを握ろうか迷い、彼女が左手を引っ込めようとしたので、慌てて握った。
    「フルートを、買ってくださるんですか?」
     戸惑いの見える問いかけに俺は腹を決め、今度は右手を握った。

     俺のフルートは十年前実家の蔵にしまったきりだが、鶯丸にもらった彼女のフルートは上海へ持ってきていた。俺は書斎に置いているフルートを取りに行き、組み立ててから彼女に渡した。改めて見れば、素人に持たせるにはもったいないほど良い品だった。滅多にわがままを言わない娘のため、彼女の両親は奮発したのだろう。名前まで彫ってあるのを見ると尚更そう思った。
     まさか言った傍から与えられるとは思っていなかったようで、彼女はフルートの凹凸に繰り返し指をはわせるが、手の中にある物の正体を掴めずにいた。仕方がないので彼女の上半身を起こすと、基本の位置に指を置き、唇に歌口をつける。熱でとろんとしていた目が、驚きで見開かれた。フルートは昔を思い出させるための道具だ、認識さえさせれば十分。またケースにしまう……はずだった。
     彼女の手が動き、澄んだ音色が聞こえてきた。それなのに曲は異様な音階で、心がざわつく。間違いない、『鬼が来りて笛を吹く』だ。耳にするのは何年振りだろう。

     俺は気づけば、源家のサンルームにいた。硝子越しに陽光が差し込み、庭が一望できるこの場所は、姉上が嫁いでくるまで俺たち三人の憩いの場だった。俺は籐椅子に座っており、隣には高等学校の制服を着た兄者もいる。
     サンルームには、フルートの音が鳴り響いていた。彼女が譜面台の前に立ち、フルートを吹いていた。彼女は十代半ばのようだった。三つ編みに袴姿と、女学校に通っていた頃と同じ格好をしている。
     彼女が演奏しているのは『鬼が来りて笛を吹く』だ。これから起きる悲劇を暗示しているかのような不気味な曲なのに、場に流れる雰囲気は穏やかだった。兄者が俺の横腹を肘でつつく。何事かと横を向けば、悪戯めいた笑みを浮かべている。ああ、そうだ。兄者は昔こんな風に笑っていた。今の、陰りのある笑みとは違う。
     彼女を見ろと、目で言われた。言われるまま彼女に視線を戻せば、彼女と目が合った。彼女は瞬きをした後、嬉しそうに目を細める。金色の瞳に映る俺は情けない顔をしていて、込み上げてくるものを我慢できず、嗚咽を漏らした。



     翌日には熱が引き、元気になった彼女はフルートに没頭した。始めこそぎこちなさが目立ったが、日を重ねるうちに指使いは滑らかになり、元の彼女の音に戻りつつある。
     どの楽器にもいえることだが、演者によって音色は変わる。たとえば兄者のフルートは、獅子のように勇ましい。音一つとっても、王者の風格を感じさせる。彼女の音は兄者とは逆で、実に女性的だ。繊細で、可憐な音色を紡ぐ。『鬼が来りて笛を吹く』を演奏するにはいささか迫力が足りないようにも思えるが、彼女のどこまでも美しい音色だからこそ、余計に不気味さが際立つのも確かだ。
     俺は幸せだった日々を思い出し、感傷に浸っているのだろうか。あれほど彼女に欲情していたというのに、今は同じ部屋にいても彼女には触れず、ただただ彼女のフルートを聞いている。彼女も気配で俺が近くにいるのは気づいているようだが、毎日指が動かなくなるまで演奏を続けていた。
     
     彼女の音は昔に戻りつつある。だが、拍の取り方は元の通りにはならなかった。長年の感覚で補っているが、耳が聞こえないせいでどうしても拍の速さがずれる。
    「……」
     溜息を吐く。やはり感傷に浸っているようだ。俺は椅子から立ち上がると、フルートを吹く彼女の後ろに立った。視覚と聴覚を失った彼女は気配に敏感で、音が揺らぎはしたが演奏を続行する。しかし俺がトンと背中を叩けば、大げさなほど驚いて振り返った。不安げな面持ちをしていた。
    「どうされましたか?」
     俺がそれ以上何もしないでいると、痺れを切らした彼女が尋ねてくる。だが俺からの反応はなく、彼女は戸惑いつつも前を向き、歌口に口をつける。そうして曲を奏で始めれば、また俺は彼女の背を叩いた。少しだけ体が跳ね、再び後ろにいる俺にどうしたかと聞く。俺はやはり答えず、彼女が演奏を再開すると背を叩いた。
     それを何度か繰り返せば、彼女は背を叩かれても気にせず演奏を続けるようになった。俺はその背を一定の間隔で叩き続け、徐々に拍の取り方が正しくなっていく。俺が調子を取っていることに、彼女も気づいたようだ。音に迷いがなくなった。
     音が出せるようになり、部分部分に区切って練習を重ね、それから一通り吹いてみるようになって。彼女の側で手を叩いて拍を取ってやれば、自信なさげな音が少しだけマシになった。……遠い昔の思い出だ。
    「感傷に浸る資格がお前にあるのか?」
     自問するが、その答えは言わずともわかっていた。

     演奏が終わると、彼女は俺に礼を言った。自分を捕らえている人間に礼を言うなど、彼女も随分と人がいい。だが、そのことを契機に彼女の様子が少しずつ変わり始めた。俺が帰宅すると、彼女はフルートを吹いていても演奏をやめ、出迎えの言葉を言うようになった。
    「おかえりなさいませ」
     それだけではない。体に触れても怖がらず、前のように諦めの表情を浮かべることもなくなった。拍取りは契機となるにはあまりにも些細なことで、疑問や戸惑いを覚える一方、好意的な反応を返されるのはやはり嬉しい。彼女の手を取り文字を書くことに対しても、躊躇いは薄れた。
    「ほ、し、い、も、の? フルートで十分です。……でも、そうですね。私、ワンピースを着てみたいんです。それに、できれば断髪にも」
     予想だにしない回答に驚いたが、彼女が望んだことだ。俺が拒否する理由はない。使用人に服を買いにいかせ、現地の美容師を連れてきた。美容師は切るのがもったいないと俺と同じ感想を口にしたが、耳下あたりまで切って彼女に首の後ろを触らせた時、くすぐったそうに笑った顔が、いつかサンルームで兄者と二人きりの時見せていた表情と重なった。
    「似合いますか?」
     少しだけ不安そうに、しかしその何倍も自信に満ちた顔つきで、彼女が俺に両手を差し出す。もちろん俺は右手を握った。
    「ありがとうございます」
    「……」
    「あの、どうしましたか?」
    「いや、すまない」
     見惚れていたと言いかけて、慌てて口を噤んだ。彼女の洋装は夜会で見たことがあるが、夜会服とはまた違った良さがあった。それに髪が短くなったことで白い首筋を隠すものがなくなり、目が釘付けになる。……すぐに顔が赤くなる癖は、自分でもどうにかしたいものだ。

     彼女は首を傾げていたが、そういえばと切り出した。
    「貴方のことを何とお呼びすればいいですか?」
     そう言われて初めて、俺という存在を表す言葉がないのだと気づく。彼女にとって、俺は膝丸ではないのだ。ここのところ浮かれていて、その事実を忘れていた。いや、忘れた振りをしていたのかもしれない。
     彼女の手に文字を書こうとするが、いざ書こうとすると何と書けばいいのかわからない。空中で手をさ迷わせていると、彼女の方から候補を挙げていく。
    「主様? ご主人様?」
     どちらの手を握るか判断しかねていれば、彼女が第三の候補を言った。
    「旦那様?」
     
     ──それではご指導をお願いいたします、旦那様。

     幼い日の戯れが蘇る。馬鹿げていると思うのに右手を握ろうとし、それを寸でのところで止め、けれど結局は右手を握ってしまった。彼女は俺の迷いを肯定するように左手を重ねた手に添え、旦那様と俺を呼んだ。



    「婚約者がいたんです」
     彼女がそう言って話し始めたのは、旦那様と呼ばれるのにも慣れてきた頃だ。いつものように彼女の演奏を聞いていたのだが、彼女は途中で演奏を止め、旦那様と言って俺のいるであろう方向を向き、右手を差し出した。俺はそれに応え、立ち上がって彼女の手を握った。髪は短くなり若草色のワンピースを着ているが、彼女からは変わらず白百合の香りがした。
    「フルートはその方が教えてくださいました。真っ直ぐな気性の方で、年は二つほど下でしたが、とても尊敬しておりましたし……愛していました」
     彼女の言う婚約者は、兄者でなく俺のことだった。彼女を家に連れ帰った時、日本に婚約者がいると言っていたが、あれは俺のことだったのだ。
    「けれど、ある日突然婚約をなかったことにしてほしいと言われたんです。理由があってのことだったのですが、彼はその時は理由を言ってくれなくて……。私は鬼の命じるままに、泣き叫んで行かないでほしいとすがりつこうかと思いました」
    「鬼?」
     電話口の彼女は実に落ち着いていたが、そのことに対する疑問より『鬼』という表現の方が気になった。彼女はまるで俺の言葉が聞こえているかのように、自分の中には醜い鬼がいるのだと付け加えた。心ない言葉を浴びる度、暗い感情が積み重なっていき醜い鬼へ変わっていったと彼女は言うけれど、信じ難かった。彼女の指や身分のことを悪く言う輩は確かにいたが、彼女はいつだって凛として美しく……。

    「でも彼の前では、彼が美しいと言ってくれた私でありたかったんです」

     だから鬼が出てくる前に了承しましたと彼女は言った。そして彼女は俺の手を離すと、自分の胸に右手を置く。
    「鬼は今でも変わらず私の中に……いいえ、昔よりも更に性質の悪くなった鬼がいます。醜くてどろどろしているだけでなく、決して結ばれてはいけないあの人を、未だ想い続けている」
     旦那様と、彼女は俺を見上げた。空気の震えでわかるのだろうか、彼女は目が見えないのにまっすぐ俺を見ている。
    「幻滅なさったでしょう? ……お好きにしてください」
     体は手に入っても、心は一生手に入らない。気に入らないのなら捨てろと言いたいのかもしれない。彼女の声はとても穏やかで、やはり鬼がいるなど思えなかったが、たとえ鬼がいたとしてもかまわなかった。俺は彼女を抱き締めた。
    「君から笑顔を奪っていたのは俺だったのか」
     年上の美しい人だと必要以上に神聖視し、ありのままの君を知りたいと言い出す勇気がなかった。彼女が変わらなかったのではなく、俺が変えさせなかったのだ。
    「貴方の思いに応えられなくてごめんなさい」
    「何を言う、俺は果報者だ」
    「ごめんなさい」
    「謝るのは俺の方だ」
    「ごめんなさい」
     ようやく彼女の思いがわかったというのに、俺の言葉は彼女には届かない。互いにもっと早く素直になっていれば、未来は変わったのだろうか?
     ふと、甘い匂いがした。花の香り、白百合の香りだ。……うつけ者だな俺は。鶯丸から彼女のフルートをもらった時も同じことを考え、何も変わりはしないと気づいたではないか。
     どんなに気持ちを通わせたとしても、俺たちは姉弟だ。彼女も俺を慕っていると言ってはくれたが、近親相姦を避けようと別荘から逃げ出した。今俺たちが共にいられるのは、遠い異国にいて、彼女が俺の正体を知らないからだ。
    「君を愛している」
     口にしてはいけない言葉を告げ、彼女を抱き締める力を強めた。



     弟が上海で女を囲っているらしい。周囲にはきつく口止めしていたようだが、人の口に戸は立てられない。あの子の直属の部下に問いただせば、噂は正しいと白状した。絶世の美女だが目と耳が不自由で、現地妻として囲っているに過ぎないと弁解していたが、僕にとってはどうでもいいことだ。
     膝丸の隣にあの子以外の女がいると思うと虫唾が走る。誘惑に負けた膝丸も許せないが、弟をたぶらかした女が何より許せない。僕は自らの手で女を殺すため、上海に渡った。上海に来て早々弟の家に案内しろと言った時には、弟の部下は震え上がっていたが構わず、道中死体の後始末について指示をした。

     弟の部下は車の中で待たせ、僕一人軍刀を手にし弟の家の前に立った時、街の喧騒に紛れ澄んだ音が聞こえてきた。……フルートだ。弟はあの子が亡くなってからフルートを吹かなくなったので、きっとレコードの音だ。けれど何故よりによってフルートのレコードを?
     玄関の戸を叩くと、しばらくして使用人と思しき女が出てきた。同時に玄関の戸が開かれたことで、フルートの音がはっきりと聞こえてきた。
     何年ぶりに聞くだろう、『鬼が来りて笛を吹く』だった。レコードの音ではない、そして弟が吹いているのでもない。あの子は僕と違って多彩な表現ができるけれど、もっと重厚であの子の気質と同じ真っ直ぐな音を出す。

     ──お兄様。

     気づけば女を押しのけ、土足のまま家の中に入っていた。僕が今考えていることはありえない、ありえないとわかっているけれど心臓は早鐘を打ち口の中はカラカラだ。僕は音のする部屋を突き止めると、力任せに扉を開けた。ぶつかった壁に穴が空いたんじゃないかと思うくらい大きな音が鳴ったけど、繊細で曲に似合わない綺麗な音色は止まなかった。
    「違う」
     女は僕に背を向けフルートを吹いているが、男のように短い髪をし、若草色のワンピースを着ている。彼女のはずがなかった。しかしそうやって否定しておきながら、女に近づく足取りは重い。女の顔を見て、期待を裏切られるのが怖いからだ。

     一歩一歩、ゆっくりと歩いていき、女の肩を掴もうとした時、女の指が止まった。女はフルートを口から離し、後ろに体を捻った。
     女は彼女と顔の作りがよく似ていた。でも纏う雰囲気が違う。僕が知る彼女と髪型や服装、それに年齢が違うからだけではすまされない、『何か』が違う。彼女と似ているからといって殺さない理由にはならず、僕は腰の軍刀を抜こうとした時だった。
    「お兄様?」
     女の声と共に、甘い花の匂いがした。安らぐと同時に官能的であり、人を狂わす恐ろしい阿片の匂い。だがそれは僕の妹の証でもある。
    「……はは、あははは」
     どういうわけか、笑いが漏れた。そして笑いながら僕は泣いていた。死んだと思っていた妹が、上海で生きていた。
    「僕を置いて今までどこにいってたの?」
     嬉しいのか、悲しいのか、怒っているのか。自分でもよくわからない。彼女の頬に触れると、相変わらず体温が低くてちょっと冷たかった。貧血は今も治っていないようだ。それから昔のように頭を撫でた。触り心地が良くて綺麗な髪だ、短くなってしまったのがもったいない。彼女を抱き締めた時、頬に彼女の髪が触れる感覚が好きだった。
    「……お兄様なんですね?」
    「そうだよ、僕は髭切だ。君のお兄様だ」
    「お兄様なら私の左手を握ってください」
     目と耳が不自由だというのは本当らしく、彼女は両手で持っていたフルートを左手に握り直し、右の手を僕に差し出した。彼女の右手は、中指と薬指だけが不自然な形で伸びている。昔は可哀想だと思い見ていた右手も、今はただ愛おしかった。だが差し出された右手ではなくフルートを持つ左手を握れば、彼女の顔が一瞬強張り、その後緩んだ。
    「もっと泣いてよ。僕一人だけ大泣きして恥ずかしいじゃないか」
     彼女の目元に薄らと溜まった涙を拭いながら、涙が止まらない自分を笑う。でも彼女は僕が見えないから、お恥ずかしいところを……と顔をそらし、これ以上泣いていることを指摘されないように別の話題を持ち出す。

    「今も同じコロンを使われてるんですね。コロンの匂いでお兄様だとわかりました」
    「コロン?」
     血の臭いをごまかすためにコロンを用意はしていたが、今は付けていない。それに彼女が言う『今も同じ』とは何のことだろうか。だが僕の疑問を余所に、彼女は話を続ける。
    「暴漢に襲われた時の怪我が原因で目と耳が不自由になりまして、今は右手を握れば『はい』、左手を握れば『いいえ』、それで伝わらないことは左の手のひらに文字を書いて伝えていただいています。……もう膝丸さんからお聞きになりましたか?」
     彼女が言う意思疎通の方法に従い左手を握った後、また新たな疑問が芽生えた。何故膝丸は僕に彼女の存在を伝えなかった? 疑問が芽生えたのは彼女も同じだったようで、戸惑いながら僕に尋ねる。
    「お兄様は膝丸さんから聞かれて、私に会いに来てくださったのですよね?」
     僕がここに来た目的と軍刀に手をかけた時のことを思い出すとぞっとしたが、もう一度彼女の左手を握った。彼女はそうだったんですねと言い腑に落ちた様子で、十年前僕の前から姿を消した後の出来事について語り始めた。
    「膝丸さんから私たちが姉弟と聞き、私は誰も私を知らない地に行って、一人で生きていこうと思いました。でも神戸の別荘を抜け出して山道を歩いている途中で暴漢に襲われて、日本語の通じない場所に連れていかれました。……いろんな男の人のところに売られて、ここに来た時も、また違う人に売られたのだと思いました」
     自分の身に起きた悲劇を彼女は淡々と語り、彼女は持っていたフルートを僕に見せるように差し出した。
    「きっかけはこのフルートです。お兄様、見えますか? 私の名前が彫ってあるんです。触っただけではわからないと思われたのでしょう。でも一番は、膝丸さんが私にフルートを持たせてくれた時、膝丸さんが私にフルートを教えてくれた時の感覚が蘇ったんです」
     彼女からフルートを受け取り、フルートの背面を見れば彼女の名が入っていたが、触ってわかるほど深くは彫られていない。ただ、僕が気になるのはそこではなかった。

     きっと膝丸は彼女に源家の者特有の匂いについて話さなかったのだろう、だから彼女は僕からする香りをコロンと言った。だがコロンの匂いで僕だとわかったと言うならば、膝丸も匂いで膝丸だとわかるはずだ。
    「(膝丸だけ匂いがしない?)」
     そうとしか考えられなかったが、僕の頭にあってはならない可能性が浮かぶ。膝丸が生まれるまで家にいた叔父さん。膝丸と離れ離れになっていたあの頃、源家の中で唯一膝丸に会うことを許されていた。父さんの死後、母さんがすんなり叔父さんと再婚したのは、子爵夫人の肩書を失うのを惜しんだからではないとしたら……。
    「初めは迷いました。何故彼がこんなことをするのか、気づいていると言うべきか言わないべきか。それでも私に触れる彼の手から愛情を感じたから……いいえ、私が膝丸さんと共にいたいと思うから。彼の望むように、何も知らない振りをすることにしました」
    「……」
    「ふふっ、鬼というよりもはや畜生ですね。実の弟と知りながら、膝丸さんの側にいたいがために禁忌を犯して。でも私、お兄様が言ったようにどんな手段を使ってでも、膝丸さんの側にいたいんです」
     彼女はどこまでも落ち着いていて、ヒステリーは起こさなかった。その分、彼女の覚悟を見せつけられたようだった。僕はフルートを床に置くと、彼女の左手を取った。彼女は僕の意を汲み取り、手のひらを広げる。手のひらの感触だけで文字がわかるのか不安だったけれど、彼女は一回で僕が書いた文字を正しく認識した。
    「し、あ、わ、せ……。『幸せ』?」
     右手を握って、『はい』と伝える。家を失い、家族を失い、視覚と聴覚を失い、男の慰み者になり……彼女が今の生活に幸せを感じているか知りたかった。彼女は意識を集中させていた手のひらから僕に顔を向け、花が綻ぶように笑った。
    「幸せですよ。好きな人の側にいられるのです、幸せに決まっているじゃないですか」



    【トゥルーED 上海にて】

     歪んだ形ではあるが結ばれた膝丸とヒロイン、だが戦争の足跡は確実に近づいている。最大の謎は明かされたが、友子殺しの犯人は見つけただろうか? 二人の兄の想いは? まだ見ていない人は髭切編へ。とっても酷いバッドEDを見てみたい人は一つ前の選択肢へ戻ろう。



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    さいこ Link Message Mute
    2023/09/07 1:24:19

    鬼が来りて笛を吹く(後編)

    pixivに掲載していた大正パロの刀さに。再掲するにあたり、加筆しています。膝さに、髭さに、うぐさにです。選択肢2回しかないですが、後編からゲームブック風になっています(作品内のページの飛ばし方がわからないので、自分で所定のページまで移動してください……)。

    ED内訳:トゥルーエンド1(9/28更新)、バッドエンド2、とっても酷いバッドエンド1(9/28更新)

    #刀さに #髭さに #うぐさに #膝さに #源氏さに #刀剣乱夢

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