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    壊れる三角形 吸血鬼──。人の生き血を糧に長い時を生きる、人ならざる者。昭和になったばかりの日本で、貿易商を営んでいる赤司征十郎もその一人だった。大正の終わりに起きた震災で会社は大打撃を受けたが、彼の人並み外れた才覚もあり、会社は震災前の状態にまで立ち直った。
     さて、彼の得意先の一人に黒子男爵という男がいた。室町の時代から続く公家の出身であり、没落する華族が多い中、度々盛大な餐会を開いていた。大戦景気で賑わっていた頃ならいざ知れず、震災後の不景気の中でも羽振りの良い黒子男爵の周りには人が集まるのだった。

    「これは赤司様、どうぞこちらへ」
     赤司はこの日、男爵が主催する園遊会に参加するため黒子邸を訪れていた。男爵はハイカラな趣味の持ち主で、都内の一等地に建つ屋敷の庭は、英吉利の庭を参考に造られている。執事に案内され会場に行くと、既に多くの人が集まっていた。
     顔ぶれを見ると、赤司のような商売をやっている者だけではなく、黒子と同じ華族や政界の大物もいた。顔を売るには絶好の場だが赤司はわざと庭の端を通り、彼らを避けるようにして黒子男爵に挨拶をしに行った。
    「よく来てくださいました」
    「キミが来てくれたおかげで、ボクもご婦人方に責められずにすみますよ」
     赤司が顔を見せると、男爵夫婦はそろって喜んだ。物腰が柔らかく誰であろうと丁寧な言葉使いをする男爵と、表情が乏しいため一見冷たそうに見えるが、明るく気さくな男爵夫人。

     彼らは赤司の商品だけでなく彼の人柄も気に入り贔屓にしているのだが、赤司は赤司で、華族だからとお高く止まっていないこの夫婦を好ましく思っていた。
    「こんな時勢ですからね、テツヤには良い物に囲まれて育ってほしいの。良い物に触れれば、心が豊かになるでしょう?」
    「これからも頼みますね」
     英吉利に留学していた経験からだろう、男爵は日本人にしては珍しく握手を求めてきた。欧羅巴で暮らした経験のある赤司は、戸惑わずその手を握り返した。

     吸血鬼が人と相違する点は多い。

     一つは、人の血を飲まねば生きられないこと。
     一つは、子を産めないこと。
     一つは、人の首筋から血を吸い仲間を増やすこと。
     一つは、銀の武器以外では傷つかないこと。
     一つは、吸血鬼ごとに特殊な能力を持つこと。

     彼らにとって最も大切なのは、吸血鬼になると同時に目覚める能力だった。物を触れずに操作したり遠く離れた場所へ瞬時に移動したりなど、人の間では超能力とも呼ばれる力の程度で彼らの階級は決まる。

     赤司は予知という珍しい能力を持っていた。予知できるのは近い未来だけ、対象も触れた相手に起こる出来事のみで己のものは見えないと制約が多いが、彼が予知した未来は必ず起こる。それ故同等の優れた能力を持つ他の五人と併せて『キセキの世代』と呼ばれ、吸血鬼の頂点に立っていた。
     黒子男爵と握手した時、赤司には彼が銃で撃たれる未来が見えた。夫人と思われる女性の甲高い悲鳴が聞こえてきたが、それも直後の銃声で途絶える。思いもしない未来に、赤司は息を飲んだ。その様子を男爵は勘違いしたらしい。
    「なんでもできる赤司君も、ご婦人は苦手なようですね」
    「男前がもったいないわ」
     朗らかに笑う二人は、死にゆく運命を知らない。

     銃で撃たれた男爵の背後には、今いる庭の風景が見えた。日の高さや季節を考えると、今日彼らが死ぬ可能性は高い。赤司は他の参加者の未来を見るため、曖昧にごまかしその場を後にした。
     それから彼は避けていた政治家や同業者、屋敷の者に至るまで積極的に声をかけた。そしてさりげなく相手の体に触って未来をのぞいたのだが、皆悲惨な最期を迎えていた。何発も銃弾を受け亡くなる者、日本刀で切られて絶命する者。犯人は女にも容赦はせず、屋敷の中へ逃げた女中の背を撃ち、そのうえ屋敷に火を放っている。
     黒子男爵を狙った犯行か、それとも会に出席している要人の殺害が目的なのか。予知の内容だけではわからないが、いずれにせよ赤司にとって危機であると同時に、好機でもあった。

     赤司が吸血鬼になったのは二十四の時だ。しかし貿易商赤司の年齢は今年で三十五になる。若作りでごまかすのも時間の問題で、遠い異国へ旅立つか貿易商としての存在を消すかの選択を迫られていた。赤司は女中の未来で屋敷が燃やされることに着目し、世間に焼死したと思わせることにした。
    「すまない、少し気分が悪くなって。屋敷の中で休ませてもらえないだろうか?」
    「畏まりました。ご案内いたします」
     彼が声をかけた給仕の男は、唯一の生還者として新聞記者に取り囲まれる未来を持つ男だった。きっと赤司は犯行当時屋敷の中にいたと証言してくれるだろう。
     案内された客間で休むふりをした後、人の気配が消えたことを確認し、赤司は二階の男爵夫婦の寝室へ向かった。それというのも以前酔った男爵が、万が一に備え寝室に隠し通路を作らせたと言っていたのだ。
     赤司を信頼しているからこそ口を滑らせたのだろうが、男爵らしいと彼は思った。しっかりしていると思いきや、どこか間が抜けている。

     寝室に体を滑り込ませると、寝室だというのに大きな本棚が目に入った。読書家の男爵は、寝る間際まで本を読んでいたいらしい。本棚があるのとは逆の壁際には天板付のベッドが置いてあり、赤司が以前夫人の希望を聞き手配した物だった。彼は手始めにベッドの下から探すことにした。
     だがベッドの下に怪しい箇所はなく、壁に掛けられた絵画の裏、桐箪笥の中と順々に探していったが、隠し通路や仕掛けは見当たらなかった。そうなると怪しいのは本棚で、動かないか押してみたが備え付けのようでびくともせず、本を取り出して調べるも成果は上がらなかった。
    「あの男爵の性格を考えれば、あまり凝ったことはしなさそうなんだが」
    「あー」
     人の声が聞こえ、赤司は咄嗟に扉を見た。廊下の音には神経を尖らせていたのに……。自らが手にかけることも辞さない覚悟だったのだが、扉の前には誰も立っていなかった。勘違いかと思った矢先、また同じ声が聞こえてきた。

    「あっ、あっ」
     よく見れば、部屋の隅に子供が座っていた。赤ん坊と縁のない彼にはいくつか予想できなかったが、まだ言葉も話せない小さな子供だというのは確かだった。男爵夫人と同じ水色の髪と瞳を持つ子供は、顔もどこか彼女の面影があり、赤司は心当たりのある名前を呼んでみた。
    「テツヤ?」
    「あー!」
     男爵家の一人息子の名を口にすると、子供は嬉しそうな声を上げ笑った。そしてハイハイして赤司の元まで来ると、何が楽しいのかキャッキャッと喜びの声を上げる。子供が扉を開けて入って来たとは考えにくい、きっと彼は最初からこの部屋にいたのだろう。隠し通路を探す間も細心の注意を払っていたのに、子供のあまりの影の薄さに赤司は苦笑した。
    「君は変なところまで母親似だね」
    「うぅ~」
    「静かにしてくれ。シー、だ。シー。わかるか?」
     口の前に人差し指を立てお願いすると、子供は途端に大人しくなった。だがくりくりとした目で、じっと赤司を見つめてくる。

     赤ん坊は皆可愛いものだと聞かされていたが、この子供は特に可愛い気がした。男爵夫人は華こそないが、顔立ちは決して悪くない。母親似なら将来はきっと……。
     そこまで考えて、赤司はいかに無意味なことを想像しているか気づいた。この子供はこれから死ぬのである。屋敷には火が点けられ、生き残るのは先ほどの給仕の男ただ一人。

     彼は吸血鬼にしては、温厚で優しい人物だった。享楽のため人を残忍な方法で殺して血を飲む吸血鬼が多い中、赤司は人に最大限の敬意を払った。生きていくためには人の血を飲まなければならないが、それでもできる限り苦痛を与えない方法で血を採取した。
     彼は目の前の赤ん坊を哀れに思った。そこで赤ん坊の頭に手を乗せ、彼の未来を見ることにした。ひどい死に方をするようなら、一思いに首を折って殺してやろうと思ったのである。温厚とはいえ所詮は吸血鬼、彼の思考は人間のものとはずれていた。
     けれどどういうわけか、一向に子供の未来は見えて来なかった。赤司が触れさえすれば、触れた相手の未来は彼の体に流れてくる。人であろうと吸血鬼であろうと関係ない。それなのに目の前の子供には通じず、赤司は驚きを隠せなかった。

    「……どうなっている?」
     困惑する赤司を余所に、子供は頭をなでられていると勘違いしたらしい。手足をばたつかせ、喜びを表現する。しかし赤司の手が動かないと判断すると、首を振って手を払い、本棚の方へ這って行った。
     父親と違って本に興味がないのか、子供が興味を示したのは棚板だった。一番下にある棚板を、叩いたり引っ張ったりして遊んでいる。
    「危ないぞ」
     見兼ねて子供を本棚から引き離したが、不本意らしくうめきながら赤司の腕の中で暴れてる。
    「あー! あー!!」
    「こら、いい加減にしろ」
    「うぅ~!!」
     子供はなおも暴れ、本棚に向かって手を伸ばす。

     本棚の──しかも本でなく棚板の──何が気になるというのか。子供のすることに意味はないと思いつつ、改めて本棚を見れば、棚板の一つがおかしいことに気づく。子供が先ほどまで遊んでいた棚板で、若干だが日の光を反射しキラキラと光っている。
    「なるほど、大人の視点ではわからないな」
     子供を止めるため屈まなければ、見落としたままだったろう。ほっとしたのも束の間、女性の悲鳴が聞こえてきた。
    「きゃぁあああああーーーーー!!」
     未来を知る赤司は、その叫び声が何を意味するか知っている。棚板を強く押すと、ガタンという音と共に中央の側板が二つに分かれた。隙間を片手で押し開け、赤司は子供を抱えたまま隠し通路の階段を駆け下りていった。

     ******

    「で、連れてきちゃったわけ?」
    「信じられないのだよ」
    「……」
     信じられないのは赤司もだった。黒子男爵の屋敷から抜け出した後、彼は北九州行の汽車に乗った。九州にはキセキの世代の一人である緑間真太郎がいたからだ。一旦彼の所へ身を寄せ、これからのことを考えようと思ったのである。
     赤司の身の振り方はすぐ決まった。しばらく静かに暮らしたいという彼の希望もあり、緑間が支那にいた時使っていた屋敷を借りることにした。人の世に紛れ生きる吸血鬼が多い中、緑間は好んで人里離れた山奥に住んでいる。赤司の知る限りでそんな変人は、偏屈な彼とそれに付き合う部下の高尾くらいである。

     問題は思いがけず助けてしまった男爵の息子、黒子テツヤだった。犬猫のように、その辺に捨てるというわけにはいかない。
    「汽車の中でそいつのメシどうしたんすか?」
     赤司の隣で鏡に夢中になっている黒子を高尾が指さす。高尾は赤ん坊を黙らせるには鏡! と、どこで仕入れたか知れない知識を披露し、黒子に手鏡を与えたのだが効果は抜群だった。黒子はじっと鏡をのぞき込み、自分に笑いかけたかと思えば突如叩き始め、好き放題している。
    「同じ一等車に、乳母連れのご婦人が乗り合わせていたんだ。すまないが、後でお礼の品を用意してくれ」
    「了解です赤司様」
    「前から思っていたんだが、その呼び方止めてくれないか?」
    「でもオレ、キセキより格下だし~。弟君に様付けしなかったら『頭が高い!』って怒られたし~」
    「……頼むからやめてくれ」

     弟の声真似までされ、赤司は居たたまれなくなる。実際アイツ言ってそうだなと思うと、頭痛が増した。
    「とにかく」
     話を元に戻したのは緑間だった。その声には苛立ちが含まれている。
    「そいつをどうする? 養い親の当てはあるのか?」
     眉間に皺を寄せ、高尾同様子供を指さす。その際黒子と目が合ったのだが、赤司と違って可愛いとは思わず、何を考えているかわからない目に気まずさを覚えた。
    「ない」
    「ない……だと!?」
    「貿易商のツテは使えないからな。地道に探すさ」
    「……」
    「そう睨むな。少しの間だけだ」

     そう言われても緑間の機嫌は直らなかった。残忍な行為こそしないが、彼は人に対して良い感情を持っていない。赤子といえども、人間と同じ屋根の下で暮らすのは我慢ならなかった。
     主人の様子を見てすべてを悟った従者は、赤司にある提案をした。
    「親は支那に行ってから探すっていうのはどうだ?」
    「そいつは日本人なのだよ」
    「(お前のために言ってんだろうが!)まだ言葉しゃべれないんだし、日本でも支那でも大差ないでしょ。だいたい日本で親探ししてる間に、亡くなった黒子男爵の息子ってバレたら面倒じゃん」
     高尾から目で頼むよとお願いされ、赤司は苦笑した。気難しい主を持つと苦労するようだ。迅速果断が座右の銘である彼は、高尾の提案どおりにするとすぐさま言おうとしたが、太腿に何かが被さって来た。ある程度の重みがあり、温かい。

    「あー、あっ。あー」
     原因は隣で遊んでいたはずの黒子だった。乗ったはいいが頭が重くて体勢を戻せず、腹を支点に手足をぶらつかせている。赤司は緑間たちと向かい合う形で座っていたが、正面の彼らの顔を見ずとも絶句しているのが雰囲気で伝わってきた。
     それもそうだろう。彼はキセキの世代の一人、吸血鬼の頂点に君臨する存在だ。人の子ごときがこんな無礼な真似をしていいはずがない。だが、赤司はフッと笑うと黒子を持ち上げた。
    「ほら、高い高いだ」
    「(すげー……)」
    「(弟の方だったら殺しているのだよ)」
     相手が違えば死んでいたとは露知らず、子供は呑気にはしゃいでいた。寛容な赤司に感心していた主従だが、どちらともなく顔を見合わせる。子供を持ち上げたまま、赤司がぴくりとも動かないのだ。

    「どうした赤司?」
    「赤司さん、赤司さん。……赤司様~」
     嫌がった様付けで呼んでも反応しない。痺れを切らした彼らは、声をそろえて叫んだ。
    「「赤司!!」」
    「……! あ、ああ。すまない」
     赤司は子供を横ではなく、自分の膝の上に下ろした。
    「高尾君の言うように、大陸に渡ってから親を探すとしよう」
     特に不自然な点がなかったため、固まっていた理由を追及しなかったが、彼らが知らぬ間に大変なことが起きていた。

     赤司が黒子を持ち上げた時、ちょうど彼の顔は黒子の体で隠れ、緑間たちからは見えなかった。同時に緑間たちから見えるのは黒子の背中のみで、黒子がどんな表情をしているかもわからなかった。
    「ほら、高い高いだ」
     何気なく取った行動だったのだが、黒子は赤司に向けて満面の笑みを見せたのだ。その様子はにこりというより、ふにゃりという擬態語の方が近い。彼は弟のように、カッと目を見開いた。
    「(なんだこの可愛い生き物は!!)」
     可愛いとは思っていたが、文句のつけようがない可愛さだった。固まる赤司を更に陥落させようと、黒子は愛嬌を振り撒き、甘えた声で赤司の心に訴えてくる。千年近く生きてきた彼だが、体に稲妻が走るような衝撃を受けたのは、この時が初めてだった。

     後に赤司は黒子を連れ支那に渡るのだが、赤ん坊に虜にされた吸血鬼は養い親を探さないのであった。

     赤司征十郎の弟は、兄と同じく赤司征十郎といった。訳あって同じ名を持つ二人だが、ここでは兄を赤司、弟を征十郎と呼ぶことにしよう。
     彼は伊太利亜にある古城で暮らしていたのだが、変化のない日常に退屈していた。そんな時人間の航海技術が進歩したと聞きつけ、生まれ故郷の日本へ移り住むことにした。日本には緑間がいる、彼をからかえば多少の退屈は紛れると思ったのである。
     事前の連絡なしに緑間の家を訪ねたのだが、出てきたのは部下の高尾だけで、緑間は寝込んでいて対応できないと言う。
    「貴様、主人の食事の用意を怠ったな」
    「オレちゃんとやってますって!」
    「血が足りない以外に、寝込む理由はないだろ」

     吸血鬼は老いず、いかなる病にもかからない。その吸血鬼が弱体化する理由は、銀製の武器で攻撃されたか血が足りないかのどちらかだ。たとえ銀のナイフや弾丸で攻撃されても、即死でない限り血を飲めば回復するのだから、寝込む理由はやはり血が足りないということになる。
    「真ちゃ……緑間様がお寝込んでいらっしゃるのは、精神的なものでございますよ」
     呼び慣れた愛称を言いかけるが、征十郎に睨まれ言い直す。ただし、内心気に食わないので茶化すような過剰な敬語で返した。
    「何があった?」
    「いや~、話しても信じないですって」
    「話せ」
    「はいはい、わかりましたよ」

     緑間の能力は千里眼と呼ばれるものだった。遠くで起きている出来事を見ることができる力なのだが、赤司が支那に渡ってから二年後、彼はその力で赤司の様子を探ろうとした。
     意識を高めていくうち、赤司の姿が徐々に見えてきた。彼は安楽椅子に座り、緑間が置いていった古い漢文の本を読んでいた。緑間はその光景を見ていて、おかしな点に気づく。赤司のいる部屋に日光が差し込んでいるのだ。
     人間の創作物における吸血鬼のように、日の光を浴びて砂になることはないが、吸血鬼は暗闇を好む。よって人のふりをしなくてもよい吸血鬼の屋敷では、窓を板で閉じるのが一般的だ。

     嫌な予感がする中、今度は水色の物体が現れた。覚束ない足取りで歩いてきたかと思えば転び、立ち上がったかと思えばまた転ぶ。
     成長していたが、赤司が支那に連れて行った子供に間違いなかった。まだ親を探していなかったのかと文句を言ったが、赤司の耳に届くことはなく、彼の意識は涙を流す子供で支配されていた。
     急いで立ち上がると子供を抱っこし、あやし始める。緑間の力ではその場の音は聞こえないが、『よちよち、痛かったでしゅね~』とふざけた赤ちゃん言葉が聞こえてきそうだった。
     緑間は遠ざかる意識を辛うじて繋ぎ止めたが、赤司が高い高いを始めると限界を迎えた。彼の顔は弛み切っており、吸血鬼の威厳は微塵もない。緑間はその場に倒れ、長い間寝込む破目になった。

    「オレも最初は信じなかったんですけど。でも未だその時の衝撃で寝込んでるし、赤司様にも予兆があったし、やっぱり本当なんだろうな~って」
    「予兆だと?」
    「こう見えてオレ立場弁えてるんで、支那に渡るまでの赤ん坊の面倒は当然オレがすると思ってたんですよ。それなのに赤司様ったら、率先して自分がやるって言ったんです。最初は自分が連れてきたんで遠慮してるのかな~って思ったんですけど、手伝おうとしても絶対赤ん坊渡さなくて。そのうえ赤ん坊に髪引っ張られようが涎垂らされようが全然怒らないから、どんだけいい人なんだよとか思ってたら……単にメロメロにされてただけなのね」
     手で顔を覆う高尾の肩は震えていた。これが他の吸血鬼なら嘆いていると思うところだが、人間笑い袋ならぬ吸血鬼笑い袋と言われる高尾のこと。笑いを堪えているに違いない。

     征十郎は顎に手を当て考える。にわかには信じがたい話だった。兄の赤司が人間の子供を保護したというのは、まだ征十郎にも納得できた。彼は数多くいる吸血鬼の中でも、群を抜いて人に対し好意的だ(征十郎からすれば人は餌であり、餌に対し情けをかける必要はないと考えるのだが)。
     しかし、骨抜きにされているというのが信じられない。彼は温厚ではあるが、同時に理性的でもある。どんな美女が言い寄ってきても取り合わなかった彼が、たかが人間の子供に振り回されるはずがなく、加えて赤司は『あの風習』に否定的だ。それよりは緑間が征十郎を嫌がって、追い払おうと高尾に嘘を吐かせていると考えた方が自然だった。

    「ありえないな」
    「やっぱそう言うでしょ? もう自分の目で確かめたらどうっすか」
    「ああ、そうする。邪魔をしたな」
    「へ?」
     征十郎はとにかく退屈していた。真実を確かめるためだけに、再び長い船旅に出るのが苦にならないほどに。外套を翻し、彼は緑間の家を後にした。兄同様、彼の座右の銘も迅速果断であった。
    「ごめ~ん真ちゃん」
     主人の頭痛の種を増やしてしまい、高尾は詫びた。

     ******

     征十郎の能力は、兄と同じ予知だった。確実に起こる近い未来しか見えないというのまで同じだったが、唯一違う点は対象が己であることだ。慎重な彼は何か行動を起こす前に、必ず自分の未来を確認するようにしていた。支那行きの船の中で、ベッドに腰掛け目を瞑ると、自分の額に触れさっそく能力を使った。
     まず見えてきたのは満天の星空だった。星空の下、征十郎が目指している屋敷が映る。西欧風の屋敷で、暗いため色合いはよくわからないが、白壁に淡い緑色の屋根をしていると征十郎は知っている。
     緑間がまだここに住んでいた頃、彼もまたこの屋敷に住んでいたのである。あまりの田舎ぶりに耐えられず彼だけ引っ越す破目になったが、屋敷の造りは素晴らしかった。

     未来の征十郎は玄関でなく裏口から屋敷に入ると、気配を消して中を探索し始めた。一時住んでいただけはあり、迷うことはない。一階は特に変わった様子がなかったため、二階を探そうと階段に足をかけた時、突然視界が真っ白になった。その後いくら待とうと未来の情景は見えず、征十郎は目を開けた。
    「どういうことだ?」
     予知が終了する際は、物の輪郭が朧になるのと同時に、辺りが徐々に暗くなっていって終わる。吸血鬼になってから数えきれぬほど予知能力を使ってきた彼だったが、こんな終わり方は初めてだった。試しにもう一度自分の未来を見ようとしたが、やはり階段のところで同じ終わり方をした。

     疑問が解決されないまま、征十郎は兄の屋敷の前に来ていた。着いた時には予知同様夜中になっており、彼は玄関でなく屋敷の裏手に回った。不用心なことに鍵はかかっておらず、裏口の扉はすんなりと開き、彼は土足のまま屋敷に上がった。
     裏口は調理場と直結しているのだが、吸血鬼の屋敷だというのに野菜が置いてあり、他にも洗った食器や調理器具が見えた。彼は高尾の言っていたことを思い出したが、調理場は素通りし廊下へと出た。
     一階の部屋を隈なく探し何もないとわかると、征十郎は問題の階段へと向かった。あえてこの長い回り階段を使わないという選択肢もあったが、彼は予知が変わった形で終わった理由を知りたかった。意を決して階段に片足を乗せたのだが、そこで後ろから名前を呼ばれた。

    「赤司くん」
     一体いつの間に近づいてきたのだろう。一間ほど先に、白い寝間着姿で手にキューピー人形を持った子供がいた。肌の白さが際立っており、肌色だけでいえば仲間の青峰より吸血鬼らしかった。しかし何より着目すべきは子供の髪色で、高尾が話していた子供と同じ水色をしていた。
    「(例の子供? ……いや、まだ歩くのもやっとな赤ん坊のはず)」
     目の前の子供は幼かったが、赤ん坊というには大きすぎる。征十郎は吸血鬼であるが故に、幼い子供の成長の速さを知らなかった。
    「赤司くん、どこいってたの? テツヤさがしたんだよ」
     子供は征十郎を兄の赤司と間違えているようで、人形を持ったまま小走りで駆け寄ってくる。子供が赤司と征十郎を見間違えるのは無理もない。彼らは名前だけでなく背丈や顔つきまで同じで、違いといえば髪の長さと左目の色が異なるくらいだ。

     だが征十郎は人に容赦なかった。兄と間違われたことも不快だし、人ごときに君付けで呼ばれるのも許しがたかった。兄とは違う橙色の左目をぎらつかせ、彼は告げた。
    「身分の違いを知れ」
     征十郎は目の前に迫った子供を足蹴にしようとした。けれど、彼の足が届く前に子供は勝手に転んだ。
     何故何もない所で転ぶのか征十郎には理解しがたかったが、何もない所で転ぶのが子供である。顔面から派手に転んだ子供は、寝そべったまま動かない。ようやく顔を上げたかと思えば、鼻から血が出ていた。

    「ふぇっ……」
     目にじわじわと涙が溜まっていき、ついには声を上げて泣き始めた。
    「うわぁーーん!!」
    「……黙れ」
    「だっこ、だっこ!」
    「くそっ!」
     辺りに立ち込めた甘い匂いに、征十郎は顔をしかめた。人間は血を鉄臭いと表するが、吸血鬼にはこの上なく甘く感じる。匂いは男性より女性、大人より子供の方が強くなり、強くなればなるほど吸飲欲求が高められるのだった。

     吸血鬼の掟で、幼い子供には手を出してはならないとされている。掟の定められた理由は定かでないが、幼い子供の流す血は目眩がするほど甘い匂いがした。泣きながら征十郎に手を伸ばす子供に無礼だと憤る一方、血の誘惑に勝てなかった。子供の体を抱き起すと、血が流れる鼻を口に含んだ。
     驚きで子供の涙は引っ込んだが、征十郎は構わず子供の血を堪能した。匂い同様、子供の血は極上だった。だが麻薬でもあり、飲めば飲むほどもっと欲しくなる。
    「テツヤのおはな、たべちゃめっ」
    「うるさい」
     子供は征十郎の体を押すが、それ以上の力で抑え込む。血を飲み込むため口を離す、その一瞬でさえ惜しく感じた。彼は夢中になって血を飲んでいたので、殺気立った兄が現れたのに気づくのが遅くなった。

     彼が兄を察知した時には、体は遠くへ飛ばされていた。銀の武器以外では傷つかないため怪我はないが、蹴飛ばされた衝撃で服が擦れてしまった。
    「僕を見下ろすなんて、いい度胸じゃないか」
    「どうやら殺されたいらしいな」
     百年ぶりに交わされる兄弟の会話は、噛み合っていないうえに物騒だった。この兄弟は元々仲が悪いのに加え、互いに虫の居所が悪かった。
     食事の邪魔をされた弟と、我が子同然の可愛い子供に手を出された兄。温厚な赤司も殺気立ち、場には緊迫した雰囲気が漂う。しかし子供は目をパチパチとさせ、不思議そうに二人を見比べる。

    「赤司くんが、ふたり?」
     子供の声で我に返り、赤司は急いで子供を抱きかかえる。そしてシャツの裾で鼻を拭ってやれば、血はほとんど止まっていたが唾液でぬめぬめしていた。弟に対する殺意に再び火が点いたが、養い子の手前そんな素振りは微塵も見せなかった。
    「黒子、もう大丈夫だ。怖かったね」
    「なんで? なんで赤司くんがもうひとりいるの?」
     いきなり鼻を食われたことより、赤司が二人いる方が気になるらしい。
    「すぐにオレ一人だけになるから、気にしなくていい」
    「なんで? なんで?」
     物騒なことを言いかわそうとしたが、子供に意味は通じない。黒子はなんで、なんでと繰り返すうちに感情が高まってしまい、癇癪混じりにぐずり出した。

    「なんで、なんでぇ!」
    「黒子、落ちる」
    「やっ!」
     黒子は赤司の腕の中で暴れ、機嫌は悪くなる一方だった。言うことを聞かない子供に、他人事ながら征十郎は見ていて腹が立ったが、八つ当たりされている赤司はというと、困った様子をしつつも顔は緩み切っている。緑間が見た『デレデレした顔』とは、この顔だったに違いない。

    「僕はお前の言う赤司君の弟だ」
     征十郎は遠い目で兄を眺めていたのだったが、実に良い考えが浮かんだのだ。
    「おい」
     勝手に話しかけるなと言いたい兄を無視し、征十郎はなおも黒子に話しかける。
    「お前の名前はなんだい?」
    「……黒子テツヤ」
    「そうか、テツヤか」
     人が変わったように柔和な笑みを浮かべているが、赤司から言わせれば胡散臭いことこの上ない。しかし黒子が征十郎を警戒する気配はなく、今度は彼の方から征十郎に話しかける。

    「おきたらね、赤司くんいなかったの。ずっといてねって、テツヤおねがいしたのに」
    「悪い兄さんだね。兄の不始末は、弟の僕が取るとしよう」
     おいでと手を広げる。テツヤはその手を見た後、上目使いに征十郎を見た。
    「テツヤとねんねしてくれるの?」
    「ああ、いいとも」
    「やはり死にたいようだな征十郎」
    「嫌だな兄さん。実の弟が信用できないのかい?」
    「お前みたいな不出来な弟、信用できるか」
    「こらっ」
     非難の声を上げたのは、征十郎でなく黒子だった。しかもあろうことか、雑草でも引っこ抜くかのように赤司の髪を引っ張ったのだ。征十郎は予想外の出来事に言葉を失ったが、黒子は頬を膨らまし、めっ! と言った。

    「そんなこといったらめっ!」
    「待ってくれ、オレはただ……」
    「めっ! めっ!」
     目がどうしたと思っていた征十郎にも、話の流れで黒子が言っている『め』とは駄目の意味だとわかった。不出来の言葉の意味はわからなくても、悪い意味合いだというのはわかるようで、生意気にも赤司を叱りつけている。
    「赤司くん、ごめんなさいは?」
    「え?」
    「ごめんなさいは!?」
    「……ごめんなさい」
    「よくできました」
     黒子は赤司の頭をいい子いい子と言いながらなでているが、信じられないのは手が届くよう頭を傾けている赤司だった。征十郎は心の中で、誰だコイツとつぶやいた。

     ******

     征十郎と寝かせるわけにはいかない。今度はきちんと側にいるから。赤司の切実な訴えも空しく、黒子の関心は征十郎に移っていた。赤司以外で初めて会う人間──本当は人間でなく吸血鬼だが──に興味津々で、寝室まで自ら手を引っ張って案内をした。
     ベッドの中でいろんなことを聞いてきたが、征十郎が曖昧に濁す間に黒子は寝てしまった。大事に抱えていたキューピー人形も、今や彼の手を離れ枕元に転がっている。
    「そんなに見られると寝られないんだけど」
    「お前が寝る必要はないだろ」
     征十郎は首尾良く添い寝の権利を得たが、赤司がベッドの真横に椅子を持ってきて弟を見張っていた。

    「そんなに心配しなくても何もしないさ」
    「掟を破る輩を信用はできない」
    「子供に手を出さないっていうアレ? 誤解さ、ちり紙がなかったから仕方なく口で拭ってやったんだよ」
    「見え透いたうそを吐くな」
     黒子が寝ると、赤司は征十郎の知る赤司に戻っていた。感情を露わにせず、どこまでも冷たい目で彼を見る。今更兄の態度に傷つきはしないが、芯から腑抜けになったわけではないと知り征十郎は安堵した。

     征十郎は黒子の寝顔をのぞき込んだ。気持ち良さそうに寝る子供の顔は可もなく不可
    もなく、どこにでもありそうな顔だった。兄の美的感覚がおかしくなったのではないかと余計な心配をしたが、黒子の丸い頬を見ているとうずうずしてきた。征十郎は好奇心に負け、子供の頬を突いてみた。
    「(柔らかい)」
     予想以上の柔らかさに征十郎は驚いた。つきたての餅のようで、あまりの柔らかさと感触の良さに感動すら覚えた。最初は恐る恐るだったのが、遠慮なしに黒子の頬を突き始める。黒子が嫌がって寝返りを打ったが、征十郎は追いかけて行って更に突いた。
    「(どうしよう、気持ち良すぎる。これと比べたら女の肌なんて石みたいなものだな)」
     女性に失礼なことを思っている間も、征十郎の手は止まらない。

    「黒子が起きる」
    「兄さんこそ、そんな大声を出したら起きるだろう」
     見兼ねた赤司が苦言を呈するが、征十郎は適当に聞き流す。彼の目は既に頬から肉付きの良い腕に移っていた。大人とは違う肉の付き方に、征十郎の期待は高まった。そっと指で押せば、頬よりは弾力があるものの、やはり癖になる柔らかさだった。
     征十郎が黒子と一緒に寝てやったのは、子供を間近で観察するためだ。そうすれば、自分と同格の兄が人間の子供に入れ込む理由がわかるかもしれないと思ったからだ。自尊心の高い彼からすれば苦渋の決断だったが、結果的にはミイラ取りがミイラになってしまった。口寂しいのか、黒子が自分の小さな親指をしゃぶり出したのを見て、征十郎は目を見開いた。

    「(なんだこの可愛い生き物は!!)」
     何故先ほどまで可もなく不可もない顔などと思っていたのか、征十郎は自分が理解できなかった。どこからどう見たって、隣で寝ている子供は可愛かったのである。
    「兄さん」
    「なんだ」
    「僕しばらくここに住む」
    「はぁ!?」
     さすがの赤司も冷静ではいられなかった。慌てて征十郎が口の前に人差し指を立てたが遅かった。黒子がう~んと唸った後、薄ら目を開けたのである。まだ眠いらしく、半分閉じた目のまま上半身を起こした。

    「すごい頭だね」
     征十郎が言うように、黒子の寝癖はひどかった。毛先がいろんな方向に飛び跳ね鳥の巣のようだった。黒子は目をこすりながら征十郎に挨拶した。
    「おはよう赤司くん」
    「違うだろ」
     赤司君でも間違いではないのだが、思い浮かべた人物が違う。黒子は目を細めたままじっと征十郎の顔を見つめ、ようやく自分が誰と寝ていたか思い出した。
    「おはよう征くん」
    「おはようテツヤ」
     君付けで呼ばれたというのに、征十郎はご満悦だった。オレは認めないぞと兄は叫んでいたが、知ったことではない。



     弟の征十郎が押しかけてきてから早半年、赤司は悩んでいた。弟の存在そのものに悩んでいるのも確かだったが、彼の頭を特に悩ませているのは弟の浪費癖だった。玄関にうず高く積まれた荷物の山に、赤司は大きな溜息を吐いた。
     中身は見なくてもわかったが、赤司は一番上に乗っている箱を開けた。桃色のリボンを解いて出てきたのは子供服だった。白いレースがふんだんに使われており上品な仕上がりだが、大人しそうに見えて実は活発なあの子が着るだろうかと、赤司は疑問でならなかった。
     憂鬱な気分のまま違う箱を開けると、今度は玩具が入っていた。ブリキの車にビー玉、百人一首。ブリキの車はまだいいがビー玉は飲み込む危険があるし、百人一首は気が早すぎる。まだ黒子は平仮名すら読めないのだから。

     すっかり黒子に魅了された征十郎は、黒子に次々と物を買い与えていた。おかげで黒子の部屋は、部屋というより玩具箱である。蓄えのある彼は金の心配はしていなかったが、黒子がわがままな子に育たないか気が気でなかった。黒子が転んで泣く度抱っこしている男に征十郎も言われたくないだろうが、彼は自分の過保護に気づいていなかった。
    「お部屋まで運びましょうか?」
    「キミはそんなことしなくていい。征十郎にやらせる」
    「はぁ」
     立ち尽くす赤司を見兼ね、召使いの老婆が申し出る。彼女は最近赤司家にやって来た。赤司家に来る前は、桃井という吸血鬼の所で身の回りの世話をしていたのだが、赤司兄弟が一緒に住むと知った彼女に派遣された。
     黒子の世話をめぐって争いが繰り広げられると、桃井にはわかったからである。召使いがいるのに召使いの仕事をするわけにもいかず、今黒子の世話は彼女が行っている。

     荷物を玄関に置いたまま、赤司は二階にある子供部屋に向かった。赤司が食事で不在なのをいいことに、黒子にべったりくっついているのは明らかだった。子供部屋の前に来ると思ったとおり、中から弟の声が聞こえてきた。
    「この世にはね、人より上位の存在がいるんだ」
    「じょういってなあに?」
     征十郎の声に続き、黒子の声がする。赤司がわずかに開いた扉の隙間から部屋をうかがうと、会話する二人の姿が見えた。征十郎は寝そべり、黒子は色鉛筆を片手に征十郎の隣に座っている。側には画用紙もあるからお絵かきの最中だったのだろう。
    「人より賢くて偉くて、何をしても許されることだよ」
    「それで?」
    「その上位の存在は、人の血を飲んで生きているんだ。人より優れているから、人を食らっても許されるんだよ」

     怯えて耳を塞ぐのかと思いきや、怖い物聞きたさに黒子は話の続きを促した。征十郎が満足そうに笑う。
    「だが食らうといっても、直接人の体から血を啜ることはしない。人の体に牙を立てたら、餌である人間が仲間になってしまうからだ」
    「なんでなかまになっちゃだめなの?」
    「言っただろ? 彼らは人より上位の存在。よほど優れた人間でなければ、仲間になる資格はない。人から直接血を飲めない彼らは、人の体から血だけ取り出し、それをワイングラスに注いで食事を取るんだ」
    「どうやるの?」
    「鉄の処女を使うのさ」
    「なあにそれ」
    「お前はさっきから質問ばかりだね」

     征十郎は黒子が持っていた色鉛筆を借りると、画用紙に何か絵を描き始めた。赤司からは何を描いているか見えないが、黒子は体を乗り出している。
    「鉄の処女というのは、こんな風に棺桶に女の頭が付いていて……蓋には無数の針がある。この棺桶の中に人を入れる」
     征十郎が絵を更に描き込む。
    「蓋を閉めれば中の人間は串刺し。あっという間に血の海だ。ああ、そうそう。実はこの屋敷の地下に、これと同じ鉄の処女が置いてあるんだ。彼らは夜な夜なその部屋を使っているらしい」
    「……ふぇ」
     黒子の様子がおかしいのに、征十郎は話を止めない。声の調子を落とし、カッと目を見開いた。

    「それと、彼らは子供の──ちょうどお前くらいの年の──血が、大好物なんだ!」
    「うわぁーーん!!」
    「おい!」
     赤司が扉を押し開けた時には遅かった。黒子はわんわんと声を上げ泣き、征十郎はその様子を楽しそうに眺めている。黒子は赤司に気づくと、泣きながら駆け寄って来た。
    「赤司くん、赤司くん、赤司……」
    「征十郎の言うことを真に受けるんじゃない。全部うそだから」
     赤司の膝に抱きついてきた黒子を抱っこし、背中をさするが涙は収まらない。
    「そんなに泣いたら目が溶けてしまうよ」
    「確かに夜な夜なというのはうそだな。昼間にも使っているし」
    「うるさい」

     黒子にというよりは、食事を済ましてきた赤司に対して言っているのだ。睨まれても征十郎は気にせず、泣きじゃくる黒子の頬を突いた。
    「テツヤ、こっち向いて。お前のぶさいくな泣き顔が見られないだろ」
     このいろいろと拗らせた弟は、黒子の笑った顔より泣いた顔の方が好きと公言してはばからなかった。兄さん貸してと征十郎に言われるが、赤司が大切な黒子を任せるはずがない。
    「ほら、泣きやんで。可愛い顔が台無しだよ」
    「うっ、ひっく…」
    「何をお絵かきしたんだい? オレに教えてくれないか」
     黒子を抱いたまま、床に置かれた画用紙を拾う。赤司は画用紙の半分を使って描かれた紫の塊を指し、これは何? と聞いた。

    「紫原くん」
     紫原はキセキの世代と呼ばれる吸血鬼の一人で、先日家に遊びに来た。紫原の巨体を表すため、画用紙を半分も使ったのだろう。謎の物体の正体がわかったところで、赤司の指は次の塊に移る。
    「赤司くんとねテツヤとね、征くんかいたの」
     画用紙の残り半分に描かれていたのが、赤い曲線の塊二つとその二つに挟まれた水色の塊であった。何も知らない者であれば、インクの出が悪くて紙にペンを走らせたように見えただろう。そして水色の小さな塊が黒子というのは推測できたが、さすがの赤司でも赤い塊の区別はつかない。

     しかし赤司は満面の笑みで、黒子の絵を褒めるのだった。
    「黒子はお絵かきが上手だね」
     赤司は本気で上手だと思っていた。将来は画家になるかもしれないとすら思っている。紛れもない親馬鹿だ。大好きな赤司に褒められて黒子の機嫌は上向きかけたが、征十郎が兄から画用紙を取り上げてつぶやく。
    「この赤い毛糸玉が僕なわけないだろ」
    「うぅ……うわぁーーん!」
    「征十郎!」
    「兄さん邪魔!」
     赤司の後を追い二階にやって来た召使いは、子供部屋の惨状見て思った。本物の赤司様たちは、今どこにいらっしゃるのかしらと。



    「帰れ」
    「嫌だ」
    「帰れ」
    「嫌だ」
     将棋を指しながら、兄弟は幼稚な会話を繰り広げていた。彼らはここ五年、同じやり取りを続けている。彼らをかばうわけではないが、吸血鬼にとって五年という歳月はとても短い。人にとっての昨日、一昨日と同程度の感覚である。
     しかし人にとっては──特に幼い子供にとっては──、五年とは長い月日だ。赤司が日本から連れてきた赤子は、文字の読み書きができるほどに成長していた。

    「人の子が、こんなに面白いとは思わなかった。吸血鬼と違い、日に日に変化をしていく。最高の暇つぶしだ」
    「黒子はもう成長しない。あの愛くるしい姿のままで終了だ。だから、とっとと帰れ」
    「兄さんはテツヤが絡むと馬鹿になるね」
    「お前が言うな」
     互いの顔を見ず、視線は将棋盤に注がれている。何事も速やかに判断を下す彼らが、これほど長く考え込むのは兄弟で将棋を指す時くらいである。赤司が駒を持ったまま熟考していると、ふと征十郎が顔を上げた。
    「ところで兄さん」
    「ようやく帰る気になったか」
    「なるものか。……何故テツヤには僕たちの力が効かないんだろうね」

     黒子家の園遊会に参加していた赤司は、黒子の両親や会の参加者、使用人に至るまで殺される未来を見た。後に不況の中成功を収める黒子家を妬んでの犯行とわかったが、赤司は黒子の未来も見ようとした。
     ところが黒子の未来だけは見えず、それが彼を助ける遠因にもなった。その後も何度か彼の未来を見ようと試みたが、いずれも失敗している。
     征十郎は己の未来しか見られないが、黒子が側にいる時の未来は見ることができない。能力を使って未来を見ようとした時、突如真っ白になって何も見えなくなれば、その先の未来は決まって黒子が関係していた。
    「吸血鬼の力が通用しない、というのならまだわかりやすかったんだけど。敦や高尾はテツヤに対して能力を使っていないからわからないが、少なくとも真太郎の千里眼は通じている」
    「何事も自分が一番だ、自分は何よりも優れていると天狗になるなということだろう。オレたちはあの小さな子に敵わないんだ」
     征十郎があからさまに嫌そうな顔をしたが、彼も理解しているはずだ。力以外でも彼らは黒子に敵わないのだから。

     コンコンと扉を叩く音がし、扉の隙間から黒子が顔をのぞかせる。ぱっちりと大きな瞳や子供特有の丸い輪郭はそのままだが、身長は赤司たちの腰下あたりまで伸びた。出会った当初、歩くこともできなかった赤子が、である。それだけで赤司の目頭は熱くなったが、当の黒子は知る由もない。
    「赤司くん、征くん。紫原くんです」
    「こんにちは~」
    「「……」」
     紫原は度々赤司家を訪れており、黒子とも面識がある。彼は吸血鬼なのに人の食事を好み、黒子とは茶飲み友達ならぬお菓子食べ友達だった。黒子は赤司たちがいる机まで走ってくると、腕に抱えた人形を見せてきた。

    「紫原くんから、お人形さんもらいました。ボク、ありがとうってちゃんと言いました」
     お土産と思われる人形は、桃色のドレスを着たビスク・ドールだった。昔彼が持っていたキューピー人形(庭で遊んでいるうちに無くしてしまい、一晩中泣いて赤司を困らせた)と同じビスク・ドールだが、今持っているのはどう見ても女児用だった。
    「……オレたちの力は通じないのに、こいつのは通じるかと思うと腹立たしいな」
    「兄さんにしては素直だね」
    「赤ちんたち何言ってんの?」
    「猿芝居はやめろと言っているんだ、涼太」
     首を傾げていた紫原から表情がなくなる。そしてにやりと笑うと、彼の体は白い煙に包まれた。
    「あ~あ、やっぱ赤司っちたちは騙せないか」
     白い煙が引いて出てきたのは、銀幕のスター顔負けの美丈夫だ。名は黄瀬涼太といい、彼もキセキの世代の一人だった。女性なら卒倒しかねない笑顔を振り撒いているが、仲間内では彼の性格も相まって鬱陶しいと有名である。

    「お久しぶりっス。って、そんな嫌そうな顔しないでよ!」
    「「うざい」」
    「普段仲悪いくせに、こんな時だけ息ぴったりっスね」
     大人たちがたわむれる傍ら、黒子だけが茫然としていた。紫原と思っていた男が、目の前で違う男に変身したのだから当然である。真ん丸の目で自分を見つめる黒子に気づき、黄瀬は視線を合わせるため屈んだ。
    「初めまして。お名前は?」
    「黒子テツヤです……」
    「黒子っちね。あ、でもテツヤっちって呼んどいた方がいいかな? 黒子っちも赤司っちになっちゃうんだし」
    「黄瀬」
     赤司が顔をしかめるも、黄瀬は赤司の思いに気づいていない。
    「赤司っちの御眼鏡にかなうなんて、どんな子供かな~って思ったら……まさか男とはねぇ。あ、軽蔑してるんじゃないっスよ? 子供産めないオレたちにとって、男も女もあんまり関係ないし」

     吸血鬼の世界には『ある風習』がある。元は人である彼らは、長い時間を生きる中で孤独を感じ、孤独を癒す伴侶を求める。吸血鬼同士で結ばれる者もいるが、多くは想い人を吸血鬼にし自分の伴侶とする。そして『ある風習』とは、自分の伴侶とするため人の子供を引き取って育てるというものだった。
     黄瀬は現在亜米利加に住んでいるが、風の噂で赤司が人の子供を育てていると聞いた時、伴侶を育てているのだと信じで疑わなかった。彼は仲間を増やすことに否定的で、特に子供を巻き込むことを嫌がっていたが、それ以外に子供を育てる理由がなかった。
    「黒子っちは、どっちの赤司っちの伴侶になるの?」
     かたくなな赤司の心を射止めたのはどんな美少女かと思い、わざわざ亜米利加からやって来たのだが、男だとは意外だった。それに兄の赤司だけだと思って来たのに、弟まで一緒に住んでいたのだから二度驚いた。黒子は瞬きを繰り返し、『はんりょってなんですか?』と聞いてくるので、黄瀬はお嫁さんのことと返した。

    「ボクは男の子です!」
     黄瀬の答えを聞いて、黒子は真っ赤な顔をして怒る。女物の人形は喜んで受け取ったが、女扱いされるのは許せないらしい。
    「そんなに難しく考えるな」
     静観していた征十郎が、黒子の体を抱きかかえる。大きくなって抱っこをねだることはなくなったが、征十郎たちの方が癖になってやめられないのだ。征十郎は膨れた頬を指で突いた。
    「僕と兄さん、どちらが好き?」
    「どっちも好きです」
     黒子の答えは早かった。けれど、それは答えになっていなかった。
    「どっちもでなくどちらか。より好きな方は?」
    「二人とも同じくらい好きです。どうして選ばないといけないんですか?」
    「子供相手に何を言っているんだ。黒子、気にするな」
     赤司は征十郎から黒子を取り上げる。ずしりと重くなった体に多少の寂しさを感じ、彼は自嘲気味に笑う。今からこんなことでは、先が思いやられる。黒子と過ごした八年があっという間に過ぎたように、彼は瞬く間に大人になって赤司の元を去っていくのは決まりきったことなのだから。

    「黄瀬。お前の早とちりは今に始まったことではないが、お前が思うような目的で黒子を育てているんじゃない」
    「えぇ!? 赤司っちもそうなの?」
     こういう時同じ名前だとややこしいのだが、黄瀬が顔を向けているのは征十郎の方だった。彼は黒子の顔を見た後、ああと肯定した。
    「こんなちんちくりんを、僕の伴侶にするわけないだろ」
    「マジで!? じゃあなんで黒子っち育ててるんスか?」
    「赤司くんがボクのお父さんだからです!」
    「でもね、亜米利加にはギブアンドテイクって言葉があってね……」
    「涼太も亜米利加で多少頭が良くなったんだね」
    「どういう意味っスか!」
     黄瀬と征十郎は流したが、赤司は黒子の発言に違和感を覚えた。深く考えなくていいのかもしれないが、記憶を遡っていくうちに、黒子が勘違いしていてもおかしくない気がしてきた。赤司は恐る恐る聞いてみた。

    「オレがお父さんなら征十郎は?」
     黒子はさも当然と言わんばかりに答えた。
    「おじさんです」
    「ぶっ!」
     思わず吹き出した黄瀬だが、征十郎に思いきり足を踏まれ、男前に相応しくない声を上げた。
    「なんで兄さんがお父さんで、僕がおじさんなんだ!?」
    「赤司くんの弟だからです」
    「「……」」
     怒り心頭の征十郎だったが、彼も兄と同じ結論に達した。兄弟は顔を見合わせたが、赤司が手で制する。自分が言うという意味なのだろう。黒子が不思議そうに赤司の顔を見つめてきて、彼は相変わらず可愛いなと現実逃避しかけたが、覚悟を決めた。

    「オレとお前は、親子じゃないんだ」
    「よって僕も叔父さんじゃない。血が繋がっていないんだからね」
    「なんでそんなこと言うんですか!?」
     黒子はからかわれていると思い、眉を吊り上げる。赤司は胸が締めつけられる思いだったが、はぐらかしてやり過ごすのは良くないと考えた。
    「昔お前に『テツヤのおかあさんはどこにいるの?』と聞かれて、お前の母親“は”亡くなったと言った。けれどそれはお父さんは? と聞かれなかったからであって、お前の父親も同じ時亡くなったんだよ」
    「お前と兄さん、全然似ていないじゃないか。どうして親子だと思った?」
     黒子にとっては青天の霹靂だったに違いない。大きな目を更に大きくしていたが、その目は次第に潤んでいき、ついに大粒の涙が零れ落ちた。
    「赤司くん……ボクのお父さんじゃないんですか……?」
    「ああ。お前の両親が亡くなって、オレが育てることになったんだ」
     黒子はやだと大きな声を出し、赤司の胸を叩き始めた。

    「やだ、やだ! 赤司くんがお父さんじゃないとやだ!」
    「オレはお前の父親みたいなものだろ」
    「ほんとうのお父さんじゃないとやだ! ほんとうのお父さんになって!!」
     黒子は小さな頃のようにすぐ泣くことはなくなり、大人の手をわずらわせない良い子だった。しかし今は甲高い声で泣き、赤司が困っているのもおかまいなしだ。赤司が慰めの言葉をかけても、彼の耳には入っていかない。
    「久しぶりに泣いたと思ったら……。僕はうるさいのが嫌いなんだ」
     征十郎が黒子の頭に手を置く。好きだという泣き顔には目もくれず、水色の髪に唇を寄せる。
    「血の繋がりがなんだというんだ? あんな物は腹の中に入って消える物だよ」
    「征十郎」
    「うるさいな黙ってろ。僕はテツヤのこと好きだよ、見ていて面白いし。お前も僕のこと好きだろ?」
     涙でぐしゃぐしゃになった顔で、黒子は何度も頷く。鼻水まで出てぶさいくな顔になっていたが、何故か征十郎は醜いとは思わなかった。
    「それでいいじゃないか。まあ、兄さんより僕の方が上だと言えば、もっと好きになってやるけど?」
    「二人とも好きです!」
    「泣いている時まで強情だねお前は」
     赤司は苦笑しつつ、まだしゃくり上げている黒子の背をなでた。
     一人蚊帳の外にいる黄瀬は、三人の様子を観察していた。
    「(どちらさんですかね、この人たち)」
     そこにいたのは、黄瀬の知る赤司征十郎ではなかった。征十郎は冷酷で自分に逆らう者には容赦しないと有名だったし、赤司にしたってそうだ。征十郎と違い冷酷ではないが、人を寄せつけない雰囲気がある。孤高の王とは、まさに彼のことだ。二人が黒子に見せている甘ったるい顔など、彼には未だ信じられなかった。
     こんなに入れ込んでおいて、伴侶にしないとはどの口が言うのか。黄瀬はそう思うのだった。



     赤司が父親でないという事実は、幼い黒子にとって衝撃的だったが、心の傷にはならなかった。血が繋がっていなくても、愛されているとわかったからだろう。
    「婆や、お手伝いします」
     調理場に行き、黒子の食事を用意する召使いの手元をのぞく。
    「まぁテツヤ様。テツヤ様がそんなことしなくていいんですよ」
     召使いからすればとんでもない話だった。彼女も黒子は将来赤司と征十郎どちらかの伴侶になるのだと思っている。しかし黒子は見かけによらず頑固で、いくら言っても自分が間違っていると思わない限りやめようとしない。

     召使いの老女は困った。男子厨房に入らずと言ったところで、婆やだけ働かせたりできませんと嬉しいことを言ってくれるに決まっているのだ。困った彼女は、黒子が持っている人形に目をつけた。
    「こんな所にいては、お人形さんの服が汚れてしまいますよ」
     人形のことを言われ、黒子がうっと声を詰まらせた。汚れるなら部屋に置いてくればいいのだが、黒子は黄瀬からもらった人形をとても気に入り、片時も離さず持ち歩いている。赤司兄弟の共通の部下に男性の体ながら女性の心を持つ者がおり、黒子も同族なのかと彼らは心配していたが、黒子はメンコや駒といった男の子の遊びにも興味を示したので一先ず安心した。

     とにかく。手伝いはしたいが人形も離したくない黒子は迷った。老女は胸をなで下ろし、彼の背を押す。
    「お気持ちだけで十分ですから。さあ、食事ができるまで遊んでいらっしゃいませ」
     黒子は何度も老女の方を振り返ったが、結局人形を持ったまま調理場を後にした。その様子を渋い顔をして見ていた吸血鬼が二人……。
    「テツヤに召使いとの立場の違いを、教えた方がいいんじゃないか?」
    「下の者にも分け隔てなく接するのは、褒められるべき美点だろ」
    「そんなことを言って。テツヤが使用人みたいな話し方になったのは、あいつのせいだ」
    「黒子の父親は、誰に対しても敬語を使っていた。父親に似たんだろう」
     二人の間に沈黙が走る。黒子が絡むと途端に似た者同士になる彼らだから、互いの言いたいことはわかっているが、口にするのははばかられたのだ。先に痺れを切らしたのは、征十郎だった。

    「昨日は僕がテツヤと寝る番だったのに、『お人形さんと寝るからキミとは寝ません』って」
    「オレが本を読んでやろうとしたら、『お人形さんのお着替えするから、また後で』って」
    「「……」」
     黒子の中で金の巻き毛のビスク・ドールは、赤司たちより上になっていた。ポンッと征十郎が手を叩く。
    「そうだ兄さん、涼太に手紙書いてくれ。確か今大輝の所にいるんだろ」
    「わかった」
     赤司はさっそく書斎に行き、万年筆を手に取った。征十郎も横で手紙の内容を見ていたが、注文はつけなかった。彼の思いとなんら変わりなかったからだ。
    「あ、これも入れておいて」
    「わかった」

     ******

     後日、北京で暮らす青峰の元に手紙が届いた。だが宛名は彼ではなく、同じキセキの世代の黄瀬の名が書かれていた。封筒を裏返すと、そこにも同じくキセキの世代である赤司征十郎の名があった。赤司の場合、名前だけではどちらの赤司かわからないが。赤司征十郎の後ろに(兄)とか(弟)とか付ければいいのにと思いつつ、青峰は人の手紙を勝手に開けた。
    「……」
     青峰も以前亜米利加に住んでいたことがあり、その際籠球という競技に夢中になった。支那に移り住んでからも籠球をするため、彼は庭に専用の施設を作らせていた。籠球に熱中しているのは黄瀬も同じで、ボールを打つ練習をしている黄瀬に向かい、青峰は言った。

    「お前赤司の家で何やったんだよ」
    「へ?」
     青峰は手紙をひらひらとなびかせ黄瀬に見せつけるが、彼はまだそれが自分宛の手紙だと知らないので、怒ることはない。
    「何って……赤司っちが育ててる人間の子見に行っただけっスよ。男だったのはびっくりしたけど、お土産の人形すげー喜んで、赤司っちも『お人形がお人形を持っているね』ってご機嫌で……」
     青峰から手紙を受け取った途端、黄瀬の顔から血の気が引いた。吸血鬼には血が流れていないので血の気が引くというのはおかしな表現だが、確かに彼は顔面蒼白になった。手紙に書かれている言葉は少ない。ただ、とても強烈だった。

     ──黄瀬へ  死ね。

    「な、なにこれなにこれなにこれ!!」
    「ついでにこれが入ってたぞ」
     青峰が見せたのは、軸が赤い鋏だった。
    「ぎゃぁあああああ!! 青峰っち、今すぐ赤司っちの家連れてって!」
    「テメー、人を人力車扱いしやがって」
    「今時はタクシーっス! いいから早く!!」
     哀れな黄瀬は赤司家へ飛んで行き、死に物狂いで黒子を説得するのだった。



     黒子が十才になった夜に、赤司の部屋を召使いが訪れた。彼女は深々と頭を下げ、折り入って話があると言った。これが若い女性ならあらぬ疑いを持つところだが、相手は老女。赤司は彼女を部屋に入れた。
     彼は始め、暇をもらいに来たのだと思った。元々彼女は桃井の下で働いていたのだ、元の主人の所へ帰りたいと言ってもおかしくない。しかし彼女は自分の身の上話を始めた。
    「赤司様はご存じかもしれませんが、私は孫のために吸血鬼になりました」
    「ああ、知っているよ。キミのお孫さんの話は有名だから」
     吸血鬼は若く、美しい者が多い。これは吸血鬼になれば若返ったり美しくなったりするのではなく、若く美しい者が吸血鬼にされる傾向があるからだ。やはり自分の仲間にする者は、見目麗しい方がいい。

    「私が人間だった頃、住んでいた村で性質の悪い病気が流行りました。流行り病で家族は次々と死んでいき、最後に残った孫までも病にかかってしまいました。日に日に孫は弱っていき、いつも泣きながら生きたい生きたいと言っておりました。人でなくなっても生きたいと」
     そんな時、彼女の前に現れたのが吸血鬼の虹村だった。彼は自分の正体を明かしたうえで、吸血鬼になれば病は治るが永遠の孤独が待っていると説明する。しかし病を患う人間は苦しさから逃れることに必死で、彼女の孫は吸血鬼になることを願った。孫を一人にすまいと、彼女も虹村に自分を吸血鬼にするよう頼み込んだ。彼は考え直すよう言ったが、彼女の決意は固かった。
     だが吸血鬼として目覚めた彼女を待っていたのは、いつまでも目を覚まさない孫の姿だった。彼は吸血鬼として覚醒するのに失敗したのだ。
    「こんな老いぼれだけが生き残り、あれほど生きたいと願った孫が、生きているのか死んでいるのかもわからない状態になって……」

     この事件は吸血鬼の社会に衝撃を与えた。それまでも吸血鬼として覚醒せず眠ったままとなる者もいたが、それは血を吸った吸血鬼の力が弱いからとされていた。だが虹村は違う。赤司たちキセキの世代が現れるまでは、彼が吸血鬼の頂点に君臨していた。
     老女はその場に座り頭を下げた。赤司が顔を上げるように言っても、決して上げようとしなかった。
    「ご無礼を承知で申し上げます。どうぞテツヤ様は、人として生を全うさせてあげてください」
    「もういいから、顔を上げてくれ」
    「皆様が言うほど、人間の暮らしは悪いものではありません。どうか、どうかテツヤ様は」

     赤司が吸血鬼になった理由は、彼女の孫と同じだった。疱瘡で生死の境をさまよっていたところに虹村が現れ、吸血鬼になるかどうかの選択を彼に迫った。死にたくない一心で吸血鬼になった赤司だが、時々ふと思う。疱瘡にかからず人としての生を全うできたなら、どんなに良かっただろうかと。
     もちろん悲しみや苦しみが付きまとうことはわかっていたが、それでも人を愛して子を残し、その子に自分の思いを託す姿を美しいと思った。彼が人に対して好意的なのは、多分に憧れと羨望があったからである。
    「オレがあの子を育てているのは、あの子の父親に恩義があるからだ。……黒子が大人になったら、あの子の前から姿を消すつもりだ」
     赤司の言葉に召使いは安堵の涙を流す。しかし赤司はわかっていた。もし黒子のことを本当に思っているなら、今すぐ人の親を見つけ預けるべきだと。このまま浮世離れした生活を送っていては、黒子のためにならない。
    「(オレの我儘を許してくれ)」
     赤司は心の中で、黒子に詫びた。

     ******

     赤司家を訪れる客人は、紫原と青峰が主だった。二人の来訪を黒子は心待ちしていた。紫原は黒子と唯一食事を共にしてくれる人だったし、青峰は黒子に籠球を教えてくれる。青峰宅のような専用の施設はなかったが、二人は庭の木に括りつけた籠目がけてボールを投げて遊んでいた。
     黒子が十四才の夏、青峰が桃井という女性を連れて来た。元は桃井に仕えていたという召使いは、それは美しい方ですよと彼女のことを話していたが、黒子の想像以上に桃井は美しかった。桃色の長い髪を結え、萌黄色の地味な着物を着ていたが、それが余計に彼女の美しさを際立たせていた。
     しかし玄関から出てきた黒子を見るなり、桃井は口を押えた。

    「か」
    「か?」
    「可愛い!!」
     内から込み上げる衝動を抑えられず、桃井は黒子に抱きついた。その時彼女の豊満な胸が押しつけられる格好になったが、黒子が動揺する気配はない。そのことに隣で見ていた青峰は動揺し、黒子の将来を不安に思った。
    「可愛い、可愛い、もう可愛いすぎ!! いいな赤司君、こんな可愛い子と一緒に暮らしてるなんて」
    「可愛いのはボクじゃなくてアナタの方です」
    「しかもすごく紳士!!」
     雄叫びを上げると、桃井は気を失って倒れた。とっさに青峰が支えたおかげで怪我をすることはなかったが、青峰は呆れた眼差しで桃井を見る。だが気を失っている当人は、とても幸せそうな顔をしていたのだった。

    「桃井さん……でしたよね。大丈夫なんですか?」
    「体の不調ではないさ」
     黒子の問いに答えたのは、後ろから様子をうかがっていた赤司だった。そのまま黒子の横を通りすぎ、青峰から桃井を受け取る。
    「客室に運んでおく。お前は応接室でゆっくりしてろ。……黒子」
    「はい。青峰君、こちらへどうぞ」
     黒子が青峰の前に立ち、応接室へと案内する。ここ数年で表情が乏しくなった感のある黒子だが、今日は珍しくにこにこしている。青峰が来たのがよほど嬉しいのだろう。
     赤司は黒子の姿を見届けてから、客室へ向かった。桃井を横抱きしているため両手が塞がっており、行儀が悪いと承知の上、足で扉を開ける。

    「狸寝入りはもういいぞ」
     ベッドに桃井を横たわらせたところで、彼は口を開いた。すると気を失っているはずの桃井が、ぱちりと目を開ける。
    「やっぱり赤司君の目はごまかせないか」
    「いや、お前に触れるまで気づかなかった。さすがだな」
     桃井を客室へ運ぼうとしたのは、紛れもなく善意からだった。彼女の体を抱きかかえた時も、意識が戻る時間を確かめておくかと軽い気持ちで未来を見たのだ。しかし未来の桃井は、深刻な顔をして赤司に忠告をしていた。テツ君をすぐ手放した方がいいと。
     場所が客室であり、彼ら以外の人物が見当たらないことから、赤司は彼女が気絶したふりをしているのだと知った。

    「それで、黒子を手放さないといけない理由はなんだ?」
    「もう一人の赤司君は来ない?」
    「大丈夫だ。あいつが黒子を放って、お前の様子を見にくるなどありえないさ」
     それもそうだねと言い、桃井は体を起こした。
    「そう遠くない未来、テツ君は私たちの正体に気づくよ」
    「何が見えた?」
     桃井は赤司と同じ予知の能力を持つ吸血鬼である。しかし彼とは予知の範囲が違い、彼女は他者の遠い未来を予知する。遠い未来故に不確実で、彼女が見た未来は数ある可能性の一つにすぎない。そのため赤司より下と判断されキセキの世代には入っていないが、赤司は彼女の力を高く買っていた。
    「赤司君とムッ君が食事をしているのを、テツ君が見てしまうの。彼の姿は今とさほど変わらない、少なくとも二十歳以上には見えなかった」
    「黒子に見つかった後、オレたちはどうした?」
    「それはわからない。赤司君が振り返ろうとしたところで、予知は終わったから」

     吸血鬼の掟で、子供に手出しはしないことになっている。よって仲間に迎え入れていいのは、二十歳以上の人間と決まっていた。未来の黒子が二十歳になっていないということは、その場で彼を仲間にするという選択肢はなくなる。
    「二十歳を超えていたなら、彼を仲間に加えるべきだと思うの。赤司君の力が通じない相手なんて初めてだし、テツ君が吸血鬼になったらきっと特別な力に目覚めるはずよ。でも子供なら……殺すしかない」
     桃井の言うことはもっともだった。いくら子供には手出ししないとなっていても、種の存続が最も優先される。正体を知られた以上、口封じするしかない。赤司は何も言わず、桃井に背を向けた。
    「赤司君」
    「少し考えさせてくれ」
     背中に強い視線を感じたが、赤司はそれだけ言い部屋を後にした。

     赤ん坊の時分から大切に育ててきた黒子。滅多なことでは感情を乱されない赤司が、彼のささいな言動に一喜一憂した。黒子と過ごした日々はとても充実しており、そしてあっという間に過ぎていった。
     何故二十になるまでは共にいられると思っていたのか、赤司は自分に問うた。彼が生を受けた時、大人になる年齢はもっと若く、十四で元服を迎えてもおかしくなかった。だが自分で問うておきながら、彼はその答えを知っていた。それは彼が少しでも長く、黒子といたかったからだ。
    「もう潮時か」
     彼を危険な目にさらすとわかっていながら、自分の我儘を通すことはできなかった。思わず天を仰いだ時、扉をノックする音がした。返事をせずにいると、遠慮がちな声で『赤司君?』と黒子の声がする。
     昔なら……。赤司は黒子が小さかった頃に思いを馳せる。小さな黒子は一人で寝るのが怖くて、夜中になると赤司と征十郎の部屋を交互に訪れた。自分の部屋から枕を持ってきては、起きるまで横で寝ていてくれないと嫌だと、無茶なことを言っていたものだ。

    「赤司君、もう寝ちゃいました?」
    「……どうぞ」
    「失礼します」
     黒子が持っていたのは、枕でなく籠球のボールだった。外で遊ぶより読書をする方が好きな黒子だが、籠球は別だった。青峰がいない時でも、庭で黙々と練習している。全然上手くならないねと征十郎にからかわれ、大人びた黒子もその時だけはムキになって怒る。ムキになるから征十郎にからかわれるんだと赤司は思うのだが、籠球のことになると我慢できないのだという。
    「あの、お願いがあって」
    「珍しいね、お前からお願いだなんて」
    「青峰君が自分の家に来ないかって誘ってくれたんです。彼の家には籠球の専用の施設があるそうなんですが、ボクにも使わせてくれるって」
     桃井の差し金だと赤司にはすぐわかった。青峰と桃井は人間だった時から繋がりがあり、きっと桃井が見えた未来のことを話して、青峰に協力を仰いだのだろう。

     黒子は好きな籠球が思いきりできると思い、嬉しそうな顔をしている。だが青峰の家に行くことを許可すれば、赤司がこのはにかんだ顔を見ることは二度となくなる。桃井が彼を人の世に戻すからだ。
    「赤司……君?」
     黒子の手から落ちたボールが、床を転がっていく。黒子は目でボールを追うが、赤司が強く抱きしめているので身動きが取れない。
    「赤司君、どうかしましたか?」
     黒子も赤司の体に手を伸ばすが、彼の手は赤司の肩に回っていた。つい先日までは腰がやっとだったのに。
    「ずっと小さいままだったら良かったのにね」
    「え?」
    「何もわからない小さな子供のままだったら……」
     お前とずっと一緒にいられたのにね。赤司は辛うじて言葉の続きを飲み込んだ。

     ******

     征十郎は兄の変化に気づいていた。最近の赤司は子離れを意識しているようで、先回りしてなんでもやってやることはなくなったし、頭をなでようとして手を引っ込める場面も多々あった。もちろん黒子にばれないようにはしているが。
     しかし今日はどうだろう。口の端に付いた生クリームは取ってやり、席は黒子の正面でなく横に座った。あの赤司に限ってたまたま……とは思えない。征十郎は赤司の考えややり方が気に食わなかったが、過小評価はしていなかった。自分と血を分けているだけあり、彼は誰よりも優秀で征十郎と対等な存在だった。
    「桃井に何か吹き込まれたのか?」
     彼の様子がおかしくなったのは、失神した桃井を客室に運んで戻って来た後からだ。それに彼女には征十郎たちと同じ予知の力がある。彼女の見た予知を受け、彼は何か決断したのではないか。

     征十郎は自室に戻ると、自分の未来を見ることにした。昔と違い黒子が部屋に来ることはないので寝たふりをする必要はなく、時間はたっぷりとあった。
     安楽椅子に腰かけ、彼は自分の額に触れ目を閉じた。見えた未来は書庫に籠って本を探している姿であり、特に変わった様子はない。だがそれで安心することなく、彼は繰り返し自分の未来を見続けた。
     どの未来も兄の思惑を知る手助けにはならず、ついには日が顔を出す時間になってしまった。だが征十郎は諦めず、未来を見るため目をまた閉じた。
     今度見えてきたのは、兄と言い争う自分の姿だった。それ自体不思議なことではない。ただ、いつまでも未来が続くことが不思議だった。彼らが争っていると、いつも黒子が止めに入る。黒子が関与する未来は見えないのだから、今見えている未来はすぐ途切れるはずだった。

     ──どこにやった!?

     ──オレが教えるわけないだろう。

     未来の征十郎が声を荒げる。その様子を見て彼は、我ながら品がないと思った。

     ──言え! テツヤをどこにやった!?

     そこまで見えた時、彼は自ら予知を中断させた。そして黒子の部屋に走っていき、ノックもせず扉を押し開けた。しかし部屋はもぬけの殻だった。カーテンは開いているが、ベッドに黒子の姿がない。征十郎はすぐに玄関へ向かった。
    「テツヤ!!」
     玄関を開けた先に見えたのは、小さくなっていく水色の頭だった。叫ぶと同時に、征十郎は走り出していた。彼の声は黒子に届いたようで、立ち止まって征十郎に手を振ってくる。
    側には青峰と桃井と思われる男女もいた。桃井が青峰に何か言っているのがわかり、征十郎は柄にもなく気が急いた。青峰の力は瞬間移動、征十郎といえども追いつくことはできない。

     けれど青峰が動く気配はなく、痺れを切らした桃井が黒子の手を取り逃げようとする。だが女性の桃井より、十四才の黒子の方が力は上だった。黒子は困惑しつつもその場から動こうとせず、桃井の思うようにはいかない。彼女は青峰を再度見たが、やはり青峰は動かなかった。
    「お願い、一緒に来て!」
    「でも征君が……」
     そこで征十郎が近くに来たことを知り、黒子が安堵の溜息を吐く。しかし征十郎は何も言わず、彼の頬を叩いた。叩かれた黒子だけでなく、青峰や桃井までもが驚いていたが、征十郎の怒りは収まらなかった。
    「お前はどうしようもない馬鹿だな。自分がどうなるかも知らないで!」
     突然のことに言葉を失っていた黒子だが、時間が経つにつれ怒りが芽生えてきた。彼の性格上、理不尽な暴力を許容などできない。征十郎の剣幕に負けず言い返す。

    「いきなり何するんですか」
    「テツヤが馬鹿だからだ」
    「そりゃ赤司君や征君に比べたら馬鹿ですけど、でも叩くことないじゃないですか」
    「叩きでもしないと、テツヤにはわからないだろ。お前は兄さんに騙されたんだ! 大輝の家に行けば、二度とこの家に帰って来られないんだぞ」
    「馬鹿は征君の方じゃないですか。どうしてそんな風に思うんです? ボクはただ青峰君の家に、籠球しに行くだけです!」
    「そうだよ。ただ大ちゃんの家に遊びに行くだけなのに、赤司君ってば何を勘違いしてるの? ね、大ちゃん」
    「……」
    「大ちゃん!」
    「……やっぱ騙し討ちは卑怯だろ」
     沈黙を貫いていた青峰の発言で、征十郎と桃井、どちらが正しいのか黒子にはわかってしまった。
     傷ついた眼差しで見つめられ、悪意はなかったとはいえ、桃井は逃げ出したい気持ちになった。黒子を見た時可愛いと思ったのは本当であり、短い時間の中だったが彼と触れ合うことで、心優しい少年だと知ったため尚更だった。

     しかしくじけそうになる自分を奮い立たせるため両頬を叩き、桃井は黒子の肩を掴んだ。彼が好ましい少年だからこそ、彼には幸せになってもらいたかった。
    「よく聞いてテツ君。赤司君たちの所にいたら、テツ君は幸せになれないわ」
    「そんなこと……!」
    「テツ君はこんな狭い世界に閉じ籠ったままでいいの? 外の世界にはもっと大勢の人がいるわ、活気もあって様々な喜びに溢れている。キミが『人としての幸せ』を掴むためには、ここにいちゃいけないのよ」
     桃井の言葉に黒子は口をつぐんだ。確かに彼女の言うことは魅力的だった。同年代の友達を作ってみたかったし、本でしか知らない学校という存在に憧れもあった。山を下りればどんな世界が広がっているのだろうと想像したのは、一度や二度ではない。
     さつきに加勢するわけじゃねーけど、と前置きしたうえで青峰が言う。
    「お前が思いもしないような面白いことが、人の社会にはゴロゴロ転がってる。こんな山奥に引き籠ってんのは、もったいないと思うぜ」

     けど、と青峰は続きを話した。
    「決めるのはお前だテツ。オレたちは赤司から離れた方がいいと思うが、お前がしたいようにしろよ」
    「大ちゃん! 無責任なこと言わないでよ」
     青峰と桃井が互いの主張を言い合うが、黒子はすみませんと言い桃井の体を押し返すと、征十郎の体に抱きついた。
    「赤司君と征君がいない幸せなんていりません。ボクは二人と一緒にいたい」
     征十郎の目に映る黒子の頬は赤く、目元には涙が浮かんでいた。

     ──征くんのばか、ばか、ばか!
     ──ははっ、また泣いた。お前の泣き顔は面白いね。
     ──ばかぁ! うぁーーん、赤司くん!!

     征十郎がからかう度、黒子は泣いた。吸血鬼でも感情的な者はいるが、大人と子供の表現の仕方は違う。征十郎は子供の感情表現──特に悲しい時の表現──を新鮮に感じ、飽きることなく黒子をからかって泣かした。それなのに、今は黒子の泣き顔を見ても少しも楽しくない。彼の泣き方は、吸血鬼の泣き方と大差なかった。
     征十郎は黒子の体を抱き返した。そこで気がついたのは、彼を魅了したものが何一つ残っていないということだった。体は成人の征十郎と比べれば小さいが、感動さえ覚えたあの柔らかさはない。ころころ変わっていた表情だって今では鳴りを潜め、昔ほど目まぐるしく成長することもない。
     彼が黒子に求めていたのは『変化』だ。黒子の変化こそが彼の退屈を紛らわし、変化を失った黒子に用はないはずだった。けれど征十郎は、黒子を抱く力を強めた。
    「手放したりなどするものか。お前は僕のものだ」

     ******

     赤司は部屋の窓から一部始終を見ていた。彼は征十郎の行動に憤りを覚える一方、羨ましくも感じた。征十郎の行動は彼の願望そのものだった。去りゆく黒子の背を見ながら、何度その背を追おうとしたことか。
     バタンッと扉が乱暴に開かれ、赤司はてっきり征十郎とが来たと思ったが、意外なことに来たのは黒子だった。目元はまだ腫れていたが、普段どおりの考えが読めない顔に戻っている。
     だが育ての親である彼には、腸が煮えくり返るほど激怒しているとわかった。黒子は無言のまま赤司の前に立つと、彼の頬に強烈な一発を食らわした。
    「……何も言わないんですね」
    「オレに言いわけをする資格はないから」
    「そのすました顔見ていると虫唾が走ります」
     兄さんのすました顔を見ると虫唾が走る。征十郎の口癖だ。赤司は苦笑いするかしなかった。しかしそれが黒子の癇に障った。

    「なんで笑うんですか、大きくなって可愛げのなくなったボクはもういらないんですか」
    「違う」
    「違わない」
    「違う!」
     黒子を傷つけてしまった以上、赤司は黙ってすべてを受け止めようと思った。けれど、昨日の自分の言葉を誤解されるのは耐えられなかった。
    「お前が大きくなっていくのを見るのは、この上ない喜びだった。今も昔も、オレはお前が愛しいよ」
    「嘘だ! 小さい子供のままが良かったと言ったのは、キミじゃないですか!」
    「あれは……小さい子供のままなら、お前とずっと一緒にいられたのにと」
    「どうして大人になったら離れないといけないんですか? 長男は家を継いで親の面倒をみるものでしょう。血は繋がっていなくても、キミにとってボクは長男みたいなものじゃないですか」
    「オレたちがお前と一緒にいられるのは、子供のうちだけと決まっているんだよ」
    「そうだとしても! ボクはまだ十四です、あと六年キミたちと暮らす権利が……」
     感情が抑えられなくなったのか、黒子がぽろぽろと泣き始めた。シャツの裾で拭うが、涙は後から後から流れてくる。
    「ごめん」
    「ボクの幸せ……勝手に、決めな………で」
    「ごめん、ごめんね」
     赤司は自分を責めた。見かけは自分たちに近づいたとしても黒子はこんなにも頼りない、まだ守るべき子供だったのだ。赤司は黒子が泣きやむまで謝罪の言葉を繰り返した。

     廊下から征十郎は二人の様子を見つめていた。彼の心の声は欲しい欲しいと、あの子のすべてが欲しいと叫んでいた。彼はあと六年待てば良かったのだが、六年という年月の長さに絶望する。その間に黒子を人の世に戻そうと画策する連中がまた現れるだろうし、何より兄が黒子の側にいることを認めないといけない。
     そこまで考えたところで、彼はふと思った。本当に六年待たなければいけないのだろうか……? 



    「へぇ、そんなことあったんだ」
     赤司家の地下の一室で、紫原は二年前の出来事を聞いていた。目に入れても痛くないほど可愛がっている黒子を、赤司が手放そうとしたのは意外だったが、赤司らしいとも紫原は思った。彼は未だに人間の道徳に縛られている節があるからだ。紫原は昼間会った黒子の顔を思い浮かべ、う~んと唸る。
    「黒ちん泣いたようには見えなかったよ」
    「二年前の話だと言っただろ」
    「もう機嫌治ったの? 単純~」
    「テツヤの性格を考えると根には持っていそうだが、表には出さないさ。二年も経っているのだから」
     二年“も”とは、実に吸血鬼らしくない言い方だ。しかし紫原の興味は既に別のものに移っていたので、あえて指摘はしなかった。
    「それよりさ、早く『食べよう』」
     紫原は机に置かれたワイングラスの一つを取る。今は空だが、ここに鮮血が注がれる予定だ。

     彼らがいるのは、吸血鬼が食事をするために設けられた部屋だ。地下にありながら応接間と同程度の広さがあり、石の床にできた赤黒いシミからは、彼らの好む血の匂いがする。この部屋に来るだけで吸血鬼の本能がくすぐられるのに、すべての準備が整ったうえで我慢を強いられるのは拷問に等しかった。
     鉄の処女の中に入っている男は、麓の村から連れてきた男だ。縄で縛られた男は気を失っており、このまま鉄の処女の蓋を閉めれば彼らは食事にありつける。
    「たまには生きたまま採取しないか?」
    「赤ちんが怒るよ」
    「いいじゃないか。幸い兄さんはいない。敦だって、ただ食べるのは味気ないと思っていただろ?」
     赤司は召使いの老女と一緒に、家を留守にしていた。彼女の孫の体は研究のため、朝鮮にいる今吉が所有しているが、引き取って埋葬するつもりらしい。赤司が今吉に頭を下げるのだろうが、征十郎には理解できない行動だ。

     ともかく、そのおかげで口うるさい赤司はいない。もし彼がいれば意識のないうちに男の首を折って、死んでから鉄の処女にかけただろう。刺激を求める吸血鬼からすれば、物足りないやり方だ。征十郎が紫原を見れば、彼もまた征十郎と同じ顔をしていた。
    「じゃ、さっそく」
    「まあ待て」
     男を叩き起こそうとする紫原を引き留める。
    「自然に起きるのを待とうじゃないか。その方が面白い」
    「えぇ~」
    「なんだ? 僕の言うことが聞けないのか」
    「はいはい、わかりました~」
     紫原はどちらの赤司征十郎にも逆らえなかった。

     時間を潰すための話題に選ばれたのは、何故吸血鬼になったのかというものだった。彼らは長い付き合いだったが、互いに人であった時の話をしたことがない。
     先に紫原から話し始めたが、意識が完全に食事へ行っており、彼の話は実に簡潔だった。
    「飢饉で死にかけてるところで木吉に会って、お腹空かなくなるって聞いたから吸血鬼になった。以上、終わり」
    「お前は木吉からか。その割には嫌っているな」
    「だって木吉の奴、弱いくせにうるさいし。見ててムカムカする」
     第一あいつ大嘘吐きだしと紫原は言った。彼は今でも空腹に襲われ、人の食べ物を食べないと満たされない。それ故彼は吸血鬼でありながら人間の黒子と食事を共にするのだが、征十郎は彼の空腹は精神的なものだろうと思った。もっとも、食事ができず苛立っている紫原に言っても無駄だとわかっていたので言わなかった。

    「赤ちんは?」
     紫原と違い今の状況を楽しんでいる彼は、赤司征十郎が二人いる理由から話し出した。
    「『赤司征十郎』という名は、僕の生まれた一族で当主になるべき人間につけられる名前だった。僕の祖父も父も、赤司征十郎といった」
    「うわ~、今以上にややこしいじゃん」
    「そうだね。僕が幼い頃赤司征十郎を名乗っていた人物は、祖父、父、そして十才年の離れた兄だった。だが兄さんは二十半ばで疱瘡にかかり、見限った父は僕が元服した際、僕に征十郎の名を与えた」
     うつってはいけないと征十郎は赤司の部屋に近寄ることを禁じられたが、御簾越しに見た兄の顔は醜く膨れ、父が見限るのは当然だと思った。だがそんなある日、赤司は姿を消した。

    「周りは誰にも見つからない場所で、命を絶ったんだろうと言った。同情する輩もいたが、僕にはどうでもよかった。だってそうだろう? 負け犬のことなど考えるだけ時間の無駄だ。けれど兄さんが死んだのとちょうど同じ年齢になった年……僕は再び兄さんに出会った」
     方違えのため訪れた屋敷で庭を眺めていると、庭に自分が立っていた。一瞬自分の生霊かと思ったが、征十郎は庭に立つ人物の目が両目とも赤いことに気がついた。
    「僕はすぐ兄さんだとわかった。月明かりで見える顔に膿胞はなく、いなくなった時から年を取っていなくても、僕には兄さんだとわかったんだ。忌々しいが、やはり僕とあの人は血が繋がっているんだよ」
     赤司が征十郎の前に現れたのは警告のためだった。赤司は自分のことを人の血を啜って生きる化け物になったと言い、化け物になって得た力で征十郎が吸血鬼になる未来を見たのだという。

    「吸血鬼になっても、待っているのは永遠の孤独だと兄さんは言った。人として幸せに生きろとも」
    「兄貴の方の赤ちん、全然赤ちんのことわかってないね」
    「本当にね。未来が見える力が手に入ると知って、僕が黙っているわけないのに」
     そこで低い呻き声が聞こえ、鉄の処女の中にいる男がぼんやりとした目つきで彼らを見ていた。男は辺りを見渡し、自分が縛られていると知ると暴れ出した。
    「帮助我!」
    「食べていいよね?」
    「そうだね……」
    「もうオレ我慢できないし!」
    「……いいよ。蓋を閉めるのはお前に譲ろう」
    「やった~!」
     たとえ言葉が通じなくても、無邪気に笑い近づいてくる紫原に、男は身の危険を感じた。そして彼にとって不幸だったのが、無数の針が付いた鉄の板と自分の入った棺が繋がっていると気づいてしまったことだった。男は奇声を上げ無我夢中で動くが、拘束が解けることはない。
    「いただきま~す」

     紫原が蓋を閉めると、部屋中に断末魔が響き渡る。鉄の処女の下に置かれた桶には次々に赤い血が流れ落ち、紫原は唇を舌で舐めた。本音を言えば、このまま桶に口を付け飲んでしまいたかった。しかし征十郎に怒られるので我慢し、後ろに手を伸ばす。
    「赤ちん、グラス持ってきて」
     けれど一向にグラスの感触がしない。後ろ髪を引かれる思いで血の桶から目を離し、何やってんだよと文句を言おうとしたところで紫原は止まった。振り返った先にいたのは、征十郎と征十郎に肩を掴まれた黒子だった。黒子の体はガタガタと震え、歯の根が合っていない。
    「敦、困ったことになった。テツヤに見られてしまった」
     困ったと言いながら、征十郎の顔は笑っていた。

     ******

     喉の渇きで目が覚め、黒子は水を飲もうと部屋を出たのだが、調理場に向かう途中で何気なく窓から庭を見た。綺麗に整備された庭は昔から変わっておらず、本当に自分の近くで戦争が起きているのだろうかと不思議な気分になった。
     世情に疎い黒子だが、彼らが住んでいる中国と日本との戦争は未だ終わらず、戦況は年々悪化しているとは聞いていた。違う国に行くべきかもしれないと赤司が溜息を吐いていたのは記憶に新しい。
     確かに黒子の大好物であるアイスクリームも最近は食べられなくなり、戦争の影響なのだろうとは思うが、今一つ実感が持てずにいた。それに赤司は頭を悩ましていたが、違う土地に行くと聞いた時、内心黒子はわくわくしていた。
    「あれ?」
     庭の異変に気づいたのは偶然だった。月が映った池の隣に、ほのかに光る丸い穴が見えたのだ。昼間見た庭の様子を思い浮かべるが、謎の穴の正体に心当たりはない。近くで見ればわかるだろうと、彼は軽い気持ちで庭に出た。

     近くで見ると穴は大人一人入れるくらいの大きさで、梯子が下へと続いていた。謎は増すばかりで、好奇心旺盛な黒子の心はくすぐられた。若干の恐怖心もあったが、あの二人のことを思い出すとそれも吹き飛んだ。
    「きっと征君と紫原君がいるんでしょう」
     地下に人がいるのなら、明るいのも納得できる。二人が自分に隠れて何をしているのか突き止めるため、黒子は穴の下へと下って行った。
     入口こそ狭かったが、梯子を下りた先には広い空間が広がっていた。壁から床から全て御影石でできており、この時季節は初夏だったが地下に下りると肌寒かった。
     真っ直ぐ続いた廊下の先には格子の扉があった。彼が思ったとおり、格子の隙間から征十郎と紫原が見える。征十郎は最近髪を伸ばしており、後ろから見ると赤司そっくりだったが、赤司は今召使いと一緒に出かけている。

    「帮助我!」
     聞いたことのない言葉だったが、征十郎と紫原以外にも格子の部屋に誰かいるらしい。お客様かとも思ったが、緊迫した声は客の出すものとは思えなかった。その後に続く征十郎たちの会話も変だった。
    「食べていいよね?」
    「そうだね……」
    「もうオレ我慢できないし!」
    「……いいよ。蓋を閉めるのはお前に譲ろう」
    「やった~!」
     その間にもガタガタと物がぶつかる音がし、男の奇声も聞こえてくる。そしてガシャンという金属音の直後、男の絶叫が聞こえ黒子の元にまで鉄の臭いが漂ってきた。縁が薄い彼にも、それが何の臭いかわかった。違う、二人がそんなことするはずがない。そう思いたかったが、知らない男の声はもう聞こえてこない。

     足は自然と後ろに下がっていたが、突如征十郎が後ろを振り返る。赤と橙の瞳と目が合い、黒子は声にならない声を上げた。征十郎が格子の戸を開け目の前に来るまで多少の時間はあったが、彼の足は震えるばかりで少しも動かなかった。
    「待ってたよ。遅いじゃないか」
     機嫌の良い時に見せる笑顔で、征十郎は奥の部屋へと黒子を引っ張っていく。部屋に近づくにつれ血の臭いはますます強くなり、黒子の目にも紫原の背と女の顔が付いた鉄の置物がはっきりと見えた。女の顔の下には棺桶のような長い筒が付いており、筒の下からは赤い滴が桶へと流れ落ちていた。
    「敦、困ったことになった。テツヤに見られてしまった」
    「マジで?」
     口をへの字に曲げる子供っぽい表情は、黒子の知る彼となんら変わらず、余計に恐怖を助長する。

    「もしかして赤ちん、入口の蓋閉め忘れた?」
    「そうらしい。僕としたことが迂闊だった。……テツヤ、僕たちは人の血を飲んで生きる吸血鬼だ。昔お前に話した人より上位の存在なんだよ」
    「あれ……作り話……」
     か細い声を出す黒子を落ち着かせたいのか、征十郎は頭をなで体を密着させたが、黒子の体の震えはより強くなった。
    「地下室はちゃんとあっただろう? それに……」
     征十郎は皆まで言わなかったが、彼の指さした先にあるのは血に濡れた鉄の処女。幼い黒子に征十郎が描いて見せたのと、まったく同じ物が黒子の前に立っている。
    「僕たちの食事は鉄の処女を使うとも言ったはずだ。首に牙を立てては、仲間になってしまうからね」
    「殺さないで!!」
     黒子の恐怖はついに頂点に達した。征十郎にすがりつき、必死になって命乞いをする。

    「誰にも言いません、だから助けてください。殺さないでください!」
    「そんなに死にたくないのか?」
    「死にたくない! お願い、助けてください。征君! 征君、征君、助けて!!」
     黒子に残された道は、征十郎の情に訴えることだけだった。征十郎に触れられるのは怖かったが、僕のこと好き? とささやかれれば、何度も首を縦に振った。
    「殺す前にそういう悪ふざけやめなよ。黒ちん可哀想じゃん」
    「いやだ! 征君、征君!!」
    「テツヤ落ち着……」
     征十郎が途中で言葉を切り、上着から装飾の施された銃を取り出した。撃たれると思い黒子は逃げようとしたが、征十郎は黒子の体を抱き寄せ、銃を格子の戸へ向かってかまえた。コツンコツンと足音が聞こえ、姿を見せたのはもう一人の赤司征十郎だった。

     朝鮮にいる今吉を訪ねるため、赤司と召使いは朝鮮へ行く船を待っていた。港で召使いのトランクを持ってやろうと手を伸ばした時、指先が彼女の手に触れ、未来が流れ込んできた。
     未来を見ようと意識せねば、他者の未来を見えてこない。そのため偶然手が触れただけでは、彼女の未来は見えないはずだった。だが赤司の目には、老女が泣く姿が見えた。自分が赤司を連れ出さねば……と言い、黒子の部屋で泣いているのだ。
    「今すぐ帰るぞ」
     赤司は召使いの肩を掴んだ。何故未来が見えたか考える余裕はない。
    「で、ですが汽車はもう」
    「キミの能力を使ってくれ、早く!!」
     彼女は青峰と同じ瞬間移動の力を持っていた。もちろんキセキの世代の一人である青峰のように、長い距離は移動できないが時間は一刻を争う。赤司は彼女に賭けるしかなかった。赤司のただならぬ様子に彼女は力を使い、今は地下への入り口の前で倒れている。

    「婆やも吸血鬼……」
    「彼女だけではない。黄瀬、青峰、それに桃井。皆吸血鬼だ」
     真実を知り、黒子は言葉もなく立ち尽くす。彼にはもう誰を信用すればいいかわからなかった。そんな黒子の様子を見て、赤司は己の愚かさを呪った。桃井の見た未来で黒子に食事を目撃されるのは、赤司でなく征十郎だったのだ。後姿しか見えなかったと桃井は言っていたのに、何故彼女の言葉を鵜呑みにしてしまったのか。
    「赤ちんがとんぼ返りしてきた理由はわかったけど~」
     場にそぐわない間延びした声で紫原が言う。だがこの場にいる誰よりも、彼が現状を最も正しく把握していた。
    「黒ちんに食事してるの見られたんだし、やっぱ殺さないとだめじゃん」
    「あと四年すれば黒子は二十歳になる。その時仲間に加える」
    「そんなこと言って、どーせその間に逃がすつもりでしょ」
    「疑うなら二十歳になるまで、座敷牢に閉じ込めてもいい」
    「黒ちんへの猫可愛がりよう見てきて、オレが赤ちんの言葉信用すると思う? ……この場で殺す以外ありえない」
    「二人とも頭が硬いな」
     征十郎がケラケラと笑い出す。その仕草はどこか芝居がかっていた。

    「テツヤを死なせたくない兄さんと、僕らの正体が人に知られるのを避けたい敦。ちょうどいい折衷案がある。……テツヤをこの場で仲間にすればいい」
     征十郎は赤司に向かい、銃を撃った。

     ******

     銃には銀の弾丸が入っていた。銃声と共に赤司の体は崩れ落ち、左の脇腹を押さえ蹲っている。黒子は始め何が起きたかわからなかったが、赤司が撃たれたのだとわかった途端、体は勝手に駆け出していた。
    「赤司君! 赤司君、大丈夫ですか」
     赤司は傷口を手で押さえていたが、その指の間から零れ落ちるのは血でなく砂だった。白い砂がさらさらと流れていき、床に小さな山を作っている。
    「仲間になる前に、もっと僕たちのことを教えてあげよう」
     再度大きな銃声がし、赤司の体が跳ねた。今度は左肩を撃たれたのだが、左肩に小さな穴が開き、そこから白い砂が流れ出るのが見えた。黒子が見ている間に、穴はどんどん広がっていく。

    「僕たちは完全無欠の存在……と言いたいところだが、弱点もある。一つは銀製の武器で襲われると怪我をする。そんな風に肉体が砂へと変わり、血を飲まない限り回復しない」
     もう一度赤司に銃口を向けるが、黒子が赤司の前に立ち手を広げた。
    「これ以上赤司君を傷つけるな!」
    「テツヤ、どいて」
    「仲間になれというならなります。だからもうこれ以上、赤司君を傷つけないでください」
    「駄目だ……」
     赤司が黒子の足首を掴み、声を絞り上げる。顔を上げる余力すらないようで、下を向いたままだった。
    「駄目、だ。人……の…幸………を」
    「やっぱり逃がすつもりだったんじゃん」
     紫原は赤司へ向けたままの銃に触ったが、すぐに手を引っ込めた。

    「うげ、やっぱ銀だ。赤ちんよく持てるね」
    「まあね。ところで敦、僕と兄さんのどちらの味方をする?」
    「掟どうすんの?」
    「人の子供を手がけてはならない、仲間は二十歳以上でないといけない。……吸血鬼の高潔な志を尊重するのならば、この場合前者を選ぶべきだろう」
    「まあいいよ、オレも黒ちん仲間になったら嬉しいし」
     征十郎は銃を床に捨てると、一歩また一歩と黒子へ近づいた。黒子の顔は厳しくなったが、赤司の前から動こうとはしない。征十郎は手を伸ばせば触れられるほどの位置で止まり、黒子に聞いた。
    「僕と兄さん、どちらが好き?」
    「え?」
    「やはり兄さん? お前は何事も僕より兄さんを優先させていたし、優しい兄さんの方が好きなんだろう」
     黒子が二人に呼びかける時、決まって『赤司君、征君』だった。『征君、赤司君』になったことは一度もない。勉強を教えてほしいと言うのも、欲しい物があるとねだる時も、今日のおやつの感想だなんて何気ないことでも。すべて赤司が先で、征十郎はその後だった。

     だが黒子は首を横に振る。
    「どちらも好き。赤司君も征君も同じくらい好きです」
    「僕を選んで」
    「二人とも大好きです。でも選ぶなんてできない」
     征十郎は黒子の首に触れ、そのまま顔を近づけたが黒子は動かなかった。黒子が泣くのが苦手になった彼は、譲歩することにした。
    「お前は兄さんを守りたいから逃げようとしない。けど僕のことも好きだから僕の仲間になる。それでいいね?」
     彼の視界には、床に蹲る兄がいた。黒子の足首を掴んだ手が、わずかながら動いているのが見えた。傷口が広がったとしても、黒子を逃がそうと足掻いている。
     偽善者め。征十郎はそうつぶやくと、黒子の白い首に牙を立てた。



     世界中を巻き込んだ大戦は終わったが、新たに朝鮮半島で戦争が勃発し、日中間の国交は断絶している。緑間は青峰の力を借り、中国にやって来た。青峰はどいつもオレをタクシーみたいに使いやがってとぼやいていて、どうやら緑間の前に黄瀬も運んだらしい。
     赤司たちが住んでいた屋敷は元々緑間の物だったが、今彼の前に建つ屋敷は、彼の知っている姿からかなり傷んでいた。建てて久しいのもあるが、ここ十年で傷みが進んだのだろう。征十郎は地下室に籠りきりと聞く。人が住まないと家は傷んでしまうものだ。
    「待て。どこに行く?」
    「辛気臭いの苦手なんだよ。黄瀬と話でもしとく」
     緑間を庭に残し、青峰は屋敷の中へ入っていった。その背を見送ると、緑間は地下へ続く梯子を下りた。
     地下室には征十郎と紫原がいたが、緑間が顔を見せても二人は何も言わなかった。彼の顔を見た後、すぐ棺の中の人物に視線を戻した。棺の中に横たわっていたのは、青年とも少年とも呼べる年頃の男だった。その目は閉じられているが、髪と同じ晴れ渡った空の色をしていると緑間は知っている。

     黒子は征十郎に血を吸われてから、ずっと眠り続けている。通常吸血鬼として覚醒するのは、血を吸われた翌日。遅くとも一週間後には目を覚ます。だが黒子は吸血鬼の中で最も力が強い征十郎に血を吸われたうえ、成人前に仲間にされたなど前例がない。覚醒に失敗したと結論づけるのは早計だと考える者も多い。
     征十郎は黒子が目覚めると信じて待ち続けていた。
    「最近テツヤに関する未来も見えるようになったんだ。未来の中でテツヤは目覚めるなり、僕の頬を叩くんだ。強引すぎますって……テツヤらしいね」
     征十郎は棺の横に跪き黒子の手を握っていたが、その手を自分の頬へと当てる。柔らかい表情をするようになったなと緑間は思った。
    「考えてたんだけどさ」
     紫原が急に口を開く。大戦が終わる前に中国から引き揚げた青峰と違い、紫原はまだ中国に住んでいる。そのため青峰の力を借りずとも、こうして黒子の様子を度々見に来ていた。当人は決して認めないが、征十郎に同意したことに責任を感じているのだろう。

    「オレが黒ちんの血飲んであげようか?」
    「自分が飲みたいだけだろ」
     征十郎は緑間の予想と違い、怒ることなく弱々しく笑った。
    「ちげーって。赤ちんの能力だけ黒ちんに効かなかったし、相性悪いんだよ。オレが吸ったら起きるかもよ」
    「どういう理屈なんだそれは」
    「いいじゃん。下手な鉄砲も数撃ちゃ……って言うし。やってみるのはタダだよ」
    「……あまり吸いすぎるなよ」
     了承をもらうと紫原は黒子の体を起こし、征十郎の牙の痕が残る首に噛みついた。すぐに彼の喉が動き、口の端から赤い血が伝い落ちる。一旦口を離すと、美味いとつぶやいた。
    「今まで飲んだ中で一番美味いかも。ソーダより砂糖菓子みたいな味だけど。もう一口いい?」
    「吸血鬼になる前に、吸い尽くして殺す気かい?」
     一刻も早く黒子を独占したくて事を起こしたのに、他人に託さなければならないとは皮肉なものだ。緑間は見ていられなくて、赤司の場所を尋ねた。

    「今どこにいる?」
    「牢にいるよ。ただ最近見に行ってないから、もう消えているかもね」
    「わかった」
     緑間はそれだけ言うと、黒子が眠る部屋を後にした。しかし去り際、征十郎は彼に伝言を頼んだ。
    「兄さんが生きていたら伝えてくれ。反省してテツヤを起こす気になったと言うなら、牢から出してやるって」

     ******

     牢は黒子が眠っている部屋より、更に下った所にあった。カビ臭く、どこからか水滴の落ちる音がする。不衛生な環境が吸血鬼の肉体に害を及ぼすことはないが、人間同様精神には多大な影響をもたらす。しかし牢に捕らえられた赤司は、精神が参っているようには見えなかった。
    「長旅ご苦労だったな」
    「青峰の力を使って来たのだよ」
    「そうか。では青峰にご苦労様と伝えてくれ」
     受け答えもしっかりとしており、彼の知る赤司となんら変わらなかった。けれど肉体は違う。右の脇腹には空洞ができ、左手は肩からすべてなくなっている。暗闇の中、白い砂が舞っているのが見えた。
    「思ったよりはマシだな」
    「一度無理に血を飲まされたからな」
    「弟にか?」
    「ああ。自分が閉じ込めておきながら、ここから出て黒子に目を覚ますよう呼びかけろと、馬鹿なことを言っていた。あいつで駄目だったのに、オレで起きるわけないのにな」

     当時の様子を思い出したらしく、赤司は自嘲した。
    「オレたちが口論していると黒子は止めに入ったが、あの子は必ず最後は征十郎の味方をした。オレの方が上だなんて、何を勘違いしているのやら」
     そうだと言い、赤司は顔を上げた。
    「彼女がどうなったか教えてくれないか?」
    「誰のことだ?」
    「この家でオレたちの身の回りの世話をしてくれた彼女のことだ。彼女はどうしている?」
    「行方知れず、なのだよ」
     彼の言葉に嘘はなかった。彼女が住んでいた部屋からは銀のナイフが見つかっているが、彼女がそのナイフを何に使ったかは誰も知らない。吸血鬼は死ぬと砂になって消えるため、死ぬ瞬間を見られていない限り、永遠に行方不明のままだ。緑間の不器用な気遣いがわかり、赤司はそうかとしか言わなかった。

     緑間が内ポケットから取り出した小瓶の蓋を開けると、カビ臭かった地下牢は甘い香りに満たされた。
    「飲め」
     鉄格子の間に手を入れ、赤司に小瓶を差し出す。中に入っているのは若い女の血で、吸血鬼からすれば最高の条件がそろった食事だ。量は少ないが、飲めば肉体の再生も望める。
    「黒子は目を覚ます。気休めで言っているのではないのだよ、弟の赤司は黒子が目を覚ます未来を見たと言っていた」
     緑間が小瓶をいっそう奥に差し出せば、赤司は残った右手をゆっくりと伸ばし、小瓶を持つ手に触れた。彼はそのまま赤司の手に握らせようとしたが、その前に赤司が小瓶を押し戻してしまった。押した拍子に滴が一滴手にかかったが、それも口にしようとしない。
    「死ぬ気か?」
    「興味本位で人の子の一生を狂わせた。これはオレへの報いだ」
    「……」
    「青峰が話があるらしいぞ。屋敷の二階にいるから、行ったらどうだ?」
    「……未来をのぞいたな」
    「ああ」
     未来を知られるのは良い気分のするものではないが、赤司は悪びれることなく肯定した。そして今まで世話になったなと手を振り、緑間を見送った。

     ******

     屋敷の二階に行くが、どの部屋に青峰がいるかはすぐわかった。一部屋だけ扉を開けたままの部屋があったのだ。
    「緑間っち久しぶり」
     部屋には黄瀬もいた。緑間と別れてから、青峰はずっと黄瀬と話をしていたのだろう。彼らがいる部屋は黒子が使っていた部屋で、二人は机の上にあるゆりかごについて話していたという。ゆりかごで寝ているのは、黄瀬があげたビスク・ドールだった。
    「黒子っちが人形気に入りすぎて、オレ赤司っちたちから殺されかけたんスよ」
    「あん時はすごかったよな。家着くなり二人そろって『覚悟はいいか?』って」
     赤司からの手紙を読んで黄瀬は赤司家に飛んで行ったのだが、待っていたのは鬼の形相の赤司兄弟だった。命の危険を感じた彼は、黒子にゆりかごを与えることにした。

    「この人形は三時にはおねむになって、超自立してるからこのベッドで一人で寝るんスよ~って黒子っち丸め込んだの」
    「黒子は信じたのか?」
    「いや~、純粋培養で助かったっスよ。三時からは黒子っち好きにできるってことで、赤司っちたちもどうにか納得してくれたし」
     黄瀬の中では、そこで話は終わっていた。彼はアメリカに戻り、その後黒子と何度か手紙を交わしたが会うことはなかった。
    「相当参ってるって聞いたから、今日は赤司っちの様子見に来たんだけど。ついでにあの人形どうなったかな~と思って黒子っちの部屋のぞいたら、あそこにあったんだ」
     部屋に来た青峰に人形の話をすれば、黒子は毎朝人形を起こしていたと告げられた。十四の時、青峰の家に遊びに行く際も人形を起こしてから支度をしていた。
    「大きくなって飽きたから、ゆりかごに入れっぱなしにしてるんだと思った。……お前もご主人様に起こしてもらえなくて、寂しいっスね」
     人形の上には埃が被っていて、顔は笑っているのに何故か悲しんでいるように見えた。

    「青峰、オレに話があるんじゃないか?」
    「あ?」
    「兄の方の赤司がオレの未来を予知して、お前から話があるはずだと言っていたのだよ」
     青峰は気まずそうに頭を掻いたが、観念して桃井が見た未来の話をした。桃井も黒子に関する予知を試みているが、彼女には黒子が目覚める未来が見えないらしい。
    「さつきの予知は不確かだから、信用できないって言われればそれまでだけどよ」
    「オレも赤司の予知には疑問を持っていた」
     眼鏡を指で押し上げ、緑間は青峰の言いたいことを代弁する。征十郎が予知できるのは近い未来だけ。最長で半月先と言ったところか。しかし黒子は十年近く眠り続け、征十郎の予知した内容は起きていない。

    「つまり赤司っちが見た未来は、予知でなくて赤司っちの願望ってこと?」
    「そう考えるのが自然だろ。第一、テツに関する未来は見えなかったはずだ。それが血を吸った途端見えるようになるなんて、都合がよすぎだろ」
    「そんなことないのだよ。赤司の予知は本物だ」
    「あ? お前何言ってんだ?」
     突如緑間が、先ほどの発言とは正反対のことを主張する。青峰が疑問に思うのは当然だ。だが、緑間は予知は本当だと断言する。
    「黒子は目覚める。だから、死ぬな赤司」
     取り返しがつかないとわかっていても、赤司に呼びかけずにはいられなかった。

     ******

     緑間が小瓶を差し出した時、彼は始め受け取ろうとした。黒子が目を覚ますならば、あの子にもう一度会うまでは生きたいと思ったのだ。だが一方で、彼は黒子が目覚めることはないともわかっていた。黒子は十年近く眠ったまま、これから吸血鬼として覚醒すると考えるのは楽観的すぎる。
    「お前は人が良すぎるよ」
     緑間が去った直後、赤司は一人つぶやき、苦笑いを浮かべた。彼が緑間の未来を見たのは、彼が嘘を吐いていないか判断するためだった。結果、征十郎の予知の内容は本当だったが、緑間たちの会話から黒子は目覚めないとわかってしまった。

     ──僕と兄さん、どちらが好き?
     ──どっちも好きです。

     征十郎に二人のどちらが好きか聞かれ、黒子は両方だと即答した。赤司は子供相手に馬鹿馬鹿しいと、征十郎のようにどちらかを選べと強要しなかったが、選ばせていれば結果は変わったのだろうか。
    「いや、変わらないな」
     三角形は三つの頂点が同じ力で引き合うから形を保てるのだ。黒子がどちらかを選べば均衡が崩れ、三角形は壊れてしまう。

     ──どっちもでなくどちらか。より好きな方は?
     ──二人とも同じくらい好きです。


     ──どうして選ばないといけないんですか?


    さいこ Link Message Mute
    2022/08/29 2:29:34

    壊れる三角形

    2015年に出した同人誌の再録。

    【あらすじ】
     吸血鬼の赤司は招かれた園遊会で、黒子男爵の一人息子テツヤと出会う。殺された男爵夫妻の代わりに赤司がテツヤを育てることにしたが、その話を弟の征十郎が聞きつけ……。

    #黒子のバスケ #赤黒 #赫黒 #腐向け

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