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    俺を産んでください その夢を最初に見たのは、中学生の時だった。時代劇に出てきそうなお屋敷が燃えていて、その燃えている屋敷の中で女の人が男の人に語りかけているという夢だった。その時は深く考えなかったが、一週間後にまた同じ夢を見、三度目は更にもう一週間後。四度目以降は一月に一度の割合で見るようになった。
     繰り返し見れば見るほど、謎の深まる夢だった。まず夢に出てくる男女は、炎に囲まれているというのに少しも慌てていない。特に女の人の方が堂々としていた。

    「すまないね長谷部。私はお前が求める主ではなかった」
     女の人の年齢は、四十から五十の間だ。着物姿で髪を結い上げ、凛とした雰囲気の人である。長谷部というのは、きっと向かい合う男の人だろう。この人は変わった格好をしていた。洋服を着ているのだが、何故か肩回りにだけ鎧を付けている。私からは彼の背中しか見えないが、女の人より若そうだった。
    「ただね、生きてさえいりゃ───や───を忘れさせてくれる主に出会えるさ。今までよく仕えてくれた。だから、もういい。早くお逃げ」
     ───の部分は、いつも建物が崩れ落ちる音で聞こえない。けれど推測するに、この二人は主従関係にあり───とは長谷部の元の主人に違いない。

     夢は決まって、長谷部が言葉を発する前に終わってしまう。炎の中にまで付き従った彼は、一体なんと返事をするのだろう。最期まで共にすると言うのか、それとも主の命に従い逃げるのか。長年二人の姿を見るうちに、すっかり情が湧いてしまった私は、夢から覚める度そんなことを考える。





     朝食の席で、また長谷部の夢を見たとお父さんに言えば、お前も好きだなと呆れ気味に言われた。別に私が好きで見ているわけではないんだけど。
    「毎回思うんだが、二人で逃げるのが一番建設的じゃないか?」
    「夢の内容に文句つけないでよ」
    「きっと女の人は身分の高い人なのよ。それで逃げちゃいけないの。ほら、昔やってた時代劇であったじゃない。主人が逃げたせいで一族郎党皆殺しにされたってやつ」
    「ああ、あの刀に刺した餅食べさせられた人のやつ?」
     私が夢を見る度報告するものだから、家族みんな夢の内容に詳しくなってしまった。見始めたのが多感な時期だったのもあり、深刻にとらえられ精神科に連れていかれたこともあったが、今ではなんてことない。視線はテレビのニュース番組に向けたまま、今日は天気がいいねくらいのノリで話している。

    「私としては、ご先祖の記憶の追体験説が有力だと思うんだけど」
    「長谷部は洋服のうえに鎧着てんだろ? そんなコスプレみたいな格好した先祖がいるとか、嫌だぞ俺は」
    「いいじゃない、コスプレでも。長谷部はイケメンなんだし」
    「お母さん、顔は見てないって前も言ったでしょ」
     後姿はイケメン風だったと言ったばかりに、お母さんの中で長谷部はイケメンで確定してしまった。
    「長谷部じゃなくて、女の人の方がご先祖かもしれないじゃん」
    「俺とお前の先祖が、主なんて呼ばれる偉い地位にいるわけないだろ」
     万年平社員の父が、エリート街道とは無縁な市役所勤務の娘に言う。……なんだろう、悔しいけどすごく説得力がある。

    「やはり先祖ではなく前世なのでは?」
     背中だけでなく、顔も正真正銘イケメンなお兄ちゃんも会話に混ざる。お兄ちゃんは私と違い、前世説を押している。
    「それだと前世の私は男だったのかな?」
    「長谷部ではなく、主の方ではないでしょうか」
    「全然顔似てないよ。それにさ、主さんはいかにも姉御! ってかんじで、同い年になっても私はあんな風になれないな」
     お気づきのとおり、お兄ちゃんは妹の私に対して敬語を使う。私は普通に話してと言っているが、彼にとってはこれが普通らしい。強情だなと思う反面、仕方がないかなとも思う。中学生だった私と違い、お兄ちゃんは大学生の時私たちと家族になったのだから。

     私が生まれてすぐ実母は交通事故で亡くなったが、中学生の時お父さんが再婚し、新しい母親と兄ができた。それが今のお母さんとお兄ちゃんだ。二人に初めて会った時、美男美女すぎて愕然としたのは今でも記憶に新しい。
     特にお兄ちゃんから受けた衝撃はすごかった。顔が綺麗なのはもちろんのこと、目は外国人でも珍しい藤色だったし(色素の薄い髪は染めていると思ったが、後に地毛だと判明)、背が高くてスタイルがいい。
     更に私でも知っている有名大学に通っており、高校時代は陸上をやっていて国体に出たこともあるというのだから、あまりにハイスペックすぎて言葉を失った。

     こんな次元の違う人と一緒に暮らせるのか当初は不安だったが、すぐに杞憂だったとわかる。
    「それより今日は何時頃に終わりますか? お迎えにいきましょう」
     お兄ちゃんは私にめちゃくちゃ甘かった。妹が社会人になっても未だ送り迎えを買って出るほど、私を猫可愛がりしている。
     最初こそ気を使わせていると申し訳ない気持ちになったが、お父さんからあまり甘やかさないでくれと言われてすっごく嫌そうな顔をしたのを見てから、この人は私のこと大好きなんだなと考えを改めた。
     私の何をそこまで気に入ってくれたかは不明だが、お父さんたちと違い、夢の話でも私の目を見て聞き、おまけに女どころか男も見惚れる微笑みまで付けてくる。

    「あ、今日は……」
    「残念でした。×××ちゃんは今日から四日間、リフレッシュ休暇でお休みなの」
     私が言う前に、お母さんが代わりに答えてくれた。
    「事前に言ってくれれば、俺も休みを取りましたのに。いえ、今日にでも有休の申請を……」
    「×××ちゃんには×××ちゃんの用事があるの! いい加減、妹離れしなさい」
     お兄ちゃんはムッとした顔をし、荷物持ちでもなんでもするのにとブツブツ言っていたが、全部お母さんがばっさり切ってくれた。そしてお兄ちゃんにわからないように、こっそり私にウインクする。心の中で感謝しつつ、素知らぬ顔でトーストをかじった。

     お兄ちゃんには悪いが、この休暇だけは絶対邪魔されるわけにはいかない。だって、彼氏が一年ぶりに日本に帰ってくるのだから。


     彼氏との出会いは大学のサークルでだった。飲みサー化しているサークルと違い、真面目にテニスをするサークルだったが、彼はその中でも特に真面目な人だった。教育学部に所属していたが、大学を卒業したら発展途上国に行って、貧しい子供たちのために働きたいと夢を語っていた。真面目すぎる彼を煙たがる人もいたけれど、私は素敵だなと思っていた。
     一年生の時のクリスマスコンパで私から告白し、オーケーの返事をもらえた時は本当に嬉しかった。ただ私たちが付き合い始めると、周りは不思議がった。え? 飲み会の度お迎えにくるイケメンは彼氏じゃなかったの? ということらしい。彼からもお兄ちゃんのことを彼氏だと思っていたから、告白しなかったと言われてしまった。

     無事誤解は解けたが、なおも周りは不思議がった。イケメンを見慣れているはずなのに、何故こんな平凡な男を選ぶのか……。確かに私も彼らの立場だったら、そう思うかもしれない。けれど、今まで特に目的もなく生きてきた私にとって、彼はとてもまぶしく、お兄ちゃんよりもかっこよく思えた。
    「×××!」
     空港で彼を待っていると、大きな声で名前を呼ばれた。大きく手を振る彼に、周囲の視線が一斉に集まる。でも私は恥ずかしいと思うより前に駆け出し、ゲートを出てきた彼に思いきり抱きついた。

    「元気だった?」
    「おう、元気元気」
     彼は大学卒業後、青年海外協力隊に応募し、アフリカの小国へ旅立った。一度も耳にしたことがない、名前を聞いてもアフリカのどの辺りにあるのかもわからない国だが、彼はそこで子供たちに勉強を教えている。にかっと笑う彼の顔は、去年会った時より更に黒くなっていた。
     帰国が決まった時、彼はどこか遊びにいこうと言ってくれたが、長旅で疲れている彼に無理させるのは嫌だった。この後は彼の家でゆっくりと過ごす予定だ。

    「もうすぐバス出るみたいだけど、どうする?」
     スマホで時間を確認すると、バスの出発時刻まであまり時間がなかった。彼は少し悩みはしたが、スタバに行きたいと言った。
    「スタバ行くと日本に帰ってきた~って思うんだよな」
    「スタバは日本じゃなくてアメリカじゃん」
    「いいの!」
     スタバで日本を感じると言う彼に同意はできないが、スタバに行くのに異論はない。彼は店に着くまでの間も、辺りをキョロキョロしてはすげーとかやっぱ日本だとか連呼していた。純粋な子供たちと接していると、童心に返るのかもしれない。

     店に着くと彼に席を取ってもらい、私が二人分の飲み物を注文した。甘党の彼にしては珍しくコーヒーをブラックで飲むので理由を聞けば、アフリカでは罰ゲームかと思うくらいコーヒーに砂糖を入れるそうで、ブラックコーヒーで日本を感じるとか。
     私としてはコーヒーを飲んだらすぐ帰るくらいのつもりでいたが、彼は熱っぽくアフリカでの生活について語った。現地での生活の不便さ大変さの愚痴を漏らすも、私が大変だねと相槌を打てば、でも人々は気さくで優しく特に子供は純粋で可愛いと擁護をする。
     彼が興奮して話すものだから、私の話す暇なんて全然なかったけど、幸せだなと思う。連絡は頻繁に取るようにしているけど、彼の顔を見て聞く話はやはり格別だった。

    「ところでさ」
     話が一旦区切れたところで、彼が気まずそうに頭をかいた。
    「何?」
    「結婚の話だけど」
    「うん」
    「お兄さん、どう?」
    「……」
     私が黙り込んだのを見て、やっぱり駄目かと彼はテーブルに突っ伏した。私にはごめんと謝ることしかできなかった。

     今から半年前、彼から手紙が届いた。普段は電話やメールで済ませるのに、改まって手紙だなんて何か悪いことがあったのではと不安になった。
     恐る恐る封を開ければ、封筒に入っていたのは子供たちに囲まれている彼の写真と、お世辞にも綺麗とは言えない字で書かれた手紙。内容は普段のやり取りと大差ない、アフリカでの日々の暮らしぶりが書いてあった。
     無事で良かったと胸を撫で下ろす反面、何故手紙にしたのが疑問に思いつつ最後まで読み進めると、追記で写真の裏を見てほしいと書いてあった。
     指示されるまま写真を裏返せば、『オレと結婚してください!』。彼の字でそう書いてあった。彼なりのサプライズのつもりなのだろうが、驚く前に先に写真の裏を見たら意味ないだろうとつっこんでしまった。我ながらつまらない女だと思うが、感動できなかったのは私の心がとっくに決まっていたからだ。

     お父さんに結婚の話をすれば、苦労するぞと言われたが反対はされなかった。お母さんには少し渋られて、まだ早くない? 結婚しても一緒に住めないのよ? と何度も聞かれた。それでも彼のお嫁さんになって彼を支えたいと言えば、お母さんもわかってくれた。
     問題はお兄ちゃんだった。いつだって私に甘いあの人が、激怒したのである。数えきれないほどの反対の理由を上げ、最後には据わった目で『貴女に仇なす者は切る』とまで言った。全力で止めたが、あの目は本気だった。思い出しただけで震えが止まらない。
    「お前のお父さんとお母さんが物わかりよすぎるだけで、お兄さんの反応が普通だよ」
    「いや、あれは絶対普通じゃない」
     あの反応が普通だったら、お嬢さんをくださいと言った男の人は全員切り殺されている。

    「日本に帰って就職しないと、お兄さんは納得してくれないだろうな」
    「だから、そんな風に言わないで。私は子供たちのためにがんばる貴方と結婚したいと思ったの」
    「俺だって自分の仕事に誇りを持ってる。誰にも非難される謂れはない。でも、お前の幸せ願ってるお兄さんと、同じ気持ちでもある」
    「私に任せて!」
     身を乗り出し、悩む彼の言葉を封じる。彼にこれ以上言わせてはいけない。好きな男に夢を諦めさせるようでは、女が廃るというものだ。
    「私が絶対、お兄ちゃんを説得してみせる!」
     心配そうに見つめる彼をよそに、私は拳を握りしめ天に突き上げた。



     彼が日本に滞在するのは一週間だけで、すぐアフリカに帰ってしまう。しかもすることがいっぱいあって、物資の買い込みや互いの両親への挨拶も、この一週間ですべてすまさないといけない。
     彼の両親への挨拶が二日目、私の両親への挨拶が三日目の予定であり、私はこの三日目までにお兄ちゃんを説得しないといけなかった。しかし一日目は彼と二人きりでゆっくりしたかったし、二日目は彼の家に一日お邪魔することになっていたから、お兄ちゃんと話をする時間はない。それならばもう三日目しか残されていないが、お兄ちゃんは一日仕事だ。

     私は悩んだ末、少々乱暴な手段に出た。当初の予定では私と彼、お父さんとお母さん、それからお兄ちゃんの五人で晩御飯を食べる予定だったが、晩御飯は彼とお父さんたちで食べてもらい、私はお兄ちゃんを外へ連れ出すことにした。説得でき次第、三人と合流する算段だ。
    『行ってみたいお店があるんだけど、今晩一緒に行かない?』
     LINEでメッセージを送れば、間髪入れず、喜んでお供しましょうと返事がきた。まだ勤務中のはずなのに、いいんだろうか。疑問に思いつつ、私は待ち合わせ場所と時間を送った。

     集合時間の五分前に指定した駅前に行ったが、女の人の視線が一箇所に集まっているからもしやと思ったが、予想どおりお兄ちゃんは既に待ち合わせ場所にいた。イケメンは見つけやすくて助かる。
    「ごめんね、待った?」
    「いいえ、お気になさらずに」
     ああ、背中に突き刺さる女の人たちの視線が痛い。私は彼女でなく妹ですと叫べるものなら叫びたい。背中の痛みを堪えつつ、私はスマホに映る店の地図を見せた。

     お兄ちゃんを誘った店は前から気になっていた店で、チーズとワインがおいしいと同期の女の子イチ押しのお店だ。お酒は苦手だが、チーズは食べ物の中で一番好きだ。特にホームページに載っていたチーズフォンデュは、見てるだけでほっぺたが落ちそうなほどおいしそうだった。
    「外食が続きますが、よろしかったんですか?」
    「う、うん。大丈夫!」
     お兄ちゃんには、彼が帰国していることは言っていない。昨日、一昨日と家を空けたのは友達の結婚式が大阪であるからだと言ってある。結婚式の写真を見せてと言われた時用にダミーの写真も用意していたが、お兄ちゃんはそれ以上結婚式のことには触れなかった。

     目的の店は駅近くのビルの三階に入っていた。ビル自体は少し古びていたが、店の中は北欧カントリー風で、いかにも女性が好きそうな内装だった。チーズにつられてしまったが、もっと男性が入りやすい店にすれば良かったと今更後悔する。しかしお兄ちゃんは嫌な顔一つせず、私の椅子を引いてくれた。
    「何を頼まれますか?」
     自分が見る前に、私にメニューを渡してくれる。
    「う~ん……じゃ、マルゲリータにする」
    「コースにされないんですか? チーズフォンデュ、お好きでしょう」
     私が小ぶりなピザを指せば、お兄ちゃんがすかさずコースを勧める。私も本当はチーズフォンデュ・コースにしたいのだが、お兄ちゃんを説得次第、お母さんの作った晩御飯を食べる予定になっている。
    「あんまり今お腹空いてなくて。食べきれないかな~って」
    「食べきれなかったら、俺が食べて差し上げますよ」
     これ以上渋ったら勘づかれるかもしれないし、本音を言えばやっぱりチーズフォンデュが食べたい。私は欲望に負け、コース二人分を頼んでもらった。

     コースは前菜、サラダ、チーズフォンデュ、パスタ、デザートの全五品。始めに運ばれてきた前菜のプレートには、生ハムと小鰯のマリネ、それからカポナータの三品が乗っていた。おいしそうとはしゃぐ私を見て、お兄ちゃんは目を細めた。
    「貴女とこうして出かけるのも久しぶりですね」
    「そうかな?」
    「ええ。以前はもっと俺を誘ってくださったのに」
    「だってお兄ちゃんと出かけると、私の買った物でもお兄ちゃんが払っちゃうじゃない」
    「俺がしたくてしているだけです。貴女が気にする必要はありません」
    「そういうわけにはいきません! ほら、前に靴買いに行った時も……」
     私がどちらにしようか迷っている間に、お兄ちゃんが二足とも買ってしまった話から始まり、仕事とか趣味とか他愛のない会話を繰り広げる。

     その間に焼きチーズのサラダとチーズフォンデュが運ばれてきて、お父さんに私を甘やかすなと言われた時のお兄ちゃんの表情を思い出して笑っていると、パスタが出てきた。お兄ちゃんはミートソース、私はクリームソースを選んだが、一口ちょうだいと言えばお好きなだけどうぞとミートソースの皿を寄せられた。
     パスタをもぐもぐしながら、結婚の話を切り出すタイミングを考える。場の雰囲気はいい、しかしいざ言おうとすると烈火のごとく怒ったお兄ちゃんの顔が浮かんで、口が閉じてしまう。けど、パスタが終われば残りはデザートのみ。私は覚悟を決めた……
    「お兄ちゃんって結婚願望ないの?」
     つもりだったが、逃げてしまった。でも結婚絡みの話ができたんだから、一歩前進だ。

    「ありませんね」
     お兄ちゃんの返事は早かった。話題を切り上げたくて適当な返事をしたというよりは、本当に結婚願望がないんだとわかる言い方だ。しかし、ここで終わっては困る。彼との結婚のため、結婚っていいよねという話の流れに持っていきたい。
    「でもお兄ちゃんなら、結婚してくださいって女の人多いでしょ?」
    「いますが、相手をするつもりはありません」
    「お父さんは何も言わないけど、本当はお兄ちゃんに早く結婚してほしいんだよ。お兄ちゃんの結婚式で、新郎の父として挨拶するのが夢なんだって」
     お兄ちゃんがもっと小さい頃に父親になっていれば、キャッチボールしたり学校行事に参加したりして親子になれたんだろうけど、お父さんが父親として振る舞えたのはお兄ちゃんの成人式と大学の卒業式だけだ。新郎の父として結婚式に参加した時、初めて本当の父親になれる気がする。酔った勢いでお父さんが私にそう漏らしたことがあった。

    「あとね、早く孫が見たいって言ってた。お父さんも年取ったよねぇ。でも、お兄ちゃんの子供だったらかわいいだろうな。男の子でも女の子でも、将来有望だね」
    「俺が結婚すれば、自分も結婚できる。……そう聞こえるのは、俺だけでしょうか」
     いつもどおりの優しい言い方なのに、声が一段低い。恐る恐る顔を上げれば、いつぞや見た据わった目と視線が合う。こめかみに冷汗が流れるのを感じた。
    「いくら貴女の頼み……いえ、命令だとしても。俺は結婚しませんし、貴女をあの男と結婚させもしません」
    「……彼の何がいけないって言うの」
    「すべてです」
     お兄ちゃんの目は冷え冷えとしていて、怖いと思う気持ちはまだあった。でも、彼を否定されるのはどうしても許せない。唇を噛みしめ、藤色の瞳を見つめ返した。

    「彼と会ったこともないくせに、そんな風に言わないで」
    「会う以前の問題です。貴女と結婚したいのなら、日本に帰ってしかるべき職業に就くのが最低条件です。それもできないやつと、何故会う必要があるんですか」
    「お兄ちゃんの考えは古いのよ。私だって働いているんだから、彼に養ってもらおうとか思ってない。互いに助け合うのが夫婦でしょ」
    「助け合うではなく、貴女が支援するの間違いでしょう。あの男が欲しいのは、妻でなくパトロンだ」
    「彼を馬鹿にしないで!!」
     思いきりテーブルを叩いたせいで、食器がガシャンと大きな音を立てる。私の叫び声と相まって、お店の中が静まり返ったが、私はうつむいて泣くのを我慢するので精一杯だった。

     彼がアフリカに行きたいと行った時、彼の親を始めいろんな人が反対した。日本の企業は海外貢献をあまり評価しないらしく、日本に帰ってきても就職は厳しいからだ。それでも彼は貧しい子供たちのために、単身見知らぬ土地に行き、一生懸命がんばっている。
     どうしてわかってくれないの? どうして彼を否定するの? お兄ちゃんが好きだからこそ、彼を認めてくれないのが腹立たしく、悲しかった。目元がじんわりと熱くなったが、手に爪を立てて耐える。
    「俺だったら」
     店内が賑わいを取り戻した頃、お兄ちゃんがそうつぶやいた。
    「すべてを犠牲にしてでも、貴女を優先します。貴女の命なら仕事も辞める、家族も捨てる、なんだっていたしましょう。それなのに……どうして俺じゃないんだ」
     初めて聞くお兄ちゃんの弱々しい声に、私は私がどう思われていたのかを知った。

    「私、お兄ちゃんのこと好きよ。お兄ちゃんとして、お兄ちゃんのこと好き」
     残酷だが、どうしても嫌いとは言えなかった。とうとう涙を我慢できなくなり、両手で顔を覆ってごめんと謝った。



     結局、彼はお兄ちゃんに会わずアフリカに帰っていった。私はあれからお兄ちゃんと口をきいていない。お母さんからケンカでもしたの? と聞かれたが、とても本当のことは言えない。曖昧に笑ってごまかした。
     そんな中で、私は例の夢を見た。炎に包まれた館、女の人が長谷部に逃げろと言っている夢。一週間前に見たばかりだったから不思議に思っていると、長谷部がしゃべったのだ。
    「今までよく仕えてくれた。だから、もういい。早くお逃げ」
    「嫌です」
     きれいな声だった。そしてどこかで聞いた覚えのある声でもあった。女の人は想定内だったのが、驚く素振りは見せず苦笑した。

    「長谷部」
    「たとえ主命でも聞けません」
    「意固地になって死んじまったら意味ないだろ? ほら、長谷部……」
    「うるさい!」
     突如長谷部が声を張り上げる。私が今まで長谷部に持っていたイメージは、理知的で温和な人というものだったから、意外だった。女の人は目を丸くするも、また困った顔に戻って長谷部の頬にそっと手を添えた。
    「でっかい図体して、何泣いてんのさ」
     馬鹿な子だねぇと言いながら、自分より背の高い男の目元を拭う。

     その時、私の視点が変わった。長谷部の背中越しに見ていたのが、急に寄り添う二人の側面へと変わった。女の人が言うように、長谷部は泣いていた。自分が泣いているのが信じられないのかもしれない、戸惑った顔をして藤色の瞳からぽろぽろと涙が零れている。

     長谷部はお兄ちゃんの顔をしていた。声に聞き覚えがあるのも当然だ、彼はお兄ちゃんと同じ声で話していた。

     夢から覚めても体を起こす気になれず、私は布団に入ったままぼんやりと天井を見つめていた。長谷部がお兄ちゃんの顔をしていたのは、私の罪悪感から成るものだろう。自慢の兄だと無邪気に甘え、彼を傷つけてきた。
     それから毎日のように、長谷部が泣く夢を見た。そのうち、涙を拭う女の人も私の願望を反映しているように思えてきた。でも、現実の私にはその資格はない。





     彼が次に帰国するのは半年後の冬だというので、私たちはその時籍を入れることにした。本音を言えばお兄ちゃんにも認めてもらったうえで結婚したかったけど、それは最初から不可能な話だったのだと私は知ってしまった。
    「本当に結婚式しないの?」
     結婚準備ガイドなる文庫本を読んでいた私に、お母さんが聞いてくる。日曜日の三時。お父さんは休日出勤、お兄ちゃんは自分の部屋で、リビングには私とお母さんしかいない。
    「お金なら気にしなくていいのよ。結婚式のお金出すくらいの蓄えはあるんだから、遠慮しないで」
    「結婚式って準備に時間がかかるんでしょ? 彼、日本にちょっとしかいないし、そんな時間ないよ」
    「でも」
    「お母さんこそ気にしないで。私たち二人は、それでいいんだから」
     へらへら笑って手を振るが、お母さんはまだ物言いたげな顔をしている。

     私も一応女だし、ウエディングドレスとか白無垢とかに憧れがないといえばうそになるけれど、結婚式挙げる時間なんて彼にはないし、それにそんなお金があるなら貯金に回した方がいい。
    「時間がないなら、身内だけのパーティーでいいじゃない。ほら、結婚式の二次会みたいな。あんな小規模なものなら準備も楽だと思うの」
     しかしお母さんは諦めなかった。お兄ちゃんほどではないが、お母さんも私の意見を尊重してくれる人なのに珍しい。
     ふと、お兄ちゃんの結婚式に出たいというお父さんの言葉を思い出す。お母さんも、お父さんと同じなのかも。そう思えば申し訳ない気持ちになるが、やはり甘えることはできない。

    「でも、ドレスって高いんでしょ? レンタルのくせに、十万とか二十万取るって先輩が言ってた」
     昨年結婚した大学の先輩に結婚式の準備について聞く機会があったが、テーブルクロスをどのタイプにするかまで自分たちで決め、ランクを上げる度にお金が跳ね上がることを聞けば、結婚式への夢が一気に萎んだものだ。
    「お母さんのウエディングドレスがあるわ」
    「へ?」
     考えもしていなかった言葉に、つい間抜けな声が出る。私の中でドレスはレンタルするものという発想しかなかったからなのだか、お母さんは悪い風に解釈したらしく、慌てて訂正した。

    「私が着たのじゃなくて、私の母が着たのだから! 母は離婚してないから大丈夫!」
     お父さんは死別で独り身になったが、お母さんは前の旦那さんの浮気が原因で離婚したと聞いている。自分の着たのでは、縁起が悪いと思っているのだろう(まあ確かに縁起は良くないかも)。
     お母さんが言うには、最初の結婚の時ドレスを譲り受けたが、デザインが好みではなかったので着なかったらしい。かと言って捨てるのも後味が悪く、ずっと取ってあるんだそうだ。
     お母さんの後を付いて物置代わりになっている四畳半の部屋に行けば、お母さんはこれだと言って、箪笥と壁の隙間からベージュの箱を取り出した。長方形の箱は長い辺でも七十センチ程度しかなく、厚さも薄い。大量の布でできているウエディングドレスが収まるとは思えなかったが、蓋を開けると透明なパックの中に真っ白なドレスが入っていた。

    「好き嫌いが分かれると思うけど……どうかな?」
     床に広げられたドレスは、私が想像するウエディングドレスとは違っていた。私のイメージでは、キュッとしまったウエスト部分からふんわりとスカートが広がり、フリルとかスパンコールがふんだんにあしらわれているのがウエディングドレスだが、このドレスはコンパクトだ。バスト下に大きなリボンがあり、その下からスカート部分が直線的に落ちている。
     それと袖があるタイプのドレスだったが形が変わっていて、肘あたりまでは腕にぴったりとしているが、肘から下は切れ込みが入り、袖先に向かって広がっている。
    「きれいだね」
     お母さんに気を使ったのではなく、紛れもない私の本心だった。華やかさこそ劣るが、落ち着いていてとても上品なデザインだ。

    「お兄ちゃんのお嫁さんじゃなくて、私でいいの?」
    「お嫁さんより娘に着てもらいたいの。第一、あの子結婚しそうにないわ」
     一瞬お兄ちゃんとのことを見透かされているのかと思い心臓が跳ねたが、考えすぎだったらしい。お母さんは笑顔でドレスを私の体に当てる。
    「さ、着てみて」
     お母さんの勢いに押され、ドレスを試着してみる。お母さんのお母さんは私と同じくらいの身長だったらしく、サイズに問題はなかった。それに着てみてわかったが、このドレスはお腹回りがゆったりしていて、最近ズボンのウエストがきつい私のお腹もカバーしてくれた。

    「きれいよ、とってもきれい」
     そう言ってお母さんは、使わなくなったドレッサーのカバーを外す。上半身のみだが、ドレスを着た私の姿が映った。自分で言うのも恥ずかしいけど、お母さんが言うとおり、とてもきれいだった。ドレスはまるで私のために作ったのではないかと錯覚しそうなほど、私によく似合っていた。
     今まで事務的なことばかりに気を取られていたけど、結婚するんだなって改めて実感する。結婚式って本来は、こういう実感を沸かせるためにやるものなのかもしれない。お姫様のように裾を上げれば、自然と顔が綻んだ。
    「お兄ちゃんにも見せてきたら?」
    「え?」
    「こんなきれいな×××ちゃん見たら、きっとあの子も改心するわよ」
     ねっと言い、お母さんが私の体をドアの方へ向ける。でもと抵抗したが、いいからと背中をぐいぐい押された。



     お兄ちゃんの部屋は二階にあるので、ドレスの裾を持ち上げて階段を上る。気持ちは不安と期待の半々に分かれている。
     お兄ちゃんは私のことを、女として好きでいる。ドレス姿を見て喜ぶどころか、更に傷つくかもしれない。でも一方で、いいきっかけになるのではと期待しているのも確かだ。祝福までいかなくても、私への思いを割りきってくれるのではないか。
    「お兄ちゃん、いる?」
     お兄ちゃんの部屋の前に立ち、ノックをする。やや間を置いてどうぞと声がしたが、ドアを開ける決心がつかなかった。躊躇っていると、ゆっくりドアが開かれた。

     久しぶりに顔を合わせたお兄ちゃんは、私の姿を見るなり目を見開いた。そして、寂しげに笑った。
    「おきれいです」
    「……ありがと」
     褒めてもらったのに、胸がズキズキと痛む。心臓の上に置いた両手をぎゅっと握った。
    「そのドレスはどうなされたんですか?」
    「お母さんが貸してくれたの。お兄ちゃんのお祖母さんのドレスなんだって」
    「そうでしたか」
     会話はそれっきり途絶えてしまい、重い空気が漂う。何か言わなきゃと思うのに、いい言葉が浮かんでこなくて頭の中が真っ白になる。

    「抱きしめてもいいですか?」
     何もできずに立ち尽くしていると、突然そんなことを言われた。驚いて顔を上げれば、先ほど見た寂しげな顔のままのお兄ちゃんがいた。
    「それで貴女のことは諦めます。だから、どうかお許しください」
     彼以外の人に抱きしめられるなんて、そんなのいけないことだ。駄目だと言おうとした時、お兄ちゃんに長谷部の泣き顔が重なって見えた。
     長谷部には涙を拭ってくれる相手がいた、でもお兄ちゃんには? お兄ちゃんは部屋の中に入っていき、私に向かって手を差し出す。部屋に入ってはいけないと頭の中で警告音が鳴り響くのに、私は足を踏み入れた。

     近くまで来ると、お兄ちゃんは私の背に手を添え引き寄せた。力は強くない。振り払おうと思えば、女の私でも振り払えるほどの力だ。私が抵抗しないのがわかると、私の首筋にお兄ちゃんが顔を埋めた。
     お兄ちゃんは格好いい人だ。好きじゃなくても、こんな格好いい人に抱きしめられたらドキドキすると思う。実際、私の心臓も速くなっていた。けどおかしいのは、ときめいた時ではなく、恐怖を感じた時の感覚に近いことだ。
     耳元で、お兄ちゃんの弾んだ声が聞こえた。
    「申し訳ありません、少々言葉足らずでしたね」
     お腹に鈍い痛みが走った。何が起こったのかわからず、痛みがする箇所に手を伸ばせば金属らしき物に当たり、手がぬめった。
    「『今世の』貴女のことは諦めます」

     ゴボッと口から血が零れ、私の体は糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。床に転がった私に見えるのは、赤黒く染まったドレスの袖先とお兄ちゃんの足元だけ。顔を動かす力は残っていなかった。お兄ちゃんの足は窓の方へと向かい、カチャっと音がした後、布の焦げる臭いがした。
    「お兄ちゃ……」
     窓の方が明るくなり、部屋の温度が急激に上昇する。私は最後に残った力で、お兄ちゃんを呼んだ。
     どうしてと言いたいのか、助けてと言いたいのか自分でもわからない。ただお兄ちゃんのことを呼んだ。私の声が届いたのか、窓辺に立っていたお兄ちゃんが戻ってきて、私を抱き上げる。
    「兄ではなく、長谷部と呼んでください」
     その声を最後に、私は意識を失った。



     へし切長谷部が生み出されてから長い年月が経った後、人は時を遡る術を手に入れた。その術を使い歴史を改変しようとする輩が現れると、時の政府は刀剣の付喪神と契約し、歴史を守ろうとした。へし切長谷部は政府と契約した刀剣の一つであり、自身の分霊を刀剣男士として協力させる約束をした。

    「へし切長谷部、と言います。主命とあらば、何でもこなしますよ」
     多くの分霊が審神者なる者により、地上に呼び出された。彼もそんな数多いる分霊の一つにすぎなかった。
    「いらっしゃい、へし切長谷部。今日から私がアンタの主だ」
     彼を呼び出したのは、若い女だった。自分の新しい主が女だとわかると、彼はひどくがっかりした。短刀ではあるまいし、女なんぞに仕えて何になる。けれど彼は自分の気持ちを笑顔で隠し、恭しく新しい主に頭を下げた。

     主となった女に仕え始め、女のことを知れば知るほど、長谷部は失望した。女は何一つ満足にこなせなかった。出陣の指揮は初期刀の助言がなければできず、細かいことが苦手で政府に出す報告書も抜けが多い。資材の管理など論外だ。
     性格も彼が求める主君像とはかけ離れていた。姉御肌と言えば聞こえはいいが、刀剣の身の回りの世話を買って出、夜になれば酒が飲める連中を誘って宴会を開く。宴会の度次郎太刀と肩を組み、大口を開けて笑う姿を見て、長谷部は頭が痛くなった。
     だが、彼は文句一つ零さず主に尽くした。審神者が苦手な報告書の作成や資材の管理が得意であることを示し近侍の座を射止めると、次第に出陣についても審神者から相談されるようになった。やることはどんどん膨らんでいったが、彼はすべて完璧にこなしてみせた。

     長谷部にとって、自分の優秀さを周りに認めさせることが、劣等感を忘れさせてくれる唯一の手段だったのだ。これほど優れた刀を手放した信長はうつけであり、長政こそが正しかったのだと周りに思わせることで、彼は自分を保っていた。

     十年、二十年と月日が経ち、二十歳だった審神者は五十になっていた。この頃には一人で出陣の指揮をとり、実装予定の刀剣男士を預かるなど政府からも信認を得ていたが、報告書の作成は相変わらず長谷部がいないとできなかった。五十といえば人の命は尽きる頃。次の主に期待しようと、長谷部は内心そう考えていた。
     だがそんなある日、本丸が歴史修正主義者に襲われる。運の悪いことに、全部隊が出陣や遠征に出かけた後で、本丸にいる刀剣男士は十振りにも満たなかった。
    「長谷部、大将を頼む!」
     敵は薬研藤四郎とその兄弟たちが引き受け、長谷部は審神者の手を引き本丸の奥へと逃げた。本来なら打刀の長谷部が敵と戦い、短刀の彼らが主の側にいるべきだが、刀装をつければ長谷部の方が機動が高い。彼は審神者の執務室に駆け込み、政府へ救援の要請をしたが、そこで審神者が思いもよらぬことを言った。

    「長谷部、本丸に火放ちな」
    「何を仰っているんですか」
    「アイツらが狙ってるのは、私の命じゃなく政府の情報だ。残酷なこと言うが、政府の助けが来るまであの子たちは持たないよ。だったら、持ってるモン全部焼いちまう他ない」
    「それでしたら、先に主の逃げ道を確保してから……」
    「馬鹿言うんじゃないよ」
     審神者はカラカラと笑い、自分の額の中央を指で押した。
    「一番の情報はここにある。これ燃やさないと、意味がないさ」

     長谷部は命のまま、本丸に火を放った。その途中、遠目で薬研が一人で戦っているのが見えた。他の者の姿も探したが、彼の見える範囲にはいなかった。
     炎が立ち込める中、審神者の執務室に戻った彼に死への恐怖はなく、それどころか気分は高揚していた。主の最期を共にするのは薬研ではなく自分。知らず知らずのうちに、口の端が上がっていた。
     火の回りは思った以上に速く、執務室の障子や壁が燃えているのが見えた。中央に立つ審神者は大量の汗をかき、頬には煤が付いている。
    「主」
     腕を組み目を瞑る主人に呼びかけるが、審神者は眉間に皺を寄せた。

    「何戻ってきてんだい。早くお逃げ」
     高揚していた気分が、一気に降下した。自分は主と最期を共にする、唯一の刀に選ばれたのではないのか。すがるように主と言えば、女は目を細めた。
    「すまないね長谷部。私はお前が求める主ではなかった」
     普段なら何を言われようと、忠臣として相応しい言葉を返せた彼だが、この時だけは何を言えばいいのかわからなかった。侮っていた女に見透かされていたのだから、今更何を言えようか。
     だが、審神者の目は優しかった。時々短刀たちへ向ける眼差しを、長谷部に向けていた。

    「ただね、生きてさえいりゃ信長公や長政公を忘れさせてくれる主に出会えるさ。……今までよく仕えてくれた。だから、もういい。早くお逃げ」
    「嫌です」
     何を言えばいいかわからなかったはずなのに、拒否する言葉が口を吐いて出た。
    「長谷部」
    「たとえ主命でも聞けません」
    「意固地になって死んじまったら意味ないだろ? ほら、長谷部……」
    「うるさい!」
     目を丸くする審神者を見て、長谷部は自分の失言に気づく。審神者の手が頬に伸びた時には、叩かれることを覚悟したが、柔らかい手は頬に添えられた。

    「でっかい図体して、何泣いてんのさ。馬鹿な子だねぇ」
     そう言って、彼の目尻を拭った。人の身を得て何年も経つ彼だったが、涙を流したのはこれが初めてであり、泣くのが初めてなのだから涙を止める方法など知る由もない。
     どうすればいいかわからず、ただ審神者の顔を見て涙を流し続けたが、審神者は馬鹿な子だともう一度言い、長谷部の体を抱いた。
    「へし切長谷部っていったら、誰もが認める美しい刀だ。人になってからもそれは変わらないし、お前は頭が良くて能力も高い。それなのに、お前は私の顔色ばかりうかがって……。知ってたかい? 私が一番手を焼いたのはお前で、一番可愛かったのもお前だ」
    「薬研よりも?」
     織田にいた他の刀の名を出すと、審神者はああお前だと言った。宗三は? 不動は? 立て続けに聞くが、審神者は迷うことなく長谷部だと答えた。

    「お前がどうでもいいから手放そうっていうんじゃない。お前にはもっと相応しい主人がいると思うから、逃げろと言ったんだ」
    「俺の主は貴女です。貴女以外の者を、主と呼びたくありません」
     その言葉は何度も審神者に向け言った言葉だが、今までの世辞と違い、彼の心からの言葉だった。自分の優秀さを認めさせるためではなく、この主が好きだから仕えてきたのだと認めてしまえば、彼女に懇願する言葉が堰を切ったように溢れ出た。
    「俺を誰よりも愛してください。他の連中よりも、俺の方が優れていると認めてください。俺を、俺を、……俺をお側に置いてください。俺は、いつまでも貴女の刀でありたい」
    「わかった。わかったから、いい加減泣くのはやめな。いい男が台無しだ」

     審神者の首に顔を埋め泣く長谷部の頭をなでながら、なあ長谷部と審神者は話しかける。炎がすぐ近くまで迫り、人の身では苦しいだろうに、声音はどこまでも優しい。
    「次生まれてくる時は、私の子供に生まれておいで。私みたいな大雑把な女の子供なら、お前みたいな気難しいのも丁度いい具合になるさ」
    「はい。必ずお側に参ります」



     前世がへし切長谷部の分霊だった男は、息絶えた義理の妹の体をベッドに横たえた。見せにきた白いドレスは、腹を中心に赤黒く染まり、未だ染みは広がり続けている。
     二人のいる部屋は前世の再現のように、炎に包まれていた。今世の母親が叫ぶ声が聞こえてきたが、彼は無視した。うるさいが、炎に阻まれ邪魔はできないはずだ。
    「前世の記憶が戻り、母が貴女ではないとわかった時。俺は死のうと思いました」
     彼が前世の記憶を取り戻したのは、高校生の時だった。自分を産んだ女が、前世の主でないことはすぐにわかった。付喪神でなくなっても人の魂の色はわかり、彼女の魂は主の澄んだ色とは違っていた。
     彼は何度も自殺を試みたが、あと一歩が踏み出せず死ねなかった。何かの拍子で主に会えるかもしれない。その思いだけが彼を生かした。

     転機が訪れたのは、母親の再婚だった。見目も性格も変わっていたが、再婚相手の娘は間違いなく主の生まれ変わりだった。
    「不出来な俺を、迎えに来てくださったんだと思った。それなのに」
     少女は前世の時のように、いやそれ以上に長谷部を頼ってきた。学校に迎えにきて、買い物に付き合って。彼にとってはどれもささいなことだったが、命に応えれば腕に抱きついてきて礼を言われた。彼が天にも昇る気持ちであったのを、きっと少女は知らない。
     だが、成長するにつれ彼女は彼を頼らなくなった。彼がいくら尽くしても、嬉しそうな顔を見せず、逆に申し訳なさそうに顔を曇らせる。そしてついには男を作り、長谷部が一番可愛いと言った口で他の男に愛を告げ、彼を置いていこうとした。

    「俺が主命を果たせなかったから、怒っていらっしゃるんですか?」
     刺したままになっていた刃物を引き抜きその場に膝をつくと、横たわる女の腹に横顔をつけた。
    「申し訳ございません。次こそは、この腹から産まれてきます」
     血で汚れた顔で主、主と何度も繰り返し、最後にお母さんと声に出さずに呼ぶ。音にするのは来世になってからだ。

    さいこ Link Message Mute
    2022/08/28 5:45:07

    俺を産んでください

    pixivからの再掲。義理の兄妹として転生した長谷部と女審神者だけど、女審神者はモブと婚約中で……という話。話を要約するとタイトルになるので、人を選びます。(pixiv掲載:2015年10月)

    #刀剣乱夢 #刀さに #へしさに

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