華族令嬢テツナちゃんとお兄様の緑間君、赤司君①
ここ数日続いた桜を散らす雨が止み、空は清々しいほど晴れ渡っている。けれど、お日様は私の心までは晴らしてくれず、自分の心と正反対の空に溜息が出た。
今日一日、私はずっとこんな調子だ。娘らしくないと言われる無表情さはそのままだけど、気付けば溜息ばかり吐いている。あの素直に物を言えない堅物が、『どこか体が悪いのか?』と心配するくらいだから相当だ。
お父様が自分の部屋に下がってなさいと言ってくれたから、顔を合わせることはないだろうが、『あの人』が家に来てまた『あの話』をするのかと思うと、どうしたって気分は暗くなる。今日何回目かわからない溜息が、また口から漏れた。
「あら?」
視線を移した先に、見慣れた色を見つける。光と言えば黄色を想像するけれど、今の私にとっては緑も十分希望の光に見えた。
「真太郎君!!」
窓から体を乗り出し、兄の真太郎を引き留める。もう学校に戻るのか、学生服に外套を羽織り、頭にはしっかり角帽を被っていた。さすがに表情まで見えなかったが、驚いている雰囲気は伝わってきた。
「今そちらに行きます。少し待っててください」
わかりきっている返事など待たず、部屋を出て急いで階段を駆け下りる。こんな時洋服は便利だなと思う、着物では足がこれほど自由に動かない。真太郎君は二階から見た時と変わらぬ位置で待っていてくれたが、案の定私が想定していたお小言も待っていた。
「女が走るな、大声を出すな。みっともないのだよ」
眉間に皺を寄せたまま、神経質そうに眼鏡を左中指で押し上げる。この人は西洋の人と間違われるくらい背が高く、それでいて十人いれば十人とも端正な顔立ちだと認める美丈夫だ。あくまで小言ばかり言う口が閉まっていれば、だが。
「そんな言い方をしては、可愛いメッチェンから嫌われますよ」
「どこでそんな言い方…………高尾か」
余計なことをと、真太郎君が小さく舌打ちした。ちなみに高尾さんというのは真太郎君の級友で、真太郎君が学校の話をする度彼の名が出てくるから、恐らく一番仲が良いのだろう。こんな気難しい人と寮が同部屋で、尚且つ親友でいてくれるというのだから、高尾さんはとてもできた人だ。
「とにかく。走るな、大声を出すな。それとオレを名前で呼ぶな。母さんに聞かれたら、どうするつもりだ?」
「私が真太郎君を名前で呼んでもお兄様って呼んでも、お義母様はどちらにしろ怒りますよ。芸者風情の子が、真太郎と話すなって」
「テツナ」
「……すみません」
知らず知らずのうちに刺々しい言い方になってしまった。私とお義母様の確執は今に始まったことではないけれど、実の母親と妹がいがみ合う様など誰も見たくはないだろう。久しぶりに実家に帰ってきたのなら尚更だ。
お義母様がいないところでくらい好きに呼ばせてくれればいいじゃないとか、真太郎君と呼べと言ったのはそちらが先じゃないかとか、言いたいことは山ほどあるが、今の私はお願いをする身。一つ咳払いをすると、素直に『お兄様』と呼んだ。
「もう学校に戻られるのですか? まだ電車はあるでしょうに」
「高尾とミルクホールで、待ち合わせをしているのだよ」
なんということだ。お願いする前に計画が頓挫してしまい、私の気持ちはまた暗い方に傾きかけたが、高尾さんという言葉に一途の望みをかけた。
「私もご一緒させてください」
「なん……だと?」
「いいじゃないですか。高尾さんも以前お会いした時、『お姫様なら大歓迎だよ』って言ってくれましたし」
「駄目だ。来週なら、オ、オレが連れていってやらないこともないのだよ」
「今日でなくては意味がありません。だいたい今日でないなら、アイスクリームがいいので銀座のパーラーにしてください」
「お前という奴は……」
その後も連れて行け駄目だの応酬が続いたが、どちらも一向に折れなかった。容姿は全く似ていない私たちだが、頑固という点だけはよく似ている。
「わかりました! さては真太郎君、男色家ですね!? だから女がいるとまずいんでしょう!」
「誰がだ! あとドサクサに紛れて名前で呼ぶな! 高尾みたいな軟派の節操なしと、お前を合わす訳にはいかないのだよ!!」
「高尾さんは軽薄そうに見えて軽薄じゃないって言ったのは、真太郎君じゃないですか!」
「だから名前で呼ぶな!!」
「楽しそうだね」
第三者の声がし、私たちの喧嘩に待ったがかかる。私は彼の顔を見た途端、その場に崩れ落ちそうになった。この人と会いたくないから、真太郎君に連れ出してもらおうと思ったのに。約束の時間まであと一時間はある筈だが、私はそんなに長い間真太郎君と口喧嘩をしていたのだろうか。
「久しぶりだね真太郎。元気そうじゃないか」
「征十郎」
白いベストに背広、それにパナマ帽。所謂モボの格好そのものだったが、彼が身にすると退廃さが消え、高貴な気さえするのは何故だろう。征十郎さんがお前は変わらないねと言い帽子を取ると、彼を象徴する真紅の髪が見えた。
「まさか、歩いてきたのか」
「そのまさかだ。途中で車が燃料切れになってね、おかげで約束の時間に遅刻してしまった」
「遅刻どころか、随分早く来られたのでは? お約束の時間はもっと先ですよ征十郎さん」
「征十郎さんだなんて、他人行儀だな。昔のように、『征お兄様』と呼んではくれないの?」
「一体、いつのはな……」
「それに、昨日伯母様には予定より一時間ほど早く伺いますと連絡したんだが……テツナは聞いていなかったみたいだね」
すっと細められた目が私を見つめ、思わず背筋がぞくりとした。たった一つしか年は違わないのに、この迫力はどこから来るのだろう。彼が一歩二歩と距離を縮める度に、体が硬くなっていく気がした。
「聞いていたならば、未来の夫が訪ねてくるのに、出かけようなどしない筈だ」
「またその話か」
真太郎君が庇うように征十郎さんとの間に割って入り、私の視界は彼の外套で覆われた。駄目だと思いつつ、つい目の前の外套をぎゅっと掴むと、真太郎君が小さな声で大丈夫だと言ってくれた。本当は私がもっとしっかりしないといけないのに、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「お前も懲りない奴なのだよ。父さんはお前たちを結婚させるつもりはない」
「今は、だろ? 伯父様も物のわからぬ人ではない。赤司以上の相手などあり得ないと、すぐ気付かれるよ」
「赤司には既に叔母様が嫁いでいる。いくら伯爵家とはいえ、続けて同じ家に嫁がせるのが得策とは思えない。第一、父さんが気にしているのは、お前たちの血が近すぎることなのだよ」
「母さんが亡くなって何年経つと思っている? 放っておけば、両家の繋がりは確実に薄まるよ。それに従兄妹同士の結婚の何が悪いというんだ。法律上認められているのだし、世の中にごまんとある話だ」
それっきり会話は途絶えてしまった。私から二人の顔を見ることはできないけれど、この重い空気から、どんな顔をしているのかは想像がついた。そして、私自身がどんな顔をしているかも。
「テツナ」
男性にしては高めの、けれど芯があってよく通る声。文武両道で眉目秀麗で、それでいて声まで美しいだなんて。そんな声で名前を呼ばないでほしい。
「お前が僕の申し出に、一言はいと答えてくれれば全てが上手くいく。伯父様はお前に甘いからね、お前がこの結婚を望んでいるとわかれば、きっと賛成してくれる」
「テツナ、相手にしなくていい!」
「Meine Liebe」
突如手首を掴まれ、引き寄せられる。私を守ってくれていた黒がなくなり、代わりに現れたのは赤。唇が触れそうなほど近くで、赤い瞳が私を見つめていた。
「僕の妻になってほしい」
そう囁くと、彼はそのまま私を抱き締めた。時々女学校の友達がふざけて抱き付いてくることはあるけど、その時の感覚とは全く違う。全身を覆うように抱かれ、頬の触れる胸板や背中に回る腕が、細身な見かけに反し逞しいのが衣服越しに伝わってくる。
彼が言うように、私がはいと言えば全てが上手くいくのだろう。お父様は反対されているが、征十郎さんは赤司家のご嫡男で、赤司といえば公爵家をも凌ぐ財と権力を持つと噂されるほどの家だ。緑間にとって、これほどいい話はない。
けれど、私は征十郎さんの体を突き飛ばし、家に逃げ帰った。たとえ長年の思いが報われるとしても、私はどうしてもはいと返事をすることができないのだ。
私は六つになるまで、華族社会とは縁もゆかりもない下町で育った。実の父親が男爵様だなんて、引き取られるその日まで夢にも思わなかった。今でさえ、他の誰かと間違えたのではないかという疑念は拭えない。
周りは華族のお姫様になれるんだと、我がことのように喜んでくれたが、待ち受けていたのは辛い現実だった。お父様は新規事業のため家を空けられることが多く、私は一日の大半を義母と腹違いの兄、使用人と過ごした。しかしお義母様は私を見る度にヒステリーを起こし、兄は顔を合わしても無視をする。使用人は私の振る舞いを見てクスクスと笑うか、呆れ返るかのどちらかだった。
元々活発な性格ではなかったが、私はだんだん物を話さなくなり、人の目に触れぬよう動く癖が付いた。影が薄いと言われる所以は、この頃の経験のせいだろう。
そんな生活の中、唯一の光となったのが徹子お母様と征お兄様だった。二人に会ったのは私が緑間家に引き取られて、一月か二月経った頃。私を訪ねて緑間家に遊びに来られた時だ。
お母様は病気のせいで青白い顔をしていたが、清楚な美しさがある人で、そしてとても優しかった。ドレスが汚れるのも構わず、私と視線を合わすため、その場に膝をつかれた。
「初めまして、テツナさん。お会いしたかったわ」
そう言って微笑まれた顔が、未だ記憶に残っている。実の母親にでさえ、あんな愛情深い眼差しを向けられたことはない。胸が締め付けられて、私はまともに挨拶を返すこともできなかったが、お母様は変わらず慈悲深い目をしていた。
「私は貴方のお父様の妹で、徹子と言います。そしてこの子が私の息子の征十郎よ」
徹子お母様の隣に立っていたのは、私と同じ年代の美しい少年だった。当時の彼は女の子と見間違えそうなほど愛くるしく、けれど同時に利発さも感じられた。私はこんな綺麗な人がこの世にいるのかと衝撃を受け、椿の花のように鮮やかな瞳から目が離せなかった。
「初めまして。これからよろしくねテツナ」
笑った顔が、あまりに素敵だったから、私は真っ赤な顔をして頷くことしかできなかった。私の様子を見て、征お兄様は口元を押さえて笑われたが、嫌な気はしなかった。
それから私は赤司の家に、頻繁に呼ばれるようになった。
「私のことは『お母様』、征十郎は『お兄様』とお呼びになって。私たちを本当の母と兄だと思って、接してくださいな」
お母様は女の子が欲しかったそうで、私のことを大変可愛がってくれた。会う度に頭を撫でてくれ、抱き締めてくれた。体の弱い人だったから、一緒に出掛けることはついになかったが、それでも私と征お兄様が遊ぶ様をいつも温かく見守ってくれた。
二人がいてくれたから、私はあの辛い日々を生きられた。また遊びにおいでという言葉に縋って生きていた。
「そんな悲しい顔をしないで。離れ難くなる」
「征お兄様が、先に悲しい顔をするせいです」
「……そうかもしれないね」
征お兄様は昔から何事にも動じない人だったけど、私が帰る時間になると寂しそうに顔を曇らせた。
「お前が僕の妹だったら良かったのにね。僕の妹だったら、日が沈んでもお前を帰さずにすむのに」
それはいつしか、お兄様の口癖になった。
その後ひょんなことから私は真太郎君にピアノを教えてもらうようになり、緑間での生活もさほど苦にならなくなった。不器用なだけで元々優しい人だから、きっと彼も切欠を探していたのだろう。私たちは普通の兄妹と、何ら遜色ない関係を築くことができた。
けれど、私はなお赤司の家に通い続けた。お母様と征お兄様が好きだからというのは勿論だが、お母様の病状が悪化し、お医者様からもう長くないと言われていたのが大きかった。お母様はベッドから出られないことが多くなり、私はお母様の寝室で征お兄様と本を読んで過ごすことが多くなった。
「お前が僕の妹だったら良かったのに」
転機となる日も、征お兄様はいつもの言葉を口にした。私が女学校に入った年だ。
「僕の妹なら、真太郎のところになんて返さずに、ずっと側に置いておけるのに」
「またその話ですか。無駄なことが嫌いなお兄様らしくないですよ」
「お前はつれないね」
隣に座る私の髪を指で遊んでいたが、何を思ったか突然私の髪を一房とって、キッスした。
「僕が結婚を申し込んだら、お前は受けてくれる?」
「え?」
「可愛いお前をずっと手元に置いておくには、結婚してしまうのが一番いい手だと思ってね」
「そ、そんな軽々しく……」
「子供は双子がいいな。赤司では、双子は家に繁栄をもたらすと信じられているんだよ。弟は生まれてすぐ死んでしまったが、僕も双子だったんだよ?」
「駄目よ!」
部屋中に響く大きな声を出したのは、ベッドで寝ているお母様だった。温和でいつも笑みを絶やさぬお母様が、目を見開いて震えていた。
「征十郎さん、何を言っているの!? 冗談でも許しません」
「お母様……」
「テツナさんも、よく聞いて」
ベッドから出ると、私の両肩に手を置く。指が食い込んで痛かったけど、あの時のお母様には有無を言わさぬ何かがあった
「征十郎は赤司の跡取りなの。然るべき家のお嬢さんと結婚して、赤司をより立派な家にする義務があるの。テツナさんには私が良い縁談を持ってくるから、征十郎のことは諦めてちょうだい」
その後お兄様が何か反論していたが、私の耳には届かなかった。私はその時わかってしまった。自分はどこまでいっても、芸者の娘なのだと。こんなに優しくしてくれたお母様でさえ、自分の息子との結婚は許さない。どんなにあがいても、何もかも完璧な征お兄様につりあう人間にはなれないのだと。
お母様はその後すぐ亡くなられ、私は征お兄様と呼ぶのを止め、征十郎さんと距離をとった。
白状してしまおう、私は征十郎さんが好きだ。初めて会ったあの日から、私は彼に恋をしている。
抱き締められ、妻になってほしいと囁かれた時、私は天にも昇る気持ちだった。あの人に抱き締められると胸が高鳴って、そのくせお母様に抱かれた時のように心が安らぎもする。
けれど私は彼の手をとることはできない。征十郎さんは家柄も含めて、全ての面で優れている。それなのに、芸者の娘である私を妻に迎えれば、それが彼の唯一の汚点となってしまう。だから私は、どんなに恋焦がれたって、あの人の思いを受け取ってはいけないのだ。
――ウソツキ。ソンナノ後付ケノ言イ訳ニスギナイ。
――誰?
――私ハ君。君ノ本心。君ガ彼ヲ拒絶スルノハ、ソンナ理由カラジャナイ。
――他にどんな理由があるというの?
――君ノ本能ガ。
――君ノ中ニ流レル赤イ血ガ。彼ヲ拒ムンダヨ。