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    しおり
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    しおり
    恋を知らない一期一振「はあ? 刀剣男士の幽霊?」
     先生は私の言葉を復唱すると、隣の鶴丸さんをぎろりとにらむ。
    「俺じゃない。そんなことできるなら、見習いではなく真っ先にきみを驚かす」
    「するな」
     明石さんと燭台切さんが消えた後。顕現できない七振りの名を聞き、私は濁音混じりの汚い悲鳴を上げた。すると本丸中の刀剣男士が集まって来て、犯人扱いされた白い刀剣男士──鶴丸国永さんというらしい──と一緒に先生の部屋へ連れてこられた。

     敵襲かはたまた出陣中の刀剣男士が折れたのかと飛び起きた先生だったが、私の口から幽霊と出た途端不機嫌オーラ全開になり、鶴丸さんに疑いの眼差しを向けた。
     私も時間が経てばいくぶんか冷静になり、寝ぼけて夢と現実を混同しただけな気がしてきたが、今更勘違いだったと言える雰囲気ではなく、燭台切光忠の幽霊に幽霊と気づかず挨拶したところから話し始めた。
     先生は半信半疑、いや一信九疑くらいの態度で聞いていたが、明石さんの話をするにつれ様子が変わっていく。そして明石さんから託された腕時計を見せると、明らかに顔つきが変わった。
    「大将、高砂は……」
    「いいから続けろ」
     近侍は蜻蛉切さんから薬研君(この子も儚い系の顔とのギャップが大きい)に変わっており、何か言おうとしたがそれを先生が制し、私に続きを促した。

     意味深なやり取りが気になりつつ、腕時計に起きた不思議な現象から二人が消えた後の話までし、最後に鶴丸さんは無実ですと言って締めくくった。脇息にもたれかかって話を聞いていた先生は、溜め息を吐いた。
    「どう考えても前任だな」
     前任と聞き、昼間聞いたこの本丸の歴代審神者の話を思い出す。初代かつ六代目である先生の前任は、五代目のベテラン女性審神者。彼女は遡行軍の襲撃に遭い、逃げた先の地下室で中毒死した……。
     明石さんの話を聞いている間は気づかなかったが、五代目と彼の主は共通点が多い。それに幽霊が縁もゆかりもない場所に突如現れたというより、亡くなった場所に現れたと考える方が自然だ。けれど先生は重要な点を見落としている。
    「明石さんがいる時点で、この本丸の話ではないはずです」
     そう、明石国行はこの本丸では顕現できないとされる刀のうちの一振りなのだ。どれだけ似ていようと、前任の高砂と彼の主の高砂は別人だ。しかし、そう思うのは私が何も知らないからだった。

    「高砂は本丸を二つ持っていた。明石国行はここではない本丸の方で顕現された刀だ、そうだろ大将」
    「それもあるが、そもそも顕現できない七振りって騒ぎ立ててるが、単に俺が顕現できてないだけのことだ。明石は俺以外の四人は全員持ってたし、山姥切の二人と一期一振は四代目の時まではいた。一度も顕現されてないのは燭台切、謙信、七星剣だけだ」
     二十年以上燭台切が現れないのは異常だけどなと、先生はやや間を置いてつけ加える。二人にそう言われてしまえば何も言い返すことはできないが、それでも明石さんを思うと別の審神者であってほしかった。
     不服そうな私を納得させるためか、先生が手を伸ばし私を指さす。正確には私の手、私が握りしめている明石さんの腕時計だ。

    「あんたが持ってる時計。前任が亡くなった時に持ってたのと同じだ」
     盤に百合が描かれた腕時計は、ありふれたデザインではないが、かといって唯一無二と言えるほど個性的でもない。往生際悪くそんなことを考えていたが、途中でおかしな点に気づく。
    「なんで先生がそんなこと知ってるんですか?」
     本丸を二つ持っていた前任が(落ち着いて考えればこれもおかしい。審神者一人につき本丸は一つ。兼任ができないから補欠だった私にお誘いが来たのだ)、敵襲に遭い亡くなったくらいなら後任に伝えるかもしれない。だが、時計うんぬんの話までするとは思えない。
    「ああ、言ってなかったか? 俺はクビになった後、政府の役人になってこの本丸の担当をしてた。だから、俺の後がどんなやつらで、どうやって死んだかも知っている」

     ──戦力を出し渋るなってお上に言われて、素直に従ったその日に敵襲ですわ。

     ドクリと心臓が大きく鳴った。明石さんの言っていたお上とは、先生のことだろうか? 一見怖そうに見えて実は優しいと思っていたこの人は……本当にそうなのだろうか?

    「……さん……るじさん……主さん! 主さん、主さん、主さ~~ん!!」
     襖の向こうから少年の声が聞こえ、主さんと連呼する声と足音はどんどん大きくなっていく。薬研君が立とうとしたが先に先生が立ち上がり、外れそうなほど勢い良く障子を開けた。
    「うるさい! 今何時だと思ってんだ!?」
     先生が廊下に身を乗り出し怒鳴るが、先生の声に負けないくらい少年も声を張り上げる。
    「国行が出た!!」
     声の主は明石さんの話に出てきた愛染国俊で、彼は仲間と一緒に幕末の京都に出陣し、そこで明石国行を見つけた。
     愛染君に続いて出陣していた他の男の子たちも集まり、騒がしくなった主の部屋に夜警の男士たちが緊張した面持ちで駆けつける。気づけば先生の部屋は溢れんばかりの人だかり、場は騒然となる。

    「こりゃ驚きだね」
     そんな中、私の隣で胡坐をかいていた鶴丸さんがぼそっとつぶやく。楽しそうに見えるのは私の気のせいだろうか。


     愛染君が持ってきた刀は、明石国行で間違いなかった。先生が審神者に復帰して七年の間、一度も目にすることのなかった刀が、今ここにある。
    「主さん、早く顕現させようぜ!」
    「何故主の引退間際になって……」
    「燭台切さんの時みたいに顕現できないかも」
     集まった男士たちが畳に置かれた刀を囲んで、わいのわいの騒いでいる。ちなみに燭台切さんの時というのは、政府が時々実施するどこぞの老舗パンメーカーのようなイベントで、集めたシールと燭台切さんを交換したことがあったそうだが、いくら力を注いでも燭台切さんは先生の声に応じなかったのだという。

     いわくつきの刀剣男士の登場に興奮する周りの熱量についていけず、私は畳の上の刀を見ながら、これが人の形になるのかなんて場違いなことを思っていた。頭ではわかっていても、刀が人の形になり自分がそうできる力があるというのは、なかなか現実味が持てなかった。
     ちらりと先生の顔を盗み見れば、強面がますます強面になり、とても渋い顔をしている。無理もない。明石国行の幽霊の話を聞いた直後に、明石国行が見つかったのだから。
    「石切丸」
     先生は輪から少し離れたところにいる緑の着物の人に向かって言った。
    「明日の近侍はお前に変更だ。朝一で政府に行く」
    「その明石さんから悪い気はしないよ」
    「事情はこの後話す。薬研、鳩飛ばしてにっかりを呼び戻せ。鶴丸はにっかりが戻るまでこいつの護衛だ」
     こいつとは私のことで、いきなり話題に出されびっくりした。薬研君と鶴丸さんは声をそろえて了解と言い、先生は一度頷くと声を張り上げた。
    「よし、解散!!」
     集まっていた刀剣男士たちの反応は様々だったが、主の命に従い自分の持ち場へ戻っていく。愛染君とその隣にいる子はすぐ顕現してほしいと懇願し粘っていたが、先生に無理やり押し帰され少しかわいそうだった。

     場には私と先生、それから薬研君に鶴丸さん、石切丸さんの五人が残った。私は石切丸さんへの説明役として残る必要があると思ったのだが、先生は私にも部屋に帰るよう言った。
    「見習いさんが何か事情を知っているのではないのかい?」
     石切丸さんも私から話を聞くつもりだったらしい。
    「俺が代わりに話す。あんたも疲れただろ、もう帰って寝ていいぞ」
     そうは言われても本当に帰っていいのか迷ったが、鶴丸さんが立ち上がって一緒に部屋を出るようジェスチャーで示すので、私は部屋を辞することにした。

    「主はいささか心配性なのさ」
     部屋を出て、鶴丸さんが小声で私に伝える。先生に聞こえないところまで離れると、声のボリュームを元に戻し、そう心配しないでいいと続けた。
    「呪われた本丸、顕現できない刀剣男士……皆好き勝手言っているが、俺だって元は顕現できない刀剣男士だったんだ」
    「顕現できない八振り、だったんですか?」
    「そうさ。しかも年季なら明石より俺の方が上だ。俺は三代目から五代目まで……いや、二代目から五代目と言った方が正確か」
     歴代審神者の話をもう一度頭の中で思い起こす。二代目は確か先生の従兄弟で、他の本丸から譲り受けた刀に切り殺された人だ。鶴丸さんが二代目からと訂正した理由が思い当たり言葉に詰まっていると、鶴丸さんが正解だと告げる。
    「二代目を切り殺した譲渡刀は鶴丸国永だ。二代目は自分の鶴丸国永は所持していなかったから、二代目から五代目までと言うのが正しい」

     呪いを否定するために話してくれたのだろうが、何度聞いても気持ちのいい話ではない。それに私が気にしているのは審神者が不幸な死を遂げることだし、明石さんの件を単なる偶然とすますことはできない。

     ──戦力を出し渋るなってお上に言われて、素直に従ったその日に敵襲ですわ。

     嘘の説明をした政府、政府の裏切りによって死んだ審神者の担当だった先生……呪いよりもっと現実的で恐ろしいものが、この本丸にはあるのかもしれない。

     自然と下へ下がっていた視線が、雨音につられ庭へと移る。広大な百合園は消え、代わりに紫陽花が咲いていた。突然の出来事に脳が混乱を起こすも、景趣のことを思い出し一安心する。しかし、ただでさえ気が重いのに雨が降るとは……。うわっと小さく零した不満に、隣から噛み殺すような笑いが聞こえた。
    「親の心子知らずだな」
     わけがわからず、端正な横顔を見つめる。
    「主は雨だと寝つきがいいんだそうだ。まったく、気の使い方がどこかずれてるんだよな」
    「……」
    「きみの護衛にすると言ったにっかり青江は、側に置いておくと霊が出ないとされる刀だ。不器用ではあるが、主は疑われるような人間ではない。彼に腹芸は無理だ」
    「……そうですね」
     そう返すしかなかった。ただ鶴丸さんも額面通りには受け取らないだろう。このままこの話題を続けるのも黙ってやり過ごすことも避けたくて、私は別の話題を振った。

    「そういえば、なんであの時あの場所にいたんですか?」
     言った後に我ながらすいぶんと曖昧な言い回しをしたなと思ったが、鶴丸さんは察しのいい人らしく、深夜二時過ぎに客間付近の廊下にいた理由を教えてくれる。
    「夜警の当番だったからだ。そういうきみこそ、何故夜分に部屋から出た?」
     単純に理由を聞かれただけではないとわかったが、驚きの連続で感覚が麻痺してしまったらしい。慌てることも傷つくこともなく、あっと間抜けな声を上げた。
    「トイレ行きたかったんだった」
    「護衛だからついていくぞ、悪く思うなよ」
     一瞬悩んだが社会的な死はやはり避けたく、私の方こそすみませんと謝りトイレについてきてもらった。

     ここに住んでいる人数を考えれば当然なのだが、漠然と家にあるのと同じのを想像していたので、学校とか公衆施設みたいなトイレが案内された先にあったのは予想外だった。鶴丸さんに中に誰もいないことを確認してもらってからトイレに入るが、男性用の便器が並んでいて、悪いことはしていないのに気まずかった。
     この気まずさはお風呂の時もあった。本丸の大浴場はもちろん男湯しかないから、おかっぱの子に私が入っている間ずっと浴場の入り口に立ってもらっていた。
    「引き継いだらトイレとお風呂どうにかしないとな」
     つぶやいた後になって、この期に及んでまだ本丸を引き継ぐつもりでいる自分に気づく。我ながら危機感がなさすぎると思うのと同時に、安定した職への未練も湧いてき、堂々巡りになりそうなので考えるのをやめた。

    「お待たせしました」
     そう言いながら戸を開けたのだが、幽霊と見間違えるほど真っ白な姿はどこにもなかった。代わりに王子様が立っていた。鶴丸さんに負けず劣らずの美形というのもあるが、この人は王子様が畏まった場所で着ていそうな洋装で、以前テレビで見た外国の戴冠式にこの人が紛れ込んでいても違和感はないだろう。
    「……」
    「……」
     互いに無言のまま固まる。私はやや視線を下げ、彼が手にしている物を見るが、どう見ても刀だ。しかし先生の部屋に集まった面子の中に彼はいなかった。
    「あの、お名前を聞いても?」
     勇気を振りしぼり聞いてみる。
    「一期一振と申します」
    「あ~~~~!!!」
     本日三人目の幽霊の登場だった。


     突然奇声を上げうずくまった理由を聞かれたので、幽霊に会ったからだと素直に言えば、一期さんは笑った。王子様は少し変わった口調の人だった。
    「はははっ、おかしなことを言われますな」
     光明が見え勢い良く顔を上げるが、一期さんは笑顔のまま私をまた地獄に突き落とす。
    「確かに刀解されてなお意識のある私は幽霊なのでしょうな」
    「足があるから幽霊じゃないって言ってくれると思ったのに!」
    「最近の幽霊は足があるようです」
     どこか覚えのあるやり取りをした後、一期さんは場所を移そうと私を客間に連れていった。

     客間は私の布団が敷かれているはずなのだが、布団はどこにもなく、中央に机が置かれ座布団も二つきちんとセットされていた。先生の部屋に行っている間に誰かが片づけた? もしかして一期さんが? そう疑いながら座布団に座るが、床の間の掛け軸がなくなり飾り窓と見るからに高そうな皿と壺に代わっているのを見て、客間はもう一つあったのだと考え直す。
    「どこから話しましょうか」
     そう切り出した一期さんだったが、考え直して貴方はどこまでご存じで? と私に先に話すように促す。簡単に自己紹介と自分の身に起きた出来事を説明するが、一期さんは明石さんと違い、見習い制度について知っていた。それというのも、前にこの本丸に迷い込んできた男性も見習いだったからだという。
    「迷い込んだ?」
    「ええ。貴方は勘違いをしているようだが、幽霊が貴方のいる本丸に出たのではなく、貴方が幽霊のいる本丸に迷い込んだのです」
     さらりと告げられた事実に、言葉が出なかった。一期さんの言っていることが正しければ、鶴丸さんが突然現れ突然消えたことの説明がつくが、私には別の場所へ連れてこられたという実感が持てなかった。
     トイレから出て客間に着くまで、違和感は何もなかった。先生の本丸だと思い込んでいたからかもしれないが、審神者が好きに変えられるという景観は、今も明石さんの時も、先生の本丸と一緒だ。

     一期さんには私がショックを受けているように見えたみたいだが、素直に実感が持てないのだと打ち明ける。すると彼も私と同じように庭を見ながら言った。
    「景趣ですか。単なる偶然か、何かしらの理由で貴方のいた本丸と連動しているのか」
    「それか明石さんの想いが反映されて、とかですかね」
    「そうかもしれませんな」
     幽霊の話なのに、しんみりとした気持ちになる。百合の花が好きだった審神者なら、景趣も百合の花が愛でれるものを常に選んでいたかもしれない。
    「貴方は紫陽花に何か思い入れが?」
    「……いいえ、やはり単なる偶然なのでしょう」
     一期さんは私に向き直ると、話を元に戻した。

    「ここにいてはどのような影響があるかわかりません。早く元いた場所に戻られた方がいい」
     それは私も同感なので元の場所に戻る方法を一期さんに聞くが、何故か一期さんは黙ってしまう。私より前に迷い込んできた男性がどうやって帰ったのか教えてくれるだけでいいのだが、一期さんは視線を横にそらしてしまう。
    「彼は鶴丸殿が面倒を見ていましたので、私はどうなったかまでは……」
    「あ~~~~!!!」
     再び奇声を上げ机に突っ伏す。母親に無職になる詫びをする前に、先立つ不孝を詫びなければならないとは。あれ以降見かけてないのできっと帰れたのでしょうと一期さんは言うが、まったくフォローになっていない。
    「貴方は一度元いた場所に戻ったではありませんか。その時と同じことを試してみては?」
     突っ伏していた顔をゆっくり上げると、一期さんが王子様の微笑みを見せる。現金なもので、もう一度考えてみようと思うほどには回復した。

     まだ信じられないが、一期さんの言う別空間に転送されたというのが本当だと仮定して。私が元の本丸に戻れたのは、タイミングからして明石さんが成仏(代わりの言い方がわからないし、もう成仏にしておこう)したからだろう。燭台切さんも同時に消えたので、彼も成仏したのかもしれないが、燭台切さんは謎が多すぎるのでひとまず置いておく。
     またまた仮定の話になるが、明石さんは強い後悔や未練が消えたので成仏したとする。そうすれば、私のすべきことは決まってくる。
    「一期さんが成仏したら私は帰れるんだと思います」
    「貴方は面白い言い回しをする人ですな」
    「どうも。それで、一期さんは何故自分が成仏できないんだと思いますか?」
     一期さんは口元に手を当て考える仕草をし、しばらくして真面目な回答が返ってきた。

    「刀剣男士としての責務を全うできなかったからでしょう」
    「主が敵襲に遭って亡くなったとかです?」
    「一人目の主は若くして病に倒れ、二人目の主は戦いを放棄し本丸を去った。私はお二人の力にはなれませんでした」
    「主のこと好きでした?」
    「貴方の思うような邪な感情を抱いたことはありません」
     明石さんのパターンにはめ込もうとするも、すべて否定されてしまう。なんでもかんでも色恋沙汰に持っていくのはこのご時世どうかと思うが、私は成功パターンを一つしか知らないのだ。
    「持っているはずがない物を持っていたりしません? たとえば腕時計とか」
    「時計は二人目の主から懐中時計を賜ったことがあります」
     一期さんが胸元に手を置き、感触からないとわかれば今度はズボンのポケットに手を入れる。そこで彼の顔つきが変わり、懐中時計が出てくることを期待するも、出てきたのは飴だった。

     一期さんの白い手袋の上に乗せられた飴。透明な小袋に入った白い飴はハッカだろうか。年配の人が好むイメージがあるので、王子様のポケットから出てきたのは意外だったが、取り出した本人も驚いた様子で飴をまじまじと見ている。
    「もしかして、それが持っているはずのない物です?」
     一期さんはいや、でもと口ごもっているが、そうですと言っているようなものだった。そして認めたくない事情があるとも。しゃべりたくないことをしゃべるよう強要するのは、それこそ今のご時世許されないが、背に腹は代えられない。
    「もうそれしか手がかりがないんです。お願いですから話してください」
     深々と頭を下げる。顔を上げてくださいと言われるまでに時間がかかったのは、一期さんにとってそれほど口にしたくないことだったのだろう。


     燭台切殿が言う後悔だとか未練といったものとは関係がない、些細なことです。ハッカ飴は奥方からよく頂戴しました。一人目の奥方です、二人目は女性ですから。
     審神者なのに妻がいるとは驚かれたでしょう。今は違う? ……2225年ですか、私が刀解されてから十三年も経つのですか。そういえば、以前会った方も2220年代だと言っていましたな。
     私がこの身を得たのは2205年。この年に政府は歴史修正主義者の存在を世間に初めて公表し、審神者の徴集が始まったと聞いております。ですが、戦いは2205年以前より始まっており、当時は歴史修正主義者の存在は機密事項の一つでしたから、審神者も政府と繋がりの強い一部の家の者しかなれませんでした。

     一人目の主は2205年に就任した審神者ではありますが、先ほど申した政府と繋がりの強い家の者でしたので、一般の審神者と扱いは違いました。本丸は他の本丸より強固な結界が張られていましたし、資源や札は申請した分だけ補充されました。給金もきっと良かったのでしょう。彼にとって初めての太刀であった私は近侍を仰せつかっていましたが、金に困るどころかこれ以上使い道がないと私にこぼすこともありましたので。
     ですが、その分制約もあった。一人目の主は次世代の審神者を作るため、霊力の高い女性との結婚を命じられた。彼は嘆いていましたが断る選択肢など端からなく、年が明ける少し前に、一人の女性が本丸にやって来た。その方が奥方です。

     期待しているところ申し訳ないが、貴方が思うようなことは何もありませんぞ。飴をいただくようになったのも、包丁が……包丁藤四郎、私の弟です。あの子は人づ…………奥方によく懐いておりまして、私は奥方に失礼がないよう包丁を見張っていることが多かったですから、奥方が包丁に菓子を渡す際に私へも飴を渡された。それだけのことです。
     ……ええ、そのとおりです。一人目の主は若くして亡くなりました。ある日突然血を吐いて、特例で現世に戻られたが、その一週間後に訃報が届きました。彼が審神者であったのは二年ほど。本丸は彼の妹である二人目の主が引き継ぎ、奥方は本丸を去った。
     ははは、ハッカ飴が食べられなくなったのが心残りで成仏できない……やはり貴方は面白い方ですな。包丁と違い私はあのスースーする感じは嫌いではありませんが、化けて出るほどの好物でもありませんよ。それでは他の理由? 他の理由ですか。奥方が本丸を去った後で……一度だけあります。いいえ、奥方から頂戴しました。

     少し長くなりますが、二人目の主の話をしましょう。一人目の主の妹と言いましたが、二人は腹違いの兄妹でした。二人目の主は家ではあまり良い扱いをされなかったようで、そのためか兄のことを嫌っていた。引き継ぐ際に兄の刀剣の譲渡を強く拒否し、私を含めた七振りの譲渡で落ち着くまでには時間がかかったと聞いております。
     私に包丁、篭手切江、亀甲貞宗、蛍丸、御手杵、静形薙刀。もし白山が実装されていれば、白山も加わっていたことでしょう。後に顕現するご自身の刀より、我ら七振りを重宝されるとは、当時は思ってもいませんでした。

     二人目が就任されて一年も経たない頃、暦は六月でした。主の元に研修の通達が届きました。任意参加ではありましたが、主は演練への参加を禁じられていましたから……彼女に何か問題があったのではなく、一人目の主もそうでした。一般の審神者と接触させたくなかったのでしょう。とにかく、本丸の外に出ることを制限された暮らしでしたから、政府の研修施設で開催されるとわかると、ずいぶん喜んでおられた。

     ──研修には一期さんがついてきて。

     研修には近侍が同伴することになっていましたが、主の近侍は初期刀の山姥切国広殿と決まっていました。主は私に耳打ちします。

     ──ここだけの話、まんば君そろそろ極になれるみたい。けどいつかはわからないから。

     だから一期さんにお願いするのと。研修は毎週金曜日、八月末まで開催が予定されていたので、初期刀殿の修行に支障があってはならないと判断されたようです。事情を知らない初期刀殿は、布を深々と被ってずいぶん拗ねていましたがね。

     研修に参加しているのは、主と同じ特別な家の出の審神者ばかりでした。そのせいか、研修が開催された施設も、研修施設というよりまるで迎賓館のようで、庭園も立派なものでした。詳しくは覚えておりませんが、温室と睡蓮の浮かぶ池、紫陽花の植えられた通りがあったのは覚えています。
     主は優秀な方でしたので、研修には物足りなさを感じたようですが、研修後の庭園の散歩の時はとても生き生きとしていました。後になって聞いた話ですが、あの研修施設付近はあえて天候を操作せず、自然に任せているのだそうです。ですから、傘の用意はしておりませんでした。
     紫陽花の通りを歩いている時に、雨が降り始めた。咲き始めの紫陽花にぽつりぽつりと雫が落ちていたのが、次第に雨足が強くなっていき、とうとう雷の落ちる音まで聞こえてくるようになった。
     自分だけなら濡れようとかまいませんが、主が風邪を引いてはならない。ちょうど東屋が見えましたので、そこで雨が通り過ぎるのを待つことにしました。

     東屋には先客がいました。黒い日傘を持っていましたが、雨の勢いが強くなり、私たちと同じように東屋に避難したのでしょう。女性が私たちに気づき、軽く会釈をした時。そこでようやく私は女性が奥方だと気づいたのです。


     懐かしさはありません、奥方に対して私は負い目しかありませんから。しかし、思いもよらぬ再会に、つい『奥方様』と呼びかけてしまったのです。

     ──どうして貴方がここに?

     私が奥方と呼ぶまで、彼女も私が亡くなった夫の一期一振と気づいていなかった。とても驚かれていた。私が研修で来たのだと説明すると、奥方も自分のことをお話になった。次の嫁ぎ先が決まるまで、研修施設に併設された宿舎で暮らすよう命じられたのだそうです。
     通り雨だったようで、あれほど激しく降っていた雨は、話が終わる頃にはやんでいました。私はそこで場を辞するつもりでしたが、奥方はタオルを貸すので自分の部屋までついてくるよう言われました。
     私は主を見ましたが、主は何も言いません。初期刀殿ほどではないにしても、私といる時は饒舌な方だったのに不思議でした。今なら思い当たる理由がいくつかありますが、私は主の沈黙を肯定と捉え、奥方のご好意に甘えることにしました。

     彼女が住む宿舎は、若い女性が一人で住むには広すぎたが、そのおかげで私と主は別々の部屋で服を乾かすことができた。宿舎を出た時は、いっそ憎らしくなるほど晴れていましたな。舗装された道に水たまりができていなければ、先ほどまで雨が降っていたとは信じられませんでした。

     ──待って一期さん。

     宿舎の玄関を出たところで振り返れば、先ほど別れたばかりの奥方が、階段を駆け下りこちらへ近寄ってくる。彼女の体はまだ濡れていた。本丸の時と違い洋装で、長い髪を垂らしていたから、余計に濡れているのが目立ちました。

     良ければ包丁君にと言って渡されたのは、焼き菓子の入った小袋でした。ご迷惑をおかけしたうえに、菓子までいただくなどできません。しかし、お返ししようとする私の手を奥方は押し返し、貴方にではなく包丁君にだからと言うのです。

     ──ありがとうと伝えてください。

     私は何と言えばいいかわからなくなり、菓子を頂戴して本丸に帰りました。

     先ほど、一人目と二人目の主は腹違いの兄妹だと言いましたな。腹違いではあったが、お二人はよく似ていた。好意を持つ者には優しくどこまでも寛大だが、そうでない者には冷淡だった。いや、一人目の主は冷淡を通り越して冷酷と言っていい。
     あの方が好意を持つのは私たち刀剣男士で、そうでない者は奥方だった。彼は奥方を離れに閉じ込め、私たちが近づくのを良しとしなかった。独占欲故の行動ではありません。主は政府の指定した日……女性には身ごもりやすい期間というのがあるのでしょう? その日以外は離れに近づこうともしなかった。
     私たちも、奥方の置かれた状況に何も思わなかったわけではありません。ですが、我々にはお優しい主が、彼女のこととなるとどこまでも冷酷になる。それ相応の理由があるのではないかと勘繰る気持ちと、私たちが奥方をかばえば、主は余計に酷く奥方にあたるのではないかという懸念と。

     ただ包丁は違いました。包丁は主の命に背き奥方に会いにいっていました。私は、奥方を見る時のあの心が凍りつきそうなほど冷え冷えとした目が、包丁にも向けられるかもしれないと思うと恐ろしかった。けれど、私にあの子を咎める資格がありますか? むしろ私は兄として、あの子の行動をほめるべきなのに。
     私は悩んだ末、主に見つからないと確証が持てる日だけ、奥方に会いにいくよう包丁に言いました。私はその見張り役だったので、他の刀と違い飴を頂戴する機会がありました。


     奥方からの菓子を渡した時、包丁はとても喜んでいました。人妻の手作りだと言ってそれはそれは…………先ほどの発言はお忘れください。いいえ、私は人妻など一言も言っていませんぞ。
     私の弟である包丁藤四郎は甘い物が好きですので、菓子を頂戴してとても喜びました。そこまでは良かったのですが、奥方に会いたいと駄々をこね始めたのです。私に言っても駄目だとわかると、今度は主に直談判していましたが、そんなわがままを認めるわけにはいきません。きつく叱っておいたのですが……。
     次の日の朝、包丁が早起きして厨の手伝いをしていたのです。あの寝汚い子が。どうせ続きはしないだろうと高を括っていれば、それから次の金曜日まで毎日……それだけではないのです。馬と畑の世話も、他の兄弟の分までやるようになりまして。

     研修に行く日の朝、包丁はこれからも続けるから菓子だけでももらってきてくれと私にすがり、私の心は揺らぎました。自分でも弟に甘いとわかっておるのです。

     ──いいよ一期さん。研修の間どうせ暇でしょ? 行ってきなよ。

     主のこの言葉が最後の駄目押しになりました。せめて研修の終わりに主と共にと思ったのですが、研修が終わったらすぐ帰りたいとすげなく言われ、近侍でありながら私は主の側を離れ、奥方の家を訪ねました。

     奥方は私を見て驚いていましたが、すぐに察しがついたようです。私が持ってきた粗品を受け取らず、自分が好きでやったのだから、食べきれなくて困っていたからちょうど良かったのだと断られ続け、私はとうとう本当の目的を告げたのです。
     奥方は黙り込んでしまい、私は羞恥心から目を背けましたが、突然声を上げて笑われたのです。

     ──一期さんは相変わらずね。

     私の知る奥方は、表情の乏しい方でした。主に何をされても、黙って目を伏せて耐えているだけで。いいえ、耐えているようには見えなかった。辛いという感情すらなくし、何も感じない人形のようだった。それなのにあの人は、笑ったのです。

     ──ごめんなさい、でもそんな世界の終わりのような顔をしなくても。

     そう言って目元に浮かんだ涙を拭って、まったく、私は一体どんな顔をしていたのでしょうな。その後奥方はスコーンでもいいかと聞かれました。その時の私はスコーンがどのようなものか知りませんでしたし、先週もらった焼き菓子のように作り置きしていたものか、もしくは来週作る予定の菓子の名を言われたのだと思ったのです。喜ぶはずだと答えれば、奥方は私を家に上げ、手を洗ってこいと言うのです。

     頼んだその日に作ってくださったのも驚いたが、菓子作りを手伝えと言われたのも驚きましたな。もっとも、私が奥方の隣で立っているだけで皿を洗うくらいしかできませんでしたが。私が黙って待っていることができない性分だとわかっておいでだったのか。
     奥方は私のことをよくご存じだった。私はといえば、あの人が包丁の話を静かに聞く姿しか知らなかった。あんなに近い距離で、彼女が調理する姿を見る日が来るとは思ってもいなかった。
     一時間ほどして、スコーンが焼きあがりました。作り立てというのはあれほど良い匂いがするものなのですな。弟の物とわかっていながら、食べてみたいと純粋に思いました。すると奥方が天板の上に並んだスコーンを一つつまんで、私にくれたのです。きっと、顔に出ていたのでしょう。奥方もその場でスコーンを割って、食べてみせて……。
     スコーンは、チョコレートや果物を混ぜて作るものもあるそうですね。それに生クリームや蜂蜜、ジャムをつけて食べるそうで。ただあの時は、突然私がお願いしたものだから、そういった食材は切らしていた。それから、冷ましてから食べたほうが、水分や油分が馴染んで美味くなるとも聞きました。
     私も彼女にならってスコーンを半分に割ると、甘い湯気が立った。何もつけなくても、素朴な甘みがして、むしろこの方がいいと思った。

     おいしいかと、彼女が私を見上げて聞きました。あの時の顔は、普段より幼く見えた。行儀の悪いことを一緒にしたことで、連帯感みたいなものが芽生えていた。私は彼女の笑みにつられて笑い、おいしいと答えました。
     本当に、あの時のスコーンはおいしかった。世辞でもなんでもない。その後万事屋に売られているのを買って食べたこともありますが、あの時のスコーンほど美味いものには出会えなかった。


     お菓子作りは好きだけれど、甘いものはさほど好きではない。だから代わりに食べてくれる人が欲しかったのだ……奥方の言葉です。普通に考えれば、私に気を遣わせないための方便でしょう。だが彼女の作りたいという思いは、調理中の彼女を見れば本当だとわかりましたので、次の週もお願いすることにしました。
     持って帰ったスコーンは、包丁だけでなく他の弟たちや他派の短刀にも配りまして、みな喜びました。拗ねていた初期刀殿も、主と一緒に食べて仲直りをしていましたよ。初期刀殿の代わりに、今度は包丁が独り占めできずに拗ねていましたが。

     ──お菓子作りが好きなのは本当だろうけど。話し相手が欲しいんだよ。

     お礼の品を相談した時、主にそう言われました。意外でしたが、腑に落ちた。奥方にはずっと、包丁しか話し相手がいませんでしたから。

     ──彼女もあの腐った家の犠牲者だ。優しくしてあげて。

     私は何も答えませんでした。ただこれで、研修の間奥方の家に通うお墨付きを得たのです。

     次の金曜日。訪ねてきた私の顔を見るなり、奥方はぱっと顔を明るくして、挨拶もそこそこに早く家に上がるように急かすのです。机の上に大きな紙袋が置いてありました。中を見れば子供が喜びそうな模様の入ったビニールの袋に、いろいろな菓子が詰められており、私が想像していた以上の量でした。
     主の言葉を真に受けて、手ぶらで来たことに焦りましたな。私の動揺が伝わり、彼女もやりすぎたと思ったのでしょう。頬に手を当て、少し視線を下にし。楽しくてついと言い訳をしていました。

     感想を求められたので、皆が喜んでいたことを伝えました。次は皆に礼状を書かせて持ってこようと思ったのはこの時ですね。彼女はそれほど嬉しそうにしていた。だから口を滑らせ、包丁がもっと食べたかったと不満げだったことを伝えてしまい、奥方は私の感想を聞きました。
     私はその場で一つもらっていましたし、自分の分があるとは考えもしていなかった。今更ながら申し訳ないことをしたと思いましたが、あの人はやっぱりと言い、私の手にハッカ飴を置きました。

     ──一期さんはこれでないと包丁君にあげてしまうもの。

     懐かしいでしょうと彼女が微笑んだ。私はようやく、彼女の真意に気づいた。言われてみれば、ハッカ飴でない菓子をもらった時もありましたな。私は包丁が欲しがる前に、包丁にやっていました。ハッカ飴は包丁が嫌ったので、私は包丁に渡さなくなった。
     その流れで本丸の皆へ用意した菓子とは別の菓子を用意され、一緒に食べようと誘われれば、断れなかった。……そう、断れなかった。次の週もそのまた次の週も。私は彼女のお茶の誘いを断れず、共に過ごした。

     いろいろな話をしました。その日作った菓子について熱心に話されることが多かったが、他にも奥方の女学生時代の話も聞きましたし、私の新しい主の話もしました。あの本丸での思い出も、彼女は口にした。

     ──紫陽花を見ている時、傘を持って来てくれたことがあったでしょう。

     そのことは私も覚えていました。雨が降っているのに傘も差さず立っていたから、見かねて傘を渡した。

     ──あれぐらいの小雨なら、傘がなくてもいいと思ったの。心配させてごめんなさいね。

     本当にそうだったのだろうか。傘を持って隣に立つ私を見上げ、静かに頭を下げる奥方は、物である私たちより物のようだった。私は上手く笑えないくせに考えていることは表に出やすいようで、私を見て彼女は苦笑しました。

     ──貴方が思うほど、私は私のことを不幸だとは思っていないの。

     ただの強がりだと思うでしょう? しかし彼女が言うには、生まれた時から彼女の役割は、結婚して家と家を繋ぐことだと決まっていたというのです。審神者の才こそなかったが、彼女も特別な家の出身だ。そう言われて育っても不思議ではない。
     だが私は貴方方の生きる時代の価値観を理解しているつもりだ。家ではなく個人を尊び、愛情による繋がりにこそ価値を見出す。納得できずにいる私に、さらに彼女がこう言いました。

     ──私は恋を知らないから。

     彼女の母や姉は、恋を知っていた。恋を知っていたから、好いていない男と結婚し、子を成すことを悲しんだ。だが彼女は、結婚しても何も感じなかった。恋をしようと思ってもし方がわからず、結局恋を知らないまま結婚をしたから、あの生活に苦痛を感じなかった。


     本丸の皆がしたためた礼状は喜んで受け取ってくれるが、その他の物は一切彼女は受け取らなかった。ですが八月も終わりに近づき、主の研修も残すところあと一度となりましたので、断られたとしても何か贈ろうと思ったのです。
     女性への贈り物といえば、菓子か花かくらいしか思いつかず、彼女は菓子を食べるのは好きではありませんでしたから。甘いものが好きではないと言ったのは本当だったのです、途中であの人は自分の分を作るのをやめ、私の分だけ菓子を用意していた。
     店員に見繕ってもらうつもりで花屋に行ったのですが、棚に飾られた紫陽花のブーケが目に留まりました。紫陽花にしては変わった形をしていて、他の花だと言われたら信じるくらいに、全体的に花が尖っているというか細いというか、色味も薄く、でもかわいらしい花で……彼女に似合いそうだと思った。

     棚の前で立ち止まっていると、見知らぬ女性の審神者に声をかけられました。その審神者は紫陽花はやめた方がいいと言うのです。紫陽花の季節は終わり、ブーケも生花ではなく加工品でしたから、彼女の言い分はもっともだと私も思いましたが、そうではなく花言葉が悪いのだと言われました。
     紫陽花の花言葉は移り気、浮気。女性に贈るのなら、店の奥にある薔薇がいいと言い残し審神者は店を出ていった。
     彼女が勧めるだけあって、薔薇の花は美しかった。女性が好みそうな無難な選択だ。だが、何故か手が伸びない。薔薇を目にしているのに、頭にはあの紫陽花のブーケが浮かぶ。
     私と審神者のやり取りを見ていた店員が、薔薇を前に悩む私に、紫陽花が気になるなら紫陽花にすればいいと耳打ちするのです。紫陽花の花言葉には、辛抱強い愛という意味もあると言ったうえで……。

     ──花屋としては、花言葉ではなくて花そのものを見てほしいです。

     花言葉を気にする女性かと聞かれ、私は違うと答えた。彼女の何をわかった気でいるのか、でも彼女は違うと断言できた。

     ──大丈夫ですよ、紫陽花は結婚式のブーケにも使われる花なんですから。

     紫陽花のブーケを、彼女は受け取ってくれた。私は断られることを覚悟していましたから、純粋に嬉しかった。

     その日珍しく彼女は菓子を用意していなかった。本丸に持ち帰るようの菓子はありました、私のためだけに用意された菓子がなかった。私は恨みがましい顔をしていたようで、彼女は笑っていましたよ。笑いながらごめんなさいと謝り、今日は花を観に行こうと誘われました。
     主が庭園の散歩を楽しまれたのは初回だけで、後は研修が終わると同時に本丸に帰られた。自分には花を美しいと思う心がないと言われてましたな、私も主に似たのか、花に興味はなかった。花屋に行ったのも、あれが最後だった。
     けれど菓子の方がいいなどと言えないでしょう? 彼女と一緒にいるためには、花を観にいくしかなかったし、見れば意外と楽しいものですな。温室には変わった形の植物がありましたし、睡蓮の浮かぶ池は美しいだけでなく涼を取ることもできた。朝顔で作ったアーチも見ました。本丸の薔薇園にあるのと劣らぬ豪華さで、弟たちが鉢植えで育てている姿しか頭になかったから、見せ方次第だと思いましたよ。

     最後にたどり着いたのは、あの紫陽花の通りです。先ほど話したとおり、紫陽花の季節はとうに過ぎている。紫陽花には葉しか残っていないのに、私たちは東屋で長い間話し込んだ。
     時間はあっという間に過ぎていきました。気づけば、主の研修が終わる時間になっていた。私は名残惜しくてなかなか立ち上がることができませんでしたが、そんな時に彼女が言ったんです。

     ──次の嫁ぎ先が決まりました。

     次世代の審神者を作るため結婚をさせた政府が、いつまでも彼女を自由にしておくわけがない。私はわかっていたのにわからないふりを続け、彼女もずっと言い出せずにいた。
     今の家を発つのは三日後で、次の研修の時にはもう彼女には会えない。包丁や菓子を楽しみにしていた本丸の者たちに、礼と謝罪を代わりに伝えてほしいと言われ……。私が返事をできずにいると、彼女はすぐに戻ってくるからと言い、一旦家に帰りました。そして走って戻ってきた時、彼女の手には私が贈った紫陽花のブーケがあった。

     ──ねえ、写真を撮って!

     変わった人だ。写真を撮りたいのなら、睡蓮の池や朝顔のアーチで撮れば良かったのだ。それなのに、葉ばかりの紫陽花を背景に写真を撮れと言う。ですが、私は言われたとおり写真を撮りました。ええ、冴えない背景でした。けれど彼女が着ていた光沢のある白いワンピースが夕日を反射し、私が贈った紫陽花のブーケが彩を添え……本当に、腹立たしいくらい。彼女は美しかった。


     本丸に帰り、私は真っ先に包丁に彼女の結婚を伝えました。包丁には悪いことをしました。あの子は変わらず本丸内の雑務を引き受け続けていたのに、私は彼女会いたさに役目を譲らなかった。不満を爆発させて泣くか、殴られるか。いっそ殴ってくれた方がありがたかったが、包丁はよくできた弟です。私よりもずっと。

     ──俺は人妻が幸せになるならそれでいいんだ。

     その後、本丸の皆にも彼女の結婚を伝えました。甘い物を好む者が多かったですから、彼女の菓子が食べられなくなることを残念がっていました。しかしそれ以上に、彼女の結婚を喜んでいた。

     ……馬鹿なことを言うなと思いませんか? 結婚をすれば幸せになれると、歴代の主たちを見てきてよくそんなことが思えたものだ。あの人があの本丸で、いつ幸せだったというんだ。離れに閉じ込められ、子を産むことだけを求められ……苦痛を感じたことはない? そんなはずはない。菓子を作るのが好きなあの人が、本丸では一度も菓子を作らなかった。あの人は夫が傘を差してくれるのを待っていた、なのにあいつは来なかった。
     好きなことには子供のように夢中になって、細やかな気づかいもできて、表情が豊かで……。そうです、彼女は表情が豊かなよく笑う人なのです。些細なことで笑う彼女が、あの本丸で、いつ笑ったというのか。

     私は次の日、彼女に会いに行きました。ええ、研修の日ではありません。主は私が適当にこしらえた理由を承諾し、見て見ぬふりをしてくれました。

     ──了解、帰りの時間は一期さんに任せるね。

     研修施設に着くと、彼女と再会した日のように雨が降っていた。天候を自然に任せるようになったのは、その方が人の心に良い影響があると研究結果が出たからだそうです。鶴丸殿ではないですが、予想し得る出来事だけでは心が死んでしまうということでしょう。
     ずぶ濡れの状態で現れた私に、彼女は驚いていました。まさか私が来るとは思わなかったのでしょうな。しばらく互いに無言のまま見つめあっていたが、先に目をそらしたのは彼女だった。彼女には私のためにタオルを取りに行くという名目が作れましたから。しかし私は家の中に戻ろうとする彼女の手を掴み、衝動のまま押し倒した。

     何故、俺以外の男のものになるのか。

     彼女が濡れてしまうのも、守り続けてきた互いの立場が崩れるのも、私が一期一振であることも。何もかもがどうでもよかった。
     彼女が許せなかった。憎くさえあった。いつも熱がこもった目で見つめてきたくせに、何故再婚に同意したのか。俺を見上げる目が、未だその熱を帯びているというのに。

     自分のことは棚に上げ、彼女を責めた。それでも彼女は変わらず私を見つめ、私の頬に手を伸ばした。

     ──私を連れて逃げてくれる?

     彼女がか細い声で…………っははは、そう言われて私はどう言ったと思う? どこへ? と言ったんだ。衝動のまま行動したくせに、間抜けにもどこへ? と。

     彼女は……奥方は、正気に戻った。頬に添えられていた手が私の胸を軽く押し、私は抗えない力で離された。奥方は家の奥へと行くとタオルを持って戻ってき、立ち上がれずにいる私に渡した。

     ──一期さんはそんなことしない。私もそんなことは望まない。

     上手く笑えない私の代わりに、奥方が笑みを作った。だがあの目には、もう熱は宿っていなかった。

     ──だって私、恋を知らないから。貴方も、そうでしょう?

     奥方とはそれっきりです。最後の研修の日に彼女の家を訪ねたが、空き家になっており、紫陽花のブーケだけが玄関の飾り棚に残されていた。食べる機会を逃して持て余していたハッカ飴は、その晩に捨てました。


     一期さんはすべてを話し終えると、手のひらの中のハッカ飴を見た。誰もしゃべる者がいなくなり、場には雨音だけが聞こえてくる。私は雨は好きではないけど、先生のように落ち着くと感じる人の言い分がわかる気がした。雨には人を包み込む優しさがある。
    「そうか、そうだったのか」
     そうつぶやくと、彼の体の輪郭がぼやけて、白い煙が薄っすらと漂う。
    「あれが、恋だったんだ」
     ハッカ飴が机に落ちる音を残し、一期さんは消えてしまった。

     なんというか、すごいものを見せられた。淡々と激情を語られるという経験はもうないだろう。始めこそ王子様の面影が残っていたが、徐々に固く能面のような表情に変わり、それでいて能面の下から渦巻く情念が見えるのだから、口を挟む余裕などなかった。まあ刀剣男士ですら気圧されたのだ、見習い審神者が手も足も出なかったのは仕方がない。
    「さっきぶりですね、燭台切さん」
     襖の陰に隠れる燭台切光忠に言う。一期さんからは見えない位置にいるが、向かい合って座る私には、彼が廊下を歩いてくるところから見えていた。燭台切さんが来たのは一期さんが最後のハッカ飴をもらう辺りで、部屋に入るタイミングを失ったまま今に至る。

    「君と会ってから君たちの時間でどれぐらい経った?」
    「不穏なワードを混ぜてきますね。二時間かそこらじゃないですか」
    「え? ここに迷い込みすぎだよ」
     好きで迷い込んだわけではないのだが。燭台切さんは部屋の中に入り、一期さんが座っていた場所に座ると、ハッカ飴を手に取った。
    「僕の時は二人の主を救えなかったことが後悔だって言っていたのに」
    「知り合いでしたか」
    「知り合い、かな? 何度かここで会って話をしたことがある。そういえば一期さんと会う時は、いつも梅雨の庭だったな」
     一期さんとした会話の内容を燭台切さんは詳しくは話さなかったが、だいたいの想像はついた。頑丈な入れ物に自分の感情を押し込み蓋をして、誰にも触らせないようにしていたのだろう。私が彼の本心を聞き出せたのは、私が哀れな見習いで、彼がたまたまハッカ飴を持っていたからにすぎない。

    「盗み聞きなんてカッコ悪いことしてしまったけど、一期さんはすごいと思うよ。彼は最後の最後で踏み留まった。どこへ? と言った自分を責めていたけど、そのおかげで二人とも道を踏み外さずにすんだ」
     燭台切さんは持っていたハッカ飴をまた机に戻す。そのちょっとした仕草でさえ様になっており、こんな騒動に巻き込まれる前だったら見惚れていたに違いない。
     彼はとにかく謎が多い。おそらく明石さんや一期さんと同じ存在なのだろうが、明石さんと一緒に成仏したのかと思えばまた姿を現し、幽霊が集うこの本丸についても詳しそうである。
     それに何故私はこの人を『燭台切光忠』とわかったのだろう。自慢ではないが、私は人の顔と名前が覚えられない。明石国行は同姓同名の友人がいたので覚えられたが、顕現できない残り六振りの名はあやふやだったはずだ。なのに私はこの人を一目見て、『燭台切光忠』だとわかった。

     私の視線に応え、燭台切さんがうつむいていた顔を上げる。口角が少しだけ吊り上がる。
    「僕に何が聞きたい?」
    「元の場所に戻る方法を」
    「意外と冷静だね。臆病とも言える。けどそれでいいと思うよ」
     燭台切さんは立ち上がると廊下に出ていく。私も腰を上げるが、彼は襖の前で振り返り、引手に手をかける。
    「今度もしまた会えたら、その時は僕の話をしよう」
     その言葉を最後に襖は派手な音を立てて閉められ、彼の姿は見えなくなった。なんだ? 音を立てて襖を閉めるような人には見えなかったのだが。というか、ついてこいという意味ではなかったのか?

     あれが元の世界に戻すための合図だったのだとわかったのは、周りを見渡す余裕ができてからだ。机はなくなり、座布団は私が使っている羽毛布団に変わっていた。部屋の隅には私の私物が固まって置いてあり、床の間には飾り窓ではなく掛け軸が飾ってある。
     無事に帰ってこられた。緊張の糸が切れ、どっと疲れが押し寄せる。目の前にはふかふかの布団があり、誘惑に抗えず体を滑り込ませたところで思い出した。
    「(鶴丸さんどうなった?)」
     私は飛び起きるとそのままの勢いでトイレに小走りで向かった。あの白い姿は遠目でも目立ち、壁に背を預け立っているのが見えたが、私の姿に気づくととんでもない速さで駆け寄ってきた。
    「驚かすにしてももっと他に方法があるだろう!」
    「変な怒り方しないでください」
    「どこからどうやって厠を抜け出した? 影武者か?」
    「なんで平凡な見習いに影武者がいるんですか」
     両肩を掴まれ揺さぶられる。本人は至って真剣に心配してくれているようだが、言葉の選びはおかしいし、文句があるのなら燭台切さんに言ってほしい。
    「先生のところに行きましょう。明石国行の次は一期一振です」
     至近距離にある金色の目が真ん丸になり、その後細めた。きみといると驚きに事欠かない気がすると言われたが、ちっとも嬉しくなかった。

    さいこ Link Message Mute
    2023/05/29 0:22:36

    恋を知らない一期一振

    とうらぶホラーのようなシリーズ名ですが、ホラーではありません。審神者見習いが刀剣男士の幽霊(?)に会い彼らの話を聞くシリーズ。今回は一期さんと未亡人の話。
    今回も燭さに要素ほぼないですが、シリーズ通してのメインになる予定なのでタグ付けています。

    #刀剣乱夢 #刀さに #女審神者 #いちさに #燭さに #見習い

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