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    処暑 風は夜明けに吹いた。夜の終わり、或いは朝の始まりを告げるように。たった一度だけ吹いた風が樹を揺らす。枝葉が擦れ、音をたてる。風の姿はもうどこにもないのに、枝の動きだけが残像に映る。揺れる。動く。
     静止。
     少年は徐々に枝葉の動きが鈍るのを眺めていた。朝は涼しかったので、着物の上に何か羽織るものがあればいいと考えていた。しかし、今はまだ夏であるのだから、すぐに煩わしいほどの暑さになるのだろう。蝉の単調な鳴き声が降り注ぐ光景を思い描き、僅かに眉を顰める。数刻後には現実となる空想。それだけで、呼吸が鈍くなる。夏の空気を想像する。生命の霧が濃く立ち上り、柔らかく首へ絡む光景が脳裏に浮かんだ。浅く呼吸を繰り返し、少年はゆっくりと呼吸を整えた。軽く頭を振り、自ずと浮かんだ想像の全てを切り替える。思考という鏡を裏返すように。
     それから、ここがどこであったかを思い出す。山に四方を囲まれ、きわめて平均的な慎ましさに満ちた小さな村落。彼は昨夜、三晩かけてこの村に帰ってきた。
    「兵助!」
     どこからか己の名を呼ばれ、彼は背後を振り返った。すぐ近くに人の姿はない。声だけが先行し、やがて、土の上を跳ねる軽妙な足音が四つ。数十秒後に現れた影は久々知の腰ほどの高さに頭を並べ、素早く兵助を取り囲んだ。
    「朝早いんだねぇ」
    「忍者の学校だと皆いつもこの時刻に起きているの?」
    「私たちにも忍者のこと教えて!」
    「そうだよ、せっかく帰って来たんだから。お話、聞かせて」
     口々に話をせがむ子供たちを一瞥し、久々知は分かりやすく微笑んで見せた。学園の教師が、下級生に向ける笑みを真似て。
    「忍に忍のことを聞いてはいけないよ」
    「どうして?」
    「たくさんの秘密を知っているからね。その秘密を探りに来たと思われて、お前たち皆襲われてしまうかもしれない」
    「兵助はそんなことしないでしょう?」
    「俺はまだ卵だからね」
    「じゃあ、教えて!」
    「忍者の学校ってどんなところ?」
    「先生は怖い?」
    「兵助も手裏剣を投げるの?」子供の一人が拳を突き出して徐に振り回す。
     久々知は子供たちの声を聞きながら、そっと視線を樹上へ向けた。鳥が一羽、枝に足を下ろしたところだった。野山の中でよく見かける鳥であったが、彼はその名前を知らなかった。これまで気にかけたこともなかった鳥の名前はなんだろうかと考える。その答えを知っているであろう友人の名前が代わりに浮かび、つられたように、学園の友人の名前を思い出す。鳥の名前くらい、皆、知っているかもしれない。しかし、彼らに会うことができるのはまだ先のことであるし、その頃に自分はきっと、鳥の名前についてなど忘れてしまっているだろう。今、丁度目に留まったから思考に上がって来ただけのこと。その鳥が何であれ、鳥だということに変わりはない。
     鳥は首を機敏に動かしながら、辺りを忙しなく見まわし、数秒後には飛び立った。控えめな羽ばたきが俄かに響き、木々の向こうへ姿を消す。不自然に揺れる、鳥が止まっていた枝だけが残される。鳥がいたことを証明するかのように。久々知は上下に等しく振れる枝を黒目で追った。段々と小さくなる運動はやがて完全に静止し、木々の網目から射し込んだ陽光が瞳孔を焼く。太陽はもう、山並みの上に姿を現しているのだろう。久々知は眩しさに目を眇めながら、子供たちを見下ろした。
    「手裏剣は投げるんじゃなくて、打つんだよ」

     夏休みになると村の子供たちは、村へ戻った久々知をいつも歓待した。子供たちは村の中に久々知を見つけるや否や取り囲み、何をしてきたのかと口々に尋ねた。彼は話をせがまれるたびに、必ず子供たちを窘めたが、繰り返される問答に怒りを覚えたことは一度もない。忍に仕事について尋ねないことは一種、暗黙の了解として成立しているものの、子供たちは忍ではないし、またその卵でもない。久々知が訊ねてはいけないと言ったところで、彼らにはその掟を守る義理などないのもまた道理だった。
     久々知を取り巻く子どもの中には、まだ五つにもならない小さな子供もいれば、久々知と一つしか歳が離れていないような子供もいた。無邪気に己の周りを駆けまわる姿は、学園の少年たちと同じ幼さがあった。違うのは、誰もが皆異なる着物を纏い、その布地は少なくとも二種類の端切れを繋ぎ合わせたものであることか。その手に農具以外を握ったことがないことか。
     子供の一人が、不意に、久々知の袖口を引いた。数年前に生まれた、村で一番小さな子供があどけなく彼の顔を見上げている。
    「兵助は、いつも、どこに行っているの?」
     投げられた疑問に、久々知は瞬きの間思考を止めた。それから、この小さな子供が生まれた時にはもう彼は学園へ入学していたと気付く。子供からすれば、久々知は夏と冬にだけ村を訪れる不思議な人間なのだろう。
    「俺は忍の学校へ行っているんだよ」村中の誰もが知っていることを隠す必要はない。彼は素直に答えた。
    「学校?」
    「俺たちくらいの子供が集まって、勉強するところだよ」
    「勉強?」
    「字を習ったり、武器の使い方を習ったりするんだ」
    「武器ってなあに」
     袂の裏に潜めた金属の重さを感じる。「刀や、弓。生き物や人を傷つける道具のこと」
    「なんでそんなことをするの?」
    「忍になるためだよ」
    「忍って何?」
    「忍っていうのは、そうだなぁ……お城や町にいて、こっそり秘密を探る人、かなぁ」
    「なんで?」
    「普通、秘密は知られたくないだろう?」
    「うん」子供が笑った。「秘密は知ってる。僕もね、秘密があるよ。兵助にも内緒。皆でね、内緒って決めたことがあってね……」
     興味が逸れたのか、子供はその秘密がいかに面白いものであるかを懸命に語っている。口を動かす度に見え隠れする乳歯が幼さを感じさせ、久々知はなるべく自然に見える笑みを作り、大仰に相槌を返した。
    「それでね、僕たちが作ったのはね、畑の……」
    「なあ、秘密は喋っちゃだめだろう」別の子供が話を遮った。彼らの中でも久々知に歳が近く、子供たちの中では年長者にあたる少年だった。
    「あ、ごめんなさい」
    「兵助だからいいけど、大人には絶対内緒だからな」
     いたく真面目な子供たちの様子に久々知は微笑んだまま、しかし、何も言わなかった。村の大人は、彼らの秘密をとうに見抜いているに違いない。推測にも及ばない。断定された現実として。久々知はそれを知っていたが口にするほど彼は薄情ではなく、そして、優しくもなかった。
    「忍の学校って、十歳になったら行けるんでしょう?」話題を変えようと、また別の子供が久々知の方へ顔を向けた。「私は今九歳だから、来年になったら行ける?」
    「どうだろうね」久々知は曖昧に答えた。
    「どうやったら、学校へ行けるの?」
    「学園の場所を知っていれば。それから、入学金を払えれば」
    「お金は、ないなぁ……」子供が残念そうにつぶやいた。
    「生徒の中には、自分で学費を貯めて入学した人もいるよ」
    「そんなこと、できないよ」子供が笑った。そんなことはあり得ないと信じているかのように。
    「学校には、他にどんな人がいるの?」
    「……いろんな人が」久々知は再び曖昧に首を傾けて見せた。
     子供たちはそうなんだ、と言いながら互いに顔を見合わせた。村の外を知らない子供にとって「いろんな人」が意味する先を想像することは難しいのか。彼らの頭の内にある人間とは少なくとも村の大人たちで、その姿は凡そにおいて似通っている。外見に違いはあれど、暮らしぶりはほとんど変わらない。
    「例えば?」子供が訊ねた。
    「生き物に凄く詳しい人、目立ちたがり屋で自慢話が好きな人、ものすごく方向音痴な人。中には物凄く不運な人もいる」
    「そんな人がいるの?」
    「いろんな人、だからね……ああ、それから、」久々知は不意に言葉を区切り、徐に空に指を向けた。
     鈍角に傾いた太陽が爪に反射し、鈍く光を散乱させる。いつの間にか、既に、陽が暮れ始めていた。
    「ほら、皆、もうお昼だろう。家に戻らないとごはんを食べ損ねてしまうよ」
     彼の言葉に、子供たちは慌てたように走り始めた。また明日、という挨拶を残して。学園の生徒たちとは異なる声音の重なりは、夏の淡い夕暮れに消えていく。一夏の間繰り返し聞くことになるであろう合唱を名残惜しむこともなく、久々知は夕日に背を向ける。
    「それから、誰が?」
     誰もいなくなった空間で独り言ちる。一陣の風が彼の背を追い越し、蒸した生暖かさだけを首筋に残していった。


     赤光に映し出された影が詰め込まれた街道に立ち、彼は一人、行き交う人々を眺めていた。時刻のせいだろう、宿を求める人と客を呼び込もうとする宿屋の声が激しく交差しいている。気が急いた人々の足音は大きく、雑踏は大波のようにうねり、空間を覆う。舞い上がった土埃と汗の匂いは風に流されることもなく底流し、街道を行く人々の不愉快を助長しているようだった。
     長期休暇中に与えられた宿題のために、彼はこの街に来た。街で横行している薬の密売についての証拠を手に入れることが彼に与えられた課題だった。奉公人に紛れて課題に記された商家の帳簿を調べることに成功すれば良いだけの単純な任務。変装をしていたものの帳簿を扱う姿を見られているために、夜を待とうと路地裏へ身を潜めているところだった。偶然にも知らない街を訪れたのだから、見知らぬ人々の姿を観察したいという欲も少なからずありはしたが、いずれにせよ新学期まではまだ日にちがある。何を選択するにも余裕があった。
     大通りから外れた横道、建物と建物の影に身を休めながら、所所で立ち上る怒声を聞き流す。誰も彼のことを気に留めない。他人に興味を裂いている時間はないのか、或いは、誰も彼の存在に気付いていないのか。日に焼けたように見える顔と、くたびれた着物は街道を過ぎる人々の平均的な装いから外れず、彼の姿を埋没させている。左手に握られた小さな紙束だけが農民風の装いに不似合いな印象を与えていたが、ちょうど彼の身体に隠れ、街道からそれを見つけることはできなかった。
     彼は、密売の証拠となる紙をかぶっていた笠の裏へ隠し、雨の痕が残る壁へ背を預けた。それから己の顔に手を伸ばし、瞼を擦るような自然さで面を取り換えた。一瞬の出来事。焼けた肌の男から、煤に汚れた男の顔へ表情が変わる。もしこの瞬間を見ている者がいたとすれば、正しく瞬きの間に、人間が入れ替わったように思っただろう。黄昏時の魔法のように。尤も彼の姿を目に留めている者は一人もなく、彼は何事も無かったかのように再び街道の様子を伺い始めた。土埃は相も変わらず喧噪を可視化して街を包み、人間の放つ無数の匂いが混迷を映し出している。止むことのない騒音。途切れることのない熱気。彼は頬の裏を無意識に噛み、血が滲んだ後で、口内の薄い皮膚が食い破られたことに気が付いた。
     俄かな熱。
     痺れるような鉄の味。
     変装した人間のものではない。外見がどのようなものであれ、流されている血は自分のもの以外にはあり得ない。
    「自分?」彼は呟いた。
     唇の誤差に近い振動が目に見えない波紋を描く。
     言葉はある。
     音も。
     しかし、彼を見る者はない。
    「自分って?」
     幾つもの思考が同時に展開した。最近変装した人間のものもあれば、もう随分長く使用していないものもあった。一度も表にしたことがないものも。当然、使い慣れた思考も存在していた。しかし、その全ては並列。同列。序列はない。真偽もない。全てが等しく彼の思考であり、彼自身と言えた。
     顔に触れる。
     自分の顔を思い出そうと努力する。
     紙芝居のように面が入れ替わった。青年、幼子、老女。身体だけはそのままに、顔は次々と変化していく。それでは、この身体こそが本物の自分か。彼自身というものは、今ここに生きている、一つの肉体が存在していることを意味するのか。
     そうではない。
     思考の一つが言った。振動ではない、心の内にのみ聞こえる声だった。或いは、音になっていたのかもしれないが、彼を認識しているものがいないのであれば、それは意味を持った言葉にはならない。ただ空間を揺らす微弱な波となって、すぐに雑踏にかき消されてしまっただろう。
     身体は唯一であるが、絶対ではない。存在しているかもしれないが、反対に、存在していると断言することは難しい。確かに存在していると確信できるのは、彼がそう信じているからだ。幽霊や物の怪にまつわる噂のように。人間と幽霊の違いは信用が実在に傾いているか、非実在に傾いているかという程度の違いでしかない。そして、存在しているものとしていないものの境界が曖昧であることを利用する者こそ忍である。
     そう、彼は忍を志している。
     存在よりも明確な指向。
     幾つもの思考に共通する矢印。
     その姿を彼は思い出す。首筋で淡い茶色の髪が風に揺れるのを感じた。
    「私は忍術学園五年ろ組、学級委員長委員会、鉢屋三郎」
     鉢屋はゆっくりと喉を震わせる。人間の視覚では感じ取ることのできない小波の描く波紋を想像する。規則的な曲線が織り成す紋様。見ることはできない。認識はできる。
     それが存在しているということ。
     気が付けば、路地にはとうに夜の帳が下りていた。夜風は雨の気配を連れ、立ち込めていた熱気は散逸し、点々と連なる宿の灯りがこの場所が街であることを知らしめる。時折、どこからか人々の笑う声や陶器のぶつかる音が響いた。水面を隔てたように茫洋とした響きは却って路地を満たす静寂を際立たせる。鉢屋は水底を泳ぐ魚のような滑らかさで、ゆっくりと街道へ背を向けた。
     暗闇の中に光が二つ。
     羽ばたき。
     目の前に一羽の梟。
     双眸は瞬き、
     鳴き声を一つ、ホウ、と響かせる。
     その拍子に嘴から白い何かが零れ落ちる。
     瞬きの間に梟は飛び去った。
     梟の落とし物は地面の上で、白く淡い光を微かに放っている。星明かりを反射しているためだろう。鉢屋は足元に落ちたそれを拾い上げた。
    「……綿?」
     実が弾けたばかりの、泡のようにくすんだ白。夏にはまだ早く、しかし、やがて来る季節を連想させる淡い温度。掌に収まるほど小さな光を見つめたまま、やがて鉢屋は、ゆっくりと唇を寄せた。柔らかな感触が薄い皮膚をくすぐり、摩擦から熱が生まれる。
    「帰ろう」彼が言った。振動は綿の中へ吸い込まれ、彼の耳にも届かない。
    「どこへ?」
    「学園へ」
     梟の瞳によく似た目を持った誰かの姿が、瞼の裏に滲んでいた。
     
     *
     夜を駆ける風は雨の香りを含み、ゆっくりと流れていった。頬の上を静かに這い、遅れて、湿った冷気が皮膚を冷やす。夏の終わりを告げるように。
     村から街道へ至る唯一の山道。その中腹で、彼は大きな獣が一匹、道を行きすぎるのを待っていた。獣に見つからないよう、樹の上に座りながら。暗闇の中では四つ足の獣という他に明確な姿を捉えることはできないが、恐らく、野犬か何かの類だろうとあたりを付ける。餌を探しているのか、人の気配を感じたのか。長い毛におおわれた尻尾は真っ直ぐに伸ばされ、時折低い唸り声が夜の底を這う。
     立ち去る気配のない獣から目を離し、久々知は樹の幹へ背を凭せ掛けた。地上よりも数段高い位置にあるせいだろう、木々の隙間から、山の向こうが僅かに見えた。開かれた田と畑の並ぶ、小さな村の片隅に目を向け、その家々のどこにも明かりが灯っていないことを確認する。星影の他は皆暗闇に沈んだ夜半であれば、当然、起きている者はいない。彼と野犬を除いて。
     天上に散乱した銀色の光が、規則もなく銀色の光を瞬かせた。一筋の光が彼の瞳へ飛び込み、瞳孔を刺す。眩さに自ずと目を閉じれば、瞼の裏で緑色の点が茫と明滅を繰り返す。彼は目を開くことなく、じっとその光を追った。
    「ああ、それから、」
     夏の初め、子供たちへ伝えかけた言葉が不意に蘇る。
    「それから、誰?」頭の中で問いかける声が一つ。子供たちの声ではない。自分の声だった。
     あの時頭の中に思い浮かべた人間は誰であったのか、考える。思い出すには、蜃気楼のように曖昧な記憶。それでも己の思考を推測することは、彼にとってはひどく容易だった。
     学園には個性的な人間が多い。長所であれ、短所であれ、何かしら目立つ物を持っている人間が。彼らの個性は、しかし、内面における強い特徴だ。外観だけを切り出せば、当然姿形に違いはあれども、彼らは皆年相応の少年であると表現できるだろう。
     ただ一人。常に他者の変装を纏う少年を除いて。
     他人の外見を借りているという点で、明らかに異質な人間のことを思い出す。同じ学年に所属する変装名人。彼のことを伝えるにはその説明が最も適切だ。それが、ただ彼の外観にすぎないとしても。しかし久々知は子供たちへ彼のことを伝えなかった。或いは、できなかったのかもしれない。
    「何故?」
    「だって、それは、鉢屋三郎その人を意味しない」
     音はない。喉を震わせながらも、声にはならない。
     悪ふざけを好み、やや露悪的なきらいはあるが、根は真面目で親切。善良を抽象したかのような精神。姿をどれほど偽ろうと、素顔を完全に隠そうと、表した形としての振る舞いをいくら真似ようと。そこに通底するものは結局のところ変わらない。少なくとも久々知から見た鉢屋三郎という存在はそう分析できた。尤も、それが本当の鉢屋三郎であるか久々知に確かめる方法はない。
     或いは、会えば。目の前にあれば確かめられるだろうか。
     久々知は片目を空けて眼下を見た。獣は変わらず漫然とあたりを徘徊していた。樹の上にいる別の生き物に気付いていないのだろう。世界において視点は一つではない。
     自分にも見えていないものがあるはずだ。久々知は目を眇めたまま暗闇を見つめた。影に隠れた木々は僅かな濃淡だけが浮き上がり、影絵のように平面的。もしくは、木々は本当に平面で、立体と思っていることの方が錯覚であるのかもしれない。認識している世界が正しいと証明することは難しい。証明する意味もない。それでも、確証があればいいと願う心があった。
     開いた方の目のすぐ横に、淡い光が浮かんでいた。久々知は両目を開き、その後で静かに首を曲げた。茶色の額から溢れかえった、白い球体。鉄のような光沢はなく、柔らかな輪郭が漫然と描かれている。
    「……綿?」
     彼は首を僅かに傾けた。今上っている樹が、綿の木だったのだろう。しかし、周りを見渡しても他に綿の実は見当たらない。久々知は首を傾げたまま白い球体に指を伸ばした。柔らかな感触が指を覆い、自ずと頬が緩む。
     次の瞬間、綿の実は樹の枝から零れ落ちた。
     反射的に、宙に投げ出されたそれを手に掴む。
     柔らかな中身に反して、硬く乾いた殻が表皮を鈍く刺す。
     風が勢いよく吹き抜けている。綿が落ちたのも風のせいであったのかと、彼は遅れて気が付いた。風には依然として水の気配が漂い、首筋を冷やしていく。久々知は風に吹かれたまま、綿の中央へ鼻先を埋めた。土埃のような重い香りが鼻孔を抜ける。微かな熱が綿の中に溶け出し、鼻先を俄かに暖める。一つ、二つ、脈拍に併せて呼吸を繰り返す。十を数えたところで息が詰まり、顔を上げた。
     暗闇の中に光が二つ。同じ高さに並んだそれは一度ゆっくりと瞬きを落とした。それから、ホウ、と一声を上げる。
     久々知はすぐに立ち上がり、樹の幹に片手をついた。
     梟は動かない。
     下を見れば、いつの間にか、野犬の姿は見えなくなっている。梟の羽ばたきに驚いて逃げていったのかもしれない。
     彼は手に持ったままの綿を徐に宙へ投げた。鈍く光った双眸が一瞬にして軌道を追い、続けて羽根の広がる音が響いた。鋭利な嘴は白い塊を咥えると、そのまま夜闇の向こうへ飛び去って行く。
     二度瞬きを繰り返し、久々知は一息に地上へ飛び降りた。足の裏で確かな衝撃を受け止める。
     唇には、熱の名残。
     綿に点った熱は遠く夜空へ。
    「帰ろう」
     夏の終わりには未だ早くとも、きっと、会えるだろう。確証もなく、彼はそう思った。
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    2022/09/11 0:05:03

    処暑

    #鉢くく
    別サイトからの移転です。
    初出:2022-08-23

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