Stand by meもくじ
【外の世界の本を見つけたお話】
【〝自由〟を知ってしまったお話】
【対等になれなかったお話】
【俺だけが残っていたお話】
【自由を渇望するお話】
【君が怯えていたときのお話】
【決意を持ったときのお話】
【初めての君に出会ったお話】
【そばにいてくれたときのお話】
【名もない激情のお話】
【少し寂しくなったお話】
【気づいてしまったときのお話】
【そばにいないお話】
【〝そのとき〟がきてしまったお話】
【失いかけたお話】
【頼られなくなったお話】
【夢が一つ叶ったお話】
【夢が一つ朽ちたお話】
【本当はわかっていたお話】
【***】
【君を葬ったお話/懺悔の話】
【外の世界の本を見つけたお話】
「――わあ!?」
僕はこのとき、ここ数日で読み切った本を、本棚に戻そうとしていた。
どさりと音を立てて本が床に落ちて、僕は慌てて踏み台から少し身体を傾けて見下ろした。おじいちゃんの大事な本なのに、それは運悪く開いた面を下にして、ページがぐちゃりと曲がってしまっていた。
「わあ、怒られる……!」
急いで踏み台から飛び降りて、その本を拾い上げる。その場に座り込んで、それを膝に乗せて、つけてしまった皺を伸ばすように何度もそのページを撫でつけた。
おじいちゃんだけでなく、今はお母さんもお父さんも家にはいないので、がんばれば落としてしまったことは隠せるかもしれない。
――そのときだ、僕の視界は違和感を捉えていた。
「……?」
本棚の一番下の段、本の背表紙がぎっちりと詰められて並ぶ中、一冊だけその奥に横向きに挟まっている本があった。幅が一回り小さい本と本棚の背板に挟んであった本は、どうしてだろうか、わざと隠されていたのだろうかと僕の興味を引いた。
先ほどまで丁寧に撫でつけていた本を横に置き、僕はその妙な挟まり方をしている本の、手前の本を取り出して脇に重ねていった。ようやく奥に挟まっていた本を取り出した僕は、年季の入った分厚い本に興味津々だった。
「『せかいの』……『きろく』……?」
表紙に書かれていた文字列を読み上げる。
なんとなく周りを見渡して、おじいちゃんたちが帰っていないかと確認してしまった。
僕はそのまま、その分厚い本の表紙をめくる。最初のページには同じように本のタイトルが書かれていて、その下には著者と思しき人名が書かれていた。これまで様々な本を読破してきた僕だけど、この著者に見覚えはなかった。
さらにもう一ページをめくる。次に出てきたのは目次だ。何かの分類別になっているらしいことはわかった。『環境』、『地象』、『動物』、『植物』、『虫』……見出しをそこまで読んで一旦止めて、適当にまた数ページをめくってみる。そこは『環境』の中の少し進んだページだった。
「……う、み……?」
そこに添えられた絵を確認したが、どうやら大きな湖のようなものらしいと理解する。続いてその横に載っていたこの『海』に対する説明文に目を通していく。
――地表上、広範囲に水をたたえている部分。この水は塩水であり、ここにしか生息できない魚類もあり。地表の七割を占め、その深さは計り知れない。渡るには知識が必要。
説明を読んで、僕はハッと息を吸い込んだ。――僕はこれを、知らなかったのだ。……この壁の中に、塩水でできた湖なんて聞いたことがない。しかも、『地表の七割を占める』とあるが、『地表』とはおそらく地面のことだろう。この壁の中に、そんな大きな湖は、やはり存在していないのだ。
ドクン。
僕の心臓は高鳴った。慌ててもう一度表紙を確認する。『世界の記録』と、確かに書かれていた。……これは、この壁内の世界のことではないのだと、そのとき瞬時に悟った。これは……壁外を含む、『世界』の記録なのだ。
すっかり高揚してしまった手つきで、僕はさらにその続きを読んだ。
「『がん』……『しょう』……? 『岩漿』! えっと、」
まるで自分に話しかけるように声に出して読んだ。
――岩漿とは、流れるように走る炎のことだった。あまりの高熱のせいで、いろんなものを溶かしながら進むのだと書いていた。つまり、わかりやすく解釈するなら〝炎の水〟のようなものなのだろう。
僕の心はさらに踊った。……この世界には、僕の知らないものがたくさんある。それを知ったとき、まるで色を持っていなかった世界が彩りを与えられるように、世界がそれごと明るくなった。
僕はどんどん読み進めていき、これを読みふけってしまった。
そこにはあらゆる想像を掻き立てるものが記されていて、僕はふと顔を上げた。思い至ったのだ、これを、エレンに見せよう。――エレンとは、街に馴染めずにいた僕に、唯一構ってくれるようになった子のことだった。僕と同い年で、なのに僕と違って、僕がいじめられていたら、立ち向かっていく勇敢な子で。……でも、いつもどこかつまらなさそうな、そんなエレン。
ぼくは散らかしっぱなしの本には一目もくれず、その分厚い本を一生懸命に胸元に抱えて走り出した。おじいちゃんが帰ってくる前に元の場所に戻せば、持ち出したことはばれないだろう。今はもう、居ても立っても居られなかった。
エレンにも、教えてあげたい。この世界がどれだけ広くて、どれだけ未知に溢れているのかを。そうしたら、エレンもきっと考えることが楽しくなるはずだ。エレンの視界も色鮮やかになって、つまらなさそうなあの瞳も、きっときらきらと光を取り戻す。
知って欲しい、この感動を、この心躍らせる、衝撃を。きっとエレンも、一緒に夢を見てくれる。
【〝自由〟を知ってしまったお話】
俺は空を見上げていた。それはそれはたいそう暇だったもんで、空を見上げることくらいしかやることがなかった。
――あ、あの雲の形何かに似てるなあ……なんだろ。あ、この間母さんが焼いたパンだ。
そんなことを考えながら、また大あくびをかく。
教室がない日はいつもこうだった。アルミンのように読書が趣味というわけでもない俺は、かと言って玉けりをやる仲間もいない。とんでもなく退屈な毎日だった。
そういえばアルミンは今ごろ何をしているのだろうか……また家で読書かなあ。まったくあいつは、俺が誘わないと外にも出やしない。
そこまで考えて、あいつの家の玄関まで迎えに行く様子を思い浮かべた。……退屈ではあったものの、なんとなく、今日はまだそこまでの身軽さは持てなかった。
目の前の空を見上げる。そこには視界を阻む壁があって、その景色は毎日毎日変わることもなく果てしなく同じものだった。
「はあ……なんか、起きねえかなあ……」
ため息を零したとき、脇から「エレン、ここにいたんだ!」とはしゃぐアルミンの声が聞こえた。
どうしたんだ、とアルミンのほうへ目を向けると、その両手には分厚い本が握られていた。年季の入った本にも関わらず、アルミンは俺の隣に滑り込むように座り、待ちきれないように乱暴にその本を開いて見せた。
「エレン、これ見てよ!」
そう言って語り出したアルミンの声色は、聞いたこともないほど踊っていた。その瞳は、見たこともないくらいに輝いていた。こんなにきらきらときらめきを湛える瞳を見たのは初めてだった。生き生きとしているとき、人の瞳は本当に輝くのかと驚いた。
話の内容を聞いていると、知られれば憲兵に連行されてしまいかねない危険な内容だった。それを注意しても、アルミンはそれに屈することなく、瞳を輝かせ続けた。……まるで、その夢を阻むものは存在していないかのように。
とくとく、と心臓の鼓動が自分の中で少しずつ強くなっていくのを感じる。
アルミンが嬉々として語っている本の内容に相槌を打ちながら、俺はその本ではなく、アルミンの瞳に釘づけになっていた。
その瞳を見て、アルミンは夢を見ているのだと知って、そして、何者にも邪魔をさせずに夢を見ているこれが〝自由〟なのかと納得した。こんなに綺麗なものは見たことがなかった。羨ましかった、純粋に。俺も、こんな風に希望を持って世界を見てみたいと思った。
「じゃあ、おじいちゃんが家に帰る前に、これ戻さないといけないから、ぼくもう帰るね! また明日!」
一通り話したいことを話したらしいアルミンが、急くような手つきでその本を持ち上げた。ここに来たときのままの瞳をしていて、それはもうずっと楽しそうだった。俺はそれに圧倒されていた。
「あ、おう。また……明日」
「うん、じゃあね!」
アルミンが去ったあとも、俺はアルミンが言っていたことを反芻した。
――『巨大な塩の湖』、『砂の雪原』……それから『氷の大地』に『炎の水』。
アルミンがあんな顔をできるなんて知らなかった。それほどまでに、アルミンの瞳はきらきらと輝いていて、それは俺にとって価値観を揺さぶられるほどの衝撃となっていた。未だにどくどくと脈を打つ心臓の音が、俺の中で響いている。
……もう空は見上げなかった。
すごくきれいな瞳だった。その瞳に映るから、きっと外の世界も特別に美しく見えるのだろう。――俺も見たい。そんな景色を、俺も、見てみたい。
俺は目前の川の流れを眺めながら、想像力を働かせてみた。アルミンみたいに、胸を躍らせてみたかった。
広大な大地、見渡す限りの大自然……俺たち以外に人間はいなくて。俺たちの行く手を阻むものは、何一つ存在しない。自分の大人の姿を想像できないから、俺は子どもの俺とアルミンがその壮大な景色の中で翼を広げるように、手を広げる様子を思い浮かべた。目が合って、ぼくたち自由だねって、アルミンが笑う。そんな……外の世界。……そうか、これが〝自由〟か。
俺は初めて見たその瞬間から、あの夢を語る瞳に心を奪われていた。
【対等になれなかったお話】
――どうしよう。
僕は壁の隅に身体を縮こまらせて、目の前の乱闘を怯えながら見ていた。
そもそもエレンと待ち合わせした場所に向かう途中で、僕が街のガキ大将に捕まったのが始まりだった。なんだかよくわからないことにケチをつけられ、気づいたら殴られていた。理由は何でもよかったのだろう。……けれど、それを見つけたエレンが、いつものように僕のためにそのガキ大将たちの中に飛び込んで行ってしまった。
三人の身体の大きな子どもたちに、今はエレンが一人で立ち向かっている。僕はというと、一人で壁の隅に身体を縮こまらせて、ただただその様子を怯えながら見ていたのだ。
「うああアっ!」
「はは、もう一発食らえ!」
どごっとまた鈍い音を上げて、エレンの頬に拳が入った。一時体勢を崩したエレンは、それでも鬼のような形相は変わらず、果敢に飛びかかっていく。それをへらへらと面白がって、子どもたちはまた迎え撃つ。
このままじゃエレンがまたいっぱい怪我をしてしまう。……僕も戦わなくちゃ。――でも、どうやって?
僕は目の前で繰り広げられる暴力的な光景に、恐ろしくて、でもそんな風に怯えることしかできない自分が悔しくて、涙を浮かべている始末だった。
だって、僕が向かっていったところで敵いっこないのに。どうしよう僕……怖い……でもエレンは、そんなこと思ってもいないように、僕のために果敢に挑んでいく……。
ぼ、僕だって、エレンを守りたい。見ているだけじゃなくて……僕だって、エレンを守りたい。
ぎゅっと拳を握りしめて、僕はぐっと前を睨んだ。僕だってやってやる。エレンを守るんだ。
「や、やめろおお!」
怖さをかき消すようにわざと大声で叫んだら、僕に背を向けていたガキ大将の一人がくるりと身体を反転させてきた。
「お前はすっこんでろ! 弱虫!」
ぶんっ、と目の前で大きくその腕が振り抜かれる。
――あ、殴られる。
「アルミンッ!?」
エレンの愕然とした声が聞こえて、頬に強烈な痛みが走った。けれどそれに痛いと声を上げる前に僕はもう、視界が暗転していた。
ズキ、と後頭部に鋭い痛みが走る。それに気づいて瞼を開くと、僕は見慣れない天井を眺めて横になっていた。差し込んだ光のせいか、またズキ、と痛みが走る。
清潔感のある白いカーテンが視界に入り、隣から動作の気配がしてゆっくりと顔をそちらに向けた。
そこにいたのは、エレンのお父さんだった。カリカリと机に向かって何かを書いていて、僕に気づいていないように見えた。
「……イェーガー……先生……?」
夢かうつつかまだよくわかっていなかった僕は、静かに声を出してみた。
すると座っていた先生はちらりと僕を見て、目が合ったところでペンを置いた。
「おお、アルミン。起きたかい。よかった。頭を打ったらしくてね、でも問題はなさそうだから、もう大丈夫だよ」
殴られたとき、反動で飛ばされて頭をどこかにぶつけたのかもしれない。殴られたのは顔面で、確かにそこも痛むけど、後頭部のほうが痛かったので、そう思った。
軟弱なことに僕は、一撃殴られただけで気を失ってしまい……そしてきっとエレンが、イェーガー先生を呼んでくれたのだ。……喧嘩の足を引っ張ってしまったのか、僕は……。
ズキ、とまた悲しみに追い討ちをかけるように痛みが走った。
無意識に探している影があって、辺りを見回してみる。けれど目当ての影は見つけられず、
「……エレンは?」
すぐに諦めて先生に尋ねた。
先生の持つ特別に優しい声色で、
「カルラ――エレンの母親と一緒に買い物に行ってるよ」
柔らかく教えてくれた。
「君が寝てるのに騒がしくするから、私が行ってきなさいって促したんだ。もうじき帰ってくる」
「……そう……ですか……」
エレンがいないと知って、どうしてか拍子抜けしたように力が抜けた。だらんと横たえられたままに天井を見上げる。
エレンを助けるつもりが、足を引っ張ってしまった。……やっぱり僕は弱くて、役立たずで……足手まといなんだ。
悔しくて、うっ、と視界が歪む。
「エレンが帰るまで待つかい?」
先生の穏やかな声が尋ねて、今はエレンの顔を見たくないなと思ったけど、でもやっぱり会いたいなと気持ちが迫り上げた。
「……はい……」
声が少し揺れてしまった。天井を必死に睨んでいたのだって、涙が流れないようにするためだった。
僕はこんな自分自身をどうやって受け入れたらいいのかわからなかった。悔しくて悔しくて仕方がない。どうしてこんなに弱いのだろう。もっと、エレンに見合うような、強くて、勇敢な男になりたいと思うのに……現実は追いついてこない。
「……アルミン」
イェーガー先生に呼ばれて、僕は反射的に「はい?」と答えていた。そちらを向くと、先生は目を細めるようにして僕を見ていて、
「あの子と友達になってくれて、ありがとう」
……僕のことなんて何も知らないのに、そんなことを言う。その優しい眼差しが僕を追いつめているようだった。僕はエレンに見合うくらい強くもないのに、友達になってくれてありがとうなんて……それは、重荷とも取れる言葉で、不意に目を逸らしてしまっていた。
なんて応えたらいいのだろう。エレンが一緒にいてくれて助られているのは僕だけで……そんなの、友達と呼べるのだろうか。
またじわ、と目頭が熱くなった。ズキ、と痛みも走った。それを隠すように手で顔を覆って、なんとか頑張って思っていることを言葉に変えていく。
「……え、いえ……僕……弱いし……友達甲斐なくて……」
もっともっと、エレンに、お前みたいな友達がいてよかったって、思ってもらえるような……そんな友達でいたいのに。現実の僕はすぐいじめられて、弱虫で、力もなくて、いいことなんて一つもなかった。
「……君の中では友達は喧嘩に強くないといけないのかい?」
イェーガー先生の口からころりと転がり出してきた言葉に虚をつかれた。意識がそちらに向いて、おまけに涙が止まる。手を少しずらして覗き見ると、先生は至って真面目な顔をして僕を見ていた。
「だって、いつも、ぼくのせいでエレンが喧嘩に巻き込まれて……僕、エレンに怪我をさせてしまってばかりで……」
「はは、まあ、少なくともエレン自身は気にしていないだろうねえ」
思い切って言った懺悔だったのに、先生は思いのほか軽く笑い飛ばすだけだった。
その軽さに少し僕の中でも気持ちが軽くなって、「……そうかな?」と、同じようにころりと言葉が転がり出ていた。
先生はさらに目元を柔らかく緩めてから、机を向いていた身体を僕のほうへ傾けた。
「そうとも。エレンは君と遊んだ日は、いつも嬉しそうに君の話をしているよ。だから私も、君という友達がいてくれて、感謝しているんだ」
そこまで言うと、今度はふと何かを思い出したように言葉を止めた。明らかに表情から明るさが消えてしまって、僕はその様子が気になってじっと見つめていた。
先生の視線が少しだけ落ちる。
「……エレンはその……これからもきっと大変な道のりを歩んでいく」
そしてまた、その視線は僕の元へ戻ってきた。
「そんなときに君というかけがえのない友人がいてくれると、あの子も心強いだろう」
先ほどまでの柔らかさや明るさは戻らないまま、真剣さだけがそこに残っていた。そこにただならぬ感情の移入を感じて、僕は言われたことを嚙みしめた。
「大変な……道のり……」
この先何が待っているかなんて見当もつかないけれど……そんなときに、エレンと一緒にいられたら。
「――エレンだけじゃないさ。君も、人生何があるかわからない。これから、きっと数多の困難が待ち受けている。そんなときに、君たちが支え合ってくれれば、私も安心だ」
イェーガー先生はそこまで言うと、また真剣な眼差しのまま机のほうへ身体を戻した。ペンを握って、いそいそと何かを書き留め始める。……まるで何か後ろめたいことでもありそうなその顔つきに、僕はどう反応していいかわからず、小さな声で「……はい……」と応えて終わった。
……この先に待ち受けている困難。それがどんなものであったとしても、今の僕のままでは、エレンを守っていくことは難しいだろうとまた気持ちが沈んだ。……この先も僕はエレンに守られてばかりで、何もできない弱虫のままだ。そんなの嫌だと思っても、あのガキ大将たちを前にすると足が竦んで、声も震えてしまうのだ。どうすれば、エレンみたいに強くなれるのだろう。
「――ただいまあ」
元気のいい声が響き、家の中がぱあっと明るくなったのを肌で感じた。
「おや、エレンが帰ってきたみたいだね」
イェーガー先生の声も少し弾んでいて、
「お! アルミン起きたか!」
どたどたと駆け寄ってくる足音とともに、エレンが視界に飛び込んできた。
「あ、うん」
エレンは頬にガーゼを当てられていて、おでこには絆創膏がくっついていた。それを視認するなり、どきっと心臓が強張って、
「エレン……その怪我……! ご、ごめんね」
また腹の底から悔しさが押し上げてきた。
……エレンがこんなに怪我をしているのは、そもそも僕があいつらに絡まれたせいだ。僕が一人で追い返せるくらい強かったらこんなことにはなっていなかった。……僕はいつまで、エレンに怪我をさせ続けるのだろう。そんなの、嫌だ。
僕は罪悪感でいっぱいだったというのに、イェーガー先生の言う通り、どうやらエレンはそんなことまったく気にしていなかったようで、
「はあ!? あいつらが悪いんだろ!」
怒りをぶつけるように声を張り上げた。
「くそお、あいつらあ……! 三人だからっていい気になりやがって……! 今に見てろよ!」
「エレン、喧嘩はよしなさい」
「あいつら次第だろ!? あいつらがまたアルミンに手を出すってんなら! 俺は何回でもやり返す!」
怒気を帯びたエレンの声と、穏やかに落ち着かせようと試みる先生の声が交互に飛び交い、僕はそれをただ静かに見ていた。
「……どうして、お前はそう……はあ、」
最終的にイェーガー先生は頭を抱えて深く嘆息を零した。それからちらりと僕のほうを見て、
「アルミン、よろしく頼むよ」
どういうわけか僕に切実そうに言った。
そもそも僕がエレンが喧嘩をする原因を作っているというのに、何をどう頼まれたらいいというのだろう。また責められているような居心地の悪さを感じて、僕は慌てて「え、あ、はい」と曖昧な返事をしていた。
「ほらアルミン行こうぜ!」
先生の反応を窺うほどの時間もなく、エレンが思い切り僕の腕を掴んだ。起き上がるように促しながら、「日が暮れちまう!」と声を上げて、その腕を引っ張られた。またズキ、と痛みを思い出す。
けれど、エレンに引かれるがままにベッドに起き上がった僕は、思っていたより身軽にそれができたことに驚いた。僕が起き上がったのを見て満足したのか、エレンは忙しなく走り出していく。
「あ、エレン、待って!」
そんなエレンを追いかけようとしたところで一度足を止め、
「い、イェーガー先生、ありがとうございました!」
僕は振り返って先生にお辞儀をした。
「はい、気をつけてね」
先生もいつもの穏やかさでそう返して、僕たちを見送る。
――せめて、先生が言うように、これから来る困難を一緒に乗り越えていけるように……僕は強くなっていけたらいいなと、エレンの背中を追いかけながら願っていた。
【俺だけが残っていたお話】
その日、待ち合わせの場所にアルミンはやって来なかった。
昨日『また明日な』と分かれて、別にそれ以降特に何もなかったのだけど、アルミンが遊びの約束をすっぽかすことはこれまでになかったので、俺は少し気になってアルミンの家に行ってみることにした。
もう歩き慣れた道を進んで行き、そうしてアルミンの家に近づいていくと、俺は自分の胸のざわつきを自覚した。アルミンの家の前の通りに野次馬が何人もいて、明らかに何か様子がおかしいことが見て取れたからだ。
俺はそのざわつきに従うように走り出した。いったいアルミンの家で何が起こっているのか、嫌な胸騒ぎでいっぱいだった。
ザ、と音を立ててアルミンの家の前で足を止める。するとアルミンの家の玄関は大っぴらに開かれていて、庭には家の中にあるはずのものがあちこちに散乱していた。チェストや本棚、テーブルや椅子まで……。家の中からはガタン、と何かを投げ飛ばすような音が聞こえている。これはいったい何事だと慌てて周囲を見回した。
すると庭に乱暴に置かれたであろう本棚の陰に、隠れるようにして立っているアルミンを見つけた。自分の家を見つめて、呆然と立ち尽くしているアルミンだ。
「――あ、アルミン!」
俺は考えてもわからない状況の中で、何をするよりも先にアルミンに駆け寄った。
「……エレン」
「ど、どうしたんだ、これ」
アルミンの瞳からはいつもの輝きが消え去っていて、ほの暗い影が落ちていた。その目と視線が合わさったら、ざわ、と背筋に悪寒のようなものが走った。
「……お、お父さんと……お母さんが……憲兵に……」
アルミンの声は震えていて、今にも消え入りそうだった。
「……え、憲兵って、なんだよ。何があったんだよ……!?」
消え入りそうなアルミンを繋ぎ留めたかったのかもしれない。要領を得ない言い方だったのもあり、俺は揺さぶるように肩を掴んで問い質した。
「か、壁を越えようとしたの、見つかって……それで、撃ち落とされた……って……」
俺はハッと吸い込んだ息をそのまま飲み込んでしまった。
そういえばアルミンは、両親が壁を越えて外の世界に行こうとしていると言っていた。それが憲兵団に見つかってしまったということらしい。しかしそれで……撃ち落されて……? つまりそれは、アルミンの両親は――、
ドクン、と今度は悪寒ではなく、心臓の鼓動が乱れた。
――壁を越えようとした人類の末路。その結末に、ほのかな怒りのような、絶望のような、何かが湧き上がってくる。
「……今は、憲兵が家を捜索してる……ほかに何か禁止されてるものが出てこないか……調べてる……。おじいちゃんは、話をするためにって連れて行かれた……」
それでアルミンはここに一人で立ち尽くしていたという話だった。
その心もとなく立ち尽くすアルミンを見て、俺はどうすればいいのかわからず不安に駆られた。
「……お前、大丈夫……なのか……?」
両親が撃ち落されたと聞かされて……じいちゃんは憲兵に連れて行かれて……どうしてまだここで、立っていられるのか。
一本の糸で繋がっていたようなアルミンのか細い緊張感を、俺はその一言で思いっきり絶ってしまったらしかった。見ていたアルミンの顔が大きく歪み、じゅ、と音を立てそうなほどの大粒の涙がその瞳に溢れた。
「……ぇエレン……っ」
アルミンはもう何も耐えられないように、その場で膝をついて泣き崩れた。
「あ、アルミンっ」
「わからないっぼくたちどうなっちゃうの? おじいちゃんとも、もうお別れなんだきっと! ぼくっ、これからどうしたらいいの……っ。だって、お父さんと……お母さんが……っもう、だめって、……本当なのか……っ」
俺もその場に膝をついていて、
「あ、アルミンっ! しっかりしろ!」
必死にアルミンの肩を握りしめた。どうやって支えてやればいいかわからなくて、ただ力任せに揺さぶっていた。
「……っ、ぐっ、」
涙をかみ殺すアルミンの瞳を見ると、先ほどよりもそのほの暗さが増していて、俺はまたぞっと背筋を凍らせた。このままだとアルミンが死んでしまいそうな気がして、手の届かないところに飛んでいってしまいそうで……でもそんなの絶対嫌だと、また怒りのような衝動が湧き上がった。そんなの絶対嫌だ、絶対嫌だ、絶対アルミンは手放さない。絶対嫌だ。
「……っ!」
気づけば俺はできる限りの力で持って、アルミンを抱き込んでいた。絶対どこにも行かせたくないという気持ちが高じて、自分でもわけがわからないまま、絶対に逃がさないように力を込めていた。
「え、エレ……ン……?」
「お前、終わりじゃないっ! まだ俺がいるだろ!? 俺はお前が大事だから……だから、終わりじゃない……! ……アルミン……っ!」
おそらくこれが、〝祈り〟という気持ちなのだろう。俺は祈るという言葉だけは知っていて、けれど実際にそうしたことがなく、このとき初めて、何かに向けて祈っていた。どうか俺の前からアルミンが消えないように。ずっとその瞳の輝きが、失われないように。
「え、エレン……離してくれよ……」
は、と我に戻り、急いで手を放すと、アルミンは気が緩んだような、少し不可解な表情をしていた。
「び、びっくりした……涙、止まっちゃった……」
何が起こったのか理解できていなかったのか、そんな気の抜けた言葉つきに、俺も全身に込められていた力が抜けた。アルミンの瞳にあったほの暗さは消えているように見えて、それだけで俺がどれほど安心したか……きっと自分でさえ計り知れない。
俺はアルミンとの距離を取り直して、
「……そ、それならよかった。お前のじいちゃんが戻るまで、俺がいてやるから。安心しろ」
アルミンの手をぎゅっと握りしめて、またその足で立ち上がるように促してやった。
二人で本棚の陰に並び、けれど握った手はそのまま離さずにいた。
「……ん……あり、がと……っエレン……」
アルミンは消え入りそうな、そして揺れている不安定な声で、俺に告げた。握っていた手が握り返されて、俺はさらにそれを握り返してやった。
不安だろう、怖いだろう。俺には到底理解のできない感情に飲まれているであろうアルミンに、それでも俺がしてやれることはこれくらいだった。でも、これくらいしかなくても、アルミンを繋ぎとめておけるなら、俺は何だってやろうと思った。
アルミンを手放したくない。この先何があろうとも。絶対にだ。
【自由を渇望するお話】
アルミンはしばらく、家から出られない日々が続いた。アルミンのじいちゃんは無事に憲兵から解放されて戻ってきたが、あいつの両親は報告のあった通り、帰らないままだった。……だからあいつがしばらく塞ぎがちだったのは仕方のないことなのだろう。会って笑っていても、ときどき思い出したように目元が歪むことも何度もあった。
だがそれもだんだん落ち着いてきて、比較的にアルミンも安定してきたころ。
俺がアルミンを連れ出して街で遊び回っていたときに、運悪く例のガキ大将たち三人に出くわしてしまった。そいつらはアルミンを見るなり品のない笑みを浮かべて、「家が憲兵に捜索されたんだって? やっぱお前ん家、頭おかしいんじゃねえか。なんでお前は連れて行かれてねえんだよ」とからかいの言葉をぶつけ始めた。俺の目の前で、だ。
ようやく落ち着いてきたアルミンにそんなことを言いやがったのが許せなくて、俺は真っ先にそいつに頭突きを繰り出していた。そうしてまた始まってしまったのだ、いつもの大乱闘が。相変わらず相手は三人で、無鉄砲に突っ込んでいく俺は一人で、それはもう右から左から引っ張りまわされて、殴られもした。
だが、それが商店街の真ん中だったこともあり、やつらがアルミンに手を出す前に、駐屯兵団のハンネスさんに止められた。ガキ大将たちは逃げていき、俺は殴られた拍子に鼻血が流れてきたので、ハンネスさんが手当てをするからついてこいと、駐屯兵のおじさんたちが門番として一日を過ごす屯所に連れて行かれた。もちろんアルミンも一緒に。
その狭い屯所でハンネスさんは半ば俺に呆れながら、医療箱を取り出して簡単に手当てをしてくれた。アルミンと二人で出された椅子に大人しく座っていたが、俺はそれでもあの三人にはらわたの煮える思いを抱いていた。殴られた頬の痛みなんて感じなかったほどに。
鼻血を止めるためにガーゼ布を押さえたまま、ちらりとアルミンを盗み見る。
……このアルミンの暗い顔を見ているとなおさらだ。アルミンの気持ちを一つも考えようともしないで、よくもあんなことを言ってくれたな。
「くそ……あいつら……好き放題言いやがって……」
痛みを嚙み殺すようにして呟くと、俺のこめかみの辺りに絆創膏を貼ったハンネスさんが、ふうと息を吐いた。
「あのなあ、エレン。正直に言うが、お前は強いわけでもないんだから、ちったあ喧嘩買うのやめたらどうだ? アルミンも心配してるぞ? なあ?」
わざとらしくアルミンに向けて問いを投げたが、俺はそんな誘導尋問じみた問いへの反応なんか待ちきれず、
「はあ!? あいつらが売ってくんのが悪いんだろ! あんなやつらにへこへこしてたまるか!」
カッと込み上げた怒りのままハンネスさんに怒鳴りつけていた。勢いで鼻を押さえていた布が放れてしまい、
「気持ちはわかるが、このままだとお前、どうするんだ。本当に度が過ぎちまって死んじまうかもしれねえぞ? 三人に一人じゃ分が悪い」
ハンネスさんは俺の手首を掴んで、改めて鼻を押さえ直させた。
ハンネスさんの説教には根拠があるのかもしれない、けれどどちらかというと大人の諦念なのだろうと思って、またいらついた。三人に一人じゃ分が悪いからなんだって言うのだ。
「そんなの関係ない。へこへこして自由を奪われるくらいなら、戦って死ぬ!」
俺もアルミンも街で遊んでいただけだ、理性の効かない動物のように絡んできたのはあちらのほうで、俺たちが折れてやる筋合いはない。敵わない〝かもしれない〟という理由で、屈してたまるか。
「勇ましいねえ……街はこんなに平和だってのに。はあ」
またわざとらしくため息を聞かせられた。俺の中にあったいらつきはさらに滾って、
「戦って勝てれば自由だ! そっちのほうがいいだろ!」
『そうだな』と言わせたくて、必死に訴えていた。
けれどハンネスさんは『そうだな』とは言わず、「お前は本当……」と呆れたように呟くだけだった。
なんでだ、なんで自分たちの自由を守るために戦いたいと思うことを、呆れられなければならないのか。俺は納得がいかなくて、今度は鼻を押さえていたガーゼ布も一緒に握り込んで拳を作った。
「巨人だってそうだ! なんでもそうだ! 何者かに屈して家畜みたいに生きるくらいなら、俺は戦ってでも自由を手に入れてやる!」
街のガキ大将だけでなく、アルミンの家に来た憲兵も、壁の外にうろついている巨人も、すべて、俺は何にも絶対に屈したくないと、身体の底から怒りを滾らせた。大人のハンネスさんから見れば、駄々をこねるような幼稚ともとれる意地だったかもしれない。それでも、俺は絶対にそう思ったことを後悔しないし、取り消しもしない。俺は、自分の手で自分の自由を手にしてやる。
「わかったわかった。お、もう鼻血止まったな。ほら、アルミンも。お前らとっとと帰れ」
俺を宥めるのが面倒になったのか、ハンネスさんは追い払うように俺たちの背中を押して促した。
ずっと隣にいたアルミンも椅子から飛び降りて、俺と一緒に屯所の扉から外へ出る。俺はとうとうハンネスさんに『戦うこと』を認めさせることができず、納得がいかないままだった。だから、ふんっと振り返って歩き出した。
「ありがとうハンネスさん」
律儀でお利口さんなアルミンが俺の代わりに礼を言うから、余計なことをとまた少し神経を逆撫でされた気分になった。
おまけに背中を向けていたハンネスさんから、「もう喧嘩すんじゃねえぞ」と釘を刺すように言われるものだから、それも苛立ちに加わり、思いっきり無視してやった。――喧嘩なんかしないさ、売ってくるやつがいなければ。俺は絶対、誰にも屈してなんかやらない。
「は、はーい」
それなのにまたアルミンが返事をしてしまって、なんでそんな分からず屋に構うんだよとアルミンを睨んでやろうと思った。……だが、ちらりと見たアルミンが思ったよりも普通の顔をしていて、それでいて慌てるように俺に駆け寄るものだから、なんだか俺は拍子抜けしてしまった。
……とりあえずアルミンは、今は元気そうだからよかった。最終的にそれだけが俺の中に残っていた。
「……エレン……君は本当にすごいね」
隣に並んだアルミンが俺の横顔を見ながら曇り一つなく言った。
「は? 何がだよ」
「僕はやっぱり、君みたいにはなれないよ……。あいつらを前にすると、足が竦んじゃうんだ。僕も戦って勝てるくらいに、強くなれたらいいのに」
足元に視線を落としたアルミンを見て、俺はそんなアルミンを難解に思った。……まさかアルミンは、街のガキ大将と喧嘩をして勝ちたいとでも思っているのか。確かに〝俺は〟自由を奪おうとするものと戦うとは言ったが、それはあくまで俺の話しだ。俺はこれしかできないから、自分の拳でなんとか戦うしかない。だが、別にそれをアルミンにも求めているわけではない。……それはなんというか、俺が知っているアルミンとかけ離れていた。そしてどうしてだろう、そんなアルミンは、別に見たくないなと過った。だってアルミンのいいところは、そんなものには代えられないから。
もうしばらく前になってはいたが、あのとき見せられた、この世で一番輝く宝石のような瞳を思い出して、俺は何やらむず痒くなって、目を逸らした。俺はあの日のまま、まだその瞳に魅了されたままだった。
「……何言ってんだアルミン」
「え?」
「お前は、今のままでいいんだよ」
「……え?」
俺はアルミンが逃げないことを知っている。夢を語っているときの瞳はきっと、誰も見たことがないくらいに輝いている。それらを俺は知っていて、そして、知っているのは俺の特権だった。そんなアルミンの隣にいるのも、俺の特権だ。アルミンが例え拳で戦えなくても、そんなものには代えられない強さを持っているのを知っている。アルミンに俺と同じように拳で戦ってほしいとは思わない。
「……言っただろ。お前は俺の特別だ。……俺がお前を守るから、お前はそこにいてくれたらいい」
アルミンが俺のそばにいて、その輝く瞳で夢を語ってくれていたら、俺はそれを見て戦える。そうだ、アルミンにはそういう戦い方のほうが向いている。
俺は一人で深く納得していたが、アルミンはまたその視線を足元に落として、きゅっと小さな拳を握った。
「……うん……ごめんね……っ」
何か自分を責めているのだろうか。……それとも、また両親のことを思い出してつらくなってしまったのだろうか。
俺は深く聞くことは避けて、その小さく握られた拳を拾って繋いだ。それからわざとアルミンではなく前を向いて歩いた。
「……今日は、じいちゃんはちゃんと家にいるのか?」
「うん……っ」
「俺の家に泊まりに来てもいいんだぞ」
「うん、大丈夫……ありがとう、エレン」
ぐ、ぐ、と喉を詰まらせながら言うアルミンは、また込み上げるものに襲われているらしかった。まじまじと見てやるのも嫌だろうからと、俺は何も聞かないふりで歩く。今日はいつもの場所で分かれるのではなく、しっかり家まで送り届けてやろうと、黙ったままその手を引いて歩いた。
【君が怯えていたときのお話】
日々の変化というものは唐突に訪れるらしいと、僕はもう知っていた。このときは二度目だったから。
僕はその日、エレンが家に泊まりに来る約束をしていたので、家でその本人がやってくるのを待っていた。泊まるための道具を持ってくるので、遊びに行くにしても一度ここに荷物を置いていかないといけないので、これが一番効率的だった。
お母さんとお父さんがいなくなってから、おじいちゃんはよくエレンを家に泊めることを許してくれた。だから今日も、いつもと変わらず温かな日を期待してエレンを待っていた。
しかし今日は約束の時間を過ぎてもエレンはなかなか現れなくて、けれど迎えに行ってすれ違うのも嫌だったので、もう少し待ってみようとそわそわした。
そんなときだ。
――トントン、と玄関の扉がノックされる音が聞こえた。
僕はすぐさま『エレンだ!』と椅子から飛び上がって、そのままの勢いで玄関に飛びついた。勢いよく扉を開けると、そこにいたのは確かにエレンだった。
「……――エレン?」
けれどそこに立っていたエレンは、どこか僕の知っているエレンとは違って見えて、僕は何故か身体を強張らせていた。
……エレンの顔つきが、恐怖そのもののような色をしていたのだ。
エレンはとたとたと小さな足音を立てながら僕の家に入ってきて、
「今日お前んちに泊まるって約束、だめになっちまった。ごめん」
ひどく落ち込んだような沈んだ声色で言った。
「ど、どうかしたの?」
何かただならぬことがその身に起こったのだとすぐにわかって、僕はその顔を覗き込んだ。奥が見えないような、真っ黒な目つきにまた怯んでしまう。
「うちに……ミカサってやつが来て、一緒に暮らすことになった」
どうやらエレンの身に起こった事柄は、この『ミカサ』という人物に関わっているらしい。僕はさらに自分の中の解像度を上げるために、「ミカサ? って人?」と問いを重ねる。
エレンはどんよりと暗闇を湛えた眼差しのまま僕を捉えて、
「同い年の女。そいつをおいて俺だけ泊まりにとか行けねえから」
隠し事一つせず応えてくれた。
「……そう、なんだ……」
「おう。悪いな」
エレンの視線が下方へ下る。それから少しの間口を閉ざしていた。
僕はエレンが隠し事をしていないことに確信はあったものの、その身に起こったことすべてを話してくれたわけではないことにも気づいていた。
そもそも、『ミカサをおいて一人で泊まりに行くとかできない』と言っているのに、その肝心の『ミカサ』が今ここで見当たらない。
「じゃあそのミカサは、今はどこにいるの?」
疑問が言葉になってエレンに向かう。
エレンは消沈した様子を未だ引きずるように、ぼそりと声を落とした。
「家で寝てる」
「寝てるの? 具合でも悪いの?」
「なんか、仕方ないって。つらいことがあったから、起き上がるの大変なんだって。親父が言ってた」
――つらいこと。
僕は自分の両親が帰らなかった日以降、しばらく身体が重くて起き上がれなかった。その日々のことが思い出されて、とくん、と心臓の辺りが少し脈を乱した。……あのつらさなら、僕もわかる。あれほどのつらさを、そのミカサは……?
「……つらいこと」
「……おう」
しかし僕の目の前にいるエレンも、明らかに先日までのエレンと違った。まるで追い詰められたような、真っ暗な眼差しがそこにはあって、それはつまり……ミカサが経験したことを、エレンも……?
これは尋ねていいのか少し迷った。けれど、エレンのことはなんでも知りたかった僕は、ついに押さえられずに顔をまた覗き込んでいた。
「……エレン、君にも、つらいことが、あったの……?」
僕がそれを尋ねた途端、ぐわっ、とエレンの顔つきが一気に怒気に飲まれた。
「……ねえよ!! つらいことなんかなんもねえよ!!」
「えっ、エレン?」
鬼のような形相で足を踏み込んで、僕の肩を掴んで叫んだ。僕はびっくりして肩が跳ねて、それでもエレンはその形相のまま僕に言葉をぶつけ続けた。
「別にっ、俺は正しいことをしただけだ!! 怖くもなかったし、後悔もしてない!!」
「エレン、ちょっと、落ち着いてよ、何があったの?」
声が裏返りながら半ば絶叫したエレンは、明らかに意地を張っているのだとわかった。……何か、つらいことがあったのだ。僕が知らないところで、エレンにも。肩を大きく震わせるエレンを見て、僕は自分でも知らない変な胸のざわつきを覚えていた。ざわざわと不快にかき乱して、僕の中を上ってくる。
「……っ」
エレンの喉が鳴った。
「……エレン?」
「……がっ、害虫をっ、駆除した!」
「……害虫?」
「みっ、ミカサの親殺して!! ミカサのことを連れていこうとした最悪な害虫だ!! この手で!! 切り刻んでやった!! いい気味だった!!」
そうやって訴えるのに、その目には涙がいっぱい溜まっていて、はらはらと零れ落ちていた。
エレンが言っていることは詳しくはわからなかったけど、とりあえずエレンは、その『ミカサ』のために自らその選択をしたようだった。
「…………え、エレン……」
何かを底もなく恨むような、そんなひどい目つきをしている。いや、怯えているのか……そうか、これは、何かひどく傷ついたような顔つきなのかとひらめきを得ていた。
そうだ、エレンはそのときのことを思い出しただけで、涙が堪えきれなくなってしまうのだ。それだけ、エレンの中でそれは大きな爪痕になっている。……僕のために身体の大きなガキ大将たちの中に飛び込んでいく果敢なエレンが、ここまで怯え切ってしまうなんて、それはとても恐ろしいことだったのだろう。
「……うん、わかった。わかったよ、エレン」
僕はひどく震えるエレンの肩に腕を回して、いつかエレンが僕にやってくれたように身体を抱き寄せた。強く、力いっぱいに抱きしめて、もう大丈夫だよ、と声もなく語りかけた。初めて見たこんな姿に、説明のつかない、けれど確かな高揚感を抱いていた。
エレンはそうした僕に対して何の反応も見せず、僕は放れてその顔を確認してようやく、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたのだとわかった。その驚きようは少し面白くてかわいかった。
「……へへ、お返し。エレンが、早く元気になりますように」
そう言って僕は、エレンの頬を伝う涙を拭ってやった。髪の毛にも触れて、優しく頭を撫でてやった。傷ついたその心が、少しでも安らぎますようにと願いを込めた。
「……アル……ミン……っ」
僕のときとは違ってエレンの涙は止まらず、反対に増幅してしまったようだった。必死にその目元を自分の腕で拭う姿を、僕は背中を摩ってやりながら、静かに受け入れるように見ていた。この胸に確かにある、優しさを分けてあげたいという渇望を抱いて。
――後にも先にも、僕たちが秘密の抱擁をしたのは、あのときと今回の二回だけだった。
【決意を持ったときのお話】
あ、と俺は零すように呟いていた。
母さんの買い物にミカサと付き添っていたときに、店の並びの先にいるアルミンの後ろ姿を見つけたからだった。
「母さん、アルミンだ!」
母さんの袖の裾を引っ張って注目を促してやると、母さんも「あら本当ね」とそちらを見やった。
ずっとミカサが家にこもっていたからそばにいてやっていた俺は、アルミンと外で会うのは久々だった。けれどここはもう外で、おまけにミカサも一緒だ。これはいい機会だと深く考えずにミカサの手を掴み、
「ちょっとアルミンと遊んでくる! お前も来いよミカサ!」
「わっ」
何の承諾も得ないで走り出していた。……ミカサとアルミンは今日が初対面だった。
「え、ちょっと!? 今から!?」
母さんの確認する声が飛んできたが、別に遊ぶことは問題と思っていなかったらしく、
「もうっ、夕暮れまでには戻るのよ!」
すぐさま言葉を変えて言いつけた。
俺は足取りと同じく軽やかに「はあい!」と応えて、そのままアルミンがいるほうへミカサと走っていく。
「アルミーン!」
少し離れたところから大きな声で呼んでみたら、じいちゃんと手を繋いでいたアルミンはゆっくり振り返った。
「エレン? ……と、」
おそらく俺の後ろに連れているミカサに注目していたアルミンに向けて、
「よお、アルミン」
準備していた挨拶を先にくれてやった。
対面に到着した俺だったが、アルミンは珍しいものでも見ているように、興味津々な眼差しでミカサを見ていた。
「……エレン、その子が、ミカサ?」
俺は走ったことにより荒くなった息を整えながら、
「ああ、そうだ。ミカサ、こいつが話してたアルミン」
軽くミカサが入り込む場所を譲るように身体を避けてやった。
アルミンはそれを見て嬉しそうに笑い、さっと右手を差し出して握手を求めた。
「あはは、よろしくね、ミカサ」
「……うん、よろしく……」
ミカサもそれに応じて、まだまだ小声ではあったけども、しっかりと二人は挨拶を交わしていた。……なんだろう、俺の中には何かわくわくとした弾むような気持ちが溢れていた。そばにいてやりたい友達と、そばにいてほしい友達が対面したのだ。これからのことに希望を抱いて、胸が躍っている。
俺はその高揚を押さえないまま、
「よし! じゃあさ、ちょっと今から遊びに行かねえ!?」
アルミンの手も引っ張って思い切りよく誘ってやった。
母ちゃんと同じように「え!? 今から!?」と驚きに声を上げたアルミンだったが、やはりすぐにその言葉の対象を変えて、
「おじいちゃん、行ってもいい?」
ずっとそばで見守っていたじいちゃんを見上げて尋ねていた。
アルミンのじいちゃんも優しく微笑みながらアルミンの頭を撫でて、
「ああ、でも暗くならん内に帰るんだぞ」
「うん。行ってきまあす!」
俺たちを穏やかに見送った。
俺はミカサとアルミンの両方の手を引っ張りながら歩き始めた。
母さんもアルミンのじいちゃんも、『暗くなるまでに帰るように』と言っていたが、『暗くなるまで』ならまだ時間はかなりある。となれば、行き先はもう一つに決まっていた。
「エレン、どこにいくの?」
「へへ、あそこだあそこ」
ウォール・マリアの内門をくぐった先にある小さな丘だ。内門周辺の街が見渡せる視界の開けた丘で、俺はそこからの景色が好きだった。その開けた視界には人はほとんど映り込まず、まるで俺とアルミンだけの世界に来たような気分になれた。……そして今日はそこに、ミカサが初めて加わるのだ。
「あそこ……? あの木のところ?」
「そう! ミカサにあの景色を見せてやる!」
待ちきれずに走り出したくて仕方がなかった心に従って、俺は二人の手を放して、そのまま忙しなく走り出した。
「あ、ちょっとエレン!」
不意をついてしまったのかアルミンが引き留めるように声を上げていたけども、俺はほらほら、置いていくぞ、と弾んだ心で二人が続く気配を探る。
「……ミカサ、走れる?」
「うん、平気」
「じゃあ、行こう」
交わされる二人の会話になぜか頬が緩むのが止まらなくて、俺は先陣を切るように走った。
俺が全力で走るとアルミンは途中で疲れてしまうのでいつもは気を使っていたが、今日は一人で突っ走っても、アルミンにはミカサがいて、ミカサにもアルミンがいる。安堵にも似た解放感を味わった俺は、疲れるほどに力いっぱいに走った。
ときどきは振り返りながら二人の位置を確認して、距離が遠ければ少しは待った。
そうしながら、俺たちはいつも遊んでいる開けた丘に出る。もうすぐアルミンが言っていた『あの木』に手が届く。俺はもうすっかり切れている息遣いも心地よく感じながら、一生懸命に走った。あの木を目指して。
そして、ぺたりとこの特別な木に触れる。樹皮の感触は少し湿っていて冷ややかで、火照った身体には気持ちがよかった。
振り返ってアルミンとミカサのことを確認すると、
「エレン……!」
「エレーン!」
まだ丘の中腹辺りを走っている二人が俺を呼ぶ。
思った通りミカサはアルミンを待ってやっていて、アルミンはミカサに道案内をして、二人はもうすっかり〝友達〟のように見えた。
アルミンは弾けるように笑っていて、ミカサもいつもの固い表情が少し柔らかい気がする。その光景は俺の目に焼きついて、そうしたらそれはじんわりと胸の深いところに溶け込んでいく。息が上がっているからでは説明がつかない胸の高鳴りに、俺は何か重大な情動を感じていた。
一生懸命に、でも楽しそうに俺を追いかけてきてくれる二人。
どうしてだろう、俺はその光景を見て、〝俺が守らなきゃ〟と思った。アルミンの笑顔もミカサの安らぎも、この先、俺が守っていく。必ず、俺が守っていきたい。この先何があっても、俺がこの手で。
【初めての君に出会ったお話】
――人類最悪の日を迎えた。
僕は今日起こったことを、戦々恐々とした周りの空気から肌で感じ取っていた。僕自身の震えは止まっていたが、そこかしこの空気にはまだ震えるように恐怖が充満していた。
僕たちが住んでいた街、シガンシナ区が巨人に占領され、果てはウォール・マリアの内門まで破壊されたのだと聞かされた。もう故郷には戻れない……けれど、僕はかろうじてじいちゃんと二人での避難が叶って、不幸中の幸いというやつを経験していた。
僕らを乗せた船がトロスト区に到着して、避難民はみんな一列になって食糧庫のほうへ歩かされた。雨風を凌げる場所に文句は言えず、使われていない倉庫に順番に押し込められていく。
その倉庫の入り口で、その日夜を越すための寝袋が手渡され、僕たちは何とか場所を確保してその寝袋をともに並べた。とても眠る気分にはなれなくて、三人で肩を並べてその寝袋の上に座り込んだ。
ここへ身体を落ち着けるまでの間、エレンはずっとその瞳を燃やし続けていた……涙と一緒に。まるで止めどない憎しみが生まれ続けているように、ぼろぼろぼろぼろと、涙を流し続けた。
……黙り込んでしまったエレンの代わりにミカサが教えてくれたのは、エレンは自らのお母さんの最後の瞬間を見届けることになったということだった。僕はそれを聞いて、エレンの燃え盛るような憎しみの理由がようやくわかった。
ただひたすらにその憎しみの炎を燃やしているエレンは、これまで見たこともないほどの邪悪さをその眼差しに持っていた。昔ハンネスさんに『喧嘩をやめろ』と言われたときに、『自由を奪われるくらいなら戦う』と啖呵を切っていたエレンだが、今のエレンの瞳に映る憎悪はとてもではないがその比ではなかった。……正直少し、恐ろしさすら覚えていた。あるいは本当にエレンは、巨人に立ち向かって死んでいたかもしれない。――ゾッとした。
寝袋の上で座り込んでいた僕は、膝を抱えて顔を埋めた。
……思い出していたのだ、僕のお母さんとお父さんがいなくなった日のことを。とうに過去のことになっていたはずなのに、未だに胸がざわついて、とても苦しかった。……そして、それをエレンも今経験しているだろうと思うと、その苦悶に胸が押し潰されそうになった。
くっ、くっ、とエレンはずっと嗚咽を噛み殺しながら泣いている。その姿のエレンを見て、僕はひどく心もとなさを抱いた。本当は、今すぐにでも抱きしめてあげたかった。……あのときみたいに。
けれど今はここにミカサもいて、だから僕はそれをしなかった。……本当は少し、エレンと二人で話がしたかった。二人だけだったら、もっとエレンに言ってやったり、してやれることがあったかもしれない。今のエレンの憎悪も、もっとよく理解してやれたかもしれない。
ちらりとミカサを盗み見る。……ミカサもそこにただ静かに座っているだけで、言葉でエレンを慰める様子はなかった。……それもそうか、ミカサも〝その光景〟を見たのだから、そんな余裕はなかったのかもしれない。
枯れることを知らずに涙を零し続けるエレン。僕はエレンが僕にしてくれたように『僕がここにいるよ』と伝える代わりに、その手をぎゅっと握りしめた。
【そばにいてくれたときのお話】
「……っ」
僕はこの日、開拓地の共同の宿泊小屋で熱にうなされていた。
昨日の夜から調子が悪かったことに薄々勘づいていたものの、今朝になってようやく、僕は自分が身動きも取れないほどに体調を崩していることを自覚した。周りの大人からも熱があるから今日は休んでいなさいと言われて、僕はみんなが一生懸命土地の開拓をしている間、一人で小屋で寝袋にうずくまっていた。
僕だけの寝袋では寒さがしのげないだろうということで、エレンとミカサの寝袋も重ねてもらって、まるで越冬のために肥えたミノムシのようだと自分で思った。
寝返りを打つだけで頭ががんがんと痛む。少し息苦しさもあって、ときどき咳が出た。それ以外の症状と言えばもっぱら身体がだるいというものだけだが、起き上がることもままならなかった僕のために、エレンとミカサはお昼ご飯のときも様子を見に来てくれた。
……けれど、こんな広い小屋で一人うずくまっていると、段々と寂寥感が蝕んできて、ひどく心細くさせた。
息はやっぱり苦しかった。僕はこのまま一人で死んじゃうのかなと思ったくらいだ。それほどに身体がだるく、今の状態は苦痛だった。
そうして……それもいいな、と頭を過った。瞼の裏に映っていたのはお母さん、お父さん…………そして、おじいちゃん……。家族が待ってくれていると思えば、死ぬこともそう怖くはなかった。――でも、エレンはミカサだけで大丈夫だろうか。ふと頭の中が明瞭になる感覚を得る。僕が思い浮かべていたのは、エレンのことだった。……ミカサは強いし賢いから、僕がいなくてもきっと大丈夫だ。……だけど、エレンは、どうだろう。ぼくがそばにいてあげなくて……大丈夫だろうか。
うっすらと瞼を上げると、人の気配がしていたことに気づいた。ドッ、と心臓に強い衝撃が走る。僕の真上にいて、僕の顔を見知らぬおじさんが眺めていたのだ。驚きの余韻でばくばくと鼓動が大暴れしていて、それに合わせて頭痛もひと際強くなった。
――いや、誰だ? 知らないおじさん? 何をしようとして……? 怖い、なに、悪い夢……? 怖い、怖い、怖い。なに、怖くて、身体が動かない……!?
じわじわと感覚が麻痺していくような、声すら上げられない恐怖の渦中に落とされた。しかもその見知らぬ人物は、僕の身体に触れようと手を伸ばしてきたのだ。
と、そのときだった。
「――アルミンっ!?」
エレンの声。……僕の耳に届いたのは、叫ぶようなエレンの声だった。
僕に触れようとしていた手を引っ込めた知らないおじさんは、エレンと何かを言い争っているようだった。エレンの声だけはしっかり聞こえていた僕は、それだけで恐怖から解放されていく。……それでも朦朧とした意識のままでは、その二人の会話の内容はわからなかった。
それからすぐに見知らぬおじさんはいそいそと立ち去って、僕のぼやけた視界には心配そうなエレンの顔が覗く。そうして続けてミカサの顔も覗いた。……おそらく、大丈夫か、と言っているなと、それは理解したけれど、もう身体がきつくて意識を保つのもままならなかった。
僕は二人の顔を見て、身体の強張りがすべて解けるように安堵した。だからだろう、あっという間にまた意識を手放していた。
――次に起きたとき僕は、自分の手に触れる温もりに気がついた。もうすっかり夜中になっていたようで、どこにも明かりは点いていなかった。あちこちから寝息が聞こえていて、僕はいったいどれだけ眠っていたのだろうと思う。気分のほうはかなり楽になっているような気がする。息苦しさも和らいでいる。
それから僕の手に触れる温もりの正体を探すために、暗闇の中で目を凝らした。すると僕の片手をエレンが握っていて、もう反対の手をミカサが握ってくれていた。……こうやって二人は、ずっとそばにいてくれたのだ。……僕はなぜだか泣きたいような気持ちになって、二人の手を放さないように握り返しながら、再び身体を休めようと目を閉じた。二人の手のひらを意識したら、身体の内側から満たされるような温もりが湧いてくる。僕はそれを、強く噛みしめていた。
【名もない激情のお話】
――ジャンはだめだ。……マルコは、まあ、優しいから……いや、やっぱりマルコもだめだ。ジャンは絶対だめ、あいつは、だめだ。コニーもトーマスもミリウスも、みんな、だめだ。
俺はかりかりと気を立てていた。何がこんなに俺を焦らせているのかわからないが、何かが引っかかって俺はずっと、吟味するように訓練兵の同期たちを見ていた。
ことの発端はこうだった。
珍しく行方を眩ませたアルミンをミカサと二人で探しているときだった。そのとき、俺らは食堂も覗いていたし、便所も確認したし、窓から眺めるだけだが訓練場もちゃんとチェックした。それでもアルミンは見つからなくて、薄い望みにかけて、用具倉庫に向かっていた。
そしたらその廊下の先から、何かの揉め事のような、荒だった声が響いていることに気が留まった。その内の一人の声はすぐにわかる――それはジャンのものだった。
俺はミカサと目配せをして、二人で廊下を走り出した。
するとそこにはジャンのほかに訓練兵の男が四人いた。ジャンがその内の一人の胸倉を掴んで、そうして何か威嚇するような荒っぽい声を出していたのだ。さらに近づいて、俺はこの目に映ったものを疑った。……ジャンの脇に、アルミンがいた。一人だけ壁に寄りかかって頬を押さえていて、ジャンとそのほかの男たちとのやり取りを見つめていた。
もしかしてアルミン……――幼少のころのことを思い出す。こんなところにも、アルミンに手を出すやつらがいると言うのか。考えただけでむかついて、俺はふっと乱暴な息を吐き出していた。
「――おいっ!」
俺がそいつらの後ろから声を出すと、ジャンを含めてほかの男たちも俺がここにいることに気づいて振り向く。
「うわ、もっとめんどくせえのが来た!」
「おい、放せよ!」
男たちは口々に悪態を吐いて、さらにジャンの手を振り払って逃げるように駆け出して行った。俺がその場に追いつくころには、そいつらはもう角を曲がって行ってしまった。
その角を睨みつけるように一瞥してから、俺は急いでアルミンに目を向ける。
「おい、アルミン!? 何があった!?」
頬を押さえていたアルミンに勢いよく食いつく。誰かに何かされたのかと本気で心配した。
そうしたらアルミンは我に戻ったのか、「あ、ああ」と体勢を整え始めた。
「……その、ジャンが、助けてくれた」
言われた途端、俺はこの怒りの矛先をジャンに向けていた。ギッと力いっぱいにジャンを睨みつけていて、ジャンも小声で「なんだよ」と反論してきた。
「……ミカサ、アルミンを医療室に連れて行っといてくれ」
「……わかった」
俺はジャンから視線を外さないまま、指示を出して二人をこの場から立ち去らせた。
その間ももちろんジャンは訝し気だったが、俺にとってはどうでもいいことだった。……アルミンをあの男たちがどうこうしていたのだろう。それに対する怒りはもちろんあったが、それよりも俺の中で激しく燃え滾っていたのは、ジャンへの苛立ちだった。
「お前……」
「な、なんだよさっきから」
その素っ頓狂な態度に起爆されたように怒りが爆発した。俺は力任せにジャンの胸倉を掴んで壁にその身体をぶつけていた。
「――お前は!! 助けなくていいんだよ!!」
許せなかったのは、俺を差し置いてアルミンを助けたことだった。その役目はいつだって俺でなくてはならないのに。ジャンは俺の存在を否定したようにすら思えて、それで怒りが収まらなかった。
だがジャンも俺の腕を掴み返して、身体を押し返してくる。
「はあ!? あんなもん見せられたら声かけるだろ普通!?」
どんな理屈も、今の俺には関係ない。ジャンが実はお人よしでそういうの放っておけないとか、そんなことはどうでもよかったのだ。これは、俺にだけ与えられた特権だった。アルミンを守り、隣にい続けられる特権だ。それを脅かされたも同然に捉えていた俺は、もちろん怯むこともなくさらに力をこめ返した。
「いいんだよアルミンは!! 俺が助けるから!! お前は引っ込んでろ!!」
「いっみわかんねえ!! 実際お前より俺のが見つけるのが早かったんだから、俺が声かけなかったらもっと殴られてたかも知んねえんだぞ!?」
「それでもっ! 助けるのは俺だ!!」
それこそ、この怒りに理屈などなかった。これは俺の中で不変でなくはならないのだ。俺があのときから抱き続けているアルミンへの、この名前も付けられない感情は未だに絶対で、そしてアルミンの持つ本当の強さや綺麗さを、ほかの誰にも気づかせたくなかった。それは俺だけの特権だったのだから、誰も踏み込ませていいはずがなかった。
「……は? 気色悪い。勝手にしろ」
ジャンは最終的に軽く俺の手を振りほどいて、面倒くさそうに歩き出した。
俺もそれを深追いはしなかったが、怒気によりもたらされた妙な胸騒ぎが、止めどなく俺の中に溢れていた。このぐつぐつと滾るような……なんだ、危機感とでも名づけるべきだろうか。それらを上手く処理できず、医療室に行くまでの道のりも、ずっとざわついたままだった。
俺はそのとき唐突に、同期たちをこれまでと違った観点で眺めてしまった。
――俺たちの間に、立ち入らせてはならないやつらだ。
油断も隙もなく、やつらは平気で踏み込んでくる。そんなことを、みすみす許してはいけない。
その晩、消灯したあと、俺は寝床が隣のアルミンに、少し身体を寄せた。あのあともバタバタしていて、ちゃんとアルミンと話ができていなかったからだ。
大部屋では、消灯したあともたいてい誰かがしゃべり続けていて、それは今日も例外ではない。
「……こわい思いしたか?」
その話し声に紛れ込ませるように、音の出ない声で小さく尋ねた。
するとアルミンも「ううん、へーき……」と声を潜めて返した。暗闇になったばかりの部屋の中で、上手くその表情は読み取れなかった。
だが、アルミンは平気だと言っているのだから、ひとまず安心することにした。
それから、伝えておきたかったことを意識の真ん中に引っ張り出して、しっかりとそれを掲げた。
「……次は、俺がぜってえぶっ飛ばすからな。何かあればすぐに言えよ」
アルミンに手を出すやつは、俺がこの手で返り討ちにしてやる。しなければならない。この俺が自らの手で。……そう、それは、そう決めていたのだ。もうずっと、遠い昔から。
アルミンの相槌はすぐには聞こえなかった。何を考えていたのか、少し口を閉ざしたあと、
「う、うん。ありがとう……でも……っ」
「……なんだ? どうかしたか?」
何かを言いたそうだったのはわかったが、何を言いたいのかはわからなかった。もどかしくて尋ねても、「ううん……ぼくも、がんばるね……」と呟くだけだった。
アルミンが何をがんばりたいと思っているのか、やはりいまいちわからなかった。アルミンは今のままで、何も不足がないというのに、何をそんなに思いつめているのか。
わからなかったから何も言えなかったが、何も言えなかったから俺は静かに手を伸ばした。寝床は近かったので、少し手を伸ばせばすぐに探り当てることができて、俺はアルミンの手を握った。心配するな、お前は今のままで大丈夫だ。それをこの仕草で伝えて、俺たちは久方ぶりに、開拓地でやっていたように手を繋いで眠った。
【少し寂しくなったお話】
今日も一日長い訓練を終えて、僕たちは束の間の雑談を楽しんでいた。男子宿舎でももうすぐ消灯の時間で、それまでの残り少ない時間だ。
この場にいたのは僕とエレンとコニーとマルコで、別に珍しい取り合わせというわけでもなかった。今日の座学の授業で巨人の生態についての講義があり、その話題で呼び止められて始まった雑談だったと思う。これはこういう意味だったと思うけど、ならばこれはこういう意味か? と、僕の意見を尋ねられた。――一通り、僕の見解を伝えたあとだ。
「でも信じらんねえよなあ。本当に巨人っているんだもんなあ」
コニーが背伸びをしながら、気の抜けた顔つきでそう零した。
僕……というよりは、おそらくエレンに気を使ってマルコが「コニー!」と咎めたけど、コニーは何のことやらで、
「なんだよ? だって俺は見たことないんだぜ? でもこうして見ている人がいて、なんか不思議だなあって」
そのマルコのお咎めには疑問符を浮かべるばかりで、やはり呑気さは変わらずぼやきを続けた。
マルコの視線はエレンへ向き、僕もエレンを見やった。別にコニーがそう思ったからとコニーを叱るエレンでもないのはわかっていたけど、それにしてもエレンはどう反応するだろうと気になった。
訪れた沈黙が予想外だったのか、先に口を開いたのはコニー自身で、
「あれ、悪い、そんなに気に障ったか?」
「……いいや、それが普通の人の認識なんだろうな」
珍しく大人しめのトーンでエレンが続けた。そのトーンは諦念にも似ていただろうか。……まあ、確かに、こればかりは実際に見てみないとわからない話ではある。
「ま、まあ、そうだよね……僕たちも見たことないってのは事実だし……」
マルコも申し訳なさそうに付け加えた。
けれどそこでエレンはすうっと強めに息を吸い込んだ。
「だとしても、どうせその内ぜんぶ俺が駆逐してやるから、外へ出ない人類にとってはいなかったも同然になる」
ようやくというのか、いつもの調子に戻って拳を握ったエレンを見て、僕もマルコもコニーも言葉を引っ込めた。巨人を駆逐してやると決意を新たにするたびに、エレンの執念や迫力は厚みを帯びていくのがわかり、こちらは言葉を挟めなくなるのだ。……その言葉に並々ならぬ覚悟が含まれているからなおさらだ。
……でも、僕はそれだけではなかった。
「ぜんぶ駆逐してやる……楽しみだ」
巨人をすべて排除したあとの世界。エレンの悲願でもある巨人の駆逐が叶えば、僕たちはその先にある夢にたどり着けるようになる。
「そうだね。そうしたら――、」
「それまではなんとしてでも死ねねえ! この訓練も乗り越えてやる!」
僕が付け加えようとした言葉をエレンは遮り、僕はそれに驚いて頭が真っ白になってしまった。――『海』と言おうとした僕と……それを遮りなかったことにするエレン。
「お、最近成績伸びてきてるもんなあ、エレン」
「ああ、こんなところで落ちぶれてる場合じゃねえからな!」
どうやら残り二人も僕の言葉が遮られたことには気づいていないのか、そのまま歓談を続けていく。
僕の中ではじわじわと嫌なざわつきが渦巻き始めていた。……なんだろう、エレンが僕の言葉を遮ったのは、これがみんなの前だったからだろうか。さすがに『海』の話はまずいと思われたのだろうか。急に会話に加わる気力がなくなり、それからしばらく悶々として……そして、寂しくなった。
消灯時間を迎えて、僕らはそれぞれの寝台に向かう。僕とエレンの寝台は隣だったので、僕は布団に入りながらエレンに声をかけた。
「……ねえエレン……」
「おう?」
気になってしまったのだ。……先ほど言葉を遮られた意図を。本当はただ、僕がしゃべっていることに気づいていなかっただけとか、みんなの前だったからとか、そういう理由だったことに縋ろうとしていた。まさかエレンが、意図的に『海』の話題を避けようとしているのではないかと、ざわつきが止めどなかったからだ。
ちょうどそこで消灯されて、僕は周りを一度見回してから、気をつけて小声で発した。
「その、外の世界の、」
けれどそれ以上に自信が持てず、もごもごと口の中で転がすように言ってしまった。
「……――う、海をさ、」
「あ、そうだアルミン、」
「……え?」
……『僕たちは見に行こうね』と続けようとしたのに、またエレンに遮られた。先ほどと同じように、また頭の中が空っぽになってしまう。
「立体起動装置のワイヤー巻き取り部分の整備方法、もう一度教えてくれねえか。どうしてももたついちまうんだよなあ」
わざとなのか、エレンはいつもの調子で、けれどいつもより饒舌に話した。
――ああ、これはもしかして……やっぱりそうなのだろうか……。
「……え、あ、うん……いいけど……」
「じゃあ、明日よろしく」
それを最後にエレンは布団にもぐってしまったけど、僕はしばらくそのままエレンを眺めていた。
やはりエレンは……意図的に僕の言葉を遮ったのだ。……だけど、それはいったいどうして。もう『海』を見るという夢を、エレンは見ていないのだろうか。一緒に外の世界を探検しようと約束したあの日のこと、エレンは……どう思っているのだろう。エレンにとって、今はお母さんの仇を討つことがすべてなのはわかる……けれど、世界はそれだけではないのに。それだけなはず、ないのに。
僕ものそのそと布団の中に入った。そこでうずくまって、拭えなくなってしまった胸の不快なざわつきに蓋をしようとする。
――エレン、君はもう……『海』はどうでもいいのかい……?
【気づいてしまったときのお話】
訓練兵の日々も一年以上が過ぎ、すっかりこのルーティンも身についてきたころだったと思う。
この日もなんとか過酷な訓練を乗り越えて、僕たちは食堂からそれぞれの宿舎に戻るところだった。ミカサとはいつもこのタイミングで分かれている。
食堂から出て宿舎までの、明かりの少ない通路を歩いているとき、
「エレン、くれぐれも喧嘩は避けて」
ミカサがエレンに釘を刺した。
今日の夕食のときもまた、エレンは絡んできたジャンと口論になっていたのだ。お互い一触即発だったが、ミカサとマルコの介入でなんとか乱闘騒ぎを避けられたようなものだった。
だからミカサがエレンに釘を刺すのはとても自然な流れだったし、僕もそうだよ、とミカサの援護射撃をしたくらいだ。
けれどエレンはミカサのその言葉に怒髪天を突かれたように飛び上がって、
「あ、ミカサお前! また俺を弟扱いすんのかよ! いい加減にしろ!」
と食ってかかった。
そんなエレンをミカサはいつもの調子で「エレンが落ち着かないのが悪い」とさらに諫めた。
鼻息を荒くしたエレンはだんっと足を踏み込んで、「俺は落ち着いてるよ!」と抗議する。……僕も、いやあ、それはどうだろう、と思ってしまっていたが、僕が口を挟むまでもなく、ミカサはさらにエレンを咎めた。
「落ち着いていないから言っている。明日会ったときに青タン増えていたら容赦しない」
「ああ!? どういう意味だよ容赦しないって」
「そのときになればわかる」
ミカサの有無を言わせぬ威圧感は本当にすごい。エレンも観念したのか反論を止めて、
「くっ……行こうぜアルミン!」
僕の肩に腕を回して無理やり引きずられた。
「え、あ、うん。ミカサ、お休み」
僕はいつものようにミカサに夜の挨拶をして、ミカサも「うん、お休み」と返してくれた。……エレンはとうとうミカサには何も言わないままだった。咎められたのがよほど悔しかったのだろう。そのむす、とした横顔を覗き見て――、
「くそ、ミカサのやつ……なんで俺の気持ちわかってくんねえんだよ!?」
――気、持ち?
僕はそこで、電撃を食らったような衝撃を覚えた。……エレンの不服そうな横顔を見て……直感だ、これは、僕が思っていた〝悔しさ〟だけではないことに気づいてしまった。
「同い年のあいつに弟扱いされるのもううんざりなんだっての!」
「う、うん」
一応、僕は何も気づかなかったふりをして、話を合わせた。
だけど内心、先ほど受けた衝撃で頭がいっぱいだった。……そうだ、エレンがミカサに『弟扱い』されて悔しがるのは……本人が言っているように、『同い年なのに』というところ以外に、理由があったのだ。……それをエレン本人が自覚しているかどうかはわからないが……僕は、覚悟しなければいけないことに気づいてしまった。
――エレンがある日、ぼくよりミカサを一番に選ぶ日が来ること。
……いいや、もしかしたらそれは、もう来ているのかもしれない。……ミカサと出会ったときからわかっていたことだが、ミカサはエレンにとって特別だ。そんなの、今出会ったところで見ていればわかることだ。エレンとミカサの間には、僕にも入り込めない固い絆がある。
……なら、ぼくは?
これが嫉妬という感情なのだろうか。あまりに不慣れで、けれど苛立ちよりも焦燥のほうが勝って、本当に世間でいう〝嫉妬〟なのかどうかはわからなかった。
そうだとしても、僕もエレンにとって特別のはずで……だってエレンが、そう言ってたから。
――『まだ俺がいるだろ!? 俺はお前が大事だから……』
――『……言っただろ。お前は俺の特別だ』
思い出の中でそう言ってくれるエレンの姿は、どれも幼いものばかりだ……僕は、あれからどれだけの年月が経っていたのか、思い知るはめとなった。
――ぼくはいつまで、あの幼いころの無垢な眼差しに縋るつもりなのだろう。……虚しくなって、溜息がこぼれた。……ぼくはもう、外に目を向けるべきなのかもしれない。
僕はこの日、ずっと居心地が悪くて、なかなか寝つけなかった。
その日以降、僕はほかの訓練兵との時間を増やすように心がけた。……僕ばかりがエレンに縋りつくことで、エレンの重荷になりたくなかった。エレンが今、自覚しているのかしていないのかわからないけれど……それはもはや時間の問題だろうと思ったからだ。――エレンがそれを自覚したとき、僕が足枷にならないように。
「マルコ」
「ああ、アルミン、どうかした?」
この日もそうだった。
朝の連絡事項のときに教官から『今日の技巧術の講義では班分けが必要になるから、それまでに四人一組を作っておくように』との伝達があって、僕はエレンとは別の班になろうと考えた。
「次の技巧術の講義なんだけど」
「うん」
「僕も君の班に入れてくれないか」
提案するとマルコはぱちぱちと瞬きをしたあと、
「ああ、いいけど。ミカサやエレンはいいの?」
その二人の姿を探すように教室の中を見回した。
こういうとき、僕たちがどれだけ一緒にいることが当たり前に映っていたか、思い知るような気持ちになる。少し咎められているような……妙な感覚だ。
けど僕はそれを覆そうとしているわけで、「うん。彼らは彼らでやるよ」とマルコに教えて、そうしたらマルコも「そう。じゃあ、一緒にやろう」と笑って迎え入れてくれた。
温厚なマルコは誰とでも上手くつり合いが取れて、特に僕とは読書や考え方の面でも気が合うので、エレンたちの次によく一緒にいる同期だった。だから僕はとりあえず講義であぶれることが回避できたと胸を撫でおろした。
そして、僕がマルコに「ありがとう」と返していたときだった。
「おいアルミン」
後ろから声をかけられて、僕は振り返りながら名前を呼んだ。
「あ、エレン」
そこにミカサの姿はなかったけど、どことなく心配そうな表情をしていたことには気づいていた。
でも僕はわざと、そんなことは拾わず、
「ちょうどよかった。次の技巧術の班、マルコの班に入れてもらうことにしたんだ」
エレンに向けて身体を傾けた。それを告げたときにエレンが、先ほどマルコがやったようにぱちぱちと瞬きをしたものだから、その光景が重なって少し面白かった。
しかしエレンはそれからぐっと顔を歪める。その当のマルコも僕たちの会話を見守っているというのに、わかりやすく眉間にしわを寄せたのだ。
「……は? マルコの、班に?」
「うん」
苛立ったことを隠すこともしないエレンは、そのまま低い声で続けた。
「……俺は?」
僕がマルコの班に入ることに納得がいかないと言った顔つきをされて……僕は微かにこの胸の中に高揚を覚えていた。……エレンが今、抱いている感情が――……それこそ、〝嫉妬〟なのでは、とひらめいてしまった。
「だって僕、邪魔になるだろ?」
だから、わざとエレンの嫌がりそうなことを言ってしまった。――そう、エレンはまだ、自分の持っている感情に自覚がないのだ。その反応を見て、それは僕の中で確信に変わった。
「言ってる意味わかんねえよ。なんでお前が邪魔になるんだよ」
さらにエレンの頬が膨れる。
高揚のついでか、高揚のせいか、僕はくすぐったいような感覚を自分の中に捉えて、
「だって、僕ずっと君と一緒にいるもの。……鬱陶しいかなって」
「バカ言え! アルミンが鬱陶しいわけないだろ! なんでマルコの班なんだよ!」
「……え、だから……」
エレンのその反応を楽しんでいることに、自分でようやく気づいた。
――エレンは、僕が違う誰かと仲良くすることをよく思っていない。……つまり、エレンは……、
「……わかった、好きにすればいいだろ」
捨て台詞を吐き捨てて、エレンは踵を返してどこかへ行ってしまった。どたどたと乱暴に床を踏みつける、その不貞腐れた姿がかわいくて、僕はまたさらにドキドキと胸を高鳴らせていた。
「……いいの?」
マルコが僕に一言尋ねる。
僕は自分が抱いている高揚が不健全なものだと理解しながら、それでもそのくすぐったさを堪能していた。
「はは、うん。いいの」
――エレンがミカサを一番に選ぶ日はきっとくるだろう。……けれど、今はまだ、僕もその〝嫉妬〟を抱く対象としてエレンの中にいられる。……そのことに、刹那的な喜びを抱かずにはいられなかった。
【そばにいないお話】
俺は湿っぽくてかび臭い地下室で、眠れずに闇を睨みつけていた。
第五十七回壁外調査――その歴史的な転換点ともなる壁外調査から、今日戻ってきたばかりだった。
たった数時間の壁外遠征だったのにも関わらず、いろんなことが起きた。……たくさんの兵士が命を落とした。あの忌々しい女型の巨人を思い出すだけで、悔しさで涙が出てくる。……俺が下した決断で、どれだけの兵士の命が奪われてしまっただろう。俺という存在が……そもそもあの巨人を引き寄せてしまったのだとしたら?
加えて、人類の希望である調査兵団の活動も、凍結が正式に決定するのも時間の問題になってしまった。
……こんな精神状態では眠れるはずがなかった。
この古城にはもう、俺とリヴァイ兵長しかいない。俺はふらふらと立ち上がり、さ迷うように地下室から抜け出した。どこもかしこも明かりは灯っておらず、標となるのは微量な月光と己の感覚だけだった。手探りで進んでいく――何を探していたのか、いいや、もしかしてと縋るような気持ちになっていた。もしかして、あいつらに会えるのではないかと。
廊下から見えた窓の外を見る。焦がれたような気持ちで。
ここを抜け出して……あいつらに会いたい。心からそれを渇望していた。
一人では心細くて、潰されてしまいそうだった。……トロスト区奪還作戦のあと、地下牢に幽閉されているときも本当はそうだった。俺一人では正気を保っているのがやっとで、心細さを強がりで隠そうとした。
だが、今回は俺を部屋に縛りつける手枷足枷はない。それをいいことに、俺は近くにいるはずがないとわかっている……あいつらの影を探した。
俺という存在がここにいることが正しいのかももうわからない。俺のせいで今回の作戦も、いったいどれだけの兵士が死んだ。あのとき、俺は憲兵団に引き渡されて、処分されていたほうが人類のみなさんのためだったのかもしれない。そんなことをぐるぐると考えてしまって、古城の中をさ迷うように、心もあちこちにとっ散らかってさ迷っていた。
――アルミンなら、この状況をなんと評するだろう。
その聡明で精悍な顔つきを思い出して、なんとかその答えを導きだそうとする。
あの、希望に満ちた瞳を見て、俺がここにいることを肯定して欲しい。一度そう思ったら、途端にアルミンにそばにいてほしいと心情が溢れかえった。――ああ、こんなの久しぶりだった、この手を、握っていてほしいなんて。……俺がここに存在していること。それを肯定して、繋ぎ止めておいてほしいと、渇望していたのはそれだった。
アルミンはどこだ、アルミンは。俺は次に、いつアルミンに会える。今すぐあの希望に触れないと、俺はもうだめになってしまうような気までしていたのだ。俺はどれほどこの心の均衡をアルミンに委ねていたのかを思い知った。
……けれど思い知ったところでどうしようもできなくて、俺は自分の思考に押しつぶされながら、ひたすらに朝を待つしかなかった。
【〝そのとき〟がきてしまったお話】
ようやく報告書を書き終わった僕は、ミカサとジャンが療養している医療室に向かっていた。
エレンを連れ去ろうとしたライナーらから奪還するため、調査兵団と憲兵団が戦ったとき、ミカサは巨人に身体を握られて、あばらを負傷したらしかった。また、ライナーが投げて寄越した巨人のせいで、走る馬から振り落とされたジャンも、目立つ外傷はなかったものの念のためとそこで療養している。僕はその二人の見舞いを兼ねて訪ねるところだった。
医療室の前の廊下から中を覗き込むと、複数のベッドが簡易な仕切り板に仕切られて並んでいた。
確かミカサのベッドはあちらのほう……と思い出しながら奥のほうへ目を向けると、そこにエレンの後ろ姿を捉えて、僕の足は止まった。
淡い陽だまりの中で、ミカサのベッドに寄り添うエレンの後ろ姿だった。その様子を見て……僕の心はざわりと騒いだ。
……ストヘス区で女型の巨人と戦ったあととその光景が重なっていたのだ。つい数日前のことだ。
そのときは横になっていたのはエレンで、そばにいたのはミカサだった。ずっと、その身を案じるように、そして生きていることを噛みしめるように寄り添うミカサを見て、僕は心地のいい、それでいて少しだけ心地の悪い諦念のような虚しさを抱いたのだ。
そうして今度は、エレンの背中を見つめている。エレンに寄り添うミカサを見たときの心地のいい諦念と、ミカサに寄り添うエレンを見たときの胸騒ぎは、少し違っていた。けれどどちらも同じ……見守るような、ざらつきをしまい込むような、そんな諦念だった。
「エレン……その……」
ミカサの静かな声が聞こえる。
「なんだ」
エレンの声も、いつもより優しく響いた。
「マフラーの……こと……」
「……おう」
「ううん、なんでもない」
「……そうかよ」
二人の間にまた静かなときが訪れて、ああ、そうだな、と僕は納得していた。
――悔しいけれど、〝そのとき〟が訪れたのだと心を落ち着けようとした。
不思議と苛立ちはなくて、けれど僕の心にぽっかりと穴が開いたような……その穴に、得体のしれない温かさを詰め込んだような。心地のいい、けれどやっぱり少しだけ心地の悪い、そんな……僕からの祝福だった。
「……ジャン、気分はどうだい」
僕は二人の邪魔をするのは野暮だと思い、そのまままっすぐにジャンのベッドの脇に進んだ。……本当は、二人の間に入り込んでもいいのだという確信が、揺らいでいたのだと思う。
ジャンは僕を見るなりベッドに起き上がり、
「ああ、脳みそに異常はなさそうって話だ。念のため今日まで安静にしたら、明日から兵役に戻っていいってよ」
「そうか。よかった」
僕もその隣に椅子を引っ張ってきて座った。
頭に包帯を巻いているものの、言葉通りに元気そうだったジャンを見て、気持ちを切り替えるように努めた。
「その、俺のこと諦めないでくれて、ありがとうな」
少し照れくさそうにジャンが感謝なんてするものだから、
「当たり前だよ。君がいなくなったら兵団には痛手だ」
僕はあのジャンを助けたときの無我夢中さに言い訳をした。
本来、あの判断は正しかったのだろうかと、頭の片隅で問いかけ続ける自分もいる。……でも、あのときは理屈ではなかったのだ。自分の馬を捨ててジャンを助けてしまったこと、今となっては後悔はしていないけれど、衝動に従った自分に驚く気持ちもあった。
「いや、それは大袈裟だ」
この期に及んでジャンは真顔で僕の言い訳を否定するから、僕もむきになって反論した。
「そんなことないよ。君はたぶん、ぼくより必要な人材になると思う」
「どうだろうな」
薄らと笑ったジャンは、どういう気持ちだったのだろう。……あの混乱の中で、仲間が危険を冒してまで自分を助けたと知ったら、僕はどう思っていただろう。
どう考えようとも、結果的に僕はジャンを助ける選択をして、そうしてそれは幸いなことに吉と出ていた。
だから僕たちはここに今、無事にいて、互いの存在を認識して……、
ふ、と僕の背後にいるエレンとミカサのことが脳裏に過った。
「どうした?」
何も言わなかった僕にジャンが呼びかける。僕は顔を上げて、何も考えなかったことにした。
「あ、いや……生き延びたんだなあと、思って」
「はは、本当にな」
そうしてジャンはまた『まったく、この悪運の強さは笑えねえ』と付け加えた。
【失いかけたお話】
壊滅したシガンシナ区を壁上から見下ろして、俺は自分の中に漂っている不快感を塗りつぶす術を探していた。
つい先ほど団長代理として指揮を執ったハンジさんに、みんな生存者の捜索を指示された。それぞれ民家に降りて行ったり、内門のばらばらに砕かれた身体の中を捜索したり……それぞれがちゃんと指示通りに散っていった。
けれど、俺は……ここから離れられなかった。
壁の上に横たえられた二つの身体に目を配る。
一人はサシャで……もう一人は、アルミンだ。
俺は気が気でなかったのだ。……アルミンの、焼け爛れた身体を目前にして、アルミンを失ったのだと絶望してから。……あの、世界一の輝きだと思っていた瞳を、もう見ることができないのだと……俺はそのとき、光を失ったような気分だった。
だからそんなのは受け入れられなくて、認めるわけにはいかなくて、兵長に歯向かった。それでアルミンが戻ってくるなら、俺は何でもよかったのだと思う。例え俺がそれで兵長に殺されたとしても、アルミンが戻るなら……それで、よかったのだと思う。
そのあと、兵長の判断でアルミンにベルトルトを食わせて、アルミンが人間に戻ったあとも……本当に目覚めるのかと――本当にアルミンは戻ってきたのかと、気が気でなかった。
アルミンの焼けた身体を見たときから俺を支配している不快感は、まだ拭われていないままだ。
早く目を覚ましてくれ。アルミン、そして、その輝きを取り戻した瞳を、また俺に見せて、新たな光を与えてくれ。……アルミンを失ったという絶望を、早くかき消してほしい。
またシガンシナ区の街を見下ろす、一応ここから生存者はいないか俯瞰しているふりをする。
おそらく、俺の中に充満している不快感は、自分に対する不満も含まれているのだと気づいていた。
アルミンにあんなことをさせてしまったこと。……ベルトルトを討ち取るために、薄々勘づいていたのに、認めたくなくてアルミンの言葉を妄信しようとしたこと。『海を見るまで死ねない』と言った……その言葉に嘘はないのだと、縋っていたこと。――もっと冷静になれていたなら、アルミンにあんな作戦を強行させずに済んだかもしれないというのに。
それと同時に、微かに、アルミンから裏切られたような苛立ちも混ざっていた。俺に本当の作戦を明かさないよう、言葉を尽くしたこと。それに俺が甘んじるだろうと、打算したこと。……俺はまんまと、それに甘んじたのだからなおさらだった。――そして、俺と『海を見に行こう』と交わした約束を……反故にしたこと。
俺がアルミンなしで一人で海を見れたとして……その価値を俺が見いだせるはずもなかった。俺の中では、海を見ることは、すべてアルミンだった。アルミンがいない壁外世界なんて、なくてもいいと思うくらいだった。
――早くアルミン、目を覚ましてくれ。お前が戻ってきたんだと、早く俺に実感させてくれ。
【頼られなくなったお話】
「――エレン、」
ハンジ団長が、ふらふらと歩いていくエレンを呼び止めた。
ウォール・マリア奪還作戦での功績を称される式の場で、勲章を受け取っていたエレンは、一時硬直してしまった。そのあと、周りに呼び戻されてなんとか式は遂行できたが、あれからエレンは、明らかに様子がおかしかった。
だから、ふらふらとどこかへ歩いていくエレンを、ハンジ団長は呼び止めたのだ。僕もその近くにいたので、そちらに意識を傾けた。
「どうしたんだいエレン? また何か思い出したのか」
団長が率直に尋ねた。
「……あ、はい……記憶が……」
低く沈んだ声使いでエレンは答えた。その覇気のない声に驚いて、僕はエレンから目が離せなくなってしまった。……なんと言ったらいいのか、まるで、式の前と後ではエレンは別人のようになっていたのだ。
「どんな記憶だった?」
団長の明るさのある声が広間に響く。
エレンはしばし考えるように頭を抱えて、それからようやく小さな声を絞り出していた。
「……その、ちょっと、今……混乱、してて……」
「……? 混乱?」
ただならぬ様子は、別に僕でなくても察知していたらしい。団長は慎重に見極めるように、エレンのその動揺した表情を見ていた。
混乱しているのは、おそらく嘘ではない。エレンはいったい何を見たのか……今度はいったい、どんな真実に触れてしまったのか。すっかり怯えたように縮こまる姿に、ハンジ団長も限界を感じたようだった。
「……わかった。じゃあ落ち着いたらでいい。報告書で読もう」
肩をぽんぽんと叩くハンジ団長。それに対してエレンは、「……ほうこく……しょ……?」と復唱した。――こ、これは、かなり混乱している。
「……エレン、君大丈夫かい? いつもと様子が違うようだが……」
もちろん団長もそう思って、エレンの顔を覗き込んでいた。すっかり青ざめた顔でエレンは団長を見返したが、何も言わなかった。……エレンはいったい、
「……エレン?」
「……あの、しばらく一人になります……」
ふらふらとまた覚束ない足取りで歩き出して、団長も引き止めることを得策とは思わなかったようで、
「……え、あ……わ、わかった」
そのままエレンを行かせた。
エレンの身に起きたことを案じていた僕を、エレンはちらりと盗み見る。どうかしたかと声をかけようかと思ったが、エレンのほうから視線を逸らされたので、僕はそこで立ち尽くすことになった。
それからエレンのことで仲間内では会話が止まらなかった。あいつは大丈夫なのかと口々に話していたときに、ハンジ団長から『しばらくの間、アルミンとミカサはエレンに近づくな』と指示をされた。
初めはその意図がわからず見合わせた僕とミカサだったけど、日が経つに連れてその意味を理解した。
何せジャンやコニーは普段通りにエレンと接触をしていたし、エレンが自室や会議室にこもっている以外は、特に変化を感じなかったからだ。
決め手はコニーの言葉だった。
接触を許されているジャンとコニーに、『エレンが心配だ。早く面会したいのだけど』と零したときに、コニーは言った。
「エレンのやつ、そうとう苛ついてるからな」
「おいコニー」
口を滑らせてしまったらしいコニーをジャンはすぐ咎めて、コニーも「あ、ごめん?」と口元を押さえた。――それで僕は確信を得たのだ。
この僕とミカサだけに課せられたエレンとの接触の禁止令は……、他でもない、エレンの希望だということを。
あの勲章授与式でエレンが見たものはいったい何だったのか。それに見当もつかないけれど……あのとき受けた印象の通り、エレンの人格をも揺さぶるほどの何かだったなら……? エレンは自ら僕とミカサとの接触を避けて、取り乱した自分を隠そうとしたのかもしれない。
――僕こそに、その姿を見せてほしいと、僕は思うのに。
「お願いです、ハンジさん。エレンと話をさせてください」
その足で僕は、思い切って団長に直談判しに行った。エレンに突き放されている今の状況にやきもきして、落ち着いていられなかったからだ。……けれど、ミカサは誘わなかった。きっとミカサも僕と同じ気持ちだろうと想像はできたけど、そこはエレンの気持ちを尊重することにした。僕はともかく、ミカサに対しては自分を保っていたいだろう。
ハンジ団長は執務机から立ち上がりながら、
「……わかった。本人に聞いてみるよ」
すんなりと僕の願いを聞き入れてくれた。……本当は団長も、今のエレンをどう扱っていいのかわからなかったのかもしれない。それでもエレンの希望通りに僕とミカサに接触を禁じていたのは、きっとそれだけ周りにわかるほど、エレンが切迫した状態だったのだろう。
結局団長は僕を引き連れてエレンに割り当てられた個室に赴き、僕を廊下に待機させて自分だけが中に入っていった。そこから漏れ出す会話で、エレンの声が未だに消沈したままであることを知る。……あれからもう数日は経っているというのに。
ハンジ団長が『アルミンは君を心配しているんだ、顔くらい見せておやりよ』と説得しているのが聞こえて、そのあと、しばらくののちに、『わかりました』とエレンが折れてくれた声が聞こえた。
部屋の扉が開き、ハンジ団長が出てきて、『入っていいって』と僕の肩を叩いた。きっと何かを託されたのだろうと理解はしたが、今の状態のエレンとまだまともに会話をしていなかった僕は、まずは本人の状態を確認することに気が向いた。
ゆっくりとエレンの部屋の扉を開く。中を覗くと、エレンは椅子に座ってこちらを見ていた。……勲章授与式の前のエレンではなく、あとのエレンのようだった。――エレンがまとう空気が、それを明らかにしていた。
「……よお、悪かったな」
「うん……大変だったみたいだね」
僕は普段通りを装って、少し大きめの歩調で部屋に踏み入れた。
「……いや、そうでも、ないさ……」
他に座るところもなかったので、とりあえずエレンのそばまで歩み寄る。
じっとエレンが僕のことを見つめていて、僕がエレンに質問したいことが山ほどあるのだとわかっているようだった。だから、何も言わずに僕の言葉を待っている。
思い切って一歩、踏み込んでみた。
「……エレン、どんな記憶を見たの?」
エレンは僕の問いを聞くなり、ゆっくりと視線を逸らしていく。
――ああ、そうか。
「……親父がレイス家の人たちを殺したときの記憶だ」
僕はエレンが、僕に隠している何かを伝えるつもりがないことを、その場で悟ってしまった。
「……それだけ?」
「それだけ」
だって、そんなはずがなかったのだ。もし本当にそれだけのことなら、エレンは団長に頼んでまで僕とミカサを隔離することはなかっただろう。……もっと重大な何か、エレンが取り乱すほどの何かを、見て、あるいは知ってしまったから……エレンはこんな風になってしまったのではないか。……こんな、まるで、別人のような、姿に。
逸らされた視線が僕の元に戻ってきても、それは既に意思を固めてしまったように、揺れることはなかった。
僕は覚悟が決まらずに息を呑む。
――君は……、君は、決めてしまったんだね。それを、一人で背負い込むこと。
ぎゅ、と胸の辺りが締めつけられるような痛みに疼いた。
「……エレンは僕に、何も話してくれなくなったね……この間の会議のときも、君が話してくれるまで待とうと思ったけど、結局聞かずじまいだ」
どうしてこんなに、空っぽになってしまったのだろう。――『お前に頼りたいと思ったからだ』と僕の背中を押してくれたエレンは、まだたった数か月前だったのに。……君はもう、僕を頼ってはくれないのか。
「僕は、君の力になりたいよ、エレン。一緒に考えたい」
この虚しさを抱えきれなくて、僕はさらにエレンの近くまで歩んだ。エレンのそばに立って、しっかりその瞳を見つめて、懇願するような気持ちでエレンに投げかけた。
けれどエレンは、やっぱり僕から視線を逸らした。……これがエレンの応えだった。
「……悪いアルミン。話せることは、ぜんぶ話した」
ずん、と僕の上に降ってきたのは現実だったのだろう。エレンはもう昔のように僕を頼らないし、僕はエレンの力にはなれないらしかった。どうしてエレンがそう思うようになってしまったのか、それすら理解できないままになるのだろうか。
エレンが僕から離れていくような、そんな途方もない無力感に僕は苛まれる。
「……そう。わかった……でもエレン、忘れないでくれ。君は僕にとって大切な人で、だから君がつらいときは一緒に考えさせて欲しいんだ」
それでもいつか、またエレンが僕を頼ってくれる日がくるかもしれないことを、忘れないでいたい。そのときにすぐに手を差し伸べることができるように。僕はいつでも、君のことを見て、そのときを待っていよう。
「……ありがとう、アルミン。でもこれは、俺の問題だから」
「……うん」
僕はこれ以上の会話を一旦諦めることにした。きっと今はまだそのときではないだけだと、自分に言い聞かせて。……ときがくれば、きっとまたエレンは僕と会話をしてくれる。それを僕は、ただ待っているしかないのだ。
【夢が一つ叶ったお話】
僕はこの足がさざ波に攫われる感覚を捉えながら、呆然と立ち尽くしていた。
初めて経験した海。ずっと見たかった海を、今日初めて見ることが叶った僕は、けれど拭えぬ欠落感に打ちひしがれていた。
道のりのことを考えれば、今日はひとまず海の近くで野営をして、明日帰路を目指すことになるのは自然な流れだった。みんなが寝静まったあと、僕は設置されたテントを一人で抜け出して、波打ち際に足を浸からせていた。
まるで夜空と繋がっているような煌びやかで広大な海を前に、僕はその果てしなさに言葉をすべて捨ててしまう。その光景を言葉に代えるなんてこと、初めからできなかったのだ。吸い込まれていきそうなほど、綺麗で、広大で、そして果てしなく深い。……この先に世界は繋がっていて、僕たちがまだ見たことがないものが――図鑑にすら載っていないものが、溢れているのだろうと予想をしていた。
……けれど、不思議と心は踊らなかった。
昼間のエレンのことを思い出してしまうから。
あの勲章授与式のあとから変わってしまったエレンは、僕が海で拾い上げた殻のようなものを、見てはくれなかった。……一目もくれなかった。海に到達した感動も、海を見た感動も、何一つ、その〝何かに〟蝕まれた身体からは出てこない。
僕はずっと、海に到達したなら一緒に跳ね回って、一緒に手を取り合って喜べるのだと……思っていた。これが誰にも侵されない自由だと、笑い合えるのだと思っていた。……けれど現実は違って、結局、僕の叶った夢と言えば、〝海を見た〟ことだけだった。気づかずに付随していたほかの部分は……叶わなかった。僕はただ海が見たかっただけではなかったのだと、この虚しさに理解させられた。
――エレンは蝕まれている。もうエレンはあのころのエレンではない。一緒に夢を見てくれたエレンではなくなってしまった。シガンシナの川辺で一緒に本を広げていた光景を思い出して、胸が苦しくなった。――僕がもっとエレンを理解してやれたらよかったのだろうか。でも、そうしたら僕も、海に感動できなかっただろうか。
「……アルミン」
予期せぬところから声が聞こえて、僕は肩を跳ねさせてしまった。
「え、エレン」
僕の隣に足を止めたのは、エレンだった。驚きのせいで少し身体を引いてしまったけれど、エレンは静かなまま、僕と視線を繋げた。
「……海、見に来たのか」
「う、うん。君は……また、眠れないの?」
「……お前が起きるのがわかったから」
「……そう」
会話はなんとなくぎこちなく感じた。そのあとも、どちらも言葉を繋げられず、会話は消えてしまった。
さざ波の音だけが、止めどなく聴覚を撫でていく。
はあ、と息を吸い込んだのはエレンだった。
「……明日も早いから、寝たほうがいいんじゃねえか」
「……うん、もう少し見たら、ちゃんと寝るよ」
「そうか」
……わかっていたことだが、ここへきても、エレンの口から感嘆の言葉は出なかった。……僕もそれを言っていいのかわからず、なんと声をかければいいのか、必死に言葉を探した。――だって、エレン。目の前にあるんだよ。エレン。
「エレン」
「……なんだ」
けど、やはりなんと言えばいいのかわからなかった。だから僕は複雑な言葉を探すことを諦めて、エレンの目を見て言った。
「……海、だよ」
エレンは目前の広大な光の塊に目を移して、
「……海、だな」
抑揚のない声で返した。
一緒に喜んで欲しいと口にするのは何か違う気がして、言葉を飲み込んだ。
「……うん。それだけ」
これ以上ここにいると、僕の感動を一方的に押しつけてしまいそうだったので、諦めて一歩波打ち際から足を引いた。テントに向けて身体を翻すと、
「アルミン、俺は……」
エレンが噛みしめるように言葉を紡いだ。
……こんなに感情が乗った声を聞いたのは、久しぶりだった。
「――もう、この海に、夢を見られない」
それは僕に対するエレンの詫び言だったのかもしれない。――『一緒に海を見よう』と、その願いは叶ったけれど、それだけが夢でなかったことに気づいてしまったから。
「……うん」
「この海を見たものは、この世界で一番の自由を手にした者だと、本当に思っていた。……けれど、考えていたよりも世界は広くて……そして、狭かった」
エレンがそう言葉を紡ぐ姿は、とても苦しそうだった。……エレンだって、本当は感動したかったのだ。そんな風に思って、僕はまた違う虚しさを抱いた。――そもそも、エレンが何かに苦しんでいたのだってわかっていたことだ。ただその正体がわからないから、この虚しさの矛先もわからなくて……もどかしかった。
「……アルミン」
切実な瞳でエレンが僕を呼んで、は、と僕は息を吸い込む。
――〝そのとき〟が来たのかと、儚くも期待を抱いてしまった。……エレンがまた、僕に手を伸ばしてくれるのかと。
「……なに?」
けれどエレンはぐっと言葉を噛み殺して、
「…………なんでもない」
やっぱり言うことを止めてしまった。
その頭の中で何が起こっているのか、僕がどれだけ知りたかったかエレンは知らないだろう。……けれどやっぱりエレンは、それを話さないと決めてしまうから、僕はどうしようできなくて……虚しさに戻ってくる。
「エレン……」
そのあと、どちらともなくテントに戻ろうと話が出るまで、さざ波だけがこの場で何かを囁いていた。
そのさざ波に飲み込まれてしまうほど、エレンの訴える声は小さくて、聞きたくても聞こえなくて。……僕はまた、〝そのとき〟を待つしかないのだと自分に言い聞かせるしかなかった。
【夢が一つ朽ちたお話】
「……アルミン」
アルミンが驚いて肩を震わせて、それから俺のほうへ振り返った。
波打ち際で夜空と広大な海の狭間を見つめて呆然としていたアルミンは、昼間みんなでいたときとは大違いで、ただ静かに佇むばかりだった。その姿を見て、俺はなぜか寂しさを覚えてしまっていて、……だから、少し気持ちが急く中でアルミンを呼んだ。
「え、エレン」
俺はそのままアルミンの隣まで歩み、そこで足を止めた。
「……海、見に来たのか」
本当はアルミンに『海が見られてよかったな』と声をかけてやるべきなのはわかっていたが……到底そんな気分にもなれなかった。
この海は……俺たちが抱いていた煌びやかな〝夢〟以上のものを、たくさん含んでいたからだ。この海に到達してしまうと、見えてしまう外の世界のことも。
「う、うん。君は……また、眠れないの?」
「……お前が起きるのがわかったから」
「……そう」
アルミンはしばらく俺を見ていたかと思うと、そそくさとその視線をまた海の向こうへ戻した。
親父の記憶で見たそのままの海――それでも寄せては返すさざ波の音を心地よく感じさせるものなんだなと、心に沁み込むように考えていた。広大で、美しくて、すべてを飲み込んでしまう……海。確かにこれは、何も知らない少年が夢に見るにはうってつけの宝だったのだろう。
――すべてを知ってしまった俺には、もう夢だけでは済まされなかった。
「……明日も早いから、寝たほうがいいんじゃねえか」
感傷に浸りかけて、そこから目を逸らすようにアルミンに声をかけた。アルミンは少し哀しそうに笑んで、
「……うん、もう少し見たら、ちゃんと寝るよ」
「そうか」
はっきりとそれだけを言って、また海を見つめた。
……俺はこの海を境に、おそらくその向こうのすべてを踏み潰す選択をする。あの日それを知ってから、片時も忘れたことがなかった未来の話だ。……だから、本当は少しだけ、海なんて到達しなければいいのにと思っていた。抗うことはできず、結局たどり着いてしまっとなだが。
そう、時間は流れていて……そうして、俺が見た未来も、刻一刻と近づいているのだと俺に思い知らせてくる。
「エレン」
唐突にアルミンに呼ばれて、俺は思考の海からここに舞い戻っていた。
「……なんだ」
尋ねると、アルミンは曇りが一つもない眼差しで俺を捉えた。――ああ、この……瞳……、
「……海、だよ」
その眼差し、その声、その言葉――すべてが混ざり合って、もうどこにあるかもわからない俺の心臓を殴りつけた。
得体のしれない何かに押しつぶされそうになって、逃げるようにアルミンから視線を外した。するとそこには、広大で、美しくて……そして、すべてを飲み込んでしまう、夢の塊が転がっていた。
「……海、だな」
湧き上がってくる感情を押し殺して、俺はそれだけを呟いていた。
アルミンはふ、と力を抜くように息を吐いて、
「……うん。それだけ」
諦めたように身体を翻した。
どっ、と俺を駆け上ってきたのは焦りのようなものだった。あのアルミンが吐露する、諦めのような息遣い。
アルミンに――いや、誰にもこのことは話さず、俺の中だけで完遂しようと……そう思っていたのに。その決意がぐらりと揺らいだ。
アルミンに……アルミンにそんな、諦めを覚えさせてしまったのは、誰だ? 俺の心の中にまだ必死に握りしめているあの日の光景の、その中心にある、アルミンの夢を見る瞳を思い出して、俺のせいなのかと苦しくなった。
違うんだ、アルミン、違う。本当は、俺が守りたいのは――、
「アルミン、俺は……」
俺も、お前と一緒に感動したかった。お前が喜ぶ姿を一番近くで見て、これが自由なんだなと笑い合いたかった。――けれど、その光景の中に、俺とお前以外はいてはいけなかったから。
この世界を知った時点で、俺はお前との約束も、夢も、叶わないと知ってしまっていた。
「――もう、この海に、夢を見られない」
「……うん」
「この海を見たものは、この世界で一番の自由を手にした者だと、本当に思っていた。……けれど、考えていたよりも世界は広くて……そして、狭かった」
せめて、少しでもわかってくれたら。俺だって、お前とずっと夢を見ていたかったこと。けれどもう……だめなのだ。すべてを知ってしまった。海はもう、俺の感情を動かすことはない。
「……アルミン」
溢れかえった情動とともに、俺はアルミンに縋ろうとした。一人で背負うと決めたのに、今さら揺らぐ。
――あの日から、俺は本来の俺というものを、ほとんど見失ってしまった。今はただ、〝俺〟という人間の残り香に、必死にしがみつこうとしているだけだ。あのときから変わらずに守りたいと思っている、お前たちのことだ……そして、きっと犯してしまう、許されざる罪が、待っている。――俺の頭の中に渦巻くこういうもののすべてを、俺はこともあろうか、アルミンに吐き出しそうになっていた。
「……なに?」
……けれど、何も知らない、その、純真で、綺麗な瞳を見てしまったら……思い出した。その瞬間に零れそうなくらいに溢れていた感情は、水を差されたように俺の奥底に引いていき、あっという間に俺は自分の愚かさに嫌気がさしていた。
これは、俺一人で抱えるべきものだった。
「…………なんでもない」
かろうじて言葉を飲み込んだ俺を見て、アルミンはどう思っただろう。
それでも俺は……アルミンにさえ、このことは話さないと決めたのだ。話したところで巻き添えを強いてしまうだけだ。
「エレン……」
アルミンが俺の名前を呼ぶ。……だがもう、その名前すら俺のものなのかわからなくなるときがある。その中で、必死に保とうとしている自我――愛する人たちを守り、そして自由を手に入れたいという自我に、俺は必死にしがみつくしかない。――そうすることで、アルミンやほかの愛する人たちを傷つけることになっても……俺はやる。やならければいけないことは、やるしかないのだから。
〝海〟の向こうに待ち受けている運命を、俺は睨みつけた。
俺の耳には柔らかなさざ波の音なんて、とうに聞こえなくなっていた。
【本当はわかっていたお話】
考えがまとまらない。
僕は崩壊した壁のことを思い浮かべながら、馬に揺られていた。
コニーが連れ去ったファルコという男の子を連れ戻すため、その友人のガビを先導してラガコ村に向かっているところだった。
半日以上も早く出発したコニーに追いつくのは大変なことだ。僕たちは馬に鞭打って全速力で走らせていた。
ただ、考えることはコニーのことではなくて、エレンのことだった。……僕は、エレンがジークの〝安楽死計画〟に賛同していないことはわかっていたし、僕たちの味方だということも疑っていなかった。
けれど、歩き出した壁の巨人はシガンシナだけにとどまらず……すべてだ。エルディア国を守っていた壁の巨人がぜんぶ歩き出したのだ。……これは予定と大幅に違っている。
――『エレンをどうするの?』
先ほどミカサに問われた質問が、僕の頭の中に何度も響いて考えろと促してくる。……でも、ミカサに言った通り、そんなことどうしようもないではないか。
壁の巨人はすべてが歩き出した。それがエレンの答えだ。……エレンは、僕たち以外の世界を踏み潰す選択をしたのだ。
……エレン、君はいったいどうして。
エレンと上手く意思疎通が図れなくなって、もう数年に及ぶ。その間にエレンはどんどん僕から離れていくように思えて、ずっともどかしかった。
僕はいつでもエレンに頼られてもいいように、ずっとそばに立っているつもりだった。……いや、今となっては、これはただの願望に終わってしまいそうだ。
エレンとずっと一緒にいたかったのは、僕のわがままだったのだろうか。どんどん遠くにいくエレンの姿を見る度、心の中に空いた穴がぽっかりと顔を出す。
――僕がこの世界で一番エレンを理解していなくてはいけなかったのに。僕が一番、理解していたかったのに。……なのに、エレンのことが、もうわからない。まるで雲をも掴むような気持ちになってしまった。
どうしてエレンはミカサを傷つけるようなことを言った? 明らかに僕たちを遠ざけるようなことをして。
「……っ」
そこまで考えて、ぼくの脳裏にはまたあの瞬間の情景が浮かんでいた。
広大な海を前にしたエレンが、〝敵〟のほうを指差している、あの情景が……。
……そうだ、本当はわかっていたのかもしれない。エレンが考えていること。だけど、その可能性を信じたくなくて、もうエレンのことはわからないと思い込もうとしている。そんな気がして、静かに血の気が引いていくような感覚になる。
――『向こうにいる敵、全部殺せば』――
いや、だって……まさか、そんな。
エレン、頼むからこれ以上一人で背負い込んで、走っていかないでくれ。……僕たちを――僕を、置いていかないでくれ。
僕はちゃんとここにいるから。いつでも君の手を握ってあげられるように、ここにいるから。
【***】
荒んだ大地に、柔らかで温かな風が吹き抜ける。
もうもはや何から視界を得ているのかわからない。
俺の足元には踏み荒らされた地面に滲む、人間の残骸が血の色でシミを作っている。
――ああ、俺は今、遂行している。俺がやりたかったもの。見たかった景色。……幼いころに、夢を見たものだ。
広大な大地、見渡す限りの大自然……俺たち以外に人間はいなくて。俺たちの行く手を阻むものは、何一つ存在しない。自分の大人の姿を想像できないから、俺は子どもの俺とアルミンがその壮大な景色の中で翼を広げるように、手を広げる様子を思い浮かべた。目が合って、ぼくたち自由だねって、アルミンが笑う。そんな……外の世界。……そうか、これが〝自由〟だ。
だがふと気づく。ここにアルミンはいないのだと。……そうか、思い出した。アルミンは、俺が置いてきたのだ。
――幼い俺はずっと、この景色に到達したなら一緒に跳ね回って、一緒に手を取り合って喜べるのだと……思っていた。これが誰にも侵されない自由だと、笑い合えるのだと思っていた。……けれど現実は違って、結局、俺の叶った夢と言えば、〝自由を手に入れる〟ことだけだった。気づかずに付随していたほかの部分は……叶わなかった。俺はただこの光景が見たかっただけではなかったのだと、この虚しさに理解させられた。
アルミン。……この広大な〝自由〟も、俺は一目見たらもう終わる。この先の記憶が見られないから、俺はおそらく終わるのだろう、〝この力〟とともに。それがわかっていても、俺はこれをしない選択はできなかった。
愛する人を守りたい。自由を知りたい。その、俺の原初的欲求に従った結果が、これだから。おそらく時間をやり直せると言われても、俺はこうしていただろう。
――アルミン。
お前は俺にとっての憧れで、初恋で、俺はお前になりたくて、お前の手を引いてやりたくて、背中を押したくて――そして、お前を確固たるものにしたくて。
そしてそれをしていいのは、ぜんぶ俺だけでありたかった。
アルミン、お前は俺の憧れのヒーローだった。誰にも汚させない。……俺自身にさえも。
勝手なことして悪かった。あとは頼んだ。俺の最後のわがままを、どうか受け止めてくれ。
【君を葬ったお話/懺悔の話】
もやの中に霞んでいく。
君を抱えたミカサの背中が、霞んで、見えなくなっていく。
すべてが終わったのだと実感するにはまだ時間が足りなくて、実際まだここから別の戦いが待っていたのは明らかだった。
いつまでも、君の亡骸を抱いた凛とした背中を見送っていたかった。……けれど僕には、まだやるべきことがあるから。
僕は涙を拭って、前を向いた。
ミカサはいつものようにいやに冷静で、わんわんと声を上げて泣いたのは僕のほうだった。……これ以上情けない姿を君に見せるわけにはいかない。
――君とずっと一緒にいたかった僕の願いは、ついぞ叶えられなかったけど、君のそばにいたかった僕の願いは、叶っただろうか。君が手を伸ばしたときに握り返してあげられる、そんな僕でいられただろうか。
――『エレン、ここにいたんだ!』
幼き日のことを思い返す。その日も君は世界に対してつらなさそうにしていて、けれど、僕は興奮を抑えられなかった。
僕が君の前に横たえたのは、なんだったろう。
――君に〝自由〟を教えてしまったのは、他でもないこの僕だった。……それを知らなければ、君はここで命を絶たれるようなことはなかったのだろうか。
君をこの道に歩ませてしまったのは僕だったのかもしれない。そうして、君の苦しみに気づけなかったのも、君を止められなかったのも……ぜんぶ僕だった。
けれど、やっぱり〝自由〟を知らない君は、君ではなかっただろうから。……僕は後悔はしない。君とともに追いかけた夢。すれ違いに終わってしまった夢だったけど。その代わり、君が遺した最悪の過ちを、忘れずに僕が背負って、そして、伝えていく。
僕のこの身で、世界と向き合っていくから。……今度は君が僕のことを、そばで見守っていてくれよ。エレン。
おしまい
あとがき
ご読了ありがとうございました……!
こんなに……長いのに……!(もはやお馴染みの挨拶)
エレンとアルミンを語らずしてしんげきは語れないなと思っていたので、
今回全力で向き合ってみることにしました。
エレ→アルに抱いてる強烈な憧れや劣等感の理解度を深めたいという趣旨から始まりました。
完全に自分用だったんですけど、もったいない精神であげました。
いかがだったでしょうか……。
たぶん私の小説で初めてなんですけど、「ぼく」ではなく「僕」で書きました。
今までこだわりがあって「ぼく」だったんですけど、原作もぜんぶ「僕」だし、
なんとなく今回はこうしてみることにしました。
これだけ書いたらさすがに慣れました!笑
本当は一つ一つにあとがきつけたいところなんですけど、長くなってしまうので特別書きたいお話だけ。
【そばにいないお話】
こちらは、本当は、エレンのそばにいたくて兵舎を抜け出すアルミンサイドも書こうと思ったんですけど、アルミンサイドがどんどん増えていくので止めました。このとき、エレンのそばにいたくて、同じようにさ迷っていたアルミンがいたのかもしれないと妄想していただけると嬉しいです。
【君を葬ったお話/懺悔の話】
ここでアルミンが『僕が自由を教えなければ』って思っていますが、これはあくまでミンの思い込みかな……と私は思います。ミンがあのときエレンに自由を教えなくても、きっとエレンは関係なくこの道に進んでいただろうなと。……でも、アルミンがそれに責任を感じていたら私が転がるなと思って、このように描きました。
改めましてご読了ありがとうございました!