新月の行方
秘めたまま持ち続けている想いに、意味なんてないのかもしれない。『どうせ叶えられない気持ちなら、果たせない想いなら、一体なんの意味があったんだろうな』と、ジャンは言った。
――これはぼくの勝手な確信だけど、ジャンは初めてミカサを見たその日から、ミカサのことが好きだったんだと思う。……そしてぼくも、一目惚れではなかったけど、気になっている人くらいはいたんだ。残酷な世界の流れに、簡単にその想いは打ち砕かれてしまったけど。
「――……んっ、おい、ッン」
「ジャン……、」
……なのに、ぼくはこの極限状態で、気でも触れてしまったのだろうか。確かめようとした肌の温もりよりも、吐息の温度だけをやけに熱く感じる。新月近くの暗い月明かりの夜――……秘めたまま持ち続けていた想いに、意味なんてなかったのかもしれない、ぼくはそうぼんやりと考えていた。
いつだってそう、確かなのは、この手に触れられるものだけ。
*
その晩、ぼくは寝つけなかったので、夜風に当たろうと兵舎の中庭まで散歩をしていた。
もう間もなくウォール・マリア奪還作戦のための準備が整う頃合い、明日は一般の兵士は調整日となっている。なにより、ぼくとハンジ分隊長で進言した新月は三日後に控えている日で、三日後の日暮れまでに準備が整っていなければ、この作戦自体が一ヶ月先送りとなってしまう日付だった。
まだそこかしこで人の気配はしている。なにも眠れない兵士はぼくだけではないらしい。例えば、これまで最前の死線をくぐり抜けてきた者は、明後日に待っているであろう新たな巨人との開戦にためらい、また人類の大いなる反撃のその瞬間を夢に見ている者は、目の前で迎えるであろう新しい時代の気配に興奮して、目が冴えていた。
ぼくはというと、眠れない理由なんて両手の指では足りないくらいはあったように思うけど、中でも友人のことが心配で落ち着かないのが最も大きかった。――友人エレンは、人類の希望に間違いはない。……だけど、日に日に口数を減らしていく友人を見ていると、人類の進撃を純粋に期待することは到底できなかった。
兵舎の窓から漏れている光が、一つ、また一つと消えていく。夜の散歩もそろそろ潮時だろうかと嘆息をこぼしながら、いい加減に自室に戻らなければいけないことを受け入れた。結局のところ、部屋にいても落ち着けないけれど、中庭の周りを散歩していたところで、それもまた然りだった。
最近までは訓練兵時代とそう変わらない、新兵たちが大勢で寝泊りする、いわゆる大部屋にいた。だけど、ヒストリアが女王として即位してからというもの、ぼくたち特別作戦班……いわゆる新リヴァイ班には、一人一人の個室が当てられていた。
扉の前に立ち、宵闇の中でもわずかな光に反射する名札を見上げる。……しっかりと自分の名前であると確認したのち、そこに踏み入れた。
――トントン、
扉を締めて二歩ほど進んだところだった。ノックした音が聞こえ、ぼくは思わず息を殺して振り返る。
そんなぼくの様子なんてつゆ知らず、扉のノブは勝手にゆっくりと回転していき、金属の静かな摩擦音とともにそれは開いていった。
できた隙間から廊下の小さな照明の灯りが漏れ込み、そこに覗いたのは、
「……ジャン?」
ジャンの顔だった。
同期として調査兵団に入団したジャンは、もはや残り少ない同期となっていた。同じ兵団に入ったことで訓練兵時代よりはよほど会話をするようになり、作戦決行前後には巨人についての考察を語り合うこともある。ぼくもジャンも考えることや、考えたことに対する率直な意見を聞くのが好きで、よく互いの話し相手をしていたのだ。だからといって、寝つけないから付き合えよ、なんて言い合うような仲ではなかったと思う。そこにはいつもなんらかの理由が設けられていた。
「どうしたの? なにか気になることでもあった?」
「あ、いや、お前を廊下で見かけたんだよ」
静かに扉を開いたときと同じように、音を殺しながらぼくの部屋に身体を滑り込ませた。周りに気を使っているのか、とても静かな声遣いだ。
「……眠れねえのか?」
カシャン、と扉の金属が噛み合う音が続く。
「あ、はは、うん。……情けないことにね」
兵団の作戦にまで意見を採用してもらっているというのに、肝心のぼくの肝はいつまでも据わらない。
だけどそんな泣き言には興味もないのか、ベッドに腰を下ろしていたぼくに、ジャンはまっすぐに身体を向けた。
「お前こそ、なにか気になることがあるのか?」
「え、ぼく? 特にないけど……明日には準備が整うでしょう。そうしたらすぐにでもウォール・マリア奪還作戦は開始されるから……」
「……緊張してんの?」
「……それも、あるかも」
「それも?」
どうやらなにか話したいことがあったわけではなく、ただ心配して様子を見に来てくれたらしいとは、ここで初めて気づいた。
目の前に立ったジャンを見上げ、少ない月光が照らす案じる表情からわざと目を逸して笑う。
「ううん、もう夜も遅いからね。ジャンも休んだほうがいいよ」
「は? おいおいおいおい、」
おやすみと伝えるよりも前に勢いよくぼくの隣に腰を下ろし、硬めのベッドを揺らした。
「今さら水くせえな。見りゃわかるだろ、俺も寝つけねえんだよ」
少しだけ苛立ちを覗かせる瞳に、薄い月の光が加わる。若干勢いに押されながらも、ジャンの瞳の色とよく馴染んでいる月の輪郭に気を取られてしまう。
「こんな時間にうろうろしてるお前を見かけてこんなところまでのこのこついてきたのがいい証拠だ」
いかにも面倒だと語るような仕草で体勢を整え、ぼくが示す反応を盗み見るようにして笑った。
「……あはは、まあ、確かにね」
ジャンの言うように、彼自身、とても目が冴えてしまっているのだろう。おそらくは先ほど考えた内の前者に当たるジャンに、ぼくは思い当たる節があることを、苦笑を用いて伝えた。
「だから、あんま気にすんな。お前の話を聞いたあとに、俺の話にもたっぷりと付き合ってもらうからよ」
見せた笑みは明らかにぼくに気を使ってのものだったけど、ぼくにはそういうことはできないから、ジャンの器の大きさに純粋な好意を抱く。どうやったら、緊張していながらこんな穏やかに話せるのだろう。不思議だ。
「……ジャンはやさしいね」
「はあ?」
「もしいつかミカサが君の気持ちに気づいて応えるようなことがあっても、君ならぼくは安心して任せられるよ」
そうやって笑いかけたのに、ジャンは低く「あ?」と唸り声を上げ、しばらくぼくを睨みつけた。その胸中を計り知れなかったぼくの前で、今度は「うるせえよ」と月に睨みの対象を変える。
思惑と違う辛そうな横顔を見た途端、どん、と心臓が強く波打ち、たちまち驚きに目を見開いた。ジャンを喜ばせるつもりで言っただけだった……けど、どうやら傷つけてしまっていたみたいだ。
……いや、ぼくは、なんてことを言ってしまったんだ。やはり少し緊張して頭が回っていないらしい……だって、
「……ごめん、そうだね」
よく考える必要もないほどに明確だった。ぼくが今勝手に売ったのはミカサだったからだ。ミカサに限ってそんな日が来るわけがない。できもしない期待を押し付けるところだった……ジャン、ごめん。
俯いたぼくにつられてその場の空気が淀んだように感じる。ぼくもジャンも言葉を探して、時間を少しだけ浪費してしまった。
「……で、どうしたんだよ」
改まって互いのほうに顔を傾けたけれど、それはジャンのほうが瞬きほど先だった。
今や気の許せる同期は少なくなり、それだけでも絆を大事にしなければと思うには十分だ。せっかくジャンが聞いてくれると言うのだから、思い切って今の心のもやを吐き出してもいいだろうか。
「……うん、エレンだよ」
情けないほど頼りない声になってしまい、膝の上においてあった手のひらで、重くなった視線を受け止める。
「おう、あいつがどうかしたのか?」
それまでと変わらない調子でジャンは相槌を打ってくれた。
ジャンはいつもミカサを見ているはずだから、エレンの変化にもきっと敏感だ。ミカサに変化があれば、エレンを見るだけでそれがどうしてなのか、一目瞭然なことが多いから。
膝の上の手のひらで少し遊んでから、
「ジャンなら気づいているかもしれないね。エレン、ここのところ表情がなくなってきたと思わないか」
「表情?」
ちらりと視線を上げて、聞き返すジャンに改めて語りかける。
「うん。なにか……巨人についてぼくたち人類がなにか情報を掴む度、一歩進む度、エレンの表情はどんどん静かに死んでいっているように……ぼくには見えるんだ」
ジャンは特になにも言わなかった。その瞳が少し動いたのを見ると、どうやら思い当たる節があるようではあった。
「そうだよね、」
暗がりの中で薄く光を照らし込んでいる、この部屋唯一の窓を見る。顔を上げたら、たまたまそこにあったからだ。
「どうやらこれまで巨人になった人たちの記憶を引き継いじゃうらしいからね。いったいエレンの中に、何回分の不幸な人生が渦巻いているかなんて、ぼくたちには計り知れないんだ。そして、それはきっと、なにもしなくてもこれからどんどん増えていく」
ヒストリアに触れる以外にも、記憶の蓋を開くきっかけはそこかしこに散らばっているはずだ。もうそれらからエレンを守ることなんてできないのはわかっているけど、叶うならこれ以上エレンの無邪気な心を、知らない人たちの不幸な記憶で塞がないでほしいと願う。
……もちろん、エレンが巨人化できる力を持っているのだと知った当初は、ぼくも大いに甘えさせてもらっていた。けれど〝エレンという個〟が霞んでいくのだとわかってもなお、嬉々としてそれを見守ることは難しい。
「だからね、ジャン」
もやもやとしたものが、胸の中で加速する。言葉にしてしまったから居心地が悪いのだろうか。文句を垂れるだけで、なにもできない自分の歯痒さが膨張しているのだろうか。……きっとどれも当てはまるのだろうけど、ジャンはまだ隣に座って静かに聞いてくれている。体温の高そうな手のひらが視界に入り、彼がまだそこにいることを確かめた。
「……ぼ、ぼくは、『人類の中の一人』じゃなくて『エレンの友だち』として、エレンが心配なんだ。ウォール・マリア奪還作戦が成功したとして、また新しい事実がわかってしまったら、その分またエレンに負担をかけてしまうんじゃないかって」
「……なにも、負担がかかってるのはあいつ一人にじゃねえだろ」
唐突にジャンが首を突っ込んだ。現実に引き戻されたような妙な浮遊感を経験しながら、ぼくにはエレンが初めて巨人化してからこれまで、エレンを守り殉職していった同胞たちのことが思い出されていた。
「……それは……そうなんだけど」
だけど、ぼくは『エレンの』友だちだから、
「まあ、確かに?」
またしてもなんの前触れもなくジャンが言葉を挟む。
「最近あの野郎には張り合いってもんがねえよな?」
「え?」
ジャンの言い分には、短い間だけ頭が真っ白になった。まるで情報を探して神経が身体の中を駆け巡っているようだ。
ジャンは拳を反対の手で覆い、関節をぼきぼきと鳴らしながら、肩を慣らす真似をして見せた。その生き生きとした表情には見覚えがある。元気のいい怒声と一緒に、エレンを引っ掴むときのものだ。
「そうか、そういえば最近はジャンと取っ組み合いしてるところも見ないもんね」
そしてそれを、懐かしいと感じてしまった。
「……変だな、訓練兵時代はあんなにハラハラした気持ちで君たちの喧嘩を見ていたっていうのに……今じゃ、少し恋しいよ」
「……そうか」
「うん……」
また居心地の悪さを感じてしまい、思わず項垂れるように重心を落としていた。
訓練兵時代は、エレンも自分が巨人化できるなんて知る由もなかったし、無邪気に壁の外に憧れることができていた。だけど残酷な世界は、ぼくらが自分たちの力で道を切り開いていく度に、なにかしらの罠を仕掛けて待っている。まるで、待ちくたびれたぞ、とでも言いたげに、逃げ場を塞ぐようにぼくらの前に立ちはだかる。
「……まあ、なんだ、アルミン」
ぽん、と軽く温もりが肩に乗り、ぼくはいろんなことを思い出して頭を上げた。どうしてだろうか、忘れていたわけではないのに、この部屋にいるのは一人ではないとひどく強く実感していた。相変わらずジャンの瞳には、薄い月の輪郭がはっきりと浮かび上がっている。
「悪りいが気の利いた気休めなんか思いつかねえ。確かに俺たちには想像もできないほどの重責があるんだろうからな。……だがな、そんなの、あの死に急ぎ野郎にはぴったりじゃねえか」
「ええ?」
「これであいつも少しは慎重になるんじゃねえの」
鼻息を荒くして腕を組んだジャンは、まるで説教でも垂れているようだ。その発想と大真面目な顔つきに、思わず不意打ちを食らって頬が綻ぶ。
「……あはは、ジャンは面白いなあ」
「それに」
「うん?」
その『大真面目な』言葉は、また静かに続けられた。
「そんなもの意に介さねえほど、あいつは人類の自由を欲してやがる」
まっすぐとぼくに見せる眼差しは、誰かに信頼してほしいときに見せるそれとよく似ていた。
「……大丈夫だぜアルミン。巨人が壁の外で好き放題している間は、あの死に急ぎ野郎の心臓は何回殺したところで死にやしねえよ」
普段ならふざけながら言いそうな言葉でも、今だけは嘘はないと思わせる力を持っている。……それは、いったいどれほど心強い言葉たちだっただろう。
「……うん、そうだね」
ぼくに寄り添うように入り込んで、ほかほかとした体温に変わっていく。
「……だから俺が思うにお前はな、」
「うん」
「心配するのもいいが、あいつが直視させられているであろう『他人の悲劇』に負けねえような、そんなきらきらとした〝自由の話〟を、話して聞かせてやればいいんじゃねえか。あいつが忘れちまわねえように」
――うみ。
ごおっと吹き抜ける風を伴うようにして、ぼくの中に情景が広がる。何度も何度も、小さいころから想像を膨らませた『海』という未知のものが、ぼくにあの興奮を思い出させてくれた。……そういえば、もうしばらくエレンと壁外の世界の話はしていなかったっけ。
いつの間にか余裕をなくして、いちばん大事なものを埋もれさせてしまっていた。無邪気な心を塞がれていたのは、エレンだけじゃなかったなんて、なんで今まで気づけなかったんだろう。
「うん、ありがとうジャン。君ってすごいよ」
ぶり返した興奮と感動で持って顔を上げて、その勢いのままジャンに食いついてしまった。ジャンは仕方なさそうに綻びながらぼくの身体を押さえ、
「ああ、そうだろうよ知ってたぜ。このジャン様にかかればこれくらいのこと」
いたずらっぽく笑った。
――あれ?
ここで小さな違和感を抱く。こんなにもこの夜は明るかったかと振り返る程度には、ふわふわとした柔らかい明かりがぼくたちを取り囲んでいた。勢い余って迫ってしまっていたらしく、目測よりも近かったジャンの瞳には、やっぱり薄い月明かりがあって、それがより輝いているようだった。
どくん、とまたぼくの心臓は強く波を打つ。……ぼくの中で、なにかがおかしな挙動を見せた。いや、思い当たる節はあったけど、あえてその可能性からは目を背けて、体勢を改めて笑んでみた。
「じゃ、き、君の番だよ」
なるべく今抱いた違和感を悟られぬように、努めて明るく振る舞う。
「ぼくの話を聞いてくれたあと、君の話も聞くって約束したじゃないか」
まるでぼくが藪から棒に提案したように、ジャンはなんのことだと見つめ返していたから、思い出せるように促してやった。そのままじっと様子を窺っていると、ジャンの視線が気まずそうに逸れていく。
「ああ、あれか。……んー……なんだっけな、忘れた」
「え、うそでしょ?」
そんなわかりやすくて大丈夫だろうかと心配してしまうほどだけど、そういう素直なところがジャンの憎めないところの一つではある。
……とにかく、先ほど、ぼくが話しやすくなるように『話を聞いてもらう』と笑ったのはわかっていたけど、それでもこの表情を見れば、なにがジャンの中で睡眠を妨げていたのかはおおよそ見当はついた。
「……ミカサのこと?」
「な、なんでそうなんだよ」
「え、いや、ごめん、なんとなくだけど」
名前を言ってみたときに明らかにくすぐったさを隠そうとしたことでぼくは確信する。兵士と言えどぼくらはお年頃の少年少女で、ジャンが抱いているものはきっと、人類が忘れていい最後のものだ。
とりあえずジャンの胸中が穏やかではないことが見て取れたので、しばらくそのまま考えがまとまるまで待ってやる。だけど頭の回転の速いジャンのこと。おそらくまだなにもまとまっていないだろうに、は、とその口が言葉を紡ぐために吸気してみせた。
「ていうかな、俺がミカサに片想いしてんの、普通にみんなにバレてんだよなあ」
なにを今さら、との呟きを内心に留める。
「うん、ジャンは普段からミカサを見すぎだしね。隠す気ないのかと思ってたよ」
「まあ、ねえけど」
「はは、男らしいね」
「だろ」
「うん」
さらさらと会話は流れていき、あっという間に終わりを迎えてしまった。
きっとジャンは『話を聞いてもらう』と言ったときには、本当にミカサのこと、あるいはそれに関するなにかの考えごとについて話そうと念頭にあったのだと思う。だけど、ぼくの話を聞いている間に冷静になり、話すのが照れくさくなってしまったに違いない。ぜんぶぼくの想像だけれど。
一度終わりを迎えてしまった会話は、再び入り口を求める。二人してそれを静かな暗闇の中でそれとなく探し、だけどぼくはやっぱりジャンがなにかを言いたかったのではと待ちたい気持ちを大きくしていった。少しでもなにか分かればとジャンを盗み見れば、ちょうど同じようにぼくを盗み見ていたらしいジャンと目が合ってしまう。下手な恋愛喜劇のように慌ててまたそれぞれ視線を散らし、ぼくはようやくそれが薄い月に落ち着いた。
「なあ、アルミン」
「うん」
ジャンの視線も、ぼくが見ていたのと同じ明かりを捉えたようだった。
「お前、好きなやつはいるか?」
いよいよジャンは、引っかかっているものを話してくれる心構えができたらしい。
単刀直入に尋ねるものだから、ぼくの中では少し前までそれに当てはまっていた彼女の横顔が浮かび上がる。同時にきゅっと心臓が捩れるような感覚を捉えたのはなんだろう……ぼくはもう彼女へのこの気持ちは捨てるべきだと、心に決めたつもりでいたのに。そう、あれはもう過去の気持ちだから……無邪気だったころの、幼く、淡い、気持ちだったから……。
「……うん。……好き、かはわからないけど……とても気になっていた子なら……いたよ」
「……そうか」
誤魔化す必要を感じていなかったぼくは、ありのままをジャンに伝える。……いや、本当は、人知れず切り捨てた気持ちでも、誰かに知っておいてほしかったのかもしれない。そこへ絶好の機会が転がり込んできたからこんな……、
「なんだろうな」
身体中がその亡霊のような想いで溢れそうになっていたとき、ジャンのはきはきとした声がそれを止めた。
「別に自分が短命なんて思っちゃいねえし、ましてやこの人生を恋愛だどーだに費やすつもりは毛頭ないぜ。……だけどな、たまに、本当にたまにだ、どうせ叶えらんねえ気持ちなら、果たせねえ想いなら、一体なんの意味があったんだろうなって……思っちまってよ」
「……うん」
またしても、彼女の揺れる髪の毛がちらと浮かぶ。……兵士という道を選んだのだから、それは覚悟を決めなければならない……とか、そんな野暮ったいこと、ぼくだって言いたくはない。けれど、それはこの残酷な世界の中で、鉱石のように執拗な事実ではあったのだと思う。
「フランツやハンナみたいに、早くから互いの気持ちに気づいて時間を惜しむことができるやつらはいるが、そういうやつらは早死んだ。そんな中でよお、巨人しか見てねえエレン、そんなエレンしか見えてねえミカサ、そしてそんなミカサを見てしまう憐れな俺みたいなやつ……こういうやつらに限って、なかなかくたばらねえんだよなあ……」
ジャンの言いたいことは、なんとなくだけれどわかった気がした。だからこそ、ぼくは返す言葉を見つけきれずに、ただその閑やかな横顔を見ていた。まっすぐに月に向かっている。
こんな風にジャンのことを見たのは初めてだった。……ついさっき気づかぬふりをしたはずの、少しおかしな心地が蘇る。とくとくと心臓はこれまで通りに規則正しく波打っているというのに、少しずつその音は色を帯びていく。……もしぼくがジャンに好意を抱いていたとして、ぼくは今、その気持ちを『なかったことにする』という選択を捨て去る、絶好の機会を掴める距離にいる。それが不思議だった……そして、またとない稀有な機会のように思えた。
は、と見ていたジャンの瞳に意志が戻り、ぼくをその視線で捉えた。つられてこちらの意識も透き通るようにはっきりとする。
「悪い、なにか言ってほしいとか別にねえ。お前みたいに自分の中にあるもんのこと、まだちゃんとわかってねえんだ。……だから、別になにも言わなくていい」
そう言ってはいるものの、当の本人の表情は少し曇っているままだ。……先ほどまでふわふわとよくわからないことを考えていたぼくには、結局なにもいいことを言ってやるなんてできない。
「うん……ごめん……。ぼくは、あんなにジャンに気持ちを楽にしてもらったのに」
「だから気にすんなって。いつものことだ、また朝になればすっきりしてるんだろな」
呆れるようにジャンは笑ったけど、表情はほぐれていたから深追いはしないことにして、短く「そっか」と相槌を入れるに留めた。そしてそれを言い終わるか否かのタイミングで、ジャンは乱暴にその重心を前に起こした。
「って、ことは、俺はいらねえ話をしちまったな? 悪い、やっぱもう寝ねえとな」
そこでついた勢いを使い、いそいそと立ち上がる。どうしてそんな逃げるように行動するのだろうと焦り、
「ジャン、」
「なんだ」
思わず扉の前で呼び止めてしまっていた。
ぼくが楽にしてやれる言葉をかけられなかったからだ、ジャンの表情はまだ、いつもの調子を取り戻していない。けれど実直にぼくを見ているその視線に、またとくとくと心臓が音を響かせ始めた。……本当に変な気持ちになってきている、ジャンを見ているだけなのに。どうしてだろう、今ならフランツとハンナのように、手が届くから……?
「――……人肌ってさ、温かいのかな」
なにか言わなきゃと焦ったのもあったかもしれないが、ぼくは少しの脈略の中からそんな言葉を紡ぎ出していた。……先ほど、体温が高そうだなと思ったジャンの手のひらが視界に入り、再びジャンの瞳を見返すと、ジャンは盛大なため息ととともに力をすべて吐き捨てた。
「……はああ。……あのな、悔しいけどな、それは俺もまだ知らねえことなんだよ」
「……そうだよね……」
ジャンは心から悔しそうにしてはいたが、いつものような元気はないままだった。……またしても、だけど今度は並外れて大きく、この心臓はぼくを打ちつけた。まるで今だと急かされているみたいだ。……ぼくの心臓はいったいなにを急かしているのだろう。
次のウォール・マリア奪還作戦が始まれば、かなり高い確率であのライナーとベルトルトと戦うことになる。そして今回もきっと、誰かが生きては帰れなくなるのだ。
そう脳裏を過ぎったことで、ぼくはこの心臓がなにを後押ししたかったのか、薄らとわかった気がした。ぼくの中に一度は渦巻いた彼女への過ぎた想いはきれいな霧となって充満し、そしてやがて再び晴れるとき、ぼくの視界にはなぜかまったく別の人がいる。……いや、そんなはずはないと、器用に自分を否定しながら、
「死んでからじゃ、わからないから」
そのままジャンを見上げ続けた。
そんなはずはないと思いたかったのに……ぼくはおかしくなってしまったのだろうか、今ここで、ジャンに触れてみたいと思ってしまった。……そう、だって。ぼくらはまだ、手の届く距離にいる。
「死んでからじゃ、わからないからさ。今ここで、」
一歩後ずさったジャンも、なにかを察して動揺したにも関わらず、そこに立っていることをやめなかった。
「ぼくと試してみない、か、」
自分がなにを考えているのかと深く思慮するよりも先に、
――『エレンとばっかつるんでて気持ち悪いって――』
ジャンに誘いをかけるつもりだったのに、そこでハッとした。そう言えば数ヶ月前、ジャンはエレンとばかりいるぼくを気持ち悪いと言っていた。……それについて深く考えないようにしたつもりでも、つま先から頭のてっぺんまで、ぽんっと弾けるように恥ずかしさがこみ上げた。
「あ、ああ、あはは、なんて、冗談だよ、ごめん、」
どくどくどくどく。誤魔化そうとしてみたものの、
「忘れ……て……って、ジャン?」
心臓の音はどんどん大きくなるばかりだった。
それもそのはずだ。目の前にいるジャンはぼくを見下ろしたまま、ひどく苦しそうな顔をしていたのだ。ともすれば切なげにも見える、なにかを必死に食い止めようとしているその姿に、あっという間に羞恥と類似するすべての感情は振り払われてしまった。
ぼくはいても立ってもいられなくなり、引かれるままにジャンのもとに歩み寄る。
「あ、あの、……え、と、」
その目を間近で覗き込んだが最後、もうだめだと悟った。
ぼくは立ち止まって動揺したままのその唇に、自分のを重ねていた。……もちろん初めてのことだ。両親の口づけの感触はとうの昔に忘れてしまったから、ジャンの味気ない唇でも、とても印象的に思える。柔らかくて、薄くて、緊張のせいなのか少し乾いていた。
悲しいことに、口づけをするために背伸びをしなければならなかったぼくは、一つのふれあいのあとに、すぐに重心を元に戻してジャンを見上げた。
「……ジャン、その、」
唇を奪う前より、ジャンの動揺は色濃くなってはいたけど、その眼差しだけはなにかを訴えるように欲していた。急いで俯いてそこから視線を放したのは、最後の理性を振り絞ったからだ。
「ぼ、ぼく、今、とても変な気分なんだ。い、嫌だったら殴り飛ばしてくれていいから……ぼくには君に勝る体力も、腕力も、ないんだし」
悔しい気持ちはほんの一握りだけだった。それよりも、抵抗する様子が一切見られないことに、自分でも理解ができない期待を抱いていたように思う。
動かないジャンに対してもう一度唇を重ねようとして、つま先に力を入れた。つい今しがた感じた柔らかさがまたしてもそこに触れ、ちゅ、と重なっていた事実を残すように音を立てながら離れた。
「……ジャン?」
その口元を見れば、震えるように小さく息を吸う。
「ちょっ……ちょっと、黙ってろ」
「え? あ、ご、ごめん……」
思わぬ反応が飛んで出てきたため、慌てて口を閉じる。
さすがにこれはまずかっただろうか。目前の同期は、こんなことをされるなんて可能性の一端としても考えていなかったに違いないのに、ぼくはなにをこんなに動転しているのだろう。
自責しているはずでも、じっと見つめているのはジャンのその唇だった。ときどき動揺の色を濃くしていた瞳も覗いていたから、だいだいいつジャンが答えを出したのかはわかったと思う。
ジャンはしばらく目を泳がせたかと思うと、最後にぴったりとぼくの瞳と光を重ねた。
「な、なんだ、その……。お、俺も、興味が、なかった、わけじゃ、ねえから……」
誰に対してなのか、言い訳をするように落ち着きなく説明してくれた。……つまり、ぼくが今こんなにもジャンを欲してしまっていることを、ジャン自身も受け入れてくれるのだと解釈してもいいのだろうか。そこまで考えを及ばせていると、
「……死んでからじゃ、わかんねえから」
今度はジャンのほうからぼくを誘うように、その唇を震わせていた。途端に息を合わせたように互いに腕の中に誘い込み、先ほどよりもしっかりと二つの唇は噛み合って、そして互いの体温がどんなものかと確かめ合う行為は始まった。
「うん……うん。んっ、ジャン、」
「アルミンッ、ぁ、んッ」
月明かりだけが頼りのこの部屋の中で、ぼくとジャンは非日常とも言えるおかしな心地を終始経験していた。地に足がつかないような、ふわふわとした感覚と戦いながら、それでもどういうわけか、互いから少しも離れることができない。……ジャンはミカサが好きなはずで、ぼくだって違う彼女のことが好きだったはずなのに。これまで経験したこともないような甘く心地のいい痺れが、毎秒身体の中を駆け巡るような爽快感に溺れていった。
「ジャン、ん、じゃんっ」
「はっ、ふ」
いつも発音しているはずの名前が、とても新しく思える。
唾液を混ぜ合うことに飽き足らず、足元がふらついてそのまま二人でその場にへたり込んでしまった。先に膝から力が抜けて腰を落としてしまったのはぼくで、そのあとにジャンが追いかけてくる。下手くそに床の上に座り込み、下手くそに足を絡め合いながら互いの唇を濡らし続けた。熱い、熱い、ジャンの吐息を、とにかく溶けそうなくらいに熱く感じていた。こんなことなら、果たして肌と肌が触れ合った日には、いったいどれくらいの温もりを知ることができるのだろう、そして、どのくらいの温もりが、ぼくたちの間から生まれるのだろう。
そう、ぼくたちは肌のふれあいの温かさを知りたいという名目で、こんなふれあいを始めたことを思い出した。おそらくジャンもぼくと同じように、意識が少しふわふわしているんじゃないだろうか。薄らとまぶたを上げると、当たり前だが目の前にはジャンがいて、その薄くて形の綺麗なまつ毛が、ほんの少しの結露のような水滴を持っていた。
ぼくは寝るために着ていた部屋着の上着を脱ぎ捨てて、勢い任せにジャンの頬をこの手のひらで包み込んで引いてやった。
「んんっ」
「ッふ、」
その拍子にベッドにもたれかかる体勢になったぼくに、ジャンは覆いかぶさるようにして身体を安定させようとした。ジャンの身体の厚さとは比べ物にならないくらいぼくは貧相だけど、それを守るように身体を寄せられるのは心地の良いものだった。
その目尻に溜まった涙を親指の腹で拭い、いつの間にかそこにあった愛おしさを詰め込むようにジャンの頬を撫でながら吐息を交わしていた。何度も互いの体内の温度を測り、そして味わう。ジャンの後頭部の刈り上げが指先に触れる度にさわりと撫で、こんなに触れ心地の良いものだったのかと、少し面白くも思った。
……けれど遅からず余裕は消費され、それらだけでは足りなくなる。ぼくはジャンの上着の中に手を入れ、そしてその引き締まった身体を同じように撫でて回った。心地のいい温度と新しい触り心地を、よくよく確かめるように滑らせた。何度かジャンがびくついていたけど、気づかないふりをしてまで。
ジャンは暖かかった、いや、熱かったと言っていい。苦しそうな息遣いや、度々涙によって濡らされた目元……それらを見つける度、きっとジャンもぼくを燃えるように熱く感じているのだろうと智覚……あるいは、錯覚した。
触れれば触れるほど、自分の好奇心が重なり合っていくのがわかる。しばらく口づけをくり返した口元は、もはやどちらともつかない唾液で濡れていて、互いに触れたい放題だった素肌は、すでに火照りきっていた。
これ以上はなにかをしたくても、なにをすればいいのかわからない。そうやってぼくは、この行為の引き際を悟る。
「……ジャン、」
吐息の間に名前を滑り込ませると、ジャンの意識が少しぼくのほうに傾いたのがわかる。
「ジャン、」
もう一度呼ぶと、今度は互いに初めて知った柔らかい感触が、ゆっくりと離れていった。ぼくだけではなく、ジャン本人も今の自分の状態に戸惑っていた。困り果てたような顔つきで、ぼくがなにを言うのか待ち構えている。
危うくまた唇を重ねそうになったけど、自分を騙すためにわざと笑みを作り、ジャンと向かい合う。
「……よくわかったよ。ジャン、ありがとう。もう、寝よう」
「……そう、だな……」
静かに零しながらぼくの上から身体をどけて、一旦腰を落ち着けてから体勢を整えていた。
これから部屋に戻るために乱れた寝間着を整えてから、今度はぐしゃぐしゃとぼくにたくさん触られた髪の毛に手櫛を通していた。ぼくもベッドの上に投げ捨てておいた上着を肩にかけ、改めてジャンの身支度を見守る。
何度も何度もその身なりに落ち度はないかと確認している。そわそわと落ち着きがない様子を見るのは楽しく、ジャンもこんな風に身なりを整えるのかと興味津々で見てしまった。その内、これは照れているのだとわかり、意識してぼくのほうを見ないようにしているのだと理解した。
「……ジャン、」
敢えて注意を引くように、ぼくはその名前を呼ぶ。ちらり、と控えめな視線が飛んでくるから、ぼくはいつもの豪胆なジャンを思い出して、その差に打ちのめされてしまった。まさか、ジャンというこの男が、こんなしおらしく愛らしい一面を持っていたなんて、誰がそんなことを思うだろうか。……ぼくは知ってはいけないものを知ってしまったのかもしれない。丸々と大きくつばを嚥下した。それはとても……とても……、
「……とても、かわいかった」
抑える必要を感じなくなって、ぼくはわざと本人にそう伝えた。そう言われたときのジャン本人の反応が気になったのも、大いにあったはずだ。
期待通り、ジャンは大げさに息を吸い込んで、
「……は、はあ⁉︎⁉︎ おめっ、なに言ってんだよ⁉︎」
この暗闇でもわかるほどに顔を真赤に蒸気させて、ぼくの正気を確かめるために両方の肩を掴む。その焦り方も普段見せない一面だからだろうか、ジャンのことをまたかわいく感じてしまった。
「あはは、うん、ごめんね」
「……つか……」
そんなぼくとは裏腹にジャンは唐突に勢いを収め、俯いてしまった。いきなりどうしたんだと驚くばかりのぼくは、静かに続く言葉を待つしかなかった。
なにかを思い詰めているように、そして、
「……や、やめろよ……」
悔やむように頭を抱えて、意気消沈しているように見えた。
言葉少なに語ったその心境を、ぼくは憶測するしかなかったけど……ここへきて、なんとなくそこまで思いが至る。もう終わった恋心を捨てようとしていたぼくと違い、おそらくジャンはまだ、ミカサへのそれを大事に大事に守っていたはずだ。それを、互いに対して特別な想いがあるわけでもないのに、こんな風にふれあってしまったんだ。例えミカサ本人がこのことを知らなくても、生真面目なジャンは、自分の中でミカサを裏切ったように感じ、自責する気持ちを抱いているのかもしれない。
そう、ぼくたちは、今夜たまたま二人で話をしていて、そして年頃の男子よろしく、たまたまお互いおかしな気持ちになってしまっただけ……なんだ。さっきのふれあいに、それ以上の意味も、それ以下の意味も、なにもなかった。
「……そうだね。ごめん。……人肌は、温かかったよ」
趣旨から外れた感情はないはずだとわざとらしく付け加えることで、ぼくはお互いに釘を刺した。
果たしてこれでよかったのだろうか。それはわからなかったけど……この手のひらで触れる冷えた床が、ぼくとジャンとの温度差に気づけと言っているように感じた。
……一つだけ確かなのは、今この瞬間に、ぼくはジャンの顔を見ることができなかったということだ。なんでこんなに窮屈に感じるのだろう。あまつさえ、ぼくはまだジャンに触れたいとさえ思ってしまっている。……これは、とても危険だった。このたった一回の秘密のふれあいで、ぼくはもしかしたら大きな過ちを犯してしまったのかもしれない。
「……――お前、やっぱりそっちの素質があんじゃねえの」
ぼくが釘を刺したことで罪悪感が少し落ち着いたのか、ジャンは切り替えたことを教えるようにふざけて笑った。
「ええ、どうかな。ぼくが気になっていた子は女性だったけど……」
また一度だけ、彼女の影がちらついたけど、意識はすべて目の前のジャンにある。自室に戻るためにゆっくり立ち上がるジャンを追いながら、足元がおぼつかないような焦りを味わった。ここでまたジャンを引き止めて口づけをしたら、くどいと怒られてしまうだろうか……嫌われてしまうだろうか。……ジャンを見送りながら、ぼくは自分の心を押さえるのに精一杯だ。なんとかジャンの前では平和にお休みと交わして、急いで扉を閉めようと気持ちが急いたくらいだ。
ようやくとその通りに扉を閉めた途端に、いっそう強く足元がふらついて、たちまち動けなくなった。
――最後にまた、ジャンに触れたかった。そんな思いが腹の底から込み上げてくる。そしてそれはいつまでも生まれては朽ちて、生まれては朽ちて、と止めどなく湧き出てくる。
ぼくはいったい、どうしてしまったのだろう。……そんな自問をしたところで、ぼくにはこの状態がなにを意味しているのかわかっている。でも、どうしてこんなことになってしまったのか……身体の奥から震えが上ってきそうだった。これはぼくの弱さだろうか。すがれる人にすがっておこうという、浅ましい欲だとしたら、ぼくの中にはとても危険なものが……いや、違う。ぼく自身が、その浅ましく危うい人間だということになる。
確かにジャンがぼくを訪ねてくる前までは、友人エレンのことを、それこそ眠れないほどに心配していたのに、あっという間にぼくの心の余裕はすべて奪われてしまった。ぼくの中にあったこんなふしだらな貞操観念が、一時的なものでありますようにと願いながら、結局ぼくは、ジャンとのその数分を思い出に、自分のことを慰めてしまった。
*
次の日、ジャンと顔を合わせるのが気まずくならないだろうかと心配する暇もなく、あっという間に朝食の席で挨拶を交わすことになった。もちろんこれまでと変わらない態度で接してくれた。……あからさまに『なにかありました』と周知するようなことは、さすがにジャンなら避けるはずだったかと感心するばかりだ。
それから本日は元々調整日ではあったものの、ぼくたちリヴァイ班は今朝エレンが思い出した情報を元に、昔なじみの訓練所に行くことになった。そこでシャーディス教官とエレンの両親との意外な繋がりという新しい情報が明るみにでることになったが、ぼくの懸念からは大きく外れ、今回の情報はエレンの心を塞ぐことはなかった。むしろ、少しエレンの表情が晴れたようにも見えて、ぼくたちを待っている『未知』が絶望だけではないのだと、泣きたくなるような気持ちにさせた。
元の兵舎に戻るころには、エルヴィン団長がウォール・マリア奪還作戦を明後日の決行と断じていて、シガンシナ区に向けては、進言通りの日没に出発するとの通達を出していた。……いよいよというわけだ。夕食の席で肉が提供されるのだと知る前から、ほとんどの兵士の気持ちはすでに高ぶっていた。……そして肉が拍車をかけた。
「――全体を機能させることはできないだろう」
「あのなあ……」
今回の大規模な兵団員の異動により、新しく調査兵団に編入したマルロという男が、ぼくらと同じテーブルを囲み、胸に抱く大義を熱く語っていた。そんなところに、ぼくはようやく考え事ごとから我に戻る。
「誰だって最初は新兵なんだ」
熱く語っていたマルロに対して、ぼくの隣に座っているジャンが水を打つように割って入ったからだ。ジャンの声が頭によく響いたおかげで、ぼくは〝ここ〟に引き戻されたらしい。
シャーディス教官がもたらした新情報によるエレンのための希望や、今目の前にある数カ月ぶりの〝動物性タンパク質〟にかまけていたけど……人類の命運を分ける奪還作戦は、もう目前に迫っている。お祭り騒ぎの兵士たちも、心のどこかでその決意を表した札をぶら下げていることだろう。
ぼくの目の前に座るマルロという男も、自分の大義を熱く語ることでその緊張感を凌駕しようとしているように見えた。だから、ジャンの冷静なたしなめは、マルロにとって必要なものだったと言える。このテーブルについていたマルロ以外の誰もが、そう思っていたはずだ。
「新兵から真っ先に捨て駒にしてたら次の世代に続かねえだろ。だから、お前らの班は後ろから見学でもして、生きて帰ることが仕事なんだよ」
これまで過ごしてきた兵団を間違えたと称していたらしいマルロは、ここで一気に取り戻したいと言わんばかりに、本人の持つ正義感を発揮しようと息巻いているようだった。そんなマルロに対するジャンの正論は、彼に少々不満を抱かせてしまうだろう。けれどぼくたちだって入団したてのころは先輩の団員に身を挺して守ってもらっていた、みんなが通る安心感つきのもどかしさだった。
「あ一番使えねえのは、」
……と、思っていたら、ジャンの声のトーンが変わった。
「一にも二にも突撃しかできねえ死に急ぎ野郎だよ。なあ?」
ぼく越しにジャンが唐突に喧嘩をふっかけた相手はエレンだった。ジャンがこんな調子でエレンに突っかかる回数は激減していたけど、
「ジャン……そりゃ誰のことだ?」
ここしばらく塞ぎ込んでいたはずのエレンも、久々に売り言葉を買って、声を荒げて見せた。……そしてそれらはすべて、相変わらずにぼく越しだ。そういえばぼくはこの二人に挟まれて座っていたのだと、今になってようやく痛感していた。……気づくのが遅すぎた。
「お前以外にいるかよ。死に急ぎ野郎は」
「それが最近わかったんだけど、俺は結構普通なんだよな。そんな俺に言わせりゃ、お前は臆病すぎだぜ。ジャン」
二人の無言の圧力が場を静かにさせる。その圧力の流れ弾に一番大きく被弾していたぼくは、無意識に肩を縮こまらせて二人の息遣いを追っていた。
単にぼくが合図を聞き逃しただけなのか、ジャンとエレンはほぼ同時に怒りを噴出させ、
「いい調子じゃねえか猪やろう!」
「てめえこそなんで髪伸ばしてんだこの勘違い野郎!」
ほかの兵団員も食事をとっているテーブルの間に空間を見つけて、唐突な取っ組み合いを始めてしまった。このお祭り騒ぎに乗じようと、野次馬があっという間に集まり、エレンとジャンの攻防は見世物に変わった。
けれどいつも冷静さを片手に止めに入るミカサは、なんだか嬉しそうにその光景を眺めていて、ぼくもその既視感には気持ちが緩まされている。……そうだ、昨日、ぼくはジャンに愚痴を零していた。
――『訓練兵時代はあんなにハラハラした気持ちで君たちの喧嘩を見ていたっていうのに……今じゃ、少し恋しいよ』
それに対してジャンは言葉をほとんど用いることなくただ相槌を打つだけだったけど、今日このタイミングでエレンに噛み付いたのは、少しだけでもぼくのことを気にしてくれていたからなのだろうか。そうだとしたら嬉しいなと……思ってしまった。昨日のぼくの胸のざわつきが『危険』だったとするなら、今ぼくが抱いている期待も『危険』だろうか……。
ぼんやりと昨晩のことを思い描いてしまっていたぼくの目の前で、二人の取っ組み合いはどんどん白熱していく。
無理やり頭に映る光景を振り払い、ぼく自身も難しいことを考えるのをやめて、素直にこの胸を温める安心感を享受することにした。おかしいな、二人が喧嘩しているっていうのに、なんだかとても嬉しい。こんな気持ちはへんてこだとわかっていながら、無邪気なころの彼らに戻ったみたいで、頬が緩むのを止められなかった。
……あとでちゃんと、ジャンにもありがとうって言っておこう。
ぼくがそう心のなかで決めたところで、鬼の形相のリヴァイ兵長が二人の間に割って入っていた。
[nextpage]
***
……廃墟というには、あまりにも人為的な倒壊を起こしている家々が連なる中で、俺は……俺たちは、また一つ理不尽に敵わなかった己の無力さを恨んでいた。ハンジ分隊長自身でさえ、力ない足取りで着地し、この辺でいいだろうと誰一人として顔を上げられない俺たちに指示を下した。
コニーは気を失ってしまったままのサシャを背中に括り付けて、置き去りにしてきたリヴァイ兵長らの足元を睨みつけていたようだし、うずくまって嗚咽を噛み締めているエレンを、フロックは静かな目で見下しているようだ。ミカサは一つ残らず音を殺すように、ハンジ分隊長は穏やかな呼吸をくり返すように、それぞれはうつむき続け、待ち構えている未来と戦っているようだった。
……それらすべてが憶測である理由は、俺自身が、この俯いた顔を上げられなかったからだ。言葉どころか声の一つも出やしない。まだこの状況に対して、本当なのかと疑いすら捨てきれないでいる。
――無事に全調査兵団の団員はシガンシナ区に到着し、そこで俺たちは出迎えてくれた巨人の群れと、文字通りの死闘を繰り広げた。もう喊声を上げられる兵士など残っているはずもなく、みんながみんな葬式に参列しているような空気の重さに押しつぶされそうだった。
……いやでも、まさか。まさか兵団員の誰か一人だけでも、こんな終幕を予測できただろうか。……運命が残酷の限りを尽くしたような、こんな凄惨な終幕を。エルヴィン団長とアルミンのどちらかを選択するときがくるなんて、俺はそんなこと夢にも思わなかったし、できることならそんな終幕なら知らないままでいたかった。
エレンやミカサは考えることもせずにアルミンを選んでいただろうが、おそらくそのほかのすべての残存兵はエルヴィン団長を蘇らせるという選択を下していただろう。そしてなんというべきか、最終決定権を持っていたのはエレンでもなくミカサでもなかった。どう考えてもあの貴重な巨人化薬はエルヴィン団長の命を繋ぎ止めるために使われる。
だけどもし俺が最終決定権を持たされていたなら、と思うと背筋が凍るような悪寒が走る。考えただけで、その重責に気がおかしくなりそうだ。なぜなら、エルヴィン団長の統率力や人類への功績は他の追随を許さないものではあるが、アルミンが団長と同じ年月を費やしたとして、団長の功績を下回るという確信は持てないからだ。……つまり、『人類のために悪魔になってまで導いてきた』エルヴィン団長を延命させるか、『人類をこれから導くことのできる可能性』を秘めたアルミンを延命させるか、リヴァイ兵長は一人でその選択をくださなければならないのだ。……しかも、時間との戦いも視野に入れる必要性に迫られている。
アルミンだって、自分が団長と同じ秤に乗せられるなんて思っちゃいなかっただろう。
あんまりにもこの世界はクソったれだ。いろいろとこねくり回して考えたが、冷静に考えて答えは悲しいほどに一目瞭然だった。人類は〝可能性〟ではなく〝確定した悪魔〟を選ばざるを得ない。……俺たちはあの憎ったらしい巨人に勝利するまで、どんな理不尽だろうと、屈することは許されないからだ。
……いつになくくるくると活発に頭が回っているのは、俺が動揺しているからだと自覚している。マルコお墨付きで元々そんなに強くはない俺は、必死こいて思い出さないようにしていた。……リヴァイ兵長の先に転がっていた真っ黒の塊を。まるで人体のように四肢を持っていたその塊を、エレンたちはアルミンと呼んでいた。俺はそれに気づいてからというもの、塊を直視できるはずもなく、ただただアルミンが自ら身を投げ込んだ灼熱のことで頭はいっぱいになっていた。実感が沸かずに動揺ばかりが蓄積していく……人間が悲鳴を上げながら食われていく光景が当たり前になっていた俺に、あんな丸焦げの瓦礫のような塊を見せられても、どこにも自由の翼を備えないあの塊がアルミンだとは……そう、アルミンがもういないとは、実感できるはずもなかった。
『――痩せている』
ベルトルトの巨人を見上げながらそう呟いたとき、すでにアルミンはこうなる、いや、こうするしかないと腹を括っていたに違いない。そのことを思うと、視界が回るようなめまいを感じる。いったいアルミンは、どんな気持ちで俺たちにベルトルトは任せろと言ったのだろう。アルミンに限って楽観視していたわけはなく、ひたすらに勇敢だったのだと思う。
振り返りざま、まるで心が弾んでいるように俺たちにベルトルトはなんとかする、と告げたアルミンを思い出す。その表情はたしかに信念を感じさせるものではあったが、どこか待ちきれないような、すっきりとしているという印象を俺に抱かせた。
あのとき、もっとちゃんと作戦について突っ込んで聞いていれば、少しは結果は変わっていただろうか。
「……くそ、」
俺がなにか、もっと別の案でも出せていれば……。今さらなにも意味を持たないと知りつつ、俺は後悔に食いつぶされそうだった。
知恵すら絞れない俺は、挙句の果てには決意の揺らぎにより、ライナーを取り逃がす原因を作ってしまうという失態まで犯した。……どう振り返っても、今回の作戦において俺は、本当にクソだった。この残酷でクソったれな世界よりもひどいものだ。
……いや、でも……でも。ベルトルトを打倒できるような策、俺には思いつけなかったんだ。言い訳じみていてみっともないとわかっているが、アルミンだから思いつけた唯一の策だった。……生まれたときから、その役は俺ではなくアルミンと決まっていたのだ。……くそう、くそう。それでも、ちゃんと作戦を確認していれば、俺が実行するという手も考えられた。アルミンは生贄にするにはまだ早すぎる存在だった。
「……くそ……っ」
そこまで導き出せていた俺はもう、わかっている。だからこそアルミンは、その作戦の内容を俺たちには明かさずに、まっすぐにエレンの元へと向かったんだ。誰も殉職者を買って出なくていいように。
これまで俺の周りで殉職していった仲間たちが、まるで蓋を開けたように次々と俺の意識の中に入り込んでくる。志半ばで命を投げうった同胞たちが、なんとしてでも、例え俺すら死のうとも、同胞たちの死をなんとかして人類の糧に変えてくれと叫喚している。――右半身を失くしたマルコが、そういう世界だ受け入れろと、背中を押そうとする。
「……え……あ、おい、」
「コニー?」
誰も声を発していなかった中で、唐突にコニーが間の抜けた声で俺たちを呼んだ。見、見ろよ、と震えた声で続けて、残りのすべての視線を先ほどリヴァイ兵長らを残してきたほうへ向けさせた。そのときまさに、リヴァイ兵長は四肢がもげたベルトルトを、真っ黒の塊の側まで引きずっていくところだった。
「お、おい、なんだよ、兵長はなにやってんだよ……!?」
驚きから不満へ声色を変えながら、フロックが一歩を踏み込んで嘆く。ミカサもエレンも、そのときはコニーも、次々に息を飲んで見守った。
リヴァイ兵長はアルミンと呼ばれたその塊の隣にベルトルト並べ、本人もその場に腰を下ろした。持っていたむき出しの注射器を構えたかと思うと、塊の四肢の一つを持ち上げる。一挙手一投足、いちいちはっきりと動きが見えて、時間の流れが恐ろしく遅く思えた。
「うっ嘘だろ!?」
ついに耐えかねたフロックの非難の声が上がったが、注射器は塊の四肢にまっすぐに突き刺さっていた。
エレンの頬から静かに涙が落ちる。改めて落ち始める。真っ青な空模様を背景に、次から次へと煌きながら流れていくのが、とても印象的だった。その涙の意味を推し測ることは俺にはできない……だが、一つだけわかるのは、俺の身体も震えていたことだ。どうしてかわからない、涙が出ているわけでもないのに……どうしてだか、震えが止まらなかった。
アルミンとベルトルトから駆けて離れたリヴァイ兵長はそのまま重傷のエルヴィン団長へ寄り、合図一つで俺たちの中から誰かが来いと呼びつけた。いの一番に反応したのはハンジ分隊長で、それに続きフロックが飛び出していった。二人はリヴァイ兵長とともにエルヴィン団長をほかの家の屋根へ飛んで移していく。
丁寧に団長を横たえ、三人が改めてベルトルトらのほうへ振り返ろうとしたとき、すっかり聞き慣れてしまった爆発音が空へ轟き、アルミンにそっくりの巨人が家屋の向こうから這い上がってくるのが見えた。
それからは、ただ、ベルトルトの悲鳴、悲鳴、悲鳴。……なんの変哲もない、〝巨人に食われていく人〟の悲鳴だった。俺たちの中でそれの瞬間を刮目できた人がいたかは定かではないが、ばりばりと耳に粘りつくような不快な音がしばらく続いた。
これが現実だった。兵長の判断によってアルミンが命を繋ぐこととなったが、これが〝巨人〟というものの真実だった。誰もが絶望していたはずだ。心の中はぐちゃぐちゃと潰れ、どの事柄にどう心が反応しているのか、よくわからなくなっていた。……少なくとも、俺は。
それからなにかを咀嚼していたような音が鳴り止むと、元の人間をよく体現した小柄な巨人は脇道に倒れ込み、蒸気を上げ始めた。猪野郎よろしく、真っ先に飛び出したのはエレンで、間髪入れずにミカサが続く。二人はもはや脊椎反射で動いているように見えた。それからコニーが追うように飛び出し、ビリッケツの俺はあとに続いた。
まだ追いつく前から巨人の項が開き始め、そこからむくりと見覚えのある形が現れる。……俺がアルミンという存在を実感したのは、立体機動装置で宙を舞いながらその光景を目撃した、実にこの瞬間だった。
戻ってくる……戻ってこれる。アルミンが。まるでベルトルトとの死闘に無傷で勝利したかのように、今作戦の英雄の一人が、今まさに帰還したのだ。
……だが忘れることはできない、それはつまり、団長はもう戻ってこないということだ。思考の隅にちらつく、頭痛のような疑念は離れない。あの団長を抜きにして今後調査兵団は……ましてや人類は、巨人どもに勝利しなければならなくなったのだ。……それは可能だろうか。
「アルミン!」
巨人の項から完全に独立した姿を現したアルミンの元に、エレンが呼びかけながら到着する。続いてミカサ、コニー……そして、俺の目の前にも、蒸気に包まれたアルミンが、その姿を見せた。
「アルミンッ!」
「アルミン……っ!」
まだ巨人の熱を身に宿しているアルミンを、みんなで名前を叫びながら囲む。誰がそうしようと言い出したわけでもなく、みんな自然と声を上げてアルミンに触れていた。……そうだ、アルミンが戻ってくる……よかった……よかったじゃないか。利得勘定なんかで感情を決めつける必要はない。今さら冷静ぶったって、なんの意味があるっていうんだ。
アルミンが無事に巨人化できる人類として一命をとりとめたあとも、気を休めるにはまだいろいろと必要な工程が残っていた。
まずは生存者の捜索だ。主にウォール・マリア内の、獣の巨人の投石に真正面から挑んでいった兵士たちの中にそれらがいないかを確認した。……だがあいにく、経過時間も要因してか、最終的に確認された生存者は俺たちリヴァイ班を含めてわずか九名だけだった。
すべてが無残にも『遺体』に変わり果ててしまったのだと確認しながら、今度はそれらを一箇所に収容する作業を行う。……シガンシナ区内にいた兵の中で、現在見つかっていない者……主にハンジ分隊長の班員はほぼ確実にベルトルトの爆風に木っ端微塵にされていると予想されたため、この遺体の収容作業もほとんどがウォール・マリアの内側で行われた。
それからアルミンの起床を待つ間は待機と見張りを続け、アルミンが目を覚まし、異常がないことを確認してから、エレンとミカサ、リヴァイ兵長、そしてハンジ分隊長の四人でエレンの生家へと向かった。人類悲願の『巨人についてのすべて』があるという地下室を目指してのことだ。……その間、残りの者は引き続き待機と見張りに徹する。
日が暮れたころに兵長たちは戻り、俺たちはしばしの休憩を挟んだのち、宵闇に乗じてまた撤退を行った。
今回の残存兵の数は異例の少なさだったため、遺体の持ち帰りは見送らなければならなかった。出発前にみんなで弔いの祈りを捧げ、彼らの勇敢さを胸に刻み込みながら帰路を目指した。
本当にアルミンはあれから異常はないらしく、身体のほうはびっくりするくらいの本調子だと笑っていた。
……ただ、それを見ても俺は安心することはできなかった。アルミンが巨人となるとわかったときよりは落ち着いてはいるが、未だに身体の芯が不安定に振動しているような……ともあれ違和感と言うに留まる程度のなにかに侵食されたままだった。こんな激闘の末の帰路であるのは重々承知の上だが、それでもアルミンの横顔は以前とどこか違って憂いを帯びている。死を覚悟して戦い、目覚めたら人類にとって最も失ってはいけない人物との引き換えに自分が生かされたのだと聞いたら、誰でもあんな表情になるだろうが……果たしてそれだけだろうか。少なくともアルミンはエレンの生家の地下室に踏み入れることなく、ベルトルトの人生に隠されていた『世界の真実の一端』を知る可能性を持ったことになる。……例えば、だ。例えば一昨日の夜、本人が自ら心配していたエレンのように、じわじわと心を塞がれていってはいないだろうか……。
そう思ったが最後、どういうわけか俺の頭は訓練兵時代の楽しそうに笑うアルミンでいっぱいになり、もうよそ見をする余裕すら奪われてしまった。腹の底の違和感よりも、純粋に波打つ心臓の鼓動が強く強く叩きつけてくることが意識を占領する。
なにを知りたかったのか、今度は俺の斜め前を走るアルミンに視線が移った。少し伏し目がちになり、そうして口数も減ったように見えて、精悍な横顔を何度も何度もくり返し見てしまった。おそらく帰路の景色よりも、アルミンのなびく金髪と青い瞳のほうがたくさん目に入っていたことだろう。
――『……とても、かわいかった』
「!?」
暗闇の中で向けられていた、慈しむような眼差しがフラッシュバックのように、突如として視界に焚かれた。驚いて心臓が止まったかと思うほど、呼吸まで一時止まったように感じた。かろうじて外に反応は出さなかったが……、
『んっ、ジャン、』
どうしてあのことを思い出してしまう。
アルミンの手がするすると俺の肌を磨り上げ、髪の毛を乱したときの声までぶり返した。馬で全力疾走しているだけでなく、今は作戦行動中だというのに、あろうことか俺は唐突に身体の火照りに襲われたのだ。今回ばかりは暗闇を走っていたことに感謝するしかなかった。
次に俺を待っていたのは自己嫌悪だ。……アルミンとの思い出なんてもっとたくさんあるはずなのに、浮かぶのはあの即物的で危うげな夜のことだ。おまけして、俺にはミカサという想い人がいるはずなのに、あまりにも単略的すぎやしないかと我を疑った。
ましてやアルミンの今際の際を見送る際には、涙一つ流れなかったというのに……俺はいったいなにを期待してアルミンを意識してしまっているのか、考えたくもなかった。アルミンが戻ってきてくれたことは嬉しかったが、それ以上に複雑で〝今は任務に集中しろ〟と自分に言い聞かせて、現実から目をそむけることに努めるほかなかった。
トロスト区に無事帰還できたときには、すでに日は昇っていた。まだ顔を出しただけの太陽ではしっかりと気温は上がっておらず、壁を越える際には特に寒さを感じるほどだった。見上げれば、昨日とはまったく違う、それでも同じ澄んだ青空だった。早朝でまだ本調子ではない太陽の光が、柔らかく滲むようにトロスト区を覆っている。
いったいどこで俺たちの帰還を知ったのか、こんな早朝にも関わらず壁の側に住人が集まり始め、俺たちの戦果をエルヴィン団長の口から聞きたいと願って見上げていた。それには次代団長と直接の指名を受けていたハンジ分隊長が対応し、すっかり疲弊しきった俺たちに住人は哀れみの眼差しを向けていた。たったこれっぽっち……と耳に転がり込み、自然と頭を重く感じて俯いてしまう。そんなこと、嘆きたいのはこちらのほうだ。決して命を落とさせてしまった兵団が不甲斐ないのではなかったのだと叫びたい気持ちを抑えて通った。
そうして俺たちは夜通し走り通したこともあり、報告書を明日中に提出せよという指令のみを下されて、今作戦は一旦は終了という形で幕が下ろされた。待機していた医療従事者の健診を各々で受けてから、異常なしとみなされた者は兵舎の中の自室へ向かってよいとのことだ。……エレンとミカサのみ、リヴァイ兵長に楯突いたことの兵規違反で、しばらく投獄されることを告げられていた。二人は後悔こそはしていないだろうが、深く反省するように肩を落としていた。
……それをアルミンはそれとなく見ていたようだが、シガンシナ区の壁上で目覚めてからずっと顔面蒼白だったこともあり、心境はよくわからなかった。
俺がまず初めにしたことといえば、自室のベッドへ倒れ込み、静かに目を閉じることだった。おそらく他の者もまずは身体を休めたいと思っていただろう。……だが、未だに腹の底にはくつくつと滾っているものがあり、それを治めるためにも先に報告書を仕上げたほうがいいだろうかと考えた。うとうととはしている気がするが意識ははっきりと持っていて、だんだん夢なのか現なのかわからなくなってくる。
つい先日の夜、マルロにお前は新兵なんだから後ろから見ていろと先輩風を吹かせてしまったのに、結局俺たち〝巨人経験者〟は未経験の新兵たちを守ってやれる可能性すらなかった。帰路で口を閉ざしてしまったフロックの代わりにリヴァイ兵長が語ってくれた〝ウォール・マリアの内側〟での死闘を聞かされたときは、なんと皮肉なことかとマルロの正義感に満ちた姿を思い浮かべていた。
……そうだよマルロ、兵長も言っていたが、お前らのお陰で兵長は獣を退けることができたんだ。これ以上はないお前の勇姿は、歴史の中で生き続けるに違いない。
――コンコンコン
ふ、と意識が浮上する。
俺の部屋の扉がノックされたのだと気づいて身を起こしたとき、もう一度同じようにそれはくり返された。
「おう、起きてるよ」
疲れのせいか少し乱暴になってしまっただろうか。立ち上がり、扉に向かいながら続報がないことに首を傾げる。いったいどこの誰が、なんの目的でこんなときに訪れるというのか。
「おい、誰だよ。開けていいぜ?」
言い終わる前に扉のノブに手が届いた俺は、それをためらいなく開け放った。
俺の目線より低いところにあった金色の影が、さっと俯いたのがわかる。……その背丈と髪型は、間違いなくアルミンのものだった。じわじわと緊張感のようなものが俺の中で広がり、言葉をどこかで落としてきてしまったかのように、頭の中は真っ白になってしまった。
「あ、えと……?」
声をかけたところでなにも言わずに静かにそこに立っていたが、なにかを迷っているのか、不安定な息遣いはしっかりと俺に聞かれている。すぐ眼下にあるアルミンの頭のせいだ、さらさらとした髪の毛を見て、俺は先日初めて指を通したその手触りを思い出してしまった。
だが、今はそんなときではないとわかっている。押し黙ったアルミンは、きっとなにかを助けてほしくてここに来たに違いなかった。無理に背中を引いて招き入れるべきだろうかと検討したが、
「ジャン……ッ、」
息を詰まらせながら、アルミンはただ一言それを漏らした。
「……アルミン?」
扉のノブを握り、半分くらいのところまで扉を開けた体勢のまま、俺は指の先から頭のてっぺんまで、すべての意識をアルミンに集中させるように硬直してしまう。アルミンにつられて動けなくなったことで、また二人の間で沈黙が行き交い、動揺がこの場所を満たしていく。
そこにある小さな影はつむじを見せたまま震えていて、ここまで頼りないアルミンの姿を目の当たりにしたのは初めてだった。その頼りなさのせいだろうか、このまま引き寄せて抱きしめてやりたいと強く思いながら、硬直にそれを止められていた。自分でもどうしてこんなにアルミンを慰めてやりたいのかわからない、それでも、意識の奥のほうからアルミンを抱きしめろと指令を出されているように感じる。
――……引き寄せて抱きしめて……それから? 俺はそのあとどうするつもりなのか。半端な慰めはかえって傷つけてしまうこともあるのだと、さすがにもうわからない歳でもない。
「――ジャン、」
「おう?」
少しだけアルミンの顔が上がった。どきりと心臓が波打ったが……残念ながら頭一つくらい違うので、まだアルミンがどんな顔をしているのかはわからない。
「ジャン、ごめん。……ひ、一人でいたら、気が狂ってしまいそうで……」
真っ青なアルミンの顔が、ようやく俺のほうを向いた。薄らと笑みを浮かべながら俺を見上げ、
「……ごめん、君に頼ることしか……思いつかなかった……」
ひどく思い詰めたようにそう絞り出した。
「……な、にが? どうしたんだ?」
やっぱりアルミンが助けを求めていることはわかった。だが、なにがここまで追い詰めていて、俺はどうしたらいいのか、俺にはなにができるのか、必死に思考を巡らせてその手が上手に引けるだろうかと打算した。助けてやりたい……だが、どうすればいい。
「……確かめさせてほしい」
「は?」
「ぼくは――……」
明らかにアルミンの様子がおかしい。その目はひどく怯え、まるで俺の声は届いていないようだった。
「……――人間、なの?」
その両手が俺のシャツを掴む。
「昨日までと同じ人間? ねえ、ジャン」
揺れながらもじっとこの俺に焦点を合わせて縋る。こんならしくない姿、本当に初めて見るものだ。よほど動揺しているらしいと気づき、ふと、ここはまだ廊下の隅だということを思い出した。
「おいおい待て待て。どうした」
部屋に招き入れ、ゆっくりと扉を閉める。これでアルミンも思う存分に取り乱すことができる。……大丈夫、俺以外はもう見ていない。
だが、俺の動作で冷静さを思い出したのか、気まずそうに目を泳がせてから俯いていく。
「きょ、巨人となって、ベルトルトを食ってしまったぼくは、まだ以前と同じアルミン・アルレルトと……言えるのだろうか」
確かめるように自分の腕に触れて、光をなくしかけた瞳が、ちらりと覗いた。
「……その、エレンみたいに……変わっていないだろうか……」
この言葉は決してエレンを憐んで言っているのではない。おそらく、本人がエレンのことを心底心配していたのと同じようなものなのだろう。親友のエレンが変わっていく様を一番近くで見ていたからこその懸念であるはずだ。
「……アルミン……」
また目頭も口元も歪ませて、ゆっくりと足元へ視線を落としていく。俺にはなんて言えばアルミンの気が晴れるかなんてわからない。……そうだ、いつだって俺は状況を見極めることはできても、そこから打開策を見つけることはとんと苦手だった。一重に俺の人生経験の不足が原因なのだろうと思う。アルミンのような先天性の素質もなければ、後天性の変質すらない。……悲しくなるほど、つまらない男だ。
――……いやいや。
そこで我に戻る。今は自分の不甲斐なさで落ち込んでいる場合ではなかった。目の前に助けを求めて現れたアルミンに、なにか少しでも伝えてやれないだろうかと、そのつむじを少しの間だけ見ていた。
不意にぎゅっとこわばった表情が目の前に現れる。
「ねえジャン、教えて……!」
反応する間もなく俺の手首は掴まれ、それを乱暴に引かれてアルミンの頬に当てられた。
「ぼくの温度はどう? この間と同じかな!? ぼくの存在感は? ぼくは……人間……!?」
「お、落ち着けアルミン!」
とっさに手を引いたせいで、さらりとその細い髪の毛が指先に触れる。緊張しているのか、手首を握る手のひらは冷たいというのに、その頬はひどく温かかった。それはあまりにも、『単なる人間』のようだった。
「ッ! でも! ぼくは、エルヴィン団長の反対側の秤に乗っていたんだ!」
今度はいいかよく聞けと言わんばかりに、胸ぐらを掴み、勢いよく俺の身体を引き寄せた。
「そして、ベルトルトを食った! ねえ、教えてよジャン、ぼくはどういう風にベルトルトを食ったの!? ベルトルトが苦しまずに死ねるくらい、丸呑みできるくらい大きな巨人になれていたかな!? ベルトルトはぼくを見て、怯えていた……!?」
「ちょ、ちょっと待て」
ふ、と力が緩んだ隙に抜け出せばよかったが、その必死な様子を見せられてはなにもできなかった。アルミンから離れることはもちろんのこと、もう落ち着けなんて言えるわけがない。……アルミンのその立場で、俺だったら落ち着ける道理がないからだ。俺だって、ライナーを殺そうとしたハンジ分隊長に変なことを言ってそれをためらわせた……アルミンがベルトルトの安らかなる死を願うのも、おかしなことのように聞こえない。……ああそうだ。ライナーを爆破したときにサシャとコニーを叱りつけた俺ですら、その気持ちは捨てきれるものではなかったのだ。
だがアルミンにはそれは耐えられないらしく肩を落とし、弱々しく震えていた。
「……その怯えたベルトルトを見ても、ぼくはベルトルトを認識していなかったのか……。……ジャン、ぼくの中からベルトルトの声が聞こえるんだよ……『痛いよ、痛いよ』って……ぼくは……ベルトルトをしっかりと噛み砕いて…………う、ゔぇっ」
吐き気をもよおして口元を抑えた。固く縮こまるその背中を、
「……アルミン」
衝動に任せて抱き寄せていた。後先なんて考えておらず、動くままに囲み込み、頭を撫でてやる。記憶の中でも柔らかさしかないこの髪の毛は、やはりあのときの印象のままだった。
「ありゃどっちかてえと、ベルトルトを『食わされていた』に近かったよ」
そんなことしか言ってやれない自分にもどかしさを感じる。これではなんの解決にもなっていないのは自分が一番よくわかっている。……でも、アルミンを、なんとかして今の苦しみから少しでも開放してやりたいと、思ってしまった。
「……覚えてないことまで、わざわざ思い出して苦しむこたあねえよ。きっとベルトルトも、ようやくこのクソったれで地獄みてえな世界から一抜けできて、今ごろあの世で喜んでるぜ。……ベルトルトは特に……頭もよくて冷静だったしな……その分、余計に世界がはっきりと見えていただろうぜ……なにも知らねえ俺たちと違ってな」
それまでためらっていたアルミンの腕が、俺の背中に回された。ぎゅう、と力強く、力いっぱいに寄りかかってくれているのがわかり、こんなクソったれな俺でも、少しは役に立てたのかと満たされるようだった。
「ジャン、ジャン……ッ!」
要は、俺自身、この格好が心地よかったのだ。
涙ぐんだアルミンの声は頼りなく感じたが、だからこそ、今の俺にとっては意味のあるものだった。
「……ったくよお、もうベソかくなっつったろ……」
「……うっ……ごめん……ごめん……!」
もうすでにアルミンに触れているのに、まだまだ足りないようで、触れたさが溢れ出る。このおかしな気持ちはなんだろうと考えるよりも先に、さらに力を込めてアルミンを擁して、俺も全身でアルミンに抱きついて……いや、縋っていた。
「ジャン、わけがわからないんだよ……潰れてしまいそうなんだ……ッ今考えていることはぼくの意識なのか、どこまでがぼくなんだ、以前からぼくはこんなに……っ」
また堰を切ったようにアルミンの感嘆は流れ出す。
「自分と自分の中の巨人の境界すらわからなくなって、迷子みたいなんだ……ッ! ぼくなんか……ぼくなんかいっそのこと、潔く死んでしまえばよかった……!」
半端に叫ぶような声で、そうやって吐き捨ててしまう。
その瞬間のことだ。俺の脳裏には、エルヴィン団長とアルミンのどちらを生かすべきかと口論していたあの情景が思い出された。あのとき、たぶん俺は、エレンかミカサに決定権があったならと考えた……つまり、俺はきっと、心のどこかで一時の上官よりも、ともに過ごしたアルミンを失いたくなかったのだ。
「……おい」
呼びかけると、ゆっくりとアルミンは顔を上げた。ずず、と音を立てて鼻をすすり、大きな粒の涙を一粒、頬から落とした。
あんなにエレンもミカサも必死になってリヴァイ兵長に食いついたんだ。アルミンが巨人化したとき、素直に喜ぼうと思った俺だって、そこで見守っていた。
「お前な、百歩譲ってベソかくのは許してやるが、無責任に全部を投げ出すようなことは言うんじゃねえよ。このクソったれな世界ではな、誰だって、突然降ってきた重責や理不尽に耐えてんだよ」
エルヴィン団長も理不尽に『悪魔』をやらされていたのだろう。だからこそ、リヴァイ兵長は団長に安らいでもらうよう、今回こういった決断を下した。
だがアルミンは俺の言葉から目をそらそうと、一歩だけ後ろに立ち退いた。今はそんなことは聞きたくないとでも思っているのだろうか。残念ながらこれが現実だ。そして俺の知る本来のアルミンは、そんなことにいちいちベソをかいたりしない。
「お前はそうやって〝敵〟に背中を晒して逃げ出すようなやつだったか? 俺りゃあな、死ぬ寸前まで信念のために戦ったお前を誇りに思うし、還ってきてくれてよかったと思う」
「……ジャン」
「だからお前は、まずは顔を上げるんだよ。重責については、これから考えればいい」
お前がベソをかくのは、道を切り開くときと仲間を弔うときだけでいい。アルミンからしてみれば、俺のこんな想いも無責任なのかもしれない。だが、俺はそんなアルミンでいてほしいと思う。
一歩離れたままのつむじを見守っていると、またずず、と鼻を鳴らしてから乱暴に涙を拭いてみせた。
「……そっか。……そうだよね」
ようやくだ、にこりと人のいい笑顔が俺のほうへ向けられた。先ほどよりも高い位置にある太陽が、無理矢理にでもその笑みを輝かせようとしているようだった。
「ありがとう、少し頭が冷えたよ」
「……そうか」
「ごめんね、みっともなかったね」
この状況下で無理をさせてしまったことは理解している。けれど、俺たちは無理を通してでも勝たなければならない戦いの中にある。
せめてこの場所では気を解してくれるよう、俺も笑いかけて頭をぽんぽんと叩いてやった。
「いや……みんなにそのみっともないところを見せないのが、お前のすごいところだぜアルミン。……まあ、たまに激しく取り乱して泣きべそかくけどな」
褒めてやったあとに少しからかってやったが、アルミンは照れくさそうに笑うばかりで、
「……うん、うん」
また俺のほうへそれを戻した。先ほどまでの動揺が想像もできないような穏やかさで瞳を細めて、
「ぼく、人類が勝つまで諦めないよ」
「おう」
それに釣られるように俺も笑っていた。
……とりあえず、少しでもアルミンの気持ちを落ち着かせてやることができていたなら、それはとても幸いなことだ。……今回、超大型巨人を仕留める算段をつけて実行するという、おおよそ一・二を争う功績を残したこのちんちくりんに、いつまでも悲しい顔をしてもらわれてはこちらの気も晴れやしない。
「ジャン、」
「おう?」
呼ばれたから返事をしたというのに、アルミンは口元をもごもごさせてまた視線を逸した。
こういうとき、自分の察しの良さを呪う。
アルミンは顔を真赤にして照れ、
「あ、アルミン?」
「……あの、ね、」
やっと聞こえる程度の深呼吸をしてから、ゆっくりと顔を上げた。
「気持ち悪がらないで、聞いてほしい」
その瞳は思った通り、俺もよく知る切望に満ちた色をしていて、あっという間に俺の心臓は鼓動を加速させた。ドドドと身体の中に打ちつける音がやかましいが、
「君がミカサのこと、好きなのは知ってるんだ」
「あ、おう」
それ以上にアルミンの声がよく響いて聞こえる。
どうしてここでミカサの名前が出てきたのか、本気で一瞬わからずに考えた。そういえば俺はここ最近、余裕がなかったせいかあまりミカサを見かけていなかったように思う。……だが、それがなんだというのだ。アルミンの言う通り、俺はミカサが好きだった。
「……でも、その、」
なのに、呼吸を忘れるほどの心音に、自分で戸惑いを覚える。
一つ踏み込み身体を寄せたアルミンは、俺の表情を窺うようにちらりと顔を上げた。
「もう一度、君の温かさに、触れさせてくれないか」
「……え、」
アルミンの視線が俺の唇に向いているのがわかる。しかもただの視線ではない、色のついたずるい視線だった。そんな眼差しを向けられるものだから、先日、アルミンと交わしてしまったふれあいが脳裏を過ぎって身体を火照らせる。
その眼差しがそのままの色を保ち、まっすぐに俺の目の中を覗き込んでくる。俺の口が零す回答は当てにならないとでも言いたいのか、答えをそこに探しているようだった。
「――どうやらぼくは、君が好きみたいだ、ジャン」
「……は、え……え?」
「うまく言えないけど……もっと近づきたい、」
とどのつまり、アルミンがそこに釘付けだったのと同じように、俺もアルミンの不思議な魅力を放ち始めた瞳に、釘付けだった。以前アルミンが話してくれた『海』というものが本当にあるのだとしたら、きっとこんな色をしているに違いない。きらきらと艶っぽく輝いて、それでも自分を抑えるように俺の口元で今か今かと吐息を混ぜることを待っている。……気配だけで温かい。アルミンは言葉通り、本当に俺のことを大切に思ってくれているのではと伝わってくる。これが嘘だとしたら、アルミンは詐欺師にもなれるはずだ。
「ねえ、ジャン?」
気配がもう目と鼻の先に迫っていた。
――逃げられないと思ったし、逃げなくていいとも思った。
「……ンッ、ん」
「っジャ、ン……」
結局は言葉で『いいぜ』と返すのを恥じらい、なにを言う前に俺のほうからお行儀よく待っていた唇に食みついてやった。始めこそ驚いていたアルミンもすぐに俺のシャツの裾を掴み、今度は手首を掴み、肩を撫で、最終的には背中にその両方の手は移動していた。……当然、その最中俺は自分の手の置き場に悩み、されるがままに抱きしめていた。
先日味わったような身体の火照りが再び蘇る。先ほどまでの照れとは違う、身体の芯から温まるこの感覚は、ある意味ではもどかしかった。温かいのに足りないような、もっともっとと求めてしまいたくなる、そんな温かさだった。
「ん、ジャン……、」
「ふ、」
「あの、ね、」
不意に余韻を残してアルミンの気配が離れた。まるでいたずらを申告するような、少しやんちゃな表情で俺を見ているものだから、ぼんやりとした意識のまま次にくる言葉を待った。
「この間さ、今日みたいにキスしたでしょう」
「……あ、ああ」
正直なところ、心地の良かった唇の感触が離れて、少し残念な気持ちになっている。……その話は今じゃないといけないのか、と本当に割って入ろうと思ったほどだった。だが、それは少しの間、抑えておいて正解だった。
「あのあとね、ぼくは君をおかずに抜いちゃったんだ」
女への変装を任されるくらいに愛くるしい存在感を持っているはずなのに、唐突にとんでもないことを自己申告してきやがった。これまで交わしていたキスで頭が茫茫としていたことも手伝い、瞬時には反応ができなかった。
「…………あの、アルレルトさん?」
かろうじて出た抗議なんて、そんなものだ。
「あ、いやね、ごめん。その、ぼくの中にも好きだった人がいたはずなんだけど、もうそれから君のことで頭がいっぱいなんだ……って、ことが……言いたくて」
なにか色々と間違っている気もするが、こいつはいつだって周りを驚愕させるほどの突拍子のなさを披露してくれる。そういうところも、残念ながらこいつの長所の一つなのだ。それは否めないけれども。
「だから、ジャン、」
「お、おう」
改めて身構えられて、俺もつられて、す、と意識がはっきりとした。
「ちょっと横暴かもしれないけど、君にもそうなってもらえるように、ぼくは頑張るよ」
エレンたちと壁外の話をしているときとまるで同じような、燦々とした瞳でアルミンは語った。
……俺だって、ミカサが好きだったはずなんだ。だが、いつの間にか……こんなにも目を逸らせなくなっていた。ましてやあの日、自室に戻ってからの俺のことなんて、アルミンこそ知る由もない。まだ世界の誰も気づいていないが、もしかするともはや俺すら手遅れなのかもしれない。……とすると、アルミンのこの決意だって、すでにあってないようなものだ。
「……は? 遅えよ」
……言ってはやらないけど。
「あ……うん、そうだよね、順番間違ってるよね、ごめん……許してくれる?」
思惑通り、違う意味で受け取ってくれたことに気分を良くした。俺の真意なんてわからなくていい、だが、俺はもう伝えた気になっていた。
そう、結局は言葉にしないままの恋心なんて――
「――……あてになんねえな」
例外はあるが、誰も知らないままで終わった想いは、初めからあったかどうかも本人以外の人間には定かではない。ミカサのエレンへの眼差しを見たときから腹を括っていたようなものだ。俺も思い切って、前へ進んだほうがいいのかもしれない。
「ええ、どういうこと!? ぼく頑張るよ!?」
「おう、そうだな、せいぜい頑張れよ」
そしてわざとらしくアルミンの瞳を一瞥してやると、アルミンもその意味合いには気づいたようだった。また静かに俺に身体を寄せて、今度は俺をベッドのほうへ押しやりながら唇を交わしていく。人間の人肌の温かさを確かめるためではなく、互いの想いを確認し合うように触れて、前回は届かなかったところにまでこの熱が伝わっていく。
そのあと、力尽きた俺たちはすっかり日が暮れるまで二人で一緒に爆睡してしまうという、なんとも色気のない一日を過ごしてしまった。
夜食を物色するために食堂へ向かう途中、夜空にはあの日と似たような薄い月が浮かんでいた。そこに確かにあったはずの新月の夜は、いつの間にか、忘れられないものとして各々の身体に溶け込んでいったようだ。
おしまい
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あとがき
みなさま、アルジャンでは初めまして。
飴広と申します。
いかがでしたでしょうか……!
初めてのアルミンとジャンで至らないところもあったかもですが、
少しでもお楽しみいただけていたら幸いです。
原作補完話……もう妄想が大爆発でした。
このお二人まじで可愛すぎます……。
間に合えば次回はアルミンのお誕生日に合わせてアップしたいと思っておりますので、
お見かけくださった方はどうぞよろしくお願いします^^