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    【00】互いに手繰り寄せたのは ──彼に言わせれば「運命」ということらしい。


     他人の部屋の扉の前に立ち、ニールはひとつ息を吐いた。
     この部屋の住人とは面識がないどころか、顔も名前も知らない。
     否。名前なら先程聞いたので知っていることになる。
    『グラハム・エーカー』
     このアパートメントの管理人であるフェルト・グレイスはそう言っていた。その彼女の代わりに、ニールはこうして見知らぬ他人の部屋を訪れたのだ。
     呼び鈴を押すも、カスカス、と頼りない音しかせず、電池が切れているのかはたまた壊れているのか、どちらにしても役目を果たしていないのは確かであった。
    「エーカーさん、グラハム・エーカーさん」
     極力、他の住人の迷惑にならないギリギリの声で名を呼びながら、どんどん、と扉を叩く。だが、三十秒ほど待ってみるも中で人の動く気配はなく、出直しか、とニールは肩を落とし、それでももう一度だけと扉を叩きつつ、顔も知らない男の名を呼んだ。
    「エーカーさん、お留守ですか」
     一呼吸置き、やっぱダメかぁ、と諦め掛けたその時、どさどさっ、となにかが崩れるような音と小さく呻く声が中から確かに聞こえたのだった。
    「エーカーさん?」
    「どちら様かな?」
     キッ、と油の切れた蝶番が軋んだ音を立て、扉が細く開かれる。あぁ、良かったとニールは安堵の息をつくも、そこから顔を覗かせたのは思わず言葉を失ってしまうほどに身なりの酷い男であった。
     一体いつから散髪していないのか髪はボサボサ、しかも前髪で顔半分が隠れており、ちゃんと前が見えているのかも怪しい状態だ。
     着ているブルーのシャツも酷くしわが寄っており、心なしか黒ずんでいるように見える。
    「あー……フェルトの代わりに家賃の回収に来たんだけど。二ヶ月滞納だって?」
     これまでは家賃支払日には直接、管理人室のポストに、そっ、と封筒が届けられていたのだが、先月、そして今月分が未払いだという。ちなみに何故にフェルトが来ないかと言えば、ニールが代理を申し出たからだ。
     聞けば賃貸契約を結びに来た眼鏡を掛けたポニーテールの男は、礼儀正しい上に物腰が柔らかく好印象で身元もハッキリしているのだが、実際にこの部屋に住むグラハム自身は滅多に部屋の外にも出てこないため、どのような人物で仕事はなにをしているのかサッパリわからないという。
     一言で言えば「胡散臭い」のだ。
     そんな得体の知れない男のところにいくら仕事とはいえ女性を行かせるのはどうか? と言うのがニールが代理を申し出た理由である。
     相手の出で立ちに面食らうも、どうにか気を取り直し用件を伝えたニールは相手にゴネられた場合も想定していたのだが、そのような心配は無用であった。
    「なんと!? それは申し訳ないことをした。そうか、もうそんなに経っていたか。ちょっと待っていてくれたまえ!」
     話を聞くや否やグラハムが忙しなく室内へと取って返せば、またしてもなにやら、どさどさ、と崩れる音が届き、気にはなるがまさか覗き込むわけにも行かずニールは苦笑を漏らすしかない。
     ややあって戻ってきたグラハムは封筒を二つ携えており、先月分の支払い準備だけはしていたのだな、とニールはほんの少しではあったがグラハムを見直したのだった。
    「後ほど改めて詫びに行くが、フェルト嬢に申し訳なかったと伝えて頂ければ大変ありがたい」
    「オーケイ。だが、フェルトんとこ行くときは、ちゃんと身なり整えてから行けよ」
     さすがにソレは酷すぎる、とニールがやや眼を逸らしつつ指摘すれば、グラハムは思案するように僅かに首を傾け、まばらに生えた無精髭に彩られた顎を撫でつつ、そうか、と漏らした後、何事かに対して、うん、と小さく頷いた。
    「では、すまないがよろしく頼む──」
     そこまで言って不自然に言葉を途切れさせたグラハムを、ニールは不思議そうに見やる。
    「どうした?」
    「よく考えたら私はキミの名を知らないのだよ」
     どうやら名を呼ぼうとしてそのことにやっと気づいたらしい。ニールもフェルトから聞いていなければ相手の名を知らないままだったのだから、当然と言えば当然だ。
     グラハムも家賃を預ける相手の名を知らないのは気分が良くないだろうと、ニールは隠すことなくフルネームを告げ、相手からの「この詫びと礼に後日、食事に誘わせて頂こう」との言葉を、さらり、と受け流し無事に任務を完了したのだった。

    ■   ■   ■

     そのようなやり取りがあったのが半月前。現在、これといった問題も起こっておらず、ニールは平穏な日常生活を送っている。だが、彼を知るものに言わせれば、人柄故かはたまたそういった星の元に生まれついているのか貧乏くじを引くことが多く、ちょっとしたことでトラブルに巻き込まれ、平穏は長くは続かないのだが。
    「ちょっと休憩すっか」
     うーん、と両腕を大きく上方に伸ばしパソコンの画面から顔を背けたその時、ピンポーン、と呼び鈴が軽やかに響いた。
     来客の予定はなく、宅配便か何かか? と席を立ち、「はいはーい」と軽く応じながら開けた扉の先に居たのは、くるん、と癖のある蜂蜜色の髪を持った男であった。
     見知らぬ相手だがその面は整っており、こいつは随分とハンサムだな、とニールは内心で素直な感想を漏らす。だが、セールスに用はない、と相手がなにか言う前に「間に合ってます」と笑顔で告げ、開けたばかりの扉を躊躇無く閉めた。
    「ちょっ、待ちたまえ! ニール、ニール・ディランディ!!」
     どんどんどん、と激しく扉を連打しながら声を張る男に、ニールは閉めた扉の向こうへ「セールスに用はねぇよ! 新聞も間に合ってる!!」と負けじと声を張る。
    「セールスではない! 新聞の勧誘でも宗教の勧誘でもない!! 以前、約束したではないか!? 忘れたとは言わせんぞッ!! ニール・ディランディッ!」
    「約束?」
     相手の言葉にナニか引っかかりを覚えたか、ニールは難しい顔で自分の顎に手をやり、むむ、と考え込む。
     それにこの声を最近、どこかで聞いたことがある気がするのだ。
    「なぁ、約束ってなんのことだ? つか、アンタ誰?」
    「なんとッ!? 本当に覚えていないというのか!? 半月前に食事に誘うと宣言したではないか!」
     半月前。
     食事。
     金髪。
     連想ゲームのように並んだ単語が導き出した答えに、ニールは、あっ、と声を上げた。
    「エーカー? グラハム・エーカーかッ!?」
    「いかにも。敢えて言わせて貰おう、グラハム・エーカーであると!」
     慌てて開け放った扉の前ではグラハムが無駄に胸を張っており、その顔は不満をありありと見せている。
    「半月も経ってしまったのは私に非があるが、約束は疎か私自身のことを忘れていたというのは、納得がいかんなぁ」
    「いや、忘れてたっつーか、アンタあん時と全然違うじゃねぇか……」
     だらしなく伸ばされていた髪の下に隠れていたのがこのような端正な顔であると、一体誰が予想しうると言うのか。しかも薄汚れたシャツ一枚の姿と、現在のスーツを身に纏った姿がすぐさまイコールで繋がるはずもなく。
     頭の天辺から爪先まで、しげしげ、と何度も何度も視線を往復させるニールに、さすがのグラハムも居心地の悪さを覚えたか僅かに眉を寄せる。
    「そ、こまで酷い恰好をしていたかね、私は」
    「あぁ、酷いってモンじゃなかったぜ。不審者そのものっていうの? それがこうも変わるとはねぇ」
     こいつぁ吃驚だ、とわざとらしくグラハムの顔を覗き込むと、その造作の整った顔が苦虫を噛み潰したかのように歪められたのを目の当たりにし、ニールは、カラカラ、と笑い声を上げた。
    「飯奢ってくれるんだろ? ちょっと待っててくれ。丁度、休憩するところだったんだ」
     上着取ってくる、と室内に戻ったニールの背後では、相も変わらず苦虫を噛み潰した顔で、グラハムは己の口許を掌で覆ったのだった。


     同じアパートメントに住んでいるにも関わらずグラハムの行動範囲はニールとは違うらしく、意外にも彼はこの辺りのことをよく知らなかった。食事を奢ると言ったはいいがその肝心の店が決まっておらず、結局、店はニール任せとなったのだった。
    「出歩くの好きじゃないのか?」
     互いに人見知りする性格ではないため、道中の会話もそれ程苦にならないのは幸いであった。ニールは知り合いの同業者の顔を脳裏に思い描き、アイツもこいつくらいとは言わないがもうちょっと喋ればいいのに、と胸中で溜め息を漏らす。
    「そう言うわけではないのだが。あの部屋は仕事用に借りたようなものだからな」
    「仕事用? なんか作家がホテルにカンヅメにされてるみたいだな」
     先日の酷い有様を思い出し、ニールが、ははは、と冗談交じりに口にすれば、グラハムは一瞬、目を丸くしたものの直ぐさま不敵な笑みを浮かべ「まさしくその通りだ」と言ってのけた。
    「素晴らしい洞察力だ。恐れ入る」
     本気か冗談か判然としない賛辞を口にして、ふふ、と眼を細めるグラハムに、ニールは「いや、唯の冗談のつもりだったんだが」と困ったように後ろ頭を掻いた。
    「そうか、作家さんかぁ。どんなの書いてるんだ?」
    「ポルノだ」
    「……は?」
    「ポルノだと言った」
     淀みなく返ってきた言葉に間の抜けた声を上げれば、グラハムはご丁寧にも復唱してくれた。
     職業に貴賎なしと常々思っているニールだが、予想だにしていなかった返答に、ぽかん、と相手を見やるしかない。
    「お嫌いかね?」
    「あ、いや、好きとか嫌いとかじゃなくて、アンタみたいなハンサムの口からポルノってのが、予想外だった」
    「顔は関係ないだろう」
     なにを言っているのだと言わんばかりの呆れた口調に、その通りデス、とニールは素直に頭を下げる。
    「……と言ってもそれだけではないがね。頼まれればなんでも書くという話だ。選り好み出来る立場ではないのでね」
    「あー、それはわかるわ。俺も似たようなモンだし」
     緩く首を傾げるようにグラハムの顔を覗き込み、はは、と笑ってからニールは、かり、と頬を指先で軽く掻いた。
    「俺の場合は絵だけどな」
    「そうか。お互いなにかと苦労があるな」
     常に一定のクオリティを保てれば良いが、気持ちや環境に左右されそうそう巧くいかないのが人間である。手法は違えど脳裏に描いた物を他者に伝えるという点で、悩ましい部分は共通と言えた。
     そうこうしている間に目的の店に着き、ニールが「ここのマッシュポテトは絶品だ」と告げれば、グラハムは「それは私の大好物であると言わせて貰おう」と僅かに声を跳ね上げ、輝かんばかりの笑みを浮かべて見せたのだった。
    「キミのオススメがあれば」と注文をニールに任せた後、グラハムは正面に座する同伴者に改めて頭を下げる。
    「先日は世話をかけてしまって、本当に申し訳なかった」
    「いいって、そんな改まるなよ」
     まさか「アンタが胡散臭いからフェルトを行かせなかった」などと正直に明かすわけにもいかず、ニールは後ろめたさから僅かに眼を逸らしつつ、はは、と漏れ出た掠れた笑いを隠すように、水の入ったグラスを口に運んだ。
     こくん、と一口飲み下し、どうにか話を変えようと脳内の引き出しを引っ掻き回す。
    「そういやアンタ、いつもあんな切羽詰まった状態なのか?」
    「いや、今回はたまたま〆切が重なってしまってね。いつもではないよ」
     恥ずかしいところを見られてしまった、と今度はグラハムが誤魔化すようにグラスを持ち上げ、静かに唇を寄せる。
     ただそれだけの動作であるにも関わらず、いちいち様になる男だとニールは感嘆の溜め息を吐く。
     窓から差し込む陽光に輝く蜂蜜色の髪も美しく、僅かに伏せた瞼を縁取る睫毛が頬に影を落とす。
     そんな男が──
    「ポルノねぇ……」
    「まだ言うか」
     ぽつり、と漏らされた呟きにグラハムは片眉を上げ、どこか呆れたように嘆息混じりに応じれば、当の本人は声に出した自覚がなかったらしく、は? と間の抜けた声を上げた。
    「あ、悪ぃ。口に出てたか」
    「顔のことを言われるのは、まぁ、初めてではないが、やはりいい気はしないな」
     なにがあったかはニールには理解の及ばないことであるが、グラハムの記憶には相当、不快なこととして残っているらしい。あからさまに顔を顰めた相手に、ニールは詫びの言葉と共に素直に頭を下げる。
     キミに悪気がないことはわかっている、とグラハムは軽く肩を竦め、ニールをこれ以上責める気はないようだ。
    「先も言ったように、手がけているのはポルノだけではないのだよ。表立って名前は出ないが、ラジオ小説の脚本などもやっている。世話になっていた出版社は不況の煽りをモロに受けてなくなってしまったが、知り合いのツテでこうして食い繋いでいる」
     これだけの容姿だ。それを売りにして表に出れば彼個人のファンはつきそうなものだが、ふと自分をその立場に置き換えてみたニールは、見て貰いたいのは自分自身ではなく自分が描く物なのだと、即座にその考えを脳内から追い出した。
    「別の道も考えたが、とても惚れ込んでいるイラストレーターがいてね。また彼と仕事をしたいとの思いが捨てきれないのだよ」
     だから、筆は置かないのだ、と凜とした声を放つグラハムは真っ直ぐに、ただひたすら真っ直ぐにニールを見据える。
     その眼差しの強さにニールは、ちりり、と胸の奥を焼かれるような感覚に陥る。外見だけではなく、己を貫き通すその気概たるやなんと魅力的な男であることか。
    「……なぁ、モデルやって貰えないか?」
     突然の頼み事に一瞬、目を丸くしたグラハムだが、直ぐさま、ふっ、と鼻に抜けるような笑みを漏らし、くい、と口角を吊り上げた。
    「ヌードかね?」
    「ばっか、ちげーよ」
    「そうか、それは残念だ。自分で言うのもなんだが、イイ身体をしていると思うのだよ」
     どこまでが本気か非常に判断の難しい表情で繰り出されるグラハムの言葉を、ニールは端から真面目に受け取る気はないようで、はいはい、と軽くいなし、気分を害した様子もなく薄く笑っている相手を前に、どう説明したものかと暫し考える。
    「今受けてる仕事のイメージにぴったりなんだよ、アンタ。仕事の邪魔しないからクロッキーさせて貰えると助かるんだが」
    「そういうことならば不肖グラハム・エーカー、協力するに吝かではない」
     料理が運ばれてきたことにより会話は一旦中断されたが、互いにフォークを取り上げ料理を口に運びつつ話は続けられた。
    「大した礼は出来ないが、飯作るくらいなら出来るからよ」
    「なんと、それは大変ありがたい申し出であると言わせて貰おう」
     グラハムは料理が出来ないワケではないが、筆が乗っているときは極力他のことはしたくないのだという。その気持ちはわかる、と頷き、ニールは、にかっ、と嬉しそうに笑った。
    「決まりだな。都合のいい日を教えてくれよ」
    「そうだな、いつでもと言いたいところだが、今は部屋が酷い有様なのでね。明後日以降なら構わんよ」
     その言葉でニールは家賃の回収に赴いた際に聞いたなにかが崩れる音を思い出し、大方、資料関係が場所を問わず山と積まれているのだろうと、部屋の惨状を容易に想像することが出来た。
    「了解。行く前に連絡するから、携帯の番号とアドレス教えて貰えるか?」
    「承知した」
     止まることなく動いていたフォークを下ろし、グラハムはジャケットの内ポケットから携帯電話を取り出すと、ゆうるり、と眦を下げた。
     それを目にしたニールは、本当に仕草一つ一つが様になる男だと改めて思ったのだった。そして同様にポケットを探るも、あれ? と一瞬、動きを止め、次いで、ぱたぱた、とジャケット全てのポケットを叩く。
    「どうかしたかね?」
    「あー、携帯忘れてきた」
     ぽちぽち、と操作していた携帯電話から顔を上げたグラハムに問われ、ニールは申し訳なさそうに眉尻を、へにゃり、と下げた。
    「忘れてきた物は仕方がないな。では、あとでキミから私にメールのひとつでも打ってくれたまえ」
     そう言いながら紙ナプキンに、サラサラ、とペンを走らせ、すっ、とニールの方へ押しやる。そこに書かれた電話番号とメールアドレスは、あちこち滲んではいるが判別できないほどではない。
     悪いな、と詫びてからそれを仕舞おうとしたニールの片眉が、何かに気づいたか僅かに上がった。
    「読めないかね?」
     むむ、と考え込むように紙ナプキンを凝視しているニールに問いかけるも、彼は難しい表情のまま、いや、と首を振り、丁寧な手付きで折り畳んでからポケットへと落とし込んだ。
     正体不明の引っかかりにモヤモヤしつつもニールは思考を切り替え、何事もなかったかのように「戻ったらすぐメールするな」と笑ったのだった。

    ■   ■   ■

     余り早い時間に連絡するのも失礼かと、ニールは、むむ、と難しい顔で壁の時計とにらめっこをしつつ、手中の携帯電話を閉じたり開いたりしている。
     こんな事なら活動時間を聞いておくべきだった、と後悔するも後の祭りである。
     だが、そんな彼の思念をキャッチしたわけではないであろうが、ぱちん、と開いた瞬間、軽やかな音楽が流れ出し不意を突かれたニールは、うわわっ、と派手に狼狽え電話を取り落としそうになるも、どうにか通話ボタンを押して耳に宛がった。
    「も、もしもし?」
    『あぁ、良かった。眠っていたらどうしようかと思っていた』
     安堵の声を隠そうともしないグラハムに、相手も同じ事を考えていたのかとニールはほんの少しこそばゆい気持ちになる。
    「で、どうした?」
    『あ、あぁ、モデルの話なのだが片付けが終わらなくてだな、キミさえよければ私の方から出向こうと思うのだが、どうだろうか?』
     そんなに凄い状態だったのかよ、と声には出さないが内心で苦笑しつつ、ニールはグラハムに了承の言葉を返す。
    「了解した。今から行っても構わないかな?」
    「あぁ、待ってるぜ。そうそう、昼食はパスタな」
     それは楽しみだ、と笑ったグラハムにニールも笑い返し、どちらからともなく通話を終わらせたのだった。
    「さて、と」
     確認するかのように、ぐるり、1LDKの室内を見回し、ニールは小さく頷く。
     物は多いが散らかっているわけではない。ただ、来客を想定してはおらず接客用の椅子がないのが難ではあるが、そこは愛用のソファで我慢して貰うことにする。
     さほど待たずして呼び鈴がグラハムが来たことを告げ、一言、二言かわしながら室内へと招き入れた。
    「コーヒーでいいか?」
    「あぁ、お任せする」
     キッチンへと引っ込んだニールに軽く応え、グラハムは携えてきたノートをローテーブルに置くと壁際に並んだ本棚へと寄った。大判のデッサンの本や色彩関係の本などが並んでおり、縁のないそれらにグラハムは興味深げな視線を注ぐ。
     隣の棚は文庫やコミックス類で埋められており、どうやら仕事とは関係がないようだ。
     だが、その中で一冊、グラハムの目を引いた物があった。
     すっ、と抜き取ったそれを凝視しているグラハムに気づいたか、コーヒーの入ったカップを二つ手に戻ってきたニールが「それな、俺の初めての本でのお仕事」とはにかめば、驚愕の表情を浮かべるもグラハムは瞬き一つの間に何事もなかったかのような穏やかな笑みを浮かべ「そうか」と返した。
    「キミは『ロックオン・ストラトス』というペンネームなのか」
     カップをテーブルに置いていたニールはグラハムの様子には気づかず、彼の問いを受け言葉を続ける。
    「あぁ。別に本名でも良かったんだけど、弟がなんかイヤがってさ。なんも思いつかなかったから知り合いの編集者に頼んだら、まぁこうなったワケだ。もうひとり彼女に名前付けて貰ったのがいるけど、そっちもそのなんだ、うん」
     明言を避けている様子からして相当アレなのだな、とグラハムは珍しく空気を読み、問うことはしなかった。
    「弟さんもこっちの仕事を?」
    「いや、アイツはフツーのサラリーマン。でも、趣味として描いてるけど巧いんだぜ。実は〆切ヤバイときに手伝って貰ってる」
     本棚の前から動こうとしないグラハムのすぐ隣まで来て、ニールは彼の手から本を抜き取ると、ぱらり、と開いた。
    「児童書の表紙とか勝手がわからなくて手探りだったけど、いい経験になったな。あぁ、これな空に憧れる男の子の話で、いい話なんだわ。ぐっ、ときて思わずその人の本、出てるだけ全部揃えてちまったよ。そしたら他のも全部空絡みの話でさ、よっぽど空が好きなんだろうな。あぁ、献本と一緒に作者がメッセージカードくれたのも嬉しかったな」
     ほら、と大切に挟み込まれていたそれを開いたニールの眦が、ゆうるり、と柔らかく下がる。そこに綴られた下手ではないが癖のある文字にグラハムは僅かに片眉を上げるも、カードに目を落としているニールは気づかない。
    「社交辞令かもしれないけどな、『また一緒に仕事がしたい、キミの絵が好きだ』って言って貰えたのが嬉しくてさ、編集部通してお礼の手紙書いたらそれにも丁寧な返事くれて。ただ、この出版社が無くなっちまって、連絡手段も無くなっちまってそれっきりだ。しかもそれ以来全然名前見ないしさ。書くのやめちまったのかな」
     残念だよ、とそう言って一緒に挟まれていた封筒を、そっ、と撫でるニールから僅かに目を逸らしつつ、グラハムは奇妙な間の後に口を開いた。
    「……そうか。そこまで好いて貰えれば、その作者も本望であろう」
     するり、と棚の前から逃げるように移動し、グラハムは柔らかな湯気を上げているカップを一つ手に取る。
    「さて、私はなにかポーズをとるべきかな?」
     軽くカップを掲げ小首を傾げる優男にニールは、はは、と笑いながら本を棚へ戻すと「勝手に描かせてもらうから、自由にしてて構わない」と告げ、ソファへ座るよう促した。ニール自身は画板を持ち出すとベッドに胡座をかき、その上にクロッキー帳を広げる。
    「じゃ、よろしく頼むぜ」
     軽く戯けたようにウィンクをして見せるとニールは瞬く間に真剣な表情へと変わり、黙々と鉛筆を動かし始めた。グラハムも自分のノートを開き、カリカリ、と何事かを書き付けていく。だが、いくらもしないうちに頻繁に欠伸を噛み殺していることに、ニールは気づく。
    「眠いなら寝てても構わないぜ?」
    「あ、いや、すまん。大丈夫だ」
     はっ、と顔を上げ堂々と言い切るも、眦に溜まった涙のせいで説得力は皆無である。
    「あんま寝てないのか?」
     ニールの問いに、うっ、と喉を詰まらせるも、グラハムは隠し立てすることでもないと素直に口を開く。
    「昨日、急に打ち合わせが入ってしまってな。それで部屋の片付けもままならなかった」
    「あちゃー。それは悪いことしちまったな。こっちは後日改めてで良かったんだぜ」
    「なに、キミが気にすることはない。一度した約束を反故にするのは私の主義に反するのだよ」
     眠気を飛ばそうというのかコーヒーを口に含み、グラハムは目を細める。当の本人がそうは言っても、はいそうですか、で済ませられないのがニール・ディランディという男だ。どうしたものかと考えつつ、ベッドから降りて自分のカップを口に運ぶ。
     ちら、と目線を下ろせば再度欠伸を噛み殺したか、くるり、と跳ねた癖毛が僅かに揺れたところだった。
    「寝顔を存分に描かせてもらうから、心おきなく寝てくれていいんだぜ?」
     冗談めかした中に気遣いを感じグラハムが顔を上げれば、そこにあったのは予想通り柔らかく目を細めたニールの笑顔であった。
    「そうか。だが、仮に居眠りをしたとしても昼食時には起こしてもらえると、大変ありがたいなぁ」
     相手の心配りを無駄にせぬようグラハムも冗談めかした軽い口調で返し、ゆうるり、と眦を下げたのだった。


     大見得を切ったものの結局、寝入ってしまったグラハムを前に、ニールは宣言通り静かに寝息を立てる男を黙々と写し取っていく。
     凛々しさの際立つグラハムだが、こうして眠っている姿はどこか幼く、彼の印象を決定する要因は力強く輝く瞳と、その真っ直ぐな眼差しであるのだと理解した。
     男の目から見ても正統派のハンサムであると、しみじみ、感じ入っているところに、軽やかな呼び鈴の音が室内に響いた。幸いにもグラハムが目を覚ます気配はなく、ニールは安堵の息を漏らしつつ音を立てぬように床へ足を下ろし、そっ、と腰を上げる。
     短い廊下を大股に進みドアスコープから来訪者を確認すれば、そこに居たのは同業者であり、また同じ編集者に名を付けて貰った男であった。
    「どうした刹那?」
    「アンタの意見を聞きたいことがある」
    「あー……」
     いつもならば二つ返事で中へ招くニールの歯切れの悪さに、刹那は怪訝に眉を寄せ「迷惑だったか?」とぼかすことなく問いかける。
    「いや、今ちょっと人が来てるんだが、ソイツ寝てるしなぁ。まぁ、おまえが気にしないならいいが、どうする?」
     がしがし、と後頭部を掻いて、うーん、と考えた後のニールの返答に、刹那は「俺は構わない」と迷いなく返した。
     共に足音を立てずに部屋へと戻り、ニールは刹那を先にベッドへ座らせ自分もその隣へ腰を下ろす。刹那はベッドに投げ出されているクロッキー帳が気になるようだが、先に用件を済ませようというのかソファで眠る男にも目をくれることなく、鞄の中から取り出した物をそれぞれ一枚ずつ両手に持った。
    「スメラギ・李・ノリエガとも沙慈・クロスロードとも話したが、意見が割れた。アンタならどっちを選ぶ? ロックオン」
     馴染みの編集者と今現在、刹那が組んでいるライトノベル作家の名で、ニールは少ない情報ながらも彼がなにを聞きたいのかを理解した。
    「文庫のカバー絵かぁ……他のラフも見せてこの二枚が残ったんだな」
    「そうだ。あの二人はいつも最後の最後で意見が分かれる」
    「それでいっつも俺ンとこに回ってくるのな」
     はは、と笑いながらもニールの目は真剣に刹那の手元に注がれている。彼に任せれば万事巧くいくと、これまでの経験からか刹那はここにきてやっと周りを見る余裕が出来たようだ。
    「……あの男」
    「どうした?」
     ぽそり、と刹那の唇から漏れ出た呟きにニールは顔を上げると彼の視線を追い、あぁ、とどこか困ったような、かつ照れくさそうな声を上げた。
    「モデル頼んだんだけどな、仕事であんま寝てないって言うからそのまま……」
    「編集部に居た」
     ニールの言葉を最後まで聞かず、刹那は独り言のように続ける。
    「昨日、編集部に居た。ポニテで眼鏡の男と難しい顔でずっと話していた」
     グラハムへ向けていた目をニールへと移し、刹那は淡々と事実のみを口にしていく。
    「ロックオン、アンタが好きだと言っていた本を前に、ずっとだ」
    「なに……? どういうことだ刹那」
    「詳しくはわからない。だが、本人がいるのだから直接聞けばいい」
     真っ直ぐニールを見据えたまま刹那はこともなげに言い放つと直ぐさま立ち上がり、有言実行と言わんばかりにソファの傍らに膝を突くと、ゆさゆさ、とグラハムの肩を揺すりだした。
    「おい、起きろ」
    「こっこら刹那ッ!?」
     躊躇いのない行動に、あわわ、と焦りつつもニールは刹那の両手を背後から掴むと、強制的に万歳の恰好を取らせて相手の動きを封じる。
    「何故止める」
    「寝てる相手をわざわざ起こすことないだろ」
     ひそひそ、と声を潜めてはいるが超至近距離であることに加え刹那に揺さぶられたのが効いたか、むー、とグラハムの喉奥から不明瞭な呻きが漏れ、次いで気怠げに薄い瞼が持ち上がっていく。
     現れ出でた新緑の瞳にニールは、あちゃー、と額を押さえ、片手が解放された刹那はより早く覚醒を促すように、ゆさゆさ、と再度グラハムの肩を揺する。
    「……キミは誰かな、少年?」
    「さすがに少年は無理があるだろ。まだ寝てるのか?」
     起き抜けのグラハムの発言に律儀にもツッコミを入れてから、ニールは「起こしちまって悪かったな」と詫びた。
    「いや、モデルを引き受けておきながら、眠ってしまった私に非がある。それで、なにかあったのかね?」
     のそり、と身を起こしたグラハムの鼻先では刹那がなにかを確認するかのように、じっ、と穴が開くほどの強い視線を注いでいる。
    「そこまで見つめられては、さすがの私も照れてしまうのだが」
    「やはり間違いない。この男だロックオン」
     背後を振り仰ぎ結論を出した刹那に、ニールは困ったように笑い返すしかない。
    「一体なんの話をしているのか、説明はして貰えないのかな?」
     くぁ……、と欠伸をひとつ漏らしそれで眠気は全て消えたか、存外に強い目で見上げられニールは遠慮がちに「実は」と口を開いた。
    「刹那が昨日、編集部でアンタを見たって言ってな」
    「あ、あぁ……ちょっと友人に会いに行ったのだよ」
    「それにしては随分と険しい顔で話していたが」
     容赦のない刹那の追撃にグラハムは僅かに片眉を上げるも「そうだったかね?」と軽く受け流す。
    「たまたま真面目な話をしているところを見たのだろう。キミだって友人と話しているからといって、終始笑顔ではないであろう?」
     淀みなく、すらすら、とまるで用意されていた台詞を諳んじるかのようなグラハムの一挙手一投足を、じっ、と見ていた刹那は、おもむろに立ち上がると本棚に寄り一冊の本を抜き取った。
    「では何故、この本を前にしていた」
    「なんとッ!?」
     ばばーん、と正面に突き出されたそれに、グラハムは思わず引っ繰り返った声を上げてしまい、先の冷静さは見る影もない。ついでに、はっ、と口許を掌で覆ってしまい、更に失態を曝すこととなった。
    「疑いようもないな」
     刹那の一言にトドメを刺され、うっ、と呻いたグラハムにニールは少々、気の毒そうな目を向ける。本来ならば頭の回転も速く切れもあるのだろうが、普段から勘の鋭い刹那相手に寝起きでは分が悪かったようだ。
     それにどうやら妙なところで嘘がつけないらしい。
    「どういうことなんだ?」
    「……復刊の話が、出ているのだよ」
     観念したか重いながらも口を開いたグラハムに、ニールは首を傾げる。
    「それとアンタとどういう関係が……」
    「この男が作者本人だからだ」
    「は?」
     ローテーブルに置かれていたノートを、ぺらぺら、と捲りながらニールの疑問を一言で終わらせた刹那は、そうだろう? と言わんばかりにグラハムを見つめる。
    「あっこら、勝手に人の物を……」
    「いいのだよ」
     先程からことごとく台詞を中断させられニールは、コイツら実は似たもの同士なんじゃねぇの? と思い始める。
    「これが証拠だ」
     そう言って刹那がテーブルに並べたのは開かれたノートと、本に挟まれていたメッセージカードと手紙である。
    「同じ筆跡だ」
     並べられたそれらを前に、そういうことか、とニールは胸のつかえが、すとん、と落ちたように納得する。先日、グラハムの筆跡を見た時のモヤモヤの正体はこれであったのだ。
    「おいおい、だったらなんでさっきそう言ってくれなかったんだよ」
     当然、湧いてくる疑問をニールがそのまま口に出せば、グラハムは気まずそうに目を伏せ「すまなかった」と小さく詫びる。
    「別に怒ってるワケじゃねぇよ」
     すっかり項垂れてしまったグラハムの顔を覗き込み、言葉を促すようにニールが首を傾ければ、ふるり、と金の睫毛が震えた。
    「キミが余りにも嬉しそうに語るから、失望させたくなかったのだよ。空を愛する気持ちは今も変わらないが、同じ手でポルノを書いていると知ったら、いい気はしないであろう?」
     どこか寂しそうに笑うグラハムにニールは一瞬、言葉を失うも、直ぐさま表情を引き締める。
    「黙っていられる方がいい気はしねーよ。それって騙されてるのと同じだしな」
    「そんなつもりは……ッ!」
     ばっ、と勢いよく顔を上げたグラハムの予想に反して、ニールの表情は穏やかだ。
    「わかってるって。でも俺はそう思ったってことを知って欲しいんだよ」
     責めてるわけじゃない、と柔らかく笑んでニールは膝上で固く握られているグラハムの拳を、ぽん、と軽く叩いた。
    「そうか、復刊するのか。嬉しい話だな」
    「いや、まだ決まったわけではないのだよ」
     我が事のように喜ぶニールを前に、グラハムは躊躇いがちに否定の言葉を口にする。話し合いの様子を見ていた刹那は予想がついていたのか、敢えて口は挟まない。
    「なにか問題でもあるのか?」
    「カタギリが復刊するに当たりイラストレーターを変えようと言うので、断固辞退した」
     拳を解き、グラハムはニールの手を力強く握り締めた。
    「キミに送ったメッセージカードの言葉は、嘘偽りのない私の気持ちだ。それは今でも変わらない! あの話はキミの絵でなければダメなのだよ!!」
     愛の告白もかくやという勢いで言い募られ、ニールは喜びよりも驚きで思わず仰け反るように身を引いてしまう。
    「そ、そいつぁドーモ」
    「『一晩よく考えてよ』などと言われたが、やはり私の答えは変わらない! あぁ、こうしてはいられないな。今からカタギリを説得してくる!! すまないが続きはまた後日だ」
     一気に捲し立て、しからば、と片手を上げ出て行ったグラハムの背中を無言で見送るしか出来ず、残されたニールと刹那はどちらからともなく顔を見合わせると、ニールのみが、はは、と引きつった笑いを漏らした。
    「相思相愛で良かったじゃないか、ロックオン」
    「愛とか言うなッ! そ、それにしても刹那、おまえよく筆跡とか覚えてたなぁ」
     どうにか愛から話を遠ざけようと別の話を振れば、刹那は僅かに片眉を上げると「それだけ話を聞かされて、それだけアレを見せられたということだ」と淡々と告げる。
    「……そんなに?」
     こくり、と無言で首肯され、ニールは目の前のソファに敢えなく撃沈したのだった。
    「だが、良かったことには変わりないのだから、それでいいんじゃないのか」
     刹那の言葉は常に真っ直ぐで嘘がない。
    「きっと、あの男はアンタの絵に心を撃ち抜かれたんだ」
     俺もそうだ、とはにかむ刹那に手を伸ばし、情愛と感謝を込めて黒髪を、ゆるり、と撫ぜた。
    「ほんと、お前らよく似てるよ」
     だから、きっと、そう遠くない未来にグラハムのことも好きになるだろうと、ニールは予感した。

    ■   ■   ■

    「いっつもこうなる前に呼べって言ってるだろ」
    「すまない。わかってはいるのだが、気がついたらこの有様だ」
    「おまえさんは集中すると、良くも悪くも周りが見えなくなるからなぁ」
     あーもー、と口では文句を言いつつもニールはいつから閉め切っているのかすら不明な窓を大きく開け放ち、部屋中に散乱していた衣類を手際よく洗濯カゴに拾い集めていく。
    『支援物資を所望する』との簡潔なメールに、またか、と溜め息をつき、食材片手に彼の部屋に踏み込むのは一体何回目になるのかと、五回目までは数えていたのだがそれが無意味なことであると気づいてから、ニールは数えるのをやめた。
     パソコンの前でポトフを啜るグラハムの姿は初めて会った時と同じ状態で、見慣れたくはないがすっかり慣れてしまったことに嘆きと諦めの入り交じった息を吐いたニールを、一体誰が責められるというのか。
    「それ食ったら風呂な」
     ベッドを侵食していた書籍類をダンボールに詰め込みつつ、ビシッ、と狙い撃つようにグラハムを指させば、そろり、と忍び足でニールに近づいていたグラハムの動きが、まるで『だるまさんがころんだ』をやっているかのように、ぴたり、と止まった。
    「返事は?」
    「……了解した」
     どこか、しょんぼり、とした風情で浴室へと向かうグラハムの背に、ニールは「あ、髭もちゃんと剃れよ」と言葉を投げる。それに振り返ることなく片手を上げて応えとした相手に、ニールは、やれやれ、と言わんばかりに軽く肩を竦めた。
     珍しくもあからさまな態度に、かなりお疲れの彼は少しでいいから優しくして欲しい気分だったのだろうと悟る。
    「仕方ねぇな。ちょっとくらい甘やかしてやるか」
     奔放で我が強く人の話を聞かない上に我慢弱い男だが、その実、大変思慮深く、あの饒舌さに誤魔化されがちだが本心はなかなかさらけ出さない男であることが、真っ直ぐすぎて随分と不器用な生き方であるということが、長くはない付き合いの中で、少しずつではあるが酌み取れてきた。
    『そんなんだから兄さんは貧乏くじ引いてばっかなんだよ』といつぞやに吐かれた弟の言葉が耳に痛いが、そういう性分なのだから仕方がない。
     どうにかベッドで眠れるようにその周りを重点的に片付けてから、よし、とニールは自分に気合いを入れる。
    「グラハム、髪切ってやるよ」
     浴室に向かって声を張り、ついでに頭も洗ってやる、と続ければ、ばしゃり、と盛大に湯を跳ね上げる音が響き、なんと! と喜色を隠そうともしない声が上がった。
     たったこれだけで盛り返したグラハムを、単純だと笑うつもりはない。むしろこれだけでいいのかと、胸の奥が、キリリ、と締め付けられるのだ。
     多くを望まないのは彼の生い立ちによる物であろうと、ニールは思っている。
     棚から散髪用のハサミを取り出し、浴室へと向かう。すっかりこの部屋に馴染んでしまったソレは、元はニールの持ち物であった。
    「グラハム、開けるぞ」
     彼が名を呼ばれることが好きなのだと気づいてからは、不自然にならぬよう出来るだけ名を呼んだ。
     バスタブでおとなしく身体を休めていたグラハムの顔に手を添え、ゆっくり、と天を仰がせる。バスタブの淵から頭だけを突き出した恰好になり、ちょっと首が痛いな、と笑いながらグラハムは不満を口にする。
    「教会から手紙、来てたぞ」
    「あぁ、恐らく寄贈した本が届いたのだろう。あそこのシスター達は昔からマメだからな」
     親の顔を知らず、同じ境遇の子供達と過ごした教会附属の施設に、グラハムが復刊された本を全種寄贈したのは先日のことだ。
     空に憧れた少年はその思いを胸に抱いたまま成長し、大切に大切に育ててきた思いの丈を物語という形で解き放った。
     あれはグラハムの魂の叫びであったのだと。
     それが心に響かないわけがないのだと。
     金の髪を優しく梳きながらニールは瞼を伏せたグラハムの顔を、じっ、と見つめる。
    「どうかしたかね?」
     注がれる視線を感じたか、どこかくすぐったそうに顔の筋肉を弛ませたグラハムに、いや、と軽く返し、ニールは相手の前髪を後ろへ流す。
    「時間が出来たらまたモデルやってくれよ」
    「あぁ、構わんよ」
    「今度はヌードな」
     さらり、と何食わぬ顔で言葉を続ければ、ぱちり、と驚いたようにグラハムの目が開いた。大きな目を一瞬であったが更に大きくし、二度、三度と瞬きを繰り返してから、ゆうるり、と口角を持ち上げた。
    「前にも言った通り、イイ身体だろう?」
    「あぁ、まったくだ」
     ニールの返しがお気に召したか、ふふ、と微睡む寸前のような柔らかな笑みを浮かべ、グラハムは、ぱちゃり、と湯の中で手を遊ばせる。
    「私もキミのように髪を伸ばそうと思うのだが」
    「やめとけよ。アンタは短い方が似合ってる」
     他愛のない会話をいくつも交わし、思い出したようにニールが夕飯のリクエストを募れば、グラハムの口から間髪入れずに「マッシュポテトは譲れない」と飛び出し、ニールは声を上げて笑ってから「了解」と、相手の額に小さなキスをひとつ落としたのだった。

    ::::::::::

    2010.09.30
    茶田智吉 Link Message Mute
    2018/07/26 9:41:43

    【00】互いに手繰り寄せたのは

    #グラハム・エーカー #ニール・ディランディ #ニルハム #腐向け ##OO ##同人誌再録
    同人誌再録。
    絵描きのニールと小説家のグラハムのパラレル。
    (約1万5千字)

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