【00】鳥の王(後編) 月のない夜であった。
石造りの通路を足音を殺して進み、突き当たりの扉をゆっくりと押し開く。
微かな軋みを上げ開かれたその先には鈍く輝く陣があり、その中央に囚われている者こそが目的である。
父は自分を裏切った。
いや、あの男を父と思ったことなど一度としてない。
あの男は美しい母を手に入れるためには手段を選ばず、愛する夫を失い悲しみに暮れる母につけ込み、まんまと手中に収めた。
そして今、その母すらも自分から奪ったのだ。
これ以上、あの男の好きにさせてなるものか。
陣の中央で身動きひとつしない小鳥を、そっ、と胸に抱く。
母は私のものだ。
母は私のものだ。
母は私のものだ。
誰にも渡さない。
――例えそれが神であろうとも。
7
土砂に半分埋もれた神殿が発見されたとの報告がビリーの耳に入ったのは、昼食の時間からやや外れた頃合いであった。
遅い昼食代わりに囓っていたドーナツを放り出し、詳しい話を聞こうと研究室を飛び出した矢先、ぼすん、と扉の前にいた人物にぶつかり、思わず踏鞴を踏む。勢いよくぶつかったにも関わらず、扉向こうの人物は微動だにしなかった。
そして長身であるビリー以上に上背のある者は、この学院には数えるほどしか居ない。
「す、すみません、叔父さん」
咄嗟に詫びたはいいが、学院長ではなく叔父さんと言ってしまい、ビリーは更に詫びの言葉を重ねる。それを軽く流し、ホーマーは「着いてきなさい」と踵を返した。
「神殿が発見されたというのは聞いたな?」
「はい」
先に行く叔父の背を大股に追いながらビリーが返事をすれば、ホーマーは振り返ることなく言葉を継ぐ。
「今、簡単な内部調査をさせているが、本格的な調査をお前に任せたいと思っている」
「え、あ、そんな。僕でいいんですか」
確かにビリーは優秀だが研究者としては年若く、先達を差し置いてのこの抜擢は、血縁故の贔屓であると周りからは取られかねない。だが、ビリーのそのような危惧など先刻承知であったか、ホーマーは呵々と笑うと、ゆうるり、と頭を巡らせた。
「小規模な物で他の者は軽く見ているのでな、気兼ねすることなく自由にやると良い」
「はぁ、そういうことでしたら」
どこか、ほっ、とした息を吐くビリーにホーマーは一瞬、鋭い眼差しを向け、それを隠すかのように目を細める。
「お前が今、調べている物に関係があると良いな」
その一言でビリーの顔から、さっ、と血の気が引いた。具体的な指摘はないが、ホーマーの言葉は明らかに『鳥の王』を指している。叔父は一体、なにをどこまで知っているのか。内密に内密に事を進めているビリーにとって、それは青天の霹靂であった。
言葉を返せないビリーを余所に、ホーマーは学院長室の扉を開く。調査に必要な書類作成と予算について話し合ったが、正直、内容の半分もビリーの頭には残らなかった。
「ぶっ放せ、ティエリア!」
「言われなくとも……ッ!」
手にした複数枚のカードをほぼ同時に解放し、通路にひしめいていたスライムを一掃する。業火に焼かれ欠片も残さず消え失せたそれを目の当たりにし、ニールは改めてティエリアの尋常ではない能力の高さに恐れ入るのだった。
「大方、片付いたぜ」
後ろに控える雇い主を肩越しに見やりニールが声を掛ければ、眼鏡のブリッジを押し上げつつビリーがグラハムと共に二人に寄ってくる。
「いやはや、話には聞いていたけれど凄いね」
スライムと共に焼かれた石造りの通路は竃の如く熱を発し、正直、進める状態ではない。
「次はもうちょっと控えめに頼むよ」
はは、と笑ってビリーは横手の扉を押すも、長いこと使われていなかったそれは不愉快な軋みを上げるだけで開く気配はない。
「開かないのかね?」
「うーん、蝶番が錆びてるのか、扉自体が歪んでるのか」
まいったね、と軽く肩を竦めるビリーの代わりにグラハムが扉の前に進み、二、三回なにかを確かめるように軽く手で押した後、おもむろに強烈な蹴りを放った。
べきん、と派手な破壊音が響いたと思う間もなく、扉は無惨にも引きちぎられた蝶番と共に部屋の内側へ倒れ込むや、床に積もっていた埃を、もうもう、と舞い上げた。
「これで良かろう」
「結果的には良くても、手段が良くないねぇ、グラハム」
しれっ、と涼しい顔で言い放つグラハムに、ビリーは笑いながら、ビシリ、と裏拳でツッコミを入れる。
「私がやらずともそこの彼が同じコトをしたと思うのだが」
「同じとは失敬な」
グラハムの言葉に心底心外だと言わんばかりに、ティエリアが柳眉を吊り上げる。だが、その手にはなにやらカードが握られており、当たらずとも遠からずなのは明白であった。
「さて、と。じゃあとりあえず、この部屋を活動拠点にしようか」
神殿の出入り口から一番近い部屋であるため、有事の際には殿は冒険者に任せ、ビリーは死ぬ気で走って屋外へ脱出ということになる。
「奥の方にはゴブリン辺りが居るかもしれねーけど、ま、そん時はそん時だな」
「報告書を見る限りじゃ、居た痕跡はあるけど既に移動済み、ってコトになってたから、大丈夫だとは思うけどね」
ニールの言葉にビリーは軽く返しつつ鎧戸の閉じられた窓に寄るも、こちらも扉同様、立て付けが悪くなっており、結局、グラハムが力任せにぶち破るという結果と相成ったのだった。
「地上階の広さは大したことはないけど、地下があるからね。むしろ本命は地下の書庫だから、魔法の扱いにはくれぐれも気を付けてほしい」
吹っ飛ばさないように、と真顔で全員に念を押すビリーの目は研究者の物とは思えぬ迫力を有しており、三人はただただ頷くしかなかった。
サリサリ、とノート代わりに持ち込んだ平たい箱に薄く敷かれた砂に鉄筆で文字を刻みつつ、ビリーは口中でなにやら、ブツブツ、と呟いている。
神殿到着初日に遭遇したスライムの大群以外はこれといった障害もなく地下書庫に到達し、現在はそこに保管されていた粘土板の解読に精を出している真っ最中である。
ただし、解読作業は活動拠点にと決めた最初の部屋で行われており、ビリー以外は粘土板の運び出しに四苦八苦と言った状況でもある。
「ち、地下でやりゃいいだろ……」
ちょっと休憩、と汗だくでへたりこんだニールがぼやけば、同様に膝を着いたティエリアが、ゆるゆる、と首を横に振った。
「気持ちはわかるが、安全面を考慮するとそういうわけにも行かないだろう」
ただでさえも空気の淀みやすい地下である。しかも今は神殿自体、半分が土砂に埋もれている状態であり、通風口が塞がっている可能性もある。
「何かあったときに地下では逃げ道がないではないか」
二人に水筒を差し出しつつグラハムが空恐ろしいことを、さらり、と口にすれば、「確かにそうだけどよ」とニールが苦く笑う。
「あ、アーデさんは解読の方を手伝ってくれるかな?」
作業に没頭していたかニールのぼやきは耳に届いていなかったらしく、ビリーは顔を上げると、ちょいちょい、とティエリアを手招いた。
「あぁ、了解した」
悪いな、とニールの肩を、ぽん、と軽く叩きティエリアはビリー同様、鉄筆を手にする。元から彼には解読の方を任せるつもりであったのか、ビリーがスメラギの紹介所で提示した条件に『多岐に渡る言語に精通している者』というのがあったのだ。
そりゃねぇだろ、と脱力しきった声を洩らすニールにグラハムは「もう一踏ん張りしようではないか」と、無駄にイイ笑顔を向けたのだった。
「こうなるとわかってたら『縮小』のカード用意してきたのによ」
通路を進みながら嘆くのをやめないニールは、相当この作業に嫌気が差しているようだ。普段、余り不平不満を表に出さない彼にしては珍しい、とグラハムは文字通り目を丸くする。
「果てがないというわけではないのだ。いずれ終わりは来る」
慰めになっているのかいないのかよくわからないことを口にしたグラハムを暫し、じと、と恨めしげに見ていたニールだが、そうしていてもなんの解決にならないと悟ったかひとつ大きく息を吐くと、ゆるり、と眦を下げた。
「そうだな。大した広さじゃなかったし、気長にやるとするか」
粘土板を運ぶスピードと解読のスピードは、明らかに後者の方が遅いのだ。
「ある程度、内容が判明すれば、残りは学院での作業になるだろうしな」
全てを此処で読み解くわけではないのだ、と言外に含ませ、グラハムは率先して通路を進む。だが、なにか気に掛かるのか、ふと、足を止め、じっ、と書庫より更に先の行き止まりの壁を見つめる。
「どうした?」
「いや……なんでもない」
ふるり、と頭を振りグラハムは書庫の扉をくぐる。怪訝な顔でその背を見、続いてニールも行き止まりの壁を凝視したが、当然のことながらそこにはなにもなかった。
幸いにも井戸は埋もれておらず水の確保は問題なかったが、保存食続きの食事に平然としている冒険者たちにビリーは正直、脱帽である。糖分はかろうじて氷砂糖で補給できているが、ドーナツが恋しくて恋しくて堪らないのだ。
物資の補充も兼ねて一旦、街へ戻ろうか、というビリーの提案にあからさまな反対意見はなかったが、何事か考え込むかのようにニールとティエリアが顔を見合わせた。
「全員で、ってわけにはいかないよなぁ」
ここには金目の物など全くないのだが、発掘された遺跡にはお宝があると思い込む困った輩が存在するのも事実で。冒険者とは名ばかりの盗掘屋が現れないとも限らないのだ。
誰が残る? と皆の顔を見回すニールに、真っ先に名乗りを上げたのはグラハムだった。
「見張りならば私が適任だろう」
さらり、となんでもない顔で言い放つものだから、彼が百の目と千の耳を持っていると知っているビリーとニールは、うっかり、納得してしまったのだが、ティエリアは理由がわからず怪訝に眉を寄せる。
「総合的な能力を鑑みるに、彼よりも俺の方が適任だと思うのだが?」
そして包み隠さずティエリアがそう口にすれば、ニールは一瞬、やらかした、と口元を引きつらせるも直ぐさま表情を改め、ぽん、と彼の両肩に手を乗せた。
「それよりもおまえには買い出しを任せたい。コイツに任せたらとんでもないことになるに決まってる」
引き合いに出され、ムッ、と眉を寄せるグラハムは敢えて無視し、ニールは畳み掛けるかのように言葉を継ぐ。
「カードチャージとか、あ、あと補助系も増強してくれると助かる。粘土板運びがラクになるようなヤツな!」
「わ……わかった」
あまりにも必死に言い募るニールの剣幕に押されたか、ティエリアは反論することなく、こくり、と首を縦に振ったのだった。
結局、街へ戻るのはビリーとティエリアということで落ち着き、二人の背を見送ったニールは深々と息を吐いた後、グラハムに半眼を向ける。
「おまえなぁ、隠したいのかそうでないのかハッキリしろよ」
「これは失礼した。私にとっては当たり前のことなので、失念していた」
「いやいや、当たり前なんかじゃねぇから。いくらなんでも順応性高すぎんだろ」
全く悪びれた様子のない相手にニールが呆れた声を返せば、グラハムは、コツコツ、と己のこめかみを指先で軽く叩いた。
「幼少の頃は人ならざる者の声が聞こえていたからな。まぁ、いつしか聞こえなくなっていたが、今はそれと同じような状況なのだよ」
俄には信じがたいことを、さらり、と告白してきたグラハムに、ニールは思わず額を押さえる。変わっている、変わっている、とは思っていたが、これはさすがに予想外であった。
「妖精の血でも混じってんのか」
「さぁ? 言ったであろう? 私は孤児なのだと。親のことはこれっぽっちも知らないし、知る術もない」
冗談交じりのニールの言葉にグラハムも軽い調子で、ひょい、と肩を竦めて見せる。そして、この話はここで終いだと言わんばかりに笑むと窓辺に寄り、地面を突いていた雀に、人が近づいてきたら知らせるように、と声を掛けたのだった。
己の腕を枕に寝入っていたニールの意識が、ゆったり、と浮上していく。窓からは月光が薄く差し込んでおり、夜明けまでにはまだ遠いのだと知る。これまで夜は交代で見張りをしていたこともあり、身体はそれにすっかり慣れてしまっているらしい。
湧き上がる欠伸を噛み殺し、隣で同じように横になっているグラハムに眼をやるも、そこにあるのは、くしゃり、とたわんだ毛布のみで。
「グラハム?」
そっ、と身を起こし室内に居ないことは承知で、それでも心持ち抑えた声音で彼の名を呼ぶ。案の定、返らぬ応えに眉を寄せつつニールは改めて室内を見回した後、静かに立ち上がった。
彼も目が覚めてしまって散歩をしているだけならいいのだが、どうにも胸騒ぎを覚えニールは足早に部屋を出る。確証はないままに地下へと続く階段を駆けるように降りゆけば、壁に埋め込まれた発光石の放つ青白く淡い光の下、浮き上がるようにグラハムの背中が視界に飛び込んできた。
「グラハム、おい」
通路を蹴りつけるように駆け、呼びかけに振り返りもしない肩を少々、乱暴に掴む。
「こんなところでなにしてんだよ」
彼の肩を支点に正面に回り込むもニールは一瞬、喉を詰まらせ、まじまじ、と相手の顔を覗き込みつつ、ゆっくり、と唾を嚥下した。
「グラハム……?」
両肩に手を乗せたまま確認するように彼の名を静かに唇に乗せれば、余所へと向かっていた意識がやっと目の前の相手を認識したか、グラハムは伏せていた目を上げ困ったように笑んで見せた。
「すまない、起こしてしまったかね?」
「そんなこと言ってんじゃねぇよ。なにしてんだ、アンタ」
先程までの唇を引き結んだ険しい表情から一転、普段の彼に戻った安堵からかニールの口調も少々、荒い物になる。その問いにどう答えたものか、とグラハムは口元を手で覆い低く唸る。
「自分でもおかしな事を言っているのは承知している。だが、私は知っているのだ」
そう言ってニールの手から抜け出すと、迷いのない足取りで通路の突き当たりまで進む。そこは以前、昼間にグラハムが気にしていた場所であったと気づき、ニールは片眉を上げた。
「此処には扉がある」
ペタペタ、と探るように石壁に触れるもそれは無機質な硬さを返すばかりで、彼の求める物は姿を現さない。
「確かにある。あるハズなのだ」
ぎり、と奥歯を噛み締め急くように壁を探り続けるグラハムの姿に、ニールは静かに息を吐くと足を一歩踏み出した。
「こういうのは俺の役目だろ」
そっ、と穏やかな手付きでグラハムの肩を押し、代わりにニール自身が壁の前に立つ。床と壁の継ぎ目を丹念に探り、次いで側面の壁に指を這わせる。黙って見ているしかできないグラハムは、歯痒そうにその場に立ち尽くすしかない。
「なぁ、この先にはなにがあるんだ?」
明かりの足りない手元にもどかしさを覚えつつニールが問えば、グラハムは言葉を返せず、ゆるり、と頭を振った。だが、こちらを向いていないニールにその動作が伝わるわけもなく、緩く息を吐く。
「わからない。だが、どうしても私は……」
彼自身、何故そこまで固執しているのかわからないのだろう。不安と焦燥を隠しきれていない声音からそれを感じ取り、ニールは僅かに眉根を寄せる。
「ま、開けてみればわかるか」
ここでグラハムを問い詰めてもどうにもならないと察し、極力、軽く返した言葉に背後から伝わってきたのは、安堵のそれであった。
扉は果たしてあった。
隠されていただけではなく幾重にもかけられた封印も、心許ない手持ちのカードでなんとか全て解き、物理的な鍵もそのままニールが解除した。ここまで厳重に守られていたとなると、その中のものは普通に考えれば相当重要なものである。
膝を着いたまま、そっ、と慎重に扉を押し開き、期待と不安を胸にニールは室内を覗き込む。
だが。
「なにもないな……」
部屋を一瞥したニールの言葉にグラハムも彼の頭越しに部屋を覗き込み、絶句する。
そこは僅か三メートル四方の石造りの部屋。装飾らしい装飾は一切なく、書き物机のひとつもないのだ。
「物置だったらなにかしら残ってるよな」
「あんな厳重な封印を物置に施す酔狂な者が居たら、お目にかかりたいところだな」
ぼそり、と呟いたニールに、グラハムはどこか呆然としたまま言葉を紡ぐ。
何故、なにもないこの部屋にグラハムはあそこまで拘ったのか。グラハムを仰ぎ見ようと首を捻ったニールの視線をすり抜けるように、グラハムは更に扉を押すと室内に一歩踏み込んだ。
なにかが、なにかがあるハズなのだ、と腹の奥から湧き上がる衝動に突き動かされるまま、グラハムは天井を見上げるも、そこにもなにもない。
固唾を呑んで見守るニールの視線を背中に感じながら、グラハムは探るような足取りで尚も進む。
目に見える物はなにもない。
だが、なにかがおかしい。
目に見えるものではなく、心をざわつかせるなにかが、此処には存在している。
更に辺りを窺うようなゆっくりとした足取りで、グラハムは部屋の中央へと進んだ。刹那、全身をなにかに絡め取られたかのような感覚に陥り、総毛立つ。
重い、とても重い空気がのしかかり、ぐらり、と視界が歪む。
突然のことに声を出そうにもその喉は音を発する術を忘れてしまったかのように、意味もなく唇を戦慄かせるしかない。
そして、なにもなかったはずの部屋に変化が起こった。
壁や天井、床に到るまで余すところ無く、鈍く輝く上位古代文字がびっしりと浮かび上がり、それらが部屋の中央へと、グラハムを取り巻くように収束していく。
「……ッ!」
無秩序に現れた文字は、今や立派な魔法陣を描いていた。これほどまでに幾重にも絡み合った複雑な陣を、グラハムは今まで見たことがない。
いきなりの事態に目を見開き、押し寄せる力がなにかわからないまま、本能のままに抗う。
その最中、荒波に翻弄されるかの如く乱れ、歪んだ視界の中に複数人の姿を認め、反射的に叫びが喉奥から迸り出た。
『私は誰の物にもならない……ッ!』
「グラハムッ!」
乱暴に肩を揺すられ、グラハムは、はっ、と目の前の男を凝視する。
「どうした!? なにがあった!」
焦りも露わに声を上げるニールの姿に、ゆるり、と目だけで辺りを見回すも、先程目にした魔法陣は跡形もなく、当然のことながら今現在此処にいるのは自分とニールだけである。グラハムは、とにかく助かったのだな、と訳もわからないまま深く息を吐いた。
「私は……どうしたのだ?」
「ったく、聞いてるのはこっちだっての。部屋の真ん中で立ち尽くしたと思ったら、急に倒れそうになったんだよ」
肝が冷えたぜ、と額に、うっすら、と汗を滲ませているニールに短く詫び、グラハムは一旦、瞼を伏せる。
ニールはなにも見ていない。
だが、あれを幻と言うには生々しく、むしろ誰かの追体験のように思えた。
そして、此処で言う誰かとはわかりきったことで。
『あんなモノを見せてくれるとは、余程のことであったのだな』
そっ、と己の胸に掌を宛がい、グラハムは小さく頭を振った。
活動拠点にしている部屋へ戻ってくれば、当然のことながら待ち受けていたのはニールからの問いであった。無理を言って扉を探してもらった上に、封印解呪や解錠まですべて任せてしまったのだ。ここはキチンと説明するのが道理であろうが、グラハムは暫し黙り込んだ後、「すまないが、なにも覚えていないのだ」と深々と頭を垂れた。
その言葉は嘘であるがグラハム自身、未だ混乱している自覚はあり、この状態でまともに説明できるとは到底思えず、不確かな情報を伝えるのは得策ではないと考えたのも事実である。
彼の言葉を丸々信じたわけではないであろうが、ここで深く追求してもいらぬ波風を立てるだけだと判断したか、ニールは難しい顔をしつつも、そうか、とおとなしく身を引いた。
慎重に場の空気を読み取ってくれるニールに感謝し、グラハムは謝罪の意味を込めて再度、頭を下げる。
「朝まではまだ時間がある。ゆっくり休むといい」
そう言い置くと、グラハムはくぐったばかりの出入り口へ足を向けた。その背にニールがどこへ行くのかと問いを投げれば、グラハムは肩越しに振り返り微笑を浮かべてみせる。
「どうにも眠れそうにないのでね、見張りを任せている梟たちと歓談でもしてこようと思っている」
遠くへは行かんよ、と付け加え、グラハムは、ゆるり、と手を振ると振り返ることなく部屋を後にした。
梟との歓談は冗談だが、眠れないのは本当だ。
神殿の外階段に腰を下ろし、先の光景を出来るだけ詳細に脳裏に思い描く。
現れた文字。
徐々に形を成す魔法陣。
部屋の四隅と、入り口を背に立つ人影。
激流に飲まれたかのようにめまぐるしく変わる視点は、『鳥の王』の乱れた心そのものであろう。
四隅に立っていた者達は皆一様に闇色のフード付きローブを目深に被り、年齢どころか性別すらもはっきりしない。
入り口付近に立っていたのは男が三人。背の低い初老の男と、二十歳前後と思しき青年。この二人の服装は豪奢で昔の貴族が好んでいたものに思える。
問題は、もう一人の男だ。
もう一度、もう一度だ、とグラハムは記憶を何度も巻き戻す。一瞬にして過ぎ去ってしまう映像を、意識を研ぎ澄ましコマ送りのように進めていく。
ブレた映像が徐々に鮮明さを増していく。それに伴い、じくり、と胸の奥が疼き、知らず呼吸も乱れていく。
――赤。
まず認識したのは色であった。瞬間、一際大きく心臓が跳ねた。
「……何故だ」
大きく脈打つことを止めない心臓を抑え込むようにグラハムは前のめりになり、ぎりり、と奥歯を噛み締める。
「何故あの男が、あの場に居た……ッ」
髭こそたくわえてはいないが、あの燃えるような赤い髪に、常に獲物を狙う肉食獣の輝きを秘めた瞳は、見間違いようもない。
同時に、胸を腹を身体の奥深くを曝こうとするかのようにまさぐる手の感触を思い出し、ぐぅ、と低く呻く。
『アンタ、腹ン中に一体、ナニを隠してんだ? なぁ?』
今なら獣じみた行為の最中に、男の発した言葉の意味がわかる。あの男はグラハムの裡にある存在に気づいていたのだ。それがなにであるかまでは曝かれていないと思うが、薄く笑いながら男は「またな」と確かに言った。
「どういうことだ」
あの時、あの赤毛に恐怖したのは己ではなく『王』であったというのか。『王』の感じた恐怖に己は飲まれ、流されたというのか。
くしゃり、と髪が乱れるのも頓着せず乱暴に頭を抱え、グラハムは混乱をきたしかけている己の心を抑え込む。今は自分のことではなく、王の記憶の検証が先だ。
瞼を下ろし一旦、思考を全て闇に沈める。静かに息を吐き呼吸を整え、ゆっくり、と面を上げたグラハムの表情が瞬時に凍り付いた。
「よぉ、また会ったな」
月を背に、にぃ、と口端を吊り上げた男は、目の前に居るというのに全く気配がない。梟たちの眼にも映らないのか、警告の声が発せられることはなかった。
瞬時に声の出なかったグラハムだが、こくり、と一度小さく喉を上下させた後、ゆうるり、と唇を開いた。
「なんの用かな」
鋭利な表情に加え、動揺を一切感じさせない静かな声音だ。その態度が気に入ったか赤毛は、くつり、と笑うと芝居がかった仕草で、一本立てた指を己の唇の前に宛がった。
「盗掘屋は夜にこっそりが定石だろう?」
「生憎とここには金になりそうなモノはないので、お引き取り願おう」
「そうつれないこと言うなって」
コツ、とわざと足音を立てグラハムの隣に立つと赤毛は身を屈め、無遠慮に相手の頤に手を掛ける。
「なぁ、アンタ。もしかして扉、開けたんじゃねぇか?」
言葉自体は問いであるが、絡み付くようなその口調と声音は確信を得たもので、確認の響きに近い。
「開けたら、なんだというのだ」
無骨な手を振り払うこともせず射抜くような強い眼差しを寄越す相手に、赤毛は愉快そうに唇を歪めると親指の腹で、するり、とグラハムの下唇を撫ぜた。
「なに、ちょっと驚いてるだけだ。まさかあの扉を見つけられるヤツが居たとはねぇ」
ホント、アンタおもしろいねぇ、と眼を細める男の手をここでやっと払い、グラハムは静かに立ち上がる。そしておもむろに腰の剣を抜くと、躊躇なく赤毛に斬りかかった。
「っおわ! いきなりなんだぁ!?」
紙一重で避けたつもりであったが、赤毛が数本、宙に舞う。
「竜の卵の恨みだ。忘れたとは言わせんぞ!」
想像以上の鋭い踏み込みを見せたグラハムに、シャレになんねぇなぁ、とぼやき、赤毛は軽く空を仰ぐ。遙か昔に施した封印が解かれた気配を察し、今日はただ確認に来ただけでグラハムとの再会は全くの偶然であったのだ。
だが、おもしろいことになりそうだ、との予感に、剣の切っ先を避けつつ赤毛の口元が自然と笑みを形作る。本人は気づいていないようだが着実にその身は変化を遂げており、初対面時の疑念は確信へと変わった。
「随分とご機嫌斜めなようなんで、今日のところは退散するとしようかね」
わざと戯けた口調で肩を竦め、男はグラハムから大きく距離をとった。
「次にあったら存分に可愛がってやるよ」
「次などない!」
素早い身のこなしで一気に間合いを詰めてきたグラハムに感嘆の口笛をひとつ吹き、赤毛は振り下ろされた剣の腹を素手で横に払う。
「なんと……ッ!?」
驚愕に目を見開くグラハムの耳元に唇を寄せ、赤毛は低く囁いた。
「アリー・アル・サーシェスだ。よぉーく覚えておけ、小鳥ちゃん」
おまけだと言わんばかりに耳朶を緩く食み、サーシェスは高笑いひとつを残しその場から忽然と姿を消したのだった。
呆然と立ち尽くすグラハムの耳に、梟たちの声が戻ってくる。剣を一振りしてから鞘に収めつつ、ふるり、と頭を振った。
一体どういうことだ、と更に混乱した頭でもわかったことがある。
あの赤毛は人ではない、ということだ。
そして、身の裡の王は酷くあの男を恐れ、尚且つ、憎悪している。
「意思の疎通が図れないというのは、なんとも歯痒いものだな」
言葉や意志ではなく、不意に伝わってくる感情の波を拾っているような状態だ。いつ洩らされるとも知れぬ寝言を聞いているような気分だと言ったら、王は気を悪くするだろうか、とグラハムは己の考えに、ふ、と苦笑を浮かべる。だが、それも一瞬のことで、直ぐさま険しい表情にすり変わった。
「それにしても忌々しい……」
柔く食まれた右耳を押さえ、柳眉を、ギリリ、と吊り上げる。相手が人外であろうとなかろうと、この際どうでもいい。一度ならず二度までもコケにされ、グラハムの自尊心はいたく傷つけられたのだ。
出来うることならば今すぐにでも行方を探り、一刀両断にしてやりたいところだが、残念ながらその術はない。人相書きを手に当てもなく彷徨うなど愚の骨頂であるとわかっているからこそ、グラハムは相手の言葉を信じ、待つことにする。
「不幸中の幸いであると、言わざるを得んな」
不快ではあるが相手に興味を持たれたのだ。こちらからわざわざ仕掛けずとも、向こうから来てくれるのならば好都合だ。聞きたいことは山とある。
更に眠気はどこかに行ってしまったが、これ以上、外にいる気にもならず、グラハムは神殿内へ戻るべく足を向けた。だが、数歩もいかぬうちに歩みは止まり、忌々しげに手近な柱に拳を叩き付ける。
頭ではわかっていても、やはりただ待つというのは性に合わない。地下で見たモノがなんであったのかだけでもハッキリさせないことには、このモヤモヤは決して晴れないのだと唇を引き結ぶ。
「ここに残されている粘土板で、なにかわかれば良いのだが」
そこに一縷の望みを掛け、グラハムは深く息を吐くと眉間の皺を消した。鏡を見ずとも今の自分が酷い顔をしていることは、重々理解している。そのまま戻ってはニールにいらぬ心配をさせてしまうことも、理解している。
眠らずに自分を待っているであろう彼の顔を脳裏に思い描き最後に大きく息を吸うと、グラハムは平素となんら変わらぬ自信に溢れた表情を取り戻し、迷いのない足取りで部屋へと戻って行ったのだった。