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GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

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    【FGO】エドシロ礼装パロ幕間 普段の町の喧噪とは異なった不穏なざわめきに気づき、エドモンは通りの向こうを透かし見るように目を細めた。
     うららかな陽気に誘われて昼日中から酒に飲まれた者でも出たか、などと思うも、人々が遠巻きにしているのは、エドモンも何度か足を運んだことのある古書店であった。
     老婆が店番をしているなんの変哲もないその店に一体なにがあったのか。
     ふむ、と顎を一撫でし、買い物途中とおぼしきご婦人に声をかけ、あの店がどうかしたのかと単刀直入に切り出せば、最初こそは驚いた顔を見せたご婦人も、相手がこの界隈ではいろいろな意味で有名な探偵だと思い至ったか、実はね、と若干声を潜めて話し始めた。
     さすがにこのご婦人も一部始終を見ていたわけではなく憶測や想像が含まれていたが、要点だけを押さえるならば『刃物を持った男が店に入った直後に別の客が店に入り、運良く逃げ出すことができた店主が今憲兵を呼びに行っている』といったものであった。
     刃物を持っていることが本当であるならば、もう一人の客の身の安全を思い迂闊なことはできないと、遠巻きに見守ることしかできないのは理解した。はてさて賊の目的は単純に金銭であろうか、とエドモンが再度店に目をやったその時、あっけないほどあっさりと店の扉が開かれた。
     するする、と磨りガラスのはまった引き戸が横に滑り、ひょこり、と現れた白髪にエドモンの片眉が反射的に跳ね上がる。
     ぱたぱた、と袴の膝あたりを軽くはたいていた男は、店を遠巻きにしている人々に気づいたか、おや? と言わんばかりに首を傾げた。
    「みなさんどうかされましたか?」
     緊張感の欠片もない穏やかな声音に集まっていた人々の方が戸惑い、困惑の表情を浮かべながら顔を見合わせ、なんだデマか、人騒がせな、などと口にしながら三々五々散っていく。それを横目に見ながらエドモンが足を踏み出せば、遠離る人々を見ていた少年は柔和な笑みを浮かべたまま「こんにちは名探偵」と会釈を寄越してきた。
    「また貴様か、天草四郎」
    「また、とはご挨拶ですね。俺だって好きこのんで渦中にいる訳じゃありません」
     肝心な部分が抜けているが互いに言わんとすることはわかっているらしい。
    「それで今回はなんだ」
    「大したことではありませんよ」
     ちら、と店内に目をやった天草に倣ってエドモンも目だけで窺えば、そこには床に長々と伸びた男の姿があり、思わず深い息が漏れた。それが感心からではなく呆れからきたものだとわかっているであろうに、天草はまったく気にした様子もなく自分と同じ書生服を着ている男を視界の端に捉えたまま、ぽつり、と漏らした。
    「ちょっと魔が差したんでしょう」
     皆が皆、恵まれた環境下で勉学に励めるわけではない。
    「できることなら穏便に済ませたかったのですが、落ち着いてお話を聞いていただける様子ではなかったので致し方なく」
     一体どのような手段を取ったのかは敢えて言及せず、エドモンは「荒事には向いていない」とことあるごとに口にする書生を眇めた目で見やる。物腰は柔らかで見た目の印象は確かにおとなしく善良そうな男だが、複数人相手の大立ち回りを実際に目にしたことがある身としては、「どの口がそれを言うのか」と漏らしたくもなるものだ。
     だが、武術の心得があり圧倒的に強いという訳ではない。恐らく目やカンが良いのだろう。基本的に自分から仕掛けることはせずあくまで回避に専念し、その間にも言葉での説得を試みているが相手の神経を逆撫でするだけで、状況が好転することはまずないといっていい。
     そもそも多少なりとも天草の言葉に耳を傾ける者ならば、穏やかな語りと言葉選びの妙から徐々に冷静な思考を取り戻すのか、暴力沙汰に発展する前に事はおさまるのだ。
     そういった行動から天草は平和主義、博愛主義だと思われがちだが、エドモンの見立てではそうではない。手荒な真似は極力避けるが、一度こうと決まれば即座に思考を切り替え、一切の躊躇なく行動に移すところが一番恐ろしいと思っている。
    「結局のところ目的は金ではなく本そのものということか」
    「貧乏学生にはなかなか手が出せないシロモノですから。高いですよねぇ本」
     値段を見るだけで気が遠くなります……、としみじみ口にする天草を見下ろし、エドモンは二度三度と顎を撫でてから「本ならなんでもいいのか?」と問いかけた。
    「え? あ、はい。読めるものならなんでも読みたいです」
     とにかく知識を詰め込みたいのだと言わんばかりの天草に、クハ、と小さく嗤い、エドモンは羽織を翻した。
    「ならば着いてこい」
     こちらへ向かって駆けてくる運のない将校の姿に再度嗤いを漏らし、エドモンは大きく足を踏み出したのだった。


     ガラス戸の向こうに収まっている本を前に天草は小さくも感嘆の声を上げ、本当にいいんですか? と肩越しに確認を取れば、ソファに落ち着いたエドモンはカップ片手に頷いて見せた。
    「読めるものがあれば好きなだけ持っていけ」
     若干、引っ掛かる物言いに天草が首を傾げるも、エドモンはそれ以上口を開くことはなく、折りたたまれた新聞に目を落としている。改めて本棚へと向き直り背表紙に刻まれた文字を目で追い、天草はそこで、あぁなるほど、と合点がいった。
     キィ……、と微かな軋みを上げる戸を開き、一冊を手にする。
    「フランス語と……こっちはイタリア語ですか」
     新たに一冊を手に取り何事かを、ぶつぶつ、と呟いてから棚へ戻し、また他の本を手に取り、戻すを繰り返した後、最終的に四冊を手に天草もソファへと腰を下ろした。名探偵は博識ですね、と賞賛の言葉を口にする天草が選んだものは英語とオランダ語の本だ。
    「通訳として同行していたのは伊達ではないということか」
    「本当は通訳の必要はないんですけどね」
     軽く肩を竦める天草に「貴様の主人は人が悪いな」と冗談交じりの言葉を投げれば、「これも駆け引きのひとつだそうですよ」と涼しい顔で返された。
     現在、天草が世話になっている貿易商のキャメロット商会の頭首は、見目麗しい女性であるが故に少々軽んじられている節がある。表だって口にする者はそうそういないが、その手の空気を読み取ることに長けた彼女は、それを逆手に取り日本語がわからないフリをして相手の本音を聞いているのだという。
     天草に初めて会ったときのことを思い出し、エドモンは僅かに口角を吊り上げる。撫でつけられた髪とスーツ姿、落ち着いた受け答えは非の打ち所もなかったが、年齢ばかりは如何ともし難く。若いツバメかはたまたヒモかと、口さがない者達が影で囁き合っていたのを実際に耳にしている。それに気づいていながらも動じることなく、柔和な笑みを絶やすことのなかった天草の肝の据わりに、内心では拍手喝采であったのだ。
    「あの時は酷い目に遭いましたが、名探偵が居てくれて本当に助かりました」
     膝に置いた本に両の手を重ね、はー、と深く息を吐く天草に「貴様の間の悪さは神がかっていたな」とエドモンは愉快そうに、くつり、と喉を鳴らす。
     華やかなパーティの裏で行われた殺人未遂事件の犯人に仕立て上げられそうになった天草を救ったことが縁で、エドモンは天草とも彼の主人であるアルトリア・ペンドラゴンとも懇意にしている。
    「そうだ。『モンテ・クリスト伯』は週末のパーティには参加されるんですか?」
     国へ戻れば爵位持ちであるという噂のある探偵はふたつの名前を持っており、どちらが本当の名であるのか、あるいはどちらも偽名であるのか天草にはわからない。上流階級の者や有力者には『モンテ・クリスト』の方が通りが良いようだが。
    「ヴラド公経由で招待状は来たが……そちらはどうなのだ」
    「久しぶりにエミヤさんが帰ってこられるのでお断りしたそうですよ」
     ぽちゃぽちゃ、とカップに角砂糖を落としながら天草が答えれば、そうか、と納得したようにエドモンは小さく頷いた。
    「貴様が世話になっているのはあの将校の生家だったな」
    「えぇ、エミヤさんのご飯が食べられると、みなさん今からそわそわしてますよ」
     かく言う俺もそうですが、とはにかむ天草に軽く鼻を鳴らし、宿舎住まいで滅多に戻らぬ彼は休暇中だというのにおさんどんに追われるのか、とエドモンは先ほど顔を合わせたばかりの将校に僅かだが同情する。
    「いい機会だから聞くが、貴様はあの女頭首とどのような関係なのだ?」
    「ツバメでもヒモでもないですよ」
    「わかっていて敢えてそのような物言いとは。見かけによらず性根の悪い男だ」
     手中の新聞を、ばさり、と放り投げエドモンが芝居がかった仕草で天を仰いでみせれば、天草は銀の匙で、くるくる、とカップの中身を混ぜていた手を止め、はは、と軽い笑いを漏らした。
    「どうとでも捉えられる聞き方をする貴方がいけないんですよ。それで望む答えが得られないと嘆かれてもこちらが困ってしまいます」
     澄まし顔でカップの縁に口を付け、直ぐさま角砂糖をもうひとつ落とした天草に、今度はエドモンが軽く嗤う番だ。
    「子供の舌には合わないか」
    「コーヒーも悪くはありませんが、紅茶の方が好みではありますね」
     ぽちゃん、と更に落とされた立方体に、次があればミルクも出してやるか、とエドモンは自分のカップを傾けつつ胸中で漏らす。
    「話を戻しますが、ペンドラゴン氏と俺は直接の関係はありませんよ。更に言えば先の主人であった衛宮切嗣氏とも面識はありませんでしたし、紹介の紹介の紹介、といったちょっと説明が面倒なヤツですね」
     それでも聞きます? と天草が確認すればエドモンは暫し考えた後、では聞こうか、と頷いて見せた。
    「言いたくないことは飛ばして構わんがな」
    「お気遣い痛み入ります」
     まぁ隠すことでもないんですが、と前置いて天草は淡々とした口調で身の上を明かし始める。
     親兄弟はいないこと。
     養父が教会の神父であること。
    「養父の知り合いがこちらにいて俺のことをお願いできないか話をしたそうなんですが、年頃のお嬢さんも居るし、それにあまり他人を家に入れたくない事情があるということで、その話は白紙になったんです」
     普通ならここで終わりだが、その知り合いが商談相手にこの話をしたところ、相手が「それならうちでお預かりしましょう」ということになったのだという。
    「切嗣氏の奥方は宝石商で、アインツベルンって聞いたことありますか? 遠坂氏とは個人的なお付き合いもあるようで、よくお屋敷にいらしてました」
    「……遠坂にアインツベルンだと? 知らぬ訳があるか。地元の名士と複数の鉱山を所有している一族ではないか」
     有名な方なんですね、などととぼけたことを口にする天草がどこまで本気なのか図りかね、エドモンは隠すことなく渋面になる。
    「奥方はあまり身体が丈夫ではないので、家のことをいろいろ出来る人手が欲しかったみたいですね。切嗣さんも家事はからっきしでしたし。半年前に仕事絡みで長期間家を空けることになったので、ちょうどこちらに来ていたペンドラゴン氏にお屋敷を任せて、俺は運良く雑用係続投というわけです」
    「アインツベルンはペンドラゴンとも親交があったな」
     話に出てきた人物の交友図を脳内で描き、エドモンは感心を通り越して天草の強運に空恐ろしいモノを感じている。
    「貴様の養父はいったい何者だ」
    「片田舎のただの神父ですよ」
     さらり、と柔い笑みと共にエドモンの言葉を受け流し、天草はカップに半分ほど残っていたコーヒーを飲み干すと、そろそろお暇します、と頭を下げた。
     袂から取り出した風呂敷で包んだ本を胸に抱えて立ち上がった天草を見上げれば、無意識にか嬉しそうに目を細めており、滅多に見せぬ年相応の緩んだ顔につられたかエドモンの口角も僅かに上がる。
    「返すのはいつでもいいが間違っても売り飛ばしたりはするなよ」
    「そんなことしませんよ」
     軽口だとわかっているからか応じる天草の声音は穏やかで柔い。少しも動じない少年にエドモンは軽く舌打ちをし、ひらり、と手を振ることで別れの挨拶としたのだった。
     邪魔するぞ、との声と共に畳を踏んだ足に、ちら、と目をやってから、アルトリアは卓に広げていた書類をひとまとめにし脇へとどけた。
    「港の方の事務所に赴いたところこちらだと聞いてな」
    「それは無駄足を踏ませてしまって申し訳ない」
     向かいの座布団を指し示せばエドモンは素直に腰を下ろした。
    「なに、アポも取らずに押しかけた俺に非がある。だが珍しいな。家に仕事は持ち込まぬ主義だと聞いていたが」
     言外になにかあったのかと探りを入れてくる探偵にアルトリアは金の瞳を僅かに細めるも、ふっ、と軽く笑みと共に息を吐く。
    「何事にも例外はあろうよ。貴殿がわざわざこうやって家まで足を運び、私に会いに来るのも珍しかろう」
    「手土産を買ってしまった手前、戻るに戻れなくてな。案内をしてくれた者に渡しておいた。八つ時にでも切り分けると良いだろう」
     スイカを手渡すや「主は居間におります」とだけ言うと案内もそこそこにタライを探しに行った赤毛の男を思い出し、エドモンは若干の違和感に眉根を寄せる。
     あの赤毛の男は普段ならばアルトリア同様この時間には居ない人間で、来客があれば天草が対応をするはずなのだ。客が来れば相手が誰であれ茶のひとつも持ってきそうなものだが、ここに至るまで姿を見せないのは不自然に思えた。
    「それで、本日の用向きはなんだ」
    「あぁ、先日の一件の礼だと女将から近況を交えた文が届いたのでな。報告と改めて事件解決の協力の礼も兼ねて赴いたというわけだ」
     生じた疑問を口にする前にアルトリアに来訪の目的を問われ、まずは本題を片付けるか、とエドモンは懐からその文を取り出し卓に置いてから、つい、と相手に向かって指先で軽く押しやった。
     こじんまりとしているが評判の良い温泉宿に、ここ最近良くない噂が流れていると小耳に挟んだエドモンが興味本位で訪れてみれば、キャメロット商会ご一行と夏休みだからよかろうと連れてこられた天草、休暇が重なったエミヤとばったり鉢合わせたのだった。
     女将を筆頭に女中全員が獣耳と尻尾をつけているという珍妙な宿であったが、それも売りであるのか敢えて触れる者はおらず、評判通り食事も良し、温泉も良しの宿であった。
     まことしやかに囁かれる『祟られる』だの『物の怪に襲われる』だの『神隠しに遭う』だのといった女性客限定の根も葉もない噂はお察しの通り人為的な物で、ご丁寧にもさくらを使った同業者の嫌がらせだと判明したが、そこに至るまでに「これ以上オイタが過ぎるならバリバリ呪うぞ☆」とただの噂を本当にしかねない恐ろしいことを、笑顔で口にする良妻系の女将を宥める方が骨が折れたというのはここだけの話である。
    「貴殿が天草に『囮になれ』と言ったときはさすがに頭が沸いたかと思ったが、割とどうにかなるものだな」
    「随分な言われようだが聞き流してやろう。ガウェイン卿と将校殿に挟まれれば大抵の者は華奢に見えよう。ここにランスロット卿が加われば視覚効果も倍増というものだ」
     ここで断れば主にお鉢が回ると察したか、仕方がありません、と天草は諦観の笑みを浮かべ首を縦に振った。女将の協力の下、黒髪長髪のかつらを付け薄化粧を施された天草の姿はエドモンの想像以上の出来で、ほぉ、と感心と共に小さく漏らせば、それをどう受け取ったか天草からは「貴方なら絶世の美女になることでしょう」と本気とも嫌味ともつかぬ言葉を頂戴したのだった。
    「東洋人は元から幼く見えるのもあるが、あの年代は全てにおいて曖昧だからな」
     子供と大人の狭間にあるどっちつかずな存在。
     見目は幼いが所作は大人びている天草はそれが顕著であると、エドモンは思っている。
    「しかしペンドラゴンよ。その格好は男には少々目の毒だな」
     文に一通り目を通し顔を上げたのと同時に発せられたエドモンの言葉に、アルトリアは、なにがだ? と言わんばかりに首を傾げた。
    「浴衣はそのように胸元を開けるものではないぞ」
    「開ける気はないのだがいつの間にかこうなってしまってな。気づいていたならもっと早くに言ってくれても良かろうに」
     本気で気がついていなかったのか指摘を受けて、もたくた、と慣れぬ手つきで直すアルトリアを黙って見ていれば、表情には出ていないがやはり恥ずかしくはあるのか、それを誤魔化すかのように彼女は口を開いた。
    「先の温泉宿で初めて着たがなかなかに良いものでな。切嗣が置いていった浴衣があったので家ではずっとこれなのだが、ひとりで着るのはやはり難しいな」
     それ以前に肌着を身につけろ、と言いかけるもこのままでは着付け談義になると直感が告げたため、エドモンは一旦口を噤むと先の疑問をここで発した。
    「天草はどうした。不在か」
     主の身支度を調える前に出かけることはまずありえないだろう、と確信を持った上で敢えて問えば、アルトリアは手を止め、じっ、とエドモンを見据えてから困ったように深く息を吐いた。
    「探偵殿に問われるとどうにも構えてしまうな。わざわざ言うことではあるまいと黙っていたが、体調がすぐれないようなので部屋で休ませている」
    「主じきじきの監視とは酔狂なことだ」
    「言ったところであれはおとなしく休むタマではあるまい。ならば頭から押さえつけた方が手っ取り早かろう」
     真面目すぎるのも考え物だ、と嘆息しつつも心配していることには変わりない。こちらもなかなかに厄介な性格であると、エドモンはアルトリアを前に胸中でごちる。
    「それも一理あるが、医者にかかればさすがにおとなしくなるのではないか?」
     だがやはりどうにも不自然だ、とエドモンが目を眇めれば、着崩れを直すことを諦めたアルトリアは軽く肩を竦めて見せた。
    「医者に診せたところでどうにかなる類ではないからな、アレは」
     私とトリスタンにしか『視えないモノ』だ、とアルトリアが口角を吊り上げ、トントン、と細い指先が眦を叩いたことで、エドモンは相手の言わんとすることを理解した。
     金の瞳は『獣の眼』や『魔性の眼』『妖幻の眼』とも言われており、人とは異なる世界が視えると言われている。大抵はオカルトにかぶれた者の妄言だが、全てがそうではない。
    「あとで気休め程度のアミュレットでも作ってやろうかと思っていたが、貴殿が来たならその必要はなさそうだ」
    「厄介事を押しつけるな」
    「迂闊に首を突っ込んできた自身を恨むのだな。アレは貴殿の黒い焔と同質のモノだぞ? 取り込んで蓄えたらどうだ」
     名案だろう? と眼を細め、くつくつ、と喉奥で低く笑うアルトリアに、エドモンは隠すことなく舌打ちをする。
     例の殺人未遂事件で天草の嫌疑を晴らす際、煙管に沿って伸びた黒い焔で犯人を灼き、精神的に憔悴させて自白まで持っていくという、これまで誰の目にも触れることのなかった荒技を「おもしろいことをしているな」の一言で済ませたのがアルトリアだ。
     彼女曰く、その方面に精通している年がら年中花を撒き散らしている知己が本国にいるため、今更驚くには値しないとのことだ。
    「まぁどうにかする気はなくとも顔くらいは見せてやれ。借りた本を返しに行けないと気に病んでいたからな」
    「そうか。では本を受け取って帰るとしよう」
     用意された言い訳に乗りエドモンが立ち上がれば、アルトリアは涼しい顔で再び書類を広げ、退室する背中に一瞥くれることもなかった。


     板張りの廊下を進み軒下に下がった、ちりん、とも言わぬ風鈴を、ちら、と見やってから障子の開け放たれた室内に目をやり、エドモンは僅かに片眉を上げた。
     アルトリアの口ぶりから、さぞや障気に満ちていることだろう、とそれなりに構えてきたが、実際は方角的に直接陽が差し込まぬやや陰った部屋に男が一人、背を丸めて静かに横たわっているだけのなんの変哲もない光景だ。
     だが、その男に問題があった。
     深い紺色地に白の細い縦縞柄の浴衣から覗く褐色の手足は、見知った男のものに相違ないだろう。
     問題なのは肩口や敷布に流れ落ちる白の髪だ。長さは優に腰を超え、まるでうねる川のようだ。
     一週間でこの変わり様は尋常ではない。様子を窺いながら一歩踏み込み、ぐるり、と大回りをしてから枕元に腰を下ろす。覗き込んだ寝顔は確かに天草で、無意識のうちに詰めていた息を静かに吐き出した。
     傍らの気配に気づいたか天草が億劫そうに瞼を持ち上げる。だが、口を開く気力もないのかエドモンの姿を認めるや困ったように眉尻を下げ、微笑を浮かべるだけである。
     額に噴き出す玉のような汗も、首筋に幾筋も流れる汗も暑さばかりが理由ではないだろう。水の張られた桶を引き寄せ布団に転がっていた手拭いを浸し、軽く絞ってから目に付く箇所を拭ってやれば、エドモンの行動に驚いたか天草の目が大きく見開かれた。
    「貴様は俺のことをどれだけ冷血漢だと思っているんだ」
     相手の表情の変化から言わんとすることを想像し声に出せば、天草は更に困ったように眉尻を下げ、違いますよ、と掠れた声を漏らした。
    「幻かと思ったら本人だったので驚いただけです」
     ふふ、と眼を細める天草の顔は常と変わらぬ穏やかなもので、滲み出る気怠さはあるもののそこまで深刻な状況ではないようだ。
     言葉を交わしたことでより覚醒したか、しっかりとした眼差しで見上げてくる天草にエドモンは片眉を上げてみせる。
    「そのナリはなんだ」
     口を開くと同時に天草の頬にかかっていた髪を軽く耳に掛けてやれば、あぁこれですか、とどこか他人事のような声が返ってきた。
    「そうですね、どこから説明したものか悩ましいところです」
    「悩むくらいなら順を追って全部話せ」
     どうせまともな話ではないのだろう? と目を眇めたエドモンに天草は気分を害した様子もなく、世間一般的には与太話の類ですね、とあっさり言ってのけた。
    「俺のいた村は山奥の閉鎖的なところで、ほぼ外界と切り離された状態でした。このご時世に時代錯誤も甚だしいですが土着信仰が根強く、語り継がれていた儀式も日常的に行われていたところです」
     まずこれが前提です、と言い置いて天草は少しの間目を閉じると緩く息を吐き出した。
    「以前、親兄弟はいないとお話ししましたが、正確には違います。俺自身、自分が誰ともわからないんです。そんな子供が村には何人もいました。物心つく前に何処からか攫われてきたのだと、あとで知りました」
    「一体なんのために?」
     儀式という単語が出ている以上、不穏な流れにしかならないであろうことは予想できたが、それでも敢えてエドモンは短く問いを発した。それを受けて天草は下手に濁すことなく話を続ける。
    「祀っている神をお呼びするのに必要だからですよ。あぁ、生け贄としてではなく依り代としてですが。まぁどちらにせよ適性がなければ結果は同じですが」
     神を降ろすのに相応しい者など、普通の人間に判別がつくわけもなく。数を揃えて確率を上げるという残酷なことを、この村は延々と続けてきたのだ。
     村のために村の外から子供を攫う。傲慢で身勝手なやり口にここで異を唱えたところでどうにもならぬと、不快感を押し込めエドモンは話の続きを黙って待つ。
    「このようなこと、普通に考えればうまくいくわけがありませんよね。実際、失敗した時はあらかじめ口裏を合わせていた偽物を祀り上げていたようですし」
     これもあとで知ったのですが、と苦笑してから、ただ、と継いだ声はどこか仄暗さを感じさせるほどに低く響いた。
    「何事にも例外というものは存在します」
     ゆうるり、と身を起こした天草の肩から白髪が滑り落ちる。胸にかかったそれを無意識のうちにエドモンの目が追いかけた。エドモンの視線の先を確認してから、天草は浴衣の合わせ目に手を掛けるや、おもむろに左右に大きく開いて見せた。
    「これが俺の得たものです」
     そこにあったのは両の鎖骨に沿うように緩く降下し身体の中心に向かう、鋭利な印象を受ける赤い紋様。
    「神にはなれませんでしたけど、その力を少しお借りすることならできますよ」
     これはその徴なのだと、ぽつり、漏らしたその表情からは感情は読み取れず、エドモンはやや不愉快そうに鼻を鳴らす。
    「七つまでは神のうち、か……」
    「この世の者ともあの世の者とも定まっていないどっちつかずな存在だからこそ、といった考えだったのでしょうね」
     儀式とやらがどのようなものであったのか知る由もないが、それに関して天草は触れる気はないようだ。
    「今でもどうして生きていられたのかわからないんですけどね。髪の色を失うくらいで済んだのは運が良かったなぁと」
     首を傾げつつあっけらかんと言い放たれたそれに、本当に運が良いのならばそもそもそのような目には遭わないだろう、とエドモンは喉元まで出かかるも音になる前にどうにか飲み下した。
    「普段からささやかではありますが加護は受けています。悪意や邪な感情を持っている人は、なんとなくですが判別がつくというか。魔が差した、気の迷い程度でしたら加護の範囲内で俺でもなんとかできます」
     天草が話術と時折、力業を交えつつも相手を懐柔できていた理由はこれか、とこれまで遭遇した件を思い返しエドモンは軽く眉間を揉む。騒動に巻き込まれる率が高すぎるのもそれに起因するのかと思いきや、いえそれはまったくの偶然です、と断言された。
    「ただ、それ以上となると俺の手には負えないので力をお借りするんですが、そうすると否応なしに徴は浮かび上がるわ髪は伸びるわで、割と面倒なんです」
     どういう理屈なんですかねぇ、との存在自体が既に理屈云々の域を超えている男のぼやきに、エドモンは呆れて言葉も出ない。大の大人ですら手玉に取る物言いをするかと思えば、不意に子供らしい顔を覗かせる。全く持って掴み所がなく油断のならない男だ。
    「大体は把握した。それで? 面倒だとわかっていて敢えてそうした理由はなんだ」
    「昨日、少々厄介な来客がありまして」
     もご、とどこか歯切れの悪い天草に配慮したわけではないが、エドモンは桶と手拭いを持って相手の背後に回った。
    「ただ話を聞いているのも時間がもったいないしな。起きたついでに背中を拭いてやる」
    「ありがとうございます」
     素直に礼を述べ髪をまとめて前へ垂らしてから、天草は浴衣を腰まで下げ背中を露わにした。
    「何度かパーティでお見かけしたご婦人だったのですが、約束もなしに訪ねてこられまして。家には俺しかいないしお引き取り願おうと思ったのですが、ちょっと引っ掛かるものがありまして」
     礼儀を欠いている相手を門前払いしたところで、アルトリアは「かまわん」の一言で済ませたであろうが、このまま帰しては良くないことが起こるとの直感に従い、先に主は不在である旨を告げてから居間に通したのだ。
    「ご本人はいたってまともなつもりでおられたようですが、このままでは狂気に飲まれるであろうと容易に想像がつくほどでした。放っておいて周りに被害が出るのは避けたかったので、元凶である情念と言いますか妄執と言いますか、まぁそういった良くないものを私が肩代わりしたわけです。ただ、念の強さをちょっと見誤ってこのざまですが」
     背を拭っていた手が一瞬止まり、怪訝に思った天草が肩越しに振り返れば、エドモンは何食わぬ顔で桶に手を突っ込んだところであった。気のせいか、と顔を前へ戻し天草は話を続ける。
     お茶を出し、世間話を織り交ぜながらなにが目的であるのか探ってみた結果。
    「そのご婦人は以前からご子息とご息女を伴ってはペンドラゴン氏や他のキャメロット商会の方々のご機嫌伺いをしてまして、あわよくばプライベートでの繋がりを持ちたいと、常々思っておられたようです。あとこれは少々下世話な話ですが……」
    「大方、そのご婦人も誰かと関係を持ちたいと、そう思っていたのだろう?」
    「お察しの通りです。それにはさすがにまいりました」
     とてもどろどろしてました、と胸を押さえる天草の声も珍しくげんなりとしており、それが一番堪えたのだと知れた。
    「あれだけ美形が揃っていれば、この先も避けては通れぬだろうな」
    「他人事のように仰っていますが、モンテ・クリスト伯もそういった対象になっていることにはお気づきではないと?」
     ふふ、と微かに肩を揺らす天草に、クハ、と小さく嗤うと、エドモンは、するり、と相手の顎下を掌で撫で、流れるように頬に手を添えたまま耳元に口を寄せた。
    「そのような感情、灼き払ってしまえばどうということはない」
     直接耳朶に吹き込まれた低音に、びゃっ! と天草の身体が派手に跳ね、反射的にか逃れようと上体が前方へ泳ぐ。その様に満足したかエドモンの口から、クハハ! と上機嫌な笑いが上がった。
    「なかなかに愉快な反応ではないか。いつもの澄まし顔はどうした」
    「貴方という人は……」
     やや前屈みになりながら右耳を押さえ、うー、と肩越しに睨め付けてくる天草は、よほど驚いたのか若干涙目だ。
    「そう睨むな。しかし、貴様のその格好もなかなかに目の毒だな」
    「どういうことです?」
    「いや、こちらの話だ」
     今、天草の浴衣は大きくはだけ肩が露わになっており、胸元は髪で隠されている状態だ。一見して即座に性別を判じるのは難易度が高かろうというのが、エドモンの正直な感想である。
    「神とやらが憑いているのなら俺が手を貸してやる必要もなかろう。ペンドラゴンに貸しを作れるいい機会ではあったが仕方がない。ここいらで退散するとしよう」
     音もなく立ち上がり、ごそ、と懐を探りながらエドモンは部屋を出かかるも、あぁそうだ、と今思い出したと言わんばかりに小さく漏らした。
    「貴様、よく村から出られたな」
     ひゅっ、と振り向きざまに手にした煙管を突きつければ、天草の唇が、ゆうるり、と弧を描いた。
    「私以外、みな死にましたから」
     一切の躊躇なく吐かれた言葉にエドモンは隠すことなく唇を歪める。
    「流行病か物盗りか。生憎と私は隔離された場所に居ましたので、詳しいことはわかりませんが」
     限られた者としか言葉を交わさず、己から言葉を発することもない。日の当たらぬ座敷の奥の奥。僅か四畳半の空間が世界の全てであった。
    「独り残された俺を救ってくれた養父からはそう聞いています」
     とても運が良かったと思います、と微笑む天草に舌打ちをし、エドモンは黙って踵を返した。時折顔を出す一人称のブレに、天草自身は気づいているのだろうか。
     胸をざわつかせる得も言われぬ不快感に、エドモンは再度舌打ちをしたのだった。


     コンコン、とドアノッカーを鳴らして待つこと暫し。陽は中天に差し掛かった頃で、さすがにまだ起きていないということはないだろうと、天草は中の気配をじっと探る。
     留守だろうか? と何気なく顔を上向かせれば、ちょうど開いた二階の窓から家主が顔を出したところであった。
    「こんにちは名探偵。お借りしていた本を返しに来ました」
    「そうか。入れ」
     それだけ言って顔を引っ込めたエドモンに軽く肩を竦め、天草は鍵のかかっていないドアノブを捻ると、律儀にも「おじゃまします」と頭を下げてから中へと入った。
     トントン、と階段を下りてきたエドモンの足取りはどこか気怠げで、ひょっとしたら寝ていたのかもしれない、と天草は申し訳なさそうに眉尻を下げる。
    「すみません、お休み中でしたか」
    「逆だ。調べ物をしていた」
     暗に徹夜明けだと告げるエドモンに更に申し訳なくなったか、天草はもう一度詫びの言葉を口にした。
    「邪魔をしてしまって重ね重ねすみません。あ、あとこれ、お素麺です。頂き物ですが量が多かったのでお裾分けです。良かったら食べてください」
     本を包んだ風呂敷とは別に下げてきた袋を差し出すも、エドモンはそれらには目もくれず、じっ、と天草を凝視している。
    「あの、なにか?」
    「また面倒事に巻き込まれたのか」
     ずい、と無遠慮に顔を覗き込まれ、その鼻先が触れそうな程の距離に天草は驚いたように目を丸くした。
    「面倒事、と言いますか……ただケンカの仲裁をしただけですよ」
     刃物が出ていた時点でケンカの域を超えているのだが、そこは敢えて触れず柔い笑みでやり過ごそうとするも、間近の金瞳が眇められただけであった。
    「なるほど。殺意、とまではいかないが随分と根が深そうなモノを引き取ってきたな」
     収まりきらずに染み出しているぞ、と口角を吊り上げるエドモンの指摘に天草は、ぐぅ、と喉を詰まらせた。一体彼にはどのように見えているのか定かではないが、もう少し時間をおいてから来るべきであったと即座に反省する。
    「そうだな……素麺の礼ということにしておくか」
     ふむ、とひとり納得したように呟くエドモンを訝る間もなく、気づけばしっかりと両の頬に添えられた大きな掌で上を向かされ、口を塞がれていた。
     固く閉ざしていたわけではない唇はあっさりと割り開かれ、突然のことに抵抗することすら思いつかないのか、天草は呆然としたままだ。
     じゅっ、と舌先を吸われると同時に、ずるり、となにかが身の裡から吸い上げられる感覚に、ぞわり、と天草の背が粟立った。
     甘やかな空気など微塵もなく、あぁこれは捕食されているようなものだな、と癖毛に額をくすぐられながらぼんやりと思っていれば、最後にオマケだと言わんばかりに上顎を、ぞろり、となぞられた。
    「まぁまぁだな」
     勝手な感想と共に、ぐい、と親指の腹で濡れた唇を乱暴に拭われた天草は、離れていった金瞳を、じとり、と見据える。
    「顔がいいと得ですよね」
     文句なのか褒め言葉なのかよくわからぬことを口にしてから、せめてなにをするか先に言ってください、と脱力したように頭を垂れ、ゆるゆる、と首筋を撫でさする天草の姿をエドモンは愉快そうに見ている。
    「ラクにはなっただろう?」
    「えぇ、おかげさまで」
     ぐるぐる、と身の裡で渦巻いていたどす黒いモノは残滓すらなく、すべてエドモンに吸収されていた。
    「また良さそうなモノを持ってきたら引き取ってやろう」
     腕を組み、クハ、と嗤うエドモンに二つの荷物を押しつけ、天草は「丁重にお断りします」と非の打ち所のない笑みでもってその提案を、ぴしゃり、とはね除けたのだった。

    ::::::::::

    2017.09.19
    ※ギャルゲ風に言うなら『ヒロインのこともっと知りたいなー!と思ってたら、いろいろ教えてくれるその子のお姉さん(攻略可能な隠しキャラ)が出てきた』というお話。


     桜が散り始める頃は十日に一度、蝉時雨が降り注ぐ頃は一週間に一度であった天草の来訪頻度は気がつけば三日に一度となり、ただ借りる一方では心苦しいから、と訪れるたびに掃除や買い出しをする姿にすっかり馴染んだのは、夕暮れ空に赤とんぼが飛ぶようになる頃であった。
     借りていた本を棚へと戻し、食材や調味料、ほか洗剤などの消耗品の残りを一通り確認してから、天草は実際に入り用なものをエドモンに確認し帳面に書き留めていく。
    「部屋の掃除は疎かでも洗濯物を溜めないのが名探偵のいいところですね」
     ソファに座っているエドモンの傍らに立ったままペンを動かし、褒めているのかどうか怪しいことを朗らかに口にする天草に敢えて返事はせず、エドモンは手にした新聞に目を落とした。
    「あぁ、そうだ」
     帳面を懐に戻した天草はなにを思い出したか小さく声を上げ、ごそ、と袂に手を入れる。
    「出掛けに貴方に渡すよう頼まれたんでした」
     どうぞ、と差し出された小さな包みにエドモンは片眉を上げるも問い返すことはせず、黙ってそれを受け取ると、すん、と鼻を鳴らした。
    「煙草か」
    「さぁ? 中身は伺っていないので俺からはなんとも」
    「まぁいい。ありがたく頂戴しておこう」
     とん、とテーブルへ置かれたそれを、ちら、と横目に見てから、天草は遠慮がちに口を開いた。
    「あの……先日、ペンドラゴン氏が招かれた席でなにかありましたか?」
     アルトリアは基本的に人前へ出る際は、通訳として天草を伴っている。だが、今回は招待した側が通訳を用意するとのことで、天草は留守番であったのだ。常ならば気遣い無用と天草を連れて行ったであろうが、遠坂を介しての招待であったためここは彼の顔を立てたのだった。
    「仮に何かあったとしても貴様が気にすることではあるまいよ」
    「そうですね。ペンドラゴン氏が『モンテ・クリスト伯』のことを褒めていたのが珍しくてつい……なにがあったんだろうと気になってしまいました。すみません」
     ふふ、と悪戯っぽく笑って天草は、では買い物に行ってきます、と軽く頭を下げ踵を返した。興味本位で聞いてくるなど珍しいこともあるものだ、と短い付き合いながらも意外に思いつつ、ぱたん、と玄関のドアが閉じた音を確認してからエドモンは包みを解いた。その中身には目もくれず折り畳まれた紙を直ぐさま開く。メッセージカードなどといった洒落たものではなくメモ紙に近いが、礼儀や形式にこだわるような仲ではない。
     ざっと目を通し、大方予想はついていたがその内容に、ふは、と小さく嗤う。

    『こちらも遠坂を介して二度と関わるつもりはない旨伝えた。無能は時に害悪である。貴殿の機転と協力に感謝する』

     アルトリアを招待したのは珍しい物好きの華族で、エドモンから言わせればただただ資産を食い潰しているだけの愚かな一族だ。中でも際立った愚か者はそこの嫡男で、少々囓った程度で語学堪能だと嘯き自分が通訳をするとごり押しした結果、当然ではあるが話は通じず、それどころかアルトリアが日本語をわからないのをいいことに、言ってもいないことをさも言ったかのように都合良くでっちあげ、彼女の不評を買ったのだった。
     他の招待客の手前、席を立つような不作法はしなかったが、アルトリアが一刻も早くこの場を辞したいと思っているのは明白であった。エドモン自身、この茶番から逃れたかったこともあり、先に当主に詫びてからアルトリアの側へと寄ると、二言三言、短く言葉を交わしてから、ゆるり、と顔を上げた。
    「ペンドラゴン氏は気分が優れないとのことだ。供もなく言葉もわからぬ席に独りでは、さぞ不安であろうよ。その心中、察するに余りある。だが、当主殿の顔を立ててじっと耐えておられたのだ。その健気さに免じて本日はこれにて退席させていただきたい」
     要望でありながら有無を言わせぬ口調と眼光に気圧されたか、当主はこれに異を唱えることなく車を用意するよう傍付きの者に伝え、全ては丸く収まるはずであった。
     場の空気を読めぬ愚息の一言がなければ。
     能力に見合わぬプライドを持っていた男は、エドモンの言葉を自分への侮辱と受け取ったのだ。そして「あのどこの馬の骨とも知れぬ男に僕が劣るとでも言うのか!」と発せられたそれが、アルトリアの逆鱗に触れたのだった。
     口元を掌で覆い隠し、なるほどな、と低く冷たい声と共に口角を歪に吊り上げるも、あくまで言葉がわからないフリを通すアルトリアに合わせ、エドモンが通訳するフリをしてみせれば、口元を隠したままアルトリアは「無能に用はないとでも言ってやれ。あぁ、貴様にはあとで煙草でも贈るとしよう」と一瞬、人の悪い笑みを浮かべた。
    「『私は能力のある者を重用する。出自など二の次だ』とのことだ」
     さすがにそのまま伝えるわけにはいかず、少々脚色したが意味は違えていないはずだ。身分を笠に着た物言いが気に食わなかったのはエドモンも同じであったが故に一言付け加えたが、アルトリアからは特に否定の意思表示はなく、彼女は澄まし顔のまま人には見えないようエドモンの脇腹を軽く小突いたのだった。

     アルトリアが話していないのならば自分が話すことでもなかろう、とエドモンは手中のメモを丸めると屑籠へと放った。天草に聞かせたところで気分の良い話でもないが、彼ならば「確かにどこの馬の骨とも知れませんからね俺は」と怒りも嘆きもせずあっさりと肯定しそうではある。
    「……出自、か」
     夏に彼の話を聞いてから密かに調べてはいるが、どれもこれも噂の域を出ていない話ばかりで、これといった有力な物は得られていないのが現状だ。村ひとつが壊滅したというにも関わらず、その位置すら不明というのは異常とも言えた。
     行方不明者の線から辿ろうにも小さな村では山で獣に襲われたか、或いは『神隠し』で片付けられ、子供一人が消えたところでその話が村の外に出ることはほぼないだろう。
     そもそも『天草四郎』という名が彼の本当の名ではないことは調べがついている。
     天草本人ではなく遠坂経由で彼の養父の線からなにかしら情報を得られはしないかとも思ったが、『片田舎のただの神父』以上の話はついぞ浮かび上がらなかった。
     それはもう不自然なほどに、だ。
     天草が他者とは違う特異な存在ということを承知で送り出したのか、それともなにも知らずにただ彼の将来を思って送り出したのか。
     なにもかもが不足している、とエドモンは眉間に深いしわを刻んだまま、ゆうるり、と頭を振った。


    「俺が書生になった理由ですか?」
     買ってきた食材を冷蔵庫に詰め終え、居間へと呼ばれた天草はエドモンの問いに、きょとん、と目を丸くした。
    「勉強がしたいのならば居候先から学校へ通えば済む話だ」
    「まぁその通りですね」
     誰に師事しているわけでもなく、炊事洗濯といった家事全般やアルトリアに頼まれた雑務をこなし、空いた時間はひたすら本を読む生活をしている。わざわざ養父の元を離れた天草の目的が見えないと、エドモンは言っているのだ。
    「そうですね。言うなれば一般常識を身につけるため、でしょうか」
     くるくる、とミルクと砂糖の入ったコーヒーを掻き混ぜながら零されたそれに、エドモンは無言で片眉を上げる。
    「俺があの村から出たのが十二の時です」
     伏し目がちに、そっ、とカップの縁に口を付け静かに傾ける姿には品があり、先日の愚息よりもよほど育ちが良いのだろうと錯覚させるほどだ。
    「普通の人らしい生活をしている時間の方が短いんですよ、俺は」
     音もなくカップをソーサーへ戻し、じっ、とエドモンを見据える天草の瞳は、ただただ透き通っただけの硝子玉のように見えた。
    「読み書きは養父とその知人に教わりました。自画自賛ではありますが覚えは良かったと思いますよ」
     ふふ、と懐かしむかのように目を細め、自分の腕に視線を落とし、ゆるゆる、と撫でさする。
    「昼は畑仕事を手伝ったり養父の手伝いをしたりと、あの村にいたときはロクに日に当たることも身体を動かすこともなかったので、日々目にする全てが新鮮で、大変で、でも苦ではなかったです」
     推察するに彼は何年も幽閉されていたようなものだろう。最低限の体力と最低限の筋力。人並みに動くことすら難しかったに違いない。それをなんでもないことのように話す天草の姿に、漠然とではあるが不安を覚える。
    「養父の人徳とでも言いましょうか、周りの人々は良い方ばかりで。俺のことを奇異の目で見ることもなく親身に接してくださって、本当にありがたいことです」
     口ではありがたいと言いながらもその表情は翳りを帯びており、エドモンは怪訝に片眉を上げた。
    「誰かひとりでも……俺のことを『おかしい』と言えば気づけたのかもしれません。俺は『普通ではない』んだって」
     そっと鎖骨の下辺りに手を添え黙り込んでしまった天草に掛ける言葉を探すも、そんなものありはしないのだとエドモンも沈黙を貫く。伏せた睫毛が、ふるり、と微かに震え、伏し目がちのまま天草は己を落ち着かせるかのように小さく息を吸う。
    「この徴が刻まれた時から俺はずっとこの状態でいました」
     そう言うが早いか、瞬時に流れ落ちた髪が一房、天草の胸に垂れた。
     夏のあの日に一度だけ目にした姿を再び前にし、エドモンは反射的に片眉を上げた。髪が伸びたこと以外、外見的な変化はない。だが、チリチリ、と表皮を走るそれは明らかに目の前の男に対する警戒信号だ。
    「怪我や病気で困っている人がいれば癒しました。天候の変化もいち早く伝えました。えぇ、これらは今なら秘すべき類のものであるとわかっています。ですが、それが俺にとっての『普通』だったんです。信心深い方々はそれを神の奇蹟だと、ご加護だと、受け入れ、崇め……俺は、俺の異常さに気づけなかったんです」
     人は美しいもの、無垢なものに惹かれる。
     神父に連れられた少年を初めて見た人々が抱いた感情は、おそらく庇護欲であっただろう。壊れ物を扱うかのように慎重に優しく接し、それに応えるかのように彼が分け隔てなく奇蹟を授ける姿は、信仰の対象になるべくしてなったと言えよう。
     教会にいる儚く微笑む線の細い美しい少年。
     まるで絵に描いたように理想的な姿ではないか。
     声色も口調も一切変わっていないにも関わらず、今の彼の声にはまるで引き込まれるような抗いがたいものがある。なにも知らず耐性のない者ならば、心酔し盲目になってもおかしくないだろう。
     纏う空気も触れがたい静謐さと縋りたくなる寛容さを持ち合わせており、なるほどなににも煩わされていないときはこうなのか、と汗に濡れた姿を思い出し、厄介なことだ、と胸中でごちる。
     ややあって天草は、ゆうるり、と頭を振ってから、すみません、と小さく漏らした。
    「こんな話、聞かされても困ってしまいますよね」
     全く事情を知らない相手ならば初めから話すという選択肢はないのだが、エドモンは日常からやや外れたところにおり、多少なりとも天草の事を知っている男だ。なまじ知っているからこそ秘すべき事と打ち明けても良い事の境がうまく掴めないのだと項垂れる天草に、なんら困ることはない、とエドモンは静かに、だがはっきりと告げる。
    「そもそも聞く価値のない話ならば俺が黙って聞いているはずもなかろう」
     続けろ、と尊大に言い放つエドモンの態度に天草は困ったように笑うも、おかげで調子を取り戻したかまっすぐに顔を上げた。
    「噂程度でしかなかった話も回数を重ねれば様々な人の耳に入ります。当然、養父の耳にも。俺の『普通』は他者の普通とは違うのだと、養父に言われました。でも俺のことを否定する言葉は一切使わなかった。そんな彼の優しさが嬉しくて、彼にそんなことを言わせてしまった自分が情けなくて悔しくて申し訳なくて。きちんと知らなければならないと、そう思ったんです」
     特異性を理解した上で天草の意志を尊重し知己に彼を預けようとしたのか、と養父に関する疑問がひとつ解け、エドモンは僅かに頷きながら指先で顎を軽く撫でた。遠坂が難色を示したために当初の予定通りとはいかなかったが、衛宮邸で世話になることでより多くの人と関わることとなり、天草の目的を考えれば結果的には良かったのではないだろうか。
    「切嗣さんからは護身術を、奥方にはあやしい壷を買わされないようにと装飾品や美術品の目利きを教わりました。遠坂氏は商談とは別に衛宮邸にいらしては色々なお話を聞かせてくださいました」
     彼が良く口にしていた「常に優雅たれ」との言葉を胸にアルトリアに随伴しているのだと穏やかに笑う天草に、聞いただけでそれを実践できるのが空恐ろしいとエドモンは胸中でごちる。
    「本を読んで知識を得ても、こうして実際に人と接して、言葉をかわすことには遠く及ばないのだと実感しています。改めて言うのも気恥ずかしいのですが、俺は貴方とこうして話せることに感謝しています」
     普段の澄まし顔とはほど遠いはにかむ姿に面食らい、エドモンは咄嗟に言葉が出ない。例えるならば警戒していた方向からではなく、死角からカウンターパンチを喰らった気分だ。そんな彼を助けるかのようにドアノッカーの音が響いた。
    「ご依頼人でしょうか?」
     腰を浮かせ掛けた天草を制し「座っていろ」と言うが早いか、エドモンは玄関へと向かった。逃げるように居間を出て行った彼の背中を天草は不思議そうに見送るも、依頼人や客人ならばここに通されるのだと気づき、慌てて二人分のカップを手に台所へと引っ込む。
     買い出しも済み、借りていた本も真っ先に本棚へと戻してある。ならば部屋の掃除は明日に延期して、今日はこのまま帰るのが正解だろう。
     それともお茶のひとつでも出してからの方が良いのだろうか? と悩んだ結果、どちらにせよ使ったカップを洗うのだから、と持参していた割烹着に袖を通した。流れる髪は三角巾で押さえつつ玄関の方へ顔を向ける。
     そういえばこのようなことに力を使うのは初めてだな、と苦笑を漏らしながら壁のその向こうを見透かすように強い視線を送れば、玄関先に立ったエドモンと女性の姿が見えた。なにやら問答をしているようだが、盗み聞きは良くないと音は遮断しているのでその内容まではわからない。エドモンの性格上、客人や依頼人でなければ素っ気なく、だが強くお引き取り願うだろう。
     追い返さないが招きもしない。
     どういった状況か判断しかね、天草は見ることをやめそのまま玄関へと向かった。
    「め……、いえ先生。お客様でしたらお茶をおいれしますが……」
     いつも通り「名探偵」と言いそうになるも、この場には相応しくなかろうと咄嗟に呼び方を変えたがおかしくなかっただろうか? と問う意味も込めて天草が小首を傾げれば、不意のことに動きを止めていたエドモンは、はっ、と我に返り、天草にではなく来訪者に向かって「そういうことだ。人手は足りている。わざわざすまなかったな」と言うや、共に外に出るよう促した。
     え? あの? と戸惑いの声を上げる女性を門の向こうまで送り、戻ってきたエドモンの手にはなにやら薄汚れた紙が握られている。女性同様、戸惑いしかない天草は閉じられた扉の向こうを行く女性の後ろ姿を見ながら「一体なんなんですか」としか言いようがない。
    「俺自身すっかり忘れていたのだが」
     そう言って広げられた紙には『家政婦募集』の文字。おそらく門柱か塀にでも貼ってあったのだろう。
    「雇えばよかったのでは?」
     悪意はありませんでしたよ、と続ければ、善意だけでもなかろう、と苦虫を噛み潰したような顔をされ、それに対しては天草も、はは、と笑うにとどめた。
    「それに今は必要なかろう」
     すたすた、と先を行きながら手中の紙を、くしゃくしゃっ、と丸め、通り過ぎざまに屑籠へと落とす。意味がわからないと天草が怪訝な顔をすれば、肩越しに振り返ったエドモンは、ふは、と小さく笑った。
    「三日に一度、甲斐甲斐しく世話を焼きに来るのがいるだろう?」
    「三日に一度では急のお客様に対応できませんよ。あっ、もしかしてこれまでご依頼人にお茶のひとつも出していなかったんですか?」
     軽くからかってやるつもりが間髪入れずに返ってきた大真面目な言葉に、エドモンの口がへの字に曲がる。
    「ただでさえもご近所の方々には『道楽探偵』だなんて言われているのに、ご自分で評判を落としてどうするんですか」
    「もういい、黙れ。貴様はもう少しユーモアを解する柔軟さを養った方がいい」
     芝居がかった仕草で、ふるり、と頭を振ってから、エドモンは改めて、まじまじ、と天草を頭のてっぺんからつま先まで見やった。髪が伸びただけでこうも印象ががらりと変わるとは、目眩ましの術でもかけられているのかと疑いたくなるほどに、普段の姿があまりにも平凡に写りすぎているということだ。
    「なんですか?」
    「いや……」
     頭部に伸ばされた手に断りなく三角巾を外され、天草は更に怪訝な顔になる。掃除の際は常に割烹着に三角巾着用であったのだから、今更珍しく思うこともないはずだ。
    「この状態は『憑依』とは違うのか?」
     髪を一房取り、するり、と手から逃がしながら問うてきたエドモンに、あぁそういうことか、と天草の眉尻が若干下がった。
    「本当にペンドラゴン氏の言っていた通りですね」
    「なんの話だ」
    「探偵とは謎を謎のままにしておけない生き物だ、と。いろいろと勉強になります」
     それを聞いた途端、エドモンの眉間に深いしわが寄った。直接なにを言ってくるわけではないが、アルトリアは天草の素性やそれに関することをエドモンが調べていると知っているのだろう。
    「話を戻しましょうか。前にもお話ししましたが、俺は力をお借りしているだけなので『憑依』とは違います。例えるなら……そうですね、俺と神様の間には扉があって、普段は閉じているんです。それが閉じたままでは力をお借りできません。その扉が開いた目印がこの姿ということになります」
     扉を開ける主導権を握っているのがどちらなのかが気になるところではあるが、あくまで例え話だ。実際のところはそう単純な話ではないのだろう。
    「ふたつの部屋が繋がるだけで、部屋がひとつになるわけではないです。これがひとつになったら『憑依』ってことになるのではないかと。うまく説明できませんが」
    「いや、十分だ」
     今はそれぞれの境界が確立しているが、仮にどちらかがそれを越えてしまったらどうなるのか。
    「物の例えだとはわかっているが、これまでその扉の向こうに行く、あるいはあちらから来るといったことはあるのか?」
    「いいえ。繋がるだけで行き来は……」
     天草は否定の言葉を口にするも、それは最後まで音にならなかった。

     ──これも儀式です。■■様。
     薄暗い部屋。
     部屋の隅に置かれた古ぼけた小さな行燈が大人達の影を揺らめかせる。
     伸ばされる複数の手。
     視界にはいるのは天井と円を描くように取り囲む大人達の顔。
     両の足首を掴まれ高く上げられる。
     着物の奥に手を差し込まれる。
     いやだと初めて拒絶の言葉を口にした。
     やめてと初めて懇願の言葉を口にした。
     いやだいやだやめてやめてやだやめてと初めて喉も裂けんばかりに泣き叫んだ。
     たすけてと初めて縋る言葉を口にした。
     ──わかりました。
     そう『誰か』が言った。
     気づけば部屋の中で動く者は──

    「天草!」
     不意に強く肩を揺さぶられ天草は、はっ、と我に返った。夢から覚めたような面持ちの天草に、エドモンは渋面を隠しもせず、じっ、と目を合わせる。
    「どうした」
    「俺も、よくわからなくて……」
     血の気の失せた顔で震える唇から押し出された声には戸惑いが混じっており、言葉通り天草自身も困惑していると知れた。震えが全身へと及び頽れそうになった彼を支えれば、項垂れたまま消え入りそうな声で、すみません、と詫びられる。
    「いらぬ気を遣うな」
     このような状態でも己のことは二の次か、と苦々しく思いつつ、エドモンは天草を支える腕に力を込めた。
    「歩けるか?」
    「はい、なんとか……」
     天草の両脇に腕を回し、半ば抱きかかえた状態でゆっくりと足を踏み出す。向かった先は客室で、三日前に天草が掃除を済ませていたのは幸運とも皮肉とも言えた。
    「落ち着いたら送ってやる。暫く横になっていることだ」
     ベッドへ降ろした天草の足からブーツを抜き、気休めではあるがカーテンを引いて室内を若干暗くする。おとなしく身を横たえた天草を、ちら、と見やってから、エドモンは静かに扉を閉めた。
     居間へと戻る最中に、連絡のひとつでも入れておくか、と思っていれば、滅多に鳴らぬ電話が早く出ろと言わんばかりに遠くから催促してくる。こういう時にかかってくる内容は、大抵ロクでもないものだと相場は決まっているのだ。
    「Allo?」
     面倒くささを隠しもしないぶっきらぼうな対応に、電話向こうの男が困ったように笑う。
    「取り込み中でしたか?」
    「ベディヴィエール卿か」
     珍しい相手であることが更に厄介事の兆候に思え、エドモンの眉間のしわが一層深くなる。
    「シロウはまだそちらに居ますか?」
    「あぁ、居るが……」
     本人に用があるのなら電話には出られぬと彼の今の状態を伝えようとするも、ベディヴィエールは普段の礼儀正しい彼らしからぬ強引さで言葉を被せてきた。
    「良かった。それでしたら申し訳ないのですが、今晩は彼をそちらに泊めていただけませんか?」
    「なに?」
    「我が主の逆鱗に触れた例のご子息が先ほど押しかけてきまして……」
     ここで疲れ切った溜息が漏らされ、皆まで聞かずともエドモンは状況を察した。先日の宴席での件で遠坂時臣が直々に赴いたか使いを出したかは定かではないが、アルトリアからの「二度と関わるな」宣言を聞いての行動だろう。
    「大方『僕のことを理解できていないが故の悲しい擦れ違いだ。今からでも遅くない。もっと親睦を深めようじゃないか』とでものたまったのだろう?」
    「えぇ、その通りです。詫びに来たのならまだマシだったのですが」
    「ついでにまた天草のことを下に見る発言もあり、ペンドラゴンが淡々と、だが聞くに堪えない罵声を浴びせたと。そんなところだろう」
    「はい。それをランスロットが大真面目に真顔で全て通訳してしまいまして」
     柔和な顔立ちのベディヴィエールやガウェインではなく、精悍さの際立ったランスロットから腹に低く響くあの声で面と向かって言われ、怯むことなく食って掛かれる者はそうそういないだろう。
    「幼稚な捨て台詞を吐いて逃げ帰りましたが、あのような手合いは逆恨みでなにをしでかすかわかりませんから」
    「そうか。遠坂の顔に泥を塗った上で更になにかやらかす可能性も否めないとは、感嘆に値する愚か者だな」
     彼女はすぐに遠坂へ連絡を取り、共に相手の家へ向かっている最中なのだろう。そうでなければベディヴィエールではなくアルトリア本人が連絡をしてくるはずだ。
    「遠坂を間に入れて穏便に事を運ぼうとしたのが水の泡だな。仕事の邪魔をされてはもう容赦はすまいよ」
     電話口の向こうから聞こえる慌ただしさにエドモンが憐憫を滲ませた声を漏らせば、本質は嵐のようなお方ですから、と困ってはいるがどこか誇らしげな響きを含んだ声が返ってきた。
    「わかった。相手方と話がつくまで預かってやってもいいと、ペンドラゴンに伝えておけ」
    「ありがとうございます。伯爵も用心なさってください」
     それでは失礼します、と静かに電話は切られた。
     すっかり他人事のつもりでいたが、結果的にあの場で子息に赤っ恥をかかせたのはエドモンだ。恨みという意味での矛先は、確かにアルトリアではなくこちらへ向くだろう。
     だが、直接なにか仕掛けてくることはないだろうとエドモンは踏んでいる。身分を笠に着ている者は上下関係をよく心得ており、自分より上の者には媚びへつらい逆らわないものだ。交友関係ひとつを取ってみても、明らかにエドモンの方が有力者との繋がりが強い。
     ソファへと戻り置いたままであった煙草の包みを手に取る。アルトリアは煙草を嗜まないが、商品として扱っているものは煙草に限らずみな質が良く、信用がおけることをエドモンは知っている。
     煙草を燻らせ暫し目を閉じる。短時間で立て続けにいろいろなことがあり、一度思考を整理する必要があった。
     家政婦募集や愚息のことはなんら問題なく片づき、すんなりと記憶の棚に収まった。
     手間取るのはやはり天草のことだ。
     先に聞いていた話と今日聞いた話を時系列で並べ替え、その中で腑に落ちない点、違和感を覚えた点を選別していく。
     天草の話を聞いている時、常に感じていることがひとつある。己自身のことを語っているにも関わらず、まるで他者の経験を語っているような、感情の伴わぬどこか伝聞めいたものを感じるのだ。
     奇妙な点は彼の中では整合性がとれているのか、それになんの疑いも持っていないことだ。
     彼の言葉に嘘や虚言はないだろう。
     だが真実ではない。
     僅かに俯いていた顔を上げ、短くなった煙草を灰皿に擦りつける。二本目の煙草に火を着け、ゆらり、と立ち上った煙のその向こうに、気がつけば天草の姿があった。
     一体いつからそこにいたのか、居間と廊下を繋ぐ扉の傍に佇んでいる彼に声をかけようとするも、エドモンは開きかけた口を閉じ目を眇めた。
    「貴様は誰だ」
     固い声音で問いを投げれば相手は一瞬目を大きく開くも、直ぐさま柔和に目を細め、ゆうるり、と頭を垂れた。
    「初めまして探偵殿。私は時貞と申します」
     さらり、と肩口から流れ落ちた白髪に目を奪われていたことに気づき、エドモンは隠すことなく不愉快そうに顔を顰める。
    「魅了持ちか貴様」
    「生憎とそのような特性は持ち合わせておりませんよ」
     ふふ、と控えめな笑みを浮かべ、お傍に寄っても? と僅かに首を傾ける男に鷹揚に頷いて見せれば、では失礼して、とようやっとその場から離れた。迷いのない足取りでソファへと近づきエドモンの向かいへ腰を下ろすかと思いきや、そのまま横をすり抜け、すとん、とエドモンの隣へと収まった。
     なぜわざわざ隣に、とエドモンが渋面を作れば、時貞と名乗った男は自分の唇の前に人差し指を立てて見せる。
    「秘め事を語るのですから離れていては無粋というものです」
     すぅ、と細められた眼と僅かに弧を描く唇は蠱惑的で、エドモンの首筋に、チリチリ、と遠くから火で炙られているかのような感覚が走った。表情ひとつ、所作ひとつとっても人を惹きつける力は天草を介している時とは段違いである。
    「そんなに警戒しないでください。なにも取って喰おうというのではないのですから」
    「ではなにをしにわざわざ出てきた」
     手にしたままであった煙草から落ちそうになった灰を灰皿へ落としながらエドモンが苦い顔つきのまま問えば、時貞は興味深そうに見つめていた相手の手元から顔を上げ、ひた、とまっすぐに目を見据えてきた。
    「貴方の疑問にお答えするためですよ。正直に申し上げると、この子にあれこれ聞かれるのは少々都合が悪いのです」
    「先ほどの異変に関係していると思っていいのだな?」
    「はい。この子が貴方を信頼していることは感じていましたが、あそこまで自分のことを語るとは意外でした」
     若干低くなった声音に、警戒してるのはどちらだ、とエドモンは胸中でごちる。
    「なんでもお話ししますのでどうぞ。ただ、この子が目を覚ますまでですので手短にお願いしますね」
    「時間制限ありか」
     しかも明確な時間がわからないという厄介な条件付きだ。真相を知るには時系列順に聞くのが望ましいが、そうも言っていられないか、とエドモンは疑問をいくつか絞り込んだ。
    「村ひとつが壊滅したというにも関わらず一切情報がないのは何故だ」
    「地図上には存在しない村だったからです。魔術使いの隠れ里のようなものですよ」
     特異な能力を持っていたが故に人目を避け、流れ流れた者達がなにかに惹かれるように自然と集まりそこに定住したのだ。その地に居着いた理由は定かではないが、霊脈を辿ってきたのではないかと時貞は言った。
    「次だ。天草以外の村民はみな死んだと言ったが、存在しないはずの村に何故、ヤツの養父はやってきた?」
    「あの村には監視がついていたからです。危険因子としてそちら方面の組織から何十年も監視されてました。近年は魔術使いの残り滓のような者ばかりとなっていたので監視の目も緩んでいたのですが、さすがに対処は早かったですね」
     閉じられた環境故、近親婚を繰り返した影響か力は強くとも少々精神に問題のある者や人の形をなさない者が続出し、他所から子を攫うようになったのは血を薄めるためというのが当初の目的であった。
     だが、そのせいで魔術を行使する力も徐々に弱まっていき、力を失うことに対する恐れや焦りが子を攫う理由も儀式自体も歪めてしまったのだった。
     元々は天候を伺う程度のささやかな物で、神を降ろすなどと言う大それた儀式ではなかったのだ。
     適性のある者が天啓を得てそれを皆に伝える、ただそれだけのことであったのだ。
     それがいつしか神を喚び出し、適性者に定着させるものに変貌してしまった。
    「天草が貴様と繋がったのは適性があったということだな?」
    「適性と言いましょうか、元から魔術を行使できる素養はあったのですよ。その気になれば盲いた者に再び光を与えることも、水の上を歩くことも可能なくらいには。ただ、幼すぎたが故にこの子自身も気づいていませんでした」
     それでもこの子も無事では済みませんでしたが、と肩口から垂れた髪を一撫でし、時貞は悲しげに瞼を伏せた。
     大半の者は神の門を叩くこともできず死に至り、一握りの者は門に触れた瞬間に心が死んでしまった。
    「この子だけが門を開けたんです。本来ならば私が開けるべき門を向こう側から開けたのです。存在そのものが消し飛んでもおかしくなかったんですよ」
     わけもわからぬままにこちらへ来てしまった幼子を見殺しにもできず庇護下へと置いたが、天草が受けた精神への衝撃そのものをなかったことにするのは不可能であった。
    「少々語弊はありますが傷が癒えるまで私の元へ置き、現実世界では魂が抜けたような状態でしたから、五年ほどは私が表層に出てこの子のフリをしていました。その間のことは私を通して見て知っているので、それを自分の記憶だと思っているんです」
     あの不思議な物言いはそのせいか、と問わずに得られた答えにエドモンは用意していた質問を別の物へと変える。
    「天草にいろいろ聞くと何故都合が悪い?」
    「いくつか忘れてもらったり、辻褄が合うように記憶の改ざんをしているからですよ。覚えていない方が幸せなこともあるでしょう?」
     なんでも話すと言った言葉に偽りはなかったということだが、ここまで包み隠さず答えるとは正直エドモンは思っていなかった。
     ほとんど口にすることなく灰と化した煙草を灰皿へ放り、ぬらり、と光る眼を時貞へと向ける。
    「村民を殺したのは貴様か?」
    「はい。その通りです」
     ならば、と濁すことなくぶつけた問いに対し、淀みなくはっきりと肯定した時貞の表情は、ただただひたすらに穏やかでエドモンの臓腑を冷えさせた。
    「何故だ? 仮にも神として崇められていたであろうに。崇められ、畏れられてこその神だ。人々に忘れ去られ信仰を失った神など、そこいらの小妖以下だぞ」
    「貴方はこの子が拒絶に声を嗄らし、懇願で泣き叫び、弱々しく助けを請う姿を想像できますか?」
     問いに問いで返されたこともそうだが、なによりその内容にエドモンは唇を歪める。
    「情欲にまみれた手で触れ蹂躙することのなにが儀式であるか。ただの獣にこの子が穢されるのが私は許せなかった。もっと早くにこうしていれば罪のない子供達が犠牲になることもなかった。せめてこの子だけでも助けたかった。ただそれだけです」
    「ならば貴様は何故、未だに天草と繋がっている?」
     天草が軛から解き放たれた以上、時貞がいつまでも共にいる理由はないはずだ。エドモンの指摘に初めて時貞は言葉を詰まらせた。
    「言いにくいなら俺が言ってやろう。貴様と天草は『混ざっている』な?」
    「よくおわかりで」
    「時折顔を出す一人称のブレがなければそんな馬鹿げたことは考えなかったがな」
     誤魔化してもどうにもならないとわかっているからか時貞は素直に認め、困ったように小さく笑んだ。
    「私がこの子の意識に被さるように表に出てしまったからか、この子が五年間こちら側にいたからか、気づけば互いの境界が朧気になっていました」
    「では天草が言っていた扉の話はなんだ?」
     既に境界が崩壊しているのであれば、互いを隔てる物はないはずだ。
    「私の悪あがきですよ。部屋の例えを使うなら、ひとつの部屋のど真ん中に扉だけがあるんです。『この扉を開けない限り私の力は使えませんよ』『あなたと私は別物ですよ』と、この子にそう思い込ませているだけなんです」
     滑稽だとお思いでしょう? と自嘲の笑みを浮かべ、すっ、と時貞は音もなく立ち上がった。
    「それでも私はこの子に人らしく生きて欲しい。ただそれだけです」
    「時間切れか」
    「はい。思ったより長くお話しできて良かったです」
     来たとき同様、ゆうるり、と頭を垂れた時貞を見上げ、エドモンは何事かを思案していたかと思えば、踵を返した時貞の腕を緩く掴んだ。
    「今日から暫く天草をここで預かることになった」
     口端を吊り上げたエドモンの表情から言わんとすることを読み取ったか、時貞はいたずらを仕掛けてきた童を前にした心持ちだ。
    「夜這い宣言ですか」
     ふふ、と柔く笑んで掴まれたままの腕とは逆の手でエドモンの頬を、すい、と指先で撫でる。身を軽く屈め耳元に唇を寄せるや、笑みを絶やさぬまま艶のある声を耳朶に吹き込んだ。
    「静かにいらしてくださいね」
    「さすがは神だ。人をたぶらかす術を心得ている」
    「もしかしたら狐狸の類かも知れませんよ?」
     いたずらっぽく目を細める時貞にエドモンは、クハ、と軽く笑い、髪を一房掬い上げそっと口づける。
    「どちらでも大差なかろう。俺は謎が解ければそれでいい」
    「探偵とは面白い生き物ですね」
     微塵も動じていないエドモンの手を緩く振り払い、時貞は再度踵を返そうとするもなにを思ったか、すとん、とエドモンの膝に腰を下ろした。
    「おい」
    「あと十秒で巧い言い訳を考えてくださいね」
     そう言うやエドモンにもたれ掛かり瞼を伏せた。これが引き止めたツケだと気づいた時には既に遅く、天草の睫毛が、ふるり、と震え、瞼がゆっくりと持ち上がるのを黙って見ているしかなかった。


     熱いので気をつけてください、と手渡された焼き芋を半分に割り、アルトリアとの間に置かれた新聞紙に剥いだ皮を落としていく。庭掃除で集めた落ち葉で焼いたさつまいもは、天草が庭の片隅で育てた物だという。
     縁側に腰掛けしばらくは黙々と芋を食んでいたエドモンとアルトリアだが、買い物に行ってきます、と籐でできたカゴを腕に下げた天草の姿が視界から消えたところでようやっと口を開いた。
    「例の愚息はあれ以降おとなしいのか」
    「私の目に入る範囲では一応な」
     むしろ避けられているか、と愉快そうに喉奥で、くつくつ、と笑うアルトリアを横目に、エドモンは先日開かれた遠坂主宰のガーデンパーティを思い返す。
     形式にこだわらず友好を深めて欲しいとの遠坂の言葉はおそらく本心であろう。だが、敢えて招待した例の華族に「私の友人の息子です」とわざわざ天草を紹介したのは、強烈な釘差しとしか思えなかった。
    「日本語がわからないという茶番はそろそろ終わりにしたらどうだ」
     この先、些細なことで絡んでくる輩が出ないとも限らず、厄介事の芽は先に摘んでおけとの忠告であったが、それは困る、とアルトリアから返された声にふざけた様子はない。
    「それでは彼を連れて行く理由がなくなってしまうではないか」
    「わざわざ連れて行く理由もなかろう」
    「理由ならある」
     社会勉強の一環だとでも言うのかと思いきや、次いで発せられた言葉にエドモンは盛大に眉根を寄せた。
    「小遣いを受け取らんのだ」
    「貴様なにを言っている」
     ふざけているのか、と剣呑な眼差しを向ければ、失敬な、とアルトリアも負けじと表情が険しくなる。
    「衣服や筆記具は受け取るが、現金は頑として受け取らない。たまには団子の一本でも食べたくなるだろうし、幾ばくか自由になる金は持っていた方がいいと貴殿も思うだろう? 誠実で真面目であるのは美徳だが、何事にも限度というものがある」
    「それはつまり、賃金としてなら受け取るということか」
     そうだ、と頷くアルトリアの苦り切った表情から、いらぬ苦労をしてるな、と若干ではあるがエドモンは同情を禁じ得ない。
    「そもそも我欲が薄いのだ。唯一と言っていい『欲しい物』は貴殿のところで事足りてしまっているしな」
     衣類を素直に受け取るのはみすぼらしい格好で出歩いて主に恥をかかせないためで、筆記具は勉強に欠かせない物だ。どうやら必要な理由が明確な物は抵抗なく受け取るらしい。
    「あぁいや、そのことを責めているわけではない。先日の連泊で好きなだけ本が読めて随分と喜んでいたからな。それはそれで良いことだ。『機会があればまた泊まりたい』とも言っていた」
     刹那、脳裏を過ぎった姿にエドモンの口角が僅かに上がる。
    『彼』とはまだまだ話し足りないのだ。
    「俺は一向に構わんぞ」
     間髪入れずに返ってきた上機嫌な声にアルトリアは探るように目を細めるも、特に反対する理由が見つからず、そうか、とだけ零すと、外気に晒されすっかりと冷めてしまった焼き芋を口に運んだ。

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    2017.12.31
    ※女帝の取り巻きに絡まれたら面倒だからスルーしようとしたらセミ様と天草が知り合いで「なん、だと……?」なエドモンと、顔がいい二人が並ぶと絵になるなーと思いつつ微妙にもやっとする天草が少しデレるお話。


     壁際で静かにグラスを傾けるエドモンの隣で同様にグラスを傾けながら、天草は会場内を右から左へと、ゆうるり、見回す。
    「伯爵も皆さんとお話しをされてはいかがですか? 俺のことはお気になさらず。ここでおとなしくしていますから」
     出掛けに荷受けでのトラブルが発生したと連絡が入り、アルトリアはそちらを解決してから会場へ向かうことになっている。その際、天草を連れて先に行ってほしいと、エドモンはアルトリアに頼まれたのだ。
     これおいしいですね、と中身が半分ほどになったグラスを再度口に運んだ天草を、ちら、と横目に見やり、エドモンは面倒くさそうに緩く息を吐いた。
    「構わん。むしろ挨拶をしたら早々に退散したいところだ」
    「おや、珍しいこともあるのですね。こういう場は情報収集にはもってこいだと常日頃から仰っているのに」
     ホテルの広間を使った本日のパーティは、某大手製薬会社社長令嬢の誕生パーティだ。主役を祝う一方で思惑が絡み合い、誰と誰がどこでどのような繋がりがあるのかなど、実に興味深い情報がわんさかと転がっている場を利用しないとは、普段のエドモンからは信じられない発言である。
    「俺にも近づきたくない人間はいる」
     そう口にするエドモンの視線の先を追い天草は、おや? と僅かに首を傾げた。
    「あの方は……」
    「現在の社長夫人だ。元は社長秘書だったが何年か前に後妻におさまった」
     艶やかな黒髪と胸元の広く開いたドレス、そしてなにより涼やかな目元の美貌は強く人の心を惹き付ける。だがそれは華やかというわけではなく、淫靡さを漂わせ、背徳感を掻き立てる退廃的な美しさだ。
    「会社の実権はあれが握っているだの、怪しげな実験をしているだの、実は魔女であるだのと、いくつも噂が流れているが、はてさてどこまでが噂であることか」
    「そうなのですか?」
    「確実に言えるのは、とんでもない毒婦だぞ」
     クハ、とあまり好ましくない嗤い方をするエドモンに天草がなにか言いたげな顔を向けるも、口を開く前に相手の唇が不快げに歪んだ。
    「随分な言われようではないか。のうダンテス? ……いやこの場ではクリスト伯爵であったか」
     聞こえておるぞ、とほんの数十秒前まで複数人に囲まれていた社長夫人が今は二人の目の前におり、猫のように、ニィ、と目を細めている。
    「これはこれは女帝様自らおいでくださるとは光栄の極みにございます」
    「まったく不快な男よ。まぁ良い」
     慇懃無礼に頭を垂れたエドモンを見下ろし僅かに眉根を寄せるも、女帝はすぐさま表情を変え隣にいる天草に目をやった。
    「久しいなシロウ。息災であったか」
    「はい、おかげさまで。セミラミスもお元気そうでなによりです」
     慈愛の垣間見えるその眼差しに、エドモンは信じられないものを見たと言わんばかりに軽く目を見開く。
    「知り合い、だと……?」
    「教会に毎月お薬を持ってきてくださっていた方です。こんな偉い方だとは知りませんでした」
    「シロウがひょろひょろのもやしだった頃から知っておる」
     背はこれくらいであったか、と己の胸当たりを示すセミラミスと天草は現在、殆ど身長差がない。踵の高い靴を履いている分、セミラミスの方が若干上回っている程度だ。
     どれ、もっとよく顔を見せよ、と細い指先が天草の両の頬に添えられる。
    「貴様が奉仕活動とは初耳だな」
    「なに、これも宣伝のひとつよ。実際に使った者の声というのは広告一つ打つ以上の価値と効果があるものでな」
    「俺に読み書きを教えてくれた養父の知人がセミラミスですよ」
     そういえば以前そのようなことを言っていたな、とエドモンが記憶の引き出しを開けている間も、セミラミスの手は天草の顔、首、肩、腕といった具合に次々と場所を移しており、触れられるたびに天草はどこかこそばゆい顔を見せている。最近は砕けた表情を見せることも増えてきたが、ここまで無防備に笑み崩れる様は稀有だ。
    「売買の仕組みとか労働の対価についても教わりました」
    「働かざる者喰うべからずであろう?」
     この短いやり取りだけでアルトリアを悩ませている『天草が小遣いを受け取らない問題』の原因を理解し、エドモンは知らず深い溜息を漏らす。
    「……刷り込みとは恐ろしい物だな」
     うっかり漏れ出てしまった呟きに不思議そうな顔を向けてくる天草を敢えて見なかったことにして、エドモンは女帝の戯れを軽く窘める。
    「そろそろやめてやれ。帰り道で後ろから刺されかねん」
     ここに至るまでセミラミスの手は天草から離れることはなく、女帝の寵愛を受けている少年は誰であるのかと、興味半分、嫉妬半分の目が複数向けられており、このままでは面倒事の匂いしかしないと、エドモンは渋面を隠そうともしない。
    「外野など放っておけと言いたいところではあるが、シロウに害が及ぶのは我の本意ではない」
     名残惜し気に髪を一撫でしセミラミスは一歩下がると、うむ、と小さく頷いた。
    「ペンドラゴンが来るまでにはまだ時間がかかるのであろう? ならば今のうちに好きなだけ甘味でもなんでも食べてくるがいい」
     遠慮は不要ぞ、と料理の並ぶ卓を指しセミラミスは半ば強引に天草をエドモンから引き剥がしにかかる。アルトリアが着いてからでは確かに食べ物を口にする隙は皆無であろう。女帝の底意は不明であるがエドモンは彼女に同意し、天草をひとりホールへと追いやった。
     女帝が見ている手前、天草にちょっかいをかける者はおらず、エドモンは緩く息を吐きながら「で?」と隣に居座っているセミラミスを見下ろす。
    「なにか俺に話があるのだろう?」
    「なに、知己が悪い男に引っ掛かっていないか心配なだけよ」
     三日に一度の頻度で足繁く探偵の元へと通う姿は、端から見れば色恋が絡んでいるように見えてもおかしくないのやもしれぬが、生憎とそのような関係ではない。くつくつ、と喉奥で笑うセミラミスもそれは承知の上であろうが、別の意味で半分は本気で半分は冗談であろう。エドモンが天草に対して抱いている興味がどういった方向であるか、理解した上での発言と捉えるべきか。
    「あれは人の中でうまくやれておるか?」
     給仕から受け取ったグラスを緩く揺らしながら囁くように問うてきたセミラミスを横目に、エドモンは空のグラスと交換した物を口へと運ぶ。
    「これといった問題は見受けられないが」
     暇さえあれば本を読んでいるのは単純に知識を増やすためであり、対人関係がうまくいっていないわけではない。現にアルトリア達キャメロット商会の人間とも和気藹々とやっている。
     ひとり静かに過ごそうと思っていたにも関わらず、「いっぱい餅米蒸したんで名探偵もはりきってどうぞ!」と正月早々餅つき大会に巻き込まれたのは記憶に新しいところだ。
    「だが、ペンドラゴン達も普通とは言い難いが故に参考にはならんな」
     むしろこちら寄りだろう? と目を細め声を潜めたエドモンにセミラミスは軽く肩を竦めて見せる。
    「シロウのまわりには普通の人間はおらぬか。故意か偶然か判断しかねるところがまったくもって小賢しい」
     あの狸共めが、と苦々しく吐き出すセミラミスに対し、エドモンは同意するかのように緩く息を吐いた。
    「遠坂とあれの養父か。俺も調べるのにかなり難儀した」
     表の顔を調べたところでなにが出てくるわけもなく、当然のことながら別の方面からも調べてはいたのだが、成果はサッパリであった。だが、ある日を境に核心に近い情報が拾えるようになった。まるで時貞の存在を認識するのを待っていたかのようだ、というのは考えすぎであろうか。
    「まさか村まるまるひとつが療養施設だとは思いもしなかったぞ」
     何代も前の遠坂を筆頭に複数名によって造られたそこは、表向きは華族や富裕層の別荘が建ち並ぶ避暑地だが、実体は魔術や怪異絡みの被害者を収容し、心身の治療を目的とした複合施設であった。
     地元の名士は魔道の大家でもあり、管理する土地でなにかあれば、普通の生活を営む者の目には触れないよう内々に処理をしていたのだ。
    「村には普通の人間もおる故、表向きは奉仕活動ということになっているが、我に白羽の矢が立ったのも納得であろう?」
    「貴様から見てあれの養父はどのような男だ?」
    「悪人ではないが、かといって善人というわけでもない。教え、諭し、導く、といった己の使命に忠実な男、ではあるな」
     魔術事情に通じ体術には長けているがただの人だ、と付け加え、セミラミスは一気にグラスの中身を煽った。
    「……シロウと初めて会うたのは雪の日でな」
     不意に、ぽつり、と独り言のように漏らされたそれをエドモンは黙って聞いている。
    「傘も差さずに教会の前に突っ立っておって面食らったわ」
     少年はなにをするでもなくただぼんやりと空を見上げているだけで、寒くはないのかと問うたセミラミスに視線を移してもなにを言うでもなく、ただただ瞳に映しているだけといった有様であった。
    「口も開かない、表情も乏しい。髪も肌も、着ている着物は寝間着であったのかそれも白。正直、幽鬼の類かと思ったほどよ。我は医者ではない故、詳しいことはわからぬが、それでもこの子供がこのままでは先が長くないことくらいはすぐわかった」
     触れれば、ぽきり、と簡単に折れてしまいそうな細い指を思い出し、セミラミスは痛ましげに眉根を寄せる。
    「あれの養父に事情を説明された上で頼まれてな、何度か薬を処方してやった」
    「貴様手ずからということは、真っ当なルートには乗せられない類のものか」
     こちらの世界には存在しないとされている水竜の鱗やマンドラゴラを使った物など、認可、無認可以前の話だ。他にも呪術や秘薬作りに秀でた者を何人か知っているが、毒の扱いは彼女が頭ひとつ以上飛び抜けている。そのせいもあってあまり良い噂を聞かないのだが。
    「体力、筋力は言わずもがな。臓物も相当弱っていたのだ。それを健常者と同じようにしろというのだぞ? 真っ当な手段でどうにかなると思うてか」
     つまらぬことを言うな、と目を細めるセミラミスは言葉とは裏腹に、唇は弧を描いている。だが、それは上辺だけであるとエドモンは気づいているが、敢えて口にはしない。
    「まぁ副作用がまったくなかったわけではないことは認めよう。だが、肌の色が少々変わったくらいなら安いものであろう?」
    「よく騒ぎにならなかったな」
    「それなりに時間をかけたのでな。元が病的な白さと言うこともあって日に焼けやすい体質だったのだろうと、我が説明するまでもなく周りが勝手に納得していたわ」
     やはり天草から聞いた話だけでは不完全だな、とこれまでに得た情報を書き換えながらふと思い出したことがあり、エドモンは隣の女帝に改めて顔を向けた。
    「天草の立ち位置はどのようなものであったのだ?」
    「どのようなもなにも、引き取られてきただけのただの子供だが……わかっておる。表向きの話が聞きたいわけではないのであろう? そのような顔をするものではない。折角の美形が台無しではないか」
     そのような、と言われたところでエドモン自身はなんらおかしな表情を見せたつもりはない。不服を露わにした相手に、ご婦人方に幻滅されるぞ、と冗談めかしてからセミラミスは逆にエドモンに問いを投げた。
    「なにか探偵殿の興味を惹くことでも?」
    「先月、遠坂のところに天草と行った時にな」
     年末年始は遠坂の家には挨拶に訪れる者が多いであろう事を見越して、先に挨拶をしておきたいと天草が遠坂に連絡を取り、エドモンはそれに同伴したのだった。十二月の中旬頃に訪ねた際、遠坂邸で天草の養父の使いだという者と偶然会ったのだが、その男は天草のことを「シロウ様」と呼んだのだ。
    「神父本人ならまだしも、その息子まで様付けはなかなか聞かぬと思ってな」
     しかもかなりの熱の籠もりようだった、と今にも天草の前に跪いて手を合わせそうな勢いであった男の姿と、相も変わらず穏やかな笑みを浮かべている天草の様子を思い出し、エドモンは不快感も露わに小さく鼻を鳴らした。
    「便宜上、養父とその息子となってはいるが、正確には後見人であって戸籍上はなんの繋がりもないのだが、今その話は関係ないから置いておくとして……」
     組んだ腕を、こつこつ、と細い指で数度叩いてから、セミラミスは、ゆうるり、と唇をほどいた。
    「あれが『奇蹟』の大安売りをしたせいで『神の子』扱いだ。心酔する者が多数出て、その中でも一部の者が盲目的にあれを信仰し始めたが、端から見ていて正気の沙汰ではなかった。シロウは恐らく気づいておらぬがな」
     村の性質上、不可思議な現象に免疫のある者が多かったのが徒となったのだろう。しかも天草の施すそれは紛い物ではない本物の奇蹟だ。
    「随分と熱心にいつ村に戻るのかと聞いていたが、あれも信者の一人というわけか」

     ──この子に人らしく生きて欲しい。

     望みを口にしながら儚く笑んだ時貞の姿を思い出し、エドモンの眉が僅かに寄る。
    「して、シロウはなんと?」
    「『まだまだ勉強中の身ですのでわかりません』とバッサリ斬り捨てたぞ。ヤツにその自覚がないであろうことが唯一の救いか」
     残酷なことだ、との言葉とは裏腹に低く喉を鳴らすエドモンに一瞥くれてから、セミラミスは「正直なのは良いことではないか」とこちらも喉を鳴らした。
    「なんだぁ、ふたりとも仲がいいんじゃないですかぁ」
     不意に割って入ってきた声に探偵と女帝は動きを止める。
     ふにゃふにゃと無駄に陽気な声と共に戻ってきた天草は明らかに様子がおかしく、不覚にも反応が遅れてしまったエドモンだが、瞬時になにかを察したか強引に相手の腕を引き、くるり、と半回転させた。その勢いのまま背後から天草を抱き込むと、壁と向き合うようにエドモン自身も身を翻した。
     探偵よりも状況の把握が遅れたセミラミスは、それがこの場での最善手であったことは認めるが、周りからどう見られるかまでは考えていなかったであろうエドモンに対し、深々と溜息をつく。
    「言いたいことはわかっている。とにかくコイツの髪を括れ」
     小声で指示を出しながら上着を脱ぎ始めたエドモンの意図を汲み、セミラミスは腰よりも伸びた天草の銀糸を前へと回し、エドモンから差し出されたハンカチーフでまず一カ所を結んだ。更にその先が大きく広がらぬよう、天草のポケットから引き抜いた揃いのハンカチーフでもう一カ所結んだところで、少年の頭部は背後から、すっぽり、とエドモンの上着に覆われた。
    「一体なにがあった」
     ひそひそ、と言葉を交わしつつ、エドモンは天草──時貞を抱え上げる。
    「最初に選んだグラスがおいしかったからって、調子に乗って飲み過ぎたんですよこの子」
    「なんだと……?」
    「しっかりしてくださいよ探偵殿」
     天草がなにを飲んでいたのかなど気にも留めていなかったのだと、エドモンの反応から判断した時貞は、まとめられた髪が零れ落ちないようしっかりと抱え、できるだけエドモンに身を寄せるついでに相手の胸を拳で軽く叩いた。
     何事かあったかと駆け寄ってきた給仕はセミラミスが体よく追い払い、招待客用に部屋を取ってあるからそこを使うとしよう、と自ら案内役を買って出た。さすがに黙って退室するわけにもいかず、伴侶と娘には「知人が具合を悪くしたので休ませてくる」と簡潔に告げたのだった。


     社長夫人が間に入れば話はとんとん拍子に進み、ほぼ最短時間で部屋へと入り、念のためカーテンを引いてから時貞はベッドへ降ろされた。
    「まだシロウと共におったか。なかなかにしぶといのう」
    「えぇ、まだこの子に必要とされることがあるので、もう少しがんばりますよ」
     セミラミスの嫌味を、さらり、と受け流し、時貞は笑みで返す。互いに面識があることは想定していたが、あまり友好的ではない空気がエドモンには意外であった。
    「なにをやらかした女帝?」
    「我はなにもしておらぬ」
    「酷い薬をこの子に飲ませてたじゃないですか」
     ツン、とそっぽを向いたセミラミスの言葉尻に被さるように時貞の声が上がる。
    「臓物がどろどろのぐちゃぐちゃになるような……薬を通り越して最早毒です。私じゃなかったら耐えられなかったですよ、あれは」
    「勿論、それを見越しての処方であったが? そうでもしなければ……おまえにもわかっていたであろう?」
     煽るような態度から一転、静かに諭すような声音になったセミラミスに、時貞も肩の力を抜くと「貴方の技量は認めていますし、感謝もしているのですよ」と若干眉尻を下げた。それでもやはり不満は消せぬのか、見ようによってはふて腐れたような態度に、エドモンは内心で「へたをすれば天草よりも人間くさい」と思ったのだった。
    「真面目な話、少しでも長く留まりたいのであれば名を明かしたらどうだ。おまえを信仰していた者達は既に亡く、シロウですら名を知らぬのでは、早晩消えるのは時間の問題であろう?」
    「そこはまぁ、流れに任せるだけです。ただ、その頃にはこの子もひとりでやっていけるようになっていると思います」
     環境には恵まれていますし、とエドモンを、ちら、と見やって時貞は目を細める。
    「俺がコイツを食い物にするとは思わないのか」
    「するんですか?」
     肯定も否定もせず問いを投げ返してきた時貞に対し、エドモンは片眉を上げるに止めた。簡単に「信用しています」などと言われたら、鼻で笑うしかなかったのだが。
    「消えるときには餞別の言葉くらい贈ってやろう。では我はそろそろ戻らねばならぬ。ペンドラゴンにはこちらから説明しておいてやるから、帰るも泊まるも好きにしたらいい」
     帰るなら車を回してやろう、と言い置いて出て行くセミラミスを笑顔で見送った時貞だが、おい、と低くかけられた声に緩く首を傾げた。
    「俺に名を告げたのは打算か?」
    「違いますよ。名乗らなかったら私、問答無用で焼かれていたでしょう? 貴方そういうところ細かそうですし」
     話をする前に天草に居座る異物と見なされてはたまったものではないとの判断から、時貞は正直に名乗っただけのことだ。
    「あぁでも、こうして貴方とお話しするのは楽しいので、結果的には打算と言うことになるんでしょうか」
     初めて顔を合わせたときの警戒心はどこへやら。すっかりと馴染んだ様子は彼の本心か、はたまた天草がエドモンに対して抱いている好意に引き摺られてか。
     混ざっていると言うことは、お互いに影響し合っているとも言えるのだ。
    「女帝は貴様と天草が混ざっていることには気づいてないのか」
    「さぁどうでしょう? どちらにせよ私はこの子という樹に挿し木されたような存在ですから、最終的に個として残るのはこの子の方です。ならばなにも問題はないでしょう」
     話しながら上着を脱いだ時貞からそれを受け取り、次いで無造作に脱ぎ捨てられた靴を揃える。身を屈めたエドモンの頭上から「ほら細かい」と笑み混じりの声が降ってきたが、「貴様が無頓着なだけだ」と呆れた声が漏らされた。
    「顔くらい拭いてから寝ろ」
    「ではお願いします」
     ころん、と横になった時貞の丸投げ発言に、ふざけるな! とエドモンの柳眉がキリキリと吊り上がる。だが、微塵も気にした様子もなく時貞は、ちら、と薄目を開けてエドモンを見やった。
    「私も辛いことには変わりないんですよ」
     そろそろ限界です、と穏やかに紡いだ時貞の言葉が嘘か誠か判じかね、エドモンは困ったように後ろ頭を、かし、と一掻きする。
    「女帝に酔い覚ましの薬でも作ってもらえば良かったか」
     険悪ではないが良好とも言えぬ先のやり取りから、時貞がそれを言い出すことはまずなかっただろうと今になって思い至り、苦い声を出したエドモンに時貞は、ゆうるり、と眦を下げた。
    「この子が目を覚まして辛そうだったら、そうしてあげてください」
     多少のお灸は必要ですから、と冗談めかす相手の顔を覗き込むように僅かに身を屈め、仄かに上気した頬に掌を添える。色づいた眦に親指の腹で柔く触れれば、ふふ、と時貞の唇が綻んだ。
    「貴方の手、冷たくて気持ちいいですね」
     静かに伏せられた瞼を掌で覆いエドモンは小さく、そうか、とだけ返した。


     ──寒くはないのか?
     さく、と積もった雪を踏み傍らで立ち止まった女性に、見上げていた空から、ゆうるり、と視線を移した。見上げた先のその顔はこれまで見たことがないほどに美しく、だが、それを表す言葉も伝える術もわからず、ただただ黙って見つめるしかなかった。
    「雪が珍しいのか? だが、そのような薄着では風邪を引いてしまう。一度中に戻るがいい」
     そう言って流れるように掬い上げられた手は、細くたおやかな手に握られた。
     一方的に握られたそれを握り返すことはしなかったが、じわり、と伝わってきた温かさに、胸の奥が微かに疼いたのを覚えている。
     養父の元に来てから数ヶ月は起きているよりも、うとうと、と微睡んでいる時間の方が長かった気がするが、日に日に自分の身体に変化が生じていることは朧気ではあるがわかっていた。
     人並みに動けるようになる頃には、彼女が教会を訪れる回数も月に一度程度となっていた。
     その二年の間で様々なことを教わった。
     なにをすればいいかわからないと言った自分に「ではカモミールを育てよ。それを我が買い取ろう。今は必要なくとも近い将来、金は必要になる」と彼女は言ったのだ。
     今にして思えば破格の買い取り額であったが、そのおかげで養父の元を離れてからもしばらくは散髪代等を自腹でどうにかできたのだ。
     恐らく彼女が養父以外に自分が初めて尊敬と信頼を寄せた人物なのだろう。
     そんな彼女に処方された薬を飲んだ晩、夢うつつに感じた、ぐつぐつ、ぐらぐら、と身の裡が煮えたぎり、灼熱に臓物が熔けるかと思われたあれは、果たしてなんであったのか……?


    「……あつい」
     茫洋と漏らされたそれに呼応するかのように、ひやり、と頬に触れたものに、無意識のうちに手を添える。
    「起きたか」
     静かにかけられた声に重たい瞼を持ち上げれば、身を乗り出しているエドモンの姿が目に入ってきた。
    「名探偵の手、冷たくて気持ちいいですね……」
     数時間前に同じ口で他人が同じ事を言ったのだが、当の天草はその事を知らない。
     再び瞼を下ろしエドモンの手を堪能していた天草だが、自分が置かれている状況にやっと気がついたか、怪訝な顔で、きょろり、と目だけを動かした。
    「ここは?」
    「ホテルの一室だ。子供が酒なんか飲むからだ」
     髪に籠もった熱を逃がすように指を梳き入れてくるエドモンの言葉に、痛む頭に耐えながら天草は記憶を辿る。
    「あぁ、あれお酒だったんですね……途中からなんだかふわふわしてきて……」
     明確に覚えているのは壁際の二人が共に微笑を浮かべている姿だ。美男美女でお似合いだなぁと思うと同時に、胸の奥が微かに軋んだ気がしたが、それがなんであったのかはわからない。
     のそり、と緩慢な動きで身を起こした天草はおもむろに襟足に手をやり、不思議そうな顔で二度三度と撫でさすった。
    「どうした」
    「いえ、この部屋に来てから貴方となにか話をした気がするんですが……」
     確証が持てないのか言葉を濁す天草にエドモンは素っ気なく言い放つ。
    「夢でも見たんだろうさ」
    「そう、ですね」
     ガンガン、と内から外へと響く頭痛に顔を歪め、考えることを放棄した天草は蹲るように身を横たえた。カーテンの隙間から差し込む光は赤みを帯びており、とうの昔にパーティはお開きになっていると知れた。
    「ペンドラゴンなら女帝と商談中だ」
     天草の僅かな表情の変化から彼の危惧を先回りして潰し、エドモンは更に言葉を継ぐ。
    「帰るなら車を回してくれるそうだが、その様子では泊まった方がよかろう。車中で吐かれても困るのでな」
     言葉を選ばぬ探偵に不満げに呻くも、その通りであるだけに天草に反論の余地はない。大失態だ、と情けないやら、巧く立ち回れなかった自分が腹立たしいやらで泣きそうになっている天草に気づいているのか、エドモンは、ゆるゆる、と銀糸を梳くように頭を撫でながら、くは、と小さく笑った。
    「今のうちにたくさん失敗しておけ。普段の貴様はまったく子供らしさがないからな。これくらいがかわいげがあって丁度いい」
    「俺にそんなことを言うのは貴方とセミラミスだけですよ……」
     ぽつり、と漏らされたそれには敢えて触れず、エドモンはサイドテーブルに置かれていた水差しを手に取った。
    「薬を飲んでおけ。少しはマシになるだろう」
     頼むまでもなく薬包紙に包まれたそれを持ってきたセミラミスの「特別製だぞ」との言葉を素直に受け取るのであれば魔術絡みの物ということだが、あの表情はそうではないと探偵のカンが告げる。
     のろのろ、と身を起こした天草の背を片手で支えてやりながらまず薬包を渡し、水を注いだグラスを手に待機する。天草はほぼ目を閉じた状態で小豆ほどの大きさの丸薬を口に含んだ瞬間、びくり、と大きく肩を揺らしたと思うや否や、エドモンの手からグラスをひったくり、間髪入れずに中身を一気に飲み干した。
     ぶわり、と一瞬にして噴き出したのは冷や汗か脂汗か。とにかく尋常ではない様子にエドモンは心配よりも先に、女帝の厳しさに軽く眉間を押さえる。
     己の意志とは関係なく溢れた涙を袖口で拭い、天草は立てた膝に顔を埋めるように、ぐったり、と身体を半分に折った。
    「大丈夫か」
    「……頭痛も吹っ飛ぶくらいの衝撃でした」
     頭痛と共に残りの体力気力も吹き飛んだか、覚束ない口調で答える天草の背をエドモンの手がゆっくりと撫でさする。効果は抜群であったがその代償は大きかったようだ。
    「甘やかす役を譲ってやったのだ。感謝するがいい」とでも言い出しそうなセミラミスの顔が脳裏に浮かび、エドモンは眉間に深いしわを刻む。知己が悪い男に引っ掛かっていないか心配だなどと言っていたくせに、やっていることは真逆だ。
    「身の丈に合わないことをすると痛い目に遭うということだな」
    「肝に銘じておきます」
     疲れ切った様子で顔を上げた天草の顎を、つい、と掬い上げ、ふにり、と親指の腹で下唇に軽く触れる。
    「口直しをしてやろうか?」
     顔を寄せながら囁くように問えば、天草は、きゅっ、と一瞬唇を引き結んでから、ぐい、とエドモンの顔を押し退けるように腕を突っ張った。
    「そういう冗談は……良くないと思います」
     未だ顎を捕らえられたままであるからか目だけを逸らし、もごもご、と口にする天草の目元が朱に染まっているのは気のせいであろうか。
     てっきり呆れた顔を隠しもせず「趣味が悪いですね」などと軽く嫌味を寄越してくる物とばかり思っていたのだ。
     夏に不意打ちで口を吸った時とはまったく異なる反応にエドモンは言葉を失い、冗談では済まなくなりそうだ、とぼんやり思ったのだった。


     コチコチ、と時計が刻む単調な音が響く中、エドモンは隣で静かな寝息を立てている天草を横目に見やり、はぁ、と溜息をついた。
     女帝の薬を飲んだことだし大事を取って一晩ここで休めば心配はいらないだろうと、エドモンが帰宅する旨を告げれば、「え、帰っちゃうんですか?」と天草はあからさまに不安そうな顔を見せた。
     珍しいことが連続で起こり茶化す気も削がれたかエドモンが理由を問えば、上質な部屋をあてがわれて気後れするだのなんだのと言ってはいたが、最終的に「心細い」と心情を吐露したのだった。
     実はまだ酔いが覚めていないのではないかと疑いもしたが、この子供が他人に頼ろうというのだ。大した変化ではないかと上がりそうになる口角を掌で覆い隠し、それでもつい勿体ぶってから了承して見せた。
     エドモンの返答を待つ間の天草は寄る辺ない子供のようで、その姿に胸の奥がざわついたのはここだけの話だ。
     だが、そのあとがよろしくなかった。
     クィーンサイズとはいえベッドはひとつだ。
     ソファで休むと言ったエドモンに天草は至極普通の顔で「一緒に寝ればいいじゃないですか」と宣ったのだ。
     冗談で顔を寄せてきた相手に赤面したことなど記憶から抜け落ちているかのような発言に、さすがのエドモンも頭を抱えたくなった。
    「広いですし、俺もそんなに寝相は悪くないと思いますし。あ、名探偵は寝相があまり良くないとか……?」と気を遣う箇所がずれている相手に「そんなことはない」と反射的に返してから、しまった、と思うも後の祭りで。
     ならばなにも問題ないですね、と心底安心したと言わんばかりの笑みを浮かべられては、これ以上なにも言うことはできなかった。
     まだ五年しか人として生きていない子供は、己の感情すら理解できず、欠けたモノを埋めている最中なのだ。
     それがすべて埋まったとき時貞はいなくなるのだろうと、エドモンは漠然と思ったのだった。

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    2018.05.18
    幕間※時系列は秋と冬の間。
    時貞さん抜きのエドモンと天草の補完的なヤーツ。


     ──少々、頼みたいことがあってね。
     そう遠坂に言われ呼び出されたのはこれで何度目であったか、と過去の案件を思い返しエドモンは溜息をついた。
     常に閑古鳥が鳴いている探偵事務所にはありがたい固定客なのだが、呼ばれる度についでを装って天草の様子を尋ねられるのだからたまったものではない。
     一度「俺はアレの保護者ではない」と言ったことがあるが、「彼が文のひとつも寄越さないと友が零していてね」と返されては口を噤むしかなかった。
     遠坂邸から戻り、部屋の掃除をしていた天草に「さすがに近況くらいは伝えてやれ」と苦言を呈せば不思議そうな顔をされた。聞けばこれまでに養父から何通か手紙は届いているが、返事を書いたことは一度もないというではないか。だが、彼はけして養父を蔑ろにしているわけではない。自分がそれを書くという考えに至らなかっただけなのだ。
     知らぬ土地で貴様が元気にやっているか知りたいのだろうと説明してやれば「そういうものですか」とどこかぼんやりとした言葉が返された。
     本を読み知識はついているが、あくまで知っているだけで理解はしていない。そんなところだろう。客観的に見ても天草は頭は良く飲み込みも早い。だが、感情、心情といったものは教えられて覚える類の物ではない。自身が経験しそれらを積み重ねていくしかないのだ。
     あれやこれやと思い返している内に遠坂から聞いた目的の店が近づき、エドモンは思考を現在へと切り替えた。
     途端、視界に飛び込んできた見慣れた姿に思わず喉奥で低く唸る。ここ暫くはなかったので完全に油断していた、と頭を抱えたい気分だ。店先で掃き掃除をしている女性に一言二言声をかけ、軽く頭を下げてからこちらへ向かって歩いてくる少年をその場で待つ。相手もエドモンに気づいたか、おや? と言わんばかりに目を丸くした。
    「お散歩ですか?」
    「仕事だ」
     エドモンは天草が来る日は滅多に外出しないことを知っているからか、外で会ったのが余程意外だったのだろう。少々間の抜けた問いにエドモンは心外だと言いたげだ。
    「戻るぞ」
    「お仕事はいいんですか?」
     踵を返したエドモンの隣に並び天草は肩越しに、ちら、と先ほど通り過ぎた店を見やる。
    「構わん。今日は様子見だけのつもりだったからな」
    「彼女のこと、ですね」
    「そうだ。だが詳しい話は帰ってからだ」
     誰が聞いているとも知れぬ往来で話すことではない、とそれ以上口を開く様子のないエドモンに天草は、そうですね、と同意を示した。
    「しかし貴様が居るとは思わなかった。首を突っ込んではいないな?」
    「通りかかっただけですよ」
     たまたまです、と即座に否定してきた天草に、ならいい、とエドモンはどこか疲れた声を漏らしたのだった。


     台所で味噌や醤油の残りを確認している天草の背中を眺めながら、エドモンは遠坂から受けた依頼の話をする前に少年の見解を聞いてみようとふと思い立った。
    「貴様の見立てではどのような状況だ?」
    「素人判断でよろしければ」
    「先入観無しの意見が聞きたいだけだ。外れていようが構わん」
     意地が悪いなぁ、と苦笑しつつ振り返った天草だが、即座に表情を引き締め、じっ、と床の一点に目を落としてからおもむろに口を開いた。
    「そう、ですね。手のような黒い靄に口を塞がれているだけなので、今すぐ死ぬということはないと思います」
     包み隠さぬ物言いに、クハ、と笑いを漏らしそうになるも寸でで耐え、エドモンはわかりやすくて結構と鷹揚に頷く。
    「アレはなんだと思う」
    「言霊というか呪詛というか、ただそこまで強烈な執念めいたものではなさそうなんですよね」
     目的は同じでもバラバラな感じがします、と首を捻る天草に再度頷いて見せる。
    「なるほどな。いや大した物だ」
    「はぁ……?」
     これは褒められたのだろうか? とエドモンの反応に困りつつ、天草はおとなしく相手の次の言葉を待つしかない。
    「まぁ、依頼自体はそう難しくはないのだが……」
     気乗りしていない様子を隠しもせず、エドモンは今回の依頼内容をようやっと口にした。
     一週間ほど前、酒屋の女房の声が急に出なくなり、医者に診せるも原因不明。一日二日もすれば治るだろうと楽観視するも一向に回復の兆しはなく、しかも日に日にじわじわとやつれていき、つい先日、藁にも縋る思いからか素性の知れない祓い屋を招いたことが遠坂の耳に入ったのだ。
     結果から言えばその祓い屋はインチキで全く役には立たなかったのだが。
     よりにもよって遠坂のお膝元で詐欺を働いた男は相応の罰を受け、当に町からは退散している。だが、怪異をそのまま捨て置くこともできぬと、エドモンにお鉢が回ってきたのだった。
    「お喋り好きで噂好きとくれば察しはつくだろう? 大きな恨みは買わずとも積もり積もった恨みはあると言うことだ」
    「口は災いの元というやつですか」
     こわいですね、とは言うものの天草は笑みを浮かべており、どこまでが本気か判断に困るところだ。
    「自ら招いた災いで難儀しようと俺の知ったところではないのだが、依頼されたのでは仕方がない。さっさと終わらせるとしよう」
     懐から取り出した煙管で、くるり、と軽く円を描き、口端を、にぃ、と吊り上げれば、天草が途端に、ぎょっ、とした顔を見せた。
    「なんだ?」
    「え、あ、いえ……貴方のやり方は過激というか、人を選ぶというか」
     もご、とどこか歯切れの悪い天草に首を傾げるも、確かに黒い焔で灼かれるのは普通の人間には酷であろうと納得する。諸悪の根源のみを灼ければそれに越したことはないのだが、生憎とそのような便利なモノではないのだ。数日は心神喪失に近い状態になるであろうが、自業自得というものだ。
    「同意があれば良いのかも知れませんが、お相手は人妻ですし、やはり憚られるものがあるかと」
    「……は?」
     思わず間の抜けた声が漏れてしまったが、エドモンは本気で天草がなにを言い出したのか理解できなかった。
    「一体なんの話をしている」
    「なにって、以前俺にしたのと同じことをするんでしょう?」
     とん、と天草が指先で己の唇を軽く叩いたことにより、彼がとんでもない勘違いをしているとようやっと気づく。
    「誰彼構わずやるわけがなかろう。貴様は俺をどういう目で見ているんだ」
    「え?」
     違うんですか? と雄弁に語る瞳に、げんなり、とするも、エドモンは誤解させたままではこの先支障が出そうだと肩を落とす。
    「あの時はあれが一番効率が良かっただけの話だ。他にもやりようはある」
    「そう、ですか」
     わかったようなわかっていないような曖昧な返事を漏らし、僅かに首を傾げた天草は己の唇を指先で一撫でした。
     エドモンからすればあれは人工呼吸と同列の行為であったのだろう。思い返してみても驚きが先に立ち、強引さに若干呆れもしたが不快感や嫌悪感と言ったものはなかった。ならば取り立てて続ける話でもないだろう、と天草は思考を切り替える。
    「では、どのようなやり方で解決されるおつもりで?」
    「なに簡単な話だ。原因を灼いてしまえば万事解決というものだ」
     小細工はいらぬ、と口端を吊り上げるエドモンに天草は眉尻を下げた。
    「十分報いは受けたと思いますし、追い打ちをかけるようで心苦しいですね」
     やつれた面に生気の失せた目を思い返してか、どこか沈んだ声音の天草にエドモンは小さく舌打ちをする。相手が何か言う前に展開が見えてしまったからだ。
    「いつか身を滅ぼすぞ」
    「大丈夫ですよ。俺は俺にできる範囲のことしかしませんから」
     その範囲が度が過ぎているのだ、と言ったところで、これまで全てを引き受けどうにかできてしまったこの男には理解できないだろう。どの程度他人に干渉し、状況に応じてどの程度助力をするかの塩梅は身をもって覚えていくしかないのだ。
     一度痛い目を見ればいいと思う反面、実際にそのような状況になれば自分は手を貸してしまうのだろう、とエドモンは自嘲する。遠坂には保護者ではないと言ったが、憎からず思っているのも事実だ。特異な状況に置かれている少年がこの先どのように生きていくのか、それを知りたいとも思っているのだ。
    「ではお手並み拝見といこうではないか」
     わざと煽るように声高に告げると、エドモンは颯爽と踵を返した。


     貴方の焔のように派手なことは一切ないですよ? との言葉通り天草のやったことはただの手招きであった。
     味噌を量るために背を向けた女房に一歩近づき項辺りで掌を二度三度と翻せば、それに誘われるかのように女房にまとわりついていた靄が、するり、と離れ、天草の周りを、ぐるり、取り巻いた。
     幾ばくかは女房に残ったままだが天草は気にした様子もなく、何食わぬ顔で器を受け取るとエドモンに支払いを任せて一足先に店を出たのだった。
     遅れて店を出たエドモンは苦もなく天草に追いつき、肩を並べて帰路に就く。
     ゆるゆる、と天草の口元を覆う靄を横目に見つつ、少し残したのはわざとか、とエドモンが問えば、あれくらいなら二日ほどで消えるでしょう、と肯定の言葉が返ってきた。
    「名探偵が来た途端、声が出るようになったなんて言いふらされたら色々と面倒でしょう?」
     もう少しだけ我慢してもらいましょう、と涼しい顔で続ける天草の様子は常と変わりがない。
    「貴様はなんともないのか」
    「ちょっと息苦しいくらいでさほど不便はないですよ」
     それに、と続けられた言葉にエドモンは反射的に眉をひそめる。微笑を浮かべ穏やかに紡がれるその声が、正直人間味を感じず不快であるのだ。
    「戻る頃には俺の裡に収まっていると思います」
    「その後はどうする」
    「どうもしませんよ」
     きょとん、と見上げてくる天草にますますエドモンの眉間にしわが刻まれる。
    「自然に消えるのをただ待つだけです」
     いつものことですよ、といらぬ苦労をわざわざ背負い込んでおきながら、それが普通だと言わんばかりの全くその自覚のない少年に、わかっていたことだが……、とエドモンは感心とも呆れともつかぬ溜息を漏らしつつ、ぐしゃぐしゃっ、と銀糸を掻き乱すように天草の頭を撫でた。
    「わっ!? なんですかいきなり」
     抗議というよりは驚きの勝った天草の問いには答えず、エドモンは再度少年の頭を乱暴に撫でると歩幅を本来のものに戻した。
    「余計なモノが寄ってくる前にさっさと帰るぞ」
     振り返ることなく先を行くエドモンは遠離る一方で、天草は乱れた髪を手櫛で直しながら小走りにその背を追ったのだった。


     ソファに腰を落ち着ける頃には天草の言った通り、靄は跡形もなく消え失せていた。それでも仄昏い気配は少年にまとわりついたままで、正直気分の良いモノではない。
     台所から戻ってきた天草を、ちょいちょい、と指先だけで呼べば、僅かに首を傾げながらも素直にエドモンの前に立った。次いでエドモンが己の膝を指し示せば、隠すことなく怪訝な顔になる。
    「なんですか?」
    「わかっていて聞くのはやめろ。時間の無駄だ」
     要求内容を理解した上で天草はその理由を問うているのだと、わかっていながら敢えて答えずエドモンは意地悪く口角を吊り上げる。
    「初めてではないのだから今更恥ずかしがることもあるまい」
    「あれは、別に俺の意思というわけじゃありませんでしたし……たぶん……」
     以前、エドモンと話している最中に具合を悪くし、ベッドまで運んで貰ったところまでは覚えているのだが、目を覚ませば何故かエドモンの膝の上に居たのだった。寝ぼけていたのか自分から乗ってきたと言われ、非常に気まずい思いをしたものだ。
     幸いにもその事についてはそれ以降は触れられなかった為、天草自身忘れかけていたのだが、まさかここで蒸し返されるとは思いもしなかった。
    「……わかりました」
     観念したか、はー、と溜息をひとつ吐いてから天草はエドモンの膝にゆっくりと腰を下ろした。背を向けた状態で「これでいいですか?」と問えば「ブーツを脱いで横向きに座れ」と駄目出しがなされた。
     理由を聞いたところでまたはぐらかされるに決まっていると、妙なところで口数の減る探偵に内心でぼやきつつ、天草は言われた通りにブーツを脱ぎ捨てると足をソファへと乗せた。
     背中にエドモンの手が添えられたと思うや否や反対の手で項を覆われ、そのまま肩口へと引き寄せられる。
    「あの……」
     形の良い耳を、ちら、と横目に見ながら困惑気味の声を漏らせば、「他にもやりようはあると言っただろう?」と返された。
     肩胛骨の間と項に添えられた掌から、じわり、と広がる熱に、知らず天草の口から緩んだ息が零れ落ちる。
    「少々、時間がかかるのが難だがこういう方法もある」
     裡に収めたモノが溶け出し、触れ合った部分からゆっくりとエドモンに流れていく感覚に、天草は困惑と安堵を同時に覚え、どう反応していいのかわからず、ぎゅう、と拳を強く握り締めた。
    「楽にしていろ」
     不自然に力の入った身体を宥めるように、ゆるゆる、と背を撫でてやれば、ふふ、と小さく天草が笑った。
    「なんだ」
    「いえ、意地の悪いことを言ったり、強引だったり。かと思えばこんなにも優しくて、不思議な人だなって……」
     ほんの僅かではあるが体重を預けてきた天草の声音は柔くどこか夢見心地で、人肌の温度が心地よいのか眠りの淵へと近づいているようだ。
     天草は今、エドモンに気を許しているという自覚すらないだろう。
     人当たりが良く他者に悪印象を抱かれることは極稀で、随分と出来た子供だと思っていたがそうではなかった。崇められる立場であったが故に、またなまじ要領が良くひとりで大概のことは出来てしまったが故に、人に頼ることも甘えることも知らないだけなのだ。
     柄ではないのだが、と漏れ出そうになった溜息を飲み下し、少年の背を撫でながらエドモンは銀糸にそっと頬を寄せた。


     ぽん、と放られた箱を反射的に受け取ってから、天草は困惑気味な顔をエドモンに向けた。
    「これは?」
    「遠坂からの礼だ」
     先日の酒屋の女房の件を報告した際、遠坂は天草が関わったことを既に知っており、エドモンへの謝礼とは別にこれを用意していたのだった。
     恐る恐る包みを解き薄い箱を開ければ、中身はハンカチーフであった。
    「黙って受け取っておけ。下手に断ればもっと高価なモノを寄越してくるぞ」
     石付きのタイピンとかな、と具体的な例を挙げるエドモンに、それは困ります、と天草は苦笑を返す。遠坂が寄越す石がただの石なわけがなく、魔術的な意味でもそうおいそれと手に出来るモノではない。
    「ではありがたく頂戴するとしましょう」
     蓋を元に戻しテーブルに箱を置いた天草は割烹着を手に立ち上がった。
    「今日は布団を干しますから寝室に入りますけどいいですよね?」
     特に見られて困るような物はなかったハズだ、とそれでも念のため私室の様子をざっと思い返してから、エドモンは鷹揚に頷いて見せた。
    「机の物には触れるなよ」
    「わかってます」
     では、と居間から出て行く天草の背を見送ってからテーブルに残された箱を見やり、エドモンは軽く額を押さえる。
     天草には敢えて言わなかったのだが、エドモンも同じ物を渡されていたのだ。わざわざ揃いの物を寄越してきた遠坂の真意は不明だが、思わせぶりなことをしておいて特に意味はなかったということもあり得るのだ。手がかりもなにもなしにあの男の思惑を探るなど無駄なことだ、と考えることを早々に放棄し、コーヒーを淹れるべく静かに立ち上がったのだった。

    ::::::::::

    2018.07.14
    茶田智吉 Link Message Mute
    2018/07/26 8:32:09

    【FGO】エドシロ礼装パロ

    #FGO #天草四郎 #エドモン・ダンテス #エドシロ #腐向け ##FGO
    探偵エドモンと書生天草。
    推理とか事件とかまったくないいつも通りのゆるゆる日常系。
    のハズが設定盛りすぎて厨二全開になった。

    Q.長髪天草も捨てがたいんだけどどうすればいいですか!?
    A.変身させればいいんじゃないかな!
    という脳内会議が開かれてこうなった。我ながらどうかしてた。
    (約5万字)

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