【BSR】苦くて渋くて甘いもの知らぬは主ばかりなり ドタドタ、と廊下を疾走する子供の背を追いかけつつ、政宗は胸中で、なんて悪童だ、と悪態を吐く。歩幅的には政宗に利があるにも関わらず、一向に追いつけないのは子供の身体能力の高さを示しているようだ。
「ちょっ、待てって! いい加減にしろよ小十郎ッッ!!」
事の起こりは三日前。馴染みの行商人が「なかなかに良い物が手に入った」と政宗のみに、そっ、と告げてきたのだ。常に傍に控えている小十郎は襖を開け放った隣室で、持ち込まれた種や苗を真剣な表情で検分しており、こちらの会話には一切気づいていない。
種類も多い上、小十郎には政宗に気兼ねすることなく選んで欲しいから、と進言され隣室に品物を並べることを許可したが、本命はこっちか、と政宗は目の前に置かれた両の掌に乗る程度の木箱を胡乱な目で見下ろす。
これまでにも、小十郎に兎耳が着いたらCuteじゃね? といった政宗の寝言を受け、本当に兎耳が生える南蛮渡来の怪しげな香を持ってきた事がある男である。ただし、見た目は政宗の希望通りにはなったがその兎の種類が問題で、所謂『首刎ね兎』と称される危険極まりないVorpal Bunnyであった為、その身体に指一本触れることも叶わぬままに香の効力は切れてしまったのだが。
この前みたいな一歩間違えば人生終了ってのは御免だぜ? と片眉を上げれば、大丈夫ですよ、と商人の鏡のような大変良い笑みを返された。日頃溜まった鬱憤を晴らすのに最適な物だとの説明に政宗は、ちら、と隣室の堅物を思わず見てしまった。
そういえばコイツが息抜きしてるところなんざ見たことがない、と思ったときには既に政宗の心は決まっていた。畑仕事が小十郎の息抜きであると思われがちだが、戦は戦、政は政、畑は畑と、全てにおいて真剣に全力で取り組んでいることも知っている。
全く持って隙のない男である。ならば無理矢理にでも外から隙を作ってやれば良いのだ。
それがなんでこんなことに、と奥歯を、ギリギリ、鳴らし小さな背中を追いかける政宗を知ってか知らずか、走りながら子供が不意に振り向いた。なんだ? と思う間もなく、ひょい、と放られた物を反射的に受け止めれば、べしょり、と湿った嫌な音を立てそれは無惨にも潰れてしまった。
甘い芳香と共に手指を伝い腕まで垂れる果肉に着物も汚れ、政宗は憚ることなく、Shit! と声に出す。
厨に置いてあった柿を器ごと持ち出した相手を追いかけていたのだと、今更のように思い出し政宗の形相が更に鬼のそれに近くなった。熟し切った物を選んで投げて寄越すとはなんて質の悪い、と廊下が汚れることも一切気にせず果肉まみれの手を遠慮無く打ち振るい、ケタケタ、と笑い声を上げる子供を追いかけ続ける。
鬱憤を晴らすには普段抑え込んでいるものを開放するのが一番である、との説明に、なるほどな、と納得し「具体的にはどういうものであるのか?」と問うも、結果を先に知ってしまったらつまらないでしょう、と政宗の気性をよく理解した応えが返され、軽く肩を竦めるしかなかったのだ。
さていつ使うか、と考えていれば見計らったかのように成実に呼ばれ、これ幸いと前回同様、香であったそれを焚き、政宗は席を外したのだ。当然のことながら同じ部屋で政務に精を出していた小十郎には怪訝な顔をされたが、「気分転換にゃいいだろ」と尤もらしいことを口にし、返答を聞く前に障子を閉ざしたのだった。
その後、四半刻もしないうちに部屋へと戻ってきた政宗を待っていたのは、見慣れた姿勢の良い背中ではなく、丈の合わない着物相手に、もたくた、と帯を締め直している子供であった。
ぽかん、と呆気に取られている政宗を尻目に、子供は尻はしょりを済ませどうにか身動きが取れるようになったかと思えば、きょろり、と室内を見回しおもむろに隣の襖を、すたん、と開けるやそのまま何食わぬ顔で政宗の視界から消えたのだった。
突然のことに思考が停止していた政宗だが、はっ、と我に返るや即座に畳を蹴り、頬の疵からして小十郎と思しき子供の後を追った。だが、それをどう勘違いしたか子供は鬼事だと思ったようで、笑い声を上げながら政宗の手を、するりするり、と擦り抜け、裸足のまま玉砂利の敷かれた中庭に飛び降り、けたたましく砂利を鳴らして逃げていく有様だ。
「待てコラ! なんで逃げんだこの野郎!!」
身のこなしにはそれなりに自信のあった政宗だが、伸ばす手をことごとく避けられ、ぐぎぎ、と焦りとも苛立ちともつかぬ歯痒さを味わう。
誰かに見られでもしたら厄介だ、と一刻も早く捕獲したいのだが、背は低いが飛び越えるには難儀な生け垣を突っ切ったり、するする、とまるで猿のように松の木に登ったかと思えば、枝から枝へと飛び移り思わぬ方向へ移動する。
そんなこんなで途中、一度見失ってしまったのだが、野性的な勘と言おうか右目センサーが反応したとでも言おうか、絶対こっちだ! と根拠のない自信のままに突き進めば大当たりで、柿の盛られた器を抱えた小十郎と、ばったり、鉢合わせたのだった。
そして、再び追いかけっこが始まり、柿爆弾の攻撃を受けたというわけである。
回想の最中も小十郎との差は縮まらず、むしろ引き離されているようで政宗は更に、ぐぎぎ、と歯噛みする。最近、内務ばかりで身体が鈍っていたことは素直に認めるにしても、推定年齢十~十三の子供ひとり捕まえられぬとはなんたることであるか。
そう考えると昔の小十郎は凄かったと思わざるを得ないわけで。足を使っただけの逃走は易々と確保され、梵天丸がどれだけ策を弄し時宗丸の手を借り入念に逃走経路を確保したとしても、先回りをされたり策を逆手に取られ結局は彼を出し抜くことなど出来なかったのだ。
一時期は読心術でも使えるのではないか、千里眼を持っているのではないかと本気で疑った物だが、「そのような便利な物を持っていたら、小十郎はここまで苦労はしませぬ」と渋面で返されたのだった。
「Ah……もうほんとカンベンしろよ」
ぜーはー、と乱れた息を整えるべく一旦足を止め、膝に手をついて僅かに前屈みになれば、前方の足音が、ぴたり、と止まった。あ? と顔だけを上げれば曲がり角の手前で子供は足を止めており、心なしか不安そうにこちらを見ている。
やっと飽きたか、と政宗は安堵の息を吐き額の汗を拭いながら、ゆっくり、と一歩踏み出せば、子供は、じっ、と政宗の顔を見つめたまま廊下に、そっ、と器を下ろし、政宗がもう一歩踏み出したのと同時に、ぱっ、と身を翻すや曲がり角の向こうに姿を消したのだった。
「あああああ! そんなこったろうと思ったよちくしょうめぃッ!!」
まるで猫の子を相手にしていると、錯覚せんばかりである。再び駈け出した政宗であったが廊下には既に子供の姿はなく、最早お手上げであると、がっくり、項垂れる。
「とりあえずこれだけでも戻しておくか」
ついでに着替え、と肩を落としたまま置き去りにされた器を拾い上げ、とぼとぼ、と戻っていく背中を、廊下の下から這い出した子供が見つめていたが、政宗には知る由もなかった。
また追いかけっこをする可能性もあると、白小袖に紺の馬乗り袴という簡素な出で立ちで臨戦態勢を整えた政宗は、さてどこから探すか、と思案しつつ廊下に出た。城内に不審者ありとの報告がないところをみると、小十郎は未だ誰の目にも触れていないようだ。
あれだけ派手に走り回ったというのに誰も不審に思わなかったのか、と警備に問題ありと思うも、政宗を追いかけ小十郎が走り回ることがたまにあり、今回もそれだと思われたのかもしれない。
喜ぶべきか嘆くべきか非常に微妙な面持ちのまま二、三歩進んだ政宗は、耳を掠めた微かな音色にその足を止めた。
「笛?」
ゆるり、と頭を巡らせ方向を探るも判然とせず、暫しその場に留まり耳を澄ます。遠いようで近く、政宗の目の届く範囲に奏者がいることは間違いない。
もしや、と不意に閃くや足袋のまま庭へと飛び降り、屋根の上を見上げれば案の定。瓦の上に、ひょろり、とした痩せぎすな両の足で立ち、ぴん、と背筋を伸ばした美しい立ち姿で一心に笛を奏でている子供の姿がそこにはあった。
「おい、なにやってんだ! 危ねぇぞ!?」
改めて見れば大きさの合っていない着物も相まって子供は余りにも頼りない体躯をしており、今にも風に煽られ飛ばされてしまうのではないかとの錯覚を覚えた政宗は、反射的に口を突いて出た己の言葉に、しまった、と即座に後悔する。
いきなりの大声に肩を揺らした子供はその動きが駄目押しとなったか、走り回ったせいで絡げた裾が運悪く落ち、それを踏んづけてよろめいたのだ。
ただでさえもでこぼこと足場の悪い瓦の上だ。持ち直そうにも段差に爪先を打ちつけ更に均衡が崩れるや、言葉を失った政宗の目の前で軽い身体は空へと投げ出された。
時間にすれば一瞬のことであったにも関わらず、無音の世界で政宗の目には靡く子供の髪の毛一本一本がはっきりと見て取れるほどにゆっくりとしたものに思えた。咄嗟に地を蹴り落下地点へ向かい腕を伸ばすも、その腕に衝撃はなかった。
じゃりじゃり、と玉砂利が鳴る激しい音に、はっ、と目を見開けば、空で見事にとんぼを切った小十郎が落下の衝撃を殺すべく、勢いのままに玉砂利の上を転がったのだ。
「小十郎!」
大丈夫か!? と走り寄れば抱え込むように頭を庇っていた腕を下ろし、きょとん、と小十郎が政宗を見上げてくる。
「どっか痛いとこねぇか!?」
乱れた着物の裾を遠慮無く捲り、検分すべく政宗が小さな足を掬い上げた刹那、ひぐっ、と呻いた小十郎に一瞬、政宗の動きが止まった。
「Sorry、痛かったか」
じわ、と滲んだ涙に慌てて詫びれば小十郎は強気にも、ごしごし、と目元を乱暴に擦り、ふるふる、と首を横に振る。
「無理すんなって。手当てしないとな」
そう言うが早いか小さな身体を抱き上げ、よいせ、と政宗が腰を上げれば、子供は暴れることなくおとなしくその腕におさまり、尚かつ政宗の胸の顔を埋め、縋るように、ぎゅっ、と着物の袷を掴んできたのだった。思いも寄らぬ反応に、きゅん、とするもここで盛大に頬擦りするわけにもいかず、そそくさ、と室内へと戻る。
水を張った桶やら手拭いやらを政宗が用意している間も小十郎はおとなしく畳に腰を下ろしており、散々城内を駆け回り政宗を振り回した子供とは到底思えない。一体なにがどうなってんだ、と目を白黒させつつも湿布薬をあてがい手当てを終えた。
「他にも痛いとこねぇか?」
ちゃんと見せてみろ、とやや強引に帯を解き前を肌蹴るも小十郎はなにも言わず、確かめるように肌の上を滑る政宗の手を、じっ、と見つめている。
小さな身体にいくつも走る刀傷は余りにも不釣り合いで、政宗は痛ましげに眉を寄せる。姿形は変わろうとも確かにこれは小十郎なのだと、脇腹に走る傷を指先で辿れば、ひくり、と子供の肩が僅かに跳ねた。
くすぐったかっただろうか、と顔を上げた政宗の目に飛び込んできたのは、伏し目がちに僅かに頬を染めている悩ましげな表情で。刹那、ぱーん! となにかが脳内で弾けた気がしたが政宗はどうにか気合いで平静を装い、「だ、大丈夫そうだな!」と無駄に声を張るや小十郎の着物の前を手荒く掻き合わせた。
「……政宗様」
「お、おう!?」
小十郎が笑い声以外に初めて発したのが己の名で、政宗は柄にもなく狼狽え上擦った声を上げてしまった。じっ、と真っ直ぐに見つめてくる眼差しも平素の小十郎とはどこか違い、強いて言うなれば睦言を囁いた直後の艶を含んだそれに近い。
「お慕いしておりまする」
子供にあるまじき吐息混じりの告白に加え、ゆうるり、と伏せられた瞼に、知らず政宗の喉が大きく上下する。
これはあれかKissのお強請りってことでいいんだよなぁぁぁぁぁ!? と内心激しく動揺している政宗を知ってか知らずか、小十郎は目を閉じたまま僅かに顔を上げた。これで違っても思わせぶりな態度を取った小十郎が悪い、と誰にともなく言い訳をし、政宗は頤に手を掛けると一旦相手の下唇を食み、そのまま唇を擦り合わせた。
湿った音の合間に漏れる鼻から抜ける甘ったるい声に、政宗は、そろり、と薄目を開け小十郎の表情を窺う。
『随分と良さそうな顔しやがって』
染まった目尻から零れ落ちそうな雫を親指の腹で拭い、更に咥内を擽ってやれば政宗の着物を掴む小さな手に力が籠もる。
『こんな素直な反応見たことねぇよ! ひょっとして夢なんじゃねぇのか!?』
このままやることやっちまうか、と邪なことを考えた罰が当たったか、小十郎を味わうことに夢中になっていた政宗は近づいてくる足音に気づいていなかった。
「たびたび悪いけど、ちょっと……」
すたん、と開け放たれた襖に固まる政宗と、従兄弟の破廉恥極まりない場面を目の当たりにした成実の間に、非常に微妙な空気が流れる。
「あ、いや……これは……」
ギギ、とぎこちなく首を巡らせた政宗の下では年端もいかぬ子供が着物を乱しており、どう考えても政宗は言い訳の出来る状況ではない。
「……邪魔したな」
ふっ、と真顔で顔を背けた成実の手で襖はきちりと閉められ、遠離る足音にようやっと政宗が身を起こす。
「待て待て待てッ! そうじゃねぇ!! 誤解だッ!」
襖を蹴破らん勢いで部屋を飛び出し成実を追いかける政宗の背中を見送った小十郎の、へくちっ、と小さなくしゃみが室内に響いた。
「本当にあれは小十郎だったんだって」
「はいはい」
文机に突っ伏しやる気なく筆をでたらめに動かしている政宗に適当な相槌を打ち、成実は庭で木刀を振るう小十郎の姿を眺める。
従兄弟が真っ昼間から不埒なことをしている現場に踏み込んでしまった日のことを、政宗は未だに弁明するのだ。
政宗の言い分は俄には信じ難かったが、すぐにバレる嘘を吐く理由もないと腕を引かれるままに子供の待つ部屋へと戻ったのだが、そこに居たのは眉間にしわを寄せた見慣れた男であった。
戻ったのか小十郎! と目を丸くする政宗に対し、小十郎は怪訝な顔のまま「ずっとおりましたが?」と言ってのけたのだ。僅かにズレた会話に顔を見合わせた政宗と成実は狐に摘まれた心地でどちらからともなく目を逸らし、政宗は小十郎の雷が落ちる前に文机の前に腰を下ろした。
その日の晩に酒を酌み交わしつつ政宗は事の子細を成実に告げ、怪しい香の効果を聞いた成実が導き出した答えは、
「鬱憤を晴らすってのは、溜め込んでる物をパーッとぶちまけるってことでもあるだろ」
であった。
「もしあの子供が本当に小十郎だったとしたら、追いかけっこはお前の気を惹きたい、構って欲しいってことだったんじゃねぇの? あとのことは言うまでもねぇわなぁ」
あーヤダヤダこいつらホント面倒くせぇ、とわざと呆れたように口に出し、くい、と杯を傾けた成実の隣では、言葉の意味を飲み込んだ政宗が酔いとは違う意味で、かっ、と頬を赤らめていた。
勿論、政宗の言い分を全てを信じたわけではないが、信じざるを得ない物を成実は目にしていたのだ。
「いつまでも怠けてると木刀が飛んでくるぞ」
険しい表情でこちらを見ている小十郎に気づいた成実が、回想を振り切るように政宗に声を掛ければ、面白いように竜の背が、ピン、と伸びた。
「さってと、俺は久しぶりに小十郎と手合わせすっかな」
恨みがましい目を物ともせず成実は庭へと降り立ち、木刀片手に汗を拭っている小十郎に近づいていく。
「政宗に雷を落とす前にひとつお手合わせ願いたい」
成実の戯けた物言いに小十郎は、ふっ、と眉間のしわを緩め、僭越ながらお相手仕る、と軽く頭を垂れた。若干低くなったその耳元に成実が口を寄せ、「足はもういいのか」と問えば、僅かに目を見張った後、小十郎は「政宗様には内緒ですよ」と低く喉を鳴らしたのだった。
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2011.08.25