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    【BSR】そこにあるといういみ ザンッ、と不意に木立の間から躍り出た馬影に小十郎は我が目を疑い、意識せぬままに彼の人の名を叫んでいた。
    「政宗様ッ!?」
     一体どれほどの無茶をしでかしたのか、頬に一筋走る赤い線に一瞬肝を冷やすも、折れた小枝が兜に引っ掛かっている様に直ぐさま安堵の息を漏らす。
    「一気に片つけるぜ、小十郎!」
     馬上から降ってきたどこか昂ぶった声に小十郎は刀を一閃させてから「なりませぬ!」と叫び返し、一も二もなく主の元へと駆け寄る。林向こうの本陣でおとなしくしているようなタマではないとわかってはいたが、まさか単騎で乗り込んでくるとは、さすがの小十郎も想定外であった。
     ここ数ヶ月、国境での小競り合いがさほど間をおかず勃発しており、甚大な被害は出ていないとはいえ、こうも頻繁に起これば先に尽きるのは兵士や兵糧ではなく、政宗の忍耐力だ。
     奥州王としての器は確かに備えているが、政宗はまだ年若く血の気も多い。初めのうちは小十郎を筆頭とする家臣団の言葉に耳を傾け、もたらされる戦局を黙って聞いていたが、悪戯にこちらを煽るような中途半端な進軍にとうとう痺れを切らし、声高に出陣を宣言し今に至る。
     それでも政宗出陣はあくまで相手方に対する威嚇であり、わざわざ大将が戦場へ足を踏み入れる必要はないと、小十郎は政宗を頭数に入れぬ作戦を押し通したのだった。
     実際、先陣の伊達成実率いる隊の働きはめざましく、あと数刻もすれば敵は撤退するであろうと思った矢先の政宗の乱入は、珍しくも顕著に小十郎を苛立たせた。
     重臣の一人である鬼庭綱元を傍に置いてきたが、彼では抑止力にならなかったか、と苦い顔で主君を見上げれば、小十郎の言わんとすることなど重々承知しているとでも言うかのように、政宗の口角が、くい、と引き上げられる。
    「後詰めに綱元たちもこっちへ向かってる」
     ま、必要ねぇだろうがな、と今にも口笛を吹きそうな軽い口調に、小十郎の険しい顔付きが更に険しくなり、さながら鬼の形相だ。
    「どれだけ有利な状況であろうとも戦場ではご油断召されるなと、幾度となく申し上げたはずですが、もうお忘れか」
     弦月の前立てに隻眼、あまりにも知れ渡りすぎた政宗の容姿を見間違える者など居るはずもなく。大将首を討ち取らんと勇ましい声を上げ向かってくる者を、小十郎は先んじて迎え撃ち躊躇なく斬り捨てていく。
     見事な太刀筋に政宗は、ヒュウ、と口笛を吹き、小十郎の眉は更に、きりきり、と吊り上がる。
     その一瞬の感情の揺れが、小十郎の動きを鈍らせた。
     ヒュン、と聞こえた風切り音を追うように顔を巡らせ、割れた声で主の名を呼ぶだけで精一杯であった。
    「Shit!」
     かろうじて僅かに身を逸らすことが間に合った政宗の頬を、先の赤い線をなぞるかのように新たな朱が走る。地面に突き刺さった苦無に目をやれば不自然なぬめりを帯びており、考えるまでもなく毒が塗られているのだと告げていた。
    「政宗様ッ!」
     馬上で、ぐらり、と傾いだ身体に、小十郎の全身から血の気が引いていく。軍師の常にない逼迫した声に、ただ事ではないと駆け寄ってきた数人の味方兵士に敵の足止めを命じ、小十郎は馬の首に凭れた政宗を気遣いつつも素早く手綱を引き、足早に林の中へと姿を隠す。
    「政宗様ッ!」
    「Ah……そんながなるな、小十郎。ちぃとばかし、身体が痺れてるだけだ」
     呂律が回らないのか紡がれる言葉は所々不明瞭とはいえ、即、命に関わるものではないようだ。安堵する一方で小十郎は、ぎり、と奥歯を噛み締める。
     一番近くに居ながらこのていたらく。なにが竜の右目だ、と内心で己を罵りつつも、表面上はあくまで冷静に口を開いた。
    「羽織をお脱ぎ下さい」


     板張りの廊下を極力音を立てぬよう足を運び、小十郎は主の居室を目指す。
     先の戦から既に一週間が経っており、かすり傷とはいえ毒をその身に受けた政宗は大事を取って政務には携わっていない。彼に代わって仕事を一手に引き受けている小十郎は、米沢城へ戻ってから政宗と言葉を交わすことは疎か顔すら見ていなかった。
     登城したかと思えば腰を落ち着けることなく即座に次の仕事へと向かう、そんな小十郎を見かねた成実が「おまえじゃなくても大丈夫な案件には代理を立てろ」と再三口にするも、素直に聞くような男なら元から成実が口を挟むことにはならないのだ。
     今日も兵糧の手配に近隣の農民と話をしてきた小十郎を待っていたのは主からの呼び出しで、とうとうきたか、と小十郎は覚悟を決めた静かな面持ちでそれに応じたのだった。
     馬上で毒を受けた政宗と共に林へ身を隠した折、小十郎は「自分が影武者になって時間を稼いでいる間に本陣へ戻れ」と言い、それを由とせず激しく拒絶した政宗を軍師はあろうことか乱暴に殴りつけ、無理矢理に主君の陣羽織を剥いだのだ。
     いくら非常事態だったとはいえ主の言葉を元より聞く気はなく、あまつさえ手を上げたのだ。咎めを受けるのは当然で、腹を切る覚悟も当に出来ている。
     だが、小十郎を待っていたのは、予想だにしなかった政宗の言葉であった。
     ぽん、と胡座をかいた己の膝を叩く政宗の動きを正面から認め、小十郎は、はぁ、と曖昧な声を漏らす。
     先の戦のことで呼びつけられたのかと思えば、主は開口一番ワケのわからないことをのたまったのだ。
    「寝ろ」
     と。
     次の言葉を待ち、じっ、と身動ぎひとつせぬ小十郎に焦れたか、政宗はやや荒い手付きで再度己の膝を叩き、早くしろ、と態度だけで急かす。
    「政宗様、小十郎には意味がわかりかねます」
     どうにか深い息を吐くことは堪え淡々と訴えれば、政宗は隻眼を眇めやや唇を尖らせたかと思えば、ふい、と僅かに顔を背け、ゆうるり、と口を開いた。
    「膝枕してやるって言ってんだよ」
     いやそんなわかりきったことを聞きたいのではなく、と小十郎は口にすれば更に面倒なことになるからと内心で突っ込むだけに留め、どうしてそのような結論に達したのかを問うべく、できるだけ穏やかな顔を主に向ける。
     破天荒で型破りではあるが、考えなしではないことはよくわかっている。そこに行き着くまでの思考は理解できずとも、行動にはなにかしら理由があるはずだ。
    「突然そのようなことを申されましても、小十郎にも仕事がございます。そちらを放り出して、ましてや陽も高い内にのうのうと横になるなど、憚りながら伊達軍副将として他の者に示しがつきません」
    「それだよ」
     頭ごなしに怒鳴るのではなく一から説明すれば、そんなことはわかってる、とやはり唇を尖らせたまま政宗は小さく返してきた。
    「成に言われた。なにからなにまでおまえ頼りで働かせすぎだって」
    「はぁ」
     政宗に成り代わって確かにここ暫くは常になく忙しなかったが、外交から諜報、城下の視察に兵糧の手配など、それは今に始まったことではない。政宗が伊達家当主となってからは、万事が万事この調子だったのだ。
    「おまえに任せればぬかりはねぇし、おまえ以上の働きをするヤツを俺は知らない。なによりおまえは俺の期待を絶対に裏切らない」
     だから、と言葉を切り政宗は、ガシガシ、と後ろ頭を掻いた。
    「悪かった、無理させてた」
    「いえ、そのようなことは決して」
     経緯は判明したが、では何故そこで膝枕へと繋がるのか。小十郎は政宗を、ひた、と見据えたまま、むむ、と思考を巡らせる。だが、その視線をどう捉えたか政宗はどこか気まずそうに目を伏せ、「労おうにも、これしか思いつかなかった」と零した。
    「昔、おまえがしてくれたこれが妙に頭に残っててよ……って、おい、笑うな」
     こちとら真剣なんだぜ、と凄んでみせる政宗には悪いが、小十郎は変なところで頭の回転の悪くなる主を改めて愛しいと思うのだ。
    「申し訳ありません。ですが小十郎の膝など硬いだけで、具合の良いものではなかったでしょうに」
     そういえば元服前の子供に何度かしてやったな、と小十郎が古い記憶を辿ればそれが表情に出たか、政宗は、ゆるり、と目元を和らげ「だが、温かかった」と静かに漏らした。
     抱き締めてくれる腕など無かった子供が、唯一求めることの赦された温もりであったのだと、伏し目がちに心情を吐露する政宗の声音は酷く穏やかで、小十郎は知らず唇を引き結んだ。
     黙り込んでしまった小十郎に、はっ、と我に返ったか、政宗はどこか決まり悪そうな顔で、こほん、とひとつ咳払いをすると、まるで照れ隠しであるかのように、ばんばん、と己の膝を叩いた。
    「いいから寝ろ! 反論は認めねぇぜ!?」
    「ですが、小十郎は罰を受けこそすれ、労われる立場ではございません」
     きっぱり、とそう言い切れば政宗はあからさまに眉を寄せ、「確かにおまえの拳は毒よりも効いた」と唇を歪める。ならば、と小十郎が言葉を発しようと口を開きかければ、それを制するように政宗の右掌が突き出された。
    「増長して弛みきった性根に効いたって意味だ。第一、今回のことでおまえを罰したら、みな口には出さずとも非難されるのは俺だ。だが、それじゃあ納得できねぇってんなら、これが罰だと思っておけ」
     ぽん、と膝を叩き目を細めた主を前に小十郎は、こうなっては政宗が折れることはないだろう、と諦めたように一旦、ゆるり、と瞼を伏せた後、主に膝でいざり寄ると、失礼致します、と頭を垂れた。
     ふと、横を見れば政宗の傍には何冊か書物が置かれており、妙なところで抜かりがないと小十郎は内心で苦笑いするしかない。
     胡座をかいた政宗の左足に頭を乗せ、ごろり、と右に体を向けるも、頭上から小さく、No、と声が降ってきたかと思えば、ぐい、と些か乱暴な手つきで左肩を掴まれ仰向けにされる。
     一体なにがしたいのか、と小十郎が目を丸くしたまま政宗を見上げれば、殊のほか柔らかな面差しで見下ろされており、薄く開かれた小十郎の唇からは別の言葉が漏れ出た。
    「……小十郎の寝顔など、おもしろいものではございませんでしょうに」
    「Hum? そうでもないぜ。滅多に拝めねぇレア物だ」
     くくっ、と喉を鳴らし政宗は掌で小十郎の目元を覆う。ゴツゴツ、と固いそれは刀を振るう者の手で、幼い頃の小さく柔らかなそれを知っている小十郎は、主の成長を身を持って実感する。
     六爪を操る手指は持ち主の無茶に耐えられずやや歪ではあるが、刀を筆に持ち変えれば驚くほど流麗な文字を綴るのだ。
     物好きな、と思いはすれど口には出さず、小十郎は主によってもたらされた闇を甘んじて受ける。半刻程じっとしていて政宗の気が済むのならば、それに越したことはない。ここで突っぱねて臍を曲げられては、そちらの方が後々まで響くのは火を見るよりも明らかだ。
     おとなしく目を閉じた小十郎の顔から政宗の手が離れ、一呼吸もしないうちに、ぺらり、と紙を捲る乾いた音が降ってくる。
     ぱらり、ぱらり、と断続的に聞こえる音が時折止まるのは、恐らく手を止めた政宗が小十郎の顔を見下ろしているからだろう。刺すようなものではないが注がれる視線に、小十郎は居心地の悪さを覚え内心では苦笑いだ。
     幼い頃より共に居るからか、政宗は小十郎の気配には頓着しない。むしろ小十郎が傍に居る時の方が眠りが深いくらいである。
     だが、小十郎はそうではない。無論、政宗の傍が不快なわけではない。これは感情の問題ではなく、最早長年の習性のようなものだ。
     信頼されているからこそ、それを裏切らぬよう常に護るべき主君の気配には敏感でなければならない。誰に強要されたわけではなく、これは小十郎が自身に課したことであり、眠っていようとも例外ではないのだ。
     なにがあろうとも、どのような状況であろうとも、政宗を守り通すのが小十郎の努めであるのだ。
     小十郎が狸寝入りをしているとは露知らず、政宗は一冊目の書物を畳に置くと、反対の手で、ゆるゆる、と小十郎の髪を労るかのように撫でる。相手が眠っていると思い込んでいるからこその政宗の行動に、小十郎は眉間にしわが寄らぬよう必死に自制心を働かせる。
     これも幼い政宗に小十郎がしてやったことだ。
     あぁ本当にこの人はなんと不器用な、と小十郎は僅かに喉奥で呻く。それと同時に、びくり、と強ばった手に申し訳ない気持ちになる。
     少々背中が痛いから、と誰にともなく内心で言い訳をし、不自然にならぬよう細心の注意を払いながら小十郎は左肩を下に寝返りを打った。これならばそっぽを向いているわけではないから良いだろう、と思えば案の定。右の瞼に、やわり、と指先が触れてきた。
     俄に闇が濃くなり、何事かと思う間もなく吐息が小十郎の睫毛を揺らす。次いで押し当てられた温もりに、不覚にも小十郎の爪先が足袋の下で、ぴくり、と揺れた。
     ここまでしたことはねぇぞ、と内心で声を上げるも寝たふりをしている以上、即座に咎めるわけにも行かず、小十郎は眦に吸い付く政宗の唇の感触から全力で意識を逸らす。
     戯れが過ぎると何度窘めようが政宗は気に留めた様子もなく、過度な接触はやむことなく今も続いている。
     他者より堅い自分の反応を楽しんでいるのかと、真面目に一度問うたこともあったが、それを聞いた時の政宗は一瞬動きを止め、なにか言いかけるも一旦口を噤み、「まぁ、そんなところだ」と口角を吊り上げたのだった。
     指先で睫毛の先端を順繰りに辿られているのか付け根がこそばゆく、いい加減止める頃合いか、と腹を括ったその時、小十郎は声もなく弾かれたように身を起こした。突然のことに言葉の出なかった政宗だが、障子を隔てた廊下に顔を向けている右目の口から漏れ出た名で合点がいった。
    「猿飛か」
     小十郎より遅れてその気配に気づいた政宗は小さく舌打ちを漏らすと、障子の向こうに「入れ」と低く声を掛ける。
    「ひょっとして邪魔しちゃったかな」
     ごめんねー、と口先だけの謝罪を吐きつつ音もなく障子を閉めた途端、佐助の表情が瞬時に引き締まった。
    「大将からの返書を持ってきた」
     その一言で政宗と小十郎の纏う空気が、ピリッ、と張り詰めた双竜のそれに変わる。
    「返事は急かさないけど、現状を打破するには有効だと思うよ」
     一旦畳に置き、すっ、と差し出した書状と共に佐助が言葉を添えれば、受け取った小十郎は直ぐさま国境の小競り合いのことを指しているのだと気づき、僅かに眉間のしわを深くする。
    「武田のおっさんに伝えな。アンタはLuckyだってな」
     ニィ、と口角を吊り上げた政宗の言わんとすることを察したか、佐助は軽く肩を竦めて見せると「その自信が一体どこから来るのか、ホント感心するよ」と漏らすや、瞬き一つの間にその姿は消え失せていたのだった。
     書状の内容を検めた小十郎はそれを政宗へ渡し、主の指示を待つ。目だけで文字を追っていた政宗はややあって顔を上げ、真っ直ぐに見据えてくる右目に向かって小さく頷いて見せた。
    「行ってくれるな、小十郎」
    「お任せあれ」
     多くは語らずともそれだけで互いに理解し、では早速、と退室しようとした小十郎を政宗は言葉のみで引き留める。
    「まだおまえへの罰は済んでねぇだろ」
     そう言うや、ぽん、と悪戯っぽく膝を叩いた政宗に、困ったお人だ、と小十郎は眉尻を下げたのだった。
     お莫迦さん、と落とされた呟きは水の中で聞いているかのように揺らいでおり、轟々、濁々、と身を巡る血の音に掻き消されそうな程に遠い。
     その上、身体中を巡る血液が溶岩にでもなったか、身の裡から、ぐずぐず、と溶けてしまいそうな熱さに呼吸もままならない。
     ほんとお莫迦さん、と再度、耳に届いた声に悪態の一つも吐いてやりたいが、猛る心とは裏腹に身体はこれっぽっちも言うことを聞かぬ。
     しかも口から漏れるのは、ヒュウヒュウ、と頼りない呼気ばかりで、開かぬ瞼に苛立ちと焦りを覚えるも、朧気な意識は留まることなく容易く闇へと沈み込んだ。


     脇息へと緩く凭れ、すぅ、と煙を吐いた政宗を前に、幸村は僅かに緊張した面持ちで相手の返答を今か今かと待つ。常ならばそのような政宗の態度に苦言を呈する右目の姿はなく、代わりに政宗の従兄弟である伊達成実が傍に控えているが、主君の心境を慮ってか口を噤んだまま畳の目を数えている。
     政宗の命を受けた小十郎に付き従い出立した数名の部下が、書状を携えた武田の使者と共に帰投したのがつい先程で。副将の姿がないことに柳眉を吊り上げた政宗をなんとか宥め、戻った部下に事情を聞いた成実は軽く瞠目するや言葉なく額を押さえた。
     更に詳しいことは武田からの書状に記してあるとのことで、別室にて待たせている使者を政宗の御前へと連れ行けば、差し出された書状を政宗は荒々しい手付きで解くや素早く目を走らせた。
     ややあって緩く息を吐いた政宗は無言で書状を成実へ突き出すと、傍の煙草盆を、すい、と引き寄せ難しい顔で煙管を手に取り、成実が書状を読み終え畳に目を落とすまで、ゆらゆら、と手元で煙管を遊ばせていたのだった。
     二度、三度、と煙管を口へ運び、ようやっと伏せていた瞼を持ち上げた政宗は、正面に座する幸村を見ることなく「あいわかった」とだけ返した。
    「殿」
     それだけでは話が進まぬと、黙りを決め込んでいた成実が少々咎めるかのような苦い声を発すれば、面倒臭そうな視線を隠すことなく従兄弟へと向けてから政宗は、ゆうるり、と頭を巡らせた。
    「事情はわかった。帰っていいぜ」
    「は? いや、しかし、それでは……」
     予想だにしていなかった言葉に幸村は間の抜けた声を上げてから慌てて表情を引き締めるも、政宗は煙管を唇に挟んで空けた手を、ひらひら、と振ってみせる。
    「帰って武田のおっさんに伝えな。質なんざいらねぇってな。その代わり小十郎にもしものことがあったら、容赦なくぶっ潰すから覚悟しとけ」
     刹那、ぎらり、と凶暴な光を灯した竜の瞳に若虎の背に戦慄が走るも、それに負けじとも劣らぬ強い眼差しで相手を真っ直ぐに見据え、誤魔化しのない誠実な声を唇に乗せる。
    「そのようなことには決してなりますまい」
     身命に掛けて、と力強く言い切った幸村に、Good、と小さく漏らし、政宗は口角を吊り上げた。
    「アンタにゃアンタの役目がある。ここに縛り付けてたっていいことなんかありゃしねぇ」
     灰吹きに灰を落とし煙管を煙草盆へと置いた政宗の言葉に、幸村は問うように軽く目を見張る。
    「忍の手綱、きっちり握っておけよ」
     全てを見透かしたかのような鋭い視線に不覚にも気圧され、きゅっ、と唇を引き結んだまま頭を垂れるしかない己に、幸村は畳に着いた拳を僅かに震わせた。


     みし、と畳を踏む微かな音に小十郎は、ゆっくり、と左の瞼を持ち上げた。なかなか焦点が定まらずぼやけたままの視界に顔を歪めれば、傍らに片膝を着いた男が「痛むかい?」と静かに、だがどこか緩い口調で問いかけてくる。
     状況が把握できず小十郎は一瞬、身体を強張らせるも、相手の緊張感のなさに感化されたか取り乱すことなく、ゆうるり、と息を吐く。巧く動かない身体に少々の焦りはあるも、一旦、瞼を伏せ再び、そろり、と持ち上げれば、先よりはまともに物が見えた。
     僅かに首を横に振り先の問いに応えれば、その落ち着いた様子に安堵の息を漏らし、佐助は手にしていた盆を下ろす。
    「一時はどうなるかと思ったけど、いや良かった。右目の旦那に死なれでもしたら、折角の同盟が締結前にお釈迦になるどころか、否応なしに合戦だったね」
     冗談めかしてはいるが、この忍は真面目なことほど茶化す傾向にある。それがわかっているだけに、小十郎は隠すことなく渋面を佐助に向けた。
     それを受け誤魔化しは不要と判断したか、佐助は一転して真剣な表情を面に浮かべるや、更にどこか咎めるような眼差しで小十郎を見据える。
    「相当ヤバかったんだよね。アンタが先に逃がした部下に話聞いて直ぐさま駆けつけたけど、出血が酷い上に神経毒も喰らってるし、ほんとギリギリ」
     はー、とひとつ息を吐いてから佐助は小十郎が反論すべく口を開きそうな気配を察したか、眼だけで相手を制すると更に言葉を続けた。
    「真っ先にアンタの馬がやられたのは聞いたし、アンタが鬼のように強いのも知ってる。実際、どうにか生き残ってる。けどね、それは結果論であってアンタを守るために一緒に来た部下を先に逃がすとか、莫迦じゃないの。自分の立場わかってる?」
     武田と伊達は同盟を結ぶため、これまで内々に事を進めてきた。政宗は同盟締結の最終的な書状を右目である小十郎に携えさせ、己の本気と武田への信頼を示して見せたのだ。
     しかしその情報が一体どこから漏れたのか、闇夜に乗して内密に出立したはずの小十郎一行は道中で襲撃を受けた。狙いは自分の持つ書状であると察した小十郎は部下にそれを託して馬の尻を叩き、早々に馬を失った身で出来ることとなれば限られており、敵を足止めすべくその場に残ったのだった。
     己の腕を過信していたわけでも、ましてや命を無駄に捨てる気もなかった。
     ただ、今取れる最善の策がこれであっただけの話だ。
     今、優先されるべきは書状である。彼にとってはそれが当たり前の話であった。
     それが果たす役割の重大さを理解しているが故の行動であったが、それを佐助に、常に合理性を前面に打ち出す忍である佐助に咎められたのが、小十郎からすればどうにも釈然とせず、知らず剣呑な目付きにもなろうというものだ。
     それまでどうにか口を挟むことを堪えていた小十郎だが、「伊達政宗の名代として来たんでしょうが」と念を押すように言葉を重ねられた瞬間、すぅ、と左眼を細めると「好き勝手言いやがって」と悪態を吐いた。
     ──否。吐こうとしたがそれは叶わなかった。
     押し出されたのは空気の抜ける頼りない音のみで、意志を伝える言の葉ではなかったのだ。
     なんだこれは、と驚愕に目を見開く小十郎を見下ろし、佐助はまるで天気の話や晩のおかずの話をするような気楽さで「あぁ、声出ないでしょ」と言い放った。それを承知で佐助は、ベラベラ、と一方的に話していたのだと理解し、小十郎は隠すことなく眉間に深いしわを刻む。
    「なに吸わされたんだか声帯もやられちゃってるからね。ま、薬は俺様が作ってあげるから気長に構えてなよ」
     そう言って盆に乗った湯呑みを取り上げ自ら一口含むと、薄く開いていた小十郎の唇を、ぴたり、と塞いだ。
    「……ッ!?」
     突然のことに流し込まれた薬湯を勢いで、ごくり、と嚥下してから、小十郎は不自由な身体で目一杯の抗議を示す。
    「今更なに言ってんの。意識がない間、ずっと俺様がこうやって飲ませてたんだけど?」
     文句は起きあがれるようになってからにしてよね、と呆れる佐助を険しい顔で睨め付けていた小十郎だが、面倒を掛けている現状で文句を言うのはお門違いであると考え直し、申し訳なさそうに目を伏せた。
     声なき声で告げられた詫びの言葉に佐助は軽く目を見張るも、その潔さに免じてこれ以上いじめるのはやめにしたのだった。
     声が出ないのはこんなにも不便であったか、と小十郎は目だけで佐助の動作を追い、緩く息を吐く。全身を覆うのは痛みよりも倦怠感で、自身のことだというのにどの程度の怪我であるのかすら判断がつかず、正直、気が気でない。
     この常にない状態が薬を用いられたことによるものだとの予想は容易についたが、それが襲撃時のものであるのか、目の前の忍によるものであるのかはわからない。
     問おうにも、そもそも言葉を発せられないのだ。
     眉を寄せた小十郎の表情からか、勘のよい忍は相手のの言わんとすることを拾い上げ、「唇の動きで大体分かるから、遠慮無く言ってよ」と己の唇を指先で一叩きし、さらり、と言ってのけた。
     読唇、読心、共に長けている佐助相手ならばそれでも支障はないが、他の者を相手にする場合はそうはいかぬと、小十郎は重い首を左右に、ゆるり、と振る。
     筆談を、と請うたが佐助は困ったように眉を寄せ、おもむろに小十郎の左腕を取ると静かに持ち上げ、今どのような状態であるのかをしっかりと認識させるかのように顔の前にそれを翳した。
     五本の指全てを一纏めにされ、包帯を巻かれている己の手を前に小十郎は軽く目を見張り、次いで問いの眼差しを佐助へと向けた。聡い忍は寄越される視線を的確に拾い上げ、小十郎の望む答えを投げ返してくる。
     それに対する答えは中手骨、つまりは手の甲の骨が折れているとのことであった。手首から指先まで掌側に添え木され、ぴくり、ともせぬ利き手に小十郎は低い呻きを上げる。
    「さっきも言ったけど気長に構えてちょうだいよ。ほんと、いろいろ酷かったんだから。まずはこれ全部飲んじゃって」
     続きはそれからね、と数度に分けて薬湯を与えられれば、いくらもしないうちに小十郎の目が、とろり、と眠気を帯びてくる。寝物語には丁度いいだろう、と佐助は相手の様子を窺いながら口を開いた。
    「とりあえず旦那が知りたいであろうことをいくつか俺様なりに考えてみたから、順番に言っていくよ」
     小十郎が小さく頷いたのを確認してから、まず一つ目、と指を立てる。
    「書状は大将の手元にきちんと届いてる。二つ目、アンタの部下には事の次第を書き付けた書状を持って奥州に戻って貰ったから。当然、俺様の部下をつけて無事に送り届けたよ。三つ目、甲斐に来てから今日で七日目。四つ目、確実に春まではここに足止めね。右目の旦那」
     はいお終い、と言うと同時に軽く掌を打ち鳴らした佐助を、小十郎は、じっ、と凝視する。それ程親しい間柄でもなく、更に小十郎はなかなか表情が動かない。それでも佐助は相手の言わんとすることが手に取るようにわかるのか、ひょい、と肩を竦めてから口を開いた。
    「街道が雪に閉ざされる前に、と早々に決断を下したのが徒になるとは、竜の旦那も思わなかったろうね」
     奥州は冬の訪れが早いが、まだ雪の降る気配はない。だが、それまでに治る見込みはないと、佐助は告げているのだ。戦以外でこれほど長く奥州を離れたことはなく、小十郎は僅かに顔を曇らせる。
    「あぁ、眠っちゃう前に包帯も替えておこうか」
     意識のない者を相手にする手間を考えればそれは至極真っ当なことで、佐助は意図的に軽く言い放つと、すい、と相手の顔に手を伸ばした。
     その動きで小十郎は右目が闇に閉ざされていることに今更気づいたか、顔を強張らせたかと思いきや、それまでのおとなしさがまるで嘘のように、小刻みに震える利き手ではない指で顔に巻かれた包帯の表面を、がりがり、と乱暴に掻き毟りだした。
    「大丈夫! 大丈夫だから落ち着きなよ旦那ッ!!」
     一瞬にして取り乱した小十郎に肝を潰したか、佐助は声を張りながら小十郎の手を掴み敷布に縫いつけると、「大丈夫だから」と繰り返す。
     佐助の声が聞こえているのかは定かでなく、肩で荒く息を吐く小十郎の左目に浮かぶのは、紛うことなく恐怖の色だ。
    「目の近くを切っただけで眼球には傷一つ無いから」
     言うが早いか包帯を手早く解き、宛がっていた布を外してやれば、瞼を開かずとも光を感じたからか、小十郎は深々と安堵の息を吐きつつ左目も閉じ、途端におとなしくなった。
     伏せた睫毛が、ふるり、と震え、唇には詫びの言葉が乗せられる。それを違えることなく拾い上げた佐助は「膿んだら大変だから暫くこのままだよ」と告げ、相手の右目を再度闇に閉ざした。
     利き腕が使えぬことを知っても動じなかった男がなにをそんなに恐れるのかと、怪訝に眉を寄せた佐助であったが、思い当たる節があったか、あぁ、と苦い呻きを溜め息へと替えた。
     これは眠りに落ちる寸前の気の緩みが見せた、竜の右目の素の部分だ。片腕が無くなろうとも、残ったもう片方で刀は振るえる。だが、この男の右目は彼の物であって彼の物ではない。
     この男は主のためだけに、主を護るためだけに存在していると言っても過言ではない。忍とてその役割は彼と変わらぬ。しかし、根本の部分が大きく異なっており、佐助は、ゆるゆる、と頭を振る。
    「難儀なことで」
     忍が『仕える主』を護るのはそれが仕事であるからだ。だが、この男は『主』という枠を越え『伊達政宗』という一個人を文字通り身体を張って護り通している。そこに潜む執着とも狂気とも呼べるものを、忠義という言葉にすり替えていることに本人もその主も気づいていないことが、佐助には空恐ろしく感じる。
     その彼を護るための刃が振るえなくなったその時、この男はどうなるのか。
     片目ひとつであそこまで取り乱した男に、二本揃わなければなんの役にも立たぬ足の腱もやられていることを教えるべきか否か。この状態を冷静に受け止めてくれるかを考えると、正直、告げるのはもう少し先にしたいところだ。
    「旦那の世話は俺様がするから。なにかあったらこれで呼んでちょうだい」
     そう言って懐から取り出したのは箸ほどの長さの棒に鈴がついた物で、佐助の手中で緩く揺らされ、ちりん、と可愛らしい音を立てた。
    「ここへは俺様と真田の旦那以外は来ないから、気を張らずにゆっくり養生してよ」
     鈴を枕元へ置き、いつの間にやら瞼を伏せている小十郎に肩を竦めてから、佐助は音もなく立ち上がるとそのまま部屋を後にしたのだった。


     白昼堂々廊下を進む忍というのもおかしな絵面だ、と自嘲しつつ、佐助は一室の前で片膝を着くと中の者に小さく声を掛ける。
    「旦那、今いいかい?」
    「佐助か。うむ、構わん」
     その応えに障子を横に滑らせ、佐助は最低限の隙間から影のように入り込んでくる。幸村は文机に向かっていた身体を胡座をかいたまま反転させると、目の前に座るよう忍を促した。
    「片倉殿のご容態は如何でござるか」
    「んー、元が頑丈な御仁だからね。解毒も間に合ったし、神経毒による後遺症はまずないかな。それよりも俺様としては、旦那が戻ってきた理由を聞きたいんだけど?」
     武田信玄の命により幸村は武田の使者として奥州へ赴き、そのまま留まることになっていたはずだ。
     武田の意図するところではないとはいえ、現状は伊達の重臣を手中に収めた状態となっている。いくら同盟を結んだとはいえ伊達が弱味を握られていることには変わりなく、それをよしとしない信玄が武田の潔白の証も兼ねて、質として幸村を伊達に差し出したのだ。
     そう聞かされていたにも関わらず、昼過ぎに、ひょこり、と戻ってきた幸村に、佐助は不覚にも出来を確かめていた薬湯を噴出してしまったのだった。
    「お館様のしたためられた書状のみで充分であると、政宗殿は仰ってな。それから、おまえの手綱をしっかりと握っておけと釘を刺された」
    「へぇ……」
     細められた佐助の瞳が仄暗い炎をその奥に灯す。伊達の殿様の空っぽな右目は、常人には見えぬものが見えるらしい。
    「ほんと油断ならないねぇ」
    「やはり俺は賛同しかねる。同盟は無事結ばれたのだから、それで良いではないか」
     ピッ、と背筋を伸ばし、一点の曇りもない瞳で真っ直ぐ見据えてくる幸村に、佐助は一瞬、片眉を上げるとわざとらしく、むー、と唸りながら鉢金を指先で、コツコツ、と叩いた。
    「あのさぁ旦那。『敵さんは同盟締結を阻止できませんでした。めでたしめでたし』で済むわけないでしょ」
    「む?」
    「双竜の片割れが手負いでこっちに居るんだよ。俺様だったらこんな好機、見逃さないけどなぁ」
     同盟阻止が成らなかった場合も視野に入れ、次なる策を講じていると考えるのが妥当である。事を起こした、或いは手を貸したのが返り忠であれば、両陣営にとって獅子身中の虫だ。ならば仕掛けてくるであろうことを見越して策を練り、憂いを断とうというのである。
    「だからといって片倉殿を囮にするなど、やはり……」
     実直な幸村は本人に事の次第を伝えず、その身を利用するということに抵抗があるようだ。
     奥州の独眼竜は確かに強い。攻め落とすのは容易ならざりと近隣諸国は慎重に構えているが、彼一人ならば望みはあると佐助は見ている。
     伊達軍を率い部下の士気を上げているのは先頭に立つ政宗だが、その背を護り豊富な戦術を用いて軍を勝利へと導くのは、常に一歩下がった位置で影のように主の傍にある男なのだ。
     血気に逸る主君を諫め、時には剛胆な、時には緻密な戦術で敵軍を翻弄する。咄嗟の機転や判断力は賞賛に値すると、幾度となく偵察に赴いた戦場で思ったものだ。
     共にあってこその双竜。
     片割れを失えど数多の兵に護られた蒼竜は、簡単には地に堕ちない。
     ならば標的は自ずと決まる。
    「それに、これは武田の面目に関わる」
    「面目、とな?」
    「そ。片倉の旦那が襲われたのが武田領に入ってから、ってのが面倒なとこなのよ」
     伊達、武田、どちらから情報が漏れたにせよ、武田領で起きた不始末であることには変わりなく。しかもこれが武田側による闇討ちではないかと、伊達が同盟を破棄し攻め込む口実にしないとも限らぬのだ。
    「政宗殿は然様なお人ではござらん」
     むっ、と隠すことなく声音に不快感を乗せる幸村に、わかってるって、と頷いて見せ、佐助は再度、コツコツ、と鉢金を叩く。
    「浅慮の果てに大事な大事な右目を失ったとしたら、暗愚もいいとこだよね。それは独眼竜もいやってほどわかってるだろうさ。だからその点に関しては心配してないけどね」
     あーもーほんと面倒なんだから、と嘆く佐助の様子から察するに、既に配下の忍をあちらこちらに走らせているのだろう。
    「武田は意地でも片倉の旦那を甲斐で死なせるわけにはいかないの」
    「縁起でもないことを申すな。無事に政宗殿の元にお帰しすると誓ってきたのだ」
     またそんな安請け合いを、とさすがに言葉にはしなかったが、幸村の裏表のなさは今に始まったことではなく、佐助は諦めたように嘆息すると、ちろり、と上目に主の顔を見やった。
    「人払いは徹底してよ。不用意に部屋に近づいてきたら、例えそれが女子供でも名のある大名でも斬るからね」
     感情を見せぬ平坦な声音で念を押せば、幸村は真剣な眼差しで唇を引き結び「あいわかった」と喉奥で低く唸るように応じたのだった。
     探るまでもなく腹の奥に不満を押し込めているのが手に取るようにわかり、佐助は苦言の一つでも呈してやろうかと口を開き掛けるも、思うところあってか直ぐさまその口は閉ざされた。
     生き馬の目を抜く戦国乱世にありながら、白は白、黒は黒としか言えない性根の真っ直ぐな男にしてしまったのは、忍は人ではないのだから道具として扱うよう割り切らせることが出来なかった時点で、自分にも少なからず責任があると思い直す。
    「俺様の予想ではそんなに長くはかからないから、ちょっとの間辛抱してちょうだい」
     代わりに軽い調子でそう言ってやればあからさまに幸村の表情は和らぎ、「佐助も無理はせぬようにな」と労りの言葉を投げると、すっく、と立ち上がった。
    「旦那?」
    「飯にしよう。その後は俺が片倉殿についているから、おまえは少し休め」
     いいな、と佐助の鼻先に指を突きつけるも、それを、ぽかん、と見ている佐助からの返事はなく、幸村は、いいな、とやや強めに念を押すと返される言葉を待つことなく障子の向こうへ消えたのだった。
    「休みはいいから給金上げてよねぇ」
     はは、と力無く漏らした笑いは虚しく室内に溶け、佐助は脱力したか、ごろり、と大の字になる。
     今頃は政宗も黒脛巾組を使って、あちらこちらに探りを入れていることだろう。幸村を甲斐へと帰したのは懸命な判断であると認めないわけにはいかず、忌々しげに小さく舌打ちを漏らすと、全てを遮断するかのように固く瞼を閉じたのだった。


     忍の物とは違う足音が近づいてくることに気づき、小十郎は僅かに首を傾け廊下側の障子を見やる。遠近感の狂いには多少なりとも慣れたが、視界の狭さには未だ慣れることが出来ず、眉間のしわは深くなる一方だ。
     しかも方角の都合か敷かれた布団は身体の右側が廊下に面しており、様子を探るにもわざわざ頭を動かす必要があるのがなんとも煩わしい。
    「片倉殿、起きておられるか?」
     掛けられた声に応じようにも声が出ない為、小十郎は佐助が置いていった鈴を返事代わりに、ちりん、と鳴らしてやる。配下の忍から聞き及んでいたか、それを耳にした幸村は躊躇うことなく「失礼致す」と静かに障子を滑らせた。
    「お加減は如何でござるか」
     戦場で聞くのとは異なった落ち着いた声音に、小十郎は心持ち身構えていた身体から力を抜く。室内であのように声を張ることはないと頭ではわかっていても、たびたび目にする姿があれでは致し方ないというものだ。
    「灯りをつけてもようござるか?」
     障子の向こうに見える空は赤から薄紫へと変わりつつあり、部屋の隅には闇がわだかまり始めている。幸村の問いに軽く頷いてみせれば、畳を踏む足は真っ直ぐに枕側のやや離れた場所にある行灯の下へと向かい、程なくして柔らかな光が幸村から伸びる影を濃くした。
    「かような時間に申し訳ござらん。昼時に一度参ったのでござるが、よく眠っておられた故、退散致した」
     とす、と小十郎の左側へ腰を下ろし、灯りに柔く照らされた顔を、じっ、と見つめる大きめな眼は気遣いの色を滲ませている。
     世話を掛けていることに対する詫びと礼をしたくともそれを伝える術が無く、小十郎が僅かに眉根を寄せれば、幸村は僅かに焦りの滲んだ顔でなにも出来ぬ手を無駄に上げたり下げたりしながら「い、痛むでござるか」と心底心配そうに問うてきた。
     痛まぬわけではないが、そうではない、と小十郎が首を横に振ってみせれば、即座に安堵の息を吐き緩く握った拳を膝上へと戻す。
    「佐助の薬は良く効きまする。すぐに声も出るようになりましょうぞ」
     その言葉は慰めではなく事実であろうことは、小十郎にもわかっている。落ち着いて眠っていられるような怪我ではないはずだが、現在感じる痛みは最小限で、これまでに使ったことのあるどの痛み止めよりも、凄まじい効果を発揮していると言わざるを得ない。
     ただ痛みが少ないのは精神的に楽ではあるがその副作用か倦怠感が酷く、頭に終始薄い靄が掛かっているような状態であるのはいただけなかった。
    「それから、意思の疎通がならぬのは不便かと思い、このようなものを作ってみたでござる」
     カサ、と懐から取り出されたのはいろはの書かれた紙で、一文字一文字を小十郎に指し示して貰おうと言うことらしい。簡単なやり取りしか出来ぬであろうが、短い言葉でも意志を伝えることが出来るのは大変ありがたいと、小十郎は右腕を伸ばすと早速礼の言葉を綴った。
     それから幸村は、奥州に質として赴くも政宗にいらぬと帰されたこと、小十郎の着物を何着かと金子を持たされたこと、畑のことは心配するなとの言伝を頼まれたことを、委細隠さず全て語って聞かせたのだった。
     口には出さずとも政宗が小十郎を案じていることがひしひしと伝わり、某はいたく心を打たれ申した、と控え目に告げるも向けられる瞳は羨望に、きらきら、と輝いており、小十郎は困ったように眉尻を下げた。
     主君にそこまで思われているとは片倉殿はまことの忠臣でござる、と続けられた言葉に、幸村に悪気がないことは重々理解しつつも小十郎は居たたまれない。
     かろうじて書状は信玄の元に届けられたが奥州に戻ることは能わず、ともすれば明日には政宗の枷と成りうるやもしれぬこの状況に甘んじるしかない己が身が恨めしいほどだ。
     だが、そのような小十郎の心情など知る由もない幸村は「某もお館様にそう思っていただけるよう、より一層の精進を重ねる所存!」となにやら熱い誓いを口にしている。話を逸らす意味合いもあったが何よりも重要なことだと、小十郎は僅かに身を捩ると幸村の膝上に置かれた紙に、とっ、と触れた。
    「なんでござるか」
     即座に紙を拾い上げ、小十郎が楽な姿勢を取れるよう紙の位置を変えた幸村に唇だけで礼を述べた後、とんとんとん、と順繰りに紙を突いた。
    「か、た、な……?」
     指し示されたものを確認するように口にした幸村に小さく頷き、小十郎は幸村の顔を仰ぎ見た。
    「かたな、刀? ……黒竜のことでござるか?」
     察しの良い幸村に、そうだ、と再度頷いてみせれば、若武者は、はっ、と弾かれたように立ち上がった。
    「某がお預かりしておりまする! 武士の魂とも言うべき刀をお傍に置いておかぬとは、気が回らずまっこと申し訳ござらん!!」
     ただいまお持ちいたしまする! 暫し待たれよ!! と叫ぶが早いか幸村は開け放った障子を閉めることなく飛び出すと、ばたばた、と廊下を疾走し、ひらひら、と宙に舞ったいろはの書かれた紙が畳に落ちる前に、その足音は聞こえなくなったのだった。
    「なになに? どうしたの?」
     唖然と開け放たれた障子向こうを見ていた小十郎の前に、ひょこり、と現れた明るい髪は、逆方向から来たため己の主に声を掛ける暇がなかったらしい。
    「なにか破廉恥なことでも言ったの?」
     なーんて、そんなわけないか、と己の発言を軽く流し、室内に踏み込んだ佐助は障子を閉めることなくそのまま小十郎の枕元まで来ると胡座をかき、重湯と薬湯の乗った盆を畳へ下ろした。
     ふと、枕元に落ちた紙に目を留め、拾い上げたそれに綴られた見慣れた字に、あぁ、と得心のいった声を上げる。
    「なるほどね。旦那も考えたモンだ」
     うんうん、と感心したように頷く佐助に向かって、てめぇよりもよっぽど気が回る、と小十郎が無音で皮肉を口にすれば、それを正確に読み取った忍は「だって俺様には必要ないし」と悪びれた様子もない。
    「さっき言い忘れたけど、こんな時間に真田の旦那が居るって時点でもうわかってるよね。ここは旦那のお屋敷。他の者には客人が来てるとは言ってあるけど、誰とは言ってないし、そもそも人払いしてあるから誰も来ない」
     他に何かあったかな、とあらぬ方向に目をやる佐助を、じっ、と見やり、小十郎は眉間のしわをより一層深くする。それを気配で察したか、なに? と首を傾げる佐助に顰めっ面のまま小十郎は、薬減らせ、と要求を口にした。
     怪我で満足に動けぬことは百も承知であるが、思考を阻害する靄をどうにかしないことには、有事の際にそれが命取りになると判断したのだ。
     だが、佐助は、すぅ、と僅かに目を細めると無言で小十郎を見下ろした後、そいつぁ聞けないねぇ、とにべもなく断りの言葉を口にする。
    「痛みにのたうって傷開いたりしたら困るのよ。そんなことで独眼竜の恨み買うなんて、俺様御免だね」
     ひょい、と肩を竦め、暗に、アンタ重傷なんだよ、と告げる佐助の目は仕草に反して微塵も笑ってなどいなかった。
    「いい機会だから言っちゃうけど、足の腱もやられてるからね。強引に肉開いて繋いだから薬ナシじゃ相当痛いと思うんだけど?」
     淡々と告げられた内容に小十郎は一瞬目を見開き、ひゅっ、と喉を鳴らす。他にも怪我をした箇所に自覚がないのは傷を受けた際、既に神経毒が身の内に回っていたせいであろう。手の骨が砕けたことにも、腹から血を流していることにも気づかず、刃を煌めかせ襲い来る敵をただひたすらに斬り、刃が間に合わなければ拳で殴打し、蹴り飛ばし、次々と薙ぎ払ったことは覚えている。
    「あわよくば生きたまま捕らえて交渉の材料に、とでも考えてたんだろうね」
     思い描いていた最悪の状況を言い当てられ、小十郎は僅かに喉を上下させた。
     まず神経毒を用い身体の自由を奪うという回りくどいやり方といい、更に狙って足の腱を切るという念の入れようといい、敵方は書状が奪えぬのならば、代わりに双竜の片割れを利用し尽くす算段であったことは容易に想像がついた。
     ぐるり、と重湯を匙で掻き回しつつ佐助が、はー、とこれ見よがしに溜め息を吐けば、小十郎は眉根を寄せたまま瞼を伏せ、ぐっ、と唇を引き結ぶ。夜具に隠れて見えぬが、右の拳もきつく握られているのだろう。
    「国と一家臣、どっちを取るかって聞かれたら、国主なら迷わず国って言わなきゃならないけど、独眼竜にとってアンタは特別だからねぇ。さすがの俺様もアンタが絡むと独眼竜がどう動くか読めなくて困るんだよね」
     そこでなにか思い出したか佐助は僅かに眉根を寄せ、碗を持ったまま膝に腕を下ろした。
    「大将が真田の旦那を質にって奥州に行かせたんだけど、その話は聞いた?」
     その物言いにどこか苦い物を感じたか、ゆるり、と小十郎は瞼を持ち上げ傍らの忍を片眼で見上げる。その落ち着いた様子から既に幸村の口から聞き及んでいたと判断したか、佐助は緩く息を吐いてから言葉を継ぐ。
    「さすがにとんぼ返りはさせなかったみたいだけど、質なんざいらねぇ、って突っ返してきたよ。その点についてはどう思う? 片倉の旦那は」
     幸村に質としての価値がないわけではないことは、政宗にもわかっているはずだ。にも関わらず信玄の申し出を断ったということは、なにか思うところがあったということだ。
     むしろ価値があるからこそ、奥州に留め置かなかったと考えるのが妥当である。
     仮に返り忠が奥州に居たとなれば幸村を危険に晒すこととなり、甲斐との同盟にも亀裂が生じる恐れがある。幸村に害が及ばぬよう身辺に目を光らせつつ、情報を集め方々に探りを入れるのは効率が悪いとの判断であろう。
     こんなところか、と端的に伝えれば佐助は苦々しい表情を隠すことなく「懸命な判断だよね」とぶっきらぼうに小十郎に返した。
    「独眼竜のイヤなところは、自信過剰な無鉄砲に見えて実は頭が切れるところだね」
     これもアンタの教育の賜物かねぇ、とわざとらしく嘆いてみせる佐助に、人の主を捕まえて随分な言い草だな、と小十郎も苦々しい表情を隠さない。
    「そんな竜が入れ込んでる右目の旦那になにかあったら、俺様の首が危ういのよ。わかる?」
     冗談めかしてはいるが先も似たようなことを口にしており、佐助は本気で竜の報復を危惧しているのだと知れた。だが、立場を入れ替えて考えればそれも致し方なし、と小十郎は内心で苦く笑む。
     忍は消耗品であると考える者が大多数の中、真田幸村という男は猿飛佐助という忍を一人の人として扱っている。その佐助が他国で謀略の末に散ったとなれば烈火の如く熱り立ち、その気性も相まって単身討ち入ってきてもおかしくはないのだ。
     ふっ、と緩やかに息を漏らし僅かに眦を下げた小十郎を不思議そうに見やるも、佐助は話も一区切りついたと判断したか、小十郎に「いける?」と碗を軽く持ち上げて見せる。だが小十郎が、ふるり、と首を横に振りそれを辞すれば、佐助は食い下がることなく碗を盆へ戻し、代わりに薬湯の入った湯呑みを持ち上げた。
    「それじゃあ、これだけはしっかり飲んでちょうだい」
     言うが早いか身を屈め唇を合わせてくる佐助を半眼で見上げたまま、小十郎は注がれる温いそれを嚥下する。顔を上げた相手に、相も変わらず不味いな、と皮肉っぽく片頬を上げれば、良薬口に苦しって言うでしょ、と涼しい顔で返された。
     再び薬湯を口に含み、そう言えば真田の旦那はどうしたのだろう、と余所事を考えていたせいか佐助は口中の物を一気に流し込んでしまい、嚥下しきれなかった薬湯が小十郎の口端から伝い落ちる。
     それを、べろり、と舐め取ってから「おっと悪いね」と佐助が軽く詫びの言葉を口にしたのと、「破廉恥でござるぅぅぅぅぅッ!」が轟いたのはほぼ同時であった。
     見れば胸の前で二振りの刀を両の手で、しっか、と握った状態で顔を赤くし、ふるふる、と身体を小刻みに震わせている幸村がそこにはおり、佐助は、あぁなんて間の悪い、と頭を抱えてしまったのだった。
     ごとり、と音を立て地に転がったのは己の足であった。
     膝から下を失い均衡を崩した身体が、無様にも地に伏せるかと思った刹那、背後から力強い腕に支えられ、政宗は、はっ、と肩越しに手の主を見やった。
     そこには誰よりも何よりも信頼し背を預ける男の姿があり、安堵の息と共に無意識のうちに男の名を口にしていた。
     だが、名を呼ぶも男は応えることなく、じっ、と視線を地に落としている。一体なにを見ているのかと政宗も目を落とせば、そこにあったのは玩具のように転がる斬り離された己の足であった。
     しかもそれは見る間に砂と化し、風にさらわれ跡形もなく消え去った。
    「おみ足を無くされましたか」
     男の口から零れた言葉は誰かに向けたものではなく、まるで独り言のようだ、と政宗は腹心の声を背中で受ける。
    「では、代わりに小十郎の足をお使いくだされ」
    「HA? てめぇ一体なに言って……」
     冗談も大概にしろよ、と歪んだ笑みと共に振り返ろうとするも、不意に支えを失った政宗は無様に地に転がった。
    「いきなり手ぇ離す奴があるか!」
     苛立ちを隠しもせず感情のままに言葉をぶつければ、小十郎は「申し訳ございません」と頭を垂れ、そのまま顔を上げることなく腰の刀を抜くや白刃を一閃させた。
     本体との繋がりを失い、ごとり、と横倒しになった小十郎の足から流れ出す鮮やかな朱に政宗は息をすることも忘れ、閉じる機能を失ったひとつ眼は唯ひたすらに朱を映し続ける。
     右目はなにを思ったか政宗に瞬きをする時間すら与えずに、己の足を膝下から斬り離したのだ。
    「さぁ、政宗様」
     痛みなど感じていない平坦な声音に、政宗の身体は知らず、カタカタ、と小刻みに震え出す。
    「な、にしてんだ小十郎……」
    「なにがあろうとも貴方様は倒れるわけにはいかぬのです。なにに代えてもお守りし、政宗様を生かすのが小十郎の役目にございます」
    「ふざけんなッ! それでてめぇの足を切り落とすたぁどういった理屈だ!?」
     片足であるにも関わらず両の足が揃っているかのように凜と立っている小十郎を見上げ、政宗は喉も裂けんばかりに叫んだ。
    「これは元より政宗様の足にございます」
     竜の怒りなど歯牙にも掛けずもうひとりの竜は膝を折り、転がった足を拾い上げ政宗の足へと合わせれば、それは元からそうであったかのように、すぅ、と継ぎ目無く政宗とひとつになった。
     あまりのことに、なんだこれはワケがわからねぇ、と目を見開くしか出来ぬ政宗に向かって、小十郎は相も変わらず淡々と言葉を紡ぐ。
    「小十郎の血肉一片に至るまで、すべて政宗様の物にございます。そして、政宗様を生かす最善で最良の策を講じるのが、小十郎の役目なれば」
     これはなんらおかしなことではないのだと、ひた、と見据えてくる小十郎の眼は確かに主を映してはいるが政宗を見てはおらず、政宗は堪らず声を張り上げた。
    「てめぇが見てるのはなんだ!? 俺自身ではなく『伊達家当主』である俺なのかッ!?」


     自身の声に、はっ、となり、政宗は目を見開いた。頭を動かすことなく、きょろり、と目だけで辺りを窺えばここは己の寝所で、先のことは夢であったと理解する。
    「なんて夢だ……」
     全身から噴出した不快な汗に眉を顰め、額に手の甲を押し当てる。家督を継いだ時、個としての自分は消失したのだ。そう納得して伊達の名を背負った。にも関わらず今更このような夢を見るというのは、些か神経にきているとしか思えない。
     最後に小十郎の姿を目にしたのは十日前となる。共にあるべき右目が居ないだけでこの様か、と自嘲気味な笑みを浮かべ両の手で顔を覆う。
     武田との同盟は伊達にとって、確かに最善で最良の選択であったことはわかる。そして、その役目は小十郎でなければ務まらなかったであろうことも、わかっている。
     あの男が伊達家のため、政宗のためになら鬼にも修羅にもなることは重々承知しているつもりだ。
     政宗を生かすためならば、その身を楯にすることも厭わぬだろう。それ程の覚悟で政宗と共に居るのだと、頭ではわかっているが、いざその状況に陥ってみれば、情けないことに夢に振り回される始末だ。
     生きているなら問題ねぇ、と成実を始めとする軍の者には嘯いて見せたが、自力で帰って来られぬ程の怪我を負ったと聞いたときには、さすがに全身の血が冷えた。指先は氷のように冷たくなり、視界はグラグラと揺れ、情けなくもその場に頽れそうになった。
     いくら無事だと知らされようとも、実際に己の目で確かめるまでは安心できようはずもなく。
     小十郎の姿がそこにある。そこにあるからこそ意味があるのだと、あの男はわかっているのだろうか。
    「わかってねぇだろうなぁ」
     はー……、と嘆息と共に、ゆるり、と身を起こした政宗は、一瞬、目を細めるや、正面を向いたまま「なにか掴んだか」と小さく漏らした。
     ひそ、と空気に溶ける声を的確に拾い上げた隻眼が、やにわに鋭く光る。
    「真田を帰して正解だったか」
     ヒュウ、と軽い口笛と共に闇にわだかまっていた気配も消え、政宗はひとり厳しい表情のままぎこちない動作で腕を持ち上げ、掌で右目を静かに覆った。


     幸村の屋敷に担ぎ込まれてから二週間が経とうとしているが、小十郎に声が戻る気配は一向になかった。
     日がな一日寝ているしかなく退屈であろうと、僅かな時間を作っては書を片手に顔を見せに来る幸村とは逆に、佐助は小十郎が呼ばぬ限りその姿を現すことはない。
     身を拭き清めるのも、まばらに顔を出す髭を剃り落とすのも、全て小十郎が眠っている間に済ませるのだ。
     それが今日に限ってはまだ陽の高い内に、幸村が道具一式と共に現れた。何事かと目を丸くする小十郎に「佐助は某の命にて出ておりまする」と幸村は特段隠すことではないと正直に告げると同時に、湯を張った桶を小十郎の枕元へと下ろした。
     煌めく小さな刃を検分し、ふむ、と満足そうにひとつ頷いた幸村の姿に、まさか、と小十郎は片眉を上げる。
    「では失礼して」
     するする、と解かれていく顔の包帯で、あぁやっぱり、とどこか諦めた顔を見せた小十郎に気づいたか、幸村は僅かに唇を尖らせるや「ご安心召されよ」との言葉を漏らした。
    「こう見えても某、手先は器用ですぞ。まぁ確かに佐助ほどとはいきませぬが」
     あの忍が出来すぎなのだ、と声に出すことは叶わぬまでも出来るだけ柔く笑んでやれば、幸村は途端に、ぱぁ、と表情を明るくする。
     理屈ではなく感覚で物事を掴むのに長けた男であると、小十郎は幸村をそう評する。己の主も勘の鋭い男であり感情の機微には聡いが、感じたままを莫迦正直に受け止めず常にそこにはなにか裏があるのではないかと、警戒しているのも確かであった。
     幸村は静かに小十郎の頭を持ち上げ枕を外すと、当然のように胡座をかいた己の踝をその下に差し入れた。
    「この方がやりやすいので」
     ぽかん、と見上げる小十郎に笑顔で答える逆しまな幸村には全く悪びれた様子はなく、口を挟む気も失せたか小十郎は薄く開いた唇から細い息を吐くに留めた。
    「お顔の傷も随分とよくなりましたな」
     じっ、と真顔で傷口を検分し、「佐助が戻ったら、もう包帯は不要であろうと言っておきまする。いつまでも片目では不便でござろう」と柔く笑んだ。確かに不便ではあるが政宗にはこれが普通の状態なのだと知り、小十郎は改めて気持ちを引き締める。一つの眼で遙か先を見据える政宗の雄々しい背を護り、その道を阻む者があれば斬り捨てるのみだ。
     表面上は穏やかな小十郎の内心など知る由もなく、幸村は固く絞った手拭いで小十郎の顔を一拭きし、そっ、と肌に冷たい刃を宛がってくる。その眼差しは真剣そのもので、意外にも迷いのない手付きに先の発言は法螺でもなんでもなかったのだと、小十郎は表情には出さないまでも改めて感心したのだった。
    「片倉殿は佐助がお嫌いと見える」
     暫し無言で手を動かしていた幸村だが、沈黙に耐えられなくなったか、はたまたなにか思惑があってか不意に口を開いた。その言葉に小十郎は軽く片眉を上げるに留め、目だけで先を促す。
    「ついこの間まで敵対していた者同士、すぐに打ち解けられるとは某も思ってはおりませぬ。ですが、佐助はその、悪い奴ではござらんので、あまり嫌わないでやっていただけぬかと」
     彼なりに言葉を選び、自分の部下を信用して欲しいと、拙いまでも願い出てきた幸村に小十郎は僅かに目を見張る。見当違いと言ってしまえばそれまでだが、一蹴するにはその思いは余りにも曇り無く真っ直ぐであった。
     答える術のない小十郎は静かに瞼を下ろし、ほんの一時ではあるが幸村にその身を委ねることで、それなりにここの者を信用しているのだと示してみせる。
     意図が伝わるかの確信はなかったが、触れる幸村の体温が一瞬にして上がったことにより、返る言葉は無くとも彼が歓喜に打ち震えていることを肌で感じたのだった。


     後ほど薬をお持ち致しまする、と言い置いて幸村が出て行ったのは、二刻半は前であろうか。小十郎の体内時計を信じるならば、常ならば一刻は前に薬が届けられて然るべきであった。
     じくり、じくり、と全身を這うように鈍く侵食してくる痛みに、喉奥から知らず低い呻きが漏れる。これまで感じたことのない痛みに、薬が切れかけているのだと気づいた小十郎は「くそったれ」と悪態を吐いた。
     耳に届いたそれは酷く掠れ、しゃがれてはいたが確かに小十郎自身の声で、はっ、と一瞬痛みも忘れ自身の喉に右の掌を宛がう。
    「こ、れ……は……」
     身体の痛みは増す一方だが、霞に覆われた頭は反比例するかのように冴えていく。いくらなんでも回復が遅すぎるとは思っていたが、これでハッキリしたと苛立ちに任せて拳を敷布へと叩きつける。
     これまで涼しい顔で薬を運んできた忍の姿が脳裏を過ぎり、「……ッの野郎」と再び悪態を吐いたその時、ばたばた、と忙しない足音が近づいてきたかと思えば、すたーん! と勢いよく廊下側の障子が横に滑った。
    「申し訳ござらん片倉殿ぉぉぉぉッ!」
     走り込んできたのは予想に違わず幸村で、その手には零れなかったのが不思議なほど、中身が盛大に波打っている湯呑みが握られている。
    「急な来客でどうにも席が外せず、まっこと申し訳ござらぬぅぅぅぅぅぅ」
     今にも畳に額を擦り付けそうな幸村を横目に見やり、いいからそれを寄越せ、と言わんばかりに、小十郎は鈴付きの棒で低くなった幸村の頭を小突いてやった。
     ここで薬はいらぬと突っぱねたところで、幸村からいらぬ追求を受けるだけである。それに大変に癪ではあるが、あの忍が意味もなくこのようなことをするとは思えず、この場はなにも知らぬフリを続けた方が良いと判断したのだ。
     幸村の手を借り身を起こす際、漏れ出そうになった呻きを必死に飲み込む。声が音となることはなかったが、普段以上に歪められた小十郎の顔に、薬が切れかかっているのだと気づいた幸村は心底申し訳ないと言わんばかりの表情で、湯呑みに口を付ける小十郎を、じっ、と見守る。
    「あらら、今頃?」
     部屋の空気を一切揺らがせることなく、忽然と現れた明るい色の頭髪に幸村は、うっ、と言葉を詰まらせた。
    「時間厳守だって言ったでしょ、旦那」
    「う、その……すまぬ」
     言い訳することなく非を認めた幸村をそれ以上責める気はないのか、佐助は膝を着くと主に代わり小十郎の身体を支える。
    「ま、大方、急な来客で手が離せなかったんでしょ」
     はいお土産、と懐から仄かに甘く香る小さな包みを取り出せば、叱られた犬のように、しゅん、としていた幸村の目が途端に輝きを取り戻した。
     礼の一言と共に包みを受け取った幸村が「片倉殿もいかがでござるか?」と遠慮がちに尋ねるも、小十郎は「気持ちだけ受け取っておく」とやんわり断ったのだった。
     後は任せる、と退室した幸村の足音が聞こえなくなるまで佐助と小十郎は、じっ、と息を潜めていた。互いにどことなく探りを入れているような空気を感じつつ、「まだ痛む?」と先に口を開いたのは佐助であった。
     まったく痛まないわけではないが、先に比べれば随分と和らいだそれに、小十郎は静かに首を振る。そう、と呟いたきり口を噤んだ佐助を一瞥し、黙って布団へ戻ろうとする小十郎に「なら、いいんだけど」と返された声音は普段と変わらぬ軽い物であった。
     すっ、と微かな音を立て開かれた障子に、うとうと、と微睡んでいた小十郎は瞬時に意識をそちらへと向ける。だが、身体は、ぴくり、とも動かさず、部屋へと踏み込んだ者が近づいてくるのを静かに静かに待った。
     障子は開かれたままであるのか、そより、と流れ込んできた風に乗って白粉の香りが僅かに鼻腔をくすぐる。
    「片倉様、お薬をお持ちしました」
     みし、と小さな音を立て布団を回り込むことなく傍らに膝を着いた者が発した声は耳に覚えが無く、ゆうるり、と頭を巡らせればこれまたやはり覚えのない女がそこにはおり、小十郎は隠すことなく左目を眇めて女を仰ぎ見た。取り立てて特徴のない容貌ではあるが、油断無く鋭く探るような眼差しを向ける。
     それを問いかけと受け取ったか女は静かな口調で「幸村様にお持ちするよう頼まれました」と告げ、盆に置かれた湯呑みに手を伸ばした。
     否。伸ばそうとしたがそれは叶わなかった。
     こくり、と僅かに女の喉が上下し、つ、と視線が湯呑みから小十郎へと向けられる。見れば、ひたり、と心の臓へと宛がわれている鋭い切っ先は布団の中から伸びており、それを突きつけている小十郎の唇が音のない言葉を紡いだ。
     戯れにしちゃあ度が過ぎている、と。
    「……旦那こそ牽制にしちゃあ行き過ぎちゃいないかい」
     刀の切っ先が潜り込んでいる着物を指さし、声音は女のまま口調のみを戻した佐助が片眉を上げる。
    「詰め物じゃなかったら冗談抜きに流血沙汰だよ、これ」
     すっ、と刀身を撫で、抜いてちょうだい、と指先で示せば、小十郎は剣呑な目付きのまま静かに刃を布団へ引き込んだ。
     先日、幸村から黒竜を返されたことはその場に居合わせたため知っており、なんら驚くことでもないのだが、それを突きつけるどころか僅かとはいえ、まさか刺されるとは思ってもいなかったというのが正直なところだ。
    「これで本当にただの女中だったらどうするのよ、旦那」
     あーあ、と穴の開いた着物に目を落とし嘆息すれば、小十郎は不快そうに目を眇め、てめぇだとわかってるから刺した、と言い切ったのだった。
    「えっ!? ちょっとなにそれ!? 俺様なら怪我してもいいってこと!?」
     思わず身を乗り出せば、僅かに固い音を立て刀の背で脛を叩かれる。黒竜を己の身に沿わせるように布団の中に仕舞い込んでいることは知っていたが、常に抜き身で一刀を握っていたのは全く持って予想の外だ。
     自分で言ったことをもう忘れたのか、と表情は変えぬまま唇を動かす小十郎を、佐助は恨みがましい顔で黙って見やる。
     ──ここには佐助と幸村以外は来ない。
     ──家の者に客人が来ていることは告げたが、名は明かしていない。
     佐助は確かにそう言ったのだ。にも関わらず女は小十郎の名を呼び、あまつさえは幸村に頼まれたと嘘まで吐いた。
     ここまであからさまに怪しい相手を警戒するなと言うのは無理からぬ話であり、そこまでの説明で佐助も納得したが、小十郎はその人物が曲者ではなく佐助だと承知の上で刺したというのだから、忍の額に青筋がうっすらと浮かんでも致し方ないというものだ。
     完璧な変装を一目で見破られたことで矜持が傷付いたというのも理由に含まれるが、ほんの一握り、ほんの一握りだ、と佐助は沸々と腹の奥から湧き上がる衝動を飲み下す。
     これはただの悪ふざけではなく、寝たきり生活で小十郎が腑抜けてはいないかと、置かれている状況に対する危機感を計り、反応を見るのが目的であったが、相手のこの行動は見過ごすわけにはいかない。
    「で? 俺様を刺した理由は?」
     目的はどうあれ自分の仕掛けたことは棚に上げて冷めた声音で佐助が問えば、小十郎は不意に、くっ、と口角を吊り上げた。そのどこか歪んだ笑みを、佐助は以前にも目にしたことがある。
     竜の背を護りつつ、刃を閃かせる刹那に、何度も、何度も。

     ──常に向けられてる殺気を他人の振りして向けられりゃ、当然だろ。

     ゆうるり、と開かれた唇が紡いだ言葉に、一瞬とはいえ身体が強張った。咄嗟に次の言葉が継げなかった佐助に向かって、ふっ、と空気の抜けるような笑みが漏らされる。
     本能ってのはどうしようもねぇよなぁ、と全てを理解した上で、またどこか自嘲じみた色を滲ませた小十郎に、佐助は、ぎゅっ、と膝上の拳に力を込めた。
     他国の者にそう易々と心を許せないのはお互い様であると、言外に告げる竜の右目に、降参、と戯けたように両の手を胸元へ引き上げ佐助は苦く笑む。
    「そうね。あわよくば寝首掻いちゃおうかな、と思ったこともあるよ」
     だが主の命がない限り、優秀な忍は独断で動くことはない。
    「今回は俺様の悪ふざけが過ぎたね。申し訳ない」
     素直に詫びの言葉を口にし頭を垂れた佐助をそれ以上責める気はないのか、小十郎は緩く息を吐くと刀から手を離し右肘を支えに身体を起こした。それに手を貸し佐助が背中を抱えるように支えてやれば、間近でその顔を見上げた小十郎が、くつり、と喉を鳴らす。
     笑んではいるが痛みが走ったか僅かに眉根を寄せている小十郎に、無理しないでよ、と声を掛けつつ佐助が首を傾げれば、俺をたぶらかすならもっと美人で来い、と堅物から思いもかけぬ軽口が叩かれた。
    「だって片倉の旦那好みの姿で来て、本気で惚れられたら困っちゃうじゃない」
     あはは、とこちらも軽く返しつつ、取り上げた湯呑みを小十郎の口許で傾ければ、こくりこくり、と素直に薬湯を喉に流し込んでいく。支える背の感触に、やはり痩せたな、と佐助は僅かに眉根を寄せるも、こればかりはどうしようもない。
    「今日の粥は竜の旦那が送ってくれた米で作ったんだから、ちゃんと食べてよね」
     小十郎の唇を懐紙で拭いながら顔を覗き込めば、一瞬喜色が浮かぶもすぐさま自責の念が滲む難しい顔になり、改めて面倒臭い人だなぁ、と内心で肩を竦める。
    「不甲斐なさに落ち込むのは勝手だけど、まずは無事に奥州に戻ることを考えるべきなんじゃないの」
     その為には体力つけないと、とまるで小さな子供に言い聞かせるような口調に、小十郎の目元がふと和らいだ。佐助からすれば小十郎の反応は予想外で、碗を持った手が思わず中途半端な位置で止まる。
    「なに? 急ににやにやしちゃって、やーらしーの」
     だが、直ぐさま茶化すように小十郎の顔を覗き込めば、相手は眉根を寄せるも長くは続かずやはり柔く眦を下げると、くつり、と喉奥で笑った。
     どこか無防備にも見えるその笑みに佐助は不覚にも言葉を失い、焦ったように手荒く粥を掻き回す。
    「なんなのもー。新手の嫌がらせ?」
     わざとらしく唇を尖らせれば小十郎は、いやなに、と緩く頭を振った。そして続けられた、随分と世話を焼き慣れてるんだなと思ってよ、との言葉に佐助は、ぐぅ、と低く呻く。
     うっかり、幸村の世話を焼いている時の顔を覗かせてしまったようだと今更ながらに気づき、それを隠すように、はいどーぞ、と些か乱暴に粥を掬い口許へ匙を持って行けば、小十郎は笑みをたたえたまま薄く唇を開いた。その隙間に匙を差し込み流し込むように僅かに傾ければ、小十郎は素直にそれを咀嚼し静かに瞼を伏せた。
     慣れぬ土地で味わう故郷の味になにを思うのかと、佐助はらしくなく相手の心境を慮る。ややあって、うまいな、と、ぽつり、漏らされたそれに小さく頷いて見せてから、再度匙を口許へと運んでやる。
    「痩せこけた旦那を奥州に帰したら、独眼竜になに言われるかわかったもんじゃないからね」
     だからたくさん食べて頂戴、と戯けたように口にして、にこり、ととびきりの笑みを浮かべたその時、開かれたままであった障子から、ひょこり、と幸村が顔を出した。
    「片倉殿」
     お加減は、と続くはずであった言葉は息を飲む音で途切れ、幸村は一瞬にして戦場で見せる鋭い目付きを持った武士へと豹変する。
    「何奴かッ!?」
     あの甲斐の虎と身体一つで殴り合いをする男だ。素手とはいえ微塵も怯まず、腰を落としいつでも踏み込める状態で不審な女を睨め付ける。
     そうそうこれが普通の反応だよねぇ、と佐助はどこか呑気に思いつつ、隠すことなく警戒の眼をぶつけてくる幸村に、ゆるゆる、と手を振って見せた。
    「旦那、俺様だって」
     それまでおなごの声色であった佐助が自分の声を発すれば、幸村は狐に摘まれたかのような顔で、ぽかん、と相手を見やる。
    「さ、すけ……? その姿は一体……」
     信じ難いが聞き慣れた忍の声を耳にしてしまった以上、幸村は一瞬にして疑いは晴れたと言わんばかりに険を解くと、大きな眼を更に大きくして首を傾げた。
    「毎日毎日、目にするのが俺様と真田の旦那ばかりじゃ片倉の旦那も飽きちゃうと思ってね。ホラ、やっぱり華は大切じゃない」
     ね? と微笑んでやれば幸村は仄かに頬を染め、う…む、と不明瞭な声を漏らし、こくん、と首を上下させる。
    「あ、旦那。あとで話があるから部屋で待ってて頂戴」
     軽く碗を掲げて見せれば食事の最中であったと理解したか「これは失礼致した」と頭を下げ、幸村はそのままおとなしく退室したのだった。
    「真田の旦那には見破れなかったのに、片倉の旦那には一発って、俺様ちょっと複雑」
     あーあ、と溜め息を吐き吐き食事を再開すれば、小十郎はなにも言わず運ばれる粥をじっくりと味わった。
     佐助は所用で出ております故、と前置いて薬湯を差し出してきた幸村の手から湯呑みを受け取り、小十郎は縁に唇を寄せたところで動きを止め、ちら、と傍らの若武者に目をやる。
     それに気づいた幸村は、なっなんでござるか、とやや上擦った声を上げてから、己の発した声に動揺したか更に挙動不審となり、落ち着き無く目をあちらこちらへと彷徨わせた。
     幸村ひとりで小十郎の元へ来るのはこれまでにも何度かあり、決して珍しいことではない。にも関わらず今日に限ってこの落ち着きのなさは、何事かあったのだと自ら白状しているようなものだ。
     本当に真っ直ぐで嘘のつけない男なのだと、幸村の動きに苦笑を浮かべるも、小十郎は特に追求することはせず湯呑みを膝へと下ろした。
    「昼餉はよいと佐助から聞いておりまするが、本当にようござるか?」
     食わねば治るものも治りませぬぞ、と真顔で言ってくる幸村に、日がな一日寝てばかりでは腹も減らぬ、と返してやれば、途端に、しゅん、と項垂れる。
     毎日、顔を合わせているためその緩やかな変化は見落としてしまいがちだが、小十郎の身体は確かに衰えており、幸村は触れた肩が薄くなったことに知らず唇を噛みしめる。
     無事に奥州へ帰すと誓ったというのに、今の彼の姿を見たらあの独眼竜は荒れ狂うに違いない。
     不甲斐ない、と幸村は更に唇を噛みしめつつ、昨晩の佐助との会話を思い出す。
     小十郎の意識が戻らぬうちに襲撃を受けては厄介だと、その存在をひた隠しにしてきたが、いつまでも隠し通せる物でないことは承知の上だ。
     在所知らずの竜の右目死亡説が流れては元も子もないと、小十郎がある程度の回復を見せたところで、あらぬ憶測を呼ぶ前に佐助は意図的にある噂を城下に流していた。幸村の元に「大事な客人」が居るといった漠然としたものだが、狙い通り静かに広まり釣り餌には充分であった。
     その噂に食らいついたか、俄に動きの慌ただしくなった者がいるとの報告が配下の忍から届いたと、静かに告げる佐助に幸村は俄に表情を引き締めた。
     夜陰に乗じて何度も馬を走らせ国境を越えるなど、不審な行動を取った者が他国の者と繋がっているところまで掴んだと聞き、更にその背後には忍の影がちらついていることもあり、佐助自身が腰を上げたのだ。
     揺らぐ炎に照らされた佐助の表情から感情は読み取れず、幸村は無言で話の先を促すしかない。佐助が優秀なことは身を持って知っており、情報を吟味した上での判断であれば、幸村が反対する理由はないのだ。
    「憶測でモノ言うのは俺様好きじゃないんだけど、状況からして竜の旦那の方にも居るね、返り忠」
    「なんと。ではその者等が結託して……」
    「まぁ、あちらさんはあちらさんで尻尾は掴んでると思うよ」
     独眼竜は千里眼だしねぇ、と苦笑混じりに吐き出して、佐助はすぐさま表情を引き締める。
    「屋敷と家人は部下に見張らせてる。動きがあれば伝令がくる手はずにはなってるけど……」
     一旦、言葉を切り佐助は一呼吸分、じっ、と幸村の目を真っ直ぐに見据えた後、ふっ、と緩い息と共に言葉を押し出した。
    「ここは一発、先手を打つことにしたわ」
     俺様も早く終わらせたいんだよね、と肩を竦める佐助に幸村は意外な物を見る目を向けた。何事にも確実性を求める佐助が、急くように動く理由はただひとつ。それに気づかぬほど幸村は愚かではない。
     それで良いのか、と問いを含んだ視線を敢えて流し、明日は右目の旦那のこと頼んだよ、と柔く笑んだ忍に、無茶はするな、と告げれば、相手は一瞬、目を丸くするや「旦那がソレ言う?」と大笑いしたのだった。

     今頃は件の者を押さえているところか、或いは──
     脳裏を過ぎった最悪の事態を払うかのように、ふるり、と頭を一振りし、幸村は膝上の拳を固く握る。
     小十郎には内緒だと佐助は言っていたが、本人の預かり知らぬところで囮として使われ、その身を危険にさらしているこの状況はやはり黙っているべきではないと、幸村は意を決し顔を上げた。
    「かっ、片倉殿!」
     気負いすぎて第一声を噛んでしまったが、幸村は怯むことなく真っ直ぐに小十郎を見据えるや、申し訳ござらん! とおもむろに頭を下げた。
     額を畳にすりつけんばかりの勢いに、何事かと目を見張る小十郎をよそに幸村は再度、申し訳ござらん! と口にして、その勢いのまま言葉を連ねていく。
    「佐助には口止めされておりましたが、やはりお話しておくのが筋かと思いました故、今まで黙っていたことからまずお詫びをせねばと……ッ」
     ぞりっ、と畳と幸村の額の間で上がった音に小十郎は僅かに片眉を上げ、次いで緩く息を吐く。彼が何に対して詫びようとしているのか大方の予想はついているため、皆まで言わせる必要はないと、伏している癖毛を、ぽんぽん、と叩いた。
     促されるままに恐る恐る顔を上げた幸村の前に、いろはの書かれた紙を引き寄せ、とんとんとん、と文字を示してやれば、大きな眼は更に大きく開かれ、ぽかん、と阿呆のように口も開いたままだ。
    「知っておられた、と……?」
     信じられないと言わんばかりの顔で零した幸村に頷いて見せ、小十郎は続けて紙の上に指を走らせる。
     ──奴の考えそうなことだ。だが、逆の立場なら俺もそうするだろうな。
     綴られた言葉に、すっ、と幸村の背に冷たい物が走り、鉛を押し込められたかのように腹の奥が、ずん、と重くなる。
     利用できるものは利用する。
     独眼竜を陰となり日向となり支えている男は、片倉小十郎である以前に伊達軍の軍師なのだ。
     常に政宗にとって最善で最良の策を取る。そこに感情の入る余地は無いのだと言外に告げられたようで、幸村は戦慄く唇を必死に引き結び、膝上の拳を、ぎゅっ、と握り締めた。
     そこまで己を殺して主に仕えることが、果たして自分にできるであろうか、と心に問いかける。
     思考の海に没していた幸村を我に返らせたのは、小十郎から伝わった僅かな緊張であった。はっ、と意識を外へと向ければ閉ざされた障子の向こう、こちらへと近づいてくる足音がひとつ。
     何者も近づいてはならぬ、と全ての者に厳しく言い含めてあり、それを違える者はこれまで誰一人としていなかった。
     白昼堂々刺客が現れたか、と幸村は片膝を立て小十郎をかばうように僅かに身体の位置をずらす。だが、軽く小さな足音は閉ざされた障子の向こうで、ぴたり、と止まり、人影は両膝を廊下についた。
    「幸村様」
    「何用だ。ここへは近づいてはならぬと申しておいたはずだが」
    「申し訳ございません。ですが、武田信玄様よりの使者が火急の用件であると参られまして」
     強い言葉を発する幸村に怯えているのか、下女は微かに声を震わせるも、伝えるべきことはしっかりと口にした。その内容に幸村は片眉を上げたが信玄公の名が出たことにより、ほんの僅かではあったが張りつめていた気が弛んだ。
    「お館様が……一体なんの用でござろうか」
     独り言のように唇に乗せ、立ち上がった幸村を小十郎が目だけで追う。
    「すぐ戻りまする」
     小十郎に向かって、ゆるり、と頭を垂れてから幸村は障子を開け放つと、廊下で未だ膝をついている下女の脇を大股で通り過ぎる。顔を伏せたままの女は当然、その背に従うと思われた。
     刹那、顔を上げると同時に懐から抜き出された鈍い光に、小十郎は、はっ、と目を見開いた。瞬きをする間もなく一直線に飛来する苦無が狙うは、紛うことなく心の臓であった。
     一呼吸遅れて振り返った幸村が瞬時に廊下を蹴るも、既に放たれたそれを止める手立てはなく、片倉殿ッ! との悲鳴に近い叫びが幸村の喉から迸った。
     だが、目の前で朱が散ることを覚悟していた幸村の目に飛び込んできたのは、予想に反した白い物であった。
     苦無が貫いたのは小十郎が咄嗟に引き上げたかい巻きであったと即座に理解し、安堵したのも束の間。一撃で仕留められるとは相手も思っていなかったか、すかさず室内へと走り込む女の手には、ぬらり、とした不穏な光を放つ苦無が握られている。
    「……ッ毒かッ!?」
     どれほどの威力があるかは知る由もないが、平時の彼であるならまだしも、体力の落ちている今の小十郎が喰らえば、唯では済まないことだけは幸村にもわかる。
     ならば取るべき道はこれしかないと、獲物を持たぬ幸村は身体ひとつで女と小十郎の間に割って入った。
     本気を出した忍の動きについて行けるとは思っていないが、幸村とてむざむざやられる気は毛頭無い。とにかくその刃が小十郎に届かぬよう、ただただそれだけを思っての行動であった。
     弱小国であったが故に真田家を護るため、兄の影武者になることもあろうと、幼い頃から様々なことを行ってきた。そのうちのひとつが傍付きにと佐助が宛がわれた時から、耐性を付けるべく毎日、少量ずつの毒を含まされることであった。
     それがここで役に立とうとは、とどこか誇らしげな幸村の表情は、その背に庇われた小十郎からは当然のことながら見ることは出来ない。
     一旦飛び退いた忍が苦無を構え直したかと思った刹那、その姿は藺草を擦る音と共に幸村の視界から消え失せた。
     あっ、と思ったときには既に眼前に敵が迫っており、知らず幸村は息を飲む。だが、避けられぬのならば肉を切らせて骨を断つと、瞬時に覚悟を決めた。
     刃が肉を抉ると同時にその腕を捕らえるのだ。いかな忍とはいえ二槍を自在に繰る幸村の豪腕から逃れることは出来ないであろう。
     近付き過ぎたのが運の尽きであると、並々ならぬ動体視力で捉えた苦無の軌跡を追いながら、幸村は不敵に笑んだ。
     だが、鋭い目を持っているのは幸村だけではなかった。
     不意に背後から伸ばされた腕に苦無は鈍い音と共に阻まれ、想定外のことに一瞬気を取られた幸村の身体は、固い添え木をされた腕によって胸を押され呆気なく引き倒された。
     声も出せず天を仰いだ幸村の真上を、間髪入れず一条の蒼白い雷が空気を焦がしつつ走り抜ける。パリパリ、と間近で弾ける音に、はっ、と我に返れば、そこには右手に構えた刀を真っ直ぐに突き出し、肩で荒い息をしている小十郎の姿があった。
    「片倉殿……なんという無茶を……」
     呆然と漏らした幸村の言葉を拾い上げたか、小十郎は、ぎろり、と若武者を睨め付ける。
    「……ッ無茶は、……っちだ」
     掠れてはいるが小十郎から放たれた言葉に、幸村は先とは違う意味で目を丸くする。
     声が、と言いかけた幸村を目だけで制し、小十郎は直ぐさま庭先まで吹き飛ばされた刺客に顔を向けた。再度、向かってくるかと思われたが、忍は予想に反し、くるり、と踵を返すや一足で塀を跳び越え、二人の視界から姿を消した。
     すぐに庭先へと飛んでいきそうな幸村の肩を小十郎が押さえたのと同時に、塀の向こうから何かが倒れる鈍い音が二人の耳に届く。身動ぎひとつせず緊張の面持ちで、こくり、と幸村が喉を上下させれば、それが合図であったかのように一陣の風が室内に舞い込んだ。
    「旦那ッ! 生きてるッ!?」
     なんとも笑えぬ冗談だ、と小十郎は渋面を作るも、それを口にした男の表情は常にない焦りを滲ませており、先の言葉は本心であったか、と違う意味で苦い顔付きになる。
    「片倉殿も俺もどうにか無事だ。佐助、おまえこそ怪我はないか」
     ほっ、と安堵の息を吐き部下を労う幸村は主の顔をしており、小十郎は先ほどの彼の行動を思い出したか、キリキリ、と柳眉を吊り上げた。
    「おい、真田」
     思いも寄らぬ固い声で名を呼ばれ、幸村は怪訝な顔で小十郎に向き直る。
    「なんでござるか?」
    「なんだじゃねぇ。てめぇ、さっきはなんであんな無茶しやがった」
     口調に反した低く静かな声音が小十郎の心境を雄弁に語っており、幸村は一瞬、言葉を失うも相手に飲まれることなく、しっか、と小十郎の目を真っ直ぐに捉え、臆することなく口を開いた。
    「あれが、あの場では最善と判断したが故に。されど、それを言うならば片倉殿の方が無茶をなさったではござらぬか」
     そう言うなり小十郎の左腕を取り、くるり、と掌を上へと向ければ、苦無で抉られたと思しき痕が二カ所、くっきり、と見て取れた。
    「有事の際を見越して厚みのある物を宛がっていたとはいえ、あのような至近距離では骨にまで響きましょうに。これを無茶と言わずして何と言いましょうや」
     投擲された一撃目は直接繰り出された物に比べれば軽く、更にかい巻きで勢いを殺すことが出来たが、二撃目はそうではない。
    「少しでも逸れていたらと思うと、某、生きた心地がしないでござる」
     毒の塗られた苦無を思い出したか、幸村は顔を曇らせ、ふるり、と頭を振った。
    「寝惚けたこと言ってんじゃねぇぞ。てめぇが身体を張って守る相手は俺じゃねぇだろうが」
    「某は政宗殿に誓ったでござるッ!」
     小十郎の言い草にさすがの幸村も、カチン、ときたか間髪入れずに声を張れば、間近の険しい顔が更に歪んだ。
    「それが寝惚けてるって言ってんだッ!」
     ばっ、と乱暴に幸村の手を払い、勢いのままに相手の襟を掴み上げ、ぐい、と引き寄せる。
    「てめぇには仕える主が居て、てめぇに仕える部下が居る。部下であると同時に主でもあるてめぇが、他人のためにほいほいと命を投げ出そうとするんじゃねぇ」
     ゴッ、と額を打ち合わせ低く唸るように言葉を押し出す小十郎のこめかみを、つ、と一筋、汗が伝い落ちる。
     触れた肌の熱さに瞠目する幸村には構わず、更に何事か言い募ろうとした小十郎だが、不意に瞼を伏せ、ぐにゃり、と幸村に凭れ掛かった。
    「片倉殿ッ!?」
     突然のことに慌てた声を上げた幸村だが、いつの間に小十郎の背後に回ったのか目の前に立つ佐助の姿に、彼が何かしたのだと漠然とではあったが悟ったのだった。
     傍らに転がる湯呑みから畳へと広がる薬湯を横目に、佐助は溜め息をひとつ漏らす。
    「何があったのか大凡の見当は付いてるけど、俺様の寿命縮めるようなことはしないでよね」
    「おまえまでそう言うのか……」
     小十郎を抱えたまま項垂れる幸村に、佐助は少々困ったように眉尻を下げる。
    「旦那はよくやったと思うよ。ただ、片倉の旦那とは生き方も考え方も違うからね。お互い曲げられないところがぶつかっただけだよ」
     それに、とどこか苦い声音で言葉を継いだ佐助を見上げ、幸村は僅かに首を傾げる。
    「今回は俺様の失態だ。言い訳のしようもないくらいのね。片倉の旦那が目を覚ましたら、罵声は全部俺様が受けるよ」
     二、三発喰らうのは覚悟しとかないと~、と戯けてみせた忍だが、不意に真顔になるや主と目線を合わせるべく片膝を着いた。
    「もしこれで旦那が死んでたら、片倉の旦那は間違いなく腹を切るね」
    「なんと……」
    「元を正せば己の失態が原因だからね。自分のせいで他国に借りを作るのを由としないだろうし、主の好敵手を自分のせいで死なせたとあっちゃ、もう腹を切る以外無いでしょ」
     そういう人なんだよ、と幸村の腕から小十郎を己の腕へと移し、ぽつり、呟いた佐助は苛立ちとも羨望ともつかぬ色を一瞬、瞳の奥に浮かべたのだった。


     無理矢理に闇へと落とされた小十郎が目を覚ます前に、佐助は事の次第を幸村に報告する。
     要約すれば屋敷へ踏み込んだ時点で最重要人物は既に始末されており、関わっていたと思しき家臣も数名、同様に口封じがなされていた。
     どこと通じていたかだけでも掴むべく家捜しをするも密書のひとつもなく、あまりの手際の良さに裏で糸を引く者に舌打ちをするしかなかった。
     ふと、こちらを囮として切り捨て、実働部隊は他にいるのではないかと気づき急ぎ取って返せば、真田屋敷へ残した部下は敵襲を受け屋敷から引き離されており、その間隙を突いて刺客はまんまと侵入し小十郎と幸村を襲ったのだった。
    「──結局、黒幕は不明のままか」
    「面目ない。俺様の判断が甘かったとしか言いようがない」
    「充分な人数が割けなかったのだ。致し方なかろう」
     真田忍隊は元から少数精鋭である。他国の諜報、信玄の身辺警護と優先すべき事は多々あり、今回、長である佐助が小十郎に着きっきりという状況は特例であったのだ。
    「それに、おまえは俺の気持ちを汲んでくれたのだろう?」
    「それで失敗してちゃ意味がないのよ」
     主からの慰めの言葉を忍が、やんわり、とはね除ければ、幸村は困ったように眉尻を下げてはいるが、その面には笑みが浮かんでいる。
    「片倉殿が無事であるのは結果論に過ぎぬが、それでも俺はおまえの気持ちが嬉しいのだ、佐助」
     不謹慎でござるな、と幸村は僅かに目を伏せ頭を一掻きした後、ふ……、と緩く息を吐くと真っ直ぐに佐助を見た。
    「おまえを惑わせた俺が悪いのだ。何事かあれば俺が全ての責任を取ろう」
    「そのときはよろしくね、旦那」
     その気は全くないにも関わらず佐助が調子の良い返事を投げれば、幸村は己の胸を叩き「大船に乗った気で居ろ」と本心から頷いて見せたのだった。
    「今回は謀反の芽を摘み取ることができただけでも由とせねばな」
     やや横道に逸れてしまった話を元へ戻し、その後の首尾は? と問われた佐助は分身を放ったことを告げる
    「独眼竜には報告の文を出したよ。早い方がいいと思ってね。事後報告で申し訳ない」
    「そうか、政宗殿の方も解決しておれば良いのだが」
     神妙な面持ちで庭へと目をやった幸村につられるように佐助もそちらへ顔を向け、随分と風通しの良くなったことだ、と豪快に吹き飛ばされ原形を留めていない障子に苦笑を滲ませつつ、修理のお鉢が回ってこないことを願うのだった。
     
     長いこと伏していたところに放った鳴神が祟ったか、小十郎は丸一日目を覚まさず、ようやっと重い瞼を持ち上げたときには枕元で「政宗殿に詫びてくるでござるぅぅぅぁぁぁあああッ!」と幸村が雄叫びを上げていた。
    「ちょっ旦那! 落ち着きなって!! なにも自分から竜の口に飛び込むこともないでしょ!?」
    「おまえが行ったところでどうにもならねぇんだから、おとなしくしてろ!」
    「えぇい、邪魔をするな佐助! 片倉殿もその手をお離し下され!!」
     前後の状況は分からぬまでも佐助の言葉で察しは付いたか、小十郎は面倒の種を増やされては堪らぬと、痛む身体に鞭打って幸村の袴を必死に掴む。
     幸村も相手が佐助だけならば取っ組み合いになってでも我を通すのだが、そこに小十郎が加わっては乱暴なことは出来ず、もどかしげに軽く身を捩るしかない。
     背後から上半身に組み付き取り押さえようとする佐助の頭を、ぐいぐい、と押し、「離せぇぇぇぇ……ッ!」と未だ抵抗を続ける幸村に気を取られていたか、障子が音もなく開いたことに気づかず、不意に掛けられた声に三人揃って、ぴたり、と動きを止めた。
    「その必要はないぜ、真田幸村」
     同時に恐る恐ると言った体で廊下を見やれば、そこには甲斐に居るはずのない男の姿があり、幸村は思わず自分に組み付いている佐助の頬を、ぎゅむり、と抓る。
    「いたっ! ちょっといきなりなにすんの!?」
    「すまぬ」
     現実でござる、と呆然と呟く幸村に佐助が「抓るなら自分のほっぺ抓らなきゃ意味無いでしょ」とぼやくも、幸村は忍の言葉など聞いていない。
    「政宗殿が何故ここに」
    「An? 決まってんだろ。こんな文寄越されてじっとしてられるか」
     懐から引っ張り出した文を、ぺいっ、と無造作に投げ、政宗は遠慮することなく大股に畳を踏むと、先程から一言も発していない右目を横目で一瞥しつつ、幸村の前へと立った。
    「なにか言うことはあるか? 真田」
     問いでありながら有無を言わせぬ冷淡な眼差しで見下ろしてくる政宗は、戦場で見せる顔とはまた異なっており、幸村はこれまで向けられたことのない冷たい刃のような鋭い気に、こくり、と喉を上下させる。
     この身に変えても小十郎を守り無事に返すと誓い、実際大事には至っていないが、その身を危険に晒した事実は言い訳のしようもない。膝を折り、潔く頭を垂れようとした幸村を制したのは、意外にも小十郎の低い声であった。
    「恐れながら申し上げまする」
    「俺は今、真田と話している」
     傍らの小十郎に目をやることなく淡々と言い切った政宗に怯むことなく、小十郎は「お聞き下され、政宗様」と言葉を続ける。
     凜と張った声に逆らい難い物を感じたか、政宗は、ゆうるり、と頭を巡らせ己の腹心を見下ろす。そのひとつ目が己にしかと向けられたところで、小十郎は唇を開いた。
    「真田は政宗様との約束を微塵も違えてはおりませぬ。今こうして政宗様と再び見えることが出来たのも、真田の尽力あってのこと。それでも納得できぬとあらば、小十郎は腹を切るよりほかにございません」
     正座は出来ぬまでも背筋を、ぴん、と伸ばし、ひた、と真っ直ぐに主を見据え一歩も引かぬ小十郎に、政宗は不満そうに鼻をひとつ鳴らすと、どかり、と乱暴にその場に腰を下ろした。
    「OK。小十郎。折角拾った命を無駄に捨てさせるわけにもいかねぇからな」
     言い出したら聞かぬ男だとこれまでの経験から嫌と言うほど理解しているため、政宗は不承不承折れることを選択する。
     一応、礼は言っておく、と幸村に向かってぶっきらぼうに言い放つも、政宗は佐助を睨め付けることは忘れない。それを、さらり、と受け流し、忍は幸村の肩を促すように軽く叩いた。
     気がかりではあるがその場に残ると言い張るほど、幸村も空気が読めない男ではない。音もなく立ち上がった佐助に続いて腰を上げ、二人に向かって一度頭を下げてから総取り替えとなった障子を静かに閉めたのだった。
     ひたひた、と音も立てずに後ろから着いてくる佐助を振り返ることなく、幸村はどこか間の向けた声で「意外でござった」と漏らした。なにが? と問い返す前に思い当たる節があったか、佐助は短く、あぁ、と相槌を打ち「右目の旦那なりに感謝してたってことなんじゃないの」と返してやる。
    「そうでござろうか」
    「そうじゃないの? でなきゃあの人が主に噛みつくとは到底思えないもの」
     己を曲げることは出来ないが、他者の信念を軽んじることも出来ぬ。基本的に礼を重んじる男はどこまでも平行線なそれに、顔には出さぬも落としどころをずっと考えていたのではないだろうか。
     武士ってのは面倒臭いね、と莫迦正直の見本のような主の背に言葉を投げれば、焦げ茶の頭は何事か考えるように左右に揺れた後、おまえも似たようなものでござろう? と珍しくも少々意地の悪い言葉を返してきたのだった。
     武田の二人の足音が遠離っていく間、室内の二人は一言も発することなく互いに目も合わせていなかったが、廊下を行く気配が希薄になったところで、先に動いたのは政宗であった。
    「役目、大儀であった」
    「勿体なきお言葉」
     頭を垂れる小十郎の首筋がいやに筋張っているように見え、政宗は眉間にしわを寄せる。傷が痛むのか動きもどこか緩慢で覇気が無く、これまで見たことのない右目の姿に、ぎり、と奥歯を鳴らす。
    「して、政宗様がわざわざ出向かれた理由をお聞きしてもよろしいか?」
     ゆるり、と元の位置へ頭を戻した小十郎の口から出た言葉に、政宗は思わず喉を詰まらせる。忍のもたらした文に居ても立ってもいられず、成実の制止を振り切って奥州を飛び出したのだ。隠したところで結局は白状させられるのならば、初めから素直に吐いた方が落ちる雷の威力は幾分か弱まると政宗は知っている。
    「自分の目で確かめねぇと心配だったんだよ」
     国主にあるまじき行為であると、小十郎から小言を食らうのは覚悟の上であった。それでも政宗は目を逸らさず、真っ直ぐに小十郎を見据えたまま口を開く。
    「左様で御座いますか」
     嘘や誤魔化しではないと伝わったか、右目は静かに応えると何を思ったか下半身を覆っていたかい巻きを脇へと寄せ、うまく動かぬ足を掴むと無理矢理に折り畳み、深々と平伏して見せた。
    「此度の失態、誠にお詫びのしようもなく」
    「おまえ、なに言ってやがる……」
     小十郎の行動に唖然となりながらも震えた声を押し出せば、頭を上げぬまま小十郎は言葉を続ける。
    「信玄公の元へ書状は届けられ、武田との同盟はなされました。しかし、小十郎が不甲斐ないばかりに政宗様のご不安を煽り、御自ら足をお運びいただく結果となりましたこと、言葉で償いきれるものでは御座いません」
     痛みからか本人の意思とは関係なく小刻みに震える肩とは裏腹に、発せられた声音は低く落ち着いている。一体彼が何を言っているのか政宗は懸命に考え、先の己の言葉を右目が取り違えたのだと気づく。
    「覚悟は出来ております」
     重ねられた言葉で確信する。全く、これっぽっちも、笑ってしまう程に、政宗の気持ちは小十郎に伝わってなどいなかったのだ。
     右目返上も切腹も厭わぬと、無駄に決意を固めたその姿に、ぐっ、と唇を引き結ぶ。
     主君が心配しているのは同盟のことであると、伊達の軍師は本気で思っているのだ。
    「Shit!」
     短くも鋭く吐き捨て、政宗は目の前の小十郎の髪を鷲掴むや、ぐい、と乱暴に引き上げた。ぐぅ、と低い呻きが小十郎の喉奥から漏れたが知ったことではない。
    「てめぇ、本気でそう思ってやがるのか?」
    「ま、さむねさま……?」
     なにが主を激昂させたのか、惑う小十郎の瞳がわからないと告げている。
     戦場では名前ひとつ呼んだだけでこちらの意を違えることなく酌み取るくせに、この察しの悪さはなんだ、と政宗は柳眉を吊り上げる。
    「あぁ、確かに同盟がポシャったらどうなるか、夜も眠れなくなる程に心配したぜ」
     息も掛からんばかりの距離で、ギラギラ、と猛る一つ目が小十郎を見据える。歪に吊り上がった唇から発せられる声は、地を這うように低い。
    「同盟国でもなんでもねぇ敵地に、独り残った莫迦がどうなるかを考えて、心配で心配で、メシも喉を通らなかった」
     ごつり、と額が突き合わされ、わかるか小十郎、と低い声音が問う。
    「おまえに任せて失敗なんてあり得ねぇ。おまえは俺の期待を……絶対裏切らない」
     わかるか、と再度問われ、小十郎の唇が僅かに震える。主にそこまで信頼を寄せられ、嬉しくないわけがない。
     だが、それでは政宗の憂いは一体なんであったのかとの疑問が生じる。
    「小十郎には、わかりかねます」
     隠すことなくそう告げれば政宗は小さく息を飲み、ぎゅぎゅっ、と眉間に深いしわを刻んだ。
    「本当に、わからねぇのか」
     どこか落胆を滲ませた声音と苦しげな表情に小十郎は胸を痛めるも、その場凌ぎに適当なことは言えぬと、目を伏せることで答えとする。
    「どうしておまえは……」
     一旦、口を噤み、じっ、と小十郎の目を覗き込んだまま、政宗の薄く開いた唇が小十郎のそれに柔く触れた。突然のことに目を見開いたまま固まっている小十郎にはお構いなしに、伸ばした舌先で下唇をなぞり、続けて食むように再び唇を擦り合わせた。
     濡れた音に我に返ったか、びくり、と跳ねた小十郎の肩に片眉を上げ、政宗は指一本分の隙間を互いの唇の間に作る。
    「おまえの身を案じてのことだと、思えないのかよ」
     そこまでされれば既に主の言いたいことなど理解しているはずだが、小十郎は頑なに認めようとはせず、瞠目したまま「お戯れを」と漏らした。
    「戯れや酔狂で馬飛ばしてくると思ってんのか? いい加減にしろよ小十郎」
     声音には苛立ちが見え隠れしているが、政宗は乱暴に掴んでいた小十郎の髪から手を離し、そのまま後頭部へと伸ばすと掌を宛がい、己の肩口へ引き寄せる。
     反対の手で小十郎の肩に触れ、確かめるように続けて背中を、そっ、と撫でさすれば、ごつごつ、と掌に感じる背骨の隆起は、政宗の知らないものだ。
    「随分と痩せちまいやがって」
     ちゃんと喰ってんのか、と軽い口調で聞いてくる政宗に、小十郎は、それなりには、と返す。
     忠義に厚いのも結構だが、度が過ぎていることをこの男は自覚しているのだろうか。何を置いても政宗のことを考え、政宗のためならばその身すら投げ打つ。熱烈な愛の告白としか思えぬことをしでかすくせに、主からの好意には欠片も気づいていない。いや、気づいていない以前に、頭から自分は対象外であると決めつけているのだ。
    「やっぱおまえにはハッキリ言ってやらねぇと、わかんねぇか」
     政宗からすれば以前から割と積極的に仕掛けていたつもりだが、いつぞやに真顔で「小十郎の反応はそんなにも愉快で御座いますか」と問われたことがあった。これにはさすがに閉口したが、小十郎は堅物を絵に描いたような男だ。主君と家臣の間に恋慕が生じるなど、論外も論外、思い至ることすらないに違いない。
     相手が過ぎた戯れとしか見ていないと理解してからは、悪ふざけを隠れ蓑に事ある毎に小十郎に触れてきた。それでもいいか、と半ば妥協し始めていたところに今回の件が起こり、政宗も自身の気持ちを再認識したのだった。
     墓まで持って行くなど性に合わぬ、と。
     手中の珠をむざむざ捨てる竜がどこにいるのだ、と。
    「家督を継いだとき、俺は家の一部になったと思っていた」
     訥々と語り始めた政宗を、小十郎は凪いだ眼差しで見やる。
    「そうなるのが当たり前だと、いや、そうなるしかないと諦めてた。だが、勘違いするなよ小十郎。俺は伊達の名を誇りに思っているし、その重さも理解しているつもりだ。けどな、その、Ah……」
     不意に、もご、と口籠もった後、家とか国とか関係無しに俺はおまえを大切に思っている、と細い声で告げる政宗に何を感じたか、小十郎は言葉もなく目を見開いた。
     互いの立場など関係なく、今は一人の人として思いを告げているのだと、気位が高く野暮なことを嫌う政宗が、察しの悪い小十郎のために胸の内を明かしてくれたのだ。
    「今すぐおまえの考え方を変えろとは言わねぇし、俺に対する態度も変えろとは言わねぇ。だがな、少しは俺自身の気持ちも酌んじゃくれねぇか」
    「──国主としては感心せぬ行動ですな」
    「だから、そうじゃなくて……」
     溜め息混じりに漏らされた小十郎の言葉に政宗は間髪入れず反論を試みるも、ゆるり、と背に回された腕に柔く力を込められ、その先が続かなかった。
    「小十郎に政宗様と同様の思いがあるかはわかりませぬ。ですが、政宗様を大切に思う気持ちは誰にも負けぬとの自負が御座います」
     政宗への思いを全て忠義で一纏めにしていた男に、気持ちの境目を問うのは今はまだ酷であろう。だが、一喝もせず一笑にも付さず、その意味するところを考え始めただけでも大進展であると、政宗の顔に笑みが浮かんだ。
    「そんなこと、わかりきってんだよ」
     何年見てきたと思ってる、と言ってやれば、「耳に痛いお言葉に御座います」と返され、政宗の笑みが更に深くなったのだった。


     まだまだ話したいことは山とあったが、そろそろ休ませてあげなよ、と薬湯片手に現れた忍に尤もなことを言われ、政宗は渋々ではあったが退室し、その後ろ姿を見送った佐助は溜め息と共に小十郎の枕元に腰を下ろした。
    「だから言ったでしょ。アンタが絡むと独眼竜がどう動くか読めないって」
     はいどーぞ、と差し出された湯呑みを受け取るも、小十郎は口を付けることはせず、じっ、と佐助を見据えている。
    「ん? あぁ、大丈夫。量は減らしてあるから、ぼんやりしてあらぬことを口にする心配はないよ」
    「そうじゃねぇ」
     冗談めかした物言いを固い声音でバッサリ斬り捨てた小十郎に、佐助は片眉を上げるや、あぁ、と低い呟きを漏らした。
    「痛み止め以外入ってないよ。もう必要ないからね」
    「そんなことだろうと思ってたが。改めて聞くと胸くそ悪いどころの話じゃねぇな」
    「歩けない、喋れない、利き腕は使えない。餌としては最高でしょ」
     悪びれた様子もない佐助を一睨みしてから、小十郎は手中の湯呑みに目を落とし、「あぁ、まったくだ」と低く吐いた。
     佐助の仕業と分かっていながらも素知らぬ顔で囮を続けていたのは、彼が己自身に課した罰であったのかもしれない。
     特別苦く作ってるにも関わらず、顔色一つ変えず薬湯を口に含む小十郎を感心の眼差しで見ていた佐助だが、ふと向けられた目に、なに? と首を傾げる。
    「いや、てめぇは政宗様のことをよく見てんだな、と思ってな」
    「まぁ、仕事柄ね。見てるのは竜の旦那のことだけじゃないよ。勿論、片倉の旦那のことも」
     にしし、とイヤらしく笑う佐助に眉間のしわを深め、俺のことはいいんだ、と苦々しく口にする小十郎に、「だから、ちょっと竜の旦那に同情しちゃうときがあんのよ」と、忍は軽くはあるが苦笑混じりに言い放った。
    「片倉の旦那は俺様以上に『物』だよね。いや、恐れ入るよ」
     常ならば即座に「てめぇと一緒にするな」と激昂する小十郎が口を閉ざしたままであることを怪訝に思いつつも、下手に藪を突いて蛇を出すこともあるまいと、佐助は相手の出方を窺うに留める。
     そのような佐助の心中を知る由もなく、小十郎は考えを巡らせる。
     この忍ならば表面上の事柄だけではなく、内面のその更に深いところまで見えるのだろう。感情を持たぬと言われがちな忍だが、この男にはそれが当てはまらぬ。他者の心理を読むには感情をも一要素として計算に入れた上で、それに近い物を導き出す。忍を物として扱わない主の元にいる佐助だからこそ、感情という物を理解できるに違いない。
    「そうだな。確かに政宗様のためなら俺自身の『個』は二の次だ。だが、それでも必要としてくださるなら、応えるまでだ。それはてめぇもだろう?」
    「まぁ、そうなりますかねぇ」
     ゆるり、と眦を下げた小十郎に同意し、佐助も緩い笑みを浮かべれば、「いい主君を持ったな」と静かに続けられ、「お互いにね」とこちらも静かに応じたのだった。


     政宗にはさすがにこのままお帰り願うわけにも行かず、心づくしの夕餉の席で幸村はずっと気になっていたことを政宗に問うた。
     忍ならいざ知らず、一日で到着されたそのカラクリが知りたい、と。
     だが、返されたのは不敵な笑みで、くい、と吊り上がった唇が告げたのは「俺の愛馬は伊達じゃねぇってことだ。You see?」であった。
     たん、と開け放った障子の先に広がる光景に、佐助は半眼のまま「なにしてんの」と隻眼の男に問うた。
    「利口じゃねぇ策を取った軍師に罰をくれてやってんだよ」
    「はぁ、さいですか」
     どう見てもそうとは思えぬのだが、ここで深く突っ込んだところでどうにもならぬだろうと佐助は早々に結論を下し、盆を手に音もなく畳を踏んだ。
    「よく寝てること」
     政宗の胸を枕に寝息を立てている小十郎を覗き込めば、彼を背後から抱えている政宗から、むっ、とした気配が伝わってくる。
    「大した変化じゃないの。こりゃ、一世一代の大告白が効いたねぇ、竜の旦那」
    「てめぇ、盗み聞きとはいい趣味だな」
    「怒らない怒らない。これが俺様のお仕事なんだから仕方ないでしょ」
     お客人の警護もお仕事の一環よ? と目を細める佐助に、ふん、と鼻を鳴らすも、政宗は、ことり、と眠りに落ちた右目の髪を柔く撫で眦を下げる。
     主には気づかれていないと思っていたようだが、政宗はこの男が自分の前では決して眠りに落ちぬ事を知っていた。知っていたからこそ、髪を撫で唇を落とし、思いの丈を赤裸々にぶつけていたのだ。
     それが全く功を奏していなかったことに正直落胆もしたが、決して主の前では眠らなかった男が、こうして腕の中で寝息を立てている事実に身を震わせる。
     やっと伊達の軍師ではない小十郎個人の顔を見せてくれたと、そう思ったのだ。
     だが、佐助の見立ては政宗のそれとは少々異なっている。
     長いことこの右目は独りきりで、かつての敵地に居たのだ。幸いにも幸村のことは憎からず思っているようだが、全てを委ねるほどに信用しているわけではない。薬で眠らせ無理矢理に身体を休ませる事は出来ても、尖りきった神経はさすがの忍も処置無しであった。
     そこに慣れ親しんだ者が来たのだ。本人の意志とは裏腹に、あっさり、と気が緩んだのだろう。
     先ほど茶化した竜の告白も後押しとなったことは否めないが、それを素直に言ってやるほど佐助はお人好しではない。
    「それでですねー、邪魔が入らないところで愛を育むのも結構ですけどー、そろそろ帰ってくれませんかねぇ」
     佐助の存在をない物として小十郎を愛でる政宗に、うんざり、と言った顔を向け、忍は遠慮のない一言をぶつけてくる。政宗が特攻を仕掛けてきてから既に一週間が経っており、成実からも矢のような催促が来ているのだ。
     来た翌日は小十郎からも早く戻るよう説得がなされていたのだが、「おまえが心配だし、もう少しだけ傍に居たい」との政宗の言葉に、強く出られなくなってしまったようだ。しかも、その時の政宗の表情が寄る辺ない子供のような不安定さで、彼の幼少期を知る小十郎が勝てるわけがないのであった。
     竜の旦那ったら超卑怯、と佐助は思ったのだが、それはどうやら素であったようで、違う意味で戦慄を覚えたものだ。
     裏もなく直球で甘えられたら、小十郎に「断る」という選択肢が出てくるわけがないのだ。たとえ政宗本人に自覚は無くとも、だ。
    「でも真面目な話、あんまりひとりに入れあげてると、いらぬ噂を呼んで面倒なことになるよ。隙を見せるようになった片倉の旦那が、また堅物に逆戻りしちゃったらイヤでしょ?」
     脅しでも何でもなく可能性を示唆してやれば、聡い竜は低く唸りつつもその目は真剣な光を宿し、素早く何事かの結論を出したようだ。
    「連れては、帰れないんだな」
     改めて確認してくる政宗に、佐助は首を縦に振る。
    「何度も説明した通り、腱を切ってるからね。旦那が歩けなくなってもいいって言うなら、俺様は止めないけど?」
     淡々と告げられる言葉を噛み締め、政宗は「そうか」と小さく漏らす。
    「ダメでした、じゃ済まねぇぞ」
    「忍の誇りに賭けて任務は遂行しますよっと。真田の旦那の顔に泥塗るわけにもいかないからね」
     竜に負けじとも劣らぬ真剣な光を瞳にたたえ、忍は人を食った笑みを浮かべた。
     遠くに鳶の声を聞きながら小十郎は閉ざしていた瞼を、ゆうるり、と持ち上げた。寝ころんで行儀悪く書簡を眺めていた主が、初夏の麗らかな陽気に誘われたかそれを胸に伏せ、夢の国へと旅立ってから二刻は経っている。
     それも正座をした小十郎の左腿を枕にして、だ。
     常ならば苦言を呈するところであるが、ここ数日は真面目に政務に励み、積まれていた書簡も山脈から平地へとなったこともあり、多少の息抜きは必要であろうと共に遠駆けをして、先程戻ったところなのだ。
     戻ってすぐに湯浴みをした心地よさも相まって、眠り込んでしまった主を叩き起こすほど小十郎も鬼ではない。
     規則正しい呼吸を繰り返す政宗に一旦、目を落としてから、すぅ、と小さく息を吸う。
    「いつまでそうしてるつもりだ」
     開け放たれた障子の向こうに広がる中庭には、これといった変化はない。だが、小十郎は右手側に置かれた刀を引き寄せ、ちきり、と鯉口を切った。
    「あれ? 気づいてたの?」
     ひょこり、と室内を覗き込むように屋根の上から逆さまに顔を見せた佐助に、小十郎は隠すことなく眉間にしわを寄せる。
    「気付けと言わんばかりに半端に気配漏らしておきながら、なに言ってやがる」
    「いや、だって問答無用で斬られるのヤダし~。なのに俺様だってわかってんのに、わざわざ鯉口切るのやめてよね、もー」
     心臓に悪いじゃない、と逆さまのままわざとらしく己の肩を抱いて震え上がる佐助は、口調こそ戯けているがその瞳は射るように小十郎の膝上に固定されている。
    「へぇ、竜の旦那は爆睡か。珍しいね」
     とっ、と音も立てず廊下に降り立った佐助は片手を腰に当て、僅かに首を傾げた恰好で政宗の様子を探るように目を細めた。
    「武田の忍は礼儀がなってねぇな。あっち向け」
     佐助の視線を遮るように、小十郎の大きな掌が政宗の顔を覆う。人払いをしていたこともあり政宗の顔にはいつもの眼帯はなく、僅かに髪に隠れているとはいえ右目の傷が露わになっている状態だ。
     仮にその面に眼帯があったとしても、他所者に一国の主の寝顔を拝ませてやる義理はない。
    「おっと、こいつは失礼」
     言われるがままに、くるり、と背を向けた佐助から視線を外すことなく、小十郎は慎重に口を開く。
    「それで用件はなんだ」
    「あ、あー、急な話で悪いんだけどさぁ、ウチの旦那がこっち向かってんのよ」
    「なに?」
     どういうことかと声音に乗せれば、佐助は困ったように肩を竦め、ガシガシ、と後ろ頭を掻いた。
    「最近はおとなしかったから油断してた俺様も悪いんだけど、ちょっくら野暮用で甲斐を出てる間に『政宗殿と手合わせしてくるでござるぅぅぅぅぅ』って、いきなり言い出して飛び出したって話よ」
    「信玄公はお止めしなかったのか」
     額を押さえ深々と息を吐く小十郎の姿は見えていないにも関わらず、佐助は僅かな衣擦れの音だけで相手の動作を把握したらしい。
    「頭痛いのは俺様も同じよ。あの熱血主従にナニを期待してんの、右目の旦那」
    「……続けてくれ」
    「で、今は一応、同盟結んでるけど、単騎で突入してきたらそちらさんも何事かと思うじゃない? だからそうなる前に俺様が知らせに来たってワケ。おわかり?」
     忍務を終え甲斐に戻ったと思ったら休む間もなく奥州まで来る羽目になり、さすがの佐助も少々お疲れ気味のようだ。普段から間延びした喋り方をする男だが、今日は更に締まりがない。
    「早ければ夕刻には来るんじゃないかなぁ。あーもー本当に手のかかる旦那で、俺様よく耐えてると思わない?」
     くるり、と振り返り様に問うてくる佐助に「こっち向くんじゃねぇ」と小十郎はにべもない。
    「うっわ、冷たいの」
     それでもおとなしく再び背を向けた佐助にしばし黙考した後、小十郎は右手で己の顎を一撫でしつつ口を開いた。
    「三日経ったら帰れよ」
    「は?」
     なにを言われたか即座に理解できなかったか、間の抜けた声を上げた佐助に小十郎は眉間にしわを深く刻んだまま言葉を継ぐ。
    「運が良かったなぁ、猿飛。政宗様が真面目に政務に取り組んでおられなければ、即お引き取り願うところだった」
    「あーそういうことね。こりゃ旦那の野生のカンも莫迦に出来ないねぇ」
    「その間は客分としての待遇は約束してやるが、三日経ったら責任持って連れて帰れ」
    「了解了解っと。恩に着るよ。じゃ、俺様、旦那を迎えに行くわ」
     ひらり、と掌を翻して見せた佐助だが、なにか思い出したか「あ」と小さく声を上げ、その足を止めた。
    「そうだ。旦那が着いたらなにか甘い物ご馳走してあげてよ。竜の旦那お手製のずんだ餅だったりすると大喜びだと思うんだよねぇ」
     よろしくねぇ~、と緩い声を残し、小十郎の応えを聞く前に佐助の姿は瞬く間に消え失せた。
    「勝手なこと言いやがって」
     口ではそう言いつつも瞬時に小十郎の脳裏を過ぎったのは、収穫を今や遅しと待ち受ける畑の枝豆であった。
     幸村が来るまでにやることは山とある。ひとつ息を吐き、小十郎は未だ覆ったままであった政宗の顔前からようやっと掌をどけた。
    「そういうことですので政宗様。いつまでも狸寝入りをなされていては困ります」
    「Ah……固ぇこと言うなよ。もう少しくらいいいだろ」
     離れていった掌を追い、手を伸ばした政宗は目的のそれを掴むと、先と同様に顔の前に翳す。
     触れるか触れないか、ギリギリの位置でありながらも仄かに互いの体温が伝わり、政宗だけではなく小十郎の口許も僅かに弛む。
    「いつまでもそのような姿勢では首を痛めますぞ」
     だが小十郎は主の頭と己の膝の間に右手を差し込み、少々強引ではあるが政宗の上体を起こしてしまう。不満たっぷりな舌打ちが政宗の口から漏れ出たが、忠臣は聞こえなかったものとしたのだった。
    「久方振りにてめぇの甘い顔を見られたと思ったらこれかよ」
     ぐー、と伸びをしつつ当てつけがましく不満を言葉にした政宗に、小十郎は立ち上がり掛けた中途半端な体勢で動きを止める。
     小十郎が奥州へと戻ったのは桜も散りきった頃で、秋までに帰せたら御の字だと思っていた佐助に言わせれば、驚異的な回復力であるらしい。それでも長らく離れていた小十郎からしてみれば、不在時の情勢や領内の様子など、目にしておくこと、耳にしておくことは山のようにあり、時間などいくらあっても足りぬといった状態で、忙しない日々を送っていた。
     思い返せば確かに、政宗とふたりでゆっくり語らう時間は無きに等しかった。
     あの日、政宗の胸の裡を明かされた日から、小十郎なりに考えていた。己自身が主君を好いていることに間違いはない。だが、それが敬愛や忠節とは違うのだと、どこで線引きすべきかが見えないのだ。
     政宗が求め、望む答えを出すことが出来ないまま奥州に戻れば、出迎えてくれた主はまるでそのようなことなど無かったかのように、これまでと全く変わらぬ様子で正直、拍子抜けしたことを覚えている。
     意識していたのは自分だけであったか、と大仰に構えていたことが妙に恥ずかしく、敢えて蒸し返すことも無かろうとそのまま何事もなく月日は流れ、今に至る。
     すとん、と元の位置へと腰を下ろした小十郎に気づいた政宗が怪訝な顔で振り返れば、そこにはいやに難しい顔をしている右目の姿があり、足でも痺れたか? と冗談交じりに問えば、いえ、とやはり難しい顔のままで返された。
     元から口数の多い男ではないが、こうも煮え切らない態度は珍しい。興味と心配とが入り交じった一つ眼で、じ、と見据えれば、それを催促と捉えたか小十郎は襟を正すや、「政宗様」と僅かに固い声音で主の名を呼んだ。
    「小十郎は政宗様の右目を返上せねばならぬようです」
    「はぁッ!?」
     突然の返上宣言に政宗が素っ頓狂な声を上げるも、小十郎は真面目な態度を微塵も崩さず深々と頭を垂れた。
    「政宗様のありのままの心中をお聞きしておりながら、小十郎は未だ己の心が見えませぬ。己自身のことも分からぬ未熟者が、政宗様の右目を名乗るなどおこがましいにも程があり……」
    「Stop !」
    「は、いやしかし……」
    「しかしもかかしもねぇ! ちょっと落ち着け小十郎。話が見えねぇ」
     平伏したままではあるがどうにか無駄に回る口を閉じさせることに成功し、政宗は甲で額の汗を拭う。何故このような話の流れになったのか訳がわからないまでも、目の前の男がなにやら小難しく考えていることだけはわかった。
    「Ah……そのつまり、おまえはなにがわからねぇんだ?」
    「政宗様に対する小十郎の気持ちに御座います。好いているのは確かなれど、果たしてそれが政宗様の望まれているものと同種のものか、未だに全くもって判断が付きませぬ」
     淀みなくすらすらと答えるこれのどこがわかっていないのか、政宗は理解に苦しむのだが、当の本人は大真面目に悩んでいるのだから「莫迦か」の一言で済ませるわけにもいかない。
    「政宗様がお望みとあらば、抱擁も接吻も、これはないと思いますが尻を差し出すことも吝かではありませぬ。ですが、生憎と小十郎は色小姓では御座いませんでしたので、そちらの方は不慣れ故、不作法はお許し頂きたく……」
    「おまえのそういうあけすけな物言いは嫌いじゃねぇが、今は控えろ」
    「申し訳御座いません」
     顔を上げぬまま言葉を並べ立てる小十郎に幾分、げんなり、した顔を向けた政宗だが、ふと、見下ろした先にあったものに、おや? と片眉を上げる。小十郎は政宗とは違い、きちり、と髪を撫でつけているため、耳が隠れることはない。遮る物のないそれが妙に血色の良いことに気づき、にたり、と口角を吊り上げる。
    「Hey、顔上げな」
    「は……」
     短く応えたはいいが小十郎はなかなか動かず、やはりらしくない。照れているわけではなく、珍しくも動転していらぬことを口走ったと今更ながらに気づき、軽挙に恥じ入っているようだ。ようやっと、そろり、と上体を起こし始めた小十郎の隙を突き、政宗は相手の両頬を掌で挟むと、ぐい、と強引に顔を覗き込んだ。
    「ま、さむね、さま……?」
    「おまえ、いろいろすっ飛ばしてすげぇこと言ってる自覚あんのか?」
     主の言葉に首を傾げつつ、こうまで近くで政宗の顔を見るのはあの日以来であると、小十郎は頭の片隅で冷静に考える。
    「俺はな、小十郎。おまえにこうやって触れられるだけで、嬉しい。それ以上を考えたことも、まぁ、あるし、否定はしねぇがな」
     ちゅ、と軽い音を立て唇に吸い付いてくる政宗の目は、閉じているようでいて実は細く開いており、しっかりと目を開けたままの小十郎はそれに気づいている。
     互いに様子を窺いながら政宗は頬を包んでいた左手を首筋へと滑らせ、もう片方は頬の疵を親指の腹でなぞりながら、唇は眦へと移動する。反射的に目を閉じてしまった小十郎は再び瞼を上げることが出来ず、睫毛を柔く唇に挟まれる感触に、ふるり、と背を震わせる。
     瞼や鼻先、額や頬を啄むように軽く落とされていく政宗の唇はくすぐったく、だが、どこか欲を刺激するかのように熱く感じられた。
    「イヤなら言えよ」
    「──ッのようなことは、決して……」
     耳元で漏らされたやや掠れた声に、はっ、と目を見開く。いつの間にか政宗の熱を追うことに夢中になっていたことに気づき、小十郎の目元には一瞬にして朱が散った。
    「なら、いいじゃねぇか。おまえは頭がいいだけに無駄なことを考えすぎだ。感じたまま素直になってみるのも、たまにはいいんじゃねぇの?」
     なぁ、とどこか笑いを抑えているような弾んだ声を耳朶に吹き込み、小十郎の眦に唇を寄せる。知らず滲んでいた涙を、ちゅっ、と吸われ、堅物の右目の体温が、更に、かぁっ、と上がった。
     どこか幼子をあやすかのような政宗の行動に、小十郎は困ったように眉尻を下げる。もうそのような扱いを受けるような歳ではなく、どうしたものかと気恥ずかしさが先に立つ。
     相手が十も下の主君というのも要因のひとつだ。幼い頃の姿を知っているだけに、記憶と現状のちぐはぐさに戸惑い、知らず視線を彷徨わせてしまう。
    「また、無駄に考えてやがるな」
     耳殻を指でなぞりながら、政宗の唇が柔く小十郎の喉仏を食んだ。反射的に、ひくり、と上下したそれを捕らえたまま舌先でくすぐってやれば、隠しようもなく身体全体がひくついた。
     いくら主君が相手とは言え、人体の急所に触れられれば本能的に身が竦む。それに気づいていながらも政宗は素知らぬふりで喉仏をしゃぶったまま、つい、と喉元から胸、腹と身体の中心を指先で伝い降り、一切の躊躇もなく小十郎の股座に掌を押し当てた。
    「な……ッ!?」
     突然のことに思わず声を上げた小十郎が堪らず政宗の肩を掴み、ぐい、と引き剥がせば、当の政宗は気分を害した様子もなく、むしろ愉快そうに口角を吊り上げている。
    「Sorry、いきなりで驚いたか」
    「本当に悪いと思っておられるのか疑わしい限りですぞ、政宗様」
     上気した肌はそのままに、はー、と深い溜め息をこれ見よがしに吐いてみせる右目に、政宗は「こんなときでも口が減らねぇ」と胸中でぼやく。それでもすぐに政宗の面には機嫌の良さが滲み、小十郎は怪訝に片眉を上げた。
     嫌悪から引き剥がしたわけではないとはいえ、政宗の手を拒絶してしまったことには変わりない。にも関わらず政宗は今にも口笛を吹きそうな程に上機嫌だ。
     訳がわからない、と小十郎が顔に出せば、政宗は笑みで目を細めたまま、とん、と自分の唇を指先で軽く叩いて見せた。
    「Kissはお気に召したか、小十郎」
     は? と意識せず間の抜けた声を漏らした小十郎の目が、すい、と動いた政宗の指先を反射的に追う。
    「それとも、ここが良かったのか?」
     次いで、とん、と指し示されたのは喉元の突起で、そこでようやっと政宗の言いたいことに気づいた小十郎は、落ち着きかけていた血流が再び激しく巡りだし、かぁぁっ、と瞬時に頬を染め上げた。
    「う、あ、それは……その……」
    「少しだが、固くなってたもんなぁ」
     悪戯が成功した童のような、と言うには無邪気さに欠けるが、してやったりと口角を吊り上げる政宗は、小十郎の反応が相当お気に召したようだ。
     自分の身体でありながらままならないことにもどかしさを覚え、小十郎は熱を帯びた顔を隠すように右掌を額に押し当て僅かに俯く。
    「おまえでも恥ずかしいと思うことあるんだな」
    「小十郎とて人並みの感情は御座います」
     失礼な主の物言いにも生真面目に返してくる右目に、政宗は軽く詫びの言葉を返し、再び小十郎に手を伸ばした。
    「不感症なんじゃないかって心配してた」
     再度の失礼な発言に小十郎がなにか言いたげな目を向けてきたが、主はそれを軽くかわし、薄く開いた相手の唇を舌先でこじ開けるように触れるや、そのまま身を乗り出すように唇を合わせてくる。
     二の腕を掴む手に力が籠もり、ぐっ、と体重を掛けられた小十郎の身体が後方へ傾ぐ。咄嗟に持ちこたえるべく腹に力を入れようとしたその時、ぬるり、と上顎を舐められ、鼻から抜けた信じがたい甘ったるい声と共に小十郎の背が畳に着いた。
     三秒ほど固まってから、ありえねぇ! と小十郎は声にならない声で叫ぶも不明瞭な呻きにしかならず、それは咥内を好き勝手にまさぐる政宗に届くべくもなく。
     舌の側面をなぞられ、ひくり、と肩が跳ねる。
     翻弄されながらも、十も年嵩の男の一体なにが良いのか、と意識の一部はやけに冷静で、ようやっと口を離した政宗が小十郎の口端から垂れた唾液を親指で拭う間、端正な主の顔を、ぼんやり、と見上げる。
    「なんだ? 物足りないってツラしてんぞ」
     くつり、と喉を鳴らす政宗に、ご冗談を、と返してやりたかったが、それは叶わなかった。止める間もなく袷を左右に、ぐっ、と広げられ胸元が露わになる。
     触れてきた掌はかさついているかと思いきや、しっとり、と汗ばんでおり、涼しい顔をしていながら政宗自身も興奮し、やや緊張していると知れた。
     おなごのように柔らかくもない胸に触れたところで楽しくもないであろうに、と苦笑を浮かべかけた小十郎に気づいたか、政宗は掌全体で揉むように手を這わせる。
     一度落ちた筋肉は元通りとはいかぬが、それでも鍛錬の甲斐あってか張りのある適度な弾力で応える。
     そっ、と頭を下ろし、政宗は片頬を胸に押し当てる。幼い頃は自分の薄い胸と小十郎の鍛えられた胸を交互に触り、「俺も小十郎のように強くなりたい」と言えば、「政宗様ならば小十郎などすぐに追い抜いてしまわれますよ」と穏やかに、だが真剣な眼差しで返されたものだ。
     昔から小十郎は政宗の言葉を蔑ろにはせず、すべて真面目に考え答えてくれた。思慕が劣情を伴ったそれに変じたのがいつか定かではないが、昔からこの逞しい胸から響く力強い鼓動を聞くのはとても心地好かった。
    「お楽しみのところ悪いんだけどさぁ」
     不意に掛けられた声に小十郎が、はっ、と首だけを起こせば、一体いつからそうしていたのか先ほど姿を消したはずの忍が、障子に軽く寄りかかって室内のふたりを見下ろしているではないか。
    「今度は覗きか。まったくイイ趣味だな」
     邪魔すんな、と小十郎に覆い被さったまま肩越しに振り返り言い放った政宗だが、眉尻を下げた佐助の表情に、An? と怪訝な顔になる。
    「ごめんね、もう来ちゃった」
    「なに?」
     政宗が問い返したのが早いか、遠くから忙しない足音が響いてきたのが早いか定かではないが、佐助が口を開くよりも早く、ひょこり、と茶色の頭が顔を出した。
    「お久しゅうござる、政宗殿! 片倉殿!!」
     さすがに走り込んでくることはなかったが、それでも佐助が制止の声を上げる間もなかった。傍らには、あちゃー、と片手で顔を覆う忍と、室内には右目に馬乗りになっている独眼竜。どういった状況であるのか理解するのは、困難極まりないと言わざるを得ない。
     例に漏れず幸村は目を真ん丸にしてふたりを凝視している。
    「あ、あー、旦那。これは……」
    「よくないでござる」
     佐助がどうにか当たり障りのない説明を入れようとした矢先、幸村の口から、ぼそり、と言葉が漏れ出た。
    「いくら主とはいえ暴力はよくないでござる、政宗殿」
     大真面目にそう言うや大股に室内へ踏み込み、呆気に取られている政宗の背後に立つや脇の下に腕を差し入れ、ひょい、と事も無げに持ち上げたかと思えば、そのまま脇へと下ろした。
    「大事ないでござるか?」
     突然のことに、ぽかん、となっている政宗をよそに、横になったまま固まっている小十郎に手を差し出す幸村は至って普通の顔をしており、下手に弁解しない方が得策であると判断した小十郎は、すまねぇな、と軽く声を掛けてからその手を取った。
    「その後、不便はござらぬか?」
     上体を起こした小十郎の前で幸村は膝を着き、投げ出されたままの足に掌を添わせる。袴の上からとはいえ不躾に触れるなど、即座に拳が飛んできても文句は言えないのだが、短い期間とはいえ共に過ごし世話になったからか、小十郎は表情ひとつ変えることなく小さく頷いて見せた。
    「おかげさまでな、すっかり元通りだ。本当に世話になった」
    「某はなにもしておりませぬ。片倉殿の不屈の信念があればこそ。佐助の不味い薬にも文句一つ言わず、感心しきりでござった」
    「ちょっと旦那。さりげなく酷いこと言ってくれるじゃないの」
     文のやり取りや佐助の報告で大体の様子は知っていたが、やはり己の目で確認したかったのだろう。大丈夫だ、と微かに表情を和らげた小十郎に幸村は、ぱぁ、と顔を綻ばせる。
    「それにしても随分と早かったな。まさかこんなに早く来るとは思っていなかったから、なにも用意できてねぇんだ」
    「なんと、これは失礼致した。手合わせのことを考えておりましたら、いつの間にか城のすぐ近くまで来ていたでござる」
     申し訳ござらん、と頭を下げる幸村に、ふっ、と軽く笑み、小十郎は立ち上がり様にその肩を、ぽん、と叩いた。
    「元気が有り余ってるなら、ちょっと手伝ってくれ」
    「某でお役に立つのならば喜んでお供しましょうぞ!」
     なにをするとも聞く前に二つ返事で勢いよく立ち上がった幸村を伴い、畑へ行って参ります、と政宗に断りを入れ、小十郎は振り返ることなく部屋を出て行った。残された忍は気まずそうに視線を彷徨わせた後、「いろいろとごめんね、竜の旦那」と顔の前で手を一つ合わせてから、どろん、と姿を消したのだった。
     誰も居なくなった室内で政宗はひとり肩を震わせる。
    「あ、あんな簡単に触らせやがって……」
     生娘ではないのだから男が足を触られたくらいで騒ぎ立てる方がおかしいのだが、小十郎に触れるのは特別なことなのだと言った本人の目の前でこれである。右目のあまりの無頓着ぶりに、がっくり、と項垂れるしかない。
     嘘でもいいから少しは意識しろよ! と吼えたいのを、ぐっ、と堪え、政宗は不貞寝すべくその場に倒れ込んだ。
     畑から戻ってきた小十郎に小言を喰らうのは目に見えているが、そんなの知ったこっちゃねぇ、と竜の機嫌は斜めを通り越して垂直だ。
     畳に片頬を押し付け目を閉じれば、思い出されるのは響く右目の鼓動と、ひたり、と吸い付くような滑らかな肌の感触。
     女のような繊細さはないが小十郎の身体はどこもかしこも手に馴染み、いつまでも触れていたいと思わせるほどに政宗を魅了する。
     面と向かってそう言ってやれば、あの堅物はきつく眉根を寄せた険しい顔で「酔狂にも程が御座います」と言うに違いない。
     そう言いながらも、伸ばされた手をあの男は拒まないのだ。先のように。
    「いいように解釈しちまうぞ」
     喉奥で低く呻き、政宗は手招く睡魔にそのまま身を委ねた。


     ──仕方のないお人だ、との声に眠りの淵にしがみつく瞼を無理矢理にこじ開け、どうにか隙間を作れば室内はすっかり朱く染まっており、遠くで鴉の鳴く声がする。ずいぶんと寝入ってしまった、と政宗がしっかりと瞼を上げるよりも早く、傍らに膝を着いた小十郎が夕陽に照らされた主の頬を、そろり、と撫ぜた。
     いつもならば子供扱いとも取れるそれが、今日は何故だかそうは感じない。
     二度、三度と掌で包むように触れた後、なにも言わずに小十郎は立ち上がると、すっかりと忘れ去られていた書簡を拾い上げ、そのまま退室したのだった。


     小十郎の畑から穫ってきた新鮮な食材を国主自ら調理し、振る舞われた夕餉に幸村は頬を紅潮させ「おいしゅうござる政宗殿ぉぉ!」と憚ることなく感嘆の声を上げ、その都度、堅苦しいのはナシだ、と同席を許された忍に脇腹を突かれていたが、政宗は寄越される賛辞の言葉に満更ではないようであった。
     膳が綺麗に片付く頃合いを見計らって酒を運んできた小十郎が退室する際、忍も共に席を辞し、室内には政宗と幸村のみが残された。
     従者の気遣いがどこかこそばゆく政宗が盃を揺らせば、向かいに座る幸村もどこか落ち着き無く視線を障子の外へと向ける。
     刀と槍を交えての語らいはお手の物であるが、改めて膝を突き合わせてとなると、どうにも調子が狂う、と政宗は内心でひとつ舌を打つ。それに気づいたわけではないであろうが、幸村の口から零れ落ちた「月が綺麗でござるな」との呟きは、会話の取っ掛かりとしては上等といえた。
     中庭を薄く照らす月を見上げれば、そこにあったのは筆ではいたような弦月。
     政宗殿の前立てと同じでござる、と緩く笑む幸村に、そうだな、と返せば、酒を一口含んだ幸村は何を思い出したか、更に笑みを深めた。
    「なんだ?」
    「いやなに、片倉殿が愛しそうに月を見ていたことを思い出しただけでござる」
     色恋には大層疎く、初心で何かにつけては「破廉恥でござる!」と喚く男が平然と口にしたと言うことは、小十郎には邪な雰囲気の欠片もなかったと言うことだ。喜ぶべきか落胆すべきか非常に微妙な話ではある。
     空になった盃に手酌で酒を注ごうとする幸村を制し、政宗が手を伸ばす。
    「手酌は出世できなくなるぜ」
    「なんと。それは一大事」
     背筋を、ぴん、と伸ばし酌を受ける幸村を上目に、ちろり、と見やりつつ、政宗は「それで?」と話の先を促す。
    「それ以上は特になにも。なれど、政宗殿が寄越した文を枕の下に忍ばせて、何度も何度も読み返しておられたことは知っておりまする」
     なかなかにいじらしい面をお持ちで某、正直驚き申した、と他の者が言えば揶揄としか思えぬ言葉も、この男が口にするとそうは聞こえぬのだな、と政宗は別のことに感心し、次いで小十郎がどのような顔で文に繰り返し目を通していたのかと想像するも、どれもしっくりこず、考えることをあっさりと放棄したのだった。
     それでも気分が上向きになったのは隠しきれず、くつり、と喉奥で低く笑えば、幸村が不思議そうに小首を傾げる。それに対して大仰に手を振り空の盃を差し出せば、心得たとばかりに酒がなみなみと注がれた。
    「他は? 甲斐での小十郎の話、もっと聞かせろよ」
     いい酒の肴だ、と静かに瞼を伏せ、政宗は盃に唇を寄せたのだった。
     武田のふたりはキッチリ三日で甲斐へと戻り、その間に緩やかに溜まり始めた書簡に目を通すことに政宗が飽きを覚えた頃、別室で処理の終わった物を棚へと片付けていた小十郎が、ごほ、と小さく咳をした。
     一度収めた物は滅多に動かさぬ部屋故、少々埃っぽく、それで噎せたか、と共に片付けをしていた成実は一度は聞き流したのだが、二度三度と続けばさすがにおかしいと作業の手を止めた。
    「風邪か?」
    「ん、あぁ、大したことはないと思うんだが……」
     そう言った矢先に、ひゅっ、と喉から妙な音が漏れ、ごほごほ、と続いた。
    「ぜんっぜん、大丈夫じゃねぇな」
     まったく、と小さく吐きながら小十郎の手から紙の束を取り上げ、成実は相手の尻を、べしり、と叩く。
    「ここはいいから戻って休めよ。酷くなる前にどうにかしてくれた方が俺も助かる」
    「それもそうだな」
     成実の言い分を素直に受け入れ、すまない、と眉尻を下げる小十郎に、気にすんな、と成実は軽く返した。


    「小十郎いねぇの?」
     ひょこり、と顔を覗かせた政宗に、成実は隠すことなく呆れの眼差しを向ける。
    「仮に居たとしても、おまえの相手をする暇はねぇぞ」
     あれも忙しい身だってのは分かってんだろ、と墨を擦りつつ片眉を上げれば、政宗は、むぅ、と口をへの字に曲げた後「聞いただけだ」と仏頂面で言い放った。
     もう少しまともな嘘をつけよ、と思いつつも敢えてそこには触れず、成実は緩く息を吐くと、かたり、と墨を置いた。
    「具合悪そうだったんでな、帰らせた」
    「俺に一言の断りも無しで帰ったってのか?」
    「小十郎でなきゃダメな案件なんか、実際は早々ねぇだろ。仮にそういうのがきたら俺が引き受ける。それじゃ不満か?」
     真っ直ぐに見上げてくる従兄弟の言い分は尤もで、伊達家の血縁者の方がすんなりと事が進む場合もある。
     だが、政宗からすれば言いたいことはそういうことではないのだ。無論、成実も相手の言いたいことは重々承知しており、まいったな、と苦笑を浮かべる。
    「小十郎だって具合悪いところは見せたくないだろうし、おまえにうつす可能性は零じゃないからな。だから、俺から政宗には話しておくから行かなくていいと言ったんだ」
     なにか問題でも? と改めて聞いてくる成実に返す言葉が無く、政宗は仏頂面のまま、がしがし、と後ろ頭を掻いた。
     政宗も成実も頭に、カッ、と血が上りやすい質だが、家臣としての自覚があり抑えるべき所は弁えている成実の方が、時と場合によっては非常に物事を冷静に見る。
    「なんだかんだで戻ってきてからずっと動き回ってたし、疲れが出たんじゃねぇの?」
    「そうだな」
     落ちた体力は早々元には戻らないであろうことは、政宗も痛いほど分かっている。他にも考えられる要因と言えば、先日の忍のお墨付きであろう。
     奥州へ立ち寄る度に小十郎の足の具合を見ていた佐助から、もう心配ない、とはっきり告げられたのだ。
     その一言で張り詰めていたものが緩んだのを、傍にいた政宗は強く感じたのだった。
     体力の落ちた身体に溜まった疲れと、そこに加わった気の緩み。さすがの小十郎も負けたか、と政宗は苦く笑み、邪魔したな、と緩く手を上げる。
    「三日くらい休ませてやれよ」
    「あれが素直に言うこと聞いたらな」
     本気とも冗談ともつかぬ成実の言葉に政宗も軽い口調で返し、袴の裾を翻したのだった。その背に向かって「見舞い行こうとか考えるなよ」と成実が釘を刺せば、ぴくり、と肩が揺れ、一瞬遅れてから、おう、と小さな声が返ってきた。
    「ま、どうせ行ったところで、前みたいに部屋には入れてくれないだろうけどな」
     続けられた成実の言葉に背を向けたまま、あぁそうだな、と政宗は相槌を打つ。
     あれは確か政宗がまだ幼名を名乗っていた頃だ。
     新年早々、珍しくも体調を崩し、祝いの席を辞して部屋へと下がった小十郎を梵天丸と時宗丸は追いかけたのだが、いくら声を掛けようとも、ぴしゃり、と閉ざされた板戸が開くことはなく、ならば強引に開けてしまえ、とふたりで頷きあったその時、まるでそれを見越していたかのように中から「絶対になりませぬ」と掠れてはいるが、有無を言わせぬ強い声が隙間から漏れ聞こえてきたのだった。
     子供ふたりは口々に小十郎が心配なのだと訴えたが、「この小十郎が患うほど厄介なものなのですぞ。絶対に寄ってはなりませぬ」と頑として聞き入れてくれなかった。
     寒い廊下にいる方が風邪をひいてしまう、と声を上げれば「ならば早くお戻り下さい」とにべもない。尚も言い募ろうとするも、ふらり、とやってきた父──輝宗にふたり揃って首根っこを掴まれそれは叶わなかった。
     酔い覚ましに少し歩いていた、と輝宗は言ったが、それは半分本当で半分嘘であると、梵天丸は根拠はないが確信していた。
     子供ふたりに先に戻るよう言い含めた後、板戸越しに二、三、小十郎に何事かを告げる輝宗の姿を、政宗は今でも鮮明に覚えている。
     今にして思えばJealousyってやつだったのかもしれねぇな、と政宗は緩く頭を振る。自分たちが入れなかったあの部屋に、父は難なく入ることが出来たのだ。狡い狡い、と共に一頻り唇を尖らせた後、「殿はおとなだから入れるのかな」と、ぽつり、時宗丸が口にした言葉が妙に頭に残ったのだった。


     ドスドス、と足音荒く廊下を進む政宗に供の姿はない。ご案内いたします、と丁寧に頭を下げた下女に、いらねぇ、と口早に言い放ち、そのまま勝手知ったるなんとやらで一室を目指す。
     三日。確かに三日間、小十郎は城でおとなしくしていた。だが、本人は動き回らなくともなにかあれば「片倉様に『こっそり』聞こう」という者が後を絶たず、一対複数ではおちおち休んでもいられないという状況に気づいた成実が周りの者を一喝し、「おまえ、屋敷に戻れ」と即座に小十郎を屋敷へと下がらせたのだった。
     それを政宗が知ったのは丸一日が経ってからで、当の成実は「言うの忘れてた。すまん」と悪気の欠片もなく、すっかり毒気を抜かれた政宗は悪態を吐くことも出来ず、そうか、と苦々しく漏らすに留めたのだった。
     己の右目が皆に慕われ頼りにされるというのは大変に誇らしいことではあるが、それで政宗の元からどんどん遠離るというのは解せない。解せないというより許容し難いというのが本音だ。
     一応、見舞いの品も持ってきたし、と誰にともなく言い訳をしてから目的の部屋の前に立ち、すぅ、とひとつ深呼吸をする。
    「Hey、小十郎。入るぜ」
    「ッ政宗様!?」
     焦りの滲んだ声が即座に上がったが気にも留めず、すたん、と障子を横に走らせれば、そこに居たのは上体を起こしているだけに留まらず、両袖を抜き上半身をさらけ出した状態の小十郎であった。
     何事かと暫し絶句するも彼の手に手拭いが握られていることに気づき、あぁ、と政宗は無意識のうちに詰めていた息を漏らす。
    「これは、とんだお見苦しいところを……ではなく!」
     慌てて袖を通しつつ詫びの言葉を口にするも、そうではないと小十郎は即座に咎めるような目を政宗に向けた。
    「それ以上入ってはなりませぬぞ。この小十郎が患うほど厄介なものなのです。絶対に寄ってはなりませぬ」
    「おいおい、俺はもうガキじゃねぇんだぜ? 免疫くらいついてるっつーの」
     またそれか、と呆れた表情を隠しもせずに肩を竦めて見せれば、はて? と小十郎は思い当たる節がないのか、一瞬、きょとん、とするも、すぐにいつもの厳しい顔へとすり替わる。
     だが、小十郎が口を開く前に政宗は遠慮無く畳を踏むと、相手の握ったままになっていた手拭いを取り上げるや、傍らの桶へそのまま突っ込んだ。
    「途中だろ。拭いてやる」
    「いえ、そのようなことを政宗様に……」
    「いいから。やらせろって」
     当然のことながら辞退してくる小十郎に、何を言われようが譲るつもりはない、と声音で示せば、主の頑固さを知っている右目は恐縮しながらも、するり、と着物を滑らせた。
     露わになった背は既にうっすらと汗ばんでおり、夏の盛りばかりが理由ではないと政宗は内心で眉を寄せる。それでもいくらか安堵の気持ちが沸いたのは、実際に目にし触れたその背中は、以前のように骨の浮いた物ではなかったからだ。
    「聞いたぞ。屋敷に引っ込んでおとなしくしてるかと思いきや、畑に行ったりなんだりで、ちっとも休んでないってな」
     基本的には気の良い男だ。普段、畑関係で世話になっている翁から「用水路が詰まりやすい」と相談を受ければ、どうにかしてやりたいと思うのは当然のことだ。
     他にも、柵がぐらついていることに気がつけば放っても置けず、ひとつを気に掛ければあれもこれもと芋蔓式だ。目端が利くのは長所だが、短所とも言えた。
     わざと意地の悪い言い方をしてやれば、「面目次第も御座いません」と右目の背中がしょぼくれた。
    「自分の状態を見誤るなよ、小十郎」
    「肝に銘じておきます」
     常とは勝手が違うのだと言葉少なに叱責してくる主に、小十郎は返す言葉もない。利き腕を取り上げ丁寧に拭う政宗の顔を見下ろし、僅かに伏せられた瞼を飾る睫毛が落とす影をひたすらに見つめた。
    「しかし、あれだな」
     ぼそり、と漏らされた政宗の声に小十郎は片眉を上げる。
    「おまえが床についてる姿ってのは、ぞっとしねぇな」
    「そのお言葉、そっくり返させていただきます」
     戦に怪我はつきものとはいえ、易々と慣れてしまえることではない。むしろ慣れることは恐ろしく、非常に危険でもあった。
     国主でありながら先陣を切ることをやめない政宗の背を、右目はどのような気持ちで追い、護っているのか。
     背を護り、護られることはふたりの間では当然のことであり、そこに懸念が入り込む隙はなかった。無論、今もそれに異を唱える気持ちはさらさら無いが、小十郎が居て当たり前という状態に胡座をかいていたと、政宗はこの数ヶ月で嫌と言うほど思い知ったのだ。
     あとは自分で、と伸ばされた手を制し、政宗は小十郎の首筋に手拭いを滑らせる。僅かに上下した喉仏を見れば、思い出されるのは不謹慎にも政宗の手によって反応を見せたあの姿だ。
     邪魔が入らなければ行き着くところまで行ったのだろうか、と考えるも、今となっては詮無いことだ。
     そう言えば、といつぞやに従兄弟と下世話な話で盛り上がったことを思い出す。
     ──熱があるときは中が熱くてイイらしい、と。
     入れる方は良くても具合の悪いときに入れられる方は堪ったモンじゃねぇよな、というのが双方共に一致した見解であったが、実際にどこか、とろり、と蕩けた目をした小十郎を前にしている政宗は、腹の奥底から湧き上がる疼きに抗いがたい物を感じている。
    「イイのかねぇ……」
     うっかり、漏れ出た呟きを拾い上げた小十郎が問うように首を傾げて来るも、なんでもねぇ、とはぐらかし、政宗は戯けたように相手の唇を啄んだ。
     咎められるかと思いきや、気難しい右目はそのような気力もないのか静かに嘆息し、ゆうるり、と瞼を伏せた。
    「うつりますぞ」
    「むしろ俺にうつして早く良くなるくらいの気概を見せろよ。それに、おまえが居ないと城内の空気も引き締まらねぇ」
     汗に湿った髪に指を梳き入れ、くしゃり、と乱せば、小十郎の口から仄かに濡れた吐息が漏らされる。
    「俺の背中も寂しがっていけねぇ」
     褥で睦言を囁くかのような艶を含んだ声音で、本気とも冗談ともつかぬ事を口にし、小十郎の右瞼に唇を押し当てる。薄い皮膚の下で微かに蠢くまぁるい物体を感じ、政宗は、うっそり、と笑む。
     仕方のないお人だ、との声はとても柔く、政宗の耳朶を擽った。
     落ち着いたその様子は、政宗の不埒な考えなど全てお見通しであると言わんばかりである。拒絶せず、かといって同意したわけでもない。政宗のやりたいようにやれば良いと、小十郎自身は明確な意志を見せていない。
     天の邪鬼な気質を持つ竜は、む、と唇をへの字に引き結んだ。
     以前のように押し倒すのは容易な場面ではあるが、政宗は敢えて実行には移さず、枕元に置かれた小十郎の新しい寝間着を手に取るとその肩に羽織らせ、腕を通すように促す。
     意外な物を見たと言わんばかりの小十郎の表情から、彼の裏をかいたことを確信し、くっ、と口角を吊り上げて見せた。
    「病人に手ぇ出すのはCoolじゃねぇだろ」
    「思い止まって頂けてなによりで御座います」
     手早く襟を整え帯を締めた小十郎が澄まし顔で応じれば、それすらも右目の策であったと遅まきながら気づいた政宗は、悔しそうに、ぎりり、と奥歯を噛み締めたのだった。


     翌日、登城した成実が目にしたのは豪快に額を腫らした従兄弟の姿で、一体何事かと目を剥けば、政宗はぶすくれた表情のまま、ぽつぽつ、と昨日、小十郎の元を訪れた際の顛末を口にし始めた。
     小十郎の策にまんまと乗せられ退かざるを得なかった政宗だが、最後の足掻きよろしく「膝枕をさせろ」と言い張れば、小十郎はかなり渋りはしたが主を嵌めたと言うことで少々の罪悪感を抱いていたか、最終的には承諾し遠慮がちに政宗の膝に頭を預けたのだった。
     そこまでならば、また小十郎を困らせて、と成実も苦笑程度で済んだのだが、その先が全く持ってよろしくなかった。
     喉風邪だと聞いていた政宗は見舞いにと蜂蜜を持参しており、食欲の減退していた小十郎に手ずから匙で掬い与えていたはいいが、てらり、と艶を帯びた右目の唇に、有り体に言えば欲を爆発させたのだ。
     堪え性がないにも程がある、と呆れて物も言えぬ成実の視線が痛かったか、政宗は痛烈な頭突きを喰らった額を撫でさすりながら、決まり悪そうに目を逸らす。
    「おまえの趣味や趣向をとやかく言う気はないから、そこには敢えて触れないが、公私は弁えろよ」
     幼少の頃から政宗の小十郎に対する執着をすぐ傍で見ていただけに、成実は首を突っ込むべき所とそうでない所の見極めは秀逸である。
     それよりも、とあっさり話を切り替え、政宗が不在の折、届けられた甲斐からの文を差し出せば、途端に政宗の表情が引き締まった。
     公式な文書ではないため託された成実が直接政宗へ渡すべく、誰に告げることなくそのまま懐へと仕舞い込んだのだが、その判断は適切であったと政宗は満足そうにひとつ頷いて見せた。
     受け取ったそれに素早く目を走らせ、低く唸る。
    「夏が終わる前に、もう一悶着あるかもしれねぇぞ」
     武田との同盟がなされ、国境付近の小競り合いは沈静化していた。だが、再び開戦の狼煙が上がるやも知れぬとの、非常に鼻の利く忍からの情報であった。
     この件には風魔忍が関わっている可能性が高く、小十郎を襲った者と同一の可能性もあるとの一文に、頬を掠めた苦無の感触を思い出したか、政宗は凶暴さを隠しもせず歪な笑みを見せる。
    「北条無き今、風魔がどこに雇われたか、だ」
     思えば国境での小競り合いが勃発したのと、武田が北条を落としたのは時期的に近い。風魔を懐へ取り込んだ者が甘言を囁き、その結果、伊達からも返り忠が出たとも考えられるのだ。
     だが、確たる証拠は何もない。
     ならば目に見える物から潰すのみ、と政宗は文を握り潰し、成実に兵達の腕は鈍ってないかと声高に問う。それに対する成実の返答は期待通りの物で、竜はGoodと漏らし隻眼を細めた。
    「おおっぴらに動くにゃまだ早ぇが、備えあれば憂い無しだ」
     取り込めるところは取り込むぞ、と袴の裾を翻し颯爽と廊下を行く政宗の背に迷いはなく、その先にあるのは伊達の勝利以外にはあり得ないと、信じさせるなにかが確かにあった。
    「伊達の軍師の復帰戦だ。ド派手に行くぜ」
     派手なことを好まぬ男だが、片倉小十郎は常にそこに、伊達政宗の傍にあるのだと、今回ばかりは盛大に名乗りを上げて貰おうか、と政宗は喉奥で低く笑ったのだった。

    ::::::::::

    2011.10
    茶田智吉 Link Message Mute
    2018/08/27 3:04:28

    【BSR】そこにあるといういみ

    #戦国BASARA #伊達政宗 #片倉小十郎 #猿飛佐助 #真田幸村 #政小 #腐向け ##BASARA ##同人誌再録
    同人誌再録。
    (約6万字)

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