【BSR】そこにあるといういみ1 ザンッ、と不意に木立の間から躍り出た馬影に小十郎は我が目を疑い、意識せぬままに彼の人の名を叫んでいた。
「政宗様ッ!?」
一体どれほどの無茶をしでかしたのか、頬に一筋走る赤い線に一瞬肝を冷やすも、折れた小枝が兜に引っ掛かっている様に直ぐさま安堵の息を漏らす。
「一気に片つけるぜ、小十郎!」
馬上から降ってきたどこか昂ぶった声に小十郎は刀を一閃させてから「なりませぬ!」と叫び返し、一も二もなく主の元へと駆け寄る。林向こうの本陣でおとなしくしているようなタマではないとわかってはいたが、まさか単騎で乗り込んでくるとは、さすがの小十郎も想定外であった。
ここ数ヶ月、国境での小競り合いがさほど間をおかず勃発しており、甚大な被害は出ていないとはいえ、こうも頻繁に起これば先に尽きるのは兵士や兵糧ではなく、政宗の忍耐力だ。
奥州王としての器は確かに備えているが、政宗はまだ年若く血の気も多い。初めのうちは小十郎を筆頭とする家臣団の言葉に耳を傾け、もたらされる戦局を黙って聞いていたが、悪戯にこちらを煽るような中途半端な進軍にとうとう痺れを切らし、声高に出陣を宣言し今に至る。
それでも政宗出陣はあくまで相手方に対する威嚇であり、わざわざ大将が戦場へ足を踏み入れる必要はないと、小十郎は政宗を頭数に入れぬ作戦を押し通したのだった。
実際、先陣の伊達成実率いる隊の働きはめざましく、あと数刻もすれば敵は撤退するであろうと思った矢先の政宗の乱入は、珍しくも顕著に小十郎を苛立たせた。
重臣の一人である鬼庭綱元を傍に置いてきたが、彼では抑止力にならなかったか、と苦い顔で主君を見上げれば、小十郎の言わんとすることなど重々承知しているとでも言うかのように、政宗の口角が、くい、と引き上げられる。
「後詰めに綱元たちもこっちへ向かってる」
ま、必要ねぇだろうがな、と今にも口笛を吹きそうな軽い口調に、小十郎の険しい顔付きが更に険しくなり、さながら鬼の形相だ。
「どれだけ有利な状況であろうとも戦場ではご油断召されるなと、幾度となく申し上げたはずですが、もうお忘れか」
弦月の前立てに隻眼、あまりにも知れ渡りすぎた政宗の容姿を見間違える者など居るはずもなく。大将首を討ち取らんと勇ましい声を上げ向かってくる者を、小十郎は先んじて迎え撃ち躊躇なく斬り捨てていく。
見事な太刀筋に政宗は、ヒュウ、と口笛を吹き、小十郎の眉は更に、きりきり、と吊り上がる。
その一瞬の感情の揺れが、小十郎の動きを鈍らせた。
ヒュン、と聞こえた風切り音を追うように顔を巡らせ、割れた声で主の名を呼ぶだけで精一杯であった。
「Shit!」
かろうじて僅かに身を逸らすことが間に合った政宗の頬を、先の赤い線をなぞるかのように新たな朱が走る。地面に突き刺さった苦無に目をやれば不自然なぬめりを帯びており、考えるまでもなく毒が塗られているのだと告げていた。
「政宗様ッ!」
馬上で、ぐらり、と傾いだ身体に、小十郎の全身から血の気が引いていく。軍師の常にない逼迫した声に、ただ事ではないと駆け寄ってきた数人の味方兵士に敵の足止めを命じ、小十郎は馬の首に凭れた政宗を気遣いつつも素早く手綱を引き、足早に林の中へと姿を隠す。
「政宗様ッ!」
「Ah……そんながなるな、小十郎。ちぃとばかし、身体が痺れてるだけだ」
呂律が回らないのか紡がれる言葉は所々不明瞭とはいえ、即、命に関わるものではないようだ。安堵する一方で小十郎は、ぎり、と奥歯を噛み締める。
一番近くに居ながらこのていたらく。なにが竜の右目だ、と内心で己を罵りつつも、表面上はあくまで冷静に口を開いた。
「羽織をお脱ぎ下さい」
板張りの廊下を極力音を立てぬよう足を運び、小十郎は主の居室を目指す。
先の戦から既に一週間が経っており、かすり傷とはいえ毒をその身に受けた政宗は大事を取って政務には携わっていない。彼に代わって仕事を一手に引き受けている小十郎は、米沢城へ戻ってから政宗と言葉を交わすことは疎か顔すら見ていなかった。
登城したかと思えば腰を落ち着けることなく即座に次の仕事へと向かう、そんな小十郎を見かねた成実が「おまえじゃなくても大丈夫な案件には代理を立てろ」と再三口にするも、素直に聞くような男なら元から成実が口を挟むことにはならないのだ。
今日も兵糧の手配に近隣の農民と話をしてきた小十郎を待っていたのは主からの呼び出しで、とうとうきたか、と小十郎は覚悟を決めた静かな面持ちでそれに応じたのだった。
馬上で毒を受けた政宗と共に林へ身を隠した折、小十郎は「自分が影武者になって時間を稼いでいる間に本陣へ戻れ」と言い、それを由とせず激しく拒絶した政宗を軍師はあろうことか乱暴に殴りつけ、無理矢理に主君の陣羽織を剥いだのだ。
いくら非常事態だったとはいえ主の言葉を元より聞く気はなく、あまつさえ手を上げたのだ。咎めを受けるのは当然で、腹を切る覚悟も当に出来ている。
だが、小十郎を待っていたのは、予想だにしなかった政宗の言葉であった。
ぽん、と胡座をかいた己の膝を叩く政宗の動きを正面から認め、小十郎は、はぁ、と曖昧な声を漏らす。
先の戦のことで呼びつけられたのかと思えば、主は開口一番ワケのわからないことをのたまったのだ。
「寝ろ」
と。
次の言葉を待ち、じっ、と身動ぎひとつせぬ小十郎に焦れたか、政宗はやや荒い手付きで再度己の膝を叩き、早くしろ、と態度だけで急かす。
「政宗様、小十郎には意味がわかりかねます」
どうにか深い息を吐くことは堪え淡々と訴えれば、政宗は隻眼を眇めやや唇を尖らせたかと思えば、ふい、と僅かに顔を背け、ゆうるり、と口を開いた。
「膝枕してやるって言ってんだよ」
いやそんなわかりきったことを聞きたいのではなく、と小十郎は口にすれば更に面倒なことになるからと内心で突っ込むだけに留め、どうしてそのような結論に達したのかを問うべく、できるだけ穏やかな顔を主に向ける。
破天荒で型破りではあるが、考えなしではないことはよくわかっている。そこに行き着くまでの思考は理解できずとも、行動にはなにかしら理由があるはずだ。
「突然そのようなことを申されましても、小十郎にも仕事がございます。そちらを放り出して、ましてや陽も高い内にのうのうと横になるなど、憚りながら伊達軍副将として他の者に示しがつきません」
「それだよ」
頭ごなしに怒鳴るのではなく一から説明すれば、そんなことはわかってる、とやはり唇を尖らせたまま政宗は小さく返してきた。
「成に言われた。なにからなにまでおまえ頼りで働かせすぎだって」
「はぁ」
政宗に成り代わって確かにここ暫くは常になく忙しなかったが、外交から諜報、城下の視察に兵糧の手配など、それは今に始まったことではない。政宗が伊達家当主となってからは、万事が万事この調子だったのだ。
「おまえに任せればぬかりはねぇし、おまえ以上の働きをするヤツを俺は知らない。なによりおまえは俺の期待を絶対に裏切らない」
だから、と言葉を切り政宗は、ガシガシ、と後ろ頭を掻いた。
「悪かった、無理させてた」
「いえ、そのようなことは決して」
経緯は判明したが、では何故そこで膝枕へと繋がるのか。小十郎は政宗を、ひた、と見据えたまま、むむ、と思考を巡らせる。だが、その視線をどう捉えたか政宗はどこか気まずそうに目を伏せ、「労おうにも、これしか思いつかなかった」と零した。
「昔、おまえがしてくれたこれが妙に頭に残っててよ……って、おい、笑うな」
こちとら真剣なんだぜ、と凄んでみせる政宗には悪いが、小十郎は変なところで頭の回転の悪くなる主を改めて愛しいと思うのだ。
「申し訳ありません。ですが小十郎の膝など硬いだけで、具合の良いものではなかったでしょうに」
そういえば元服前の子供に何度かしてやったな、と小十郎が古い記憶を辿ればそれが表情に出たか、政宗は、ゆるり、と目元を和らげ「だが、温かかった」と静かに漏らした。
抱き締めてくれる腕など無かった子供が、唯一求めることの赦された温もりであったのだと、伏し目がちに心情を吐露する政宗の声音は酷く穏やかで、小十郎は知らず唇を引き結んだ。
黙り込んでしまった小十郎に、はっ、と我に返ったか、政宗はどこか決まり悪そうな顔で、こほん、とひとつ咳払いをすると、まるで照れ隠しであるかのように、ばんばん、と己の膝を叩いた。
「いいから寝ろ! 反論は認めねぇぜ!?」
「ですが、小十郎は罰を受けこそすれ、労われる立場ではございません」
きっぱり、とそう言い切れば政宗はあからさまに眉を寄せ、「確かにおまえの拳は毒よりも効いた」と唇を歪める。ならば、と小十郎が言葉を発しようと口を開きかければ、それを制するように政宗の右掌が突き出された。
「増長して弛みきった性根に効いたって意味だ。第一、今回のことでおまえを罰したら、みな口には出さずとも非難されるのは俺だ。だが、それじゃあ納得できねぇってんなら、これが罰だと思っておけ」
ぽん、と膝を叩き目を細めた主を前に小十郎は、こうなっては政宗が折れることはないだろう、と諦めたように一旦、ゆるり、と瞼を伏せた後、主に膝でいざり寄ると、失礼致します、と頭を垂れた。
ふと、横を見れば政宗の傍には何冊か書物が置かれており、妙なところで抜かりがないと小十郎は内心で苦笑いするしかない。
胡座をかいた政宗の左足に頭を乗せ、ごろり、と右に体を向けるも、頭上から小さく、No、と声が降ってきたかと思えば、ぐい、と些か乱暴な手つきで左肩を掴まれ仰向けにされる。
一体なにがしたいのか、と小十郎が目を丸くしたまま政宗を見上げれば、殊のほか柔らかな面差しで見下ろされており、薄く開かれた小十郎の唇からは別の言葉が漏れ出た。
「……小十郎の寝顔など、おもしろいものではございませんでしょうに」
「Hum? そうでもないぜ。滅多に拝めねぇレア物だ」
くくっ、と喉を鳴らし政宗は掌で小十郎の目元を覆う。ゴツゴツ、と固いそれは刀を振るう者の手で、幼い頃の小さく柔らかなそれを知っている小十郎は、主の成長を身を持って実感する。
六爪を操る手指は持ち主の無茶に耐えられずやや歪ではあるが、刀を筆に持ち変えれば驚くほど流麗な文字を綴るのだ。
物好きな、と思いはすれど口には出さず、小十郎は主によってもたらされた闇を甘んじて受ける。半刻程じっとしていて政宗の気が済むのならば、それに越したことはない。ここで突っぱねて臍を曲げられては、そちらの方が後々まで響くのは火を見るよりも明らかだ。
おとなしく目を閉じた小十郎の顔から政宗の手が離れ、一呼吸もしないうちに、ぺらり、と紙を捲る乾いた音が降ってくる。
ぱらり、ぱらり、と断続的に聞こえる音が時折止まるのは、恐らく手を止めた政宗が小十郎の顔を見下ろしているからだろう。刺すようなものではないが注がれる視線に、小十郎は居心地の悪さを覚え内心では苦笑いだ。
幼い頃より共に居るからか、政宗は小十郎の気配には頓着しない。むしろ小十郎が傍に居る時の方が眠りが深いくらいである。
だが、小十郎はそうではない。無論、政宗の傍が不快なわけではない。これは感情の問題ではなく、最早長年の習性のようなものだ。
信頼されているからこそ、それを裏切らぬよう常に護るべき主君の気配には敏感でなければならない。誰に強要されたわけではなく、これは小十郎が自身に課したことであり、眠っていようとも例外ではないのだ。
なにがあろうとも、どのような状況であろうとも、政宗を守り通すのが小十郎の努めであるのだ。
小十郎が狸寝入りをしているとは露知らず、政宗は一冊目の書物を畳に置くと、反対の手で、ゆるゆる、と小十郎の髪を労るかのように撫でる。相手が眠っていると思い込んでいるからこその政宗の行動に、小十郎は眉間にしわが寄らぬよう必死に自制心を働かせる。
これも幼い政宗に小十郎がしてやったことだ。
あぁ本当にこの人はなんと不器用な、と小十郎は僅かに喉奥で呻く。それと同時に、びくり、と強ばった手に申し訳ない気持ちになる。
少々背中が痛いから、と誰にともなく内心で言い訳をし、不自然にならぬよう細心の注意を払いながら小十郎は左肩を下に寝返りを打った。これならばそっぽを向いているわけではないから良いだろう、と思えば案の定。右の瞼に、やわり、と指先が触れてきた。
俄に闇が濃くなり、何事かと思う間もなく吐息が小十郎の睫毛を揺らす。次いで押し当てられた温もりに、不覚にも小十郎の爪先が足袋の下で、ぴくり、と揺れた。
ここまでしたことはねぇぞ、と内心で声を上げるも寝たふりをしている以上、即座に咎めるわけにも行かず、小十郎は眦に吸い付く政宗の唇の感触から全力で意識を逸らす。
戯れが過ぎると何度窘めようが政宗は気に留めた様子もなく、過度な接触はやむことなく今も続いている。
他者より堅い自分の反応を楽しんでいるのかと、真面目に一度問うたこともあったが、それを聞いた時の政宗は一瞬動きを止め、なにか言いかけるも一旦口を噤み、「まぁ、そんなところだ」と口角を吊り上げたのだった。
指先で睫毛の先端を順繰りに辿られているのか付け根がこそばゆく、いい加減止める頃合いか、と腹を括ったその時、小十郎は声もなく弾かれたように身を起こした。突然のことに言葉の出なかった政宗だが、障子を隔てた廊下に顔を向けている右目の口から漏れ出た名で合点がいった。
「猿飛か」
小十郎より遅れてその気配に気づいた政宗は小さく舌打ちを漏らすと、障子の向こうに「入れ」と低く声を掛ける。
「ひょっとして邪魔しちゃったかな」
ごめんねー、と口先だけの謝罪を吐きつつ音もなく障子を閉めた途端、佐助の表情が瞬時に引き締まった。
「大将からの返書を持ってきた」
その一言で政宗と小十郎の纏う空気が、ピリッ、と張り詰めた双竜のそれに変わる。
「返事は急かさないけど、現状を打破するには有効だと思うよ」
一旦畳に置き、すっ、と差し出した書状と共に佐助が言葉を添えれば、受け取った小十郎は直ぐさま国境の小競り合いのことを指しているのだと気づき、僅かに眉間のしわを深くする。
「武田のおっさんに伝えな。アンタはLuckyだってな」
ニィ、と口角を吊り上げた政宗の言わんとすることを察したか、佐助は軽く肩を竦めて見せると「その自信が一体どこから来るのか、ホント感心するよ」と漏らすや、瞬き一つの間にその姿は消え失せていたのだった。
書状の内容を検めた小十郎はそれを政宗へ渡し、主の指示を待つ。目だけで文字を追っていた政宗はややあって顔を上げ、真っ直ぐに見据えてくる右目に向かって小さく頷いて見せた。
「行ってくれるな、小十郎」
「お任せあれ」
多くは語らずともそれだけで互いに理解し、では早速、と退室しようとした小十郎を政宗は言葉のみで引き留める。
「まだおまえへの罰は済んでねぇだろ」
そう言うや、ぽん、と悪戯っぽく膝を叩いた政宗に、困ったお人だ、と小十郎は眉尻を下げたのだった。